諸聖人の祝日

以下に、フェデリコ・バルバロ訳編の「毎日のミサ典書」(ドン・ボスコ社 1958)によって、典礼暦年にしたがった、諸聖人の祝日の個所の聖人の祝日と聖人の簡単な説明を載せます。典礼暦年は待降節第一主日からはじまり、聖霊降臨後の最後の週で終わりますので、この順で聖人の祝日も並びます。新しい聖人たちがどんどん誕生していますが、以下に掲載したものは1958年までの時点のものです。(三上)

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目次

序言
待降節後の11月の諸聖人の祝日
12月の諸聖人の祝日
1月の諸聖人の祝日
2月の諸聖人の祝日
3月の諸聖人の祝日
4月の諸聖人の祝日
5月の諸聖人の祝日
6月の諸聖人の祝日
7月の諸聖人の祝日
8月の諸聖人の祝日
9月の諸聖人の祝日
10月の諸聖人の祝日
11月の諸聖人の祝日

序言

聖なるいけにえは、神だけにささげるものである。それは、神だけが、礼拝の権利を有しているからであって、人間は、その礼拝を行う義務を有する。
 聖人、特に神の御母聖マリアに対する崇敬は、礼拝ではなく、尊敬である。尊敬の崇敬は、決して、神の光栄にそむくものではなく、むしろ神の光栄となるものであり、神への表敬(cultus)の、ひとつの様式といってよいのである。
 われわれは、聖人らを崇敬することによって、神の御業、上智と聖寵との神の傑作をたたえ、もって、神に光栄を帰するのである。聖人らの光栄は、神の栄冠である。聖人らに対する崇敬は、神秘体の教義にもとずいている。すなわち、聖人をとうとぶことは、キリストに光栄を帰することである。聖人たちは、ある意味において、すべて、キリストの殉教者であり、証聖者である。なぜなら、かれらは、自分たちの血を流すことによって、あるいは忠実に英雄的に神の教えを守ることによって、キリストを宣言したからである。
 かれらの勝利は、キリストの勝利であり、かれらの功徳はキリストのあがないの果である。公教会は、これがために、かれらを、キリストの神秘体の肢体(えだ)として、大いにあがめるのである。それはまたかれらのこの世における遺物を尊ぶ理由でもある。
 公教会の生活の、様々な表現の中で、神秘体のかしらなるキリストにおける全信仰者の一致を、最もよく宣言するのは、聖体である。聖アウグスティノによれば、聖体は、愛のむすびと一致の「象り」(かたどり)である。
 ある聖人の、天におけるその新生の記念を行い、あるいはその聖遺物の移転を祝うとき、われわれは、ミサを中心として、祝いを行うのである。また、聖人らに対する典礼の表敬(クルトゥス)には、常に、とりつぎを願う祈りが入っている。ここにおいて、特に聖人の通功が実現される。(フェデリコ・バルバロ訳編「毎日のミサ典書」ドン・ボスコ社 1958)

待降節後の11月の諸聖人の祝日

11月29日 殉教者、聖サトルニーノ

 サトルニーノは、ローマの司祭で、その助祭シシニオとともに、三世期末、マキシミリアノ帝の治下、ローマで殉教した。同名のフランス・ツールーズの最初の司教殉教者(257年)であり、祝日も同日であるサトルニーノは、ここで祝うサトルニーノとは別である。

11月30日 使徒聖アンドレア

 本日の<聖福音>にあるとおり、聖ペトロの兄弟聖アンドレアと聖ヨハネとは、イエズスに最初に呼ばれた弟子であった。
聖アンドレアについて語りのこされていることは、ごくすくない。かれの殉教録には、「神なる師イエズスと同じように、十字架にかけられて死んだ」としるされている。

12月の諸聖人の祝日

12月2日 童貞殉教者、聖ビビアナ

 聖女ビビアナは、棄教者ユリアノの迫害中の、最も有名なローマの殉教者の一人である。
兄弟フラヴィアノと母のダフローザとが、血でもって信仰を告白してのち、法官は童貞女である彼女に罪を犯させ、棄教させようとしたが、かれらの主は彼女をほろびより救い給うた<書簡>。そして彼女は鞭打たれて死に(363年)、童貞と殉教の栄冠を得た。<集祷文>

12月3日 証聖者、聖フランチスコ・サヴェリオ

 この大宣教師は、1506年4月7日、スペイン・ナバルラのサングエサ在のハビエル城に生まれた。パリ大学時代、ロヨラの聖イグナツィオと友情をむすび、イエズス会創立の協力者となった。1542年、福音宣教のために印度に派遣され、1549年8月15日には日本に渡り、1552年広東に程近い上川島(サンシャン)で帰天した。1622年列聖。
 聖ピオ十世によって、かれは、信仰布教事業の保護者と定められた。日本の守護者も、この聖人である。

12月4日 司教証聖者、教会博士、金言の聖ペトロ

 イタリア・ラヴェンナの司教聖ペトロは、その雄弁によって、金言の聖ペトロといわれている。かれは、使徒としての熱心な信仰によて、その司教の職務を果たした。彼の言葉として有名なのは、「悪魔とともに笑いたい者は、キリストとともに喜ぶことが出来ない」である。
 教会博士の称号をおくられた。

12月4日 童貞殉教者、聖女バルバラ

 東方教会で非常に有名な聖女バルバラは、父のディオスコロの手にかかって、ニコメディア市において殺された。郡代であった父は、娘が童貞の誓願を立てて、まことの神に奉仕するのをいきどおり、信仰をすてさせようとして拷問し、ついに首をはねるに至った。(306年ごろ)。十四救難聖人の一人。

12月4日 殉教者、福者イエロニモ・デ・アンジェリス、シモン遠浦等

 本日は、江戸の殉教者五十名を記念する。司祭はイエロニモとフランシスコ会のフランシスコ・ガルヴェスの二名で、他は平信者である。
イエロニモ・デ・アンジェリスは、イタリア・シシリァ島出身のイエズス会宣教師。
シモン・遠浦は、イエロニモ師の伝道士。1623年12月4日(元和9年10月13日)ともに江戸で殉教した。

12月5日 大修院長、聖サッバ

 サッバ(439-532年)は、多年隠修士の生活をし、パレスチナの全修道院の院長に任命された。東方修道院制度の創設者の一人とみなされている。殉教録によると、「カパドキアのムタラにて永眠。大修院長聖サッバは、その聖徳の生活において公教会に貢献し、カルチェドニアの公教会会議の敵と、たえず戦っていた」とある。

12月6日 司教証聖者、聖ニコラ

 聖ニコラは、小アジアのミラの司教。四世紀のなかば(350年ごろ)に没したが、大奇蹟家として有名。聖ニコラへの崇敬は、ローマ教会でも東方教会でもなかなか盛んで、その当時の最も偉大な司教として尊敬を集めている。

12月7日 司教証聖者、教会博士、聖アムブロジオ

 聖アムブロジオは、ラテン教会の四大博士の一人である。
彼はイタリアのミラノの総督であったが、ある嬰児の声によって、摂理的にミラノ司教と定められた。彼はアリウス派とマニ派との異端を亡ぼすべく、大いに苦闘した。没したのは、397年4月4日(聖土曜日)であったが、祝日は、その司教叙階記念日の12月7日である。彼の知識と聖徳は、聖アウグスティノの回心に益するところ大であった。

12月8日 聖なるマリアの無原罪の御宿り

 無原罪の御宿りの祝日を祝ったという歴史は、東方教会では六世紀、西方教会では九世紀からのことである。
聖アンセルモとベネディクト会、ドゥン・スコトとフランシスコ会は、マリアのこの特権を常に支持して来た。
クレメンテ十一世教皇は、708年に、無原罪の御やどりの信心を、全教会にすすめ、1854年12月8日、ピオ九世によって、”聖マリアはアダムの罪の結果を身におびずして懐妊され給うた”ことを、信仰個条として宣言された。
神の母となるべく予定されたマリアは、一瞬たりともサタンの支配下にはなかった。キリストの功徳の予定によって、聖マリアは原罪なく、聖寵にみちたものとしてやどられ、この世に生まれ出給うた。

 ミサ聖祭

聖マリアのいと浄きよろこびと心を合わせ、聖マリアを御独子の御託身の神殿となすべく、かくも美しく汚れなくえらび給うた神に感謝しよう。聖マリアは、神の上智によって永遠に選び出された。公教会は、聖書が神の上智について語っていることを、ためらうことなく聖マリアに適用する。
聖寵にみちみちたこの「新しきエワ」は、あがない以前のあがないであり、御民のほこりであり、喜びである。聖マリアのこの特権に信仰をもたねばならぬ。その恩寵は、全人類に及ぶものである。

12月10日 教皇殉教者、聖メルキアデ

 マクシミアノ皇帝のとき、残酷な迫害を忍んだこの教皇(311-314年在位)は、ミラノの勅令(313年)によって、公教会がローマ帝国内で正式に認可された時に遭う幸せがあった。

12月11日 教皇証聖者、聖ダマゾ

 聖ダマゾは、スペイン人。366年リベリオ教皇の後をついだ。聖ヒエロニモに、聖書翻訳の改訂を委嘱、典礼に意を用い、詩編は栄誦をもって終わるべきことを規定し、カタコンブの壁画大理石版に自作碑銘を多く残した。
また、異端と戦い聖霊の神性を否定したマルセドニウスを処罰した第二回公会議(第一回コンスタンチノープル会議。381年)を認可した。384年没。

12月12日 グァダルペの聖母マリア

 スペインがメキシコを占領して間もなく、1531年12月9日、テペヤク山のグァダルペで、ファン・ディエゴというインディアンの改宗者に出現し給うた聖母マリアを記念する。のちに、この地に大聖堂が造築され、巡礼地となった。  1877年、グァダルペの聖母は、南アメリカ全土、フィリピン、特にメキシコの守護者と宣言された。

12月13日 童貞殉教者、聖女ルチア

 聖女ルチアは、シシリー島のシラクザに生まれ、聖女アガタの墓で、イエズス・キリストのためにだけ生きると誓った。両親は彼女の知らないうちに、貴族の青年と彼女との結婚をとりきめていたが、彼女がそれを知って拒絶したので、青年は、地方長官パスカジオに彼女はキリスト信者であると訴えた。
訴えられた彼女は、すぐれた答弁をして地方長官をいいこめたので、地方長官は憤怒して、さまざまな方法で、彼女をはずかしめようとした。
 「敬虔に純潔を守る人は、聖霊の神殿です」と彼女がいったのは、この時である。遂に、奇蹟的に身を守りおおせ、304年殉教した。ミサ聖祭典文中と諸聖人の連祷にその名が見える。

12月16日 司教殉教者、聖エウゼビオ

 イタリア・ヴェルチェッリの司教、聖エウゼビオはアリウスの異端が公教会を荒らしつつあったとき、公教会の神聖を守って立った、守り手の一人であった。
 のちに国を追放されたが、やがて司教座の市にかえり、371年、そこで逝去した。かれの忍んだ迫害とその追放とによって、殉教者の一人に加えられている。

12月21日 使徒、聖トマ

 聖トマについては、福音書に記されている二つの出来事がある。一つは、最後の晩餐後、イエズスの話し給うとき口をはさんだ出来事と、復活に対して、不信の行いのあった出来事との二つである。
 キリストの復活を明らかに知った時の、「わが主よ、わが神よ」という彼の信仰告白は、いまも一つの射祷として、信者の間でとなえられている。

1月の諸聖人の祝日

1月14日 司教証聖者、教会博士、聖ヒラリオ

 フランス・ポアティエの司教、教会博士、聖ヒラリオは三位一体とキリストの神性を否定するアリウスの異端説を反駁するその著書によって有名である。
 367年没。1825年ピオ九世教皇は、かれを教会博士にあげた。

1月14日 司教殉教者、聖フェリチェ

 聖フェリチェは、イタリアのナポリ近傍ノラの司祭であった。ノラの司教聖パオリーノの著書によって知られている。そこでは、彼の熱心と忍耐と勇敢が賞されている。血を流して死んだのではないが、長い迫害をたえしのんだその功績によって、殉教者の一人に加えられている。260年頃没。

1月15日 最初の隠修士、証聖者、聖パウロ

 最初の隠修者、聖パウロは、すでに十五歳の時よりエジプトのテーベの砂漠に入り、百二十歳で没するまで、たえず苦業と観想の生活をおくった。
 砂漠の隠修者の伝記によれば、聖アントニオがこの聖人パオロの死の近きを告げられ、行って死体を葬ったとある。(342年ごろ)

1月15日 大修院長、聖マウロ

 聖マウロは、聖ベネディクトの、最初の有名な弟子の一人である。フランスにベネディクト会をひろめ、グランフォイ大修道院長として、584年に没した。

1月16日 教皇殉教者、聖マルチェロ一世

 聖マルチェロ一世教皇(308-309年在位)は、コンスタンツォ、ガレリオ、マクセンツィオ諸皇帝、すなわち最後の大迫害のころ、公教会をおさめていた教皇である。309年、殉教した。

1月17日 大修院長、聖アントニオ

 聖アントニオは、四世紀ごろ、エジプトのテバイデに住んでいた隠修者たちのかしらで共住修士制の創設者とされている。最初の隠修者、聖パウロの死を、啓示によって知ったのも彼である。百五歳の長寿で、356年に没した。ベネディクトの、最初の有名な弟子の一人である。フランスにベネディクト会をひろめ、グランフォイ大修道院長として、584年に没した。

1月18日 ローマにおける聖ペトロの教座の記念

 すでに四世紀のころ、ローマでは、聖ペトロの来訪と教座との記念を行っていた。六世紀ごろには、アンティオキアにおける聖ペトロの教座の祝日もはじまった。
 パウロ四世教皇は、1558年、この二つの祝日を全世界で行うように定めた。(2月22日を参照)

1月18日 童貞殉教者、聖女プリスカ

 殉教録によると、次のように記されている。「童貞殉教者プリスカのローマにおける誕生日。彼女は、クラウディオ二世皇帝のとき、さまざまの試練をへて、殉教の栄冠をうけた。」(270年ごろ?)

1月19日 殉教者、聖マリオ、聖女マルタ、聖アウディファチェ、聖アバコ

 ペルシァの貴族の聖マリオは、妻マルタと二人の息子のアウディファチェ、アバコと共に、クラウディオ二世皇帝のころ、ローマに来た。この四人は、牢獄に入れられていた信者を助け、また、殉教者を葬っていた。遂にはかれらもとらえられ、むち打たれ、火あぶりにされ、手を斬られ、市外で首をはねられ、270年頃殉教した。

1月19日 殉教者、聖カヌート王

 デンマーク王カヌート四世(1080-1086年在位)は、自国内の信仰弘布に熱心に尽くした。1086年7月10日、オーデンセー市の聖アルバノ教会の中で、信仰の敵らの手にかかって殺された。神は王の聖性を表すに、その墓における多くの奇蹟をもってし給うた。

1月19日 福者、マルガリタ・ブルジュア童貞

 1620年4月17日、トゥルワ(フランス)に生まれた福者マルガリタは、三十三歳の時、カナダに渡り、少女教育に尽力し、モンレアールのノートルダム女子修道会を創立した。
 福者マルガリタがいなかったら、カナダは現在のようになっていなかったかもしれない、とピオ十二世は、彼女を称讃された。四十七年の宣教生活ののち、1700年1月12日、帰天し、1950年11月12日、福者にあげられた。

1月20日 教皇殉教者、聖ファビアノ、殉教者、聖セバスティアノ

 聖ファビアノ(236-250年在位)は、デチオ皇帝のころの教皇である。ローマ教会をたて直し、殉教録をつくるように計画し、典礼上の種々の問題を解決した功績がある。在位十五年、デチオの迫害の手によって殉教した。聖セバスティアノは、ローマの軍団兵であった。勇敢な信仰者で、ディオクレツィアノ皇帝の迫害のとき殉教した。(ローマで、280年ごろ)

1月20日 童貞殉教者、聖女アニェス

 聖ヒエロニモは、本日の聖女アニェスについて、こう書いている。「キリストの全教会は、言葉と著作とをもって、聖女アニェスの行いをたたえている。アニェスは、その幼さにも、その敵の暴君にも勝った聖女である。彼女は、童貞女の栄冠と殉教のほまれとを同時にうけた。」(ローマにて、四世紀のはじめ頃)

1月20日 殉教者、聖ヴィンチェンツィオ、聖アナスタジオ

 スペイン人の助祭ヴィンチェンツィオは、さまざまの拷問ののち、304年ごろ、サラゴサ(スペイン)で火刑に処せられ、信仰に殉じた。諸聖人の連祷にある聖ヴィンチェンツィオがこれである。ペルシァの修道者、聖アナスタジオは、他の七十人の信者とともに、ペルシァ王、コスロアの命令により、628年、首をはねられた。

1月23日 証聖者、ペニァフォルテの聖ライムンド

 聖ライムンドは、スペイン国王の縁戚に当たる貴族ペニァフォルテ家に生まれた。贖虜の聖母会の創立者聖ペトロ・ノラスコの助言者でもあった。学徳兼備、ドミニコ会の光栄とたたえられる一人である。霊魂のための奮励と、教会法の深い学問とのために有名である。又、数多くの奇蹟も行った。
 <集祷文>は、マヨルカ島からバルセロナに行くために海を歩いたという彼の奇蹟を仄めかしている。1275年に没した。

1月23日 童貞殉教者、聖女エメレンツィアナ

 彼女は、聖アニェスの友で、まだ求道者だった時、聖女アニェスの墓で祈っているところを、信仰のために石殺しされた。

1月24日 司教殉教者、聖ティモテオ

 聖パウロの回心の祝日の前日に、教会は聖ティモテオを祝う。聖ティモテオは、聖パウロの仲間であり、また忠実な弟子であって、パウロの布教旅行にも随伴した。初代エフェゾ司教となった。聖パウロの書簡の中に、この聖人にあてた二つの書簡が残っている。一世期末(97年?)エフェゾで殉教した。

1月25日 使徒聖パウロの回心

 本日祝う聖パウロの回心の次第は、書簡に詳しくのせられている。(使徒行録 9:1-22)われわれの生活において、この大なる異邦人の使徒ののこした模範をまねるよう、神に願わねばならぬ。

1月26日 司教殉教者、聖ポリカルポ

 殉教録には、次のように記されている。
「スミルナにおいて、聖ヨハネの弟子、聖ポリカルポ殉教。マルコ・アントニーノと、ルチオ・アウレリオ・コモドとが皇帝であったとき、彼は、火あぶりの刑に処せられた。ところが、火がかれの身体にもえうつらなかったので、遂に首をはねられた。」155年ごろのことである。

1月27日 司教証聖者、教会博士、金口聖ヨハネ

 コンスタンティノープルの大司教、聖ヨハネは、そのすぐれた雄弁によって、金口と呼ばれていた。かれは、専ら、信仰を弁護し教えるために、この雄弁を用いた。
エウドシア皇后の謀略によって、再度司教座を逐われ、407年9月14日、二度目の追放のとき、アルメニアで没した。遺骨がコンスタンティノープルに移された記念の日、1月27日を祝日とする。
 公教会の最もすぐれた教父の一人として尊ばれている。

1月28日 証聖者、聖ペトロ・ノラスコ

 聖ペトロ・ノラスコは南仏ラングドックに生まれた。ベニァフォルテの聖ライモンドと、アラゴニア王ヤコボ一世とともに、回教徒の捕虜となっていた信者を救い出すために、贖虜の聖母修道会(メルセス会)を創立した。
彼は、1256年、御降誕の祝日の夜に帰天したが、その時、「主は、御民にあがないをおくり給うた」といったという。

1月28日 童貞殉教者、聖女アニェスの第二の祝日

 本日の典礼は、昔、聖女アニェスの誕生日にを祝っていた。しかし今では、彼女の墓に祈りに来た親戚のものに、光栄につつまれてあらわれた彼女の出現を祝う。

1月29日 司教、証聖者、教会博士、サレジオの聖フランチスコ

 聖フランチスコ・サレジオは、1547年8月21日、サヴォアのサール家の居城に生まれた。1602年、ジュネーヴの司教となった。それ以前に、その聖徳とシャブレでカルヴィン派からの改心者を数多く出したことによって、つとに有名であった。
 この聖人の徳は、柔和と愛徳とにつきるといってよい。多くの書簡、著書をのこしたが、彼の著書の中で、今も親しまれ、ひろく読まれているのは、「信心生活入門」である。
 シャンタルの聖女ヨハンナは、この聖人の指導のもとに、聖母訪問修道女会を創立した。彼は、1622年12月28日、リオンで没した。1655年列聖。1877年教会博士にあげられ、1923年、カトリック出版事業と文筆家の守護聖人とされた。

1月30日 童貞殉教者、聖女マルティナ

 ローマの執政官の娘であったこの聖女は、ウルバノ一世教皇のとき、226年、殉教した。

1月31日 証聖者、聖ヨハネ・ボスコ

 「イタリア・トリーノ市で、サレジオ修道会と扶助者聖マリア修道女会を創立した証聖者聖ヨハネ・ボスコ。霊魂を救い、そして、信仰を布教するにあたっての、その奮闘と熱心とが尊ばれている」と、殉教録に記されている。
 聖ヨハネ・ボスコは、イタリアのピエモンテにおいて、1815年8月15日に生まれ、1888年1月31日、トリーノで七十三歳で没した。青少年の現代使徒としてあがめられ、創立した修道会によって教育・出版・布教事業に貢献した。その青少年にすすめた信心業は、聖体と聖母に対する信心、教皇に対する忠誠であった。1934年列聖された。

2月の諸聖人の祝日

2月1日 司教殉教者、聖イグナツィオ

 使徒聖ヨハネの弟子、アンティオキアの教座における聖ペトロより三代目の後継者であるイグナツィオは、トライアノ皇帝の迫害のとき、ローマにおくられ、猛獣にかみ殺されて殉教した。(107年?)
彼は、殉教の前に、ローマの信者にこう書いている。
 「私は、キリストの小麦でありますから、主なる神によみせられる清いパンとなるように、私が猛獣の牙にくだかれるのを、さまたげないでください。」

2月2日 聖マリアの御潔め

 <聖福音>(ルカ 2:22-32)にその内容の語られるこの祝日は、エルザレムにおいては、すでに四世紀のころから行われていた。六世紀には、ローマでも行われるようになったが、そのころから、この祝日が、特に聖マリアの祝日の色彩を強めてきた。東方教会では、この祝日によって、御民にはじめて逢うために、主が神殿に行き給うたことを祝っていたのである。故に、本日のミサの下には、キリストと民との出遭いという思想が流れている。
この日には、ろうそくの祝別が行われる。本日の行列は、ローマにおいて、七世紀のころからのことである。」

2月3日 司教殉教者、聖ブラジオ

 アルメニアのセバステの司教ブラジオは、拷問をうけ、むち打たれてのち、首をはねられた。(316年頃)ある伝説によると、彼は、魚の骨がのどにささって死にかけていた子供の命を救ったというので、今も、のどの病気の保護者とあがめられている。

2月4日 司教証聖者、聖アンドレア・コルシーニ

 イタリアのフェレンツェにおける貴族コルシーニ家に生まれたこの聖人は、カルメル会に入り、後に自分の意に反し、フィエゾレの司教に選定されたが、依然として厳格な苦業の生活をつづけるとともに、教会の刷新、信者の訓育に力を尽くした。1372年御降誕の祝日に聖母が御出現になり、死の近いのを告げられた。1373年、御公現の祝日にそこで没した。

2月5日 童貞殉教者、聖女アガタ

 聖女アガタは、シシリアの貴族の家に生まれ、童貞を神にささげると誓い、どんな申込みにも節を曲げなかった。このために、童貞の栄冠に、殉教の栄冠を合わせたのである。
彼女は、残酷な拷問をうけたが、使徒聖ペトロの奇蹟によっていやされた。しかし、ついに敵の手にかかり、再度とらえられ、250年ごろ、シシリアのカナニア牢内で帰天した。ミサ典文と諸聖人の連祷中にその名が録されている。

2月5日 殉教者、聖ペトロ・バプティスタ、聖パウロ・三木等二十六聖人

 ペトロ・バプティスタ、三木パウロ、茨木ルドヴィコの他、二十三名の司祭・修道士・信者は、1597年2月5日(慶長元年12月19日)、長崎の立山で、十字架上の殉教をとげた。この二十六名のうち、三名はイエズス会、六名はフランシスコ会員であった。
1862年6月8日(文久2年5月11日)、聖霊降臨の祝日に、ピオ九世によって列聖された。

2月6日 司教証聖者、聖ティト

 聖ティトは、聖パウロの弟子であり、協力者であった。叙階されてより、クレタ島の教会を司牧した。聖パウロは、一つの書簡を、この司教におくっている。105年(? )ごろ、または一世紀末、クレタで没した。

2月6日 童貞殉教者、聖女ドロテア

 カパドキアのチェザレアの、童貞殉教者、聖女ドロテアは、四世紀のはじめ頃、殉教してキリストを宣言した。ローマの聖女ドロテアの聖堂におさめられている。

2月7日 修院長、聖ロムアルド

 聖ロムアルドは、イタリアのラヴェンナで生まれた。ベネディクト会の分会の、カマルドリ修道会の創立者であり、その厳しい生活のために有名で、1027年6月19日、百二歳で没した。全生涯の内百年は苦業の生活であった。

2月8日 証聖者、マタの聖ヨハネ

 聖ヨハネは、プロヴァンスで生まれた。その初ミサの時に見た示現により三位一体修道会を創立した。<集祷文>この修道会創立に当たっての協力者は、ヴァルアの聖フェリチェ(祝日、11月20日)であった。この二聖人は、回教徒の捕虜となっていた信者釈放のためにはたらいた。聖ヨハネは、1213年12月17日ローマで没し、マドリッドに葬られた。

2月9日 教会博士、証聖者、司教、アレキサンドリアの聖チリロ

 聖チリロは、370年エジプトのアレキサンドリアに生まれた。生涯を通じ、諸異端、特にネストリウスの異端に対する正統信仰の闘士であった。彼は、マリアが神の御母であるという信仰個条を定義したエフェゾの公会議(431年)の中心人物であった。
アレキサンドリアで、三十二年間司教をつとめ、444年に帰天した。

2月9日 童貞殉教者、聖女アポロニア

 エジプトのアレキサンドリアの人、聖女アポロニアは、250年ごろ、デチオ皇帝の迫害により殉教した。長い拷問をうけ、歯をぬきとられた聖女は、聖霊の神感をうけ、自分を殺すために準備されていた火の中にとびこんで殉教した。この聖女は、歯の病気の保護者といわれている。

2月10日 童貞、聖女スコラスティカ

 聖女スコラスティカは、西方教会の修道院制度の父祖、聖ベネディクトの妹であった。その生活についてはあまり知られていない。
彼女も、聖ベネディクトの精神にしたがって、他の修道女とともに、修道生活を行っていた。聖ベネディクトは、毎年一度、妹と面会し、その修道生活を指導していた。スコラスティカが最後の訪問の時に、聖女の聖徳が皆の前に明らかにされた。すなわち、夕方近くになって、聖ベネディクトが面会所から自分の修道院へ帰ろうとすると、聖女はそれをひきとめた。しかし、聖ベネディクトが強いて帰ろうとするので、聖女が神に祈ると、大雨となって、遂に聖人は帰ることが出来なかった。そして一晩中、霊的生活について語りあかし、たがいの歓喜をわかち合った。それから三日後、聖ベネディクトは、聖女の霊魂が、白い鳩の形をとって天に上るのを見た。(547年2月10日)

2月11日 無原罪の聖母マリアのルルドにおける出現

 1854年12月8日、教皇ピオ九世は、聖母マリアの無原罪を、荘厳に宣言した。そのわずか四年後、聖母は、教皇のこの宣言を確認するため、羊飼の当時十四歳のベルナデット・スビルー(聖女)に、ルルドにおけるマッサビエルの洞窟で、十八回(1858年2月11日から7月16日までの間に)御出現になった。そして、「私は無原罪のやどりである」とおおせられた。その時以来、ルルドは、聖マリアの恵みと奇蹟との聖地となった。

2月12日 証聖者、聖母マリアの下僕修道会の七人の聖なる創立者

 1233年、イタリア・フィレンツェの近くのセナリオ山に隠遁し、特に聖母マリアの御苦しみを黙想し説教するのを目的とする修道会を創立したフィレンツェの七人の貴族を祝うのが、本日の祝日である。
この七人とは、ボンフィリオ・モナルド、ポチュンタ、マネット、マネット・アンテッレーゼ、アメディアのアメデオ、ウグッチョーニのウグッチョーネ、ソステネイのソステネオ、アレッシオ・ファルコニエーリである。
聖母マリアはかれらに出現され、苦業をシンボルとして黒衣を決め、かれらの聖なる計画を認め給うた。

2月14日 司祭殉教者、聖ヴァレンティーノ

 聖ヴァレンティーノは、ローマの司祭で、また医者でもあった。信仰のために投獄されていた信者たちに特に奉仕し、270年、彼自身も斬首された。

2月15日 殉教者、聖ファウスティーノ、聖女ヨヴィタ

 この二聖人は兄妹であった。120年ごろ、トライアノ皇帝のころ、ブレシア(イタリア)で、信仰のために斬首された。

2月18日 司教殉教者、聖シメオン

 クレオファの子シメオンは、救主イエズスの親戚であった。聖ヤコボの後をついでエルザレムの司教座に上り、トライアノ皇帝のころ、106年、百二十歳をもって十字架にかけられた。

2月18日 童貞、聖女マリア・ベルナデッタ・スビルー

 マサビエルの岩窟において、1858年2月11日から7月16日までに、十八回におよぶ無原罪の聖マリアの出現を見る特権を与えられたベルナデッタは、1844年1月7日、ルルド(フランス)に生まれた。生長してのち、1866年ヌヴェールの愛徳・教職会という女子修道会(ヌヴェール会)に助修道女として入り、マリア・ベルナールと修道名をとり、1879年4月16日帰天した。高い名声と、肉体上の持病にもかかわらず、自家にあっても、修道院にあっても、謙遜な柔和な性質と快活な無邪気な子供らしさを失わなかった。
 1933年12月8日ピオ十一世によって列聖された。

2月18日 司教殉教者、福者ステファノ、ヨハネおよびその伴侶

 十九世紀の半ば、東洋の布教地において、自分の血でカトリックの宗教を宣言した光栄ある信者の数は少なくなかった。そのなかに、本日祝う三十三人の殉教者がある。うち、ステファノ・テオドロ・ケノー司教、ヨハネ・ペトロ・ネール神父、ペトロ・フランチスコ・ネロン神父、ヨハネ・テオファノ・ベルナール神父の四人は、パリー外国宣教会の光栄である。聖ピオ十世によって、1909年、この三十三人は福者に上げられた。

2月22日 アンティオキアにおける聖ペトロの教座の記念

 元来はこの日、ローマにおける聖ペトロの教座を記念していた。そして1月18日は、「聖ペトロの鍵」の記念の日であった。六世紀のころから、ローマにおける聖ペトロの教座と、アンティオキアにおける聖ペトロの教座とを区別して祝うようになった。

2月23日 教会博士、証聖者、司教、聖ペトロ・ダミアノ

 イタリアのラヴェンナに生まれた。(1006年)フナンテ・アヴェラナのカマルドリ修道会の修道士となったとき、自分の研学を援助してくれた兄弟に謝意を表して、その名ダミアノをとった。後に、オスティア市の枢機卿司教となった。教会権の支持と、教会規律の粛正とにおいて、聖グレゴリオ七世の大協力者であった。そして修道者として、教会員として、言行において、範をたれ、1072年2月22日に没した。レオ十二世により、1828年、教会博士にあげられた。

2月24日 使徒、聖マティア

 イエズスの七十二人の弟子のうち、聖マティアは、イスカリオテのユダに代わって、十二使徒の一人に選ばれた。彼は、パレスティナとエティオピアに宣教してのち、その宣教を、殉教をもって証認した。

2月25日(または26日) 殉教者、福者ディダコ・カルヴァリオおよびその伴侶

 ディダコ・カルヴァリオは、1577年ポルトガルに生まれた。イエズス会宣教師として来朝、主として、奥州地方で布教。のち信者とともにとらえられ、1624年2月22日(元和10年1月4日)、仙台で殉教した。

2月27日 証聖者、御悲しみの聖母の聖ガブリエル

 修道者名として”御悲しみの聖母ガブリエル”は、俗名をフランシスコ・ボッセンティといった。1838年、アッシジに生まれた。十字架の聖パウロの創立した御受難修道会に入り、聖アロイジオの如く、若くして聖徳につつまれ、1862年没した。
教皇ベネディクト十五世によって、1920年列聖された。1934年、この聖人の祝日を、全教会で祝うこととなった。

3月の諸聖人の祝日

3月4日 教皇殉教者、聖ルチオ一世

 聖コルネリオ教皇の後をつぎ、253年6月25日から254年3月5日まで教皇であった。異端者に対するたたかいのために再度国を追われた聖ルチオは、ガロ皇帝の迫害の時斬首された。(254年)

3月6日 殉教者、聖女ペルペトゥアと聖女フェリチタ

 貴族の出で、母になったばかりのペルペトゥアと、その奴隷女で、妊娠中だったフェリチタとは、信仰のためにとらえられ、裁判官の前で、勇敢にキリストを宣言し、拷問をうけて、カルタゴの円形劇場で、殉教した。(203年頃)

3月7日 教会博士、証聖者、アクィノの聖トマ

 「天使的博士」と称される聖トマは、アクィノ伯の居城(南イタリア)に1226年生まれ、モンテ・カッシーノのベネディクト会修道者から教育をうけた。のちにドミニコ修道会に入り、比類なき明白さと深遠さとをたたえられつつ、神学哲学を教授し、「神学大全」その他の名著を残した。この本は今も神学の最高峰として読まれている。「アクィノの聖トマの光栄は、人類の光栄である。かれは、人類の最も高き天才の一人だからである。かれは公教会の光栄である。かれは、最も正確に、深く、神学を証明しえたからである。更にまた、キリストの光栄である。キリストはこの高遠な、しかも謙遜な、かれの著作を、自ら証認し給うたからである」(ゲランジュ)
聖トマは、第十四回公会議(リオン第二会議)に行く途中、ローマの近くフォッサ・ヌウオヴァのシトー会修道院で、1274年3月7日帰天した。1323年列聖。1567年教会博士に、1880年カトリック諸大学、研究所の守護聖人にあげられた。

3月8日 証聖者、聖ヨハネ・デ・デオ

 聖ヨハネは、1495年ポルトガルで生まれ、病人を看護する修道会を創立した。この修道会は、看護修士会、または神の聖ヨハネ病院修士会という。四十歳のとき、世俗の生活をすて、以後全く神の聖旨のままに生きた所から、ヨハネ・デ・デオ(神のヨハネ)と呼ばれる。ヨハネは自分の生命をすてて、病人のために献身した。1550年、五十五歳をもって、スペイン・グラナダで没した。
1660年列聖。1886年レオ十三世教皇により、病院と病者との守護者と定められた。

3月9日 ローマの聖女、フランチスカ

 ローマの貴族未亡人、聖女フランチスカは、聖ベネディクトの戒律によって生活する献身者の修道女会を創立した。長い結婚生活にあって、キリスト教的な妻の範をしめし、夫が死んでから、さきに自分が創立した修道会に入った。神秘的な賜をうけた彼女は、自分の守護の天使を見ることが出来た。1440年、五十六歳で帰天した。1608年5月29日、パウロ五世により列聖。

3月10日 殉教者、セバステの四十聖人

 この四十人の聖人は、アルメニアのセバステにおいて偶像にいけにえをささげることを拒んだローマ軍団兵である。多くの拷問をうけてのち、凍りついた夜、水の中にしずめられ、遂に足を折られて殉教した。320年頃のことである。

3月12日 教会博士、証聖者、教皇、聖グレゴリオ一世

 ベネディクト会の光栄の一人、聖グレゴリオ一世は、ローマとコスタンティノープルとにおいて、宗教上、政治上の、重要な役割を果たし、のちに衆望により教皇に選ばれた。教会の規律遵守、イギリス改宗への念願、聖書解釈、典礼と聖歌への情熱などにより、永久に歴史に残る貢献をし、604年3月12日没した。
教会の聖歌をグレゴリアンと称するのは、彼の名からとったためである。

3月15日 聖女ルドヴィカ・ド・マリアック

 1934年に列聖されたルドヴィカ・ド・マリアックは1591年8月12日パリに生まれた。夫の没後、聖ヴィンチェンツィオ・ア・パウロの指導のもとに、愛徳の業を行い、かれとともに愛徳女子修道会を創立した。1660年永眠。この会の目的は、人々のあらゆる苦しみの面に手をのばし、かれらを助けいたわることである。

3月17日 証聖者、司教、聖パトリツィオ

 聖パトリツィオは、アイルランドの使徒といわれている。少年時代に、蛮族の奴隷としてとらえられたが、脱走してローマに来た。のちに司祭、司教となり、チェレスティーノ教皇によって、やがて”聖人の島”と呼ばれるはずの、アイルランドに布教におくられた。
461年没し、キリストの福音の熱烈な使徒とうたわれた。3月17日は、アイルランドでは国祭日であり、また守るべき祝日でもある。

3月17日 キリスト信者発見の、童貞聖マリア

 1865年3月17日、新築間もない長崎の大浦天主堂に来た一団の人々が、プティジャン師(パリ外国宣教会)に、聖堂内の聖母マリア像の前で、浦上旧信者の子孫であることを名のり、「サンタ・マリアの御像はどこにありますか」とたずねた。聖母マリアの恵みとしての、この旧信者発見を、本日、日本の教会で祝うのである。

3月18日 教会博士、証聖者、司教、エルザレムの聖チリロ

 聖チリロは、棄教者ユリアノ皇帝のころ、エルザレムの司教座についていた。求道者に道をとく役を行っていたころ、彼のあらわした教理の本は有名である<集祷文>。
アリウス異端派に対するたたかいのために、三度も司教座をおわれ、386年帰天した。1882年教皇レオ十三世は、この祝日を全教会で祝うことを規定し、教会博士にあげた。

3月19日 聖マリアの浄配 証聖者、聖ヨゼフ

 神の御母聖マリアの浄配であり、神の御子イエズスの養父であった聖ヨゼフは、その生存中は、謙遜なかくれた生活をおくったので、教会史においても、ながらく表面にはあらわれなかった。
本日の祝日についての歴史がはじめてあらわれたのは、十世紀のころである。この日は、イエズスとマリアとに見おくられて去った、聖ヨゼフの光栄ある死の祝日である。
 この聖なる死のために、聖ヨゼフは、よき死をむかえる準備をする保護者とされている。十五世紀以来、聖ヨゼフに対する信心は、ますますひろまった。

3月21日 大修院長、聖ベネディクト

 歴史の転換期において、神は偉大な聖人をおくって教会の、人々に対する使命を達成するのを助け給うのである。ローマ帝国の崩壊、蛮族が欧州の天地を席捲している際にも、聖ベネディクト、聖グレゴリオ一世が相次いで起ったのである。西方教会の修道生活の太祖ともいうべき聖ベネディクトは、480年、ウムブリア(イタリア)のノルチアに生まれた。
彼は、神の聖旨にかなうことのみを求め、少年時代にスビアコの洞穴に隠退し、数多くの弟子がその後を追って来るようになったので、年へて、529年、有名なモンテ・カッシーノの修道院を立てた。547年3月21日、モンテ・カッシーノ修道院聖堂内で六十七歳の生涯をとじた。ベネディクト会における公式祝日は7月1日である。
 この修道院は、ベネディクト修道会の、ようらんである。中世に至って、聖ベネディクトの戒律は、修道生活の法典となり、この修道会は、福音宣教と、そしてヨーロッパ文化の中枢となった。

3月24日 大天使、聖ガブリエル

 聖マリアのお告げを祝う前日のこの日、神の御言葉を告げた大天使ガブリエルを祝う。

3月25日 聖マリアのお告げ

 聖マリアは、原罪をまぬがれ、ふさわしく神の御母となるべく準備されていた。そして、神の御母となったことは、マリアの童貞性を汚すことではなかった。むしろ教父たちのいうように、その童貞性は聖別せられたのである。
聖母マリアにおいて、本日、イザイアの予言が成就した。<書簡>マリアの「なれかし」という返事は、神と人間との間の契約を、永久不変のものとした。御託身の神の国には、もう終わりがないのである。<聖福音>

3月27日 教会博士、証聖者、ダマスコの聖ヨハネ

 東方教会が生んだ最後の博士、シリアのダマスコの聖ヨハネは、聖画像破壊の異端者に対する功績のため、またその神学上の著作のために特に有名である。
聖画像への尊敬を守ろうとする熱心のために、レオネ・イザウリコ皇帝から目をつけられ、その右手を切られたが、しかし、のちに奇蹟によって医された。754年帰天、レオ十三世の時、教会博士にあげられた。

3月28日 証聖者、カピストラノの聖ヨハネ

 イタリアの小さな町カピストラノに1386年生まれた。フランシスコ会司祭。同会のシエーナの聖ベルナルディーノと清い友情に結ばれていた。巡回説教家として多くの人を悔悛にみちびき、またイエズスの聖名に対して篤い信心をいだいていた。トルコ帝マホメット二世がコンスタンティノープルをおとしいれた余勢をかって、ベルグラードに進撃した際、教皇カリクスト三世の命により十字軍を説き、ハンガリア人、フンニャディ・ヤーノシュの助けを得て強力なキリスト教軍隊を結集し、トルコ軍をベルグラードに破った(1453年)。このたたかいによって、回教徒は、ヨーロッパ侵入をはばまれたのである。1456年10月23日帰天した。レオ十三世はその祝日を3月28日とし、全教会で祝うことを規定した。

4月の諸聖人の祝日

4月2日 証聖者、パウラの聖フランチスコ

 フランシスコ会の支会の一つ「最も小さき者の会」(ミニミ)を創立したパウラの聖フランチスコは、霊的父なるアッシジの聖フランチスコの謙遜と清貧とを、生涯守りつづけた。
1416年イタリアのカラブリア州パウラで生まれ、1507年4月2日、フランスのプレシ・レ・トゥールにおいて、九十一歳で帰天。1519年5月1日列聖。

4月4日 教会博士、証聖者、司教、聖イジドロ

 スペインの教会の大聖人である。西ゴート族の侵入ののち、イベリア半島における公教会の再建者として有名である。スペイン・カタルヘナの名門の出身でセビリァ大司教レアンドロ、カルタヘナ大司教フルゼンツィオの二兄、妹で修道女のフロレンティナ、みな共に聖人である。長兄レアンドロ大司教の没後、その後継者となり、セビリァの教会を約四十年間司教として治めた。該博な知識を有し、百科的著述家といわれ、その著書は中世紀に最も弘く読まれたものの一つである。生年は560年頃。636年に没した。ベネディクト十四世の時教会博士にあげられた。

4月4日 教会博士、証聖者、教皇、大聖レオ一世

 教皇、教会博士である聖レオ一世は、二十余年(440年から461年まで)、アッティラがフン族をひきいてイタリアに侵入して来た時代に、公教会を治めた聖人である。
 この聖人の外交によって、ローマは破壊をまぬがれ、アッティラは、パンノニア国に去った。教皇は、また、当時の諸異端と戦った。
 彼の説教と書簡とは、教会教父らの残した著書のうちでも、特に美しいものであり、初代教会の典礼についての、貴重な文献でもある。461年11月10日没。遺物移転の日を祝日とした。1754年教会博士にあげられた。

4月8日 童貞、福者、ユリア・ビアール

 ナミュールのノートルダム修道女会の創立者、福者ユリアは、1751年7月12日、フランスのキュピイに生まれた。彼女は、フランス革命後の混乱のときに、人々にふたたび信仰を取戻させるべく、摂理によって選ばれた聖女であった。1804年2月2日、フランス・アミアンで同志とともに、修道女会を創立した。
 二十二年間病気に苦しめられたが、瞬時も神への信仰を失うことなく、1816年4月8日、六十五歳をもってベルギーのナミュールで帰天した。この修道会の主要目的は、少女教育、公教要理を教えることである。
1906年、聖ピオ十世によって福者にあげられた。

4月13日 殉教者、聖ヘルメネジルド

 スペインの西ゴート族の王で、アリウス派の異端の支持者であったレオヴィジルド王の子であったヘルメネジルドは、セビリァ(スペイン)の大司教、聖レアンドロによって、カトリックに改宗した。
 のちに彼は捕虜となり、父王の命によって、585年4月13日、殺された。

4月14日 殉教者、聖ユスティノ

 彼は異教徒の哲学者であったが、聖寵により、まことの上智が神より出ることを悟り、キリスト教に改宗した。その名著、「護教論」によって守りに立った信仰をのちに、自らの血でもって証認した。166年ローマで殉教。

4月14日 殉教者、聖ティブルツィオ、聖ヴァレリアノ、聖マキシモ

 聖女チェチリアは、祈りによって、夫ヴァレリアノを回心させたが、ヴァレリアノの回心によって、彼の弟ティブルツィオも信者となった。のちにこの兄弟は、偶像をすてたかどで、死刑に処せられた。この二人の、信仰告白の勇気を見て、回心したマキシモも、二人とともに殉教した。(230年ころ、ローマで)

4月17日 教皇殉教者、聖アニチェト

 アニチェト教皇はシリア人であった。聖ピオ一世の後を継ぎ、教皇の位についた。在位は、154-165年。数々の異端とたたかった。また聖ポリカルポはローマに来て復活の祝日の日決定の裁断を教皇に求めた。信仰のため血を流さなかったが、キリストのために苦しんだので、殉教者として崇められている。

4月21日 教皇博士、証聖者、聖アンセルモ

 聖アンセルモは、イタリアのアオスタに生まれ(1033年頃)、フランス、ノルマンディのベックのベネディクト会大修道院にはいった。
 のちに、同所の大修道院長となり、1093年には、イギリスのカンタベリー大司教となり、政府に対して、教会の権利を守って立ち、二回国外に追放されたが、敢然と戦い、終に教会に勝利をもたらした。1109年4月21日帰天した。
 その深い敬虔と学識とのために、1720年教会博士にあげられた。。

4月22日 教皇殉教者、聖ソテル、聖カイオ

 教皇ソテル(166-174年在位)は、マルコ・アウレリオ帝の治下殉教した。
教皇カイオ(283-296年在位)は、殉教しなかったが、信仰のためにはげしい拷問をうけたので、そのために殉教者に加えられている。

4月23日 殉教者、聖ジォルジォ

 カパドキア生まれの軍団兵であったジォルジォは、ディオクレツィアノ皇帝の迫害の時(四世紀のはじめ)、他の信者とともに殉教した。紀元800年以来英国の守護聖人であり、また十四救難聖人の一人である。

4月24日 殉教者、シグマリンゲンの聖フィデレ

 聖フィデレは、南ドイツのシグマリンゲンで、1577年生まれた。有名な弁護士として、またその愛と寛大さとのためにも好評をえていたが、生涯を、信仰の擁護とプロテスタント教徒の改宗とのためにささげようとして、1612年カプチン修道会に入った。フィデレとは修道名である(本名はマルコ・ロイ)。
祈りと仕事において、神との絶えざる通交のうちに生活していた。司祭叙品後、プロテスタントの改宗に活動し、スイスのグラウビュンデン州に布教に派遣され、好結果をあげたが、ゼヴィス町においてカルヴィン派の手にかかり、1612年の本日、殉教した。1746年列聖。

4月24日 童貞、聖女マリア・エウフラジア・ペッレティエ

 聖女マリア・エウフラジアは、1796年、フランスのノワモルティエに生まれ、庇護の愛徳女子修道会に入り、のちに、「よき牧者の修道女会」を創立し、キリストへの愛と多くの霊魂への愛とに献身し、愛徳事業に生涯をささげた。1868年4月24日永眠。1940年5月2日、ピオ十二世により列聖された。

4月25日 福音史家聖マルコ

 聖ペトロの弟子であり、一時、聖パウロの伝道旅行にもしたがった聖マルコは、エジプトに行って宣教し、そこの地で、強力な宣教と努力とののち、有名なアレキサンドリアの教会を創立した。第二福音書の著者である。

4月26日 教皇殉教者、聖クレト、聖マルチェリーノ

 聖クレトは、ローマ人で、三代目教皇(79-90年?在位)、ドミツィアノ皇帝のときに殉教した。聖アナクレト(祝日7月13日)と同一人であるらしい。
聖マルチェリーノもやはりローマ人で、296年から304年まで、教皇の座についた人である。ディオクレツィアノ帝の迫害の時殉教。

4月26日 よきすすめの聖母

 ローマ近郊のジェナツァノでは、よきすすめの聖母の奇蹟の聖絵が、五世紀前から大いに信心を集めている。

4月27日 教会博士、証聖者、聖ペトロ・カニジオ

 聖ペトロ・カニジオは、オランダのネイメーゲンに生まれ(1521年)イエズス会に入り(1543年)、ドイツにおけるルーテルの異端に対し、説教と著作をもってたたかいつづけ、「異端者への鉄槌」、あるいはドイツの使徒聖ボニファチオに対し「第二のドイツの使徒」と称揚された。最初の教理問答書の著者であり、ラインランド、オーストリアがカトリックの信仰を持続し得たのは、彼の活動努力の結果である。
 七十六歳をもって、1597年12月21日、スイスのフライブルクで逝去し、1925年5月21日、ピオ十一世によって聖人の位に上げられ、教会博士と宣言された。

4月28日 証聖者、十字架の聖パウロ

 十字架の聖パウロの生涯は、その修道名が示す如く、わが主イエズス・キリストの十字架と受難とへの熱愛という一言につきる。救主の受難と御死去を説教するを目的とする受難修道会を創立した。さらに数年後、同名の修道女会も創立した。
 パウロ・フランチェスコ・ダネイ(本名)は、1694年イタリアのピエモンテ州オヴァダで生まれた。
1775年10月17日、帰天。1867年ピオ九世により列聖された。

4月28日 殉教者、聖ヴィタレ

 兵卒であって、聖ジェルヴァジオと聖プロタジオの父親であった聖ヴィタレは、拷問されていた信徒たちを元気づけたかどで、171年、イタリア・ラヴェンナにおいて殉教した。

4月28日 聖ルドヴィコ・マリア・グリニョン・ド・モンフォール

 この聖人は、フランス・ブルターニュのモンフォールで、1673年1月31日、生まれた。サン・シュルピス神学校に学んで後、ポアティエの病院付司祭となり、1703年、ここに病者を世話する叡智童貞会を創立した。更に後にマリア宣教会も創立した。
親しみある聖母崇敬、小児に対する献身的な愛、完き克己、これが全く超自然に根ざす彼の聖徳の根本特徴である。
十七世紀末期において、第二のヴィンチェンツィオ・フェレリオとうたわれ、聖母マリアと主の御受難とに対する信心のために、特に有名である。彼の使徒的著作のうち、「聖母へのまことの信心」は、最も広く読まれている。1716年4月28日、サン・ロラン・シュール・セーヴル(フランス)で永眠した。

4月29日 殉教者、ヴェロナの聖ペトロ

 この聖人は、1205年頃イタリアのヴェロナで生まれた。両親はカタリ派の異端者であった。ドミニコ会に入り、異端者を回心にみちびく宣教に、特に熱心であった。
異端者たちの手にかかり、1252年4月6日に殺された。信経をとなえつつ帰天したといわれる。翌年(1253年)列聖された。

4月29日 大修院長、聖ロベルト

 ロベルトは1018年シャンパーニュ州(フランス)のトロアの近くで生まれた。十五の時、ベネディクト会に入った。のち、モレームの修道院の院長の職にあったとき、当時の弛緩した修道院生活にあきたらず、厳格な、刷新的生活をもって、修道院理想にまい進するため、修道院を去り、同志とともにシトーにおいて、1108年3月21日、聖ベネディクトの祝日に新修道会を創立した。これは創立地名にちなんで、シトー会と呼ばれている。1110年3月21日永眠。

4月30日 シエナの聖女カタリナ

 シエナの聖女、ドミニコ会の第三会会員聖女カタリナは、1347年イタリア・シエナのベニンカザ家に生まれた。幼少の時からイエズスの示現、脱魂等の特別な神の聖寵をうけた。後年、灰の水曜日から、御昇天の祝日までの間、断食を行って、聖体だけで生きることがあった。
彼女は、シエナでペストがはやったとき、大なる愛徳を示した。また、教皇聖座をアヴィニョンからローマに戻すために、神はこの聖女を起用し給うた。彼女はまた祈りと苦業の生活をつねにしていた。霊感にみちびかれた彼女は、神秘の著書を記し、聖痕をうけていた。
1380年、三十三才をもって、ローマにおいて、永遠の婚宴の席に昇った。1461年列聖。ピオ十二世は1939年6月18日付教皇書簡をもって、アシジの聖フランチスコ、シエナの聖女カタリナをイタリアの第一の守護聖人と定めた。

5月の諸聖人の祝日

5月1日 証聖者、童貞聖マリアの浄配、勤労者聖ヨゼフ

 ピオ十二世教皇は、勤労の日である五月一日を、キリスト教的に聖別し、キリスト信者の勤労者の模範として聖ヨゼフを祝う意向をもって、1955年5月1日、この祝日を定めたのである。
 勤労は、神が人間にお定めになった法則であるが、<集祷文>これはまた、人の精神的物質的向上のために必要なものである。それで、人は機械的労働の奴隷となることはできず、自分の利己的な目的のためだけに、他人の勤労を利用することもできないのである。
 <入祭文>には、「主が家を建て給わないならば、人が建てても無駄である」と記してあるが、これがキリスト教的勤労の原理である。
勤労者のかたわらには、イエズスがある。聖ヨゼフがそうであったように。もしこの原理が守られれば、人間の社会は、正義と愛徳との上に建設されるのである。
五月一日を、暴力や憎悪やあらそいの機会とせず、人間同志の兄弟愛を固めるのに役立てなければならない。「ナザレトの謙遜な勤労者は、神と教会との前に、勤労者の威厳を身をもって示し、また摂理によって、勤労者とその家族との模範と保護者とになるべく定められたお方である。」(ピオ十二世)

5月2日 教会博士、証聖者、司教、聖アタナジオ

 エジプトのアレキサンドリアのこの偉大な司教は、アリウス派の異端に対するたたかいのために、特に有名である。彼は、三度、司教座を追われたが、三度かえり、373年、功徳をつんで帰天した。

5月3日 聖十字架の発見

 聖女ヘレナ皇后が、奇蹟的にキリストの聖十字架を発見したことを(320年)はじめて書き伝えたのは、聖アムブロジオである。
聖遺物の中でも最も尊いこの聖十字架を本日祝おうとするのである。
本日のミサは、十字架を、拷問の刑具としてではなく生命の泉なるもの、キリストの復活と光栄のもとなるものとして考えている。

5月3日 殉教者、教皇、聖アレキサンドロ、殉教者、聖エヴェンツィオ、聖テオドゥロ、司教証聖者、聖ユベナレ

 教皇アレキサンドロは、107-116年(?)まで教皇の位にあり、前記二司祭とともに、116年頃殉教の栄を得た。アレキサンドロの名は、ミサ典文中に出る。聖ユベナレは、ナルニ(イタリア)の司教で、377年帰天した。

5月4日 聖女モニカ

 聖アウグスティノの母聖女モニカは、その祈りによって、わが子の回心をえたので有名である。332年カルタゴでキリスト信者を両親として生まれた。外教者に嫁し終に夫を回心させた。アウグスティノの回心後、わが子とともにアフリカに帰国する途中、387年オスティアで帰天した

5月5日 教皇証聖者、聖ピオ五世

 ドミニコ会の修道者であった教皇ピオ五世は、教皇としての在位期間は短かったが(1566-1572年)、その教会規律の改革と、典礼の改正とによって特に有名である。彼が在位中、トルコ人に対するレパントの海戦(1571年10月7日)の、あの大勝利があった。彼は、聖マリアのとりつぎによって、この勝利がえられたと宣言した。1504年イタリアに生まれ、1572年5月1日帰天した。1712年列聖。

5月6日 ラテン門外の使徒 聖ヨハネ

 古い承伝によると、福音史家聖ヨハネは、にえたぎる油のかまどに投げこまれ、これによって主を宣言したが、しかし、奇蹟的に死をまぬがれた。これは、ローマのラテン門外での出来事である。

5月7日 司教殉教者、聖スタニスラオ

 クラコビア(ポーランド)のこの聖司教は、王の不倫をとがめたかどにより、1079年5月8日、殺された。インノチェンツィオ四世教皇により、1253年、列聖された。

5月8日 大天使聖ミカエルの出現

 この祝日は、495年ごろ、アプリアのシポンテ市(イタリア)の附近にあるガルガノ山における、大天使聖ミカエルの出現を記念する。
 この山に建てられた大聖堂には、年々多くの巡礼者がおとずれる。

5月9日 教会博士、証聖者、司教、ナツィアンツォの聖グレゴリオ

 カパドキア生まれの聖グレゴリオは、大聖バジリオの研究の友であり、終生、親交をもった。彼は、ある期間アテネに住んだが、のちに砂漠に隠遁した。しかし更によび出されて、コスタンティノープルの大司教の座にのぼった。
 「異端者への鉄槌」として名をのこし、389年、あるいは390年に帰天した。

5月10日 司教証聖者、聖アントニーノ

 1389年、フィレンツェに生まれたカパドキア生まれの聖アントニーノは、十六才のときドミニコ会に入って厳しい生活をおくった。教皇エウジェニオ四世によって、そのすぐれた学徳をみとめられ、フィレンツェの司教となり、1459年5月2日帰天した。1523年アドリアノ六世教皇により列聖。

5月10日 殉教者、聖ゴルディアノと聖エピマコ

 聖ゴルディアノは、362年、棄教者ユリアノ帝によって殺された裁判官である。彼の屍は、252年にローマに屍を移されたアレキサンドリアの殉教者聖エピマコと同じ墓におさめられている。

5月11日 使徒 聖フィリッポ、聖小ヤコボ

 聖フィリッポはキリストの最初の弟子の一人であった。フリジアに福音を宣教し、そこで殉教した。 
小ヤコボは、アルフェオの子で主イエズスの親戚に当たっていた。書簡が一つ、現代でも残っている。エルザレムの最初の司教となり、三十年間司牧してのち、殉教した。

5月12日 殉教者、聖ネレオ、聖アキレオ、聖女ドミティッラ、聖パンクラツィオ

 聖ネレオと聖アキレオとは兄弟で、ローマ軍隊の兵士。聖ペトロの手から洗礼を受けた。この二人は、聖女フラヴィア・ドミティッラの家につかえていて、彼女とともに殉教した。(98年)
 小アジアのフリジア生まれの聖パンクラツィオは、ディオクレツィアノ皇帝のころローマに来て、ここで洗礼をうけ、十四才で殉教した。(304年)

5月13日 教会博士、証聖者、司教、聖ロベルト・ベラルミーノ

 ロベルトは、1542年イタリア・モンテプルチアーノの貴族ベラルミーノ家に生まれた。十八才のときイエズス会に入り、のちにルヴァン大学で神学教授として名声をはせた。1598年クレメンテ八世教皇により枢機卿にあげられ、1602年、カプア大司教となった。1605年ローマに呼ばれ、ヴァチカン図書館長の職に就くとともに、代々の教皇の神学顧問をつとめた。その著作によって、公教会の信仰を異端説から守った。1621年9月17日帰天。
 ピオ十一世教皇により、列福(1923年)、列聖され(1930年6月29日)、翌年の1931年8月15日教会博士と宣言された。

5月14日 殉教者、聖ボニファツィオ

 聖ボニファツィオは、306年ごろ、ディオクレツィアノとマキシミノ皇帝のとき、小アジアのタルソ市で殉教した。

5月14日 童貞、聖女マリア・ドミニカ・マザレッロ

 マリア・マザレッロは、聖ヨハネ・ボスコが、摂理によって、扶助者聖マリア女子修道会を創立したとき、最初の角石として選んだ人で、福音にある”かくされた宝”である。1837年、セルネーゼ(北イタリア)に生まれた聖女は、娘時代も、修道女になってからも、謙遜から生まれる上智をあらわし、聖体と聖母とへの信心が、ことのほかあつかった。1881年永眠し、1951年、ピオ十二世によって列聖された。

5月14日 童貞、聖女ジェムマ・ガルガーニ

 聖女ジェムマ・ガルガーニは、中央イタリアの小さな町カミリアーノに、1878年3月12日に生まれた。幼いときから修道女になろうとのぞみ、御受難修道女会に再三入ろうとしたが、身体が弱かったので、拒絶されて入れなかった。
長い病中には、キリスト教的忍耐の模範を人々に示し、幻視と脱魂の恵みに浴し、のちには主の御傷を身にうけた。1903年4月11日、ルッカにおいて、二十五歳でこの世を去った。1940年5月2日、聖人に上った。

5月14日 童貞、福者カノッサのマッダレーナ

 有名な貴族カノッサ侯爵家の、マッダレーナ・ガブリエッラは、1774年3月2日、ヴェローナ(北イタリア)に生まれた。この世の栄華をすべてすてた聖女は、こひつじの花嫁、貧しいものの支え、少女たちの守護の天使となり、封鎖されていたヴェローナの聖ヨゼフ修道院を、ナポレオン一世からもらいうけ、三十三歳の時、ここに新しい修道会をひらいた。
その昔のカノッサのマティルデと同じく、この聖女も常に教皇の忠実なはしためであり、ある意味で、現代カトリック運動の先駆者であった。彼女の修道会「愛徳の娘たちの修道会」(カノサ会、1808年5月5日ヴェローナで創立)は悲しみの聖母の御保護のもとにある。1835年永眠。1941年、福者となった。

5月15日 証聖者、聖ヨハネ・バプティスタ・ド・ラ・サル

 聖ヨハネは、1651年フランスのランスで生まれた。ソルボン大学、サン・シュルピス校等で神学をおさめ、司祭叙品後、「キリスト教学校修士会」を創立した。
この修道会は、貧しい青少年を教えみちびくのを目的とする。「近代教育学の父」と称されている彼は、聖い生活をおくり、1719年4月7日聖金曜日、ルアンで帰天し、レオ十三世教皇により、列福、列聖(1900年)された。

5月16日 司教証聖者、聖ウバルド

 聖アウグスティノ律修参事会員であった聖ウバルドは、自分の生地グビオ(イタリア)の司教となり、霊魂のための熱心と苦業と祈りとのために特に聖徳のほまれが高かった。1160年帰天した。神は悪魔に打ちかつ特別の力を彼に与え給うた。<集祷文>

5月17日 証聖者、聖パスカーレ・バイロン

 1540年スペインのアラゴン国トレエルモサの農家に生まれた。少年時代を羊飼いとして過ごし、1564年フランシスコ会に入り助修士となった。天使のような清浄さと信心をもって、フランシスコ会の光栄の一人となった。また、聖体への信心のために特に有名である。
自身前もって告げたように1592年5月17日聖霊降臨の祝日に帰天した。
列福(1618年)、列聖(1690年)。レオ十三世は、1897年この聖人を、聖体大会と聖体に関係ある事業・信心会の守護者とした。

5月18日 殉教者、聖ヴェナンツィオ

 アンコナ附近のカメリーノ(イタリア)の少年であった聖ヴェナンツィオは、十五才のとき、信仰を守って殉教した。(250年頃)

5月18日 童貞、福者、イエズスの聖心のラファエラ・マリア

 福者ラファエラ・マリアは、ペドロ・アバッド(スペイン)に生まれた。十五歳の時、童貞女の私誓願を立て、女子修道会に入った。後に、イエズスの聖心への侮辱をつぐのい、女子教育を目的とする聖心侍女会を創立し(1877年4月14日)、修道女として、修道会の総会長として、謙遜と忍耐との模範をのこし、1925年1月6日帰天、1952年5月18日、福者に上った。

5月19日 教皇、証聖者、聖ペトロ・チェレスティーノ

 イタリア・アブルッツィ州イゼルニアに1210年生まれた。モロネ山に隠修し、後にベネディクト会の分会、チェレスティノ会を創立した。1294年7月5日、教皇に選出され、チェレスティーノ五世となった。五ヶ月後、彼は、その座をゆずり、再び、隠遁生活にもどり、1296年帰天した。

5月19日 童貞、聖女プデンツィアナ

 ローマの元老院議員、プデンテの娘、プデンツィアナとその妹プラッセーデ(祝日、7月21日)とは、ローマの教会発展のために、大いにつくした人である。(二世紀)

5月20日 証聖者、シェナの聖ベルナルディーノ

 シエナに近いマッサ・マリティマの貴族の子息として1380年9月8日に生まれた聖ベルナルディーノは、少年時代から、貧しい人々に愛徳をほどこし、のちにフランシスコ会員となりイエズスの聖名(みな)に対する信心をのべつつ、各地に布教した。フランシスコ会の規律を刷新し、1438-42年まで、会長総代理の職にあった。1444年5月20日、アクティラ市で帰天した。1450年列聖。美術において同聖人は、イエズスの聖名の組合せ文字IHSを胸にいだいているのをもって表されている。

5月22日 殉教者、福者ヨハネ・バプティスタ・マカドおよびその伴侶

 ヨハネはポルトガルのイエズス会司祭で、1617年4月29日(元和3年3月24日)、フランシスコ会のペトロ師とともに、大村で殉教した。

5月22日 福者ホアキナ・デ・ベドゥルーナ

 1783年、バルセロナ(スペイン)に生まれた福者ホアキナは、十六年間、妻として母としての義務をキリスト教的に果たし、夫に死別したのち、1826年、主として女子青年教育を目的とする「愛徳カルメル修道女会」を創立した。(同年2月26日)
「私は、あらゆる人々の要求にこたえたい」という彼女ののぞみどおり、この修道会は全世界にひろまった。1854年8月28日永眠。1940年列福。

5月25日 教皇証聖者、聖グレゴリオ七世

 1020年頃イタリアのトスカナ州ソアナで生まれた。ベネディクト会の修道者であったヒルデブランドは、五人の教皇の顧問をつとめてのち、グレゴリオ七世の名をとって教皇の位についた。
当時の教会は数多くの困難な問題に当たっていたが、彼はよくそれをのり切り、教会の権威を守った。特に教会の規律の粛正のために努力し、任職権の紛争において後世に名を残した。
ドイツのハインリッヒ四世に追われ、サレルノに難をさけ、「私は正義を愛し、不正を憎んだ。それ故に、配所において死す」といい残して没した。1085年のことであった。1728年列聖。

5月25日 教皇殉教者、聖ウルバノ一世

 ウルバノ一世(222-230年在位)は、ローマの多くの貴族(その中には聖女チェチリアの許婚者ヴァレリアノとその弟ティブルツィオもあった)を回心させ、230年頃殉教した。

5月25日 童貞、聖女マグダレナ・ソフィア・バラ

 ジュワニイ(フランス)において、1779年12月13日に生まれたこの聖女は、女子青少年の教育のために「聖心修道女会」をアミアンで創立した。(1800年11月21日)。生涯、多くの苦しみに遭った彼女のモットーは、「どんな人から与えられる苦しみにもたえ、どんな人にも負担をかけない」ということであった。
 1865年5月24日、ピオ十一世によって列聖された。

5月26日 証聖者、聖フィリッポ・ネリ

 オラトリオ会の創立者、聖フィリッポ・ネリは、フィレンツェに生まれた(1515年)。三十六才のとき叙品されたが、その頃、もうひろく彼の愛徳は知れわたっていた。
神と人々の救いとに対する彼の奮闘は、死のその時までつづいた。1595年の本日、帰天した。1622年列聖。

5月26日 教皇殉教者、聖エレウテリオ

 ギリシァ人。聖ソテロの後を継いだ教皇エレウテリオ(174-189年在位)は、聖イレネオの証言によれば、二世紀末に、十五年間教皇の座についていた。

5月27日 教会博士、証聖者、聖ベダ

 ベネディクト修道会と、イギリスとの光栄とうたわれる聖ベダの学徳は、八世紀に、あまねく知れ亘っていた。
かれの聖書解釈は、その在世中から聖堂で朗読されていた。また、かれの「イギリス史」も有名で、英国史の父と呼ばれている。735年5月25日、御昇天の祝日の前日、九十才の高齢をもって没したが、その臨終の言葉は、「願わくは、聖父と聖子と聖霊とに、光栄あれ」であった。レオ十三世により、教会博士と宣言された。

5月27日 教皇殉教者、聖ヨハネ一世

 トスカナ出身のこの教皇(523-526年在位)はイタリアを支配したアリウス派の異端者であった東ゴート族のテオドリコ王に獄に投ぜられ、526年5月28日逝去した。

5月28日 司教証聖者、カンタベリーの聖アウグスティノ

 本日はイギリスの大なる使徒聖アウグスティノを祝う。
聖アウグスティノは、ローマの聖アンドレア・ベネディクト会修道院の修道士であったが、グレゴリオ一世教皇によりイギリスに派遣され、ベネディクト会の修道士四十名をつれて597年同地に到着、宣教に従事した。エーテルベルト王のころ、彼は、カンタベリーの初代大司教となり、604年に帰天した。(イギリスでは、5月26日[フィリッポ・ネリ、エレウテリオの記念をもって]祝う。)

5月29日 童貞、パッツィの聖女マリア・マグダレナ

 イタリア・フィレンツェの貴族パッツィ家の娘、マリア・マグダレナは、1566年に生まれた。十才のとき終生童貞をまもる誓願を立て、十五才のとき、「天使らの聖マリア」の跣足カルメル会に入った。罪人と未信者の回心のため祈るとともに、数々の苦業をした。
彼女の生活は、超自然と不思議とにみたされていた。長らくの病床にあったが、「主よ、死ではなく苦しみを与え給え」と祈っていた。1607年5月25日、四十一才で帰天した。その遺骸は、今も腐敗せず保存されている。1699年クレメンテ九世により列聖された。

5月30日 教皇殉教者、聖フェリチェ一世

 聖フェリチェ一世は、アウレリオ皇帝のころ、269年から274年まで、教会を統治した。
ミサ聖祭を、殉教者の墓の上で行うように定めたは、この教皇である。殉教してのち、彼自身がアウレリア通りにつくった大聖堂に葬られた。

5月31日 元后、童貞聖マリア

 古い聖伝や典礼などの文献にすでにあらわれている聖マリアの元后としての位は、神の母としての資格にもとづいている。「聖母を元后と宣言するのは、ただに神の母だからではなく、神の思召によって、人類の救霊事業において果たしたその役割のためである」(ピオ十二世)「キリスト信者は、この偉大な元后を尊び、その徳にならい、互に兄弟性をかため、ねたみと富の慾望とをなげうち、社会愛を押しすすめ、貧しい人の権利をおかさず、平和を愛するものである」(ピオ十二世)1954年10月11日、ピオ十二世教皇は、この日を全教会の祝日として5月31日に祝うよう定めた。

5月31日 童貞、聖女ペトロニッラ

 聖女ペトロニッラは、ローマのアウレリア家の人である。ある壁画を見れば、聖女は殉教者であったらしい。殉教者だけに典礼を行っていた昔の慣習が、ここにのこっているようである。
ある伝説では、聖ペトロの弟子だといわれている。彼女の聖遺物は、ローマの聖ペトロ大聖堂にある。

6月の諸聖人の祝日

6月1日 童貞、聖女アンジェラ・メリチ

 聖女アンジェラは、イタリアのヴェローナ教区のガルダ湖畔テゼンザノの豪家メリチ家に1474年生まれた。フランシスコ会第三会員。彼女は、聖地に巡礼してのち、ローマに至り、聖女ウルスラの保護のもとに、一つの修道会を立てようと決心した。
彼女の立てたこのウルスラ修道会(1535年)は、主として少女の教育を行っているが、少女教育のため創立されたカトリック教会最初の修道会である。1540年1月27日、ブレッシアで帰天。1807年ピオ七世により列聖され、この列聖日が祝日と定められた。

6月1日 殉教者、福者アルフォンソ・ナヴァレテおよびその伴侶

 アルフォンソは、ドミニコ会日本管区長であった。1617年6月1日(元和3年4月28日)、アウグスティノ会のフェルナンド師とその忠僕田中レオとともに高島で殉教した。。

6月2日 殉教者、聖マルチェリーノ、聖ペトロ、司教殉教者、聖エラスモ

 祓魔師の聖ペトロは、自分のとじこめられた牢獄の番人の一家を回心させた。
彼と、その回心した一家に洗礼をさずけた司祭のマルチェリーノとは、拷問され、遂に首をはねられた。(四世紀のはじめ)この両殉教者の名は、ミサの典文中に見える。
元リバノンの隠遁者で、カンパニアの司教であった聖エラスモは、303年ごろ殉教した。

6月4日 証聖者、聖フランチスコ・カラッチョロ

 ナポリ王国の貴族カラッチョロ家に生まれた(1563年)。アッシジの聖フランチスコの崇敬者の一人で、誓願を立てた時に、その名を受けた聖フランチスコ・カラッチョロは、1588年ヨハネ・アウグスティノ・アドルノとともに、「小さき律修聖職者会」を創立した。
生涯、熱心に聖体の信心と聖母マリアへの崇敬をひろめ、最初の総会長職にあった。1608年6月4日、聖体の祝日の前日、ローマで帰天した。1807年ピオ七世により列聖。

6月5日 司教殉教者、聖ボニファツィオ

 英国に生まれてベネディクト会の修道者となったウィンフリッドは、フリジアに宣教するために、八世紀半ば頃ヨーロッパに渡った。
彼は、ローマで、教皇グレゴリオ二世によって、ボニファツィオと改名された。そして司教として、ドイツの宣教に派遣された。こうして彼は、各地に大修道院をつくる他、マインツ大司教(747年)にあげられ、いくたの宣教活動を行い、754年、他の改宗者とともに、フリースランドで逆殺された。
現在、ドイツの使徒と称せられて、ひろく尊崇を集めている。(ドイツでは、二級大祝日)その遺体は、彼の創立した有名なフルダの大修道院にある。

6月6日 司教証聖者、聖ノルベルト

 ドイツ・ケルンに近いクサンテンの貴族の家に生まれた(1082年頃)聖ノルベルトは、司祭となってのち、プレモントレの荒地にしりぞき、1121年、聖アウグスティノの戒律にしたがうプレモントレ修道会を、そこに創立した。
1134年、マグデブルグの大司教として没した。聖体に対する信心の熱烈な使徒であった。1582年グレゴリオ十三世により列聖。

6月9日 殉教者、聖プリモと聖フェリチアノ

 この二人はローマ人で、兄弟であった。ディオクレツィアノ皇帝の時、303年、ローマで殉教した。

6月10日 聖女マルガリタ王妃

 英国王エドマンド・アイアンサイドの孫娘にあたる、スコットランド王マルコルム三世の王妃、聖マルガリタは、王座にあって、愛徳と節制との美しい模範を示した。
彼女は、模範的な母(六人の王子、二人の王女)であると同時に、その国におけるキリスト教の儀式を盛大にするために大いに尽力した。貧しい人々や不幸な人々に対するその愛徳は、公教会の歴史にかがやかしく名をとどめた。1050年頃生まれ、1093年11月16日没。自分が建てたダンファーティンのベネディクト会大修道院に葬られた。1251年列聖。彼女はスコットランドの守護者として尊ばれている。

6月11日 使徒、聖バルナバ

 イエズスの七十二人の弟子の一人。バルナバが使徒と呼ばれるのは、本日のミサで朗読されるとおり、聖霊によって、異邦人に福音をのべるべく選ばれたからである。また、聖マティアと同様に、キリストの復活の証人でもあった。
バルナバは、ある期間、聖パウロの伝道旅行にしたがっていた。多くの人々をキリストに改宗させ、のちに故郷のクプロ島で、ユダヤ人から石殺しにされた。(63-76年までの間)

6月12日 証聖者、サン・ファクンドの聖ヨハネ

 聖ヨハネは、スペインのサン・ファクンドに1849年生まれた。(サン・ファクンドは略してサアグンという所から、サアグンの聖ヨハネともいう)。そしてベネディクト会の修道士から教育をうけた。やがて司教座聖堂付参事会員となったが、のちに、かつて重病の際にした誓願を守り、アウグスティノ隠修士会にはいった。厳しい生活と深い愛の人、人々を和睦させる人として知られ、1479年6月11日帰天。1690年、アレキサンドロ八世教皇により列聖された。

6月12日 殉教者、聖バジリデ、聖チリノ、聖ナボレ、聖ナザリオ

 この四人はローマ軍団兵で、ディオクレツィアノ皇帝のころ殉教した。

6月13日 教会博士、証聖者、パドヴァの聖アントニオ

 パドヴァの聖アントニオは、1195年ポルトガルのリスボン市に生まれ、1220年、聖フランシスコ会に入った。彼はポルトガルに、次いでイタリア各地で福音を説教し、神学者として民衆説教家として異端と戦った。その信仰、その単純さ、その謙遜のゆえにキリスト教的生活の模範としてたたえられた。1231年6月11日、イタリア・パドヴァで没し、翌年グレゴリオ九世により列聖された。その聖遺物は、彼に奉献された聖堂に安置されている。1946年、ピオ十二世により教会博士と宣言された。

6月14日 教会博士、証聖者、司教聖バジリオ

 小アジアのカパドキアのチェザレアに329年生まれた。ナツィアンツォの聖グレゴリオ(5月9日)の学友であった聖バジリオは、東方の修道生活の父祖と立てられている。また、アリウス派異端とのたたかいにおいて有名であり、神学者として多くの著作をした。
 カパドキアのチェザレアの大司教として、379年1月1日没した。彼が司教に叙階された記念日を、その祝日とする。

6月15日 殉教者、聖ヴィト(或はグィド)、聖モデスト、聖女クレセンツィア

 聖ヴィト(叉はグィド)は、父親に知らせず子供のころ洗礼をうけ、モデストとクレセンツィア夫婦の手によって教育され、四世紀のはじめ頃、三人とも殉教した。

6月18日 教会博士、証聖者、助祭、シリアの聖エフレム

 シリアのニシビスで303年ごろ生まれた。ペルシァ人がニシビス町を占領したとき、エデッサに難を避け、そこで助祭に叙品され、生涯とどまった。謙遜のため司祭にならなかった。すべての異端、特にアリウス派異端に対するまことの信仰のチャンピオンであった聖エフレムは、シリア教会の大神学者であった。また詩人でもあり、キリスト、聖母、諸聖人について、詩、讃美歌をつくり、それがシリア語であったため、民衆に親しまれ、これにより、アリウスの異端から人々の信仰を守った。特に聖母に対する讃美歌は有名である。397年没。
 「聖霊のたてごと」と敬称を与えられ、1920年ベネディクト十五世によって、教会博士と宣言された。

6月18日 殉教者、聖マルコ、聖マルチェリアノ

 この二人の殉教者は兄弟で、304年ごろ、ローマにおいて、血をもってキリストを宣言した。

6月19日 童貞、聖女ユリアナ・ファルコニエリ

 1270年イタリア・フィレンツェの貴族ファルコニエリ家に生まれたユリアナは、十六才のとき、童貞の誓願を立て、聖母マリア下僕会の第三会員になった。1304年聖母マリア下僕会に属する「無袖被布修道女会」を創立した。この聖女の特徴は、主として愛徳と祈りと苦業の精神であった。その臨終に際し、奇蹟的な方法で聖体を拝領した。1340年帰天した。1737年列聖。

6月19日 殉教者、聖ジェルヴァジオ、聖プロタジオ

 この兄弟は、170年頃、ミラノ(イタリア)において殉教した。伝説によれは、ラヴェンナの聖ヴィタレ(4月28日参照)の子息である。長い世紀の間、信者の絶大な信心をうけており、今も「諸聖人の連祷」にその名がのこされている。

6月20日 教皇殉教者、聖シルヴェリオ

 聖シルヴェリオ(536-537年在位)はキリスト単意説の異端者コンスタンティノープル大司教、アンティモスをみとめなかったので、テオドラ女帝のにくむ所となり、小アジアに追放された。のちにローマに戻ったが、再び追放され、その労苦のために没した。

6月20日 殉教者、福者フランチスコ・パチェコとその伴侶

 ポルトガルのイエズス会司祭、フランチスコは、1626年、6月20日(寛永3年閏4月26日)、他の八名とともに長崎で殉教した。

6月21日 証聖者、ゴンザーガの聖アロイジオ

 聖アロイジオは1568年イタリア・ロンバルディアのカスティリオーネ城において貴族ゴンザーガ家の長子として生まれた。輝く純潔こそ、この聖人の特質というべく、聖会は「主はかれを、天使よりもやや低くおき....」との言葉をもって、その完き純潔をたたえている<入祭文>。聖カロロ・ボロメオから初聖体をうけた。<聖体拝領誦>すでに九才のおり終生童貞の誓願を立て、宮廷生活にあっても当時の悪風に染むことがなかった。長子としての一切の権利を弟にゆずり、1585年ローマのイエズス会に入った。節慾をはげみ苦業を行った。修学修士のとき、ペスト患者の看護中感染して、1591年6月21日、二十三才で没した。
1605年列福。1726年列聖。ベネディクト十三世は、彼を青年の特別保護者、模範と宣し、ピオ十一世はカトリック青年の守護者と宣布した。

6月22日 司教証聖者、ノラの聖パウリノ

 ポンティオ・メロピオ・アニチオ・パウリノは、354年ごろ、ボルドー(フランス)で生まれた。ガリアの執政官であったが、受洗して、その栄職も財もすて、司祭となり、イタリアのノラで隠修者の生活に入った。410年ノラの司教に推され、413年この町で没した。徳行高い生活をもっ衆に範を示したばかりでなく、民族移動の当時にあって、病者、困窮者に愛の手をのべた。彼の詩、書簡の多くは現存している。

6月23日 洗者、聖ヨハネ誕生の前日

6月24日 洗者、聖ヨハネ誕生

初代教会の昔から、大なる尊敬を集めていた洗者ヨハネの誕生日を本日祝うのであるが、聖人の誕生日を祝うのは、聖母マリアの誕生日と本日との二つだけである。
他の聖人らは、原罪を持って生まれるが、聖ヨハネは、生まれるに先に聖とされていたのである。こうして、洗者は苦業の生活をおくり、救主の道を準備した。
その後、ヘロデ王の不倫をとがめたかどにより、その首をはねられた(8月29日の祝日を見よ)

6月25日 大修院長、証聖者、聖グリエルモ

1085年ヴェルチェッリ(イタリア)に生まれた聖グリエルモは、十六才のとき、スペインのコムポステラの聖ヤコボ聖堂に巡礼した。イタリアに帰ってから、南イタリアのアヴェリノ市に近いモンテ・ヴィルジリアーノ(のちに聖母にあやかるため童貞山[モンテ・ヴェルジネ]と改称)に退いて隠修士の生活に入り、のち、聖ベネディクトの戒律による隠修士の修道会を立て、1142年の本日、帰天した。

6月26日 殉教者、聖ヨハネ、聖パウロ

ローマ人で、兄弟であったヨハネとパウロとは、全財産を貧しい人々に分け、のちに、偶像をに香をささげることを拒んだかどにより、棄教者ユリアノ皇帝のとき、ローマで362年殉教した。この二人の名は、ミサ聖祭の典文と「諸聖人の連祷」中に見える。

6月28日 司教殉教者、聖イレネオ

125年ごろ、小アジアに生まれた聖イレネオは、福音史家聖ヨハネの弟子であった聖ポリカルポに教えられ人である。
 リオン(フランス)の司教となり、東方教会とラテン教会との、聖伝の忠実な伝承者となった。彼の数多い著作の中で、異端を反駁する五つの著書が残っている。単に護教家であったばかりでなく、偉大な神学者でもあった。彼のグノーシス派異端を駁した著作中に、すでにローマ聖座の首位権の論証を見出すことが出来るのである。
セッティミオ・セヴェロ皇帝の迫害のとき、殉教した。(202年)

6月28日 使徒、聖ペトロ、聖パウロの前日

6月29日 使徒、聖ペトロ、聖パウロ

 使徒のかしらであるこの二人は、自分たちの血でもって、キリストの教えを証明した。この二人は、死ぬまで、師なるイエズスに忠実であった。ペトロは十字架につけられ、ローマ市民のパウロは、首をはねられて、ともに殉教した。
本日の祝日は、初代教会のころから行われていた。しかし、6月29日というのは、この二人が殉教した日ではなく、おそらく遺体が移された記念の日であろうと思われる。
摂理は、教会の祈りと神によりたのむ者を、決して見すてることはない。<書簡>
使徒らのいわおであるペトロは、亡びることなく、そのいわおの上に立つ公教会には、永遠の約束がある。信仰者は、ペトロの模範にしたがい、人をはばかることなく、活ける神キリストを宣言しなければならぬ。

6月30日 使徒聖パウロの記念

 昔は、6月29日に、聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂で、二つの儀式を行っていた。しかし、聖ペトロの記念が29日になったので、本日、30日を、聖パウロの記念日としたのである。

7月の諸聖人の祝日

7月1日 主イエズス・キリストの御血

 公教会は本日、われらのためにカルワリオ山上で流された救主のいと聖き御血を尊ぶ。
この祝日は、1849年ピオ九世教皇が定め、1934年ピオ十一世は、主の御死去千九百年を記念して一級大祝日とした。
<入祭文>は、人類の救主に対する感謝のうたである。聖なるミサをとり行うことは、イエズスのあがないを、そのたびに新たにくり返すことである。<奉献文、密誦>
このあがないは、一度で、永久に、キリストの御血によって行われた。<書簡>われらは、救主をおくり給うた神の愛に対して、活ける信仰をもつべきであり、イエズスの御血に対して、固い信仰をもたねばならぬ<昇階誦、アレルヤ、福音、密誦>。
われらは、洗礼によって、この神のあがないにあずかり<昇階誦>いけにえを拝領することによって、われらの生命と永遠の光栄の保証をうけるのである。<聖体拝領誦、聖体拝領後の祈>

7月2日 童貞聖マリアの御訪問

 神の母となるべく召されたマリアは、聖ルカの記すとおり、洗者聖ヨハネの母となるべき従妹のもとに、愛のわざをおこないに行かれた。この二人の出合いは、マリアにとって、「マニフィカト」の讃美をうたう機会となった。
元、フランシスコ会で行われていたこの祝日は、1389年、西方教会大離教終熄のためウルバノ六世により正式に制定され、ボニファチオ九世により全教会で行われることとなった。1894年ピオ九世教皇は、二級大祝日と定めた。

7月2日 殉教者、聖プロチェッソ、聖マルティニアノ

 聖ペトロが、マメルティーノ牢に投じられたとき、その牢番であったプロチェッソとマルティニアノとが回心して、洗礼をうけた。のちにこの二人は、キリストを宣言して殉教した。

7月3日 教皇、証聖者、聖レオ二世

 シシリァ人。その博学のために有名なレオ教皇は、七世紀に、教会音楽、典礼を改革した。キリスト単意説の異端を処罰した。敬虔で、徳行にすぐれていた。
681年から683年まで教皇であった。

7月4日 福者、シアンシの二十九殉教者

 1900年7月9日、中国のシアンシにおいて殉教した二十九名の殉教者の祝日である。その中に、フランシスコ会のグレゴリオ・グラッシ司教をはじめ、フランシスコ会の神父、神学生、フランシスコ会第三会の数名がある。
 また、マリアの宣教者フランシスコ修道女会の最初の殉教者も出た。それは、マリア・ヘルミニア、平和のマリア、マリア・クララ、聖ナタリアのマリア、マリア・アマンディーナ、聖ユストのマリア、マリア・ドルフィーナの七名である。

7月5日 証聖者、聖アントニオ・マリア・ザカリア

 聖アントニオ・マリア・ザカリアは、1502年イタリアのクレモナで生まれた。最初医学を修めたが、志を転じて教区付司祭となった。1530年「聖パウロの律修聖職者会」(ミラーノ市の聖バルナバ教会がこの新修道会の本拠であったため、「バルナバ修道会」ともいわれる)を創立した。後に修道女会も創立した。熱心に使徒事業に従事し、1539年7月5日、三十七才で永眠した。1897年レオ十三世教皇により列聖。
御受難と聖体とを尊ぶために、大いに宣教した功績がある。また彼は、個人として司祭としての模範を聖パウロとしたので、本日のミサは聖パウロの書簡からとられている部分が多い。

7月7日 司教証聖者、聖チリロ、聖メトディオ

 この二人は兄弟で、スラヴ人の使徒として崇敬されている。チリロは826年ごろ、メトディオは815年、ともにギリシァのテサロニケで生まれた。863年からモラヴィアで布教し、868年、アドリアノ二世によって司教に叙階され、聖チリロは、869年2月14日ローマで没したが、聖メトディオは、モラヴィア、パンノニアなどで宣教をつづけ、885年4月6日没した。この二人は古代スラヴ語アルファベット(グラゴリサ文字)を創案して、聖書をスラヴ語に訳し、布教地の国語で典礼を行った。

7月7日 証聖者、聖ペトロ・フリエ

 1565年、ミルクール(フランス)に生まれた聖ペトロは、聖なる救主の律修参事会の修道会に入った。司祭となって、霊魂の司牧に従事し、多方面にわたる社会事業をし、いろいろな要職をへてのち、女子教育のために、ノートルダム女子律修参事修道会を創立した。(1623年。この会は、のちに、ノートルダム・カトリック女子育英修道会となり、今日にいたっている)。その間、おおくの妨害にあったが、かがやく忍耐の徳をしめし、1640年12月9日、グレーで帰天した。トレント公会議以後の教会改革におけるもっとも偉大な人物の一人で、1897年5月7日、レオ十三世によって列聖された。

7月8日 聖女エリザベット王妃

 スペインのアラゴン国王ペドロ三世の王女として、1271年生まれた。父王は、テュリンギア(またはハンガリア)の聖女エリザベットの甥である。彼女は大叔母聖女エリザベットの模倣者で、幼時より、聖徳にすぐれていた。ポルトガル国王ディオニジオ王妃となり、王宮にあって、妻として、また未亡人として模範を示した。フランシスコ第三会員であり、貧しい人々への愛は驚くほど深かった。しかし彼女を特徴づけるものは、平和への努力であり、人を和睦させる才を有しており、ポルトガル、アラゴン、カスティリャ諸王間、また諸王と国民との間の紛争の際平和をもたらした。夫の没後、コインブラのクララ会の修道院で修道生活をし、1336年7月4日帰天した。1625年ウルバノ八世により列聖。

7月9日 童貞殉教者、聖女マリア・ゴレッティ

 聖女マリア・ゴレッティは、1890年10月14日、コリナルド(イタリア・アンコナ州)の貧しいが、敬虔な農業労働者アロイジオ・ゴレッティの第三子として生まれた。その後一家はネットゥノ附近に移った。ここで、彼女は純潔を守って、暴漢の凶刃に倒れた。彼女は、自分の殺害者を赦し、天国でその回心のために祈ることを約して息絶えた。(1902年7月5日)加害者は、はたして獄中で回心した。1950年6月24日、ペトロ大聖堂前広場で、ピオ十二世により列聖。式には存命中の母親も列席した。

7月10日 聖なる七兄弟殉教者および殉教者、聖女ルフィナ、聖女セコンダ

 本日は、二つの組の殉教者を合わせて祝う。はじめは、ローマの聖女フェリチタ(11月23日。記念)の七人の子、すなわち、ヤヌアリオ、フェリチェ、フィリッポ、シルヴァノ、アレキサンドロ、ヴィターレ、マルツィアーレである。彼女の七人の息子は棄教を拒否したため、フェリチタの面前で、一日の中に七人の息子が相次いで惨殺されて殉教し、(162年ごろ、ローマで)彼女もまた数ヶ月のちに、殉教の栄冠をうけた。
 あとのは、潔白を失うよりは、殉教する方をえらんだ姉妹ルフィナとセコンダとである。(257年、ローマで)

7月11日 教皇殉教者、聖ピオ一世

 アクレイア(イタリア)生まれの聖ピオ一世(140-154年?在位)は、二世紀の半ばごろ、アントニノ・ピオと、マルコ・アウレリオとの二皇帝のころ、教会を治めていた。
 復活祭を主日に行うように定めたのは、この教皇である。またグノーシス派異端と戦った。154年ごろ殉教。

7月12日 大修院長、聖ヨハネ・グァルベルト

 ヨハネ・グァルベルトは、995年ごろ、イタリア・フィレンツェの貴族ヴィスドミニ家に生まれ、軍隊に入った。兄ウゴが殺害されたので、復讐の機を待っていたが、ある年の聖金曜日に相手に遭遇し、正に一撃を加えようとした際、相手の殺害者はグァルベルトの足下にひざまずき、十字架につけられたキリストの愛のため赦しをこうた。彼は聖寵の働きにより、敵をも愛せよ、とのわれらの主の掟を想起し、相手を赦すとともに兄弟として抱擁した。そしてすぐ後に修道士となり、1013年頃トスカーナのフィエゾーレの近くの深山の幽谷、ヴァレ・オムローザにおいて、聖ベネディクトの戒律によるヴァロンブローザ修道会を、創立した。当時イタリアでは沽聖がひろく行われていたが、彼の説教と努力によりこの不秩序を一掃し、この国に信仰と道徳の十全性をとりもどした。1073年帰天した。1193年列聖。

7月12日 殉教者、聖ナボレ、聖フェリチェ

 この二人は軍国兵で、303年ごろ、ディオクレツィアノ帝治下、イタリアのミラノで信仰のために殉教した。

7月13日 教皇殉教者、聖アナクレト

 アテネの人、聖アナクレト(79-90年?在位。第三代教皇 )は、トライアノ皇帝(98-117年)のころ教会を治め、聖職者の叙品、司教叙階と、平信者の聖体拝領とについて、多くの規定を立てた。

7月14日 教会博士、証聖者、司教、聖ボナヴェントゥーラ

 聖ボナヴェントゥーラは、フランシスコ会最大の光栄とうたわれる聖人である。1221年中部イタリアのヴィテルボの近傍バニョレアで生まれた。初めジョヴァンニと称したが、幼時病気にかかり、アシジの聖フランチスコにより奇蹟的にいやされ、フランチスコはその時、「おお、ブオナ・ヴェントゥーラ」(何という善い出来事であろう)と思わず叫んだが、この時からボナヴェントゥーラとよばれるようになった。二十才のとき、フランシスコ会に入った。長らくパリ大学で神学を教えたが、同大学の教授のドミニコ会のアクィノの聖トマと親交を結んだ。三十六才のとき、フランシスコ会の総会長に選ばれた。1273年グレゴリオ十世教皇により、枢機卿・アルバノ司教に任命された。
 東西両教会の合同を主目的とした第十四回公会議(リヨン第二会議)列席中、1274年(7月14日夜)没した。その公会議における彼の熱誠と教説の明快さは、ラテン、ギリシァ両教会の人々の等しく讃嘆したところである。1482年列聖。
彼は、数多い貴重な神学、哲学、神秘神学の著作をし、中には美しい感動的な「アシジの聖フランシスコ伝」もある。「熾天使的博士」と称されている。1588年シクスト五世教皇により、教会博士にあげられた。

7月15日 皇帝、証聖者、聖エンリコ二世

聖エンリコ二世は、972年南ドイツ、レーゲンスブルグに生まれた。少年時代ラティスボンのウォルガンに教育をうけた。995年父王の死後バヴァリア王となり、1002年ドイツ王となった。この間(998-1000年)リュッツェルブルグのジークフリード伯の娘(聖)クネグンダ(祝日3月3日)と結婚した。(彼女は信仰あつく、愛情に富み、すぐれた政治的手腕をもっていた賢夫人であった。)1014年2月14日、ローマにおいて教皇ベネディクトゥス八世により、神聖ローマ帝国皇帝、皇妃として戴冠された。
 彼は、皇妃とともに、生涯にわたって、大いに公教会を助け、聖堂、修道院を建て、民心の刷新をはかり、ハンガリア王エンリコをキリスト教に回心させた。1024年7月13日、グローナで没し、その遺骸はバンベルク市の、彼が建立した大聖堂におさめられた。1146年列聖。かつてベネディクト会修士になろうとしたことがあったが、この理由から、聖ピオ十世教皇は、彼をベネディクト会の献身者の守護聖人と公式に宣した。

7月16日 カルメル山の聖母

 聖マリアの恵みの感謝として、その昔カルメル修道会が行っていた本日の祝日は、ベネディクト十三世教皇によって、1726年、全教会の祝日とされた。
 この日と関係のある歴史は、1251年7月16日、聖母マリアによって、カルメル山の聖母修道会の修道服が聖シモン・ストックに渡された史実である。
 多くの信者が、聖母マリアをたたえるために身につけている聖母のスカプラリオは、この修道服をかたどったものである。

7月17日 証聖者、聖アレクシオ

 ローマの貴族アレクシオは、キリストへの愛のためにすべてをすて、聖地に巡礼した。17年のち、御摂理によって、イタリア海岸にもどり、乞食のような姿で、父親の家に帰っていった。そして、父親の家で、17年もの間、子であることを知らさずに貧しい生活をおくった。死んでのち、奇跡的に身分が知れた(五世紀ごろ417年?  ローマで)

7月18日 証聖者、聖カミロ・デ・レリス

 カミロは、1550年イタリアのキエティ教区内のブッチアニコのレリス家に生まれた。24歳のときまで軍隊生活をしていた。のちにカプチン修道会に入ろうとしたが、足の傷のために拒絶された。その後、司祭となり、伝染病患者を看護する誓願をたてる修道会、正式には「看護律修聖職者会」(または「善き臨終の司祭会」)通称「カミロ会」を創立した(1591年修道会として認可)。
 彼は、1614年7月14日ローマで、その愛徳の犠牲となって没した。1746年列聖。1886年レオ十三世により病者及び病院の、1930年ピオ十一世により、看護人の守護聖人にあげられた。

7月18日 殉教者、聖女シンフォローザとその七人の子ら

 殉教録によると、
 彼は、 「テイヴォリ(イタリア)において、殉教者、聖ジェトゥリオの妻、聖女シンフォローザとその七人の子らは、アドリアノ皇帝のとき、いく多の拷問をうえ、河に投げられて殉教した。七人の子らも叉殉教した」と。(138年ごろ)

7月19日 証聖者、聖ヴィンチェンツィオ・ア・パウロ

 聖ヴィンチェンツィオ・ア・パウロは、1581年フランスの西南の小村プーイに属するランキーヌに生まれた。生家は子供の多い貧しい農家であったため、牧童として家事の手伝をし、少年時代から貧しい人を愛していた。才分を見出されてトゥールーズで学び、1600年司祭に叙品され、引続いての学究生活によって、神学、その他の学位を得た。
 後にマルセイユに赴き、帰途、トルコ海賊船に襲われ、奴隷としてテュニスでトルコ人に売却されたが、その主人を回心させた。その後釈放され、主任司祭、船役囚人附司祭、説教師として、いつも、人々の不幸を慰めはげまし、助けた。
 彼は地方の農夫らに教えをのべると同時にまた、フランス王にも教えと進言とをおこたらなかった。その生涯を通じ、多くの慈善事業を行ったが、一方信者黙想会の指導、聖職者の養成を目的とする「宣教会」(本部建物の名称にちなんでラザロ会ともいうが、最近ではヴィンチェンシオ会の名称も用いられている)を1625年創立し、この会を通じてフランスの主任司祭の革新に寄与した。更に聖女ルイーズ・ド・マリヤックの協力のもとに1633年救貧事業と司牧の補助手段として「愛徳童貞会」を創立した。1660年9月27日パリーで没した。1737年6月16日列聖。レオ十三世は、聖ヴィンチェンツィオをあらゆる慈善団体と病院の守護聖人とした。

7月20日 証聖者、聖エロニモ・エミリアニ

聖エロニモは、1481年ヴェネツィア(イタリア)の名門エミリアニ家に生まれた。1496年以来軍務に服し、1508年ドイツ軍攻撃の際捕虜となったが、聖母の奇跡によって解放された。戦後、カステル・ノヴォの城主に封ぜられたが、1528年当時の北伊の社会惨状を見、その地位をすてて、英雄的な隣人愛と苦行との生活に入り、全く自分をすてて、病者、身寄りなき者、孤児の救護に当たった。そして1532年孤児とすて児の教育を専らとする律修聖職者の修道会を創立した。この会はロンバルディアの小さい町ソマスカで始められたので、その名をとって「ソマスカ会」と呼ばれるようになった。黒死病患者の看護中伝染し、1537年2月8日ソマスカで、愛のいけにえとして没した。1767年列聖。ピオ十一世は1928年、彼を孤児及び身寄りなき青少年の守護聖人とした。

7月20日 童貞殉教者、聖マルガリタ

 「アンティオキアにおいて、童貞聖マルガリタ殉教」と、殉教録には記されている。この聖女に対する崇敬は特に東方教会で盛んである。異教の祭司の娘であったが乳母に導かれてキリスト教に回心し、ために父から家を追われた。異教の知事の妻となることと棄教を拒否したため殉教した。(370年頃)十四救難聖人の一人。

7月21日 童貞、聖女プラクセーデ

 聖女プデンツィアナ(5月19日)の姉妹であるこの聖女は、マルコ・アントニアーノ皇帝の迫害の時、信者を助けた。(ローマ・二世紀)。
 ローマには、この聖女の名をいただく大聖堂がある。

7月22日 痛悔女、マグダラの聖女マリア

 福音書には、たびたび、マグダラのマリアのことが出ている。伝統と典礼による、本日われわれが祝うこの聖女は、ラザロとマルタとの姉妹である。ガリレアのマグダラに住み、イエズスに救われて後、痛悔と主への愛を片時も失わなかった。
 主がラザロの家で、「この女は、多く愛したから、多くをゆるされた」とおおせられたのも、彼女のことである。カルワリオの道を主の御跡にしたがい、十字架のもとに主の苦しみを共に苦しんだ。それから雅歌の浄配のように<朗読>、神なる浄配をもとめて、その葬られ給うた場所に行ったとき、イエズスに名を呼ばれ、その復活を使徒たちに告げる使命を託された。

7月23日 司教殉教者、聖アポリナーレ

 一世紀の司教殉教者(75年ごろ)聖アポリナーレの生活については、余り知られていない。殉教録には、「聖ペトロの直弟子、ラヴェンナ(イタリア)の初代司教」と記されている。

7月23日 司教証聖者、聖リボリオ

 聖リボリオは、四世紀の後半、フランスのル・マンの司教で、トゥールの聖マルティノの友であった。九世紀に、彼の遺物が、ウエストファーレン(ドイツ)のパデルボルンに移されたので、そこの守護者である。

7月24日 童貞殉教者、聖女クリスティーナ

 トスカーナ(イタリア)生まれのこの聖女は、300年ごろ、ディオクレツィアノ皇帝の迫害のとき、殉教した。

7月25日 使徒ヤコボ

 福音史家聖ヨハネの兄、大聖ヤコボは、主イエズスの御変容と御死去とを目撃した恵まれた三人の内の一人であった。
 彼は、信仰のために殉教した最初の使徒である(エルザレムにおいて)。その聖遺骨は、スペインのコムポステラ市に移され、中世以来巡礼の中心地となっていた。

7月25日 殉教者、聖クリストフォロ

 まことに大衆的な尊敬を集めているこの聖人については、数々の伝説があるが、事実として知られていることは、250年ごろ、小アジアで殉教したということだけである。十四救難聖人の一人。航海者、旅行者、また最近は自動車運転者、及び一般交通の守護聖人として知られている。

7月26日 童貞聖マリアの御母、聖女アンナ

 聖マリアの御母アンナへの尊敬の歴史は古いが、しかし西方教会では、1584年グレゴリオ十三世教皇のとき、はじめて全教会の祝日となった。
 聖女アンナの生活は殆ど知られていないが、キリストの御母となるべき聖マリアの母として、すぐれた聖徳をもっていた事は事実である。

7月27日 殉教者、聖パンタレオネ

 ニコメディア(小アジア)の医者であった聖パンタレオネは、四世紀のはじめ頃(305年ごろ)ディオクレティアノ帝の治下、信仰のために殉教した。十四救難聖人の一人。

7月28日 殉教者、聖ナザリオ、聖チェルソ、教皇殉教者、聖ヴィクトーレ一世、教皇証聖者、聖インノチェンツィオ一世

 聖ナザリオは、ガリア(今のフランス)に福音を宣教し、ガリアの青年で、ナザリオが回心させた聖チェルソとともに、68年ごろ、ミラノで殉教した。
 聖ヴィクトーレ一世教皇(189-198在位)はセヴェロ帝のころ殉教した。
 聖インノチェンツィオ一世教皇(401-417年在位)は、ドナト派の異端を教会に立ち戻らせ、417年没し、殉教者に加えられている。

7月29日 童貞、聖女マルタ

 マグダラのマリアの姉妹、聖女マルタは、主イエズスの弟子の一人であり、また、しばしば主を宿し奉った光栄ををもち、その一生を主にささげたのである。
 救主御死去ののち、マリアとラザロとともに、ユダヤ人の迫害をさけ、フランスに行き、そこで他の聖なる婦人らとともに、聖徳をもって一生を終わったといわれる。

7月29日 教皇殉教者、聖フェリチェ二世、殉教者、聖シンプリチオ、聖ファウスティノ、聖女ベアトリチェ

 教皇フェリチェ二世(四世紀の中葉在位)は、キリストの神性を否定する異端とたたかい、遂に殉教した。
 他の三聖人は兄弟で、ディオクレツィアノ帝の時、ローマで、親から受けた信仰をすてるよりは殉教の方を選んだ(303年ごろ)。

7月30日 殉教者、聖アブドン、聖センネン

 ペルシァ生まれのこの二聖人は、三世紀の半ばごろ、デチオ帝のとき、ローマで信仰のために牢に投じられ、さまざまの拷問をうけて殉教した。(250年)ごろ

7月31日 証聖者、ロヨラの聖イグナツィオ

 「すべては、神のより大なる光栄のために」これこそ、イエズス会創立者なる聖イグナツィオのモットーである。
 聖イグナツィオは、1491年、スペインのバスコ地方、ギブスコア州のアスペイティアの近くのロヨラ城に生まれた。両親とも由緒ある貴族の出身で、イグナツィオは、洗礼の時、イニゴなる霊名をうけたが、後にアンティオキアの殉教者聖イグナツィオを崇敬して、イグナツィオと改めた。1517年軍隊生活にいり、フランス軍に対するパンプローナの防衛戦において、重傷を負った。(1521年5月20日)ロヨラ城にあって療養中、キリスト伝と聖人伝とを読んで回心し、モンセラットにおいて聖母に献身し、1522-23年にかけてマンレサの洞窟で隠修士の生活をし、ここで彼の内的闘争と照悟の成果として「霊操」の大部分を草した。
 聖地に巡礼して後、バルセロナその他で、更に1528年以後は、パリで学んだ。ここでフランチスコ・ザベリオ、ルフェーブル、ライネス等の同志と相知った。そして1534年8月15日、パリのモンマルトルにおいて誓願を立てた。1537年司祭に叙品され、彼の創立したイエズス会は、1540年9月27日聖庁から公認された。翌年選ばれて総会長に就任し、1556年7月31日、ローマで没した。1622年3月12日列聖。彼こそは、十六世紀におけるカトリック反宗教改革時代の最も顕著な指導者であるとともに、彼の創立になる活動性と統一性とにおいて、独自の修道会たるイエズス会は、青少年、神学生の教育、霊魂の指導、異端者の回心、不信仰の覚醒、学術の振興等によって公教会に寄与した。
 その著「霊操」によって、彼は幾世紀を通じ、今日に至るまで無数の霊魂の指導者となっている。1922年7月25日ピオ十一世教皇により、彼は心霊修業と黙想所の守護聖人とされた。

8月の諸聖人の祝日

8月1日 鎖の聖ペトロ

 本日は、使徒のかしらをたたえるために、ローマのエスクィリーノ丘に立てられた大聖堂の献堂の記念日である。この聖堂には、聖ペトロがしばられた鎖が保存され、昔から非常な崇敬を集めていた。

8月1日 殉教者、聖マカベ兄弟

 マカベの七人兄弟とその母とが殉教したのは、シリア王、アンティオコ・エピファネの迫害のときであった。(紀元前、150年頃)ローマの教会が記念する数少ない旧約時代の聖人らである。

8月2日 教会博士、証聖者、司教、聖アルフォンソ・マリア・デ・リグオリ

 聖アルフォンソは、1695年イタリアのマリアネラ(ナポリ郊外)で貴族の長子として生まれた。始め法学を学び、博士号を得て、弁護士となったが、この職業をすてて、聖職に入り、1726年司祭となった。1730年から翌年にかけて救世主修道女会を創立することに貢献し、後、男子救世主会(レデンプトール会)を創立した(1749年認可)。1762年、クレメンテ十三世の命により、サンタ・アガタ・デ・ゴティの司教となり、病弱にもかかわらず、この教区を十三年間統轄し、充実した使徒職を行った。1775年この職を辞して、パガニの救世主会に退去し、同修道会の内外の困難、苦しみの中に、1787年8月1日没した。1839年5月29日グレゴリオ十六世により列聖。
 聖体に対する愛と、聖母への深い信心と、また、深遠な倫理神学の著作とにより、1871年3月23日、ピオ九世より教会博士にあげられた。

8月2日 教皇殉教者、聖ステファノ一世

 この教皇はローマ人で、ヴァレリアノ皇帝の迫害のころ、教会を治めていた。(254-257年在位)聖なる奥義を行っていたある日、皇帝の軍隊が侵入して、彼の頭をはねた。(257年)

8月3日 最初の殉教者、聖ステファノの遺骨発見

 415年12月5日、エルザレム附近で、一司祭ルチアノにより、聖ステファノの遺骨が発見され、12月26日エルザレムに移された。439年、皇后エウドシアの命令により、盛大に祝って、コンスタンティノープルにはこばれた。
 本日はこの歴史を記念するのである。

8月4日 証聖者、聖ドミニコ

 聖ドミニコは、1170年、スペインのブルゴス州カラルエガの貴族グズマン家の長子として生まれた。(彼の母アサと弟のドミニコ会修道士マネスとは、ともに福者)。1199年オスマ(スペイン)の司教座聖堂附参事会員となった。南仏に旅して、同地方がアルビ派異端のため荒らされていることを知り、使徒事業に従事し、説教と救霊とのための活動とを任とする「説教家の修道会」(ドミニコ会)を創立して(1216年教皇ホノリオ三世により修道会として公認)、異端・謬説と戦い、至る所にキリスト教信仰のたいまつを点じた。  また、ドミニコは、聖母をとうとぶロザリオの信心をひろめるに当たって功績を立てた。  1221年8月6日、ボローニァ(イタリア)において帰天した。1234年7月3日列聖。

8月5日 雪の聖母大聖堂の献堂

 リベリオ教皇(352-366年在位)が、ローマ・エスクィリーノ丘の上に立て、シクスト三世教皇(432-440)によって増築された聖マリア大聖堂(マリア・マジョーレ)の献堂を、本日記念するのである。
 雪の聖母といわれるのは、聖母が、大聖堂を立てようとのぞみ給うたところに、真夏に雪を降らせて、お示しになったという伝説があるからである。

8月6日 教皇殉教者、聖シクスト二世、助祭聖フェリチシモ、聖アガピト

 教皇シクスト二世(257-258年在位)は、アテネの人で、二人の助祭聖フェリチシモ、聖アガピトとともに、ヴァレリアノ帝迫害のとき、殉教した。(258年)ミサ典文中にシクスト二世の名が録されている。数日後、教皇の助祭聖ラウレンツィオの殉教がある。

8月7日 証聖者、聖カイエタノ

 聖カイエタノは、1480年イタリア・ヴィチェンツァに生まれた。最初は法律家であったが、後に司祭となった。人々の救霊に熱心に働いたので、「霊魂の猟人」と呼ばれた。彼はピエトロ・カラッファ司教(後のパウロ四世教皇)とともに、テアティノ会という「摂理の兄弟ら」と称する司祭修道会を創立した。会名は、カラッファが司教であった地名テアテに由来する。この会の特質は、神の摂理に全幅的に信頼することで、反宗教改革(十六世紀)運動に挺身した。
 彼は使徒職への愛と、神に対する委託にみちた生涯を終え、1547年8月7日、ナポリで帰天した。1671年列聖された。

8月7日 司教殉教者、聖ドナト

 聖ドナトは、ディオクレツィアノ帝の治下、両親が殉教してのち、アレッツォ(イタリア)に逃げのび、のちに、その市の司教となった。(346年ごろ)神々にいけにえをささげる事をこばみ、棄教者ユリアノ皇帝のとき(361年)斬首されて殉教した。

8月8日 殉教者、聖チリアコ、聖ラルゴ、聖スマラグド

 聖チリアコ(十四救難聖人の一人)は、ローマの助祭で、ディオクレツィアノ帝のとき、聖ラルゴ、聖スマラグドとともに、信仰のために投獄され、おそろしい拷問ののちに殉教した。303年ごろのことらしい。

8月9日 証聖者、聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ

 聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネは、1786年5月8日、フランス・リヨン市にほど近いダルディリに生まれた。家が貧農であったため、家の農牧の手伝をし、19歳のとき司祭の勉学を始めた。修学上の困難にうちかって、1815年司祭に叙品された。三年後の1818年、32歳のとき、リヨンに近いアルスという小村の主任司祭となり、爾来42年間、この村において、神の摂理とあわれみとの手段となってはたらいた。彼は、フランス革命の余波をうけて、全くたいはいしたこの地を根本的に改革し、人の霊魂に、超自然的力をおよぼした。聴罪司祭・説教家・祈りと苦業との生活をもって、非凡な司牧的効果をあげ、奇跡的治療をさえよくした。この聖人の名を聞いて巡礼者が諸国から、アルス村に杖を引き、おびただしい回心者を出した。この間彼は、尊者ジョゼフ・シャミナードによるマリア会創立にも関与した。
 悪霊によって、神のしもべは、さまざまに苦しめられたが、そのもえる信仰と苦業とによって試練にうちかつことができた。
 1859年8月4日、73歳でアルスに没した。1905年聖ピオ十世により列福。1925年、ピオ十一世により列聖され、1929年、同教皇より、聖堂区付聖職者の守護者と定められた。通称「アルスの主任司祭」と呼ばれており、その遺骸は、アルスの聖堂に保存されている。

8月9日 殉教者、聖ラウレンツィオの前日

8月9日 殉教者、聖ロマノ

 聖ロマノは、ローマ軍団兵であった。聖ラウレンツィオの殉教のときの信仰と勇気とを見て回心し、自分も殉教した。(258年)

8月10日 殉教者、助祭、聖ラウレンツィオ

 本日祝うのは、ローマの有名な助祭殉教者、聖ラウレンツィオである。公教会の財産の管理、貧民への施与の分配に当たっていた。ローマの知事は教会財産を没収しようとしたが、彼は知事に渡さず、余すところなく貧しい人々に分けた。このため逮捕され、拷問され、しゃく熱の鉄格子の上で焼き殺され、殉教した。258年ごろのことである。

8月11日 殉教者、聖ティブルツィオ、聖女スザンナ

 ローマ知事の息子であったティブルツィオは、287年、ディオクレツィアノ皇帝のとき、首をはねられて殉教した。
 ガイオ教皇の姪に当たるスザンナは、304年ローマで殉教した。

8月12日 童貞、アッシジの聖女クララ

 聖女クララは、1194年7月16日、アッシジのスキフィ公爵家の長女として生まれた。霊的な父、聖フランチスコを模範として生活し、彼の指導のもとにクララ修道女会を創立し、生涯にわたって清貧を愛し、厳しい苦業をし、英雄的な受苦の典型(27年間病苦を忍んだ)を示した。1212年誓願を立て、死に至るまで聖ダミアノの傍の小屋に住んだ。また聖体への特別な信心をもち、祈りの生活の模範をのこした。クララの伝記者チェラノのトマスによれば、フリードリッヒ二世の傭兵のサラセン人が、ウンブリア地方を席巻してアッシジに侵入しクララの修道院も危険にひんしたとき、クララは聖体をおさめた銀の容器をもってサラセン軍に近づき、聖体器から放つ光により敵を潰走させた。
 1253年8月11日、アッシジにおいて帰天した。遺骸は、アッシジのサンタ・キアーラ聖堂にある。1255年、アレキサンドロ四世教皇により列聖された。

8月13日 殉教者、聖ヒッポリト、聖カッシアノ

 聖イレネオの弟子、聖ヒッポリトは、信仰のために、炭坑重労働の刑をうけ、235(236)年頃、殉教した。聖カッシアノは、304年ごろ、ディオクレツィアノ皇帝の迫害の時、イモラで死をもってキリストを宣言した。

8月14日 童貞聖マリアの被昇天の前日

8月15日 童貞聖マリアの被昇天

聖母マリアの祝日の中で、最も荘厳で、恐らく最古の典礼は、帰天と被昇天との、本日の祝日である。被昇天の不思議な事実についての記録は極めて少ないが、古くからの口伝によってこう伝えられてきた。
 聖伝によると、神の無原罪の御母の死は、原罪の結果としての死の苦しみと恥とを負わなかったといわれる。聖母の死は、むしろ、死の勝利であった。これは、地上の生活から天の生命への、美しき移りであり、聖伝の言葉によると「安眠」であった。
 なぜなら、原罪なくして生まれ、神の母たる聖寵によって、極めて神に近い聖母の死は、死の鎖にしばられえなかったからである。
 聖母マリアの被昇天に対するわれらの信仰は、われら自身の復活の希望を強め、人間生活の唯物論的な思想を排斥するひとつの根拠ともなるのである。
 故に、教皇ピオ十二世は、1950年11月1日、聖母被昇天を、信仰箇条として、次のように宣言したのである。
 「神の無原罪の御母、終世童貞マリアが、地上の生活を終えて、霊魂と同時に身体をも天の光栄に上げられたことは、神の啓示による信仰の真理であると、余は、宣言し、明言し、定義する。」

8月16日 証聖者、童貞聖マリアの御父、聖ヨアキム

 聖ヨアキムは、愛の深い、利己心のない人であった。<入祭文、書簡、昇階誦>
 その名は、”主の準え”という意味である。キリスト前の、キリスト教的な徳のために、救主の無原罪の母を娘にもつ幸せがあった。<聖福音、アレルヤ>
 公教会のこの偉大な保護者<集祷文、奉献文、聖体拝領誦>のとりつぎを祈ろう。

8月17日 証聖者、聖ヒアチント

 聖ヒアチントは、1185年、ポーランドの貴族オドロヴォンジュ家の息として、上シレジアのグロース・シュタイン城に生まれた。クラカウの司教座聖堂参事会員となり、博学のほまれ高かった。ローマに行ったとき、聖ドミニコの説教を聞いたことから、ドミニコ会にはいる決心を実行した。
 宣教師として、ポーランドを始めバルト海沿岸をめぐり、多くの異教徒と異端者を回心させた。
「北欧の使徒」と称されている。
1257年の聖母被昇天の日、帰天した。1594年4月17日列聖。

8月18日 殉教者、聖アガピト

 聖アガピトは、ローマの近くプレネステにおいて、三世紀の半ばごろ、15才で殉教した。

8月19日 証聖者、聖ヨハネ・ユード

 聖ヨハネ・ユードは、1601年、リ市(フランス)に生まれ、1643年、ユード会といわれる「イエズスとマリアとの司祭修道会」を創立した。この修道会は、布教と神学校経営とを目的とする。
 1644年、迷った娘たちの矯正を目的とする「愛徳の聖母修道女会」を創立した。
 イエズスの聖心と聖母の御心に対する信心を弘め、1670年イエズスの聖心の祝日を祝う司教許可を得たが、これが公的なイエズスの聖心崇敬の始となった。更に1672年自分の創立した司祭修道会のためイエズス聖心の聖務日課とミサの文を作った。1680年カエン(フランス)で没し、1909年列福され、1925年5月31日、ピオ十一世によって列聖された。

8月19日 殉教者、福者、ペトロ・デ・ズニガ、福者バルトロメオ・グティエレス、福者、聖ヨゼフのフェルディナンドおよびその伴侶

 福者ペトロはアウグスティノ会司祭で、1622年の本日(元和8年7月13日)長崎で殉教した。福者バルトロメオも同じくアウグスティノ会司祭で、1632年9月3日(寛永9年7月19日)長崎で殉教。福者フェルディナンドも同会司祭で、1617年6月1日(元和3年3月24日)高島で殉教した。

8月20日 教会博士、大修院長、証聖者、聖ベルナルド

 聖ベルナルドは、1091年フランスのディジョンに近いフォンテーヌ城の貴族の子として生まれ、温和な、信仰あつい母(アレート・ド・モンパール)の監督のもとに敬虔な教育をうけた。1112年の春、30名の貴族とともにシトーの修道院に入った。創立後間もない当時のシトー修道院は、聖ステファノ・ハーディングの大修院長時代で、生活が厳格であったため、入院志願者もほとんどあとを絶っていた。が、ベルナルドの入会後著しく興隆を見、シトー会は発展した。創設者・大修院長として、1115年クレルヴォーに派遣され、ここに、修道院を建てたが、純潔と寛容、意力と柔和との融合した高貴な精神、熱烈な感動と対神徳によって、あらゆる人々を自分にひきつけ、彼らを修道的完徳へと導いた。
 彼はまた、当時の神学的誤謬・異端に反対して、精力的にこれとたたかい、離教を終熄させ、教皇、諸王、宗教会議の顧問、教皇使節ともなり、第二十字軍を遊説する等、およそ30年間にわたり、欧州の運命に関与し、「十二世紀を双肩にになった」といわれたのも、欧州の調停者としての彼を表したものといえよう。イエズスの聖名、聖母に対する篤い信心による、その讃美歌、説教は有名であり、また雄弁をもって鳴り、ラテン語説教家としても、中世随一と称されている。
 1153年8月20日、クレルヴォーで没した。1174年1月18日列聖。その深遠にして純粋な著作により、ピオ八世教皇は、1830年7月23日、教会博士に挙げた。

8月21日 聖女ヨハンナ・フランチェスカ・フレミオ・ド・シャンタル

 聖女ヨハンナ・シャンタルは、1572年ディジョン(フランス)のフレミオ家に生まれ、1592年シャンタル男爵と結婚し、模範的な妻であり、母であった。夫の急死(1601年)後、専ら祈りと慈善と子供の養育に献身した。やがて聖フランシスコ・サレジオの霊的指導をうけ、1610年サヴァのアンネシーにおいて、聖母訪問童貞会を創立した。
 1641年12月13日、ムラン(フランス)で没した。1767年列聖。その祝日は、聖母訪問会創立記念日の8月21日と定められている。

8月22日 聖マリアの汚れなき御心

 1942年12月8日、教皇ピオ十二世は、当時全世界をまきこんでいた患難を終わらせるために、全人類を、聖マリアの汚れなき御心にささげたのである。
 1944年、5月4日、同教皇は、全人類を聖マリアの御心にささげた記念として、この祝日を全教会で行うことと定めた。
 1844年、日本宣教のため那覇に渡来したパリ外国宣教会フォルカード師は、5月1日、全日本を「聖母のいと潔き御心」(当時の名称)に奉献し、これを日本最上位の保護者とあおぐことを規定し、礼部聖省の認可をうけた。日本における本日の祝日は、「一級大祝日」として祝われる。

8月22日 殉教者、聖ティモテオ、聖ヒッポリト、聖シンフォリアノ

 聖メルキアデ教皇(311-314年)のとき、アンティオキアからローマに来た聖ティモテオは、偶像へのささげものを否んで、首をはねられて殉教した。(四世紀始め)
 司教聖ヒッポリトは、ローマの近くオスティアで、三世紀(235年ごろ)に殉教した。
 聖シンフォリアノは、ガリア(今のフランス)に生まれ、二世紀末頃(180年ごろ)、オータン(フランス)で殉教した。

8月23日 証聖者、聖フィリッポ・ベニツィ

 1233年8月15日、イタリア・フィレンツェの貴族、ベニツィ家に生まれたフィリッポは、パリ大学を卒業してのち、修道士として、「聖母マリア下僕修道会」に入り、最もいやしい仕事を受けもってはたらいた。
 のちに、長上の命令により司祭となり、さらにその修道会の総会長に選ばれ、修道会の内部強化、存続、発展につくすとともに、聖母下僕修道女会を創立し、諸紛争の調停をした。
 彼は、教皇に選ばれるのをさけ、長らくの間隠遁の生活をおくった。1285年8月22日帰天した。1671年、クレメンテ十世教皇により列聖。

8月24日 使徒、聖バルトロメオ

 キリストは、この使徒の真面目な心を、賞讃された(ヨハネ1章)。この使徒は、アルメニアで宣教し、その地で、皮をはがれて殉教した。
 殉教録によると、のちに信徒が、その遺骸を、リパリ島に移し、その地からベネベントにはこんだ。オット三世皇帝の時、ローマに移され、現在は、聖バルトロメオ大聖堂に安置されている。

8月25日 証聖者、聖ルドヴィコ王

 聖ルドヴィコ王(ルイ九世)は、1215年、フランス王ルドヴィコ八世の王子として生まれた。王妃たる母(カスティリヤのフランカ)から宗教教育をうけた。1226年、父王の逝去にともない、母を摂政として、11才でフランス王位についた。在位44年、善政をしき、国民の敬慕の的であった。信仰あつく、質素な生活をし、貧民に仁慈をほどこした。日々二度のミサにあずかり、夜半に起きて聖務日課の朝課をとなえ、一時課をもって一日を始めた。また彼の聖堂で行われた慣行が、後には公教会に一般に採用されるに至った。すなわち、信経において、「しかして人となり給い」の時と、御苦難の朗読の際、イエズスの御死去を述べた個所で、ひざまずくことなどである。フランシスコ会第三会員。常に真にキリスト教的王であった。
 聖地を解放し、回教徒を鎮圧するために二度にわって十字軍を起こし、その二度目の時、テュニスでペストにかかり、英雄的な忍耐ののち、1270年8月25日没した。1297年列聖。

8月25日 殉教者、福者、ミカエル・カルヴァリオとその伴侶

 福者ミカエルは、ポルトガルのイエズス会司祭で、1624年の本日(寛永元年7月12日)、他の人々とともに放虎ノ原で殉教した。

8月25日 童貞、聖女マリア・ミカエラ

 聖体の聖マリア・ミカエラは、1809年、マドリッドに生まれ、1865年、バレンシアで、愛徳のいけにえとなってその生涯を閉じた。彼女は、ホルバラン婦人子爵として世に知られていた。聖体と愛徳とのはしためなる聖体礼拝修道女会を創立し(1850年10月12日)、不遇な若い女性の救霊につくした。1934年列聖。

8月26日 教皇殉教者、聖ゼフェリーノ

 この教皇は(198-217年在位)典礼と教会規律に関する重大問題を取り上げた。アントニノ皇帝の頃、217年、殉教した。

8月27日 証聖者、聖ヨゼフ・カラサンクツィオ

 聖ヨゼフ・カラサンクツィオ(または、カラサンス)は、1556年、アラゴン(スペイン)のペルヴィアテに生まれ、ローマに行き、青少年の宗教教育を目的とするエスコラピオ会(ピアリスト)を創立した。そして52年間にわたって、驚くべき忍耐と謙遜をもって貧しい子供の世話をした。
 この修道会は、彼の生存中にも大いに盛大となり、他の教育修道会のモデルとなった。1648年8月25日、彼はローマで没した。1767年、クレメンテ十三世教皇より列聖。

8月28日 教会博士、証聖者、司教聖アウグスティノ

 古代西欧教会の生んだ最大の教会博士聖アウグスティノは、354年11月13日、北アフリカのタガステの町に生まれた。青年時代に、迷いの道にふみこんだが、母なる聖女モニカの祈りと涙によって、遂に回心の日が来た。ミラーノ司教、聖アンブロジオの説教によって感化をうけ、彼の回心は決定した。
 そして、387年の春、聖アンブロジオから洗礼をうけ、完全なキリスト者としての生活をおくり、キリスト教研究にけんさんをつみ、最も有名な護教論者の一人となった。
 アフリカに帰り、391年ヒッポにおいて、司祭に叙品され、ついでヒッポの司教となった。(396年)かくて死にいたるまで34年間の司教職を通じて、説教者として倦むことなき活動をつづけ、司祭、信者のために配慮し、マニ、アリウス、ドナトゥス、ペラジウスおよび半ペラジウス異端諸派との論争において、公教会の信仰を擁護する等司牧者として活動した。また彼の定めた共住生活の戒律は、男女修道参事会、托鉢修道会の今も遵守するところである。彼の才能と聖なる生活から出る敬虔とにみちた深遠な著作により、ラテン教会の博士の「鷲」と称せられる。430年8月28日、その偉大な霊魂は、神の御もとに上った。

8月28日 殉教者、聖ヘルメテ

 ローマの富豪であったヘルメテは、キリスト信者となって、1200人の奴隷に自由を与えた。のちに、その信仰のためにとらえられ、斬首された。(132年ごろ)

8月29日 洗者聖ヨハネの斬首

 6月24日に、公教会は、洗者ヨハネの誕生を記念したが、本日は、光栄ある帰天を記念するのである。
 本日の福音(マルコ 6:17-29)に、斬首の次第が語られる。
 洗者聖ヨハネは、キリストの先駆者であるばかりではない。母として童貞をえらび、その養父も童貞であったイエズスが、もっとも力説した純潔の殉教者なのである。

8月29日 殉教者、聖女サビナ

 ローマの貴族の妻、サビナは、女中のセラピアによって信仰を教えられた。セラピアが殉教してのち、サビナは、その屍を葬った。このことが咎められて、アドリアノ帝治下(117-138年在位)二世紀、彼女も殉教した。(126年ごろ)

8月30日 童貞、リマの聖女ローザ

 南アメリカ人として最初に列聖されたこの聖女は、1586年リマ(ペルー)においてスペイン人を両親として生まれ、聖ドミニコの第三会員となり、自宅にあって、シェナの聖女カタリナにならって生活した。
十五年間、苦しい病気と霊魂の試練になやまされたが、晩年は天的なよろこびにみたされ、三十一歳をもって、1617年8月24日帰天した。1671年列聖。南米とフィリピン諸島の守護聖人として崇敬されている。

8月30日 殉教者、聖フェリチェ、聖アダウクト

 司祭フェリチェが、殉教の場にひかれたとき、一人の名も知らぬ人が、彼の信仰に感動し、「私もキリスト信者だ」と叫んだ。これがために、彼は、裁判もされずに捕らえられて、フェリチェとともに殉教した。信者は、彼の名を知らなかったので、その見知らぬ人を、アダウクト(加わった人)と呼んで尊んだ。303年ごろ。

8月31日 証聖者、聖ライモンド・ノンナート

 聖ライモンドは、1204年、スペイン・カタロニアのポルテロに生まれた。サラセン人にとらえられその奴隷となっているキリスト教徒を贖うため、聖ペトロ・ノラスコが創立した男子メルセス修道会(贖虜の聖母会)に入った。彼は奴隷である信者たちの解放を交渉するためアフリカに派遣された。そのとき、彼は交換条件として自ら人質となり、その間にキリスト教徒を解放するとともに、多数の回教徒を回心させた。
 1239年、レゴリオ九世教皇により枢機卿に任命され、ローマに向かう途中、労苦がつもり間もなくコルドバで没した。1240年。36才。1657年列聖。

9月の諸聖人の祝日

9月1日 証聖者、大修院長、聖エジディオ

 伝説によると、聖エジディオは、アテネから来て、フランスのニンムの荒野に退き、そこで隠遁者たちと一緒に生活したという。八世紀。

9月1日 殉教者、聖なる十二兄弟

 ディオクレツィアノ帝の治下、300年頃、南イタリアで殉教したアフリカ出身の一団をいい、八世紀、その遺骨は、ベネヴェント(イタリア)にうつされた。

9月2日 証聖者、聖ステファノ王

 聖ステファノ一世王は、969年、ハンガリアのアルパート族の豪族ガイザの息として生まれ、四、五才の頃、最初の殉教者ステファノの名をとって授洗された。995年ドイツの(聖)エンリコ二世の妹ギゼラを迎えて妃とし、共にはげまし合って信心の業や修徳に精進し、教会修道院を建立し、おおくの慈善を行った。ガイザの没後(997年)王位を継ぎ、施政公正、その行状、その政治及び布教活動において、使徒的支配者の鑑となり、教皇に交渉し、ハンガリア国内の教会組織を確立し、ハンガリアに信仰弘布のため努力し、その国を聖母にささげた。布教上の功により教皇シルヴェストロ二世は、彼に王冠(現存している)と国王の位と称号とをおくったがこれにより1000年御降誕の祝日に、彼はハンガリア最初の国王の位についた。
 彼の謙遜と愛徳とは、今も諺に残っているほである。1038年8月15日没。1083年、彼の王子エメリヒ(1007-1031年)とともに列聖された。腐敗していない彼の右手は、ブダの城内礼拝堂に保管されている。

9月3日 教皇証聖者、聖ピオ十世

 1835年6月2日、北イタリアのトレヴィゾ州リエーゼの貧しい家に生まれた。1858年司祭に叙品され、司牧に従事し、1893年ヴェネツィア総大司教・枢機卿にあげられ、1903年8月4日教皇に選ばれた。実際的知力と強い意志力に恵まれ、柔和と謙遜にひいでていた。牧者としての配慮は、特に教えの純粋保持、教会法の改革、聖職者と民衆の宗教生活の深化などであった。近代主義を論駁、屡々及び日々の聖体拝領、小児の聖体拝領の奨励、聖書研究所の創設等は、その一端を示すものである。極めて温情に富み、民情に通じ、而も他方峻厳な一面を有した。超自然的なものについての直感力と実際的組織的才幹とは、この教皇の政策に方向と特色とを与えた。既に生前に聖人たる名声と奇蹟を行うとの評判が高かった。1914年8月20日没。1951年6月3日列福。1954年5月29日列聖。

9月3日 殉教者、福者、イェロニモ・城、アントニオ・石田およびその伴侶

 アントニオ・石田はイエズス会司祭、ヨハネ・城も司祭で、フランシスコ会第三会員であったらしい。二人はその伴侶とともに、1632年の本日(寛永9年7月19日)、長崎で殉教した。

9月5日 司教証聖者、聖ラウレンツィオ・ジュスティアニ

 聖ラウレンツィオは、十五世紀におけるイタリアの偉大な聖人の一人で、ヴェネツィアの貴族、ジュスティアニ家に1381年生まれ、小さい頃から、敬虔で、きびしい生活をおくった。
 アルガの聖ジョルジョの律修参事会の修道院に入り、その聖徳のために、エウジェニオ四世教皇により、ヴェネツィアの総大司教に推された。1455年1月8日帰天した。1524年列聖。

9月7日 殉教者、福者、トマ・辻、ミカエル・中島およびその伴侶

 福者トマとミカエルとは、ともにイエズス会司祭であった。トマは1627年の9月6日、或は7日(寛永4年7月27(28)日)長崎で殉教し、ミカエルは、他の二名とともに、1628年12月25日(寛永5年11月30日)雲仙で殉教した。

9月8日 童貞聖マリアの御誕生

 典礼において聖人誕生の日とは、死去の日のことであるが、原罪なくして生まれた聖母の場合は、死の日ではなく、誕生の日である。
 聖マリアは、創造の朝の、そのすがすがしさに似て美しく<書簡>、正義の太陽を告げるあかつきのようである<アレルヤ>。
 永遠より予定せられ<書簡>、ダヴィド王家に生まれた<福音>、聖マリアは、天と地とを結ぶ橋である。

9月8日 殉教者、聖アドリアノ

 ローマのこの軍団兵は、304年ごろ、他の二十三人の信者とともに、小アジアのニコメディアで殉教した。

9月9日 殉教者、聖ゴルゴニオ

 ディオクレツィアノ皇帝の士官であったゴルゴニオは他の人々に信仰を教えていたが、ある日、信者が殺されるの見て、あえて皇帝に進言し、忠告した。そのためにむち打たれ、その傷に塩を入れられ、遂に殉教した。四世紀はじめの事である。

9月10日 証聖者、トレンティーノの聖ニコラ

 聖ニコラは1245年、イタリアのサン・タンジェロで生まれた。1263年、「聖アウグスティノの隠修士会」に入った。その苦業と純潔とによって特に有名であった。さらに、彼の生活には多くの不思議なことがあり、パドワの聖アントニオと並んで、奇跡家として知られている。
 1305年、30年来在住して、救霊のために働いた中部イタリアのトレンティーノで帰天した。列聖は、1446年。

9月10日 殉教者、福者、カルロ・スピノラとその伴侶

 福者スピノラは、イタリアのイエズス会司祭で、1622年の本日(元和8年8月5日)、スピノラをはじめ五十五名が、長崎立山で殉教した。

9月11日 殉教者、聖プロト、聖ヒアチント

 プロトとヒアチントは兄弟で、聖女エウジェニアの召使であった。エウジェニアとともにローマに来て洗礼をうけ、三世紀中葉、殉教した。1845年ローマにおいてその墓が発見され、1934年以来、その遺骨はジャニクロ丘山のプロパガンダ大学新聖堂に保存されている。

9月12日 聖マリアの御名

 ユダヤの習慣に従って、聖母の両親は、聖母誕生後八日目にマリアと命名した。それで、イエズス聖名の祝日が、御降誕の祝日後に来るように、聖母の御名の祝日もその後誕生の祝日の後に来るのである。

9月13日 殉教者、福者アポリナーレ、および三十九人の伴侶

 福者アポリナーレは、スペインのフランシスコ会司祭で、1622年9月12日(元和8年8月7日)殉教した。

9月14日 聖なる十字架の称讃

 614年、ペルシァ王コスラウ二世により、エルザレム占領後、奪われ、629年、ヘラクリオ皇帝が、ペルシァ人から奪い返した主の十字架を、そのとき荘厳に祝った。本日は、この歴史の記念日である。
 しかし、すでに四世紀から、この9月14日に、十字架の発見(320年9月14日)と、コスタンティノ皇帝がカルワリオ山上に建てた大聖堂の奉献とを祝っていた。
 八世紀には、十字架発見の祝いが5月3日に移され、9月14日は、われらのあがないのしるしを称讃する祝日となった。

9月15日 聖マリアの七つの御苦しみ

 ここでいう聖母の七つの御苦しみとは、(1)シメオンの予言(ルカ、2-35)。(2)エジプトへの御避難。(3)エルザレムにおけるイエズスの行方不明。(4)十字架の道(カルワリオ)における御子との会合。(5)十字架の下にたたずみ給う。(6)イエズス十字架よりおろされ給う。(7)イエズスの御埋葬である。
聖母は、御子と苦しみをともにし給うた「同感受難」のゆえに、「殉教者の元后」として崇敬される。すでに中世紀、聖母マリア下僕会によって、この聖母の御苦しみの祭式が行われていたが、ピオ七世教皇(1800-23在位)は、流謫・ナポレオンによる捕囚中における苦しみと、聖母のとりつぎにより解放されたことを記念して、1814年、この祝日を全教会で祝うことを規定した。以前は9月の第三主日に祝われたが、1912年、聖ピオ十世教皇のとき、9月15日に祝日を移された。

9月15日 殉教者、聖ニコメデ

 一世紀末、ローマの司祭、聖ニコメデは、偶像へのいけにえを強制され、「私は、天に在す唯一のまことの神にのみ、いけにえをささげる」と答えて、鞭打たれて殉教した。

9月16日 殉教者、聖コルネリオ教皇、聖チプリアノ司教

 聖ファビアノ教皇の後をついだコルネリオ教皇(251-253年在位)は、ガロ帝に追放され、チヴィタヴェッキア(ローマ附近)で253年9月14日殉教した。三世紀における偉大な教皇の一人で、その名は、次にしるす聖チプリアノ司教とともに、ミサ典文中に録されている。
 聖チプリアノは、法律家であったが、キリスト教に回心し、249年頃、カルタゴ司教となった。三世紀のアフリカ教会の偉大な指導者の一人であった。迫害のさ中にあって、殉教に直面する信者を激励し、自らも258年、斬首され殉教した。彼は教父として、ラテン・キリスト教文学の先駆者で、貴重な著書、書簡をのこしている。

9月16日 殉教者、聖女エウフェミア、聖女ルチア、聖ジェミニアノ

 四世紀の殉教者。聖女エウフェミアは、カルチェドニアにおいて、他の二人はローマにおいて、ディオクレツィアノ帝の治下、殉教した。

9月16日 殉教者、福者、カミロ・コスタンツォ、アウグスティノ・太田とその伴侶

 福者カミロは、イタリアのイエズス会司祭で、1622年9月15日(元和8年8月10日)、平戸附近の田平で殉教した。
 福者アウグスティノは、イエズス会の修道士で、1622年8月10日(元和8年7月4日)、その伴侶とともに、壱岐ノ島で殉教した。

9月17日 アッシジの聖フランチスコの聖痕

 アッシジの聖フランチスコは、死の二年前(1224年)に、アルヴェルニアの山上で祈り、その時、主の五つの傷を、わが身に受けた。本日はその記念である。
 こうして彼は、身体的にも、主なるイエズスに最も似たものとなったのである。

9月18日 証聖者、コペルティーノの聖ヨゼフ

 謙遜な人を高めようと思召す神は、コペルティーノ(イタリア・ナポリ附近)のヨゼフに、多くの恵みを与え給うた。
彼は、1603年6月17日、コペルティーノの貧家に生まれた。徒弟生活ののち、カプチン会に入ったが、病気のため退会を余儀なくされた。療養後、グロテラのフランシスコ会に入り、助修士として働いていたが、上長の命により司祭となった。(1628年)  脱魂、その他の特別な恵みを神からうけ、超自然的な生活をおくり、1663年9月18日、オジモで聖なる生涯をおえた。1767年列聖。

9月19日 殉教者、司教、聖ヤヌワリオとその伴侶

 ベネヴェント(イタリア)の司教、聖ヤヌワリオは、他の聖職者と共に、ディオクレツィアノ皇帝迫害の時、ポツオリにおいて、ひどい拷問をうけ、猛獣の前に投出されたが殺されず、のちに斬首されて殉教した。(305年ごろ)ローマ殉教録によれば、その伴侶は、ソシオ、プロクロ、エウティキオ、アキュティオとある。
ナポリの人々は、今なお、聖ヤヌワリオの遺骨を大いに尊敬している。(ナポリ司教座聖堂にある)その血は、びんにおさめられており、今でも、折々奇蹟をあらわして液体の形をとることがある。

9月20日 殉教者、司教、聖エウスタキオとその伴侶

 アンティオキアの司教、聖エウスタキオは、トラキアのトライアノポリスに追放され、信仰のために、その地で没した。十四救難聖人の一人。この東方教会の殉教者の崇敬は、中世初期ローマに導入された。
 伝説では、東方教会のこの大なる司教を、同名の一人のローマ士官と混同しているという。

9月21日 使徒、福音史家、聖マテオ

 聖マテオも、神が大なるわざを行うために選び給う謙遜な人々の一人である。
 マテオ、叉の名はレビといい、税吏であった。税吏は人々に歓迎されない賤しい身分で、ユダヤ人は、税吏と悪人とを同義語としていたほどである。
ところが、マテオは、イエズスにしたがうために、すべてをすてる勇気をもつ偉大な人であった。これがために彼は、使徒の一人とされたのである。
マテオは、最後までイエズスに忠実を守り、エチオピアで殉教したといわれる。

9月22日 証聖者、司教、ヴィラノヴァの聖トマ

 聖トマは、1488年、スペイン・ヴィラノヴァ附近のフェンリャナに生まれた。アウグスティノ隠修士会に入り、やがて、その徳をみとめられて、カスティリヤ管区長、カール五世の宮廷説教家となり、バレンシア(スペイン)の大司教に推された。その修徳的偉大さと、教会的・愛徳的活動とにより、彼はスペインの「黄金時代」の光明であった。大司教となっても彼はその衣服においても、謙遜においても、極端な無慾においても、依然として厳しゅくな修道士であった。簡けつな彼の説教は、対神愛にもえ、幾千もの魂をめざまし、回心させた。すでに子供の時から施与者であったが、司教となっても無限で多面的な慈善を貧者・病者に実施して来た。彼の遺稿中、「対神愛の説教」は、スペイン宗教文学へ大なる貢献をした。
 1555年9月8日、バレンシアで帰天したとき、その寝床さえも一人の貧しい人に与える約束をしていたといわれる。1658年列聖。

9月22日 殉教者、聖マウリツィオとその伴侶

 テーベ軍団のかしらであった聖マウリツィオは、兵隊たちとともに偶像にいけにえをささげるのをこばみ、マキシミアノ皇帝の怒りにふれ、まず全軍団各々十人目の人が殺される刑にあい、ついで全員殉教した。286年のことである。(スイス、アウガウムにおいて)

9月23日 教皇殉教者、聖リノ

 聖リノは、聖ペトロの後継者で二代目(67-90年在位)である。女性がヴェールをかぶって典礼にあずかることを定めたのは、この教皇である。斬首の刑をうけて殉教してのちヴァティカンの丘に葬られた。その名は、ミサ典文中に録されている。

9月23日 童貞殉教者、聖女テクラ

 聖女テクラは小アジアで生まれ、聖パウロの弟子の一人であった。一世紀、小アジアのセレウキアで殉教した。ローマ教会でもはじめから信徒に尊ばれ記念されていたが、東方教会では特に盛大に祝われ、最初の殉教者および使徒らと同格の扱いをうけていた。

9月24日 贖虜の聖マリア

 本日は、回教徒の捕虜となっていたキリスト信者への聖母マリアの御保護と、これら捕囚信者の釈放に働く「贖虜の聖母修道会」の創立を祝うのである。
 1696年、インノチェンツィオ十二世により、全教会の祝日と定められた。)

9月26日 殉教者、聖チプリアノ、童貞殉教者、聖女ユスティナ

 伝説によると、チプリアノはアンティオキアの魔術家であって、信者の聖処女ユスティナを堕落させようとしていた。しかし、ユスティアナの徳に動かされ、聖寵にみちびかれて、自分もキリスト信者になり、二人ともに、四世紀のはじめごろ、ニコメディア(小アジア)で殉教した。(304年ごろ)

9月27日 殉教者、聖コスマ、聖ダミアノ

 兄弟であったコスマとダミアノとは、二人とも医者であって、貧しい者に施療した。信仰のためにとらえられ、その信仰を守るために、甚だしい拷問をしのび、キリキア(小アジア)で殉教した。303年ごろのことである。この二人は、ミサ典文、諸聖人の連祷の中に、今も名を残してているほど、ローマ教会であつい崇敬をうけていた。

9月28日 殉教者、聖ヴェンチェスラオ王

 ボヘミア国の聖ヴェンチェスラオは、キリスト教的な徳の模範を、家臣に示した。しかし、特にすぐれていたのは貧しい人と病む人とに対する彼の愛であった。
 彼は、自ら聖体のための麦をまき、それを収穫していた。
 929年、(935年?)熱狂的な異教徒であった兄の手にかかってある聖堂内で殺された。

9月29日 大天使、聖ミカエル

 典礼では、聖ミカエルは、天使の典型であり公教会の祈りの天使、戦闘の教会の天使であり、キリストの旗手である。
 故に、選ばれた人々の霊魂を天にむかえる使命ももっている。
 本日は、天軍のかしらに奉献されているローマ最古の大聖堂の奉献を記念する日である。
 聖ミカエルは、また、聖フランチスコ・ザベリオによって、日本の守護者と定められた。

9月30日 証聖者、司祭、教会博士、聖ヒエロニモ

 聖ヒエロニモは、聖アンブロジオ、聖アウグスティノ、聖大グレゴリオ教皇とともにラテン教会の四大博士である。ダルマツィア生まれの彼はローマに来て聖書を研究した。教皇ダマゾに依頼されて、聖書のラテン訳の改訂を行い、かたわら、四世紀にひろまっていたさまざまの異端をしりぞけた。
 ローマにおける彼の生活は、隠遁生活であったが、隠遁者として、また司祭としの自分の使命を充分に果たしえたのは、ベトレヘムにおいてであった。  420年、九十才で帰天した。

10月の諸聖人の祝日

10月1日 司教証聖者、聖レミジオ

 長らくランス(フランス)の司教であった聖レミジオは496年、フランスのクロヴィス王とその家臣三千人に洗礼をさずけた。かくて西欧のキリスト教文化創設者となり、フランスの偉大な聖人の一人として崇敬されている。535年帰天。

10月2日 守護の天使ら

 聖なる天使らへの崇敬は、初代教会のころから、たえず行われていた。
 1670年、クレメンテ十世教皇により、全教会で祝うことに定められた本日の祝日は、摂理が、個人、全教会、教区、小教区、国家、家族などの守護者と定めた聖なる天使らを特に祝う日である。

10月3日 幼きイエズスの聖テレジア

 「小さき花」幼きイエズスの聖テレジアは、1873年1月2日、ノルマンディーのアランソン(フランス)に生まれ、模範的なキリスト教的家庭で育成された。1888年4月9日、リジューの跣足カルメル修道女会に十五才で入り、1897年9月30日、二十四才で同修道院において永眠した。
 性快活、しかも非常にやさしく、同情心と理解力とに富み、すべての者、ことに貧民に対してあふれるばかりの愛をいだき、全く聖寵の恩沢に身をゆだねた彼女は、修道生活において、福音の教えを深く理解すれば、霊的に幼児になり得るという鑑となった。
 また罪人の回心、司祭、特に遠い布教地に働く宣教師のために祈るとともに、長い病臥中の名状しがたい苦痛をたえて、これを世界の果の布教地に働く人々のため犠牲としてささげた。
 ピオ十一世教皇により、1923年4月29日列福、1925年5月17日列聖され、さらに、同教皇により、1927年、全教会の祝日と定められ、布教事業の守護者とされた。
 布教地では「一級大祝日」となっている。

10月4日 証聖者、アッシジの聖フランチスコ

 小さき兄弟らの会(フランシスコ会)、クララ修道女会、フランシスコ第三会(1221年)の創立者アッシジの聖フランチスコは、1181(1182)年、イタリア・アッシジにおいて、豪商ピエトロ・ベルナルドーネの子として生まれた。世俗の生活ののち、祈りと償罪と愛の業とに精進し、その生活と事業とを、離脱心と清貧と謙遜との土台の上にきずいた。
 詩的な感覚を有し、最高の清貧と地上の財物の完全な抛棄、素朴・闊達な心、最深の謙遜、神の子たることの深い自覚から生まれた不動の喜悦、対神愛から生じた自然に対する愛好、燃えるごときキリストへの愛等は、この聖人の特性である。
 神なるキリストを、よりよくまねることを念願とした彼は、その身体に聖痕をうける恵みを得た。(これは、9月17日に記念する)神に対してもえるような愛をもっていたので、「熾天使的聖人」といわれる。
 最上の神秘を悟りえた彼は、1226年10月3日帰天した。1228年7月16日グレゴリオ九世教皇により列聖。

10月5日 殉教者、聖プラチドとその伴侶

 この殉教者ら(プラチド、エウティキオ、ヴィクトリノ、フラヴィオ、ドナト、フィルマト、ファウスト等)は、四世紀ごろ、シシリー島で、キリストのために殉教した。
 (聖ヒェロニモの編した殉教録には、これらの名がのっているが、十二世紀に至って、聖ベネディクトの弟子で殉教したといわれる聖プラチドと混同されるに至った)

10月6日 証聖者、聖ブルノ

 聖ブルノは、1032年、ケルン(ドイツ)に生まれ、パリ大学を卒えて、ランスの司教座大聖堂の参事会員になったが、この世の空しさを悟り、1084年、グルノーブル附近のシャルトルーズ(フランス)の荒野に退き、隠遁生活を行った。
 のちに、聖ベネディクトの戒律による「カルトゥジオ修道会」を創立した。
 1101年10月6日、帰天した。

10月7日 童貞聖マリアの聖なるロザリオ

 トルコ軍に対して、キリスト教徒軍がえたレパントの海戦における大勝利(1571年10月7日)は、信者の熱心なロザリオの祈りによるものであり、この勝利を記念して、1573年、グレゴリオ十三世教皇は、この祝日を定めた。ベルグラードにおける、同じくトルコ軍に対しロザリオの祈りにより勝利を得たので、その感謝のため、クレメンテ九世教皇は、1716年、この祝日を全教会の祝日と定めた。
 更に近年に至り、キリストの教会を攻撃する多くの敵に対し、ロザリオの聖母の保護を願って、レオ十三世教皇が、この祝日の位を二級大祝日に高めるとともに、新しいミサ文と聖務日課を定めた。
 以前は10月第一主日であったが、ピオ十世教皇は、10月7日を祝日とした。

10月7日 教皇証聖者、聖マルコ

 彼は、聖シルヴェストロ一世教皇の後を継ぎ、コンスタンティノ帝のとき、聖ペトロの座に登ったが、在位八ヶ月で、336年没した。

10月7日 殉教者、聖セルジオ、聖バッコ、聖マルチェッロ、聖アプレイオ

 セルジオとバッコとは、シリア人で、信仰を告白しマクシミリアノ皇帝のときに殉教した(三世紀)。他の二人は、ローマで人望のあった人々で、東方教会の殉教者である。

10月8日 聖女ビルジッタ

 スウェーデンの人、1303年ウプサラ近郊フインスタドに生まれた。聖女ビルジッタは、王家の出で、敬虔な教養をうけ、七才のときから十字架にかかったキリストの幻視を見た。1316年グドルマンソンと結婚し、四男四女をあげ(スウェーデンの聖女カタリナは、その娘)幸福な結婚生活であった。のち、その夫はアルヴァストラのシトー会修道院に隠退し、1344年没した。彼女は全く世事から遠ざかり、厳格な苦業に身をささげた。「聖なる救主の修道女会」(ビルジッタ会)を創立し、ローマに住んで、スウェーデンの学生と巡礼とのため宿泊所を設け、アヴィニョンにいる教皇のローマ帰還のため尽力し、多大の効果をおさめた。主イエズスから、多くの啓示をうけた。1373年7月23日、ローマで没した。1391年列聖。

10月9日 証聖者、聖ヨハネ・レオナルド

 聖ヨハネ・レオナルドは、1550年ごろ、ルッカ教区(イタリア)のディエチモで生まれた。ルッカ市で薬剤師のもとに奉公しのち司祭となった。囚人や病人のために活動し「神の母の律修聖職者会」を創立した。修道院の改革に関連して、その視察師を命ぜられる等、教会から重大な任務を負わされた。またローマの布教聖省と、布教地から来る神学生のためのウルバノ大学創立に、大いに貢献した。1609年、ローマで没した。1938年、ピオ十一世により列聖。

10月9日 殉教者、司教聖ディオニジオ、聖ルスティコ、聖エレウテリオ

 聖ディオニジオは、パリの最初の司教で、三世紀中葉ファビアノ教皇によりフランスに派遣された六司教の一人である。彼は司祭ルスティコ、助祭エレウテリオとともに、カトゥリアクム(今のサン・ドニ)で斬首され、殉教した。聖ディオニジオは、十四救難聖人の一人である。(彼は、九世紀に、聖パウロによって改心したアレオパゴスのディオニジオと混同されるにいたったので、本日の書簡には、そのディオニジオのことが朗読される。)。

10月10日 証聖者、ボルジァの聖フランチスコ

 聖フランチスコは、1501年、スペインのガンディアのボルジァ家に生まれた。カール五世帝の信任あつく、カタロニァ総督等の名誉ある職を賜り、父の没後はガンディア公であった。が妻の死後イエズス会に入り、1551年司祭になった。1565年イエズス会第三代総会長に選任され、在職中、会は偉大な発展をとげた。彼の卓越した点は、祈りに対する非常な熱烈さと、模範的厳格な苦業生活と寛容とであった。
1572年9月30日、ローマで帰天、1671年列聖された。

10月11日 童貞聖マリアの母性

 1931年、公教会は、マリアが神の御母であるという信仰宣言を行ったエフェゾ公会議の、千五百年記念祭を行った。その時、ピオ十一世は、この記念として、更にまたこの教義をより普及させるために、本日の祝日を定めたのである。

10月13日 証聖者、聖エドワルド王

 本日は、聖エドワルドの聖遺骸の移転を記念する。(今も、ロンドンのウェストミンスター大修道院に存置してある)この聖なる王は、イギリス王として二十三年間治政し、1066年1月5日帰天した。
敬虔と愛と正義とのよき王として人々からしたわれ、貧者と孤児の父として各地で知られていた。

10月14日 殉教者、教皇聖カリスト一世

 217年、聖ゼフィリノのあとをついで教皇となった聖カリストは、四季の断食日を定め、ローマ・アッピア通りの「カリストのカタコンブ」を拡張し、222年殉教した。

10月15日 童貞、聖女テレジア

 イエズスの聖テレジアは、同じ跣足カルメル修道会の幼きイエズスの聖テレジアと区別するため、アビラのテレジア、大テレジア、あるいはスペインのテレジアともよばれている。1515年3月28日、カスティリヤ(スペイン)のアビラで生まれ、十八才のときアビラのカルメル会に入った。
 十六世紀のカルメル会の改革は、この聖女の功績である。(この刷新カルメル会を跣足カルメル会という。)1562年、会規弛緩を改め生活を厳格にした最初の改革修道院(サン・ホセ修道院)をアビラに創設したが、種々の困難、反対を克服して、その生涯に、十五の改革修道院を直接創設し、他の者を通じて十七修道院を創設した。
彼女の豊かな神秘的経験を、従順のゆえに綴った著作は、「比類なき明白さで、内的・神秘的生活の秘訣」を記している。
「私は、公教会の娘として死ぬ」といい残して、1582年10月4日、アルバ・デ・トルメスで帰天した。1622年列聖。

10月16日 聖女ヘドヴィジェ

 聖女ヘドヴィジェは、1174年ごろ、メラニア伯ベルトルド四世の娘として、アンデックス城に生まれた。シレジア公ハインリヒ一世と結婚し、夫と協力して、国内の教化につくした。妻として母としてのすべての義務を果たして、夫の死後、シレジアのトレブニッツにあるシトー会女子修道院に入り、祈りと苦業とのうちに生涯を閉じた。1243年10月15日。1267年3月26日、クレメンテ四世教皇により列聖。ハンガリアの聖エリザベトの叔母にあたる。ポーランドの守護聖人。

10月17日 童貞、聖女マルガリタ・マリア・アラコック

 ヤンセニウスの非人間的な異端説が、霊魂を神から遠ざけていたその世紀において、フランス・パレ・ル・モニアルの聖母訪問修道女会の、修道女であった聖マルガリタは、主の聖心がかたどる無限の愛への委託の信心をひろめよと、三度の大啓示によって、主から命ぜられた。
彼女は、1647年、フランス・ブルゴーニュ州ロートクールに生まれ、1690年10月17日、四十三才で、パレ・ル・モニアル修道院で帰天した。1864年ピオ九世教皇により列福、1920年ベネディクト十五世教皇によって列聖され、聖ピオ十一世教皇は、1929年、その祝日を全教会で祝うことを規定した。

10月18日 福音史家、聖ルカ

 聖ルカは、アンティオキアの医者であった。キリスト教徒となってから、忠実に聖パウロにしたがい、生涯パウロの心の「愛する医者」(コロサイ、4-15)となった。
ルカは、第三福音書と、初代教会の歴史を記す使徒行録とを書き残した。そして、その信仰を、ベオツィアのテーベ(ギリシァ)で、自らの血でもって証認した。東方教会では、使徒にかぞえられている。

10月19日 証聖者、アルカンタラの聖ペトロ

 1499年、スペイン・アルカンタラで生まれ、十六才でフランシスコ会に入ったペトロは、この修道会の本来の精神をとりもどそうと大いに努力し、また、カルメル会改革におけるアビラの聖女テレジアの支持者でもあった。1562年10月18日帰天した。1669年列聖。

10月20日 証聖者、ケンティの聖ヨハネ

 クラカウに近いケンティ(ポーランド)で生まれた。(1395年)ヨハネは、その市の大学教授であったが、のちに司祭となり、主任司祭、宣教師となり、貧しい人、不幸な人のために献身し、かれらの必要をみたすために何ものも惜しまなかった。これは、神が天に召し給うた1473年12月24日までつづいた。1767年クレメンテ十三世により列聖、ポーランドの守護聖人にあげられた。

10月21日 証聖者、大修院長聖ヒラリオネ

 ヒラリオネは、291年ごろ、パレスティナのガザで生まれ、アレキサンドリアで修学中、キリスト信者になった。エジプトの聖アントニオのもとで修練してガザに帰り、隠修士の生活をはじめ、多くの弟子たちが集まってきた。パレスティナに修道院を創設した。しかし、その聖徳の評判が高まったので、もう一度エジプトに逃げ、それからクプロ島に行って、そこで帰天した。372年。

10月21日 殉教者、聖女ウルスラその他

 本日の殉教録には、こう記されている。「ケルンで、聖女ウルスラその他が、天にのぼった。この人々は、信仰のため潔白を守るため、フン族の犠牲となった。」四世紀のことである。

10月24日 大天使聖ラファエル

 「神の良薬」の意味である聖ラファエルは、トビア書によって一般に知られている。この書によると、ラファエルは、若いトビアの旅の道づれとなり、神に忠実であったある家でいろいろな奇蹟を行った。
本日の<聖福音>の天使は、聖ラファエルのことであるといわれる。

10月25日 殉教者、聖クリザンテと聖女ダリア

 聖クリザンテは、小アジアからローマに来て回心し、アテネ人のダリアと結婚した。二人は、福音の宣教をしたので逮捕され、キリストの信仰に殉じた。283年。

10月26日 殉教者、教皇、聖エヴァリスト

 聖エヴァリストは、99年から107年まで教皇の座にあった。伝説によると、彼は、ペトロのかたわら、ヴァティカンの丘に葬られたという。

10月28日 使徒、聖シモン、聖ユダ

 聖ユダは、主イエズスのいとこであった。現在までも彼の一つの短い書簡が残されている。ミサの「聖変化前の部」では、タデオと呼ばれている。
聖シモンは、ルカの福音書で「熱心なシモン」と呼ばれているが、これは、キリスト教徒となる前に国粋熱心党に属していたからではなく、むしろ彼の性質から出たあだ名であったろう。
古い伝説によるとこの二人は、十三年間、アルメニア、ペルシァに福音をのべ、スワニールという町で殉教したといわれる。

11月の諸聖人の祝日

11月1日 諸聖人

 諸聖人がキリストとともによろこぶ光栄の国!かれらは、輝く服をつけ、子羊につきしたがう。<晩課>
本日、公教会が祝うのは、最も慰め深い状景である。公教会は、天の光栄に入った子らを、一人一人祝うことが到底不可能であったので、本日の祝日をもうけて、それを祝うのである。
この祝日の歴史は非常に古い。初代教会時代すでに、すべての殉教者の祝日として祝っていた。グレゴリオ四世教皇は、835年ごろ、その祝日を十一月一日と定めた。本日は、キリストが、諸聖人によって得給うたキリストの勝利の日であり、また、典礼の秋、すなわち、あがないの実を感謝し、神秘的収穫を祝う日でもある。
公教会が本日祝う知られざる聖人の中には、信仰のしるしをもって永遠の旅へと先だったわれらの親戚知友もあるであろう。また、天のむくいをすでにうけている人々は、かつてこの世において、われらと変わらぬ生活をおくった人々である。聖アウグスティノの言葉をかりるまでもなく、かれらになしえた事なら、われらにも出来ないはずはないのである。

11月2日 信仰者の死者の記念

 死者への尊敬は、霊魂不滅の信仰にもとづいて、人類のはじまりと同じく古いものであり、原始人、異教徒の中でも行われていたし、今も行われている。
ユダヤ人は、旧約時代にも、死者のために祈りといけにえをささげていた。公教会でも使徒の時代から、死んだ信者のために祈っていた。
しかし、長い世紀の間、すべてのミサで、死んだ信者を記念してはいたが、特にそのためのミサは行われていなかった。
この死者の記念日を、はじめて行ったのは、998年、聖オディロネ大修院長によって、クルニ(フランス)のベネディクト会修道院であり、そこから、次第に全教会にひろまっていったのである。
教皇ベネディクト十五世は、1915年8月10日の教令により、全世界のすべての司祭に、この日三つのミサを立てる許可を与えた。
公教会は、この前日(十一月一日)、すでに勝利の国(凱旋の教会)に入った信者を記念し、そして今日、まだ煉獄で苦しむ霊魂を思いやるのである。ここにあらわれるのは、公教会の神秘体の教義である。
煉獄(苦悩の教会)の霊魂は、凱旋の教会のとりつぎと功徳とをうけ、また、同時に、この世の戦闘の教会の祈りの効果をもうけるのである。
「私の最も小さな兄弟の一人にしたことは、私自身に対してしたのである」というイエズスの御言葉は、煉獄の霊魂にも適用されねばならぬ。われらは、まずミサ聖祭によって、煉獄の霊魂を助けることが出来る。この煉獄の霊魂の中にはおそらくわれらの肉親、知人、家族のあることを考え、かれらにこのミサの功徳を与えねばならぬ。これは、最も効果のある、また、誰でもなしうる愛の業である。
この三回のミサは、一回は煉獄にある死せる信者の霊魂のため、一回は教皇聖下の意向のため、一回はミサをささげる司祭の意向のためにささげる。もしこの日が主日にあたるときは、翌日に行う。

11月4日 司教証聖者、聖カルロ・ボロメオ

 聖アンブロジオの名を残したミラノの大司教座についた聖カロロ・ボロメオは、その当時の人々に深い感化を与えた。
彼は、1528年10月2日、アロナ(イタリア)のボロメオ家に生まれ、枢機卿・ミラーノ大司教に任命され、その教区にトレント公会議の決定した改革案を適用するため努力した。十六世紀の教会刷新運動に挺身した傑出した人物の一人で、有能な聖職者養成のための神学校設立、担当司牧区の倦むことを知らぬ巡察は、司牧者としての努力の一端を示すものである。
不良児のため、感化院をたて、一般にその司牧活動を社会慈善的基礎の上にきずいた。この誠意と厳格な修徳と仁慈と黒死病流行の際の完全な自己犠牲とは、彼の聖徳の一面を示すものである。その人々に対する愛徳、特に貧しい人々、病む者への心やりは、人々の賞讃の的となった。
 四十六才の若さで、1584年11月3日ミラーノで帰天した。1610年、パウロ五世教皇により列聖。

11月4日 殉教者、聖ヴィターレ、聖アグリコラ

 ヴィターレは、貴族アグリコラの奴隷であったが、キリストの愛によって兄弟のように生活し、300年ごろボローニァ(イタリア)において、ともに殉教した。

11月5日 殉教者、福者パウロ・ナヴァッロとその伴侶

 福者パウロは、イタリアのイエズス会司祭で、1622年11月1日(元和8年9月28日)、三名の伴侶とともに島原で殉教した。

11月8日 殉教者、四人の聖なる戴冠者

 四人の聖なる戴冠者とは、名を知られない四人の殉教者である。この四人は、クレメンテ、シンプロニアノ、クラウディオ、ニコストラトの四人か、あるいは、セヴェロ、セヴェリアノ、カルポフォロ、ヴィクトリーノの四人かである。迫害時の混乱のため、公の記録が失われたらしく、名は判然とせず、ただ四人の殉教者として知られ、崇敬されたいた。ディオクレツィアノ帝の迫害のとき、ローマで殉教した。

11月9日 至聖なる救世主の大聖堂献堂式

 本日は、ローマのラテラノ大聖堂献堂の記念日である。この大聖堂は、ローマの司教たる教皇座大聖堂であるので、「全聖堂の母聖堂」として尊ばれている。ローマ・チェリオ丘のラテラニ家の宮殿は、コンスタンティノ帝の皇妃ファウスタの所有するところであったが、皇帝のキリスト教回心の後、帝はこれを教皇の私邸として寄進し、ラテラノ大聖堂(バジリカ)をたて、324年11月9日、教皇シルヴェストロ一世が、これを救世主の大聖堂と命名し、献堂式、すなわち、聖別式を行った。
 十二世紀には、ラテラノの洗者聖ヨハネの大聖堂ともいわれるようになった。今もそうである。四世紀から十六世紀にかけて、この大聖堂と隣接の宮殿で宗教会議の開かれること二十五回以上、その五回は公会議であった。この大聖堂の大部分は、インノチェンツィオ十世教皇(1644-55年)により再築され、1726年11月9日、ベネディクト十三世により、再度聖別され、レオ十三世は至聖所を拡大した。

11月9日 殉教者、聖テオドロ

 テオドロは、初代教会のころ、大いに崇敬されていた聖人である。聖マウリツィオや聖ジォルジォと同様に、兵士であった。306年、異教の神へのいけにえを拒絶したので、小アジアのアマゼアで殉教した。東方教会では大殉教者と呼ばれている。

11月10日 証聖者、聖アンドレア・アヴェッリーノ

 ランチェッロット・アヴェッリーノは、1521年、ナポリ(イタリア)の近くで生まれた。学識と敬虔に富み、司祭となり、教会の弁護士であった。ある日、ふといった嘘に非常に心をいため、今迄の職業をすて、「御摂理の兄弟修道会」(テアティノ会)に入り、イエズスの十字架への愛のために、アンドレアと改名し、三つの誓願以外に、自分の意志を全くすてるという誓願も立てた。
のちに、その修道会の総会長となったが、「私は神の祭壇に上ろう」Introibo ad altare Deiととなえつつ、ミサをはじめようとして息絶えた。1608年、ナポリで。1624年列福。1712年列聖。

11月10日 殉教者、聖トリフォネ、聖レスピチオ、聖女ニンファ

 聖トリフォネが、殉教のときに示した勇敢さを見て、護民官レスピチオは、信仰を得、そして殉教した。250年ごろ、小アジアのビエィニアでのことである。シシリー島の娘、ニンファは、五世紀のころ殉教した。その墓が、ローマの聖トリフォネに奉献した教会にあるところから、聖トリフォネの祝日にともに祝う。この教会は、灰の水曜日後の土曜日の指定巡礼聖堂である。

11月11日 司教証聖者、聖マルティーノ

 パンノニアのサバリア(ハンガリア)に生まれた聖マルティーノは、ローマ皇帝の軍隊の一人として、ガリア(フランス)に来た。この時はまだ信者ではなかったが、ある日、アミアンの近くで貧しい人を見て、自分のマントを分けてやった。
 その後信者になってから、ポアティエの聖ヒラリオのもとで隠修士となり、のちにトゥールの司教となった。
 宣教師、霊魂の牧者となり、修道生活をひろめるために大いに努力し、不朽の光栄をえたのである。397年トゥールに近いカンドで帰天した。
聖マルティーノは、西方教会最初の証聖者である。

11月11日 殉教者、聖メンナ

 聖メンナは、エジプトの人で、軍人であったが、295年ごろ、ディオクレツィアノの治下、アレキサンドリアの近くで、キリストのために殉教した。かれへの崇敬は、アレキサンドリアからローマにとひろまった。

11月12日 教皇殉教者、聖マルティーノ一世

 649年から655年まで教皇の座についた聖マルティーノ一世は、異端派(キリスト単意説)とのたたかいで有名である。
のちにこの異端を信奉する東ローマのコンスタンス二世に逮捕されて、コスタンティノープルに連れて行かれ、屈辱や多くの苦しみをしのんだ。更に囚人としてそこからケルソネソス島に流され、そこで餓死した。

11月13日 証聖者、聖ディダコ

 ディダコは、1400年ごろ、スペイン・アンダルシア州のサン・ニコラ・デル・プエルトの貧しい家に生まれた。アリザファのフランシスコ会に入り、助修士になった。極めて厳格に清貧と節慾とを実践し、また注賦的知識にも恵まれていた。1441年宣教師としてカナリア諸島に派遣された。そして単なる助修士であったにもかかわらず、フェルテベントゥラの修院長になった。1463年11月12日、アルカラ(スペイン)で帰天した。1588年列聖。

11月14日 司教殉教者、聖ヨザファト

 聖ヨザファトは、1584年、ポーランドのヴラディミールで貴族の家に生まれた。二十歳のとき聖バジリオ修道会の修道者となり、そののち、ヴィルナの大修院長、次いで、リトアニアのポロツクの大司教となった。
彼は、大いに、ラテン教会とギリシァ教会の一致、離教者の帰正のために努力した。彼の熱心と聖徳とは、人の嫉妬と憎悪とをまねき、1623年、ヴィテブスク市を巡察中、教敵にそそのかされた離教徒の暴民におそわれ、殉教した。(1867年列聖)

11月15日 教会博士、司教、証聖者、大聖アルベルト

 大聖アルベルトは、1193年シュワーベン州の小都ラウインゲン(ドイツ)のボルトシュテット伯の子として生まれた。
ドミニコ会に入り、ボローニァ大学で神学を研究し、のちにパリ大学、ケルン大学で教鞭をとった。ケルン時代、その弟子として有名な聖トマス・アクィナスが出た。
 ドイツのドミニコ会管区長となり、レーゲンスブルグの司教ともなった。しかし、神学を教えるために間もなく司教座を辞した。1280年11月15日、ケルンで帰天した。

11月16日 童貞、聖ジェルトルーデ

 中世紀における最大の神秘家の一人であり、大聖女と呼ばれる聖女ジェルトルーデは、1256年1月6日、ドイツ、チューリンゲンに生まれた。少女のころ、サクソニアのヘルフターにあるシトー会修道女院(ベネディクト会修道女院とする説もある)に入り、二十五歳の頃すでにその聖徳をうたわれ、1281年から神秘的経験をするに至った。教会の典礼と緊密に関連して、高度の聖寵をうけ、イエズスとの親しい一致のうちに、神秘的生活をおくった。示現において、「主は友のように」彼女に話しかけ、人々に対するその妙(たえ)なる愛をお示しになった。彼女は、聖女マルガリタ・マリア・アラコックに先だつこと四世紀、イエズスの聖心の信心をひろめ、「聖心の予言者」といわれる。主の啓示、示現を綴ったその著作は、神秘神学書中の白眉で、聖心に関する神秘神学形成に影響を及ぼした。
1302年、ヘルフタの修道女院において、四十六歳で永眠した。祝日は、クレメンテ十二世教皇により、1738年、全教会で祝うよう定められた。

11月17日 司教証聖者、奇蹟家の聖グレゴリオ

 聖グレゴリオは、213年ごろ、小アジア・ポントスのネオチェザレアの異教徒の家に生まれた。パレスティナのチェザレアに遊学、オリジェネスの下に学んで、キリスト教に回心し、帰国後、郷里の最初の司教となり、まだ異教的であったその町をキリスト教化した。また、彼は、教会著述家でもあった。
 彼は、霊魂と自然とに対する不思議な能力に恵まれ、生存中から「奇蹟家」(タウマトゥルゴ)として名を知られていた。
彼がネオチェザレアに司教として任についた時は、僅か十七人の信者にすぎなかったのに、死去したときには(270年ごろ)異教徒は、十七人しかいなかったと言われている。

11月18日 使徒聖ペトロ、聖パウロ大聖堂の献堂式

 使徒聖ペトロと聖パウロとに対する尊敬から、たえずその墓も、信者の尊崇を集めて来た。このそれぞれの墓の上に立つ両大聖堂は、特に信仰の聖地ともいうべき所である。全教会の聖堂のうち、この両大聖堂は、二人の使徒が使徒たちの中にしめていた席に比例しているのである。ヴァチカン丘の聖ペトロ大聖堂、門外の聖パウロ大聖堂は、ともに四世紀、コンスタンティノ帝によって建てられた。
 両聖堂は、献堂式の日が異なっているが、ピオ九世は、この献堂記念を、聖ペトロ大聖堂献堂の日、すなわち、、11月18日におこなうことを規定した。(1854年)

11月19日 チューリンゲンの聖エリザベット

 チューリンゲンの聖女エリザベットは、ハンガリアの聖女エリザベットともいわれる。
 1207年、プレスプルクにハンガリア王アンドレアス二世と、ドイツのゲルトルード・フォン・アンデックスの子として、生まれた。1221年チューリンゲン(ドイツ)のヘルマン伯の子息、チューリンゲン領主、ルドウィヒと結婚し、幸福な生活の中に一男、二女をあげた。夫妻ともに人民を愛し、夫の不在中、エリザベットは、夫に代わり国政をおさめ、大飢饉に際しては、全収入をあげて窮民を救った。十字軍遠征中の夫の没後(1227年)、フランシスコ第三会に入り、財をすて、マールブルグ市附近に小さい庵をむすび、祈祷と慈善の生活をおくった。1231年11月17日、二十四歳で、マールブルグで没した。
自発的清貧、隣人愛への自己奉献、聖寵によって完成された魅力ある人格のゆえに、現代も尊崇されている。1235年、グレゴリオ九世教皇により列聖。

11月19日 教皇殉教者、聖ポンツィアノ

 三世紀の教皇、聖ポンツィアノ(230-235年在位)は、アレキサンドロ・セヴェロ帝迫害のとき、没した。235年9月28日。

11月20日 証聖者、ヴァルワの聖フェリチェ

 ヴァルワの聖フェリチェは、1127年フランス、ヴァルワに生まれた。司祭になって後、長らく隠遁生活をおくり、のち、回教徒に捕らえられ奴隷として苦役に従事するキリスト信者を釈放するため、マタの聖ヨハネ(祝日、2月8日)とともに、三位一体修道会を創立し、特に同会の内面的強化と完成に尽力した。1212年パリで没した。

11月21日 聖マリアの御奉献

 古い伝承によると、聖マリアは、幼時エルザレムの神殿に奉献され、神に聖別せられたという。本日の典礼に合わせて、われらもいつか天の神殿に入りうるよう、その恩寵を祈ろう。
この祝日は、六世紀ごろから東方教会で行われており、西方教会では、十四世紀から祝われるようになり、1585年シクスト五世教皇が全教会で行うこととし、クレメンテ八世はこれを一級祝日とした。

11月22日 童貞殉教者、聖女チェチリア

 聖女チェチリアは、ローマの殉教者の聖女の中では、最も有名な一人である。
彼女が、潔白の徳に殉教の冠を合わせいただいたのは、三世紀末のことであろうと思われる。殉教の日は、9月16日とされているが、古くから、この聖女の家の上に建てられた聖堂奉献の本日、祝日を行ってきた。

11月23日 教皇殉教者、聖クレメンテ

 聖クレメンテ一世(90-99?在位)は、聖ペトロの弟子で、ローマの聖座の四代目教皇であった。その著作のために、一世紀の最も有名な教皇の一人である。
トライヤノ帝迫害の際、ケルソニソスに流され、配所で没した。ミサ聖祭典文中に、その名が記されている。

11月23日 殉教者、聖フェリチタ

 フェリチタはローマの寡婦で、二世紀(162年ごろ)キリストのために殉教した。その何ヶ月か前に、彼女の七人の子も殉教していた。(その祝日は、7月10日である)

11月24日 教会博士、証聖者、十字架の聖ヨハネ

 十字架の聖ヨハネは、1542年6月24日、カスティリヤ(スペイン)のフォンティベロスで生まれた。労苦多き青年期を経て、メディナのカルメル会に入り、初めは聖マチアのヨハネと称したが、後に十字架のヨハネと改めた。アビラの聖女テレジアに協力してカルメル会の刷新にあたり、聖テレジアが修道女会を改革したように、彼は男子修道院を改革し、そのために種々の苦難に遭遇したが、終に成果をあげるに至った。
 また、彼は「カルメル山登攀」「暗夜」「霊的讃歌」「活ける愛の焔」を書いた。彼は、たえず主に、三つのことを求めていた。すなわち、主のために苦しむことのない一日もないこと、長上として死ぬことのないこと、人知れざる者として一生を終わること、この三つであった。1591年12月14日、帰天した。1726年12月26日、ベネディクト十三世により列聖。1926年8月24日、ピオ十一世教皇により、教会博士と宣せられた。

11月24日 殉教者、聖クリゾゴノ

 聖クリゾゴノは、ローマに住んでいたギリシァ人の信者で、四世紀の始め、ディオクレツィアノ皇帝の時、長らく投獄され、皇帝の前で信仰を告白して首をはねられた。ミサ聖祭典文中に、その名が録されている。

11月25日 童貞殉教者、聖女カタリナ

 エジプトのアレキサンドリアの聖女カタリナは、若くして深い信仰と学識とをもち、彼女の敵にまわった哲学者たちを論駁し、その内の何人かを回心させた。キリストへのその信仰のために、305年、斬首された。十四救難聖人の一人であり、キリスト教哲学者の守護聖人。

11月26日 大修院長、聖シルヴェストロ

 シルヴェストロ・ゴッツォリーニは、1177年オジモ(イタリア)で生まれた。彼は、美貌をもてはやされていたある人の屍を見た時聖寵に打たれ、世間をすてようと決心した。その時彼は、「いま私は、かつてこの人がそうであった通りの者だが、いつか私も、今かれがなっているこんなふうになるであろう」といったという。
 彼は、聖ベネディクトの戒律を守るシルヴェストロ会を創立した。1267年、九十歳で没した。1598年列聖。

11月26日 司教殉教者、アレキサンドリアの聖ペトロ

 聖ペトロは、アレキサンドリアの司教で、その叡智と聖徳において顕著であった。アリウス派の異端説を退けたので、311年、マクシミアノ・ガレリオ皇帝の命令によって殺された。

11月27日 殉教者、福者レオナルド・木村とその伴侶

 福者レオナルドはイエズス会の修道士で、1619年11月18日(元和5年10月13日)他の四名の伴侶とともに長崎で殉教した。

11月28日 童貞、聖女カタリナ・ラブレ

 聖女カタリナ・ラブレは、1806年5月2日、コート・ドール(フランス)で生まれた。1830年、聖ヴィンチェンツィオ・ア・パウロの愛徳童貞会の修道女となった。1838年11月23日、土曜日、聖母マリアがあらわれ、「奇蹟のメダイ」(不思議のメダイ)の姿をお示しになった。この聖女は、修道院のいやしい仕事を完き従順と信心、沈黙のうちに、四十五年間はたし、1876年12月31日帰天。1947年7月27日、ピオ十二世により列聖された。

作成日:2002/07/15

最終更新日:2002/07/21

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