ファチマの聖母マリア

葬り去ろうという努力にもかかわらず
教皇ヨハネ・パウロ2世はわれわれに
真の第三の秘密の鍵を与えておられる

第Ⅱ部

The Fatima Crusader Issue 68, Autumn 2001より

ファチマの聖母は言われました。「ポルトガルにおいては、信仰の教義は常に保たれるでしょう、等々」教義とは何でしょうか? そしてこれは第三の秘密とどんな関係があるのでしょうか? グルーナー神父は熟達した仕方でわたしたちに以下のことを示しています。すなわち、わたしたちはどのようにして自分たちの霊魂を守ることができるか? 疑いの影なしにどのようにしてカトリック信仰がわたしたちに要求することを知ることができるか? そして このことがどのようにして第三の秘密のもっとも深い部分の内容を理解するよう私たちを助けるのか?

ニコラス・グルーナー神父,S.T.L.,S.T.D.(Cand.)


この論考の第Ⅰ部(65号)においてわたしは教皇ヨハネ・パウロ2世が1982年5月13日および2000年5月13日の説教の中で第三の秘密について何をわたしたに告げられたか、そしてこのことがわたしたちに対して何を意味しているか、検討しました。わたしは教皇様が第三の秘密の本質--カトリック信仰が(数ある中で)聖職者の三分の一によって現代掘り崩されているということ--をわたしたちにどのように明らかにされたかを論じました。そのことは今、信仰を掘り崩している教会の中のこれらの人々が誰であるかを問うことへとわたしたちを導きます。

質問:カトリック信仰を掘り崩している教会の中の人々の正体を知ることはなぜ重要なのですか?

 教皇聖ピオ10世は1907年の回勅Pascendiにおいてわたしたちのためにこの問いに答えておられます。その中で教皇様はこう書いておられます。「誤謬の徒党は単に教会の公然の敵の中に捜されるべきであるばかりでなく、...教会のふところ深くで捜されるべきです。彼らは悪意が多ければ多いほど、それだけ公然としていることが少なくなります。」これらの敵どもは「教会の敵によって教えられた有毒の教説を徹底的に吹き込まれた」平信徒や司祭です。そして彼らは自らを「教会の改革者」として推薦します。注5

 聖ピオ10世は次のように力説しておられます。

 「教会はこれよりも大きな敵を持ちません。なぜなら、彼らは教会の破滅のための彼らの計画を外部からではなく、内部から実行します。それゆえに、危険は教会のほとんど静脈や心臓そのものの中に存在します。その危害は教会についての彼らの知識がより詳細であるというまさにその事実からより確実です。」注6 「彼らは神学校や大学の教授陣を捕まえ、そして徐々に彼らを悪疫の座とします。」注7 「これらの人々からその仮面を剥ぎ取り、教会に彼らをありのままに示す時です。」注8

質問:誰がよい人であり、誰が悪い人であるかをわたしたちはどのようにして告げることができますか?

 ところで、ある人はこう言うでしょう。「さてところで、あなたは聖職者の三分の一が悪い者であると言われました。グルーナー神父さん、あなたが、そしてあなたのような司祭があの聖職者の三分の一の一部であり、そして自由主義者、進歩主義者そしてネオ・カトリック--あなたが彼らに与えようと望むどんな称号であろうと--がよい人であるとなぜわたしたちは言うことができないのですか?」よろしい、その答は再び不可謬的に定義されてきた事柄のうちにあります。それがあなたに、誰がよい聖職者や平信徒であり、誰がそうでないかをあなたに告げるものです。

 よい人は信仰を支持する人、イエズスの教説にすがりつく人です。そのことは聖書の中にあります。「あなたがたは、その実で彼らを見分ける」(マタ7:16)と言われるのはわれらの主です。それゆえ、あなたがたは、彼らが荘厳な定義によって定義されたものとしてのカトリック信仰を支持しているかどうかを見ることによって誰が信頼すべき人であるかを言うことができます。もし彼らがこのことをしているならば、そのとき彼らは適切な教説を支持しているのです。調べるべきもう一つのしるしは彼らが同様にカトリック信仰を生きているかどうかを見ることです。さらに、それは人々が司祭たちについて言っていることではなくて、司祭個人が実際に彼自身していること、また彼が実際に言っていることです。例えば、グルーナー神父について言われていることにもかかわらず、彼は従順な司祭です。--その理由はポール・クレイマー神父による「従順の問題」という論考の中で説明されています。それは「ファチマ・クルーセイダー」67号において公表されました。

 それゆえ、あなたがカトリック信仰の荘厳な不可謬的な定義を支持している聖職者--司祭、司教、枢機卿--を見出すとき、これらの人はあなたが従うべき聖職者です。荘厳な不可謬的な定義を、それらに直接的に矛盾することによってか、あるいはそれらに異議を唱えることによってか、あるいは定義に矛盾する、あるいは定義から逸脱するようそれらを定式化するよりよい方法があるとわたしたちに告げることによってか、そのいずれかで支持しない司祭、司教あるいは枢機卿(そして今日定義の修正を、定義が間違っている、定義が間違ってなされている、等々として、求める何人かの枢機卿がいます)、これらの人々はあなたが従うべきではない聖職者です。そしてそれが、誰がよい人であり、誰が悪い人であるかをあなたが知る一つの方法です。

 カトリック教会の定義は不可謬のものです。不可謬の定義に従わないようにあなたに告げる司祭、司教、枢機卿、あるいは教皇(一人はいるでしょう)は避けるべき人々です。なぜなら、それは不可謬である定義だからです。わたしたちはカトリック教会は不可謬であるということ、そしてあるカトリック者が、カトリック教会が常に不可謬的に教えてきたことをを教え、信じているかぎり、その忠実なカトリック者はそのとき、また不可謬的に正しいのです。

 わたしたちはまた、皆人間であり、誤りを犯し得るし、その結果、わたしたち自身で、--神の助けがないならば--実際に多くの事柄について不可謬ではないということを理解しなければなりません。

 グルーナー神父そしてあらゆる司祭、司教、枢機卿は彼らの個人的な意見において、あるいは彼らの神学的見解のあるものにおいて不可謬ではありません。わたしたちは教皇でさえ常に不可謬であるのではないということを思い起こさなければなりません。このことは第一ヴァチカン公会議において明白に定義されています。教皇はその不可謬の教導職を行使していないときには不可謬ではありません。教皇は、自分自身で、あるいは彼の司教たちと一緒に、ある事柄を神によって明らかにされたもの、そしてそれゆえにカトリック信仰をもって信じられるものとして荘厳に定義するとき、不可謬です。

 教皇は、世界のすべての司教と一緒に、カトリック教会の普遍的な通常の教導職を行使するとき、 また不可謬です。教皇が為しまた言うすべてのことがこの普遍的な通常の教導職の部分ではありません。

 そして教皇は、彼の不可謬の教導職に携わるために教皇のために神によって定められた諸規範に従って話しあるいは教えないときには、誤り得ます。そして実際教皇たちは過去に誤りを犯しました。わたしたちはこのことを教皇リベリウス、教皇ホノリウス、教皇パスカル2世、教皇ヨハネ22世(1333年に)そして最初の教皇聖ペトロの生涯において見るのです。(これらの例はこの論考の第1部、「ファチマ・クルーセイダー」67号で論じられました。)

 しかし、聖職者(あるいは平信徒)の一員がよい人であるか、悪い人であるかに関しての区別はその人が信仰を言葉の上で支持しているか、あるいは支持していないかということだけによって決定されるのではありません。司祭、司教、枢機卿あるいは教皇の教え(すなわち、言葉)をイエズス・キリストとそのカトリック教会の不可謬の教えに比較することの他に、よい人を悪い人から区別するより重要な一つの方法があります。

 あなたは、その人物がまた彼の言葉(書かれた、あるいは話された)によって、彼の行動によって、そして彼の生活のキリスト教的振る舞いによってカトリック教会の正統的な実践をも支持しているかどうかを見る必要があります。

 あなたはその人物(司祭、司教、枢機卿あるいは教皇)がまた正統的なカトリック実践に熱心に従っているかどうか、そして異なったhetero実践practiceに従っていないかどうかを見る必要があります。荘厳な定義は何が信仰に属し、何が信仰に属さないか--すなわち、何が異端であるかを定義しています。しかし、カトリック信仰を攻撃する一つ以上の方法があります。

 教説の言葉を攻撃することは信仰を攻撃する唯一の方法ではありません。信仰はまた信仰に反対するわたしたちの行為--明白な仕方でなされるか、あるいは巧妙な仕方でなされるかのいずれかで--によっても攻撃されることがあり得ます。わたしたちの行為はわたしたちの言葉を支持しなければなりません。わたしたちは思想、言葉、そして書き物において教説を支持することによって信仰を支持しますが、また信仰を支持する教会内部での敬虔な実践を支持することによっても、信仰を支持します。

 定義された信仰が信じられるべきでないという印象を与える、地方の教区への実践を導入することによって(あるいは地方の司教区あるいは地方の教会管区、あるいは普遍的教会へさえ、カトリックの博士たちが書いたように、そのことは起こり得ます)あなたは異なった実践(hetero-praxis)によって小さき人々そして学問のある霊魂たちをさえ憤慨させます。

 異なった実践とは、一人の人あるいは一つのグループが一つあるいはそれ以上のカトリック的教説が真でないということを暗示することを為すあるいは為すことができる実践です。例えば、わたしたちはトレント公会議の荘厳な定義によって、神がわたしたちに、聖別されたホスチアは実際神の真の現前--すなわち、われらの主イエズス・キリストの霊魂と神性を一緒にした身体と血--であるということを保証なさっているということを知っています。ところで、プロテスタントの反乱を起こした人々はこの信仰箇条を否定しようと望み、他の人々にも同じことをするよう影響を与えたいと思ったのです。それゆえ彼らは手での聖体拝領の実践を再導入しました。(それはもともとイエズスが神であることを否定するために4世紀のアリウス派によって、普及した実践として導入されました。)それゆえ、この象徴的な行為によって、彼らの否定はすべての人に明らかでしょう。

 この異なった実践は、多くの哀れなカトリック者たちが真の現前への信仰を喪失するという不祥事を起こさせるために、教会の敵どもによって効果的に用いられてきました。ですから、多くの世紀にわたって教会の普遍的な法によってこの手での聖体拝領の実践は禁じられてきました。そしてそれは今なお今日にいたるまで教会法によって禁じられています。(法文の文字通りの意味に反する最近の許可は、ただこの実践が真の現前への信仰の低下へ導かない場合、そして真の現前に対する尊敬を薄めることへ導かない場合にだけ許されます。たいていの人は現在このことを知りません。実際、たいていの人は、手での聖体拝領が、もしその二つの原理と七つの規則がそれに伴わないならば、許可(indult)があっても、決して許されないということを知らないのです。しかし、もし誰かが私の言うことを疑うならば、Memoriale Dominiの付録[1969 5月]の中にそれを読むことができます。それは1969年のActa Apostlicae Sedis,pp.546-547の中にあります。また、Fatima Priest第1版および第2版の付録Vも見てください。)

 正統的な教説を支持する実践は正しい実践(ortho-praxis、すなわち正統的なカトリックの実践)として言及されます。これらは、御聖体の前で跪くこと、舌の上に御聖体を配ること/舌の上に御聖体を受けること、御聖体がまします聖櫃を主要な注意(および礼拝)の焦点として至聖所の中心に維持すること、御聖体における神の現前へのしかるべき尊敬を示す至聖所内部での聖職者の厳粛な振る舞いなどの実践を含みます。正統実践(信仰を支持する正統的な行為)のこれらの例は、聖別された御聖体が神の真の現前--パンの外観の下でのわれらの主イエズス・キリストの身体、血、霊魂と神性--であるという教義の真理を、そして同様にまた神に対する人間の適切な尊敬を証明するのです。

 他方において、異端を促進する、あるいは支持する実践、あるいは一つあるいはそれ以上の所与の異端が真であるという印象を与える実践は異なった実践(hetero-praxis、すなわち異端が真であるという印象を与える異端的な実践)として言及されます。異なった実践のもう一つの例--私はすでに一つの例として手での聖体拝領に触れました--は、御聖体がまします聖櫃を至聖所から側室あるいは箒を入れる小部屋へ永続的に移すことです。その結果至聖所における主要な注意(および礼拝)の焦点が司式司祭の座--「集会の座長」--となります。その椅子に座る人物が御聖体よりももっと重要であるというメッセージが巧妙に与えられ、受け取られます。そして「集会の座長」は人々を代表しますから、そのとき神は重要ではなくて、人間がもっと重要なのだというメッセージが巧妙に与えられるのです。簡潔に言えば、これらの宗教的集会に集う人々の精神と心においては、神が事実上人間によって取って替わられてしまったのです。異なった実践のこの例は、御聖体はそれほど重要ではない、それは単なるパンであるという誤ったメッセージを平信徒の人々に伝え、そしてそれは神の真の現前--ホスチアの外観の下でのわれらの主イエズス・キリストの身体、血、霊魂と神性--ではないという異端を促進するのです。

 これらの例は教皇ピオ12世の次の言葉をわたしたちに思い起こさせます。

 「親愛な友よ、共産主義(ファチマの用語では、ロシアとロシアの誤謬)は教会と神の啓示の伝統に反して用いられる転覆の道具の最も可視的なものであると仮定してごらんなさい。...わたしはファチマのルシアに対する祝せられたおとめのメッセージのことを心配しています。教会に脅威を与えている危機についてのマリアのこの根気のよさは、教会の典礼における信仰を変える自殺行為に対する神からの警告です。...文明化された世界がその神を否定する日、ペトロが疑ったように教会が疑う日が来るでしょう。...わたしたちの教会の中で、キリスト者は神が彼らを待っておられるところに赤いランプを探しても無駄で、墓の前で泣いているマリア・マグダレナのように、『彼らは主をどこに隠したのでしょうか? 』と訊ねるでしょう。」注9

 教皇ピオ12世の言葉から、そのとき御聖体に対するこれら上述の異なった実践がファチマ第三の秘密において明白に言及されていたと思われます。なぜなら、ファチマ・メッセージにおいて言及されている以外に私たちはどこにもそれらを見出さないからです。しかし、ピオ12世は「教会の典礼における信仰を変える自殺行為」に対して私たちに警告しておられるのはファチマの聖母であるとはっきり言っておられます。

 異端は二つの異なった仕方でもたらされます。すなわち、言葉によって、あるいは異端が信じられるべきものとして「公式に」促進されているという印象を助長する実践によって、です。それゆえに、よい人は考え、言葉、書き物においてカトリック信仰の荘厳な不可謬の定義を支持することによって、また正統実践とよい道徳によって、信仰を支持する人です。一方、悪い人は彼らの言葉によって信仰を攻撃し、カトリック信仰の荘厳な不可謬の定義にすがりつきません。あるいは異なった実践と異端を助長します。

 正しい実践と異なった実践(この二つの言葉は数世紀にわたる共通のカトリックの教えの一部です)に関してはもっと多くのことを言うことができますが、次号のファチマ・クルーセイダーに譲ることにします。ここでは、ある司祭がその個人的な言葉や行為において、同様にまたその公的な言葉や行為において教化しているかどうかを観察することによって、そのときそれは誰がよい牧者であるかを知ることへあなたを導く一つの道であることに注意することで十分です。そしてもしある司祭がその言葉あるいは行為あるいは異なった実践によって悪い例を与えるならば、そのときあなたは羊の衣をかぶった狼としてその司祭を避けなければなりません。イエズスが言われたように、「彼らの実によってあなたは彼らを知る」(マタ7:16)でしょう。

質問:このこと(よい人と悪い人を知ること)は平均的な平信徒にとって何を意味するでしょうか?

 ところで、わたしたちが知る必要のあることは、まず第一に、このことがわたしたちにとって何を意味するか--それは重要であるか--ということです。ええ、それは非常に重要です--なぜなら、あなたの霊魂を救うためには、カトリック信仰に、全体的に、汚されないままにすがりつかなければならないからです。あなたはどのようにカトリック信仰に、全体的に、汚されないままにすがりつきますか? 二つのことをすることによってです。第一に、あなたは毎日ロザリオを祈ることによって霊的に武装します。聖母は、もしあなたが毎日ロザリオを祈るならば、異端に陥ることはないと約束しておられます。毎日ロザリオを祈ることはまた悪徳を克服し、罪を減らします。第二のことは、カトリック信仰について知らされることです。もしあなたが1965年以降にカトリックの教育を受けたのであれば、1885年の古いボルティモア・カテキズムあるいはトレント公会議のカテキズムあるいは聖ピオ10世のカテキズムのような、よいカトリック・カテキズムを買うべきです。これらのカテキズムを勉強しなさい。そしてこれら三つのカテキズムのどれかの教説に矛盾する、あなたが以前に学んだどんな教説をも拒絶しなさい。そしてカトリック教会がこれら三つのカテキズムにおいて教えたことにすがりつきなさい。

 トレント公会議のカテキズムは聖人(聖カルロ・ボロメオ)によって書かれ、第二の聖人(聖ピオ5世)によって広められ、トレント公会議によって正式に認可されました。それは教義的--あなたに教義を与え、荘厳な定義を与えるもの--です。ですから、わたしはそのカテキズムが最高のものであると推薦するのです。第二に、ボルティモア・カテキズム第1,2,3巻はその背後に100年以上の権威を背負っています。その上、これらの巻は合衆国の全司教協議会によって広められました。それらは、普及することができる前に、教会が竜のために働く聖職者の三分の一によって侵入されなかった時に、聖省によって承認されなければなりませんでした。そしてあなたは古いボルティモア・カテキズムのうちにカトリック信仰についてのどんな公会議あるいはどんな教えの定義にも矛盾するものを何ら見出すことはできません。それに対して、第二ヴァチカン公会議以後のより最近のカテキズムのあるもの--あるものはボルティモア・カテキズムとさえ呼ばれていますが--は問題となるある事柄を含んでいます。ですから、わたしはタン社TANが出版している古い版のカテキズムに戻ることを提案するのです。

 あなたがボルティモア・カテキズム、あるいはトレント公会議のカテキズム、あるいは聖ピオ10世のカテキズム(これは、明らかにまた聖人によって書かれました)からその基礎を得た後に、次にトレント公会議、第一ヴァチカン公会議、フィレンツェ公会議等々における諸々の定義を自分自身でぜひ読みなさい。そこでは、あなたは堅固な地盤の上にいます。あなたはこれらの定義に従うことによって誤ることはできません。諸聖人そして特に教会博士たちの教えに従うことによって、あなたは信仰において堅固な地盤の上にいます。そしてそれゆえに、それらはあなたの精神、あなたの心、あなたの霊魂を準備するものなのです。第二に、あなたが出会うすべての人々に、ロザリオを祈ることを教え、毎日ロザリオを祈るように励まし、そして堅固なカトリックの教説を読むために与えることによって、--神があなたの道の前に置かれた、それらすべての人々を助けるよう努めるべきです。そしてあなたが、いつの時代にも永久である教会の教え、あらゆる時代の諸聖人の教えに矛盾する、あるいは矛盾すると思われる事柄に出くわすとき、そのときは教会が常に教えてきたことにとどまりなさい。次の教会会議がその問題を決定するために開催されるまで、もろもろの定義に矛盾すると思われる事柄を怪しいと思いなさい。あなたの信仰とあなたの霊魂を救うためには、またよき牧者--よい司祭--に従い、悪い司祭の教えや模範を避ける必要があります。

質問:信仰の問題においてわたしたちはどうしてそのように確信を持つことができるでしょうか?

 何よりもまず第一に、諸々の定義が不可謬のものであるから、わたしたちは信仰について確信を持つことができます。なぜわたしたちは、信仰におけるある事柄について確信を持つのでしょうか? わたしたちは、神が啓示なさることについて確信を持っています。神--まったく聖であられる--は、嘘をつくことがおできになりませんから、誰かを欺くことがおできになりません。神は聖そのものであられますから、そして嘘をつくことは罪、聖に反する欠陥であるから、神は嘘をつくことがおできになりません。それゆえに、神は意識的に私たちを欺かれることはないでしょう。第二に、神--全知であられる--は誤ることがおできになりません。それゆえ、神--嘘をつくことがおできにならず、誤ることがおできにならない--がわたしたちにある事柄が真であるとお告げになるとき、わたしたちはそれが真であるということを知るのです。それゆえ、わたしたちは数学的な確実性以上に大きな確実性をもって確実だと知るのです。わたしたちは2足す2が4であることを知っています。わたしたちはそのことをどのようにして知るのでしょうか? なぜなら、わたしたちは数えることができ、そして2足す2を分かることができ、また全部を一緒に数えることができ、それが4であることを数えることができるからです。わたしたちは数学的確実性を持つことができます。しかし、信仰の確実性でもって、わたしたちは最大の確実性を持つのです。

 ところで、わたしたちはどのようにして、神が啓示されたことが何であるかを知るのでしょうか? 私たちは聖書の中にあることは神の言葉であるということを知っています。わたしたちは聖なる伝統(聖伝)のうちにあるものは神によって啓示されたということを知っています。しかし、聖書の中には、教育を受けていない者にとっては、自己矛盾している、あるいは明瞭ではないと思われる節や、聖伝のときどき異なった局面があります。それゆえに、神は御自分が聖書および聖伝において意味しておられることを定義するために一つの権威を任命なさいました。--すなわち、神御自身によって設立された一、聖、カトリック(普遍的)、使徒的教会の荘厳な不可謬の教導職である教皇および公会議の定義です。神はまた普遍的な通常の教導職を通じて不可謬的にお教えになります。

 しかし、ある教えがカトリック教会の不可謬の普遍的な、通常の教導職に属しているためには、それはどんな仕方でも、カトリック教会が常に教えてきたことに矛盾することはできません。これは、教導職が新しい教説を与えるために神によって与えられたのではなくて、ただ信仰の遺産のうちにあるもの--すなわち、聖書と聖伝のうちにあるもの--を説明するために、与えられたからです。

 それゆえに、一カトリック司祭、一カトリック司教、一カトリック枢機卿あるいは一カトリック教皇さえも、彼らが教えるすべてのことが不可謬の教導職に属しているわけではないのです。上述したように、わたしたちは教皇たちでさえカトリックの教義と教義上の定義に矛盾する事柄を教えてきた教会史からの例を挙げました。それゆえ、もう一度繰り返せば、わたしたちの霊魂を救うためにすがりつかなければならないのは、不可謬の教導職によって教えられ、定義されたものとしてのカトリック信仰であって、どの司祭、司教、枢機卿あるいは教皇であれその疑わしい、あるいは偽りの、不可謬的でない宣言ではないのです。

 それでは、わたしたちは信じなければならないものをどのようにして知るのでしょうか? わたしたちは信仰に属するものを不可謬の定義によって知るのです。それゆえ、わたしたちは一なる神のうちには三つのペルソナがあるということをわたしたちに告げる定義を持っています。わたしたちはわたしたちの援助されない感覚あるいは知性だけで知ることができるどんなことよりもそのことについてもっと大きな確信を持つことができます。わたしたちは2足す2が4であるということを確信することができるよりももっと大きな確信をそのことについて持つことができます。それゆえ、誰かが--教皇であれ、枢機卿であれ、司教であれ、司祭であれ、平信徒であれ--やって来て、わたしたちに一なる神のうちには三つのペルソナはないと告げるならば、そのときわたしたちはその人が間違っているということを確信します。そしてそのように、わたしたちはその人が間違っているかどうかを問うてみる必要がないことを確信しています。--私たちはその人が間違っているということを知っています。それはわたしたちが正しいからではありません--それは神が正しいからであり、そしてわたしたちが為すすべてのことは神が啓示なさることを信じることです。そしてそれは信仰という一つの超自然的な徳の行為です。そうすることによって、わたしたちはただ次のように明瞭に教えている第一ヴァチカン公会議に従っているだけです。

 「さらに、神的なカトリック信仰によって、神の書かれた言葉あるいは伝統のうちに含まれるすべての事柄、そして荘厳な布告においてか、あるいは教会の通常の、普遍的な教えにおいてかのいずれかの形で、神的に啓示された信仰の対象として教会によって提出されたすべての事柄は信じられなければならない。」[Denzinger 1792]

 わたしたちはまた、教会の不可謬の教えは誤ることができないということをも知っています。なぜなら、神がそれを保証なさっているからです。神は御自分の保証を大きな奇蹟によって示されました。それらの奇蹟をキリスト御自身が働かれましたし、同様にまたキリストの聖人たちがキリストの名において、そしてローマ・カトリック教会の教えの真理に対する証言としてそれらの奇蹟を行いました。今日まで継続しているこれらの奇蹟は、すべての荘厳な定義は不可謬である--すなわち、誤ることができない、決して変えられることができない、そして神がこれらすべての不可謬の定義の真理を保証しておられるという第一ヴァチカン公会議の荘厳な定義を含む、ローマ・カトリック教会が教えるすべてのことを信じるに十分な動機です。

 第一ヴァチカン公会議は、カトリック信仰を信じるための二つの外的な動機は神によって与えられた奇蹟の実現とカトリック教会における預言であるということを荘厳に教えています。第一ヴァチカン公会議が荘厳に教えているように:  「それにもかかわらず、われわれの信仰の服従が理性と一致したものであるために(ロマ12:1)、神は御自分の啓示の外的な証明、すなわち、神的な行為と特に奇蹟と預言が聖霊によって与えられる内的な援助につけ加えられるべきであると望まれた。これらの証明は神の全能と限りない知識を優れた仕方で示しているので、それらは神的啓示の最も確実なしるし、すべての人の理解力に適しているしるしを構成する。それゆえに、単にモーセや預言者たちばかりでなく、そして傑出した仕方でわれらの主キリストも多くの明白な奇蹟を行い、明快な預言をされたのである。さらに、われわれは使徒たちについて次のことを読む。『一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。』(マルコ16:20)」[Denzinger 1790]

第一ヴァチカン公会議は神によって与えられた奇蹟とカトリック教会における預言を拒否する人々に荘厳に有罪判決を下しました:

 「もしある人が、外的なしるしが神的な啓示を信ずるに足るものにすることは不可能である、そしてそれゆえに、人間はただ各人の内的な経験あるいは私的な霊感によってのみ、信仰へと駆り立てられるべきであると言うならば、その人は破門に処せられるがよい。」[Denzinger 1812]

「もしある人が、すべての奇蹟は不可能である、そして、それゆえに、奇蹟のすべての説明は、たとえ聖書に含まれているとしても、作り話や神話として分類されるべきであると言うならば、あるいは奇蹟は確実性をもって決して認められるべきではない、またキリスト教的宗教の神的起源は奇蹟によってはうまく証明されることはできない、と言うならば、その人は破門に処せられるがよい。」 [Denzenger 1813]

質問:聖職位階--枢機卿、司教、司祭あるいは教皇さえ--は混乱させられることができるでしょうか?

 ええ、できます。わたしたちは、枢機卿、司教、司祭あるいは教皇でさえ、彼らが信仰に対して決して誤りを犯さないという保証を持っていません。聖トマス・アクィナス(教会博士)は「事実に対してはいかなる議論もない」と教えています。事実は、教会史がわたしたちに、聖ペトロは信仰に対して誤りを犯したということを告げているということです。(私たちは第1部においてこのことを論じました。)教皇ヨハネ22世は1333年に一つの異端を公に教えました。彼は間違っていました。教皇パスカル2世は1111年に教会の共通善に反する命令を出しました。教皇リベリウスは357年に、聖アタナシウスを破門--実際は、ただ破門の外観を与えただけですが--しました。教皇リベリウスは聖人と宣言されなかった最初の教皇です。一方、聖アタナシウスはまさにカトリック信仰を支持したがゆえに、偉大な聖人でしたし、今もそうです。教皇ホノリウスは、カトリック信仰を適切に擁護しなかたために、後の教皇によって断罪されました。そして教皇ホノリウスの死体は、ホノリウスの死後数年して発掘され、教会会議によって不名誉な埋葬をされました。

 このように、わたしたちは教皇たちが誤りを犯し得るということを知っています。教皇たちの多くの者が信仰に対して誤りを犯したわけではなく、彼らのうちの何人かの者がそうしたのです。それゆえ、教皇が言うことがなんでも真であるのは、まさに彼が教皇であるからではありません。そうではなくて、わたしたちは岩のように堅固な確実性の底にまで行かなければなりません。そしてそれは不可謬の定義です。それが、わたしたちが忘れてはならない決定的な点です。教皇たちが信仰に対して誤りを犯し得るということは、教会博士たち--聖ロバート・ベラルミン、聖トマス・アクィナス、聖アウグスティヌス、聖ヒエロニムス、聖アルフォンソ・リグオリ、そして他の博士たち--の教えです。そしてそれゆえに、疑いのある場合には、あるいは定義されたカトリックの教義に矛盾したものである場合には、わたしたちは堅固な定義と共に歩まなければなりません。そしてこれらの状況においては、司祭、司教、枢機卿そして教皇の教えを避けることさえしなければなりません。

質問:誰がカトリック信仰を掘り崩しているのですか、そして彼らはそれをどのようにしているのですか?

 わたしたちは、カトリック信仰がどのように堀り崩されているか、そして誰によってそうされているのかの証拠を今や持っています。--それは教会内部の敵の潜入についてです。1920年代に、レーニン(ロシア共産主義の創設者)は、自分はカトリック教会に潜入するであろうと言いました。彼は潜入によって教会を破滅させるであろうと言いました。1930年代および1940年代に、わたしたちはアメリカ合衆国共産党の指名総代理人であったベッラ・ドッド(Bella Dodd)の証言を持っています。彼女は最終的にカトリック信仰へと戻る回心をしました。そしてその後に公開講演を行いました。わたしはある人と話したことがありますが、その人は、彼女が1930年代と1940年代に1000人以上の青年たちを合衆国のカトリック教会を内部から転覆するためにカトリック神学校の中へ送り込んだと彼女が言うのを聞いたのです。そして彼女は、死ぬ前に、彼らのうちの何人かはすでに司教になったと報告しました。そしてもちろん、司教は司教を生み出します。それからもちろん、AA-1025という書物があります。それは共産主義の計画に一致して転覆によって教会を滅ぼす意図をもって神学校に入学したそのような一人の共産党員のスパイの物語を告げています。この書物の証言はそのことについての真実の輪を持っています。

 わたしたちは単にベッラ・ドッドを持っているだけではありません。わたしたちは単にレーニンを持っているだけではありません。わたしたちはまた、中国共産主義者たちの秘密のドキュメントをも持っています。それは、聖職者の中にひそかに紛れこむことによって内部から教会を滅ぼすための陰謀を指摘しています。わたし自身、共産党員のために働いていた一人のカトリック司祭に会いました。わたしは1970年代のはじめに、いわば彼を「ダウンロード」するのに6時間を費やしました。わたしはローマでじかに顔を合わせたのですが、彼はローマではある修道会の、そしてその総長の本部カーサ・ジェネラリツィアに住んでいました。そして彼はしゃべりはじめ、自分が何をし、何を考えていたかをわたしにうち明けました。わたしは--彼に嘘をついたのはないけれども--彼に同意すると信じさせました。それゆえ、わたしは自分自身で、自分自身の目で見たのです--わたしは彼らは実際にいると知っています。それは他の誰かの証言の問題ではありません。それはわたし自身の証言--わたし自身の目と耳です。

 しかし、それは単にわたしの証言に、そしてレーニンの証言やまたベッラ・ドッドの証言に基づいているばかりではありません--「嘘は聖なるものである」と言ったレーニンのような、これらの人々がひそかに紛れこむというやり方を用いるに違いないということはまったく論理的なことです。そして聖書(ユダ1:4 使徒行録20:29-30)は、敵が教会を滅ぼそうとするためにひそかに紛れこむというやり方を用いるであろうとわたしたちに告げています。彼らはカトリック教会が共産党員、共産主義そして全戦闘的無神論者の協議事項の主要な敵であることを理解しています。それゆえに、彼らが内部から教会を滅ぼすためにそのようなことをするということはまったく論理的なのです。しかしまた、同様にこの主題について他の多くの証拠があります。

 さまざまのカトリック修道会はひそかに紛れこむというやり方のターゲットとなってきました。そして1950年代の全カトリック司祭労働者運動が征服されました。あるいは、少なくとも、教皇ピオ12世が1950年代にそれを終わらせたときには、共産主義者たちがひそかに紛れ込んでいました。それゆえ、これは何ら新しいものではありません。実際、1970年代のはじめ頃にわたしが神学校にいたとき、わたしたちの神学校にひそかに紛れ込んでいた4人の共産党員の神学生に対して一致団結しなければなりませんでした。彼らはわたしたちがローマの外に設立したこの正統的な神学校を滅ぼすという意図をもってやって来ました。そして潜入者たちはほとんど成功したのです--これらの潜入者たちが望んだことをする上長たちを持ったほどに成功したのです。その当時これらの共産党員の潜入者--彼らは現在司祭ですが--を追い出すためにわたしを助けてくれた多くの神学生はわたしが話していることを知っており、わたしがここに報告していることの真実を証言することができます。

 聖母はその秘密の中で、信仰が掘り崩されていると言われました。ところで、もっと正確に言えば、教皇様は、ファチマの聖母は信仰が掘り崩されているのをご覧になるとき、沈黙したままでいることがおできにならないとわたしたちに告げておられます。しかし聖母はこのことをどこで言っておられるのでしょうか? 第三の秘密において以外にはわたしの知っているところはどこにもありません。これは教皇様が1982年5月13日の演説においてほのめかされたことです。

質問:このことはなぜ現在のわたしたちにとって重要なのですか?

 聖母は現代にわたしたちの間に広がっている重大な誤りについてわたしたちに警告なさるためにファチマに来られました。潜入者たちは秘密結社を通じて200年以上にわたってカトリック教会を滅ぼすことを企んできました。彼らの計画は書き下ろされています。あなたはこれらの計画について、わたしが言っていることとは独立に、読むことができます。教皇レオ13世は、フリーメーソンに関する回勅の中でこれらの陰謀のうちのいくつかを暴露されました。そしてジョン・ヴェナリ(John Vennari)はその主題に関してブックレットを書きました(The Permanent Instruction of the Alta Vendita: A Masonic Blueprint for the Subversion of the Catholic Church これはファチマ・センターで入手可能です)。わたしたちは過去40年間にわたる教会内部でのこれらの計画の結果を見てきました。多くの聖人たちは数世紀にわたって現代に対するこれらの事柄を予言してきました。そして第三の秘密は現代に対する聖職者および平信徒の大背教、カトリック聖職者の三分の一による信仰の堀り崩しの結果を予言しています。われらの主は言われました。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(マタ5:13)

聖職者と平信徒の両方による信仰の喪失の結果として、その味を失っている塩の結果として、人々の現世的幸福は脅威にさらされるものとなりました。第1部で述べたように、雑誌『イエズス』の1984年11月11日号はヴィットリオ・メッソーリによって行われたラッツィンガー枢機卿とのインタビューを載せました。その記事はそれが出版される前に枢機卿自身が承認したもので、その中でラッツィンガー枢機卿は、第三の秘密が「信仰とキリスト者の生命を、それゆえに世界の生命を脅やかす危機」注10に関係していると言われました。世界の生命に対する危機はただ現世の懲罰だけを意味することができるでしょう。

 わたしたちはシスター・ルシアがはっきりと次のように述べたということをフレール・ミッシェルによる『ファチマに関する全真実』という記念碑的な3巻の著作の中に読みます:

 「いとも聖なるおとめは、何度もわたし自身と同じように、いとこのフランシスコとジャシンタに、多くの民族が地の面から消え去るでしょうと告げられました。聖母は、もしわたしたちがその哀れな民族の回心をあらかじめ得ていないならば、ロシアが全世界を罰するために、神によって選ばれた懲罰の道具となるでしょう、と言われました。」注11

 ロシアの軍事的な乗っ取りとそれに引き続く全世界に対する独裁が霊的な領域におけるわたしたちの失敗のゆえに結果するでしょう。聖母はこう言われました。「もし私の要求が聴き入れられないならば、...ロシアはその誤謬を世界中に広めるでしょう。」ロシアの悪魔的な計画の最優先事項--カトリック教会にひそかに紛れ込むこと--は多くの場所で達成されてきました。このようにして、共産党員の聖職者、フリーメーソンの聖職者、そして異端的な聖職者によって、教会の内部で信徒の精神と心の中へロシアの誤謬が広められることを許してきたのです。

 ここに第三の秘密の本質的な要素があります。第三の秘密の中でわたしたちが警告されてきた信仰に対する危機は第二ヴァチカン公会議の名において、少なくとも部分的に、遂行されています。

質問:それでは、第三の秘密についてわたしたちは何を知っているのか、わたしたちのために要約していただくことができますか?

 要約すれば、わたしたちは、第三の秘密が現代における聖職者の三分の一によるカトリック信仰の堀り崩しを含んでいるということを知っています。私たちがこのことを知っている理由を挙げれば次の通りです:

 ・ファチマの聖母は1917年に、その秘密の中で信仰が掘り崩されるでしょうと言われました。

 ・教皇ヨハネ・パウロ2世は1982年に、信仰が掘り崩されるであろうと言われました。そして間接的に、第三の秘密はこの信仰の堀り崩しに関わっているとわたしたちに告げられました。

 ・ラッツィンガー枢機卿は1984年に、第三の秘密は「信仰とキリスト者の生命を、それゆえに世界の生命を脅やかす危機」について話しているとわたしたちに告げられました。

 ・ヨハネ・パウロ2世は2000年5月に、黙示録第12章第3節および第4節の聖書的預言に言及されました。その箇所では「天の星の三分の一」が竜によって掃き落とされると言われています。教皇様はこの預言は現代のためのものであるということを指摘しておられます。そのことによって意味されていることは、(私たちが第三の秘密について知っている他の諸事実と一緒に考えるならば、)第三の秘密の預言は今日のカトリック聖職者の三分の一によって堀り崩されている信仰に言及しているということです。

 ・カトリック聖職者の三分の一が諸々の教義を徐々に押し流すことによって、今日カトリック信仰を掘り崩しています。このことは多くの人々によって短期間には気づかれていないけれども、わたしたちはそれが反カトリック的な諸実践(すなわち、異なった実践)の促進を通じてなされてきたということを見ることができます。今日、信仰はまた(数人の枢機卿たちが今しているように)カトリック信仰のいくつかの教義--いくつかの荘厳な定義--は「改訂される必要がある」と言って、公然と堀り崩されています。

 竜によって掃き落とされているのは「天の星の三分の一」であるというその指摘によって、それは現代--今日!--におけるカトリック聖職者の三分の一であると教皇様は私たちに告げておられるのです。そしてわたしたちは、もちろん、フレール・ミッシェルとアロンゾ神父の著作から、わたしたちが第三の秘密の時代を生きているということを知っています。それゆえ、第三の秘密は現代--2001年--について語っているのです。わたしたちは1917年に与えられた預言である第三の秘密の時期を知っています。それは1960年に始まりました。そしてそれは今もなお今日まで継続しています。わたしたちは第三の秘密の時がいつ終わるかを知っています--それは教皇様がロシアの奉献をなさるときまで続きます。ロシアの奉献はまだなされていません。(わたしたちはこのことを他のところで何度も説明してきました。)

 わたしたちはまた、第三の秘密が信仰の教義に関係しているということを知っています。なぜなら、わたしたちは「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう、等々」と聖母がおっしゃった言葉と共に始まる秘密の第三の部分を持っているからです。

 要約すれば、わたしたちは第三の秘密の時期に生きています。第三の秘密は、信仰の教義が、1960年にはまだカトリックであった世界のある部分では保たれないであろうということを私たちに告げています。わたしたちは不可謬の定義にすがりつくことによって、信仰の教義をどのように保つかを知っています。わたしたちは信仰が教会内部から掘り崩されているということを知っています。わたしたちは信仰が、他にもいろいろある中で、カトリック聖職者の三分の一によって堀り崩されているということを知っています。そしてわたしたちは、どの聖職者を警戒すべきかを知っています--彼らはカトリック信仰の荘厳な定義を支持しない人々であり、また異なった実践を促進する人々です。教皇パウロ6世と教皇ヨハネ・パウロ2世は二人とも、ファチマの聖母の御出現は黙示録第12章第1節の聖書的預言の実現であるとわたしたちに告げておられます。わたしたちは、教皇パウロ6世の回勅『大いなるしるし』の中にそのことを読みます。わたしたちはまた、2000年5月13日の二人の子どもたちの列聖式においてなさった教皇ヨハネ・パウロ2世の説教の中にそのことを持っています。

 わたしたちは、第三の秘密が信仰に対する危機に関係しているということを知っています--ラッツィンガー枢機卿はそのことを1984年に言われました。それは信仰に対する危機、そしてキリスト者の生命に対する危機に関係する、それは四終(i novissimi)の重要性に関わりがある、そしてそれは聖書の中に見出される、と。注12 1982年に、教皇ヨハネ・パウロ2世は、前に引用したように、こう言われました:「聖霊において育み、すべての人の救いを望まれる愛のすべての力をもった御母がその子どもたちの救いのまさに基礎そのものが堀り崩されるのをご覧になって、黙っていることがおできになるだろうか?」これは明らかに、危機にさらされている信仰に言及されたものです。そして次に、2000年5月13日に、教皇ヨハネ・パウロ2世は、第三の秘密が黙示録第12章第1,3および4節のうちにあると言われました(第3節と第4節は竜と女との間の黙示録的戦いについて、そして竜が自分に従う聖職者の三分の一を天から引きずりおろすことに成功するということについて語っています)。

 わたしたちはまた、第三の秘密が信仰に対する(教会構造の内部からの)危機に関わりがあるということを知っています。なぜなら、オッタヴィアーニ枢機卿は1963年に『ノイエス・オイローパ』において公表された第三の秘密の版の公開を私的に支持されたからです。その報告の中で、わたしたちは「枢機卿は枢機卿に対立し、司教は司教に対立するであろう」と告げられています。わたしたちは 1984年9月10日にウィーンでなされたアマラル司教--ファチマの三番目の司教--の話を持っています。それは第三の秘密が諸民族の背教に関係があるとわたしたちに告げています。背教はもちろん信仰の喪失と共に起こります--単に信仰の一つの教義あるいは箇条の喪失ではなくて、カトリックの教義や道徳のすべての、あるいはほとんどの喪失です。わたしたちは今日世界中での背教の明白な存在を容易に見ることができます。

 このように、第三の秘密は信仰の不可謬の定義に関係があります。定義は、まさにその本性によって、何が真理であるか、それゆえに厳密に論理的な含意によって、何が誤謬であるか、そしてその誤謬は断罪されると言わなければなりません。もしある人が不可謬の真理について情報を与えられた後も非難された誤謬にしがみつくならば、そのときその人は救われることはできません(彼が死ぬ前に罪を悔いないならば)。それゆえ、その人に警告することは愛徳の行為です。そしてわたしたちの信仰の諸々の真理を証言すること、そして公然と信仰を擁護することによって信仰に反する誤謬から小さき人々を護ることは私たちの義務です。ですから、教会はそれらの誤謬と、誤謬に頑固にしがみつく聖職者や平信徒を破門するのです。聖パウロは愛徳においてこう言いました。「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」[ガラ1:8]

次号に続く

脚注

(5)Pope St. Pius X, Pascendi Domini Gregis, para. no. 2.
(6)Ibid., no. 3.
(7)Ibid., no. 61.
(8)Ibid., no. 3

(9)Pope Pius XII, quoted in the book Pius XII Devant L'Histoire, pp. 52-53.
(10) Frere Michel de la Sainte Trinite , The Whole Truth about Fatima , Vol.III-The Third Secret, Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, 1990, reprinted 2001, pp. 822-823.See also Jesus magazine, November 11, 1948, p.79. See also The Fatima Crusader, Issue 37, Summer 1991, p.7.
(11)Frere Michel, The Third Secret, p.505.

(12)See Footnote 10.

終わり

2001/12/08 三上 茂 試訳

 

In Spite of the Effort to Bury it:Pope John Paul II Gives Us the Key to the Real Third Secret Part II

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作成日:2001/12/08

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