ファチマの聖母マリア

聖母は非常に悲しんでおられる

私たちは彼女を慰めなければならない

The Fatima Crusader Issue 53, 1996より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

以下はグルーナー神父によって最近なされた話の第二部です。

聖母を慰める一つの非常に重要な方法は彼女のメッセージを知らせることです。私はしばらくの間、ラ・サレットの聖母のメッセージを取り上げましょう。人々はときどき私にこう尋ねます。「シスター・ルシアは、教会位階の許可なしでさえ、第三の秘密を明らかにすべきではないのですか?」私はそれは一つの非常に興味深い、そして魅力のある問いだと思います。私はラ・サレットの秘密を伴った聖母、教会そしてメラニーの経験を思い起こしました。

出版されたラ・サレットの秘密、その最も重要な行の一つで、こう言われています。「ローマは信仰を失い、アンチ・キリストの座となる。」一つのやや強力なメッセージです!その秘密は1846年に与えられました。教皇ピオ九世は秘密 - 彼はそれが公衆に明らかにされる前に読みましたが - を読むことによって、1840年代から1870年代までの彼の長い教皇在任中に教会の行政において多くの誤りを予防したと言われました。

メラニーは1879年、当時彼女がいたイタリアにおいてレッチェの司教の[教会]印刷出版許可をもったラ・サレットの秘密を出版しました。

しかし、その秘密は全体的に見て教会によって無視されました。それは確かに反撃されました。1900年代の初め、二三年間は聖座によって反対の布告さえ出されました。私はそれは後で禁制が解除されたと思います。

ラッツィンガー枢機卿は私たちに油断ならない危険について告げておられる

ラ・サレットの秘密はファチマの秘密の先駆者として考えることができるでしょう。ラ・サレットの秘密はファチマ第三の秘密が私たちに警告しているものに似た、私たちが現代に経験している諸問題についてすでに非常にあからさまに言い表されたものです。ファチマ第三の秘密は明らかに、ラッツィンガー枢機卿が1984年のインタビューでそうだと私たちに告げているように、「信仰に対する危険」について語っています。「信仰の危険」から彼は「キリスト教徒の生命の危険」について語ることへと進んでいます。「信仰の危険」がなぜ「キリスト教徒の生命の危険」へ導くのでしょうか? そしてそのことから「世界の生命の危険」へ進むのでしょうか? 私たちの主は私たちに、私たちは地の塩であると告げておられます。しかしもし塩がその味を失うならば、投げ捨てられ、人に踏まれることからそれを守るものが何かあるでしょうか? カトリック教会の塩、たとえ大抵のカトリック者でなくても、多くの人の信仰は薄められ、水で薄められてきました。そしてそのように世界は神にはあまり心地よいものではありません。塩はその味を失いつつあります。投げ捨てられ、人に踏まれる以外にそれは何の役に立つのでしょうか?

カトリック信仰に対する攻撃

カトリック教会がその鋭さを失い、その味を失って行きつつあるのはなぜでしょうか? 信仰が単に攻撃にさらされているているばかりでなく - 内部から掘り崩されているからです。教皇ヨハネ・パウロ二世は1982年にファチマに行かれたとき、こう言われました。「彼女が聖霊において培われた愛のすべての力をもった、そしてすべての人の救いに対する望みをもった御母、その御母は彼女の子どもたちの救いのまさに基礎そのものが掘り崩されるのをご覧になって沈黙したままでいることがお出来になるであろうか?」そして教皇は彼自身の修辞的問いにこう答えておられる。「いいえ、彼女は沈黙したままでいることはお出来にならない。」

祝せられたおとめはファチマで彼女の子どもたちに、彼らの救いのまさに基礎そのものが掘り崩されていると大声を上げられ、警告されました。教皇ヨハネ・パウロ二世が説明しておられないことは、私たちの救いのまさに基礎そのものが何であるかということです。私たちはそのことを信仰から知っています。私たちの救いの基礎は私たちの信仰です。聖ヨハネの第一の手紙、第5章、4,5節において彼はこう問うています。世に勝つものは何か? それは私たちの信仰です。サタンは信仰は、もし信じられ、実行されるならば、世に勝つ、そして同様にまた彼自身の王国に勝つであろうということを知っています。神の敵ども、そして私たち自身の敵どももまたそのことを理解しています。たとえ彼らは信仰を持たないとしても、彼らは私たちを強くするものが何であるかを理解しています。

危険は内部からである

私たちはどのようにして信仰に対する攻撃が内部からであると知るのでしょうか? 教皇が「掘り崩される」という言葉を用いられるとき、彼は明らかに私たちの信仰に対する攻撃が内部からであるということを示しておられます。というのは、あなたが信仰を掘り崩すことができるのは、ただ内部からだけですから。

このことは、たとえ信仰に対する攻撃が教会の外部からであったとしても、キリストが教会に一つの「免疫システム」- すなわち、教皇、司教たち、司祭たち、そして信仰教義聖省 - に信徒たちがこの油断のならない攻撃から彼らの霊魂を救うために警告されるように、危険について彼らに警告を発するために信徒たちに叫びを上げる厳格な義務を与えになりましたから、そうです。しかし、もし「免疫システム」が効果的に叫びを上げないならば、それはそれが掘り崩されているからです。

霊魂を守る絶対的な必要性

私たちの司牧者たちの多くは、不幸なことに、信仰が擁護されなければならないということを理解しませんでした。そのことは根本的なことです。彼らは政治的あるいは典礼的なアジェンダ(協議事項)のために、多くの実質的異端者[4]たちが司教座を占拠し、信仰に対して大きな害を及ぼしているということを理解しませんでした。信仰は内部から掘り崩されているのです[1]。それがファチマの聖母と教皇ヨハネ・パウロ二世が二人ともファチマ・メッセージにおいて私たちに告げておられることです。

それは何であり、なぜ今日秘密が隠されているのか

しかし、それはファチマのメッセージのどこにあるのでしょうか? それは第三の秘密のうちにあります。それは好奇心あるいは人を騒がせるやり方の問題ではありません。それは霊魂の救いの問題です。なたはこう言うかもしれません。「あなたは、それを読んだことがないときに、第三の秘密を知ることについてどうしてそのように確信を持つことができるのですか?」多くの人々はフレール・サン・ミッシェルの『第三の秘密』という900ページの書物を読む忍耐心を持っていないでしょう。ファチマ・メッセージに関する世界的に有名な権威であるフレール・サン・ミッシェルはその問題について、特に第三の秘密に関して広範囲の研究を行いました。私は、この書物を読み、来て、私に、あなたはなお第三の秘密は信仰に対する危険には関わっていないと信じることができると言ってくれる誰かにやってごらんと言います。しかし、あなたが彼の900ページの書物を読む時間を持たないとしても、あなたは彼の32ページの要約『ファチマの秘密』を読むことができます....それは同じ主題に関して明らかにされたものです。しかしながら、その書物はその中にそれ以上のものを持っています。しかし、この要約はなおまったく人を納得させるものです[2]。

しかしながら、第三の秘密は単に信仰に対する危険 - そして危険は内部からであるということ - に言及しているばかりでなく、また教会の内部から破壊され、掘り崩されている信仰に対する上位の位階の罪にも言及しています。これもまた第三の秘密の部分です。そしてこれが、第三の秘密が明らかにされてこなかった唯一の理由です。秘密を明らかにしないことに対してヴァチカンによって提供されているすべての理由は研究の光に持ちこたえないものです。

信仰の最悪の危機

ラッツィンガー枢機卿は1984年のインタビューにおける彼の説明において非常に慎重でした。そのインタビューは後に『信仰の危機』と呼ばれる一冊の書物にされました。あるいは英語でそう呼ばれているように、『ラッツィンガー報告』になりました。この書物は百万部以上が刷られました。現在は信仰教義聖省と呼ばれているものの枢機卿である長官がそのように重大な問題に関してそのように公に語ったのは聖ロベルト・ベラルミンが最初の長官であった1540年代の検邪聖省としてのその始まり以来、最初にして唯一の時です。彼は単にインタビューを許したばかりでなく、またそれについて一冊の書物を書いたのです。

彼のインタビューと彼の書物の主旨は、信仰が世界至る所で危機に瀕しているということです。世界中の信仰の状況を誰か理解しているとすれば、それは信仰の維持を監視するために教皇によって任命された人でしょう。そして教会におけるその省の全歴史において始めて、枢機卿たる長官が出て来てこう言ったのです。「信仰は世界中で危機に瀕している。」

1984年に何がラッツィンガー枢機卿をしてこの有名なインタビューをさせたのでしょうか? 彼はインタビューの原稿を、そのすべての言葉について、それが公表される前に認可しました。彼はまたそれが出版される前に彼の書物のあらゆる言葉を是認しました。何が彼にそのようなことをさせる原因だったのでしょうか? そうですね、信仰が世界中で(十分に明らかに)危機に瀕しているという事実に加えて、それはまたファチマの聖母御自身が、その第三の秘密において、これが彼女が私たちに警告するために1960年以後,来たことであると言われたと私は考えます。ラッツィンガー枢機卿は、彼自身、自分自身の言葉で、ファチマの第三の秘密の主旨あるいは主題が何であるか、こう私たちに語っています。「秘密は信仰に対する危険に関わっています。」彼はこう言っています。「私はそれを読みました。そしてそれが何であるかについて言えば、信仰に対する危険です。」

聖母は今日の危険について警告しておられる

聖母は私たちを危険の中に見ておられます。そして彼女は私たちのよい、そして最も聖なる無原罪の御母ですから、沈黙したままでいることがお出来にならないのです。彼女はまず何よりも危険について私たちに警告なさいます。このように、私たちはまた私たちの仲間のカトリック者にも警告を発すべきです。特に聖母がその第三の秘密において、1960年以来諸教皇によって、そしてまた信仰を擁護するために任命された枢機卿である長官たち - 彼ら全部、オッタヴィアーニ枢機卿、セペル枢機卿そしてラッツィンガー枢機卿 - によって沈黙させられてきましたから、そうです。それゆえ、1960年以来の三人の教皇 -33日間しか教皇でなかったヨハネ・パウロ一世を数えないで - および信仰教義聖省の三人の長官はすべて、私たちが皆少なくとも1960年までにはそれが為されるであろうと約束されていたように、第三の秘密が公開されることを阻止することによって、聖母を沈黙させたのです。

弁解?

ラッツィンガー枢機卿の書物の中で、彼は諸教皇が第三の秘密を明かされなかったことに対して示された理由を指摘しました。彼は、これらの理由は諸教皇が提出された理由であるということを明らかにするように気をつけていますが、しかしこれらの理由を彼自身裏づけしないように気をつけています。私は彼がその主題は防御不可能であるということを本能的に理解していると思います。

『ファチマ・クルーセイダー』第18号において、私たちはローマにあるテレジアーヌムのカルメル会士で教授であるジョセフ・ド・サント・マリー神父による非常に短い論説を公表しました。

その直ぐ後に、あるイタリアの雑誌がラッツィンガー枢機卿の第三の秘密についての短評を公表しました。ジョセフ・ド・サント・マリー神父は第三の秘密とそれについてのラッツィンガー枢機卿の短評について論説を書きました。私がジョセフ・ド・サント・マリー神父に言及するのは、彼が教皇の職務と人格を非常に尊敬しておられた人だからです。それでも彼は第三の秘密が明らかにされないことに対してこれらの薄弱な弁解が提出されたとき、同意できないと公に述べることが義務であると考えたのです[3]。

世間を騒がせる!

その論説において、ジョセフ・ド・サント・マリー神父はラッツィンガー枢機卿が、諸教皇は世間を騒がせるやり方で宗教的な預言を混乱させることを望まれないのだ、と言われたということを指摘しました。しかし、明らかにその理由は、旧約聖書において預言者たちは幾分世間を騒がせるものであったという単純な理由で、うまく行きません。神はエレミヤに群衆を集め、そしてエルサレムを取り囲んでいる壁に穴をうがち、そしてこれが彼らに起ころうとしていることであると彼らに告げなさいと言われました。神はエレミヤに、そして同様に他の預言者たちにも、人々の注意を引くために、むしろ人を騒がせるものである事柄をするように告げられました。同様にまた神がお与えになったメッセージはかなり破壊的なものでした。私たちの主御自身も幾分人目を引くことをおっしゃいました。

好奇心ではない

同様にまた、ときどき人々は好奇心があるから秘密を求めているのだと言われました。私たちの創造主である神は知識への渇きの賜物をお与えになりました。そして知識を探求することは悪いことではありません。それは、ちょうど私たちの目が見ることを、私たちの耳が聞くことを - 私たちの精神が知ることを予定されているのと同じように、私たちの本性の一部です。しかしながら、私たちが知るべきでない事柄を知ろうと求めるとき、それは好奇心のあやまちです。あるいは私たちが見るべきでないないものを見ようとするとき、それは私たちの目を制しないあやまちです。好奇心は私たちが知るべきでない事柄を無秩序に知ろうとします。しかし、神が私たちに明らかにすることを望んでおられる事柄をあなたが知ろうとするとき、それは好奇心があるのではありませんし、少なくとも、そこには好奇心のあやまちは存在しません。

私たちはまた、人々を情緒的に乱す、あるいは混乱させることはよくない、とも言われます。しかし、もし私を追いかけている一匹の大きな熊がいたならば、私は確かにあなたが、たとえそれが私を怖がらせたとしても、私に警告してくれることを望みます。たとえ私が恐れの感情を経験するのが好きではないとしても、私はもう少し長く生きるほうがよいと思います。

そのようにそうなのです。聖母がそうなさったようにメッセージを聞くことは私たちにとって少しばかり心配になることであるのは大いにあり得ることでしょう。しかし、それは有益なことでしょう。人々は目覚めるでしょうし、それについて何かをするでしょう。

彼女を慰めなさい。彼女の全メッセージを伝えなさい

それが彼女が第三の秘密をくださった理由です。彼女は私たちが危険に陥っていることを見ておられるのです。そしてその危険は、危険が私たちから隠されているということです。それは信仰に対する攻撃です。そしてそれは公然と来ているのではない攻撃です。450年前、トレント公会議の後に、カトリック信者は彼らの信仰がプロテスタントによって攻撃されているということを知っていたでしょう。彼らはもし彼らがカトリック信仰を重んじるならば、ルターをも、あるいはこれらの他のいわゆる「改革者たち」をも信じるべきではないということを知っていたでしょう。しかし、今日、その相違は牧者たちが羊に危険について警告していないということです。

そしてそれで、羊飼いたちの御母、彼女のすべての霊魂たちの御母は私たちにその危険について警告するために来られたのです。しかし、彼女もまた沈黙させられてきました。私がすでに述べましたように、聖母を慰める方法のうちの一つは確かに彼女のメッセージを伝えることです。私は、あなたが自分自身で彼女の真のメッセージであると確信していない何かあることを伝えるようにあなたに求めているのではありません。ですから、私は手に入れ得る最善の記録文書や研究から秘密について読み、そして知るようにあなたたちに強く勧めたいと思います。私は、私がそうであるのと同じように、あなたが、第三の秘密は信仰に対する危険に関わっているということを確信なさると思います。そして私たちがそこに到達するのは単にフレール・サン・ミッシェルの推論によってばかりではありません。私たちは同じことを私たちに告げているラッツィンガー枢機卿の証言を持っているのです。

真の従順の徳

しかしながら、メッセージの第二の部分 - ラッツィンガー枢機卿はそれについて私たちに語りませんでしたが - はその危険が、彼らが枢機卿であれ、司教であれ、司祭であれ、悪しき羊飼いたちから来るということです。ところで、あなたたちは従順の徳について今日多く聞きます。そして確かに従順は一つの徳です。しかし、私たちが「従順とは何か? なぜ私たちは従うのか? なぜ子どもは母や父に従うべきであるのか? なぜ市民は交通警官に従うべきであるのか? なぜ私は司教あるいは教皇に従う べきであるのか?」と自問するならば、その答えはあらゆる場合に、いとも簡単です。神が彼らに権威をお与えになったからです。そのように私が人間に従うとき、それが私の親であれ、私の牧者であれ、私の首相であれ、私の管理者であれ、あるいは一人の警官であれ、私は神に従っているのです。

しかし、神が教義において御自身に矛盾したことを言われることはないのと同じように、私たちは50年後に、あるいは100年後に、あるいは1000年後に、他の公会議によって、あるいは他の教皇によって反駁される一つの決定された教会の教義を持つことはできません。神はまったく真実なお方ですから、私たちは明らかに同時にそして同じ意味において真である二つのまったく対立した命題を持つことはできません。ですから、教会は何が信仰に関することであるか、神が聖書において、そして伝統において何を教会に啓示されたか、そして信仰について何が保持されるべきかを決定しますから、これらの真理は後の決定によって反駁されることはできないのです。また神は御自分が私たちにお与えになる命令において御自分に矛盾することを言うことはお出来になりません。

「人間によりもむしろ神に従いなさい。」

もし私が私の父に従うならば、あるいはもし私が首相に従うならば、あるいはもし私が教皇あるいは司教に従うならば、私は私の従順が、神が彼らに権威をお与えになったから、彼らに与えられるということを覚えておかなければなりません。しかし、神は、神御自身の権威を反駁するために彼らに権威をお与えにはなりませんでした。最初の教皇、聖ペトロの言葉にありますように、「私たちは人間によりもむしろ神に従わなければならない」のです。私は、市民社会には私たちがいわゆる法律が許している堕胎を持っているということを見ることは十分に容易である、といつも言います。よろしい。その法律は全然法律ではありません。神は堕胎を合法化する権威を国家に、あるいは最高裁に、あるいは他の誰かにお与えになりませんでした。その法律は従われるべきではありません。あるいは尊重されるべきではありません。

確かに、これらの「法律」を作った人間の立法者たちに神がお与えになった権限を超える多くの他の法律 - 私たちはそれについて語ることができるでしょう - があります。しかし、私たちはここでは教会における法、あるいはむしろ教会における諸命令に話を限定することにします。従順の徳が人間によりもむしろ神に従うように私たちに命令するある場合があります。そして私たちの従順は教皇、司教、枢機卿、司祭の命令に従わないこと、そして抵抗することさえ私たちに命令することができます。それは私の教えではありません。それはカトリック教会の教えです。

聖ベラルミンの教え

あなたはそれを聖ロベルト・ベラルミンの著作の中に見出すでしょう。聖母は、彼の祝日である5月13日を、彼女のファチマでの最初の御出現のために選ばれました。彼は単なる一聖人ではありません。彼は単なる信仰教義聖省の最初の長官ではなく、また教会博士です。ところで、約35人の教会博士がいます。彼らはそれぞれの専門を持っています。トマス・アクィナスは共通博士です。しかし、聖トマスを除いて、他のすべての博士はカトリック神学の一つの局面あるいは他の局面の専門を持っています。例えば、アヴィラの聖テレジアは十字架の聖ヨハネがそうであるように、霊性神学の専門家です。

しかし、聖ロベルト・ベラルミンは教皇および司教たちの権威を擁護することを専門としています。教皇あるいは司教たちの不道徳な、あるいは非合法的な命令に従わない、あるいは抵抗しさえする場合があるということを説明することは聖ロベルト・ベラルミンに残されました。彼は、スアレスがそうしているのと同じように、以下に述べる例を与えています。スアレスは列聖はされなかったけれども、確かに偉大な神学者と考えられていました。しかし、聖ロベルト・ベラルミンは同じことを言っています。

彼はこう言っています。もし聖職者の一員、司祭であれ、司教であれ、枢機卿であれ、あるいは教皇であれ、彼らがある人に彼らと一緒に罪を犯させるようにその人を物理的に攻撃するようなことがあるならば - そしてあなたは聖職者を打つことは破門に値する罪であるということ、あるいは教皇を打つことは当時はそうであったし、今日もなおそうであるということ、を知っているでしょう - あなたは物理的な力で抵抗しなければならない、と。彼は、もしそのことが真であるならば、そしてそれはそうですが、そのとき、もし教皇、司教、司祭、あるいは助祭が、そのことに関して、霊魂を攻撃するとしたら、よりいっそう真である、と言っています。霊魂に対する攻撃はあなたを異端の中へ引き入れようとする試みである、と彼は言います。そしてあなたは何であれ抵抗が必要であるものをもって、そのような攻撃に - 物理的な力をもってさえ - 抵抗しなければなりません。

聖ロベルト・ベラルミンは続けて、私たちはここで私たちの上長を裁いてはいけないということを指摘します。誰も教皇を裁くことはできません。ですから、教皇を退位させること、あるいは司教を退位させることは私たちの仕事ではありません。司教は教皇によって退位させられます。教皇はただ神によってだけ退位させられます。しかし、抵抗は単に従わないことだけではありません。それは積極的な抵抗でさえあります。歴史の中にはそのような事例がありました。

聖ペトロと聖パウロの例

最も有名な事例は聖書そのものの中にあります。そこでは聖パウロがガラテアの人々に書きながら、彼自身と最初の教皇聖ペトロとの間に、アンティオキアにおいて起こったことを述べています。その例は、聖ペトロが最初の教皇として、決して異端を教えなかったのですが、しかしそれにもかかわらず、彼の行為によって異端を促進しましたから、説明に役立ちます。それはそのような言葉では、多分、あなたに示されてはいませんが、しかし、まったく正確な記述です。

そのとき聖ペトロと聖パウロとに何が起こったかを思い起こして見ましょう。

エルサレムの最初の公会議において、キリスト者、カトリック教徒は「割礼の律法」という言葉に要約されているようなモーセの儀礼上の律法に従う必要はないということが厳かに、誤り得ない仕方で決定されました。カトリック教徒は彼らがそう呼ばれていたような、ユダヤ化するグループが言ったように、救われるために割礼を受ける必要はありませんでした。使徒たちは紀元51年頃、最初の公会議を開催しました。彼らはそれを厳かに決定し、そして聖ペトロは最初の教皇としてそれを確認しました。

しかし、そのしばらく後に、聖ペトロがアンティオキアに行ったとき、そこには最初の公会議の教えを受け入れていなかったユダヤ化するグループの人々がまだいました。聖ペトロがそこへ行ったとき、彼は平和の人であり、騒ぎを起こすことを望まなかったので、それについて彼は何も言いませんでした。しかし、さらに、聖ペトロはただユダヤ人たちとだけ、あるいは割礼を受けた人々とだけ食事をしました。

聖ペトロは、救われるためにあなたは割礼を受けなければならないとは決して言いませんでした。しかし、彼がその行為によって為したことは誤った印象を引き起こすはずのものでした。あなたは教皇の任務がそのように影響を及ぼすものであり、そのように強力であって、教皇がすること、あるいはしないことでさえ、信仰に反してさえ、間違った印象を与えることができる、ということを見ます。この場合には、割礼を受けていない人々と食事をしないことによって、ユダヤ化するグループは言ったのです。「ご覧なさい、彼は私たちに同意しています。もしあなたたちが救われることを望むならば、あなたたちは割礼を受けなければなりません。それが彼があなたたちと交際しない理由です。というのは、もし彼があなたたちと交際したならば、モーセの律法は彼は汚れたものとなったと言うでしょうから。割礼を受けない人は皆汚れており、そして彼は自ら律法を破ることになるだろうからです。それが彼があなたたちと食事をしない理由です。」

ところで、聖ペトロが彼らと食事を共にしなかったのは単純に彼が対決をしたくなかったからだというのが最もありそうなことです。しかし、それはどうもよくないことでした。信仰は怠慢という教皇の行為によって危険にさらされました。聖パウロは立ち上がって、聖ペトロの面前で彼を公に非難しました。そしてここでの原理は何でしょうか? 信仰が聖ペトロの沈黙によって危険に陥りました。そして聖パウロはそれを認めたのです。しかしながら、聖パウロは決してこう言いませんでした。「よろしい、あなたはよい教皇ではない。それで私はあなたを引き継ごう。私が教皇になろう。」あるいはまた彼はこうも言いませんでした。「あなたの座は今や空位である。あなたはもはや教皇ではない。」同様にまた聖パウロはただそこに座って、こう言ったのでもありません。「私は彼が間違っているのを知っている。しかし、私はそれについて何もするつもりはない。私はただ私の平和を維持するだけで、何もするつもりはない。」

聖パウロは抵抗しました。しかし、それは節度のある抵抗でした。彼は教皇を退位させませんでした。彼は、あたかも自分が教皇であるかのように教会に命令し始めながら、[教皇職を]引き継いだのではありません。しかし、彼は教皇が抵抗を受ける必要のある領域で抵抗しました。信仰が危険に陥りました。そして聖パウロは立ち上がって、そして信仰を明瞭に擁護しないことに対して教皇を公に非難しました。

教会史の中には他のいくつかの例があります。私は1111年から一つの例を挙げることにしましょう。これは稀な出来事ですが、1111年に教皇パスカル二世はすべての司教たちとすべての修道会上長たち、すなわちすべての修道院長たちに、辞表を提出するように命令しました。そしてなぜ彼は彼らが辞職することを望んだのでしょうか? X司教あるいはY司教が辞めるように求められるというそのようなことは信仰には反することではありません。

しかし、教皇がその命令を出したことの動機は何だったのでしょうか? その動機は彼が神聖ローマ帝国皇帝と平和のうちに生きることを望んだということ、そして皇帝は新しい司教たち - 彼の友人たち - を任命することを望んだということでした。そして1111年から1116年まですべての司教たちが一人の人間に対して従わず、抵抗しました。そして彼らは正しかったのです。なぜでしょうか? たとえそれが信仰の問題ではなかったとしても、教会が危険に陥っていたからです。もしすべての司教が皇帝によって任命されることになったとすれば - 明らかに皇帝は彼らを指名推薦したでしょうし、そして教皇は皇帝が望んだすべての人間に同意し、そして任命したでしょうが - 教会は国家の政策の道具となってしまうでしょう。教会はその超自然的な使命を失うでしょう。それは神がそれを取り去られるからではなく、事実、教会を管理する人間たちが何であれ世俗の支配者のアジェンダ[協議事項]に有利なものという見地から教会を管理することになるからです。

そしてそのように司教たちは抵抗しました。その結果、1116年に教皇パスカル二世は彼がその命令を与えた日を呪いました - そして彼はそれを取り下げました。しかし、それは司教たちからの抵抗の5年間を必要としました。不幸にして、今日私たちはたいていそのような司教たちを持っていません。むしろ、教皇が信仰を擁護しているときに、教皇に抵抗する司教たちの事例がもっと多くあります。

信仰が第一に来る!

私がここで強調したいことは第一の規則であり、そしてそのことは信仰は教皇の職務の基礎であるということです。信仰は司教の職務の基礎です。信仰は司祭の職務の基礎です。信仰なしには私たちは教会を持ちません。信仰なしには私たちは教皇の職務を持ちません。信仰なしには私たちは司祭あるいは司教の職務を持ちません。もし信仰を攻撃する教皇、あるいは司教あるいは司祭がいるとすればどうでしょうか。私は、それは一人の人間を身動きのとれない状態にするというふうに理解します。私たちは彼らが持っている職務のゆえに教皇、司教、司祭を尊敬しなければなりません。同時にこの職務を持っている人間が信仰を攻撃しているまさにその人なのです。

私たちはどうすればよいでしょうか? 聖書は明快です。聖パウロがしたことをしなさい。エフェソの司教がマリアは神の母ではないという異端を宣言した紀元429年に平信徒がしたことをしなさい。司教座聖堂は司教たちと司祭たちでいっぱいでした。一人の単純な平信徒が立ち上がり、こう言いました。「それは異端です!」彼は教会を去りました。そして教会の半分が彼に従いました。紀元431年に、エフェソの公会議はまさに、一人の平信徒が教義の問題で彼の司教に抵抗したために召集されました。この教説を宣言した異端者であるネストリウスは公会議で破門され、そしてその平信徒は彼の抵抗のために擁護されました。

聖書は司教たちに警告している:悪しき司教たちよ、あなたの群を誤った教義から護りなさい

教会は諸々の例を持っています。教会史は神学の偉大な教師です。もしあなたが教会史と並んであなたの神学を知っているならば、それは非常に教訓的です。聖母は今日の危険は聖パウロが聖書において約2000年前に私たちの時代のために予言したことです、と私たちに告げておられます。聖パウロは司教たちに教えています(使徒行録 20:28-30)。「あなたがたは、自分自身に気をつけ、また、群れのすべてに心を配りなさい。聖霊は....神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者[司教]にお定めになったのです。....凶暴なおおかみがあなたがたの中に入り込んできて、群れを荒らす....また、あなたがた自身の中からも、よこしまなことをとなえ、弟子たちを自分の方に引き込もうとする者が起こることでしょう。」このように、聖パウロはそれは聖職者そして司教たちから来るであろうと私たちに告げています。

司祭たちと司教たちは彼らが聖パウロの忠告を忘れるほどに合議制になるべきではありません。あなたたちの群れを見張りなさい。聖職者のうちのある者はよこしまな教義によって信徒を彼らの方に引き込もうとするでしょう。聖パウロは次のように言うとき、自分自身をさえ含めています。「たとえわたしたち自身であれ、天からの使いであれ、わたしたちが宣べ伝えたものと違ったことを福音として宣べ伝えるなら、その者にのろいがあるように。」(ガラテア 1:8)

カトリック信仰は守られなければならない

信仰は守られなければなりません。信仰なしには私たちは教会を持ちません。あなたは洗礼を授けられなければなりません。しかし、あなたはまた信仰を持たなければなりません。あなたは洗礼を受けることができます。そして信仰を失うことができます。そしてあなたは教会の外にいます。あなたは信仰を失ったことのために神によって破門されます。ひとたび異端者となると、あなたはもはや教会の成員ではありません。これは神人であるキリストが設立された教会における会員であることのまさに本性そのものによってそうです。そしてそのように信仰は私たちの救いの基礎です。

アタナシウス信条における聖アタナシウスの最初の言葉に注意を払いましょう。「救われることを望む者はとりわけカトリック信仰に全体として完全にすがりつかなければならない。」よい働きの前に、秘蹟の前に、他のすべてのものの前に、救われることを望む者はカトリック信仰に全体として完全にすがりつかなければなりません。信仰だけではあなたを救うために十分ではありません。しかし、信仰なしにはあなたは救われることができません。

聖母は、私たちの救いの基礎は掘り崩されているという驚くべき事実について、教皇が私たちに、彼女が私たちに警告しておられると告げているように、私たちに告げておられます。その基礎は何でしょうか? それは明らかにカトリック信仰です。それは掘り崩されています。フレール・サン・ミッシェルはその著『第三の秘密』の中で、それは不幸なことに、司教たち - 彼らのすべてではありませんが、しかし、彼らの多くの者 - 、そしてまた司祭たち、そして枢機卿たちによって掘り崩されているということを論証しています。これは無差別に司教たち、司祭たち、あるいは枢機卿たちを攻撃しているものではありません。むしろ私たちの優先順位をひたすら守りましょう。私たちの優先順位は何よりもまずすべてのものに対してカトリック信仰にすがりつくことです。聖ロベルト・ベラルミンは、もしそのようなことが起こるならば、教皇をさえ含めるでしょう。

あなたは信仰を擁護しなければならない

あなたの信仰はあなたの救いにとって根本的です。そして堅振の秘蹟によってあなたができる程度まで信仰を擁護する義務を持っています。聖ヨハネ・ヴィアンネーはかつてあるパーティに行くということである人を非難しました。そのパーティはその中間に一つの会を持っていましたが、しかしこの人は参加しませんでした。聖ヨハネ・ヴィアンネーがこの人を見たとき、彼はこう言いました。「告解に行きなさい。」その人はほんの数日前に行ったばかりですと言いました。聖人は「告解に行きなさい」と繰り返しました。「私は何かしたでしょうか?」そのひとは訊ねました。アルスの司祭は会があるこのパーティに自分はいたと答えました。しかしその人は言いました。「いいでしょう。私はそれを期待していませんでした。」司祭はうなづきました。「あなたが期待していなかったことは知っています。」その人は力説しました。「しかし、私は参加しませんでした。」そして司祭は答えました。「そのことも知っています。しかし、あなたは抵抗しなかった - そしてそのためにあなたは告解に行かなければならないのです。」

聖母はあなたが第三の秘密を知ることを望んでおられる

要約しますと、聖母は私たちが第三の秘密を知ること、少なくともそれについて私たちにできるかぎり知るようになることを望んでおられます。そして次ぎに、どの方面からも、信仰を擁護すること、私たち自身の信仰、そして私たちの周りの人々の信仰を擁護することを望んでおられます。同時に私たちは今日の時代に注意深くあるべきです。今日はアリウス派の異端の時代と非常によく似た何かあるものです。ニューマン枢機卿が指摘しているように、司教たちの約85パーセントがアリウス派であったこの時期の間、教導職の光は、彼らのアリウス派教義への積極的な固着によってではないとしても、少なくとも彼らの沈黙によって、しばらくの間非常に暗くなりました。聖ヒエロニムスは教会史のこの時期についてこう書いています。「教会は一夜カトリックとしてベッドに行き、翌朝アリウス派として起きた。」

アリウス派異端の時代に、教皇たちが明瞭に語らなかったために混乱させられた多くの人々がいました。少なくとも明瞭でない文書にサインすることへと誤り導かれた教皇さえいました。ですから、信徒たちは彼らが司牧者たちから与えられることができ、あるいは与えられるべき指導を与えられなかったのです。

それでも、私たちは誤りに落ちている人々、私たちの仲間のカトリック者たちに対して裁く者であるべきではありません。彼らは実質的異端[4]に陥っています。しかし、同時に私たちは教導職の光の暗くなる時代において裁く者でないように非常に注意深くなければなりません。私たちは、同時にカトリック信仰の諸真理を擁護する一方で愛徳を持つ者であるべきです。私たちは私たち自身よりも情報を少なくしか得られない人々について裁く者でないように努力しなければなりません。しかしながら、私たちの時代には、今は教会の外に出ているマッシュウ・フォックスのような、まったくよく知られた、そして真理を知っているべき何人かの大異端者たち、作家、そしていわゆる「神学者たち」がいます。フォックスは彼の著作から明らかな異端者です。そして彼は彼の立場に対する無知を主張することはできませんでした。彼は決して唯一の人間ではありません。しかし、もし私たちが、誤りに陥っているこれらの人々のうちの何人かは善意の持ち主であるということを信じる理由をもっているならば、私たちは愛徳において彼らの意図について判断を差し控えなければなりません。それにもかかわらず、信仰はなお、たとえ誤りに陥っている人が真摯であるとしても、機会が要求するように明瞭にそして力強く擁護されなければなりません。

彼女の秘密が公式に明らかにされていないから....

聖母は特に、彼女の秘密が明らかにされなかったので悲しんでおられます。そしてその明らかにされないことがそのように多くの霊魂の喪失という悲劇の原因であるということ - というのは彼らは信仰を失ったからです - を悲しんでおられます。彼女は、彼らを救うための最善の努力にもかかわらず、これらの哀れな霊魂が永遠に失われたので、非常に悲しんでおられます。同じ原因のためにもっと多くの霊魂が失われるという過程は今なお続いています。このように、もし私たちが彼女を慰めたいと思うならば、私たちは私たちの周りの信仰の浸食に抵抗する私たちの役割を果たすべきです。そして聖ベラルミンが言うように、私たちは、それが教皇たち、司教たちそして司祭たちに来るときでさえ、抵抗する義務を持っています。単にそれに巻き込まれないだけでなく、抵抗する義務を持っています。聖人たちは私たちに抵抗のための規則を与えました。

私はあなたたちに、「私たちは自分たち自身の公会議によって教皇をたった今退位させました」とあなたたちに告げる教皇座を空位にする人々(Sedevacantists)の道を取らないように警告します。自分自身を教皇として選ばせた合衆国の一人の男について聞いたことがあります。彼の母親は彼と他の三人のカトリックの人々 - 彼らの考えによれば、彼らは全教会に残された唯一のカトリック者です - と共にコンクラーヴェにいました。この自己宣言をした教皇は自らを「教皇マイケル一世」と呼んでいます。現在約5ないし6人の反教皇がいます。私はあなたがあなた自身の教皇制を始めることを推奨しません。私が言っていることは、私たちはそれでもやはり、いかなる方面からの信仰の浸食にも抵抗しなければならないということです。

聖母のメッセージを知らせなさい

これが聖母が第三の秘密において私たちに警告しておられることです。そしてこれが教皇ヨハネ・パウロ二世が聖母がこうおっしゃっていると私たちに告げていることです。「彼女が聖霊において培われた愛のすべての力をもった、そしてすべての人の救いに対する望みをもった御母、その御母は彼女の子どもたちの救いのまさに基礎そのものが掘り崩されるのをご覧になって沈黙したままでいることがお出来になるであろうか? いいえ、彼女は沈黙したままでいることはお出来にならない。」あなたたちもまた沈黙したままでいるべきではありません。聖母を慰める単純な方法は償いの行いをすること、5回の初土曜日[の信心]を実行すること、そして罪人たちのために私たちの祈りと犠牲を捧げることです。聖母を慰めるために私たちはまた私たち自身を知らせることです。明らかに彼女は私たちに一つのメッセージを与えるために[天から]降られました。彼女はこのメッセージが何であるかを見出すように私たちに望んでおられます。それに注意を払うことを望んでおられます。

ファチマを軽んじてはいけない

フエンテス神父とのインタビューの中で、シスター・ルシアは知られた真理に抵抗することは聖霊に反する罪であるということを指摘しています。ファチマの御出現がそのような公的な奇跡によって、そしてそのようにずっと以前から為された多くの預言によって確証され、そして今多くの預言がすでに実現されたとき、聖母のメッセージに注意を払わないことは重大な結果を伴う重大な誤りです。このことは私の著書『世界の奴隷化か、それとも平和か』の中で説明されています。そこで私はファチマの聖母に従う教会の義務について話しています。私が教会と言うとき、私は教皇と司教たちを含めています。そこには聖パウロが私たちに告げている一つの義務があります。「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。」(1テサ 5:19-22)教会は一つの預言的メッセージを与えられました。教会によって確証されたメッセージを簡単に退け、「私たちはそれに注意を払わなくてもよい、それは私的啓示である、そして私たちはそれによって縛られていない」と言うことは霊の火を消し、預言を軽んじることです。

私はそれが、不幸なことに、今日教会におけるすべての問題が、少なくとも霊的なレベルにおいて、全部一つの事柄に基づいている理由です。すべては一つの事柄から来ています。教会のこの二十世紀の世代は、全体的に見て、ファチマの聖母の預言を無視し、軽んじてきました。私たちが、典礼、教義、道徳あるいはカテケージスに関して混沌のうちにあるにしろ、悪しき枢機卿たち、司教たち、あるいは司祭たちに苦しむにしろ、私たちは皆一つの共通の根に、霊的に言えば、ファチマの聖母のメッセージを軽んじていることに、帰着します。

完全なファチマ・メッセージを促進しなさい

ですから、私たち自身のやり方で、ファチマの聖母の完全なメッセージを促進することは私たちの義務です。フレール・サン・ミッシェルが先に挙げた彼の書物の中で指摘しているように、彼女のメッセージは1960年以来公に軽んじられてきました。少なくとも私たちは、私たちが彼女のメッセージを軽んじ、このようにして彼女の人格に傷をつけることにくみしないことによって私たちにできる程度に私たちの役割を果たすことができます。私たちは少なくとも聖母のメッセージを知らせるために私たちの役割を果たし、それを知らせ、そして私たち自身によって、そして私たちの周りの人々によってそれを生きるようにさせることができます。

脚注:

[1]この点に関して完全に確信を得るためには、Iota Unum という書物を読みなさい。

[2] 『明らかにされたファチマの秘密』、p.32

[3] この論考のコピーは$1.00 P&H で入手可能、あるいはWeb siteから無料で入手可能。

[4] 実質的異端は誤った教義あるいは真の教義の誤った解釈を無意識のうちに主張する行為です。

1998/06/14 三上 茂訳

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作成日:1998/06/14

最終更新日:2005/03/19

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