トマス・アクィナスにおける教育の過程性

三上 茂


 I 人間の中間者的地位

 我々はまず知識の成立に関するかぎりでのトマスの人間観を概観することにしよう。彼は『神学大全』におて、人間の固有性を次のように述べている。「もしひとが人間を固有的に(proprie)呼ぼうとするならば、ひとは彼を理性的実体(substantia rationalis)というのであって、彼を知性的実体(substantia intellectualis)とはいわないであろう。これは天使の固有の名称である。何故なら、単純な直覚知(simplex intelligentia)は天使に固有的という仕方で(per proprietatem)適合するのであり、人間にはただ分有的という仕方で(per participationem)しか適合しないからである。また、ひとは人間を感性的実体(substantia sensibilis)ともいわないであろう。これは禽獣の固有の呼び名である。事実、感覚は人間に固有であるところのものに及ばないものであり、それが人間に適合するのは、他の諸動物の場合とは違って超出的に(excedenter)なのである。」1)

 「人間は天使でもなければ禽獣でもない」2)といっているパスカルを引き合いに出すまでもなく、我々は多くの思想家が人間のいわば中間者的地位について語ってきたことを知っている。天使ときけば、某製菓会社の登録商標くらいしか思い浮かばない今日の我々とは違って、トマスは「天使的博士」(Doctor angelicus)の称号を得ていることからもうかがえるように、その著作において、天使について論じ、宇宙における被造物の最高の地位を天使に与えている。

 ところで、トマスが人間を「理性的実体」として特徴づけるとき、そこには我々が常識的に理解しているより以上のものが意味されている。彼は「理性的」ということを「知性的」ということと「感性的」ということとの中間的なものとして考えている。人間のはたらきは、本来的には「知性的」でも「感性的」でもなく、「理性的」であるというのである。しからば、「理性的」ということは何を意味するのであろうか。上述のトマスのことばからも明らかなように、「理性的」ということはまず「知性的」ということに対比して理解されている。天使に固有の認識の様式は「単純な直覚知」であって、人間にはそれは「分有的という仕方で」しか適合しない。人間の固有の認識の様式は「理性認識」である。しかし、我々は日常のことばで、人間の知性ということをいうし、またトマスもそのようにいう。この点については後にまた触れることにして、ここでは「知性」ということばを広く理解して、トマスが人間の知性について述べるところを聴こう。

 「人間の知性は複合し分割することによって認識することを必要とする。何故なら、人間の知性は可能態から現実態へと進むから、自己の完全性をいきなり持っていないで、それを継次的に獲得してゆくところの生成的な諸事物と或る類似性をもっているからである。同様に、人間の知性も、最初の把握においていきなり事物の完全な認識を得るのではなくて、最初に事物そのものについて或るものを、すなわち、知性の第一の、そして固有の対象である事物そのものの何たるか(quidditas)を把握し、それから次に、諸々の固有性や附帯性や、また事物の本質をめぐる諸々の関連を認識するのである。そして、このことに関しては、知性は把捉された一つのものを他のものと複合し、或いは他のものから分割することが必要なのである。さらにまた、それは一つの複合或いは分割から他のそれへと進行すること、すなわち、推理することを必要とする。」3)

 天使が「単純な直覚知」をもって認識するのに対して、人間は、質料に結合され、可能態から現実態へと進行するが故に、複合や分割、推理をもってする継次的な認識を必要とするのである。

 トマスは、厳密な意味においては、「知性認識する」(intelligere)ということを「理性認識する」(ratiocinari)ということとを区別する。「知性にんしきするとは、端的に(simpliciter)可知的真理を把捉することである。それに対して、理性認識するとは、可知的真理を認識せんがために、すでに知性認識された一つのものから他のものへと進行することである。そして、それ故に、その本性的な仕方に従って可知的真理の認識を完全に所有している天使は、一つのものから他のものへと進行することをひつようとしないのであって、端的に、また推論なしに(absque discursu)諸々の事物の真理を把捉するのである。これに対して、人間は一つのものから他のものへと進行することによって可知的真理の認識へと到達する。そして、それ故に、人間は理性的なもの(rationales)といわれるのである。」4)

 トマスは人間が或る意味では(quodammmodo)知性的であるという。「人間の魂は知性的能力の分有によって知性的といわれる。その証拠は、人間の魂はそれの全体が知性的であるのではなく、その或る部分に即して知性的であるということである。」5) 天使においては知性的能力と知性認識されたものに従う意志以外に他の能力はないのに対して、人間の魂は感覚的能力や栄養摂取の能力のような他の多くの能力を持つからであって、従って或る部分に即してのみ知性的なのである。6) 先に、人間は「単純な直覚知」をただ「分有的な仕方で」のみ得ることができるといわれた。トマスによれば、「分有的という仕方で」とは、或ることがらに帰属せしめられるものが「充実した形で」(plenarie)は見出されず、ただ「欠落的に」(deficienter)見出されるにすぎないという場合である。7)  従って「直覚知」は天使において充実した形で見出されるが、人間においては欠落的に、つまり不完全な形で見出されるのである。そして、人間の魂がそこから知性的な光を分有する源泉は魂の創造者である神なのである。

 以上のように、トマスは天使との比較において、人間の地位を天使の下に置いている。知性的実体としてのてんしの認識の様式が「直覚知」であるのに対して、理性的実体としての人間の認識の様式は「推論」(discurrere)であり、「進行」(procedere)である。このことは我々に何を教えるであろうか。procedereは「行く」こと、「前進する」こt、「移動する」ことを意味する。そのことは、一方において、人間の「過程性」を示し、他方において、その上を我々が走り、進むところの「道」を示しているのではないだろか。

 人間は固有的に「知性的実体」と呼び得ないが、また固有的に「感性的実体」とも呼び得ない。そのことが固有的に云われ得るのは人間以外の動物についてであり、人間はただ「超出的という仕方で」(per excessum)8)のみ感性的である。つまり、人間に固有的であるところの理性的なものは人間以外の動物に固有的であるところの感性的なものを超え出るのである。人間は霊魂と身体の統一体として、存在、植物的生命、感覚的生命、精神的生命とういわば存在のすべての段階をもっている。そのかぎりで、感覚もまた人間にとって自然的なものである。にもかかわらず、それは人間に固有であるところのものに及ばないのである。トマスによれば、「固有的という仕方で或ることがらが或る事物においてあるといわれるのは、ことがらがその事物の本性に匹敵(adaequari)しており、対比(proportionari)しているということである」9)。

 トマスは、人間を一方において天使に、他方において禽獣に比較することによって、人間の固有性(proprietas)を明らかにしようとしている。感性的実体としての禽獣は理性的実体としての人間には及ばない。「或るものがそれ自身の固有性を表す名称によって名づけられねばならないとすれば、それはそれが不完全に分有するところのものによって名づけられることも、また、それが超出的に所有するところのものによって名づけられることも許されないのであって、それは、いわばそれに対等なもの(coaequatum)によって名づけられねばならない」10)。それ故に、人間は「知性的実体」でも「感性的実体」でもなく、理性的実体であるというのが人間をその固有性に従って正しく呼ぶことなのである。

 では、禽獣を人間から分かつ決定的な相違は何であろうか。トマスはそれを「感性」と「理性」との相違と考えるのである。しからば、この両者の違いはいかなる点に現れるであろうか。それは「比量」(collatio)の有無いかんにかかっている。トマスはこのことに関連して次のように述べている。「禽獣は、それが或る種の自然的賢明さ(prudentia naturalis)を分有するかぎりで、理性の或る似姿をもっている。この点において、低次の自然は或る仕方で高次の自然に属するところのものへ接続する。この似姿は、禽獣が或ることがらに関して秩序づけられた判断をもつということのうちにある。しかし、この判断(iudicium)は、禽獣にとっては自然的評定(naturalis aestimatio)によるものであって、何らかの比量にゆるものではない。というのは禽獣は自らの判断の根拠を知らないからである。そのために、このような判断は、理性の判断のように、全てのものに向かうのではなくて、或る決定されたことがらへと向かうにすぎない」11)。ちょうど、人間の知性認識が天使の単純な直覚知の分有であるように、動物のある意味での判断力ともいうべき評定能力(vis aestimativa)は理性の分有である。しかし、それは「比量によってではなく、自然的本能によって」(non ex collatione, sed naturali instinctu)12)なされるのである。

 我々は以上において、動物の認識の様式との対比において、人間の認識の様式が「比量」という点で特徴づけられていることに注目した。もちろん、「比量」は推論とも密接に関連している。いずれにせよ、人間の認識の様式は「比量」をもってなされるということによって、天使と動物とのそれの何処か或る中間に位置するのである。我々は次に、この「比量」について吟味することにしよう。

II 「比量の力」13)としてのわれ

 人間の感覚的認識は或る意味において禽獣のそれと共通するところがある。トマスは、アリストテレスに従って、感覚的認識を五つの外部的固有感覚と四つの内部的感覚とのはたらきに分けている14)。我々が五感と呼んでいる前者については多くの説明を要しないであろう。トマスは五感のそれぞれが固有の対象、例えば、視覚は色を、聴覚は音をもつということから、それらの感覚を「固有感覚」(sensus proprii)と呼ぶ。ここで注意しなければならないことは、これらの固有感覚は、上述のように、それぞれ自己に固有の可感的なものを把捉するだけであり、各感覚の把捉するものを相互に区別し、対照することはできないということである。例えば、視覚は一つの色を他の色から区別することはできるが、色を音と区別することはできない。ここに、トマスは我々の耳には聴き慣れない「内部的感覚」(interiores sensus)という概念を導入する必要を認める。

 第一の「共通感覚」(sensus communis)は、個々の外部的固有感覚を通じて与えられたことがらを区別し、対照し、綜合するとともに、或る一つの外部的固有感覚によってだけ知覚されるのではない、共通に感覚されるもの、例えば、大きさ、運動、数のようなもの、を知覚する。第二に、外部的固有感覚によって受け取られた形相を保持する能力としての「表象力」(imaginatio)或いは「想像力」(phantasia)、第三に、外部的感覚の知覚しないような諸々の観念(intentiones)、例えば、或る特定のことがらが自分にとって有害であるかそれとも有益であるかといった観念を知覚する能力である「評定力」(vis aestimativa)、第四に、それらの観念を保存する能力である「記憶力」(vis memorativa)、以上の四つをトマスは「内部的感覚」と呼ぶのである。このことばは、トマスのいう外部的固有感覚だけを「感覚」ということばで表している我々に対して、確かに奇異な感じを与えるであろう。しかし、トマスはこの「内部的感覚」ということばを用いることによって、これら四つの能力も感覚的生命のレベルに属するものであり、最初に云われたように、人間の感覚的認識は或る意味において禽獣のそれと共通するものであることを示そうとするのである。

 しかし、それは「或る意味において」でしかない。すなわち、「感覚的霊魂は類的には(secundum genus)禽獣においてと人間においてとは同じものであるが、種的には(secundum speciem)同じものではない。....感覚的霊魂のはたらきは人間においては禽獣においてよりもずっと高度のもの(multo nobiliores)である」15)。人間に固有の認識の様式は「理性的」であり、その故に人間の感覚的認識は特別のしるしを帯びるのである。換言すれば、人間の感覚知覚は、人間が「理性的実体」であることの故に、動物のそれと同列のものではあり得ないのである。感覚が人間に適合するのは「超出的に」であるといわれるのもこのような意味においてである。トマスが動物の「評定力」に相当する能力を、人間においては「思考力」(vis cogitativa)と呼ぶ16)のもこれがためである。動物は自己にとって有害なものやまた有益なものについての観念をもつと考えられる。例えば、「羊は狼を敵と評定してこれを恐れる」17)し、鳥は自分の巣をつくるに好都合なわらくず、その他のものを知って、それを集める。しかし、動物においてはこれらの評定、いわば判断は本能によるものであって、そこには「比量」がない。人間においては単に本能的なものだけではなく、理性が入ってくる。トマスは人間の知覚は感性と理性とが協働することにおいてなされることを十分に知っている。しかしながら、人間の感覚的生命のレベルに属するものと理性のレベルに属するものとを同一次元のものと見倣すことはできないというのが彼の意見である。

 トマスは感覚のはたらきと広い意味での知性のはたらきに関して、次のように述べる。「知性認識と身体的な視覚に関しては同じことが妥当しない。何故ならば、身体的な視覚はそれの或る対象から他の対象へと達するような比量の力(vis collativa) ではないからである。視覚のすべての対象は、視覚がそれに向けられるや否や、視覚にとっては、可視的なものである。それに対して、知性的能力は、比量の力であるから、或るものから他のものへと達する」18)。身体的な視覚のはたらきは諸対象におけるいかなる関係をも規定しない。それに対して、知性的能力は関係を規定する力として一つのものから他のものへと達することができる。トマスは、通常よく用いられる眼と精神のアナロジーを「比量の力」の有無という点から限定しているのである。区別すること、洞察することは感覚のはたらきから自然的に結果するはたらきではない。「知識は精神において内的に結果されるのであって、感覚において外的に結果されるのではない」19)。もちろんここで内的、外的といわれている区別は場所的、空間的に理解されてはならない。トマスがいおうとしていることは、知覚は或る感覚器官の自然的経過の終端において、いわば自動的に成立するのではないということである。感覚は比較したり、諸々の関連を立てたりはしない。感覚にとっては所与のものは未組織の全体として、「端的に或る一つのもの」20)として現れる。

 ところで、「感覚は質料を伴わずに、しかし、質料的諸条件を伴ってその形象を受け取るのに対して、知性は質料的諸条件からも純化された形象を受け取る」21)。感覚の把捉するものは個別的、具体的なものであるのに対して、知性の把捉するものは普遍的、抽象的なものである。さらに、「感覚的諸能力は自然本性的に理性の命令(imperium rationis)に聴き従うのであり、そのかぎりで、理性的(rationale)といわれる」22)。我々は或る感覚器官をいかなる対象に向けるかを決定する。この決定を下すものがトマスのいう「比量の力」であり、「理性の命令」なのである。感覚的諸能力が人間において「理性的」と名づけられるのは、「本質にって」(per essentiam)ではなくて、「分有によって」(per participationem)である23)。理性と感性とはあくまでもそのレベルを異にしながら、しかも、感性が理性を分有するところに人間の特殊な地位がうかがえるのである。

 確かに、トマスは、よく引き合いに出されるように、「我々の知性のうちにあるところのものは予め感覚のうちにあった」24)ということを認めるのであるが、このことは、感覚が教えるもの以外には我々の精神のうちには何もないということを意味するものではない。トマスは次のようにいう。「精神の認識がその起源(origo)を感覚にもつとよくいわれることは、精神が認識するところのすべてのものを感覚が把捉するということではなくて、感覚が把捉するところのものから、精神は或るより高次のものへと導かれるから、そういわれるんである」25)。諸々の感覚器官によって把捉されるものは我々の認識の条件、前提である。「比量の力」によって我々は感覚的なものを意の侭に方向づけることができる。換言すれば、「比量の力」は我々の認識、探求、判断において感覚的なものを理性に従わせる力である。

 それ故に、我々は「比量の力」を、人間に固有な「関係づけの可能性」或いは「結合可能性」として把握することができるであろう26)。われは「比量の力」として諸々の対象を関係づける。ところで、われが関係づけるものは、われの外にもあるということが認められなければならない。区別するとか結合するとか分離するとかいうことことは予めすでにある関連、秩序に従ってはじめて可能である。関係(relatio)についてトマスは次のように述べている。「或るひとは、関係とは外界にぞkすることがら(res naturae)ではなくて、概念の世界に属することがら(res rationis)にすぎないと主張した。このことは、外界の事物それ自身が相互に秩序(ordo)や関連を有していることからして、誤りであることは明らかである」27)。対象的な秩序は予め建てられ(前提され)ている。人間精神は秩序と関連を作り出す(erfinden)ことはできないのであって、対象を区別し、認識のためにそれを選択するにあたって、それらを規定する(bestimmen)することができるにすぎない28)。

 以上において、我々は人間の感覚知覚が或る意味で禽獣のそれと共通するものをもちながら、にもかかわらず、理性の分有によって高度のものとされているということ、感覚知覚が「比量の力」でないことからして、それは「理性の命令」に聴き従うべきものとしてあるということを明らかにした。では次に、人間における精神的認識について検討してみよう。

III 過程としてのdiscursus rationis29)

 「知性認識」と「理性認識」との区別についてはすでに若干触れたが、ここでもう少し詳しく吟味してみよう。「知性認識する(intelligere)ということは或ることがらの端的な受容(simplex acceptio)を意味する。それ故に、比量なしに(sine collatione)それ自身でもって(per seipsa)認識されるところの諸原理(principia)が厳密な意味において知性認識されるといわれるのである。これに対して、推理する(ratiocinari)とは厳密な意味では一つのものから他のものの認識へと到達することである。それ故に、我々は、諸原理に基づいて知られるようになるところの結論について、厳密な意味で推理するのである」30)。ここでは、「知性認識」は「比量」を用いることのない端的な受容として、「理性認識」すなわち「推理」は或る一つのものから他のものへの運動として把握されている。「単純な直覚知」としての知性認識は、すでに見たように、天使に固有の認識の様式である。しかし、人間はこの認識の様式を分有する。それがここでいわれている諸原理の認識である31)。

 トマスは「理性認識」と「知性認識」とを運動と静止、獲得と所有との関係としてとらえる。運動と静止、獲得と所有とがそれぞれ同じ一つの能力に属するように、理性と知性もまた同じ一つの能力の名称である。それは不完全なものと完全なものとの関係にある32)。「理性認識」は二つの項、初項と終項との間を運動するが、これらの初項、終項はいずれも知性認識されるところのもの、すなわち、知性による真理の端的な把捉でなければならない。それはちょうど運動が静止から始まり、静止において止むのと同じである。

 ところで、トマスは別の個所で人間の精神的認識に関して三様のはたらきを区別している33)。第一は「分割不可能な、或いは複合不可能な直覚知」(intelligentia indivisibilium sive incomplexorum)であり、第二は「複合と分割」(compositio vel divisio)、第三は「推論」(discursus)である。これらは今日のことばでいえば、第一が概念作用、第二が判断、第三はそのまま推理ということになるであろう。第一の概念作用とは、精神が事物の何たるか(quod quid est)をそれについて何ら肯定したり、否定したりすることなく、単純に把捉することである。第二の判断のはたらきは二つの概念或いは観念の内容、或いは精神に指示される二つの対象が相互に一致する、或いは不一致であるということを把捉することにある。第三の推論は二つの異なった判断を用いて新しい判断をつくることである34)。

 トマスによるこの精神的認識の三様の区別は、すでに第1節において引用したトマスのことばのうちにも見られる35)が、ここでいわれている「直覚知」が天使的認識の分有として「最初の把捉においていきなり事物の完全な認識を得る」底のものではないことに、我々は注意しなければならない。確かに、それは端的な把捉として「比量」を用いることはないが、しかし、しかし、それは完全な認識ではない。このことの故に、我々は「複合と分割」、すなわち、判断を必要とするのである。「ものの何たるか」の認識がただちにそのものの完全な認識であるということは人間にとっては不可能である。

 「....複合し分割する知性においては、述語が主語に関係づけられる。....もし知性が主語の何たるかの把捉においてただちに、主語に帰されうる或いは主語から取り除かれうるすべてのものに関する知をもつとすれば、その知性は複合し分割することによって認識するのではなくて、ただものの何たるかを認識することによってのみ知性認識するのである」36)。つまり、事物の何たるかの認識そのものにおいて、そこからただちにその事物の諸々の固有性や附帯性、またはその事物をめぐる諸々の関連を認識することは不可能であって、やはりこれを一つ一つ認識していく以外になく、このように別々に認識されるものを「複合と分割」によって一つのものにまでまとめあげなければならないのである。我々の外部にある実在は我々の精神の能力がいっきょに把捉しえないほどの豊かさをそなえている。我々はいわば部分的、断片的にその実在の豊かさをもぎとり、しかるのちにこれを綜合するしかないのである。このことが、我々が一つの主語に無数の述語を与えうることの理由である。そして、判断はこの故に必然的に抽象的性格を帯びるのである37)。

 ところで、「直覚知」及び「複合と分割」とは「或る知性であるかぎりでの理性」に属するはたらきである。「直覚知」が比量を用いることのない端的な受容であることに問題はないが、「複合と分割」は部分的把捉として、比量を伴うといわなければならないであろう。いずれにせよ、「直覚知」も「複合と分割」もいわば知と無知とが同時に並び立つ把捉である。

 第三の推論は理性による固有のはたらきである。トマスが「推論的」と「比量的」とを並べて用いている38)ことからも明らかなように、推論は比量なしにはありえない。「推論は或る種の運動を表す。しかるに、すべての運動はそり先なる一つのものから後なる他のものへの運動である。それ故に、推論的な認識は先に知られた或るものから後に知られる他のもの、すなわち、先には知られなかったもの、へと達することへ方向づけられている」39)。「理性の推論は常に知性認識されたものから始まり、知性認識されたものに終わる。すなわち、我々は或る知性認識されたものから進みながら推理する。そしえ、理性の推論は先に知られていなかったことがらを我々が知性認識するようになるときに完成する」40)。「もしひとが現実態において諸原理の知をもっていて、可能態において結論を認識するとすれば、彼は理性の推論によって、諸原理を通じて結論の知を獲得しなければならない」41)。「我々の知においては、推論は二通りある。一つは単に継次的(secundum successionem)であって、我々が或ることがらを現実的に認識したのちに、他のことがらを知性認識するためにそれへと自らを向けるような場合である。他の推論は原因性に即した(secundum causalitatem)それであって、我々が諸原理を通じて結論の認識に到達するような場合である」42)。

 以上、理性の推論についてトマスの述べるところを引用したが、このことからわかるように、推論はひとつの運動、過程である。しかし、それは物理的な意味での運動ではなくて、「知られているものから知られていないものへ」の心的な運動、継次的な運動であるとともに、また「原因性に即した」論理的な運動、可能態から現実態への進行として形而上学的な運動なのである。この運動は一つの判断から他の判断への運動であり、また、諸原理から結論への運動である。「推論する知性においては、結論が原理に関係づけられる。何となれば、もし知性が原理それ自体において結論の真理をただちに見るとすれば、その知性は推論し或いは推理することによって知性認識するのではないからである」43)。推論とか推理は、我々が「他性の領域」(Reich der Anderesheit)にいること、我々が時間経過にさし向けられていること44)のゆえに免れることのできない認識の様式なのである。

 動物の感覚知覚に比して人間の理性認識はその「比量の力」のゆえにより優れたものとして措定された。しかし、他方において、天使の知性認識との比較において、理性認識は「比量」、「推論」のゆえに、単純な直覚知よりも劣るのである。さらに、神の認識が問題とされるならば、人間の精神のあり方はいっそう明らかとなるであろう。「神の認識のうちにはいかなる推論も存在しない」45)。神が認識し給うところのものが神以前に存在するということはあり得ない46)。「もし認識の様式が考察されるならば、神にはより多く知られる或るものとか、より少なく知られる或るものとかは存在しない。何故ならば、神はすべてのものを同一の直観でもって(eodem intuitu)見給うからである」47)。「神の認識のはたらきは神の本質とは異なった或るものではない。というのは、神の活動は神の本質であるゆえ、神においては知性と知性認識することとは同一であるからである」48)。神の認識との鋭い対比において、人間の認識の本来性が確立される。人間における「理性の推論」は「複合と分割」とともに、人間が時間のうちにあって可能態から現実態へと進行してゆくことを明らかに示すのである。我々の認識は「過程性」をもってその本質徴表とするのである。

 以上、我々はトマスの認識論的諸問題の中から、特に「比量の力」、「理性の推論」、「判断」などの概念を手がかりとして、人間の認識の問題を検討した。知識を抜きにして教育を考えることはできない。しかしながら、教育がかかわるのは単にそれだけでないことはいうまでもない。このことを認めたうえで、我々は次に、上述したトマスの認識論的な問題をいわば教育学的に転釈してみよう。トマスは体系的には教育の問題に触れていない。しかし、我々はトマスの多くの陳述のうちにimplicitにそれが含まれていると見ることができるであろう。

IV 教育の過程性

 トマスは教師が生徒を先に知られたことがらから未だ知られていないことがらの認識へと導く仕方を二通りに区別している。「その第一は、相手に対して、その知性が知識の獲得のために役立たせることができるような、何らかの補助或いは道具を提供するという仕方である。....他の仕方は、学ぶ者の知性を強化する(confortare intellectum addiscentis)という仕方であって、....それは諸原理から結論を導出することができるだけの比量の力(virtus collativa)を自分では恐らくもたないであろうような生徒に対して、諸原理の結論に対する秩序づけ(ordo principiorum ad conclusiones)を提示するのである」49)。我々がここで問題にしたいのは、第二の仕方として挙げられている「学ぶ者の知性を強化する」ということである。

 既述のように、人間は本性的に理性的存在者であって、その認識は一歩一歩進んでゆくという形を取らざるをえない。しかしながら、もちろん推論的認識のみが人間の唯一の認識様式ではない。トマスのいうように、「知性は諸原理を自然本性的に(naturaliter)認識する」50)のである。「自然本性的に」とは「端的に」(simpliciter)、「推論なしに」(sine discursu)、「比量を伴わずに」(sine collatione)ということである。諸原理の認識は我々の知識成立の前提として、いわば我々のうちに先在している51)。これに対して、結論の知識は自然本性的に所有されるのではなくて、諸原理の知を通じて、「比量」、「推論」によってはじめて獲得されるのである。

 ところで、われわれはすでに「比量の力」を「関係設定の力」、「関係づけの可能性」と規定した。トマスは上掲の個所で、生徒はこの「比量の力」をもたないといっているのではない。よく読めば、そうではなくて、「諸原理から結論を導出できるだけの」それがまだない、といっているのである。生徒は可能的に結論の知識を所有する、換言すれば、未だ知らざる状態にあるけれども、やがて知ることができる能力をもっているのである。

 ここで、我々は「比量の力」が「関係設定の力」として、教育の過程性のいわば主体的側面を表すということに注目したい。「比量の力」としてのわれは関係づけの主体であって対象的なものと対象的なものとの中点に立つ。過程を進行するわれがここでは問題なのである。このような主体としてのわれは他の諸々の対象と同列におかれることはできない。われは他の諸々の客体的なもののうちの一つの客体ではありえない。この関係設定は、しかし、恣意的になされることはできない。すでに述べたように、対象的関連は予め建てられ(前提され)ているのであって、この関連に従って措定すること、それが関係設定であり、秩序づけである。

 「比量の力」は、また、すべての時間経過の場所である。ということは、「比量の力」としての我は過去、現在、未来という時間経過の関係点として時間の全体を保証する主体であるということを意味する。確かに、過去のわれは現在のわれとは違っていたし、未来のわれは現在のわれとは変化しているであろう。しかし、われは或る意味で自己同一性を保っている。われは時間経過にさし向けられているが、にもかかわらず、時間経過を包み、越えている。主体性ということも、このことが認められないかぎり無意味であろう。

 次に、「判断」について、別の角度から考えてみよう。トマスは『教師論』の中で、「それによって我々がすべてのものについて判断する(iudicare)ことができるところの似姿の刻印」52)について語っている。我々が神に似せて創られているということ、すなわち、我々の似姿性(similitudo)が我々をしてすべてのものについて判断することを可能ならしめるというのである。ここでいわれている「判断」(iudicium)は狭い論理学上の意味においてではない。「判断」にはもともと「裁き」という意味がある。「判断」の根拠はそれに照らして「裁き」がなされるところの真理である。我々は真理を判断するのではなくて、真理に従って判断を下すのである。この意味において、我々は自らが規準ではない。「我々は似姿性において方向を規定されており(richtungsbestimmt)、課題的に方向を規定されている(aufgabenhaft richtungsbestimmt)」53)のである。規準は真理それ自体である。我々は真理に結合(拘束)されている。「判断」は真理に対する応答として、われの決断を要求する。応答とはまさに責任(Verantwortung)である。だとすれば、われの判断は「どうでもよいもの」であることは許されない。判断においてわれの中立(Ichneutralitaet)ということはありえない。このことは単に主体的なことがらのみに妥当するだけではない。あらゆる判断は判断する者としての自己自身についての判断を含んでいる。すなわち、対象的判断は同時に自己判断でもある。ひとは自らが判断するところのものによって自らを判断するのである。自己の責任において判断しない者は自己の主体性を自ら放棄しているのである。

 また、判断することは、トマスのことばでいえば、「複合し分割する」ことである。われは分割し、分離して認識するものを一つの全体へとまとめ上げなければならない。それ故、教育においてわれが学習するのは多くの関連のないばらばらの知識ではなくて、分割され、ばらばらに散らばっているものを一つのものに集めること、諸々の関連を複合し、分割すること、すなわち、判断することである。

 さらにまた、判断することは、われが或る立場に立つこと、或る視点を選ぶことである。それは、トマスによれば、似姿としてのわれがそれに似せられているところの原型へと結合されることによって可能である。判断において、われは永遠の真理に参与する。もちろん、われは判断において究極の真理に到達することはできない。われの知は同時にわれの無知を顕わにする。にもかかわらず、われは永遠の真理への参与のゆえに、判断においていわば真理を先取する。いいかえれば、目的がわれの進んで行く道の外にではなく、その途上ですでに現前する。このとき、過程は目的のための単なる手段、方便であることを止めるのであり、過程そのものが重大な意味をもってくる。過程において、すでに目的が現象する、或いは過程そのものが目的となるといってもよいであろう。

 我々は教育の過程性のいわば主体的側面について検討している間にいつのまにかその対象的側面に言及することになった。しかし、これは当然のことである。それは同じことがらの異なった観点にすぎないからである。つまり、関係づけの力としての主体はそれが関係づける対象的なものなしにはありえず、逆に或るものから或るものへの過程、運動はそこにおいて運動するところの主体なしにはありえないのであある。しかしながら、「比量の力」が関係づけの力として対象と対象との間にあって、それ自身は対象と見倣されえないという意味で、すぐれて主体的であると考えられるのに対して、「理性の推論」は「理性」の推論であるかぎりで主体の運動でありながら、一つの運動、過程であるかぎりで、端緒と終局をもつ対象的、客体的なものであるといえよう54)。

 そこで最後に、我々はこの「理性の推論」について、その教育的な意味を考えてみよう。discursusは知られているものから知られていないものへの運動であった。ここで注意しなければならないことは、この「知られているものから」ということの意味である。「知られているもの」は同時に、まだ「知られていないもの」を必然的にいわばその前方にもつ。我々の知に厳密な意味での完全ということはありえないからである。知られているもの「から」の運動の端緒にはすでに「知られていない」ということが現前していなければならない。さもなければ、運動は起こらないであろう。その過程のどの点をとっても、そこにはいわば知と無知との統一がなければならない。つまり、知と無知とは運動の端緒と終局にそれぞれ切り離されてあるのではない。この知と無知との統一があってはじめて、知られているもの「から」知られていないものへの運動をなさしめる「問い」がでてくるのである。われはこの「問いの可能性」である。

 ところで、知られているものから知られていないものへの運動ということは、我々が或ることがらを知っている状態から知らない状態になるということでは全然ない。この「から」(ex)はむしろ「に基づいて」ということなのである。知られているもの「に基づいて」知られていないものの認識に到達することである。それ故に、discursusは端緒において「知られているもの」に始まり、終局において「知られているもの」に終わるのである。終局における「知られているもの」は端緒から見れば「知られていないもの」であった。従って、端緒における「知られているもの」と終局における「知られているもの」は質的に異なる、或いは深まっている、或いは高まっているといわなければならない。さらにいえば、終局における「知られているもの」もその時点において「知られていないもの」の性格を完全に失うことはない。我々の知が全知を僭称できない以上、この過程、運動は無限を志向する55)。topologischに図式化すれば、この過程はいわば「螺旋形」として、知と無知が一線上に集中しながら、相接するのでなしに上方へ向かうということができるであろう。

 教師が生徒をして知られていることがらに基づいて知られていないことがらを認識せしめる仕方として、トマスが挙げている「学ぶ者の知性を強化する」ということは、以上述べてきたような意味において理解されなければならない。「諸原理の結論に対する秩序づけ」とは、いいかえれば、「知と無知との関係づけ」である。この知と無知の統一としてのあり方は、教師においても生徒においても同じ構造をもっている。教師も又、自らの知と無知の統一において、探求し、問い、学ばなければならない。しかしながら教師は、生徒と全く同じ水準にあるのではない。ここで教師と生徒とを区別するものは、「知られていないことがら」に対する両者の関係である。この意味においてのみ、教師は「学ぶ者の知性を強化する」ことができるのである。

 諸原理から結論への運動は、また、「原因性にそくした」56)運動であった。それは諸原理、すなわち、証明せられえない自明的なもの「に基づいて」、或いは、それ「を根拠として」、結論、すなわち、問いによって到達されるべきもlのへと進む運動である。「に基づいて」、「を根拠として」なされるdiscursusは、広い意味での判断である。教師が生徒に教えることができるのは、このこと、すなわち、判断することである。それ故、教師が生徒に「諸原理の結論に対する秩序づけ」を提示するという意味は、教師が既製のできあがった知識を生徒に与えるということではなくて、さまざまの知識を「原因性に即して」関係づけること、その関係づけの過程において、問うこと、判断することを教えるということにほかならない。生徒にとって、学習とは問うことを学ぶこと(Fragenlernen)、判断することをまなぶこと(Urteilenlernen)である。教育の過程性はまさにこの間の消息をものがたるものである。

 

*使用したtextはS. Thomae Aquinatis, Summa Theologiae, cura et studio Sac. Petri Caramello, Marietti, Paus Prima etPrima Secundae, 1962; Pars Secundae, 1962; Tertia Pars et Supplementum, 1956; 及びS. Thomae Aquinatis, Quaestiones Disputatae, Vol. I. De Veritate, cura et studio P. Fr. Raymundi Spiazzi, Marietti, 1942; Vol. II. De Potentia, etc., cura et studio P. Bazzi, etc., Marietti, 1949である。
参考文献 S. Thomas, Truth, Chicago, H. Regnery Co., Vol. I-III, 1952-54; トマス・アクィナス、『神学大全』、高田三郎他訳、1,3,6,8; Etienne Gilson, The Christian Philosophy of St. Thomas Aquinas, tr. by L. K. Shook, C.S.B., N. Y., 1956; Etienne Gilson, Elements of Christian Philosophy, A Mentor-Omega Book, 1960; etc.Oeuvres de Saint Augustin, 6, Bibliotheque augustinienne, Paris, 1952, De magistroを使用。アウグスティーヌス
1)S. th., I, q. 108, a. 5c. これは『神学大全』、第1部、第108問題、第5項主文を表す。その他、例えば、a. 5, ad 6とあ  れば、第5項第6異論解答を表す。以下、これに準ずる。
2)パスカル、『瞑想録』、358, 由木康訳、白水社、1950, p.268.
3)S. th., I, q. 85, a. 5c.
4)S. th., I, q. 79, a. 8c.
5)S. th., I, q. 79, a. 4c.
6)cf. S. th., I, q. 79, a. 1 ad 3.
7)cf. S. th., I, q. 108, a. 5c.
8)ibid.
9)ibid.
10)ibid.
11)De verit., q. 24, a. 2c.これは『定期討論集』の中の第1巻「真理論」、第24問題第2項主文を表す。以下これに準ずる。
12)S. th., I, q. 83, a. 1c.
13)vis collativa, De verit., q. 11, a. 1, ad 12; これはまたvirtus collativaともいわれる。Ludwig Schuetz, Thomas Lexikon, 1957によれば、die vergleichende Kraft, unter welcher nicht bloss die Vernunft, sondern auch das   sinnliche Abschaetzungsvermoegen des Menschen zu verstehen ist. 我々はこの概念をもっと広い意味に解釈したい。
14)cf. S. th., I, q. 78, a. 3 et a. 4.
15)De potentia, q. 3, a. 11, ad 1.
16)S. th., I, q. 78, a. 4c.
17)S. th., I, q. 81, a. 3c.
18)De verit., q. 11, a. 1, ad 12.
19)De verit., q. 11, a. 1, ad 7.
20)S. th., I, q. 82, a. 2, ad 3.
21)De verit., q. 2, a. 2c.
22)S. th., I-II, q. 50, a. 3, ad 1.
23)S. th., I-II, q. 50, a. 4c.
24)De verit., q. 2, a. 3, ad 19.m
25)De verit., q. 10, a. 6, ad 2.
26)Magdalene Linnenborn, Das Problem des Lehrens und Lernens bei Thomas von Aquin, Freiburg im B., 1956,
     S. 156.
27)S. th., I, q. 13, a. 7c.
28)M. Linnenborn, op. cit., S. 156.
29)cf. Schuetz, op cit., S. 238. discursus=gedanklicher Uebergang von einem zum andern, Eroerterug,
 Unterredung, Folgerung.
30)S. th., I, q. 83, a. 4c.
31)拙稿「トマス・アクィナスにおける『知識の獲得』の構造」、教育哲学研究、第15号、昭42,4.を参照。
32)S. th., I, q. 79, a. 8c.
33)In Post. Anal., L. I, Lect. I, n.4. 『分析論後書注解』、第1巻、第1項、4.Summa Theologiae, Pars Prima, p. 283, notatio(7).
34)Maurice de Wulf, The System of Thomas Aquinas, N. Y., 1959, pp.15-18.
35)註3.
36)S. th., I, q. 58, a. 4c.
37)概念や判断のもつ抽象的性格は、そのことなしに我々が効果的な教育を期待できないものである反面に、具体的
  実在を見失わせる危険をもっといることを我々は忘れ帝はならない。この点に関しては、E.Gilson, Elements of Christian Philosophy, N. Y., 1960, pp.251-252を参照。
38)cf. S. th., III, q. 11, a. 3c.
39)S. th., I, q. 58, a. 3, ad 1.
40)S. th., II-II, q. 8, a. 1, ad 2.
41)De malo, q. 16, a. 6c.
42)S. th., I, q. 14, a. 7c.
43)S. th., I, q. 58, a. 4c.
44)M. Linnenborn, op. cit., S.150.
45)De verit., q. 2, a. 2, ad 2.
46)De verit., q. 2, a. 3, ad 14.
47)De verit., q. 2, a. 1, ad 5.
48)De verit., q. 2, a. 5, ad 15.
49)S. th., I, q. 117, a. 1c
50)S. th., I, q. 60, a. 2c.
51)前掲拙稿参照。
52)De verit., q. 11, a. 1, ad 1.
53)M. Linnenborn, op. cit., S.222.
54)主体的、客体的という区別は或る意味で相対的である。認識は主体と客体との或る意味での結合であって、それ   故に主体=客体的であるからである。しかし、それは置換可能という意味で相対的ではない。知ることができるのは  主体であって、対象は知られるのである。尚、認識的結合については、Tad Guzie, The Analogy fo Learning, N. Y.,   1960, pp.48-56を参照。
55)例えば、人間とは何かについての知識を考えてみても、人間についての知識が量的に無限に拡大するという意味   においてではなく、むしろ、「これですべてが解決される」といった解答がないがゆえに、それがたえず、あらためて問い直されなければならないという意味において無限の過程というのである。・
56)註42.


Resume

 Die Prozesshaftigkeit der Erziehung bei Thomas von Aquin

 Shigeru Mikami

 Der Mensch ist "die rationale Substanz". Dieser Modus des Seins des Menschen besteht in der Tatsache dass
der Mensch zwischen der Engel als "die intellektuelle Substanz"und dem Tier als "die sensible Substanz"steht.
Die Wesensmerkmale, die vom Menschen, der irgendwo zwischen der Engel und dem Tier ist, gezogen sind, koennen wir "vernuenftliche Vorgang"(discursus rationis)und "die vegleichende Kraft"(vis collativa)nennen.

 Was kann diese Begriffe bei hl. Thomas in paedagogischer Sicht bedeuten? "Die vergleichende Kraft"ist das Ich
als die relationssetzende Kraft. Sie koenne kie subjektive Seite der Prozesshaftigkeit der Erziehung repraesentieren. "Der vernuenftliche Vorgang"ist eine Bewegung, ein Prozess, der Anfang und Ende hat. Also, er
koenne die objektive Seite der Prozesshaftigkeit der Erziehung bezeichnen.

 Das besagt dass das Ich, als die relationssetzende Kraft kein Objekt, kein Gegenstand jnter anderem ist und, als
der Relationspunkt des Zeitverlaufs das Ganze der Zeit garantiert; und dass "der vernuenftliche Vorgang"eine
Bewegung von Wissen zu Nichtwissen ist; das Fragen kann erst in dieser Einheit des Wissenns und Nichtwissens
ermoeglich werden.

 Das Ich kann die Wahrheit nicht urteilen, sondern nach der Wahrheit die Urteilung machen. Der Massstab des
Urteils ist die Wahrheit gebunden. Aber diese Gebundenheit des Ich mit der Wahrheit kann nicht besagen, dass
das Ich kie letzte Wahrheit besitzt. Das mit der Wahrheit gebundene Ich dann auf dem Wege, der Wissen und Nichtwissen gleichzeitig umfasst, muesse prozedieren um zu fragenlernen ud urteilenlernen. Der Lehrer muss
den Schueler das Fragen und das Urteilen lehren.


 神奈川県立栄養短期大学紀要第1号 昭和44(1969年)3月 pp.47-55から転載

作成日:2003/01/23

最終更新日:2003/01/23

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