ファチマの聖母マリア

サタンの悩みの種、マリアの聖なるロザリオ

The Fatima Crusader, Issue 72, Winter 2003より

ジーノ・ブッレシ神父

ジーノ・ブッレシ神父はローマの近くのサン・ヴィットリーノ(San Vittorino)に住んでいた。そこでファチマの聖母が彼に御出現になった。聖母は彼にそこに聖母の栄誉のために一つの聖堂を建てるように頼まれた。彼は、彼以前にパードレ・ピオが受けたのと同じように、キリストの5つの御傷を彼の身体に持っている。ファチマの聖母の執り成しを通じてサン・ヴィットリーノでは多くの奇跡が起こった。

聖母は神の御母そしてわれわれの御母である。そして聖母は教会の御母である。しかし聖母はまたわれわれの心から、そしてしばしば同様にわれわれの教会からも追放され、廊下の中へと押し出され、あるいは庭園へと左遷させられてきた。私は自分が残した自分の母親の形見、彼女の写真を取り出しそれを投げ出すというようなことを決して考えるないであろうし、またそうする勇気はないであろう!

それにもかかわらず、聖母の信心そして聖母がわれわれに最も強くお求めになった祈り、ロザリオは掘り崩されてきた。そしておそらく修道者の衣服を着ているわれわれのうちのある者はあなたに、ロザリオは時代遅れの信心、言葉の退屈な繰り返しであると告げる最初の人間であった--主よわれわれを赦し給え--かもしれない。

しかし私は別の人間を本当に愛している人は彼が心から愛している人間に「私はあなたを愛しています」と言うことに決してあきることはない。ロザリオにおいてわれわれは聖書、預言者たち、イエズスとマリアの生涯、キリスト者の生活そして修道者の生活を持っている。それゆえに、私はロザリオを「サタンの悩みの種」と呼ぶであろう。以下のことがわれわれの決心でありますように:すなわち、秘蹟に対して、教皇に対して、そして祝せられたおとめに対してもっと愛を持つこと。

もしわれわれが、これらのわれわれの信仰の礎石の一つすらでも拒否するならば、われわれは自らをキリストの教会の外に置くのである。

神への道に沿ってわれわれを手伝う4つの助けとなるもの

祈り、告解と聖体の秘蹟、痛悔そして日曜日と聖日を聖とすることは神への道に沿ってわれわれを手伝う4通の助けとなるものである。ちょうど自動車が三つの車輪でよりは四つの車輪の支えでより効率的に動くのと同じように、われわれは、第四番目の車輪--われわれがミサに行かなければならない日曜日--を使うとき正しい道に沿ってより効果的に動くのである。

日曜日の聖化は神に対する感謝の最も道理にかなった好意である。今日、週末に給料を彼に否定する雇用者のために働こうとする人間はいない。彼は給料を強く要求する。そしてそれが時間通りに来なければ、あるいはもしそれが十分に支払われなければ、彼は自分の権利を要求して闘う。これはまったく正当化されることである。私はそのことを全然問題視しないであろう。

しかしわれわれは、われわれが天に御父を持っているということ、そして家庭の父親もまた彼の子どもたちに対してある種の権利を持っているということを忘れがちである。父親は子どもたちにこう言うことができる:「君たちは何かあるものを求めるために私のところにいつも来る。しかし君たちは私に決して何もくれない!」われわれは他の7日を生活してきた。日曜日にはわれわれは帽子を脱ぎ、主にこう言うことは正しくないだろうか? 「主よ、私はあなたが私に下さった7日間のためにあなたに感謝するためここにいます」と。実際、神はそのように僅かなことに満足なさるのだ!

祈り

聖母はその大きな愛においてわれわれに善きキリスト教徒になるための最も効果的な手段を指摘なさった。第一は祈り:すなわち、神と会話を行いそして神との一致のうちにとどまることである。われわれと同じように大地を歩かれたわれわれの兄弟なる聖人たちはその価値を理解され、そして偉大な祈りの人となられた。つい最近、自分は実際「それと共に」あったと考えた一人の男がまったく真面目に、祈りは時間の浪費であった、そして結局、あらゆることが今日一つの祈りであると私に告げた。まあ、それは単に祈らないことに対する一つの気まぐれの言い訳なのである。そして私はその日以来、私がわれらの主にこう言ってきたということをあなたに保証する。「主よ、私があなたの前で跪くとき、私が時間を浪費しているというどんな考えからも私を取り除いてください」と。

聖母は聖なるロザリオを唱えることを一つの祈りとしてあくまでも強調して来られた。世界の状況は今日非常に悲しむべきものである!愛を見出すことは困難であり、そして慈善、善、そして正義は不振であり人間人格の尊厳は速く薄れている。今日、人々はただ権利、金、福祉だけを語る。そして彼らは霊的な諸価値を無視している。

親愛なる若人よ、この悲しい状況を変えるためにわれわれは何をすることができるのか? ファチマの聖母はそのメッセージの中で救いの道をわれわれに示しておられる。暴力の武器は祈りの武器で対処されなければならない。聖母は福音書全体を含んでいる三つの玄義を考え黙想しながら、ロザリオの祈りを唱えるようわれわれを招いておられる。われわれは何度もロザリオの祈りを唱え、そしてそれをよく祈る必要がある。

たとえ彼らが司祭であるとしても、あなたに違った風に告げる人々に注意を払ってはいけない。代わりに彼らに、どうすればロザリオをよく唱えるかをあなたに教えるように告げなさい。聖母はわれわれに警告するため、そしてわれわれ自身を救う方法を示すために天から来られた。聖母は現代のファリザイ主義を根絶するためにファチマで御出現になった。

聖なるロザリオに立ち帰ろう

マリアのマントにすがりつくこと、もう一度われわれの手にロザリオを持つことがわれわれにとって緊急のことである。しかしもし羊飼いがその手にロザリオの珠を取らないならば、羊もまた取らないであろう。

親愛なる司祭たち、私はあなたたちの手にもはやロザリオを見ない。そしてあなたの小教区の諸々の家庭もまたロザリオを持っていない。そしてあなたは彼らがどうなるかを見ている。マリアのロザリオはもはや家庭の中で見出されない。しかしわれわれは離婚、別居そして不和を見出している。そこにはもはや祈りがない。そして祈りの欠如はこれらの人々を秘蹟から離れさせている。祈りと秘蹟を持たない人々はすべてのものを欠いている、とあなたは確信することができる。そしてそのようにして家庭もまた解体するのである。

われわれが再びわれわれの家庭にロザリオを持つまで

われわれの時代は、神を失ったがゆえに、うろたえている。そして見よ、そこから逃れ出る道はない。もしわれわれが救われることを望むならば、ただ一つの道しかない:その道はいとも聖なるマリアとその汚れなき御心である。しかし、マリアの祝せられたロザリオがわれわれの手にあるまでは、私は希望を見ない。脱出は一つの幻想であろう。

もしロザリオが戻って来るならば、そのときわれわれはわれわれのキリスト教的生活についてもう少し真剣に考え、キリスト教的諸徳をもっと評価し、そしてわれわれの邪悪さの多くのものがわれわれが徳において成長するにつれて消失するであろう。われわれはもっと愛を持ち、より利己的でなくなり、そしてただわれわれを絶えず落ち着かなくさせる非常の多くの物質的な事物から離れるであろう。われわれはまた、皆われわれの兄弟であるすべての人々のための導きの光として、イエズス・キリストによって建てられた教会にもっと注意して従うために、十戒をもっと良心的に守るであろう。

マリアのための15分間:毎日のロザリオ

毎日15分間をマリアのロザリオのために取っておきなさい。あなたが本当に諸玄義を祈るために、マリアに15分を捧げなさい。

聖なるロザリオのうちに、私は単純化された聖書全体を見出す。4つの福音書がロザリオの中に含まれている。そこに私はキリストの来臨、私の救済、私のキリスト教生活そして私の修道生活を見出す--なぜなら、ロザリオの玄義のうちに、われわれは謙遜、この世の諸々の事物からの離脱、われわれの仲間の男女と関わる際の愛を見るからである。あらゆる事柄がロザリオにはある!

そしてそれから私は考え始めた。私は適切に振る舞っているだろうか? 私は福音書が要求しているように、ロザリオが教えているように、行動しているだろうか? 私は主祷文において私が実際に言っていることについて考えているだろうか? と。

ロザリオの価値

祝せられたおとめマリアが特に最も望まれている祈りはいとも聖なるロザリオである。われわれはこのことをマリアのファチマでの御出現から知っている。今日この祈りはひどく反対され、そしてそれに反対している人々は自分たちを「賢明な者」と呼んでいる。彼らはすでにロザリオを放棄していた。なぜなら、彼らにとってロザリオは何も言っていない祈り、言葉の無益な繰り返しであるからである。実際、私は彼らのために気の毒に思う。

ロザリオにおいてわれわれはイエズスの生活、マリアの生活そしてわれわれ自身のキリスト教的生活を黙想する。それゆえ、それは最も価値のあるものである。なぜ神はロザリオを唱えることをそのように強調なさるのか? なぜなら、諸玄義のうちにわれわれは福音書全体を見出すからである。不幸なことに、聖福音はあまり知られず、ほとんど黙想されず、そしてその結果適切に生きられていない。われわれが福音に戻り、キリストの真の弟子となるのは本当にロザリオを祈ることにおいてである。

マリアは一つの記憶ではなくて、一人の生きておられる人間である。われわれは祈るとき、特にロザリオにおいて祈るとき、マリアと話し、会話するのである。なぜなら、そこでわれわれは黙想しそしてわれわれが黙想したことを実践に移すためにマリアに助けを願うからである。司教が未来のアルスの司祭の叙階をまさに決心しようとしたとき、彼は躊躇した。なぜなら、聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネーは彼の勉学において非常にわずかの能力しか持っていなかったからである。しかしそのとき司教は尋ねた。「あなたはロザリオの祈り方を知っていますか?」「おお、もちろん非常によく知っています」と彼は答えた。そしてそれから司教は言った。「われわれは彼を叙階しよう。彼はよい司祭になるだろう。」

志願者、修道者、あるいは神学生がロザリオを好まないとき、彼あるいは彼女を家に帰しなさい。なぜなら、そのような人間は決してよい司祭あるいはよい修道女にならないであろうから。

家庭のロザリオ

われわれは今ロザリオを唱えたばかりである。しかしあなたは、なぜ神がそのように多くの家庭にお入りになることができないか、自問したことがなかったか? それは、非常に多くの家庭がもはや祈らないからである。彼らは秘蹟を与らない。そしてそのように彼らは徐々に、窒息し、盲目になり、そして彼らを暗闇の中に置き去りにすることに終わる物質主義に冒されるようになるのである。

過去の時代には聖母の御絵の前に一緒に、小さな子どもたちでさえ、集まり、そして両親が子どもたちに主祷文や天使祝詞を教え、そして次にすべての者がロザリオを唱える、そういう家庭の一部であることが喜びであった。しかし今はわれわれはロザリオを落としてしまった。われわれの子どもたちはそれが何であるかさえ知らないのである。

しかし、親愛なる両親の皆さん、もしわれわれがロザリオをわれわれの子どもたちの手に置かないならば、あなたの息子たちは彼らが18歳になったとき、何を持っているであろうか? 彼らはその青春を無益に過ごすだろうか? もし彼らが「愛の武器」を見出さなかったならば、あなたはいつか銃を、憎しみの武器を持っている彼らを見出すであろう。そして彼らの両親は部分的に非難されるべきではないであろうか?

ロザリオか、それともピストルか

われわれは再びわれわれの手にロザリオを取らなければならない。なぜなら、われわれは何かにすがりつく必要があるからである。もしあなたが愛について語るロザリオの珠を選ばないならば、おそらくあなたは憎しみについて語るピストルを得ようとするであろう。われわれはこの種の事柄を毎日見ている。

われわれはロザリオの祈りをしている人々が誰かを撃ち殺すように変わったのを見出さない。いいえ、彼らはロザリオのうちには愛の秘義があるということを学んだのである。そこには愛の聖書がある。そこには愛の預言者たちがいる。そしてそこにはまた愛の生活、われわれ自身のキリスト教的生活がある。

われわれは跪くことへと戻ろう、そして神の御子とその祝せられた御母がわれわれ一人一人に、神の聖なる御意志が毎日われわれにお送りになることに満足する力を与えて下さるように、そしてわれわれが、われわれを真に幸せにすることができないこの世の諸事物に決して執着することがないように、主に祈ろう。われわれの必要な物が満たされるとき、それはわれわれを満足させるに十分であるべきである。もしあなたが必要とするものが小さな車であるならば、なぜ大きな車を得るためにあなたの背負いきれない荷を負うのか?

今日の世界は不満そうであり、そして平和を知らない。あの「別の世界」、われわれの内的自己でさえ不安定である。なぜか? なぜなら、われわれは物質主義にわれわれの心を奪われたからである。そして物質主義が支配しているところには平和の創り主であるキリストはお入りにならないのである。

5回の初土曜日の償いの聖体拝領

ファチマの聖母によって要求された、よいカトリック教徒であるための第二の手段は告解と聖体の秘蹟をしばしば受けることによって特徴づけられる。「しばしば御聖体拝領に行きなさい。時にこれらの特別の意向のために、5回の初土曜日にそうしなさい。あなたたちがそのようにひどく背いた私の聖心に対する償いを捧げるために御聖体を受けなさい。」

不幸なことに、われわれはわれわれの偉大な、そしてすべての女性の中でもいとも聖なる御母が最もひどく扱われ、背かれておられることを認めなければならない。われわれ自身によって、また他の人々によってこの御心に対して引き起こされた苦痛に対する償いをしよう。本当にわれわれの秘蹟的な生活、特に告解と聖体拝領を生きよう。そのようにしてわれわれは常にわれわれの心のうちに光を持つであろう。もはや罪を犯さず、愛するために、言葉ではなく、行いを、愛に適切に答えるために。

われわれの時代のいかに多くの聖人たちがロザリオと聖体拝領のゆえに完成の高みに達したことであろうか!いかに多くの聖人たちが祝せられた秘蹟[御聖体]の前に跪いて教会で夜を過ごしたことであろうか!

今日、イエズスはわれわれの教会で独り取り残されておられる--しかし人間たちもまた今日孤独にとどまっている。なぜなら、われわれがイエズスを失うとき、われわれはあらゆるものを失うからである。

2004/04/05 三上 茂 試訳

作成日:2004/04/05

最終更新日:2004/04/05

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