ファチマの聖母マリア

聖母のスカプラリオの約束

「危険における保護」

The Fatima Crusader Issue 69, Winter 2002より

ハワード・ラファティ神父、O. Carm.

あなたのスカプラリオを大いに重要視してください。それは救いの一つの保証です。「このスカプラリオを取りなさい。それを身に着けて死ぬ者は誰でも永遠の死を蒙ることはないでしょう。それは救いの一つのしるし、危険における保護、そして平和の保証であるでしょう。」これは1251年7月16日に聖シモン・ストックになされたマリアの御約束です。

あなたのスカプラリオは、そこで、あなたにとって一つの深い意味を持つべきです。それは聖母御自身によって天から持って降りられた一つの豊かな贈り物です。「それを信心深くそして根気強く身に着けなさい」と聖母は各々の霊魂に言われます、「それは私の衣服です。その衣服に纏われているということはあなたが絶えず私のことを考えているということを意味します。そして私は今度はあなたのことを常に考え、そして永遠の生命を確保するようにあなたを助けます。」

ハワード・ラファティ神父、O. Carm.による茶色のスカプラリオの物語から取られたスカプラリオの情報


なぜあなたはスカプラリオを身に着けるのか?

    もしあなたがマリアの茶色のスカプラリオを身に着けるならば、あなたは聖シモン・ストックに紹介されたことになるでしょう。あなたは、あなたのスカプラリオにある彼の絵(聖母の御絵と並んで)からすでに彼を知っていることでしょう。実際、聖シモンは一人の年老いた友人です。なぜなら、私たちの祝せられた御母が「このスカプラリオを身に着けて死ぬ者は誰でも永遠の死を蒙ることはないでしょう」と言って、1251年にスカプラリオの約束をお与えになったのは彼に対してであるからです。

    私たちの時代の大きな謎の一つはカトリック教徒の大多数が祝せられたおとめマリアのこの天上的な約束を無視するか、

あるいはまったく忘れてしまったということです。聖母はさらにこう言っておられます:「スカプラリオを信心深くそして根気強く身に着けなさい。それは私の衣服です。その衣服に纏われているということはあなたが絶えず私のことを考えているということを意味します。そして私は今度はあなたのことを常に考え、そして永遠の生命を確保するようにあなたを助けます。」

    著名なイエズス会員であり、聖マルガリタ・マリアの霊的指導者であった聖クロード・ド・ラ・コロンビエール(Saint Claude de la Colombiere)は, 啓発的である一つの点を指摘しています。彼はこう言いました。「祝せられたおとめに対する私たちの愛のすべての形式、そしてその表現のさまざまの様式は彼女にとって等しく満足なものであることはできません。そしてそれゆえに、私たちを天国へ到達させるために同じ程度において私たちを助けるものではありません。私は、一瞬の躊躇なしに言いますが、茶色のスカプラリオはすべてのものの中で最も好意を持たれているものです!」彼はまたこうつけ加えています。「茶色のスカプラリオよりも多くの真正の奇跡によって確証されてきた信心はなかった。」

旧約聖書の歴史

カルメル山の聖母(スカプラリオのマドンナ)への信心は聖シモン・ストックの時代の遙か以前に--われらの祝せられた主の時代以前にさえ--遡ります。それははるばるキリスト世紀前8世紀まで遡ります。偉大な預言者エリアがパレスチナにあるカルメルの聖なる山に登り、そこで観想的生活と祈りの長い伝統を始めたのはその時でした。キリスト降誕の数世紀前に聖なるエリアと彼の弟子たちが、来るべき神の御母、カルメル山の女王マリアに神秘的な仕方で献身したということを理解することは驚くべきことです。ほとんど3000年の後、祈り、観想そしてマリアへの信心の伝統はカトリック教会の中で生きそして広まり続けているのです。

時が満ちて、神は神・人、イエズスとなられました。私たちは新約聖書の4つの福音書からわれらの主の御生活、御死去、御復活そして御昇天を知っています。そして私たちはイエズスが御自分の名において教え、支配しそして聖化するために聖なるカトリック教会を後世に残されたことを知っています。

教会の誕生日である聖霊降臨の祝日にエリアと彼の弟子たちの霊的な子孫たちはカルメル山から降りて来ました。適切に、彼らはその日キリスト教のメッセージを受け、使徒たちによって洗礼を授けられた最初の人々でした。最後に、彼らが聖母に紹介され、そして聖母の口から甘美な言葉を聴いたとき、彼らは彼らが決して忘れなかった威厳と聖性の感覚によって圧倒されました。彼らの聖なる山に戻って、祝せられたおとめマリアに敬意を表してこれまでに建てられた中で最初の礼拝堂を建てました。その時から神の御母に対する信心は一つの大切にされている霊的な遺産としてカルメル山における隠修士たちによって伝えられました。

聖母が聖シモンに御出現になる

1241年にイギリスのド・グレイ男爵(Baron de Grey)はパレスチナの十字軍から戻って来ました。彼はカルメルの聖なる山から修道者の一団を連れて戻って来ました。帰着すると、男爵は修道士たちにアイレスフォード(Aylesford)の町にある一軒の荘園の家を気前よく提供しました。10年後、まさにその場所において、今は有名な聖シモン・ストックへの聖母の御出現が起こりました。聖なるおとめが聖シモンに茶色の羊毛のスカプラリオを手渡されたとき、次のように仰いました。「これはあなたとすべてのカルメル会員たちのための特典となるでしょう。その特典とはこの衣服を着用しながら死ぬ者は誰でも永遠の火を蒙らないということです。」やがて、教会はこのすばらしい特典をカルメル会員たちの茶色のスカプラリオを喜んで着用し、それを永続的に身に着けるすべての平信徒に拡げました。

多くのカトリック教徒は彼らの初聖体の時に茶色のスカプラリオを着用します。改宗者たちの場合には、その着用は信仰告白と同時に行われます。ある人が茶色のスカプラリオ兄弟会に入会して、その茶色の羊毛の小さな衣服を纏うとき、司祭はその人にこう言います。「この祝福されたスカプラリオを受けなさい。そしていとも聖なるおとめに、その功徳によって、それが罪の汚れなく着用され、そしてあなたをすべての害から守り、あなたを永遠の命へと導くように願いなさい。」以下の真実の話は、私たちの祝福された御母がどのように御自分の約束を守られるのかについての簡潔な考えを与えるでしょう。

恵みの奇跡

一人の司祭は、ある日シカゴの近くのある町で多年にわたって秘蹟から遠ざかっていた一人の男の病床にどのように呼ばれたかを話しています。「その人は私に会うことを望みませんでした。彼は話そうとしませんでした。それから、私は、持っていた小さなスカプラリオを見るように彼に頼みました。『もし私がこれをあなたの上に置くならば、あなたは着用するつもりがありますか? 私はそれ以上何も求めません。』彼はそれを身につけることに同意しました。そして1時間以内に彼は告解をして、神と和解することを望みました。このことは私を驚かせませんでした。なぜなら、700年以上にわたって聖母は御自分のスカプラリオを通じてこのように働いてこられたからです。」

聖母が聖シモン・ストックにスカプラリオをお与えになったまさにその日に、彼はリントンのペーター卿(Lord Peter of Linton)に急いで来るように呼ばれました。「神父様、早く来てください、兄が絶望のうちに死のうとしています!」聖シモン・ストックは直ちにその死のうとしている男のベッドの傍へ行くために出かけました。到着すると彼は自分の大きなスカプラリオをその男の上に置き、われらの祝せられた御母にその御約束を守ってくださるよう願いました。直ちにその男は痛悔し、恵みと神の友好のうちに亡くなりました。その夜死んだ男は弟のところへ現れ、こう言いました。「私は最も力強い女王と盾としてのあの人の衣服を通じて救われた。」

聖アルフォンソは私たちにこう言っています。「現代の異端者たちはスカプラリオの着用を嘲笑っている。彼らはそれをそのように取るに足らない無意味なものとしてけなしている。」にもかかわらず、私たちは多くの教皇様方がそれを承認し、また推奨して来られたということを知っています。スカプラリオの幻視のちょうど25年後に福者教皇グレゴリオ10世はスカプラリオを着用して埋葬されました。彼の死から600年後に彼の墓が開かれたとき、そのスカプラリオは無傷のまま発見されました。

修道会の2人の偉大な創設者、レデンプトール会の聖アルフォンソとサレジオ会の聖ヨハネ・ボスコはカルメル山の聖母に対する非常に特別の信心を持っておられ、そして両者とも聖母の茶色のスカプラリオを着用しておられました。彼らが亡くなられたとき、それぞれの方は司祭服とスカプラリオを着用した姿で葬られました。何年も経った後に彼らの墓は開かれました。身体とそれで彼らが葬られた聖なる[司祭]服は腐食して塵になっていました!しかしそれぞれの聖人が着用しておられた茶色のスカプラリオは完全にそのままで残っていました。聖アルフォンソのスカプラリオはローマにある彼の修道院に展示されています。

悪魔に対する保護

あなたは、尊者フランシス・イープ(Venerable Francis Ypes)の物語を聴くとき、なぜ悪魔がスカプラリオを促進する人々に対して働きかけるのかを理解するでしょう。ある日、彼のスカプラリオがはずれて地に落ちました。彼がそれを元通りにすると、悪魔が吼えました。「われわれからそのように多くの霊魂を連れ去るその衣服を脱げ!」その場でフランシスは悪魔に彼らが最も恐れている三つのことがあるということを認めさせました。すなわち、イエズスの聖なる御名、マリアの聖なる御名、そしてカルメルの聖なるスカプラリオです。そのリストに私たちは聖なるロザリオを加えることができるでしょう。

偉大な聖ピーター・クレイヴァー(St. Peter Claver)はスカプラリオを非常によく利用した神の英雄たちのもう一人の人でした。毎月南米コロンビアのカルタヘナに1000人の奴隷の船荷が到着するのでした。聖ピーターは奴隷たちの救いを確実にするのを常としていました。最初に彼は彼らに教えを与えるためにカテキストたちを組織しました。次に、彼は彼らが洗礼を授かり、そしてスカプラリオを着せられるように配慮しました。何人かの教会人たちは聖人を無分別な熱意だとして非難しました。しかし聖ピーターはマリアが彼の300,000人以上の回心者の一人一人を見守ってくださるであろうと信頼していました。

聖母は一人の宣教師を保護される

1944年のある日、聖地で一人のカルメル会の宣教師が終油の秘蹟を与えるためにある抑留者収容所へ呼ばれました。アラブ人のバス運転手はその収容所から4マイルのところで司祭を降りさせました。なぜなら、道路は危険なほどにぬかるんでいたからです。2マイル進んだ後、その宣教師は彼の両足がぬかるみの中へだんだん深く沈んで行くのが解りました。堅い足場に達するよう努力しながら、彼はぬかるんだ池の中へ滑り落ちました。この絶望的な場所で死の方へと沈んで行きながら、彼は聖母とそのスカプラリオのことを考えました。彼は自分の大きなスカプラリオに接吻しました--なぜなら、彼は完全な肩衣を着用していたからです--そして神の御母に対する信心の発祥地、カルメルの聖なる山の方向を見ました。彼は声を上げて叫びました。「カルメルの聖なる御母よ!私を助けてください!私を救ってください!」一瞬の後、彼は自分が堅固な地面の上にいることを見ました。後になって彼はこう言いました。「私は祝せられたおとめによってその茶色のスカプラリオを通して救われたことを知っています。私の靴は泥の中に失われました。そして私は泥だらけになりました。しかし、後の2マイルをマリアを讃美しながら歩きました。」

海から救われた

繰り返し話すことができるもう一つのスカプラリオの話は1845年に起こりました。その年の夏の終わり頃、イギリス船「大洋王」号は激しいハリケーンの真っ只中にいました。風と海が無情にも船を激しく打ったので、プロテスタントの牧師はその妻と子どもたちそして他の乗船者と一緒に、終わりが近いと思われたので、憐れみと赦しを祈るために甲板へやっとのことで上がりました。乗組員の中に一人の若いアイルランド人ジョン・マコーリフ(John McAuliffe)がいました。状況の緊急性を見て、その青年は自分のシャツの前を開き、スカプラリオを取り出しました。そしてそれで荒れ狂う波の上に十字のしるしをして、それを海の中へ投げ込んだのです。まさにその瞬間に風が静まりました。ただもうひとつの波が甲板を洗い、それと共に青年の足許に来てとどまるようにスカプラリオをもたらしただけでした。その間中、牧師(フィッシャー氏)は注意深くマコーリフの行動とそれらの行動の奇跡的な結果を観察していました。青年に質問をして、彼らは聖なるおとめと彼女のスカプラリオについて話を聴きました。フィッシャー氏とその家族はたいそう感銘を受けたので、できるだけ早くカトリック教会に入り、そしてそれによって聖母のスカプラリオの同じ保護を享受することに決めました。

火から救われた家

われわれ自身の時代により近い1957年の5月に一人のカルメル会の司祭がドイツでスカプラリオがどのように一軒の家を火から救ったかの珍しい話を出版しました。ドイツ、西ボーデンでたくさんの家族が居住する一つの家並み全体に火がつきました。ある2家族住宅の敬虔な住人たちが火を見て、直ちにスカプラリオをその家の玄関の扉に張りつけました。火花がその上そして周りに飛びましたが、その家は害を受けないままでした。5時間のうちに22の住宅が灰燼に帰しました。その破壊の真ん中で害を受けずに立っていた唯一の構造物はその扉にスカプラリオが張りつけてあった家でした。聖母が救われたその場所を見に来た数百人の人々はスカプラリオの力と祝せられたおとめマリアの執り成しの証人です。

列車事故

すべてのスカプラリオの出来事のなかでも最も異常な出来事の一つがまさにここ合衆国で起こりました。それは世紀の変わり目頃[1900年頃]オハイオ州、アシュタブラ(Ashtabula, Ohio)の町で起こったのです。一人の男が列車に轢かれて真っ二つになったということです。彼はスカプラリオを身につけていました。直ちに死ぬ代わりに--普通は即死ですが--彼は生き続け、そして45分の間--司祭が到着して終油の秘蹟を執り行うまでちょうど十分な時間--意識があったのです。これらの、そして他のそのような出来事はわれらの祝せられた御母が私たちの死の時に私たちに個人的な配慮をしてくださるということを告げています。マリアはそのように偉大なそして力強い御母なので、決してスカプラリオの契約を守ることに失敗なさることはない、すなわち、私たちが神の恵みのうちに死ぬということを見るのです。

一人の司祭の生命が救われる

なお別のスカプラリオの奇跡は巡礼に出かけた一人のフランス人司祭に関係しています。ミサを捧げに行く途中で、彼は自分のスカプラリオを忘れてきたことを思い出しました。彼はもしそれを取り戻しに行ったならば遅刻するだろうということを知っていました。しかし、彼はスカプラリオなしで聖母の祭壇でミサを捧げることを想像することができませんでした。後で、彼が聖なる犠牲を捧げていたとき、一人の若い男が祭壇に近づき、銃を取り出してその司祭を背後から撃ちました。皆が驚いたことには、その司祭はあたかも何事も起こらなかったかのように、ミサの祈りを唱え続けました。最初、弾丸が奇跡的にその的を外したのだと考えられました。しかしながら、詳しく調べてみたら、弾丸はその司祭がそれなしでいることを頑固に拒否したその小さな茶色のスカプラリオに貼りついて見つかりました。

回心

私たちはスカプラリオを非カトリックの人々にさえ与えるべきです。なぜなら、次の真実の話が示しているように、聖母はそれを着用して毎日天使祝詞を唱える人々に回心をもたらされるからです。一人の老人が無意識で死にそうになって、ニューヨーク・シティの病院に大急ぎでかつぎ込まれました。看護婦は茶色のスカプラリオを患者の上に見て、司祭を呼びました。その死んで行く男のために祈りが唱えられていたとき、彼は意識を回復し、こう叫びました。「神父様、私はカトリックではありません。」司祭はこう尋ねました。「ではなぜあなたは茶色のスカプラリオを身につけているのですか?」「私は友人たちにそれを身につけることを約束しました。」と患者は説明した。「そして一日に一回天使祝詞を唱えています。」司祭は彼に告げた。「あなたは死にかかっています。カトリックになることを望みますか?」死にかかっている人は答えました。「生涯ずっとカトリックになりたいと望んでいました。」彼は洗礼を受け、終油の秘蹟を受け、平和のうちに亡くなりました。聖母はもう一つの霊魂を彼女のスカプラリオを通じて彼女のマントの下に置かれたのです。

熱心さへの呼びかけ

1952年10月にテキサスの一人の空軍将校は次のように書きました:「6ヶ月前、スカプラリオを着用し初めてすぐ後に、私は自分の生涯の中で一つの顕著な変化を経験しました。ほとんど直ぐに、私は毎日ミサに行き始めました。しばらく後に、私は毎日御聖体を受けに行き始めました。私は以前には一度も経験したことがなかった熱心さで四旬節を過ごしました。私は黙想の実践へ導かれました。そして完徳への道を少しばかり試みようとしている自分を見出しています。私は神と共に生きようと努力してきました。私はマリアのスカプラリオを信用しています。」

スカプラリオを着用する必要性

1930年代のスペイン市民戦争の間に7人の共産党員が彼らの犯罪のゆえに死刑の宣告を受けました。一人のカルメル会の司祭がその男たちを死のために準備しようと試みましたが、彼らは拒否しました。最後の手段として彼は彼らに宗教の話はしないと保証して、男たちにたばこ、食物そしてぶどう酒を持って行きました。しばらくの間に彼らは皆友好的でした。それで彼は一つの小さな願いごとを彼らに頼みました。「あなたたち一人一人の上にスカプラリオを置くことを私に許してくれますか?」6人は同意しました。1人は拒否しました。間もなくスカプラリオをつけた者は皆告解に行きました。7人目の男は拒否し続けました。ただ彼らを喜ばせるためにだけ、彼はスカプラリオをつけましたが、それ以上のことは何もしようとしませんでした。朝が来ました。そして処刑の瞬間が近づいてきたとき、7人目の男は司祭を求めるつもりのないことを明らかにしました。スカプラリオを身につけてはいたけれども、彼は神の敵として死のうと決心していました。ついに命令が下されました。射撃隊はその全く正確な仕事を果たしました。そして7つの生命のない体が塵の中に手足を伸ばして横たわりました。不思議なことに、一つのスカプラリオが死体からおよそ50歩ほど離れたところで見つかりました。6人の男はマリアのスカプラリオと共に死にました。そして7人目の男はスカプラリオなしに死にました。聖クロードは無くなったスカプラリオの不思議の解決を私たちに与えています:「あなたは尋ねる、『もし私が自分の罪のうちに死ぬことを望むならばどうですか? 』と。私はこう答える、『そのときあなたはあなたの罪のうちに死ぬでしょう、しかしあなたはあなたのスカプラリオのうちに死なないでしょう』と。」聖クロードは3度溺死することを試みた男の話を告げています。彼は意志に反して救出されました。ついに彼は自分がスカプラリオを身に着けているということを理解しました。自分の生命を捨てる決心をして彼は首からスカプラリオをはぎ取り、水の中へ捨てました。マリアの保護の衣服なしに彼は自分の望みを果たしました。そして自分の罪のうちに死にました

さらなる奇跡

グアテマラの一人のイエズス会の宣教師は聖母のスカプラリオの保護についての一つの出来事を告げています。1955年11月に27人の乗客を乗せた飛行機が墜落しました。一人の若い女性を除いて全員が死亡しました。彼女は、飛行機が落ちて行くのを見たとき、自分のスカプラリオを握り、マリアに助けを求めました。彼女は火傷を負い、彼女の衣服は灰になりましたが、しかし彼女のスカプラリオは炎によっても無傷でした。

同じ年の1955年に似たような奇跡が中西部で起こりました。3年生の男児がガソリンスタンドで自転車のタイヤの空気を入れるために立ち寄りました。ちょうどそのとき、爆発が起こりました。少年の衣服は燃え尽きました。しかし彼の茶色のスカプラリオは無傷のままのこりました。マリアの保護のシンボルです。今日でも、彼はそのときの爆発による二三の傷跡を帯びているけれども、危険のときの祝せられた御母の保護を思い起こす特別の理由を持っているのです。

以下に述べる話は真実です。それはもともとはあるドイツの雑誌に"Seine Mutter Meine Mutter"(彼の母は私の母)という題でA. M. Weigl によって公表され、Anna C. Pertschによって英語に訳されました。それはFatima Findings in Baltimore, MD, a publication of the Reparation Society of the Immaculate Heart of Mary の好意によって再版されました。

2人の生命を救ったスカプラリオ

私の大隊はイレーヌ・ブリゲイド(Irene Brigade)のメンバーでした。私たちはちょうど前進しようとしていたところでした。私たちがアイントホーフェン(Eindhofen)を通過した後、私たちのトラックと戦車はウデン(Uden)を通り抜けました。夕方私たちはニジメゲン(Nijimegen)の近くの古い農家に野営しました。家の背後に煉瓦に取り囲まれた古い木製のポンプがありました。これは何時間もの戦闘の汗と埃を洗い流すために兵士にとってすばらしい機会を提供してくれました。私たちがこの機会をよく利用したということをあなたはよく想像することができます。私はそのグループの一人でした。そして私は上着を地面に放り投げ、体を洗っている間私のスカプラリオをポンプにかけていました。

恐るべきニュース--1時間後、私たちはさらに1マイル半ほど先に前進し、そこの塹壕を占領するよう命令を受けました。私たちはその塹壕の中で平和な夜の眠りを得ることができることを期待していました。

私は横になろうとして、襟のボタンをはずしたとき、スカプラリオをもはや身につけていないことに気がついて恐ろしくなりました。それは母からの贈り物でした。私は戦闘の間中ずっと肌身離さずにそれをつけていたのでした。そして今や私たちはライオンのねぐらに近づいているからには、私はスカプラリオなしでいるべきだったのでしょうか?

それを取りに戻ることは考えられないことでした。それで私はもうそのことについては考えないように努めました。そして眠ろうとしました。私は輾転反側して眠りに入ることができませんでした。

私の周りでは仲間たちが皆、ときどき砲弾が危険なほど近くに落ちていましたけれども丸太のように眠っていました。ついに私はスカプラリオを取りに行きたい気持ちに負け、眠っている仲間の間を這い出しました。歩哨をやり過ごすことはそれほど容易なことではありませんでしたが、なんとかやり遂げて、私たちが来た道を走って戻りました。そこは真っ暗闇でした。しかしそれにもかかわらず、私は幸運でした。間もなく私は農場のポンプのところに戻りました。私は両手でポンプのあらゆる個所を手探りしましたが、スカプラリオはなくなっていました。私がちょうどマッチをすったその時に恐ろしい爆発音が響きました。私は何をなすべきだったのでしょうか? それは敵の攻撃のしるしだったのでしょうか? できるだけ速く私は私たちの塹壕に駈け戻りました。おそらく私はそこで仲間たちのために何かをすることができるでしょう。

非常に近い呼びかけ--塹壕の近くに私は工兵隊員たちが泥の塊や有刺鉄線を大急ぎで取り除くために忙しく働いているのを見ました。私の仲間たちが眠っていたまさにその個所に巨大な砲弾の穴がぽっかりと開いていました。敵はこの塹壕を立ち退く前に、その中に時限爆弾をしかけていて、私の不在中にそれが爆発したのでした。その爆発から誰も生き残る者はいませんでした。もし私がスカプラリオを取り戻しに出かけていなかったならば、あの瓦礫の下にやはり葬られていたことでしょう。

「君はそこにいたけれども!」--翌朝、私は野外の調理場に行ってそこで一人の仲間に会いました。彼は私を驚いて見ました。「僕は君があの塹壕にいたと思ったよ!。」

「そしてあそこに葬られたと思ったよ”」

友人は続けて言いました。「僕は塹壕の中に横になっていた。でも眠りに就く前に僕は君を探しに出かけた。しかし、君を見つけることはできなかった。伍長はあたりを探し回っている僕を見て何を欲しいのかと尋ねた。僕がそこで何をしていたかを彼に言うと彼は言った。『賢くなれよ!代わりに近くのあの宿屋に行って水を1瓶買って来てくれ』それで僕が使い走りに行っていたとき、爆発が起こったんだ。」

私にスカプラリオを渡してくれた--「そうなんだ、僕は間一髪のところでそれから逃れたんだ。」私は答えました。「でも、いったいなぜ夜そんなに遅くに君は僕を捜していたの?」

「君にこれを渡すためさ」と彼は答えました。そして彼が古いポンプから取って置いてくれた私のスカプラリオを私に手渡しました。

2004/04/01 三上 茂 試訳

作成日:2004/04/01

最終更新日:2004/04/01

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