セドゥリウス・スコトゥス

『キリスト教支配者についての書』
カール大帝あるいはルートヴィッヒ敬虔王に宛てて

序言

 291D/ 以下に続く著作の序言が始まる。
三つに区分された世界にあって秀でたすべての職務は
技術によって支配されるべきだ。技術の贈物は多いから。
すべてのものを創造される主は大地、海、星、天を
技術でもって造られ、技術によって美しい全世界を支配される。
卓越した諸々の技術によって、高きにいます轟きを発される知恵は
人間をすべての動物の上に置かれた。

技術は戦車を操縦し、技術は船をうまく舵取り、
そして勝利の軍事行動は技術を注目する。
蜂は技術を必要とする。同様に国家は技術を必要とする、
292D/ 善い支配者と幸福な民によって幸福であり得るために。
そのために天上の書物の花咲く牧場を横切りながら、
王よ、よく知られた花環を私は編んだ。
それはあなたの精神の頭を王冠で飾り、
キリストの意向によって支配する王笏に栄光を帰す。
そして私は神の教えの癒しのハーブと

かぐわしいナルドを籠いっぱい摘んだ。
イスラエルの清い泉から水を汲みなさい。
それは甘美な露で渇いた舌を潤す。
実際、王の栄光、光り輝く王冠である、
293A/ 主の教え、古人の模範、
そして世界中に有名な貴族たちの振る舞いは。
諸々の技術によってあなたの勝ち誇った国が繁栄し、
長い年月にわたって幸福に支配が行わんことを。
あなたが輝ける天上の宮廷に登られるまで、

そこに正しく支配する者の永遠の栄光が力を持っている。

序言はここで終わる。

王たるキリストよ、初めがあなたと共に、終わりがあなたと共に、
神よ、あなたが下僕の作品のアルファでありオメガでありますように。

 同じ書物の目次が始まる。

第1章 王の権力を受けた敬虔な支配者が第一に神とその聖なる教会に対して相応しい栄誉を捧げなければならないことについて
第2章 正統的な支配者はどのように自分自身を支配すべきか
第3章 それによってはかない王国が安定したものとされ得る技術と熱心
第4章 王の権力が力と大胆な強さよりは知恵と敬虔な規律で飾られるべきであるということ
第5章 いかに大きな聖なる指導の配慮がその妻、子供たちそしてその家政に関して支配者によって示されるべきか
第6章 善き君主はどのような助言者と友人を持つべきか
第7章 いかなるものが君主たちを悪くするか
293B/ 第8章 貪欲なあるいは不敬虔な王について。そしていかに多くの神罰が彼らの民あるいは彼ら自身の悪によって結果するか
第9章 平和をもたらす思いやりのある王について、あるいは好意は誰に与えられるべきか。
第10章 正しい君主の王国はいかに多くの柱で支えられるか
第11章 善き君主はなぜ善意のそして熱心な配慮で教会の訴訟事件を294A/ 支持すべきであるか、また公会議の集まりについて
第12章 敬虔な支配者にとって司祭たちの最も有益な勧告と戒めに従うことが光栄であることについて
第13章 善き支配者の敬虔によって和らげられた理性的な熱情について
第14章 キリスト教の指導者が自分自身の力にも臣下の力にも信頼すべきではなくて、主に信頼を置くべきであることについて
第15章 神の助けが敵対的な戦争の脅威を与えるどよめきに対して嘆願されるべきことについて
第16章 不幸がかくも強烈に起こるであろうことについて
第17章 平和が敵によってもまた申し入れられ、あるいは敵が圧倒された後には傲慢であってはならないということ
294B/ 第18章 感謝を捧げる行為と善意の祈りが平和あるいは勝利の後に神に捧げられるべきである
第19章 敬虔な支配者が守るべき聖にして母なる教会の特権、そして諸教会の相応しい支配人と管理者について
第20章 いかに多くの不名誉が傲慢な君主にもたらされ、いかに多くの栄光がこの世においてもあの世においても正統的な君主に与えられるか

ここにセドゥリウスの書物、『キリスト教の支配者について』、そしてそれによって国家が適切に統治されなければならない相応しい諸規則が、始まる。

第1章 王の権力を受けた敬虔な支配者が第一に神とその聖なる教会に対して相応しい栄誉を捧げなければならないことについて

 キリスト教の支配者は王権と王国の舵を受け取った後に第一に全能の神と聖なる教会に感謝の行為と相応しい栄誉を捧げなければならない。実際、293C/ 国家は王の配慮と聖なる献身が天上の王に対する聖なる畏れと愛の両方で熱せられるとき、そして思慮に満ちた助言によって教会の栄光ある利益について配慮がなされ、その結果王の紫衣と王の権威の他の象徴が王を外的に飾り、神とその聖なる教会に対する称賛に値する誓約が彼を内的にも飾るとき、その最初から最も光栄に満ちて聖別されるのである。なぜなら実際、王は敬虔な熱情でもって全能の王の栄光と栄誉に献身するとき、この世の支配の頂点へと高められるからである。それゆえに敬虔な支配者は、その至高の意志と王権の授与によって自分を統治の頂点へと揚げられたことを彼が疑わないところの、すべてのものの与え主の至高の意志と聖なる掟にまったく服従するように努力しなければならないのである。このことは次のように言っている使徒によって証言されている。293D/ 「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」(ロマxiii,1)。それゆえに、善き支配者が自分は神によって立てられたということを認めるように、同じ程度に彼は正義の尺度に従って神と人の前ですべての事柄を規則通りに決定し検討するように誠実に配慮して目覚めている。なぜなら、全能の神に仕える者でなければキリスト教の民の支配者とはいったい何であるのか。更に、294B/ 彼は彼の主であり師である方が彼に命じられたことをかくも真摯な献身で為した忠実で適切な下僕なのである。従って、最も敬虔で栄光に満ちた君主は自分が人間たちの主あるいは王であると呼ばれることよりも至高なる者の奉仕者および下僕と呼ばれることの方をもっと喜ぶ。この理由で、輝かしい王にして預言者たる祝福されたダビデはしばしば自分を主の下僕と呼んだのである。294C/ 同様にまたダビデの子、周知のソロモンは全能の神に乞い願い、他の人々の間でこう言っている。「わが神よ、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。」(王上viii,28-29)。 それゆえに祝せられた記憶のコンスタンティヌス大帝−彼は救いの十字架の神秘とカトリックの信仰を信じ、そして実行した−も彼の喜ばしい支配によって宗教が大いに栄えたとき、自分自身に対して僣越にならずに、全能の神に感謝した。というのは神は彼をご自分の計画の有益な下僕とすることを欲されたからである。見よ、あの最も優れた皇帝が地上の帝国を所有したことよりも神の僕であったことをもっと喜んだことを。294D/ このように、コンスタンティヌスは、彼が神の意志の下僕であったがゆえに、ブリタニアの海から東方の諸地方まで平和的な王国を拡大した。そして全能の神に自分自身を服従させたがゆえに、彼は力の面でも信仰の面でも、彼の下で行われた敵に対するすべての戦争に勝利した。彼はキリストの教会を建設し、素晴らしい宝で飾った。このために神の恩寵は彼に凱旋の勝利を手にすることを許した。というのは、明らかに敬虔な支配者が王たちの王に295A/ 謙遜に服従すればするほど、それだけ彼らは栄光に満ちた名声の頂点へと高く上るからである。しかしソロモンが神の権威によって王座を受けた後に、いかに多くの栄誉を主に帰したか、彼がいかに最高の思慮をもって主の神殿を建設し、驚くべき仕方で飾ったか、さらに彼がいかに多くの宥めの犠牲を神に捧げたかに、誰が驚かないであろうか。最後に、ソロモンは主が彼に現れてこう仰せになったように、彼の献身と祈りの実りを受けた。「わたしはあなたがわたしに憐れみを乞い、祈り求めるのを聞いた。わたしはあなたが建てたこの神殿を聖別し、そこにわたしの名をとこしえに置く。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。もしあなたが、父ダビデが歩んだように、無垢な心で正しくわたしの前を歩み、わたしがあなたに命じたことをことごとく行い、掟と法を守るなら、あなたの父ダビデに、『イスラエルの王座につく者が絶たれることはない』と約束したとおり、わたしはイスラエルを支配するあなたの王座をとこしえに存続させる。」(王上ix,3-5)。それゆえにもしソロモン王が聖なる献身のために、そして主の地上の教会を建設したことのためにそのように栄光に満ちた報酬を得るに値したとすれば、支配者はもし彼が神によって愛されて、生ける神の霊的な幕屋である聖なる教会を絶えず賛美するならば、いかに貴重な栄光のしるしを所有するであろうか。我々が散文において手短に述べたことを今度は詩の楽しさで結論することにしよう。

  繁栄する王国の高貴な王杖を持つ者は
  天上の王座に対して誓いと祈りを捧げるべきである。
  神の聖なる意志のうちにすべての王権、

  295C/ 貴族の平和、君主の生活の繁栄がある。
  実際、王の名誉と王国の輝く王冠は
  天上の王冠への聖なる畏れと神への愛である。
  乳白色の百合が花咲く野を飾るように
  薔薇がその真紅のかんばせを染めるように
  正しい支配者は徳の花で花盛りとなり、
  精神の果実を聖なる高台で実らせねばならない。
  美しい紫衣がソロモン王を飾り、
  その父ダビデの輝く王笏も王を飾った。

  しかしむしろ心の献身の思慮に満ちた者は内的に、
  神に栄光を帰すあの若い王を飾った。
  あなたの国家が朝の星のように輝き、
  新しい日の出によって輝かしい祈りを為さんことを。

第2章 正統的な支配者はどのように自分自身を支配すべきか

 主の保証によって王の地位の頂点に登った者は295D/ まず自分自身を支配すべきである。神の意志は他の者を支配することを彼に任命されたのである。実際、王は支配することによってそう呼ばれる。そのときもし彼が理性にかなって自分自身を支配することを知るならば、正当に王の名によって呼ばれるということを知るであろう。それゆえに正統的な王は、臣下を良く支配し、他者の誤りを正すことを望むならば、他者のうちに厳しく非難する悪を彼自身犯さず、彼らに課する徳をすべての者の前で実行するように大いに努力しなければならないのである。しかるに、善き支配者が称賛に値する仕方で自分自身を支配する六つの仕方がある。まず第一に彼が心の不正な思いを厳しく抑制するとき。第二に彼が自分自身の利益と彼の民の利益のために有益な助言を適切に考慮するとき。第三に彼が空虚な話という怠惰で無益なあるいは有害な296A/ 些少事の論争を避けるとき。第四に彼が心の舌で、蜂蜜や蜂の巣以上に、栄光に満ちた君主たちの思慮と言葉と聖書の命令を味わうとき。第五に彼が有害な行為のすべての不名誉を犯すことを恐れるとき。そして第六は彼が、敬虔な意志で主の前に内的に輝く人が言葉と行為によって人々の前で外的にも輝くように、称賛に値する、名誉ある精神の、高尚な行為を明らかに示すときである。支配者にとって三つの規則、すなわち畏れ、秩序そして愛を尊重することは相応しいことである。彼が等しく恐れられ、また愛されるのでなければ、その支配を堅固にすることは不可能である。それゆえに、彼は愛されるために親切さと善行とによって管理し、恐れられるために正しい罰によって自己の勝利をではなくて、神の律法を求めなければならないのである。
 296B/ それゆえに彼は、次のように書かれているように、彼自身の目に謙遜でなければならないのである。「彼らはあなたを支配者に任命した。有頂天になるな。むしろ、彼らのうちの一人のように彼らの間にいよ。」(シラxxxii,1 )。彼が正当に支配者と呼ばれ得る限り、彼は単に人々だけでなく、また彼の身体と精神の情熱をも、ある賢者がかつてこう言ったように、正しく支配しなければならない。「正しく行為する者は王であり、そう行為しない者は王ではない。」それゆえに彼は会議に際してその会話において最も思慮深くなければならないし、恐るべき者であり得るために今もそうでなければならない。しかしもっとしばしば甘美さの恵みによって愛すべき者、肉欲・傲慢・野蛮な残忍さに対する勝利者、善い人々の友、暴君の敵、犯罪の敵、悪徳の敵、戦争において最も思慮ある者、平和において最も心変わりのしない者、誠実な約束において最も信頼に値する者、人間的なものよりも神的なものを優先する者、臣下に悪を思いとどまらせ、善へと招き、豊かさで報い、寛大さで296C/ 許し、悪しきものから善きものを、善きものから最善のものを作らなければならない。支配者は聖なる者、そして国家に有益な者、慈しみにおいて称賛に値する者、善において秀でた者、敬虔・剛毅・貞潔・正義において傑出した者、最良の人間、王冠に最も相応しい者、神への畏れを常に目の前に置く者、王たちに救いを与え、また天においても地においても、そしてあらゆる被造物に対して望まれることをすべて為さる全能の神の正しい掟に従ってその判断を測る者でなければならない。なぜなら、神はあらゆる事物の主であり、彼の前に「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて膝を屈め」(フィリii,10 )、天と地のすべての権力は神の御手のうちにあり、神は王たちの王であり、正しくそして敬虔に支配するすべての者の栄光のための希望だからである。

  感覚の欲望、肉の動揺を支配し
   誘惑を抑制する者は正当に王と呼ばれる。
296D/ その強さによって黄褐色のライオンを征服するが
   王は善行の名誉によって光栄ある地位を占めねばならない。
  しかし傲慢な誇りを踏みつける方がもっと称賛に値する、
   そして怒りをあたかも凶暴な野獣のように手なづけることの方が。
  恐ろしい敵を打ち砕いた支配者は偉大な者と呼ばれる、
   そして月桂冠を戴いた勝者として輝くトロフィーを持ち帰る。

  しかし天上の武器で重装備された支配者にはもっと大きな栄光がある、
   王は見えざる敵を征服することができる。
  技術によって精神の手綱を取る者はもっと偉大、
   三重の世界の力を所有する者よりも。
  実際、正しい王の心は主の神殿のように輝き、
   神御自身の裁判官の高い玉座となる。
  その住居は黄金よりももっと美しく輝き、
   その正義の篝火を所有して喜ぶ。

297A/ 第3章 それによってはかない王国が安定したものとされ得る技術と熱心

 賢者たちはこの世のはかない王国は回転する車輪のようなものであると考えた。実際、あるいは上部にあったものを押し下げ、あるいは引き下げられたものを上へと持ち上げるすべての車輪の回転と同じように、地上の王国の栄光は突然の興隆と突然の没落を受ける。そしてそれゆえに真実の名誉ではなくて、単に想像上のそして速やかに過ぎて行く名誉しか持たないのである。永遠に続く王国だけが真実の王国である。しかるに、地上の王国は、それがはかなくて速やかに過ぎ去り行くものであるがゆえに、決して真理を明らかにはせず、ただ真理の、そして永遠の王国のある僅かの似姿を明らかにするにすぎない。実際、ちょうどきらめく色でもって天の丸天井を飾る虹が素早く消え去るように、たしかに、地上的な名声の栄誉はどれだけ暫くの間飾られようとも、早晩過ぎ去ってしまうのである。297B/それゆえに、いかなる技術で、いかなる行為で、そしていかに多くの注意でこのはかない王国はある種の安定性の似姿へ向かって制御されるのであろうか。地上の王国は恐らく武器の暴力的な力によって、あるいは平和の静かな調和によって安定を保つのだろうか。しかし他方武器や戦争の轟きのうちには大きな不安定しか存在しないことは明らかである。軍事行動よりももっと不確かで、もっと不安定なものが何かあるだろうか。そこには消耗させる戦闘以外に確実な結果、確実な勝利は存在しない。そこではしばしばより優れた人々がより劣った人々によって圧倒され、実際いずれか一方に傾く場合にもしばしば同じ不幸が生じる。そして勝利を得られると予期した両方の側の人々も結局のところ不幸な悲惨以外には持たないのである。297C/ 善い人々の間で永続的で堅固だと信じられていた平和でさえ悪しき人々の転倒した助言によって不和の破壊的な騒乱へと時には変えられてしまい、そしてそこから大きな不安定がはかない平和のうちに現れるときに、誤った平和の名の下にどんなに大きな悪が生じるかを誰が説明することができるだろうか。
 それゆえに、王の心とすべての希望への信頼が武器や人間たちの力、そしてまたはかない平和の欺瞞のうちにではなくて、全能の神の憐れみのうちに結びつけられるべきだということ以外に何が残っているだろうか。神は御自分がお与えになった王国を敵対において、あるいは繁栄においていかに堅固なものとするかを御存じなのである。それゆえに、君主の心と職務の管理における忠実な献身は彼にそのように大きな好意と光栄ある職務をあたえられた主をなおざりにしてはならないのである。おそらく、もしかのいと高き支配者が忠実な僕として任命した者が不忠実であることを見られたならば、297D/ お与えになった職務をその君主から怒って奪い取られることがないためである。実際、もし地上の王が彼の権威をある不忠実な人から取り消して、彼がより忠実であることを知っている他の人に与えることができるとすれば、どんな不誠実の雲も欺くことができない天上のすべてのものの与え主である神が悪い人間から御自分の好意を取り去り、神の意志の適切な僕であることを知っておられる他の人にそれを与えられるということはもっと遥かに有り得ることではないだろうか。それゆえにかの不敬虔なイスラエル王サウルは、主の前に忠実な奉仕者として立たなかったがゆえに、その王国とその生命を奪われた。しかしながら、全能の神はダビデを御自身の御心に従って真に選ばれた人間と見られ、彼をそのことのゆえに王の権力の頂点に登らせられた。神はダビデが忠実な僕であろうということを予め知っておられたので彼を選ばれたのである。それゆえに思慮深い支配者は、298A/ もし彼に委ねられたはかない王国が安定の似姿を持つことを望むならば、いと高き御者の恵みのうちに彼の心をしっかりと保つように努力しなければならない。そして、主は正しくて憐れみ深い方であり、敬虔な心で固着すべき方であるから、支配者は大きなそして光栄ある報酬を得るために多くの憐れみの業を示さなければならない。彼は正義を大切にし、維持しなければならず、彼の臣下の間での不正で悪しき行為を叱責し、称賛に値するそして知恵に一致した熱情でもってそれらを矯正しなければならない。神の掟のうちに固着する者、彼の王国はこの世においてますます安定したものとなり、神の助けによって永遠の安定の喜びへと導かれる。

  車輪の周期が速い回転によって
  回転し、最高点を最低点へと押し下げ、
  車軸を通じてそれぞれの部分を回転させる、
298B/ 敏捷に。

  そのように地上の王国も三重の世界を通じて
  栄光の高い頂点を維持することができない、
  しかし時の経過を持つことを望まない、
      黄金の笏杖は。
  イスラエルの周知の民は
  王国の花咲く飾りへ高められた、
  彼らが神聖な律法、
      神秘的な法を守った時。
  それゆえ主の勝利は強い、

  そしてそれは凶暴な敵どもを圧倒した、
  雷鳴を起こす方の寛大さがその民に
      栄誉をあたえた時。
  ああ、聖なる父祖アブラハムの土地は、
  無数の災害によって打ち倒された、
298C/ その民が彼らのうなじを垂れることを嫌ったときは何時でも、
     創造主に。
  しかしそのような民の唯一の薬は直ちに、
  祈りでいと高き御者に嘆願すること、

  なぜならその方だけが王国を支える力を持たれる、
     その永遠の意志によって。
  この世の君主たちよ、喜んで祈りの香を捧げよ、
  われらの全能の主に。そして主を賛美せよ。
  その方の前では天上界の君主たちも
     うち震える。

第4章 王の権力が力と大胆な強さよりは知恵と敬虔な規律で飾られるべきであるということ

 しかし国家の利益のために神によって建てられたすべての王の権力は空しい活動や地上的な力で飾られるのではなくて、むしろ知恵と神の礼拝で飾られるべきである。というのは、298D/ もし王の高位が宗教と知恵で飾られるならば、そのとき明らかに民は思慮に満ちた勧告の技術によって統治され、敵どもは憐れみ深い主によって打ち倒され、そして諸地方と王国は両方とも維持されるからである。実際、神は人間自身が二つのもの、すなわち宗教と知恵を望み、求めることが人間の本性であることを望まれたのである。更に、敬虔な知恵は救いに最も有益な徳、敬虔な魂の光、天上の贈物そして永遠に続く喜びである。それゆえに、誰であれ栄光に満ちて支配し、民を賢明に統治し、会議において強力であろうと望む者は、「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる」(ヤコi,5 )主から知恵を求めなければならない。また彼は知恵そのものを熱心に、努力して、同時にまた愛によって探求しなければならない。その限りでは、299A/ 次のように書かれていること、そして知恵の称賛おいて書かれている他の事柄が彼には当てはまるのである。「いかに幸いなことか、知恵に到達した人、英知を獲得した人は。」(箴iii,13)。それゆえに思慮の源、聖なる宗教の泉、君主の冠、そして諸徳の母である知恵の輝きで照らされるあの祝福された支配者は真に称賛に値する。そしてそれに較べると、高価な宝石のすべての輝きもその価値を減ずるのである。知恵は会議において最も思慮に満ち、雄弁において並外れており、行為において高尚であり、敵対関係において強く、繁栄において節度があり、そして判断において明敏である。知恵はそれを愛する人々を天上の恵みで飾り、そして彼らを天の蒼穹のように輝かせる。こう書かれている通りである。「正しい人々は星のように輝き、賢明な人々は天の蒼穹のように輝く。」(知iii,7;ダニxii,3)。
 知恵は地上のすべての王たちを超えてソロモンを高めた。299B/ なぜなら、彼は若い頃から知恵を大切にし、知恵の美しさを愛する者となったからである。それゆえに、列王記に書かれているように、主はある晩夢に現れてソロモンにこう言われた。「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」(王上iii,5 )。ソロモンは、ほんの少年であったけれども、彼が主の民を裁き、善と悪を判断することができるよう識別する心を要求したときに、主から次のような答えを受け取った。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」(王上iii, 10-14)。おお、いかに神の恵みの豊かさは表現できないほどに深いのだろうか。なぜなら、もし神の恵みが正しい心と敬虔な意図をもって求められるならば、それは求められる以上のものを与えるからである。見よ、ソロモン王は金も銀も他のいかなる地上的な財宝をも求めず、むしろ知恵の宝庫を主に願った。しかもなお、正しく一つの賜物を求めた者はその二倍を受けた。なぜなら、彼は知恵で豊かにされたばかりでなく輝かしい王国の栄光によって高められたからである。それゆえに、ひとつの優れた実例が地上の王たちには与えられている。もし彼らがこの世において長くそして繁栄して君臨することを望むならば、敬虔な心で肉的な賜物よりもむしろ霊的な賜物を全能の神に乞い求めなければならない。299D/ それゆえに、学ぶ意志と天上の事柄の欲求を持つことは神の愛に値する君主に相応しい。かくして、彼は真にその心を神の御手に置き、そして長年にわたって神の恵みによってその王国を平和のうちに支配するであろう。

  正しい支配者、裁き手であろうと望む者、
  正義の天秤を喜ぶ者は槍によって、
  美しいものを求めて偽りを刺し貫く、
    真理の槍で。
  彼は黄金に輝く光、
  太陽と月、そして輝く宇宙を創造された父を、

  呼び求める。放射する思考において輝くために、
    知恵の光で。
  彼は公平なソロモンの祈りを学ばねばならぬ、
300A/ それは突然天空をよぎって飛び、
  そして刺し貫く、万軍の主の
    黄金の宮殿を。
  彼自身は熟練した判断を得、
  精神を照らされ、知者とされて、
  王の頂点にあって統治した、

    ヘブライの民を。
  黄金のすべての輝きにどんな価値があり、
  真紅の装飾の帝位はなんの役に立つのか。
  栄光とスキュティアの宝石と、
    王の額のディアデマが。
  もし精神の鋭さが衰え、失われて
  真の光を認知できなくなるならば、
  それによって精神が識別する善、悪、正義を、
    正と邪とを。

  それゆえに、支配者の栄光はあなたを愛すること、
  汝、御父の御言葉そして賢明な光よ、
  キリストよ、あなたはいと高き者として君臨される、地上と
    天上の王国に。
  あなたの右の手には祝福された平和が、
  あなたの左の手には満ち溢れる富がある。
  あなたは栄光の君、貧しい者に栄冠を与え、
    富める者を打ち倒される。

第5章 いかに大きな聖なる指導の配慮がその妻、子供たちそしてその家政に関して支配者によって示されるべきか

 敬虔で賢明な王は支配の職務を次の三つの仕方で遂行する。上述したように、彼は第一に自分自身を、第二に彼の妻、子供たちそして彼の家政を、そして第三に彼に委ねられた民を理性にかなった称賛に値する規律でもって支配しなければならない。それゆえに善き君主は悪を退け、善いものを選んで堅固に保持しながら、自分自身を支配するだけでなく、また彼により密接に関係する他の人々、すなわち、彼の妻、子供たち、そしてその家政を思慮に満ちた配慮と家族的な愛情をもって支配しなければならない。そしてこのことを為すことによって、君主は次のように言う詩編作者に一致して、彼自身が正しくて聖であるゆえに、彼に関係ある他の人々をも正しくて聖なる者とするという点において栄光の二重のしゅろという宝を蓄える。「あなたは無垢な人には無垢に、清い人には清くふるまわれる。」(詩xviii, 26 )。実際、妻が貞淑・誠実でなければ、また子供、侍臣、下僕が恥を知る心によって飾られてないなければ、ダビデが次のように言うように、自分が美点を持つことは十分なことではないのである。「完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。」(詩c, 6)。野の百合が他の植物や菫の多様な美しさによって飾られるように、300D/ また月がそれを取り巻く星々の輝きによってより優美に輝くように、確かに正しくて賢明な王は他の善い人々との親交によって大いに飾られるのである。それゆえに、支配者は高貴で美しくそして豊かであるばかりでなく、また貞節で思慮に富みそして聖なる諸徳において従順でもある妻を持つように聡明な配慮をしなければならない。なぜなら、妻が法律上より親密であればある程、それだけ彼女は邪悪さの胆汁によって有害となるか、それとも道徳の甘美さによって蜜のように甘いかのいずれかだからである。確かに、愚かな妻は家政の破滅、富の消耗、罪の充満、あらゆる悪と悪徳の逗留である。彼女は自分を外面的に迷信的慣習でいろいろ飾り立てるが、彼女の魂の内面を飾ることを知らない。彼女は今日愛する人を明日は憎む。ある人がかつて言ったように、301A/ 「夫に対して不忠実な妻はすべての事柄の破滅である。」それとは反対に、貞節で思慮に富んだ妻は規律あるやり方で有益な事柄に注意を払いながら謙遜な物腰と朗らかな話ぶりで子供たちと家族を平和のうちに支配する。そして夫の繁栄のためにはもし必要なら自分の生命を死にさらし、尊敬すべき評判で夫の富を守る。昨日彼女の友人であった者は今日彼女の友人である。それゆえに、彼女は富の導入、家政の支持、夫の喜び、家族の卓越、そしてすべての徳の結合となる。しかしそのよう妻にとってその夫に貞節な絆でもって繋がれ、従順であるばかりでなく、また敬虔と聖なる会話の理想を常に示し、思慮ある助言の生み出す者であることは適切なことである。ちょうど悪しき妻の説得によって有害な危険が生み出されるように、思慮ある301B/ 妻の助言によって全能の神に喜ばれる多くの利益が生じる。それゆえに使徒もこう言っている。「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされる。」(1コリvii,14)。 信者でない君主だけでなく敬虔で正統的な君主たちもまた、彼らの妻の壊れやすい性を考えるのではなくて、彼女らの善き助言の果実を摘み取りながら、彼女たちのうちにある素晴らしい思慮にしばしば思いを致し、傾聴する。それゆえに栄光の皇帝テオドシウスの尊敬すべき妻プラシルラについては、皇帝自身が潔癖で正しく賢明であったけれども、彼女を通して彼が善き仕事から凱旋するであろう他の有益な機会を持った、と言われるのである。彼の妻は以前から完全に自分自身を教えていたので、しばしば彼に神の律法に関して助言した。彼女は王権の高位によって思い上がらず、301C/神の愛によって燃え立たせられていた。実際、彼女が受けた祝福の豊かさは恩恵の与え主に対する彼女の愛を増した。そして実際、彼女は思いがけなく高い地位に達したのである。彼女は足の不自由な人々に最大の配慮を示したが、しかし奴隷や他の召使を使わずに、自分自身で行動し、彼らの住居に行き、彼らが必要とするものを彼らに差し出した。このようにして、諸教会の病院を巡り歩いて、彼らの壺をきれいにし、スープを試食し、一匙の飲み物を与え、パンを裂き、食事の奉仕をし、カップを洗い、そういった普通は奴隷や召使によって為されるのが常であったすべてのことをしながら、彼女は病人たちに自分自身の手で奉仕した。彼女にそのような事柄を禁止しようとする人々に対してはいつもこう言うのであった。「黄金を分配することは皇帝の職務です。しかし私は皇帝自身に代わってこの奉仕を捧げます。皇帝が私にすべての善きものを与えられたからです。」301D/ 更に、彼女は夫に対してしばしばこう言っていた。「わが夫よ、あなたはあなたがかつて何であったか、そして今何であるかをいつも思い起こさねばなりません。もしあなたがいつもこれらのことを思い起こされるならば、あなたはあなたの恩恵の与え主に対して決して恩知らずではないでしょう。そしてあなたは自分が受けた帝国を正しく統治し、これらすべての事物の創造主を宥めることになるでしょう。」それゆえそのような言葉によって彼女は最大の利益と豊かな徳を夫に捧げたのである。

  敬虔で賢明な王は三重の舵で支配する、
     自分自身とその臣下を。
  妻は道徳によって支配者の栄光の証しとして際立つ、
     栄えある葡萄の樹のように。
  高貴さが三重の徳によって彼女を飾る、
     貞淑な心の薔薇で。
302A/ 乳白色のうなじが美しい飾りで輝くならば、

     貞淑さはそれ以上に光り輝く。
  キリストが純潔な愛で教会を彼に結びつけられたように、
     妻はその夫に縋るべきである。
  彼女の心には柔和な単純さが溢れているべきである、
     鳩の優美さのように。
  敬虔、思慮、聖なる権威が彼女を飾るべきである、
     優しいエステルが人目を引くように。
  王と女王は平和の絆を愛すべきである、
     彼らの内に協和と一致があるべきである。

  嫉妬の不和が二人を分かってはならない、神の
     平和の法が彼らを一つに結びつけたのだから。
  規律が彼らの栄光の子孫を支配すべきである、
     美しい枝が繁茂するように。
  萎んだ若枝は勢いのある木には決して育たない、
302B/   良い栽培者はこのために準備する。
  もし支配者とその女王が民を正しく支配すべきだとすれば、
     彼らは自分たちの一族を支配しなければならない、
  あたかも高貴なアブラハムの幹から創造されたかのように、

     彼らが子孫によって天空を飾らんことを。

第6章 善き君主はどのような助言者と友人を持つべきか

 人間的な事柄においては、言われるように、最もひどく荒れ狂うこの世界の嵐の中で善く支配すること、そして国家を先見の明によって統治することよりも難かしい技術は他にない。しかしこの技術は国家それ自体が思慮に満ちた最高度の助言者を持つときその最高の段階の完成に達する。しかしながら、助言においては三つの規則が守られなければならない。第一に神的なものは人間的なものよりも優先されるべきである。なぜなら、「人間に従うよりも、神に従わなければならない」(使v,29)からである。それゆえに、もし誰かが302C/ 国家という船を良い操舵手のように成功裡に操ることを意図し望むならば、彼は聖書のうちに述べられた主のいとも優れた助言をなおざりにしないように遵守しなければならない。第二の助言の規則は、先見の明ある支配者は自分自身の考えに頼るよりはむしろ彼の最も思慮に富んだ人々の助言に頼るべきだということである。それゆえに、皇帝アントニヌスの助言に関する優れた格言は常にこうであった。「私が非常に多くの優れた友人の助言に従う方が多くのそのような友人が私の意志だけに従うよりも正当である。」(注9 )。ソロモンもまた次のように言ってこのことを確証している。「相談しなければどんな計画も挫折する。参議が多ければ実現する。」(箴xv, 22)。また、「参議が多ければ救われる。」(箴xi, 14)。実際、思慮ある人は他の思慮ある人たちを会議に招集し、彼らの助言なしには302D/ 何事も為さない。しかるに、愚かな人は自分で考え、そして他の人々の助言なしに彼がせっかちに望んだことを為す。最後に、助言において守られるべき第三の規則は、正しい支配者は欺瞞的なそして有害な助言者を持つべきではないということである。実際、誰が邪悪な者の助言に信頼しなければならないだろうか。なぜなら、ちょうど平原の中の谷、街道における罠、思いがけない陥穽が他の者の足を束縛するように、軽率の胆汁と混合された不敬虔な者の助言は正しく聖なる人々をその道中において邪悪に妨害するからである。実際、善い助言者が国家を上へ高めるように、悪い助言者は破滅的な災禍によって国家を転覆させる。それゆえに、そのような邪悪な助言者は退けられあらゆる方法で忌避されるべきである。というのは邪悪に生きることによって神の掟を軽んじる者は決して地上の君主に対して忠実ではないだろうからである。303A/ 実際、自分自身に悪い者が善い者であることができるだろうか。
 しかし、全能の神のいとも救いに満ちた助言と掟が知られ、教えられるべきであるように、思慮ある支配者たちの助言は時に敵たちから隠されるべきである。まことに、敵が知らなかった助言よりも良い助言は国家において何もない。なぜなら、為されていると敵がまったく考えない旅行は安全に行われるからである。しかしながら、二つの事柄すなわちせっかちと怒りは助言とまったく反するものである。なぜなら、怒りは精神を見えなくさせ、その結果有益な助言を識別できなくするからである。そして長い助言がいかに大概は失敗しないことか。しかし王の信頼が全能の神の助けにおいて確かなものとされるとき、助言は特に成功した結果へと導かれる。実際、神の次に、彼らが助言において誤らないように天上の恵みで照らされるに値する忠実で優れた友人からでなければ、どこから良い助言が出てくるであろうか。神の憐れみによって霊感を受けた彼らの先見の明に富んだ熟慮によってしばしば救いに役立つ助言の葡萄の房が摘まれるのである。善い君主があたかも人を脅かす龍のような残酷な暴君を友人に持つようなことがあってはならない。これに動物の豹の例も付け加えられる。まことに、四足獣の部類である豹は、自然学者が述べるように、龍を除いてすべての動物の友だからである。それゆえに、君主は徳がある人々だと自分が知っている人々との友人関係を結ばなければならない。しかし、善い友とは、聖なる者、尊敬すべき者であるのではないとすれば、悪意に満ちた者、盗癖のある者、煽動的な者、あるいは悪賢い者、あるいは悪事のために共謀する者、あるいは善い人間の敵、あるいは好色、残酷な者あるいは彼らの君主の裏切り者ではないのでなければいったい誰なのか。そうではなくて、聖なる者、貞節な者、宗教的な者、自分の君主を303C/ 愛する者、他人について嘲ったりまた自分自身を嘲ったりしない者、そして嘲けられる者であることを望まない者、へつらったり欺いたりしない者、決してごまかさない人間、常に真実で、真面目、思慮があり、すべてにおいて自分の君主に忠実である者でないとすれば、一体誰が善い友人であろうか。それゆえに、そのような人間によって国家は繁栄し、そして敬虔な王の名声と栄光は増大するのである。

  舵なしには船は深い潮流の中を漂流し、
    あの膨れた南風によって翻弄されるように、
  王国の栄光と光り輝く王権は揺らぎ、

    そして滅びる、おお、助言なしには。
  なぜならその言葉は蜜の味がするけれども
    その下に蝮の毒を隠している人々がいるから。
  彼らは人を魅する言葉ですべての人を説得するが、
    彼らの言葉は狡猾な陥穽のように響く。
  彼らの助言によって国家は支えられるように見える、
303D/  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  このゆえに助言のいとも甘い葡萄の房を積み取ること
    おお余りにも悲惨な沈没が押し寄せた時には。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    王権を持つ者はその高位を飾る。
  いつも辺りを警戒している山頂のガゼルが、
    何かの危険を見つければすばやく逃げるように、
  善い支配者は精神の光で高所から見て敵を避ける、
    優れた技術と相応しい助言によって。
  優れた真珠が湿った牡蠣から得られ、
    蜂蜜が甘く流れる蜂の巣から集められるように、
  友の純粋な泉から汲み出されるべきである、

    相応しく役に立つ有益な助言は。
  真の友情の保護者は悪意を持たないことがわかっている、
304A/   すべての善いものは彼の気に入り、悪いものは気に入らない。    彼は本当に知っている、「これはこう」あるいは「これは違う」と言う ことを、
    彼の中では秘めやかな心と敬虔な口は一致している。
  彼にとって確固たる信仰は生命それ自身よりも貴重であり、
    彼は心の中に葦製の胸衣を織る[計略を企む]ことを知らない。
  ラッパの響きは彼を挫けさせない、
    なぜならゆるがない錨が忠実な心に宿っているから。
  富も黄金の重さも彼を欺くことはできない、

  彼の貴重な信用が侵害されることがないように。

第7章 いかなるものが君主たちを悪くするか

 しかし今や順序は我々が悪い君主についてもまた簡単に触れることを要求している。というのは、我々は優れた王権の有用性、国家に必要とされることについて既に述べたからである。ここでは、まずいかなる原因が善い君主から悪い君主を作るのかが問われる。それに対しては、次のように304B/ 言わなければならない。第一に王の放縦、次に富が有り余っていることがそうである。なぜなら、物の過剰は悪の原因となるからである。更に悪い友人、嫌悪すべき取り巻き連中、ひどく貪欲な宦官、愚かで軽蔑すべき廷臣たちがそうである。これらすべての人たちを通して善いと思われた支配者のうちにさえ神の命令の忘却が生まれる。最後には公共の事柄の無知が生じることは否定できない。このように、四人か五人の人々が一緒に集まれば、彼らは皇帝あるいは王を欺くための計画を立てる。彼らは何が是認されるべきかを皇帝に告げる。皇帝は彼の住いに閉じ込められて、真実について何も知らず、これらの人々が彼に告げることだけを考えさせられる。彼は任命されてはならない者を裁判官に任命し、重んじられるべき人々を国家から追放する。それゆえに、優れた、用心深いそして最良の皇帝でさえ裏切られ、304C/ 彼の周りで真実のことが語られないがゆえに彼自身惨めな者とされる。このために、しばしば荒れ狂う無秩序によって神の尊崇者である敬虔と真理の両者が屈服させられる。というのは、最も苛酷な疫病の双子、すなわち虚偽の愛好と真理の憎悪が堕落させるところの[律法]の撤廃者たちが信頼に値すると信じられるとき、[律法の]拒否が大いに広まるからである。

  破滅的な暴風のように、
  過度の富の充満は支配者たちを覆す。
  最初善い統治によって輝いている支配者たちも
  世俗的な意図によってしばしば悪くなる。

  性格において黄金であった聖なる人々は
  すぐに鉛のように価値のないものとして硬直する。
  葡萄の豊饒によって喜んだ人々も
  踏みつけられた山葡萄のように落胆する。
  不注意な主人を狡猾な気質によって
  非常な野心家の友は欺く。
  そのためにあの最良の主人は多くの欺きによって
  不決断な者となり、葦のように揺れ動く。
  そして惨めにも、彼は偽りの策略を知らず、

  真理の光はそのような主人を照らさない。
  実際、王の目を盲目にするのは名誉、
  黄金、富、濁ったもの、嘘、
  女性の顔の誘惑的な快楽、
  愛する者に嘘を言うこと、豪奢、そして権力。

第8章 貪欲なあるいは不敬虔な王について、そしていかに多くの神罰が彼らの民あるいは彼ら自身の悪によって結果するか

 我々がこれから不敬虔な支配者について論究することが適切であると思われる。彼らの悪意がこの世における彼らの最も惨めな最後、いわば永遠の評価によって認識された限り、思慮に富んだ支配者は悪い行為から遠ざかる305A/ ことによって、より注意深くそしてより善くなり、いと高き恩恵の与え主の気に入るために熱心に努力しなければならない。しかし、不敬虔な王たちは、もし彼らがライオンのように獰猛で熊のように荒々しい地上の大盗賊でないとすれば、いったい何であろうか。そのような人々についてはこう書かれている。「ライオンがうなり、熊が襲いかかるように、神に逆らう者が弱い民を支配する。」(箴xxviii, 15)。まことに、不敬虔な王はライオンのような人格を持っていて、善い人々を軽蔑し、悪い人々を高めながら、思慮ある人の助言なしにあらゆる悪意をもってすべての判決に対して役に立たない言葉を辛辣に口にするがゆえに、彼の日は短くされ、そして彼の記憶は音声と共に消え去るであろう。実際、彼は力があったというよりは罪を犯したのである。それゆえに、そのような人々は悪人たちの友、善い人々の敵、肉欲と貪欲の奴隷、あらゆる邪悪の奴隷、悪魔に仕える者、常に働きながら何も作り出さない者、人類の深淵、悲惨、305B/ 永遠のゲヘンナの糧秣、突然高められるが、しかし間もなくタルタロスの深淵へと投げ込まれるヒマラヤ杉のようなものである。このために詩編作者はこう言う。「主に逆らう者が横暴を極め、野生の木のように勢いよくはびこるのをわたしは見た。しかし、時がたてば彼は消えうせ、探しても、見いだすことはできないであろう。」(詩xxxvii,35-36)。実際、不敬虔な君主は、今日美しく生え出て明日には萎れて、再び見出されない野原の草や木のように栄える。彼らについて預言者を通じてこう言われている。「彼らは王を立てた。しかし、それはわたしから出たことではない。彼らは高官たちを立てた。しかし、わたしは関知しない。」(ホセviii,4)。彼らは正しくそして王の道に従って歩くことを知りもしなければ望みもしない。むしろ右あるいは左へ曲がることの方を好む。彼らに一致するのはイザヤを通して主が次のように言って語られていることである。「彼らは万軍の主を捨て、くねった道を歩いた。」(イザi,4;箴ii, 13)。305C/ そのような人々は協議において欺瞞的な者、言葉において激烈で不正確な者、行為において悪意ある者であり、彼らの目的は彼らの行為と一致するであろう。彼らについては同じ預言者を通じて次のように言われている。「万軍の主はこう考えられた、傲慢な者をすべての栄光から引き下ろし、地上の皆によく知られた者たちを恥辱へと落とそうと。」(イザxxiii,9?)。しかし祝福されたヨブもこう言っている。「神に逆らう者の喜びは、はかなく、神を無視する者の楽しみは、つかの間にすぎない。」(ヨブxx,5)。すなわち、このはかない生活は永遠に較べると最も短い瞬間に似ている。しかるに、永遠の至福の栄光を現在の幸福の短い瞬間のために売る人々はわざわいなるかな。

 実に、いかに多くの悪が神の復讐を臣下あるいは支配者自身にもたらすかを詳述することは我々の能力には属さない。しかし、多くの例の中から少数の例をもらすことは適切なことである。305D/ その心のかたくなさから成長した王ファラオの不敬虔は彼自身とエジプトの民に10の災厄をもたらし、加えてファラオと彼の部下たちを紅海の下に、そして地獄のアケロンの最も深いところへと沈めた。アンティオクス(注10)、ヘロデそしてポンティオ・ピラトを倒した判決の復讐がいかに大きかったかを誰が知らないであろうか。ネロ(注11)、エゲア(注12)、そして最も不敬虔なユリアヌス(注13)、そしてその邪悪さにおいて彼らに似た他の者たちについては、私はなんと言えばよいであろうか。地獄の口は彼らを最も恐ろしい死の後にそのすべての追従者と共に呑み込まなかっただろうか。しかし、無数の実例を省くために、最も残酷な王テオドリック(注14)のこの世からの悲惨な出立について論じようと思う。彼はアリウス派の異端の信奉者そして善良なキリスト者の迫害者であったゆえに、その死において、ある人によって明らかにされたように、教皇ヨハネ(注15)と貴族シンマクス(注16)の前に306A/ 裸、裸足そして手を縛られて連れ出され、火の神ヴォルカヌスの壺の中に投げ込まれた。なぜなら、彼はヨハネ教皇を牢獄で傷害を与えることによって殺し、また貴族のシンマクスを剣によって殺害したために、彼がこの世において不当に有罪宣告をした人々によって火の中へ投げ込まれたからである。おお、全能の神の裁きはなんと厳しく正しいことか。その方の適切な復讐は凶暴な暴君を容赦のない判決でもって追及したのである。実際、主の僕たちにこの世のはかない死を不当に課した者は身体と魂の二重の死によって正当に滅ぼされたのである。他の人々からこの現在の生を奪った者は彼自身からこの世のはかない生と永遠の生が奪われた。それゆえに、彼は二重の奉仕の職務を成就したのである。すなわち、彼自身のために彼は代々にわたって苦しめられるであろうゲヘンナの重刑を、しかし聖なる人のためには神の光栄の棕櫚の枝を[獲得するよう]奉仕したのである。不当に有罪宣告を受けた人々は突然306B/ 冠を受け、そして残酷な暴君に対して神によって送られた裁判官となる。しかしながら、虚偽の判決を下した者は突然有罪宣告を受け、そして永遠の破滅の炎へと渡される。それゆえに、この事例において、恐ろしい実例は地上の権力が主の僕たちを−全能の神はその大いなる御手の力で彼らのために復讐なさる−迫害しないために述べられたのである。しかしこのことは悪い支配者について言われるであろう。今は次のもっと重大な問題へ移ることにしよう。

  悪い行為によって面目を損なった地上の王たちは、
  似ていると思われないだろうか、
  猪、熊、虎に?
  彼らは大地から生まれた最大の盗賊、
  怒り狂ったライオン、
  鉤爪をもった強欲な猛禽ではないか。
306C/ アンティオクスとファラオ、

  ヘロデと惨めなピラトに起こったことは
  はかない王国を失い、
  その仲間と共に[地獄の]アケロン河へと沈むこと。
  このように厳しい罰がいつも邪悪な者を
  地上でも永遠においても屈服させる。
  なぜあなたは子孫の額に花冠をめぐらせ、
  燃えるような緋衣で飾るのか。
  火のかまどが彼らをを待ち、
  降り注ぐ豪雨もそのかまどを損なわない。

  あなたは光の主を愛しないかぎり、
  外の闇へと過ぎ越して行くだろう。
  そこではあなたの栄光は
  永遠に萎れて無力なものとなるだろう。
  しかし正しい人々に、天上の冠と
306D/ 祝福された光は栄光を与えるだろう。

第9章 平和をもたらす思いやりのある王について、あるいは好意は誰に与えられるべきか

 賢明な人々が言っているように、神の他の被造物よりももっと美しい七つのものがある。驚くほどに銀色に似ているときの雲のない空、その軌道においてそれが栄光の輝きで世界の住人たちを照らすときのその輝きにおける太陽、太陽の固有の軌道によって痕跡を踏査するときの、後退して行く雲によって覆面を取られた顔を持つ満月、無数の花と巻いた芽に彩られたときの実りに満ちた畑、天の晴朗と雲が岸に静かに触れるにつれて波に美しく反映するときの海の絶えざる動き、一つの信仰において共に住む正しい人々の大群、307A/ 王の広間において誇示された褒賞と分配された贈物とともに多くの親切を振り撒くときのその治世の栄光における平和を愛する王がそれである(注17)。すなわち、正しくて平和を好む王は喜ばしい顔で財産を分配し、各人の訴訟の理由を誠実に考え、民の中の病人や貧しい人々を軽蔑せず、老人たちや思慮深い人々の助言と判断と共に、悪い人々を引き下げ、善い人々を高めながら、正しい判決を下す。彼の日々は栄光と共に延長され。彼の記憶は永遠にとどまるであろう。平和を好む君主は近くにある花咲くそして豊沃な天国のようなもの、たわわな果実に溢れた高貴な葡萄の木のようなものである。彼の眼の輝きによってあらゆる不和を滅ぼす。彼がその心の広間において平和を抱擁するとき、明らかに彼はキリストのためにひとつの邸宅を提供するのである。というのは、キリストは平和であり、平和のうちに憩うことを望んでおられるからである。更に、平和のあるところには論争における真理、行為における正義が見出される。それゆえに、307B/ 思慮に富んだ舵取りが季節の微笑む静穏によって嵐の海の危険を避けようと努めるように、平和を好む君主は澄みわたった精神の静穏と平和の一致によって不和の激情を細心の熟慮でもって抑制しようと考える。彼は平和の三つの規則を守らなければならない。すなわち、彼自身を超えて、彼自身において、そして彼自身の近くで。なぜなら、彼は神に面して、彼自身において、そして隣人たちをめぐって平和を好む者でなければならないからである。実際、平和の善さは非常に大きいので地上のはかないものの中でこれ以上に喜びをもって聞かれ、これ以上に望ましいものとして求められ、これ以上に善いものとして見出されるものは何一つない。しかしながら、平和を好む心の果実は臣下と友人に対して寛大な憐れみと共に慈しみを示すことである。それらの徳によって敬虔な王とその王国の両方は、次のように言っているソロモンによって証言されているように、307C/ 栄光のうちに保たれるであろう。「慈しみとまことは王を守る。王座は慈しみによって保たれる。」(箴xx, 28)。まことに、善い君主が好ましいそして愛すべきものとして民に推薦するもので、慈しみと平和をもたらす静穏よりも善いものは何もないのである。
 そのような慈しみは、長くならないために他の例は省くけれども、皇帝アウグストゥスを最も有名な者とした。それはアントニヌス、コンスタンティヌス大帝、テオドシウス1世、テオドシウス2世そして他の傑出した君主たちを著しく祝福した。それはまた徳の他の飾りの間にあって、地上の他の君主たちの前でカール大帝にアウグストゥス[最も神聖な皇帝の称号]を捧げた。それはルートヴィヒに最も敬虔な皇帝の名称を与えた。これ以上の例を出す必要があるだろうか。確かに、敬虔の最も清朗な慈しみは名誉ある307D/ 君主たちに地上において栄光を与え、天上においては聖人たちの兄弟に据えた。なぜなら、彼らはその持ち物だけでなく、また彼ら自身の全体を全能の神に捧げたからである。しかしながら、いかなるものも、もしそれが慈悲の行為でないならば、正しいそして敬虔な王から贈られるべきではない。しかし慈悲の行為は、もしこの世においてなんらかの利得の報酬に心が向けられるならば、滅びて無に帰する。なぜなら、その報酬が我々に支払われているものを我々は丸ごと持つことはできないからである。それゆえに、そのような授与は正しくは慈悲の行為とは呼べないのであって、むしろ商取引と呼ぶべきである。反対に、善い君主に与えられた名声、敬虔そして正義を損なうことがないような慈悲の行為が捧げられるべきである。慈悲の行為は各々の人物の品位と事物の有用性に基づいて為されるべきであり、容易に自分自身を否定する受け手の貪欲さに従って与えられるべきではない。というのは、彼らは困難なあるいは308A/ 不可能なものを法外にまた激しく要求するからである。それゆえに、皇帝ネルヴァはいつもこう言っていた。「友人たちがすべての事柄を自分自身に値すると考えるとき、もし彼らが何かあるものを奪い取らなかったならば、彼らはもっと凶暴になる。」(注18)。それゆえに、この世のすべての贈与においては、正しい規準が守られ、国家の繁栄と教会の利益のため、そして天上の栄光の達成のめに、すべての事物が晴朗な君主の寛大さによって善き人々、より善き人々そして最も善き人々に分配されるようにという贈与における意向が守られるべきである。

  世界の神的創設者、すべてのものの皇帝、
  神は創造なさったすべての美しいものを巨匠として創造された。
  これらの被造物のうちでより美しい七つのものが傑出している、
  際立つ恩寵によって彩色された天上の領域、
  星々の間の太陽の実りを与え、物を白く輝やかせる栄光、
  二つの角のある花環の後ろの光に満ちた月、

308B/ 花の芽で実り豊かな緑の庭園、
  すべての事物の姿を和らげるテティス[海]の静けさ、
  おお神よ、あなたを賛美する聖人と多くの敬虔な人々の合唱隊、
  そしてすべてのものを通じて栄光に満ち、最も優れた支配者は
  聖性を賦与されて、寛大で晴朗、
  公正と心の純粋さによって傑出する。
  彼の前では傲慢で悪い高位の人間は震える。
  彼は王の寛大さで善い人々に直ちに栄誉を与え、
  あの葡萄の木のように平和に満ちた祝福された者となる。

  彼は天の国に相応しい、三位一体の似姿である。

第10章 正しい君主の王国はいかに多くの柱で支えられるか

 しかしこれらの事柄の中には他の知るべきことがある。というのは、賢明な人々が主張しているように、正しい王の王国を力強く支える八本の柱があるからである。第一の柱はすべての王に関する事柄における真理である。第二の柱は308C/ あらゆる交渉における忍耐である。第三は贈物における寛大さ、第四は言葉における説得性あるいは丁寧さ、第五は悪い人々の矯正あるいは抑止、第六は善い人々の友情と称賛、第七の柱は民に課される税の軽さ、第八は富める者と貧しい者の間の正義の平等である。それゆえに、これらが正しい君主の王国をこの世において強固にし、永遠の栄光の安定へと導く八つの柱である。

  どんな建物も長年月の間確固とした形を保てない、
    もしそれが支柱によって支えられていないならば。
  光り輝く神殿も強固であることはできない、
    柱なしには王の宮殿もしっかりと立つことができない。

  正しい支配者の健全な柱が堅固に立つことを、
    国家は神の恩恵に頼って懇願する。
308D/ 第一の柱は真理の美しい飾りによって光り輝く、
    忍耐強い支配が正当に第二の地位を占めるのに対して。
  第三は寛大な右の手で、相応しい者に贈物を与え、
    第四に、雄弁は魅力的な言葉を響かせる。
  第五は悪い人々を抑え、驚くべき熱心で彼らを震えさせる。
    第六は善い人々を力強く称賛することを喜ぶ。
  第七は民の税を慈悲深く軽減し、

    しかし第八は正義の秤を規定する。
  支えられた国家はこれらの堅固な柱に依存し、
    シオンの山のように、それらの上に堅固にとどまる。

第11章 善き君主はなぜ善意のそして熱心な配慮で教会の訴訟事件を294A/ 支持すべきであるか、また公会議の集まりについて

 それゆえに、王の権力の頂点はこれら八つの柱によって支えられるから、神を愛する支配者に相応しいことは、彼の個人的な事情を教会の利益に従属させることである。309A/ すなわち、彼は、あの天上の恩寵が彼に与えた神の慈しみを記憶しているその程度に応じてそのような祝福の与え主に栄誉を帰すのである。しかし、善い君主は主の畑においていわば偉大な王の家令として働く人々の援助者そして保護者だと証明されるとき、いと高き神に栄誉を帰す者だと知られるのである。なぜなら、全能の神が、君主が御自分の事柄、すなわち聖なる教会の事柄に関して気遣う者であることを御覧になる程度に応じて地上の君主の事柄をそれだけ好意をもって処置なさるだろうということは確実だからである。それゆえに、先見の明ある君主は、もし彼にとって幸運で光栄な事を神が為さることを望むならば、神に喜ばれる事を為すように努力しなければならない。また彼は教会会議が毎年二、三回開催されるように命令すべきであるその限りで入念な監督で賢明に配慮しなければならない。それは神の真の礼拝、309B/ 神御自身の教会の尊敬、そしてその司祭たちの栄誉に属すると知られていること、あるいは主の掟に反して実行されたことが、神御自身を畏れまた心を一つにした会議において討議されるためである。そうすれば、成功したことは十分に強化されるであろうが、しかしもし失敗したならば、よくなるように矯正されるであろう。その会議においては教会の監督自身が彼らの職務をどのように遂行しているか、あるいは彼らに委ねられた民を神の教えでもってどのように教育し、また聖なる交際の実例でもってどのように感化しているかが吟味されなければならない。もしこれらすべてのことが平和の一致と教会法的な正義をもって単純率直に論究されるならば、聖なる教会には実り豊かな利益が生じ、そしてその慈悲深い熟慮と権威によってこれらのことを為す尊敬すべき支配者には大いなる功績の原因が生み出されるのである。
 309C/ 実際、司教たちの聖なる会議は宗教的な君主の貴重な冠である。そのような会議において最も有名な皇帝コンスタンティヌス大帝は喜びながら主において誇った。なぜなら、彼は天下の、そしてキリストの福音が宣教されているほとんどすべての諸国の中から最も聖なる人々を、すなわち、教義と奇跡の両方において輝かしい三百人以上の司教たちをカトリックの信仰の議論のために一つの会議、すなわちニケアの公会議に招集したからである。それゆえに、そしてこのような事情の下でこれまでキリスト教の風習は成長したのである。その風習というのは諸教会のすべての正統的な君主たちの面前で、教会会議によって以外には探求できず、教会法の裁可によってでなければ決定できない聖なる教会の不可欠の利益のために教会会議が開催されることが規定されたのである。それゆえに、王は用心深く、謙遜でそして309D/ 大いに慎重な者でなければならないのである。彼はまた教会会議の決議を知る以前に、教会の問題に関して何かを判断できると僣越にも考えてはならない。まことに教会法上の判断は最大の正義と共に持ち出されるのでないならば神の前で特に危険である。もし無実の者が偽りの告訴人や嘘つきの証人によって、彼らの不在の際に告発されるならば、特にそうである。このことはキリスト教とは一致しないからである。それゆえに、このことはまた福音書のうちに次のように読まれる。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」(ヨハvii,51)。それゆえに、敬虔な支配者は言わば明るい目のように、まず聖なる司教たちの教会法的決定に従った正当で合法的な事柄に明敏に注目し、次に310A/ 真実で正しい事柄に同意と権威の支持を与えなければならない。しかし彼はそのような事柄について決して予めの判断を下してはならない。それは彼が恐らく誤ることによって主の目の前で厭うべき罪に陥ることがないためである。
 それゆえに、尊敬すべき記憶のヴァレンティニアヌス皇帝は聖なる教義の改良に彼がどの程度関与することを欲しているのかを聖なる司教たちから尋ねられたとき、こう言った。「私は民のうちの最も小さい者であるから、そのような問題を究めることは正当なことではない。むしろこのことに関心を持っている司祭たちが彼ら自身の許に、彼らの望む場所で集まるべきである。」(注19)。確かに、謙遜の徳を具え神の畏れによって保護された皇帝は、恐らくより優れた判断よりも彼自身の判断を選んだならば、いと高き御者を侮辱することになることを恐れて、こう言ったのである。310B/ 以前に述べたように、偉大で最も賢明な皇帝コンスタンティヌス(注20)は自分自身には信頼せずに、むしろ聖なる司教たちの思慮と知恵に信頼しながら、彼自身そうした。神の愛に相応しい君主、祝福されたヨヴィアヌス(注21)は不動の信仰でこのことを守った。彼は、アリウス派の異端の敵、ニケア公会議の決議の味方であった間に、自分自身のために地上の王国のはかない高位から永遠の王国の栄光を手に入れたからである。最も聖なるそして神の恩寵によって傑出した二人の皇帝、テオドシウス1世とテオドシウス2世(注22)について私は何を語ろうか。彼らは多くのことにおいて全能の神の御意にかなったので、主の霊感でもって彼らは王の緋衣、王笏、そして帝国の威厳の頂点を神の掟と教会法の慣例に従属させ、そして常に不撓不屈の愛でもって神の教会に対する敬虔な熱情を保持した。それゆえに、すべてのものの主は彼らを310C/ 地上において高め、そして彼らの現在の幸福の栄光の後には、言わば愛する者のように自分に奉仕する者を天において永遠に幸せにされるのである。しかし、もし誰かがそのような君主たちの名声と競おうとするならば、もし誰かキリスト教の支配者がこの世において幸福にまた栄光に満ちて統治することを望み、永遠の幸福の棕櫚に至ることを求めるならば、彼は全能の神の礼拝に対するあの皇帝たちの最も忠実な献身を模倣しなければならない。もし彼が天の市民たちの間で聖なるそして正しい支配者と共に永遠に統治することを求めるならば、彼自身が親切、柔和であり、判決において厳格であること、心の謙遜において忍耐強く、憐れみの心において同情的で、心の広さにおいて寛大であること、神の意志に一致して神の教会に対する熱情において光り輝く者でなければならない。

310D/ 神が高められた優れた君主、
  彼が栄光に満ちた王笏の保持者として民に君臨せんことを。
  彼はいと高き天の王座に従わなければならない、
  レバノンの杉をもたらされた創造主に。
  その方は最高の山々を頂によって高く上げ、
  野を花で芽吹くようにされた方、
  そして天を星で飾られた御父、
  ケルビムを超えて立たれる天の王。

  その方は地が生み出した悪意の王たちに命じられる。
  このために名誉によって傑出した支配者は、
  −その名誉は天の神が彼にお与えになったもの−、
  すべてを支配される神の御心にかなうように配慮せねばならぬ。
  王権を賦与された最高の支配者は
  御自分を礼拝する者を偉大な者とされる
311A/ 言葉、敬虔な心、統治、道徳によって、
  そしてキリストの教会を心から愛する者を。
  教会法の保持者、指導者、最善の者、

  彼は正義の花環によって輝きを発する。
  彼は実に聖なる王であって、聖なる教義と
  父祖の掟をあらゆる事柄において守る。
  司教たちの大群は彼に輝きを与える、
  宝石がディアデマの中で輝くように、
  菫と百合が野原を飾り、
  輝く星が天を照らすように。

第12章 敬虔な支配者にとって司祭たちの最も有益な勧告と戒めに従うことが光栄であることについて

 しかし、慎ましい支配者は、彼がその臣下のうちに評価する徳、すなわち謙遜と従順を自分自身のうちに認めることができるように、謙遜の重さと従順の徳を備えた者とならなければならない。311B/ それゆえに、もし彼が思慮ある人々によって非難されるということが起こるならば、自分は確かに非難すべき者であるということを痛く悔やみ、悔恨の救助手段へ急いで走らなければならない。また進んで罪を犯した者は自由にそして喜んで矯正の鞭を受けなければならない。そして創造主が打つために御手を伸ばされる前に、彼は犯した罪の矯正について大いに努力しなければならない。それは厳しい審判者がどれほど長くまた慈悲深く待っておられるかに比例して後になればそれだけより厳しく打たれることがないためである。王国の支配者は隠れてかあるいは公の場で罪を犯したならば告白において主の御顔の前へ急がなければならない。それは聖なる王にして預言者たるダビデに関して読まれているとおりである。ダビデはバト・シェバの暴行とヘト人ウリヤに行なった殺人の後で預言者ナタンによって非難されたとき、その非難者に対して怒らず、311C/ むしろ自分の罪を認めながら、直ちに自分自身に対して怒った。そして罪を犯した後で快活になった彼はいまや苦い痛悔によって彼自身を嘆き悲しんだ。このために主の前にそのように重い罪を犯した彼は涙の赦免を受けるに値する者となり、彼が他の箇所で言っているように、涙の泉から溢れる喜びへと到達した。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」(詩cxxv,5)。
 しかし名誉ある君主テオドシウスの素晴らしい謙遜と痛悔について語り伝えられていることを見過ごすべきだとは思われない。彼は数千の人々の不当な殺戮の後にミラノに到着し、聖なる神殿に入ろうと欲したとき、悲嘆に満ちたそのような災いについて聞いている聖アンブロシウスは311D/ 外の扉のところで彼と出会い、そして次のような言葉で、歩いて来る皇帝に聖なる敷居から入ることを禁じた。「皇帝よ、あなたが犯した殺戮がいかに大きな罪であるか知らないのですか。そしてあなたの精神はそのような狂乱の事件の後にあなたの傲慢のかたまりに気がつかないのですか。しかし恐らく皇帝の権威が罪の認知を禁じているのです。それであなたはどんな目で共同の主の神殿を見るのですか。どんな足でその聖なる床を踏もうとするのですか。血がいまも滴り落ちる不正な手をどのように伸ばすのですか。そのような手でどのように主の聖体を受けるのですか。あなたの言葉の狂気からそのように多くの血が不当に流された間に、あなたのどんな傲慢な口によって貴い血の杯を受けるのですか。だから退きなさい。引き下がりなさい。第二の罪によって第一の悪を増大させようとしてはならないないのです。312A/ すべてのものの主がたった今あなたを縛られた綱を受けなさい。なぜならそれは健康のための最大の薬だからです。」(注23)。
 これらの言葉に従いながら(なぜなら、彼は神の教育で育てられてきたし、そして司祭の特権が何であり、王のそれが何であるかを明瞭に認識したからである。)呻きながらそして嘆息しながら彼は宮殿へと戻った。そして、八か月の時が順に過ぎ去ったとき、我らの主の降誕の祝祭が近づいた。しかし皇帝は絶えざる悲しみのうちに宮殿にとどまりながら、とめどなくいつも涙を流していた。しかしそのとき、ただ一人君主の信頼を得ていた教師ルフィヌスが入って来て、悲しみに打ちひしがれた君主を見て、その涙の理由を尋ねるために近づいた。しかし彼は最もひどく溜息をつき、そしてより烈しく涙をこぼしながら、こう言った。「ルフィヌスよ、あなたはからかい、312B/ 私の悲しみを感じてくれない。しかし私は自分の不幸を嘆き悲しんでいる。というのは神の教会は奴隷や乞食に対しては開かれており、彼らは思う儘に自分の主に祈願する。それなのに私は主に近づくことさえできないのだ。上の天さえ私には閉ざされたのだ。」こう言いながら、彼はすすり泣きによって一つ一つの言葉を中断した。ルフィヌスが聖アンブロシウスに皇帝と和解するように説得したが、にもかかわらずそうできなかったとき、皇帝ははやこのことを通りの真ん中で知り、言った。「私は出かけ、正当な不面目を彼の前で引き受ける。」
 そして聖なる閾に到ったとき、テオドシウスは聖なるバシリカに敢えて入らず、司祭のところへ行き、彼が応接室にいるのを見て、自分の束縛を解除してくれるように懇願した。しかしアンブロシウスは、彼の暴君的な現状、312C/ テオドシウスが神に逆らって怒り狂っていること、神の律法を踏みにじっていることを述べた。しかし皇帝は言った。「私は教会の宣告に逆らって立たないし、不当に聖なる閾に入ろうとせず、私の束縛を解除してくれ、そして共通の主の憐れみを私のために懇願してくれるよう、我らの主が悔い改めるすべての人に開かれた扉を私に対して閉じないでくれるようにあなたに熱心に懇願する。」その時司祭は言った。「そのように大きな不正の後であなたはどんな悔恨を示したのですか。どんな薬であなたは癒しがたい傷と損害を癒したのですか。」しかし皇帝は言った。「救済策を教え、指導するのはあなたの仕事で、私の仕事は提示されたものに従うことです。」皇帝の謙遜を示し、そして彼自身が悔恨の苦痛を自発的に引き受けることを示した言葉を聞いて、312D/ 聖アンブロシウスは彼にそのような大きな傷を癒す薬を処方した。それを受けて皇帝は聖アンブロシウスに大いに感謝した。それゆえに、司教も皇帝もこのように大きな徳によって有名になったのである。彼らの行為は大いに称賛すべきものであった。前者の信頼と後者の従順、前者の熱心な熱情と後者の純粋な信仰がそうである。更に皇帝はコンスタンティノープル市に帰った後もあの偉大な司祭から受けた敬虔の規則を守った。なぜなら、彼はある祝日のときに教会へ進んで行ったとき、祭壇の上に供え物を捧げて、直ちに外へ出たからである。教会の司教ネクタレウスがなぜ教会の中にとどまることを望まなかったのかを尋ねたとき、君主はこう答えた。「やっとのことで私は皇帝と司祭との区別を学ぶことができた。やっとのことで私は真理の師を見出した。なぜなら私はアンブロシウスだけが正当に司教と呼ばれることを認識したからである。」313A/ それゆえに、徳に満ち溢れている人によって発せられた譴責は非常に有益なのである。
 それゆえに、善いそして敬虔な君主が霊的医師としての司祭の有益な訓戒に謙遜にそして喜んで傾聴することが相応しいということは明らかである。このことは次のように言うソロモンによって証言されている。「聞き分ける耳を与えられる賢い懲らしめは金の輪、純金の飾り。」(箴xxv,12)。実際、賢明な人によって訓戒される方が愚か者の諂いによって欺かれるよりもよい。実際、我々が身体の傷が医師たちによって癒されることを強く望み、彼らがいるところでその傷を見せることに赤面せず、治療の苦痛において治癒の希望によって慰められるとすれば、それ以上に我々の魂の傷と障害についてもっと十分な治療をしなければならないだろうか。霊的な313B/ 医師は、最も苛酷な治療手段をそれらの傷に適用するが、それによって我々の確実な治癒の希望が生まれるのである。実際、医師のメスが傷を切開し腐敗した肉を除去するという理由だけで悪いのではないのとまったく同じように、我々の救いに役立つ矯正もそうなのである。

  なんという喜びとなるか、
  真っ赤な空の夜明けの光は
  地上の住民にとって、

  夜の暗鬱な雲の後の
  フォイボスの輝く冠は。
  露は渇望している耕地にとって、
  焼けつく暑熱の後には。
  ボレアスの荒れ狂う寒さの後には
  花で一杯の晴朗な春は。
  そのように罪の予防によって
  それは魂の貴重な治療法となる。
313C/ 息切れしている病人を癒すのは

  滋養に富んだハーブによってである。
  肉体の苦痛はそれによって去るであろう。
  賢明な配慮によって目覚めていれば、
  かくも大いなる女奴隷は報いるのだ、
  虚弱な肉体の治療薬という。
  もっと強い薬が何故
  尊敬すべき女主人を癒さないのか。
  創造する力を模倣することによって
  神において喜ぶ精神を。

  熟練した医者以外には罪の
  痛みを誰が除去し得ようか。
  それゆえ支配者たちは用心せねばならぬ、
  心において悪徳に揺らぐならば。
  熟練した医者のところに行かねばならぬ、
313D/ 敬虔によってキリストに仕える者のところに。
  首を垂れることを学ぶ者は、
  病気を駆逐することができる、
  健康によい油と葡萄酒によって。

  天国の花によって作られた
  天上のハーブによっても
  彼らは恐るべき毒を消す。
  彼らは地下から霊を呼び戻す、
  強力な言葉と杖で、
  霊たちを天上の聖なる技術で
  生命の牧場へと連れ戻す。

314A/ 第13章 善き支配者の敬虔によって和らげられた理性的な熱情について

 人々にとって敵のすべての奸計を避けることは容易ではない。実際、ある人が強い情欲の情念を避けたとしても、彼は貪欲へと走り込む。貪欲を避けても妬みの陥穽が仕掛けられる。この陥穽を通り越したなら、怒りの悪徳に出会う。更に、敵は不注意な人々を捕縛することのできる他の多くの罠を仕掛ける。そして身体は確かに魂を滅ぼすことができる熟練した奴隷である情念を持っている。しかし、精神は神の助けによって目覚めていて敵の陰謀の論拠を拒否する。人間本性を分有している上述した皇帝テオドシウスはまた共通的な情念をも所有していた。彼は正当な怒りと法外な残酷さを混同して、不当な情念の奴隷となった。314B/ 読者の利益のためにそのことを語る必要がある。テッサロニカ市は大きくて人口も多かった。そこにおいて暴動が発生したときに、何人かの判事たちが石を投げられ、引きずられた。このために怒ったテオドシウスは怒りの弱さを抑制せず、すべての者の上に不当な剣を振るって、有罪の人と共に無実の者を同時に殺戮することを命じた。実際、七千人の人々が殺されたと報告されている。その前にはいかなる裁判も行われず、彼らはあたかも収穫においてのように一度に全部切り捨てられたのである。この理由で、上述したように、聖アンブロシウスは聖なる情熱に燃え立たせられて皇帝を激しく責め、彼の理性を逸した怒りと極悪な罪を苛酷な非難で呪ったのである。
 それゆえに、国家の善いそして思慮に富んだ支配者は、314C/ 彼自身あるいは彼の臣下に対する不正に過度に報復しようと構えて、理性を逸した怒りの罪を犯すことがないように用心することが適切である。彼は自分の怒りを抑えることをゆるがせにせず、正しい怒りの刺激を敬虔の愛によって遠ざけなければならない。それは恐らく彼が正しくあることを超過して臣下に対して怒り狂うならば、ライオンのような狂暴の怒りに陥る、そういうことがないためである。それゆえにこう書かれている。「家の中でライオンのようにふるまうな。自分の家の召し使いたちを気まぐれに扱うな。」(シラiv, 30)。実際、正しいそして慈悲深い支配者は傲慢な人々を打ち負かさなければならないように、また臣下を大切にしなければならない。それゆえに、皇帝アントニヌスも自分は千人の敵を殺すことよりも一人の市民を守ることの方を好むと言ったのである。それゆえに、罪人たちをを矯正する際には寛大さを厳格さと混ぜ合わせるべきであり、そして両者から、臣下が過度の厳しさによって憤激させられることも、またあまりの寛大さによって放縦にされることもないように、適度の混合がなされるべきである。314D/ もし裁判が正しく先行していないならば、彼は矯正あるいは罰の規準を持ってはならない。また静かな支配者は、正しい判決を下すことを望むならば、言わば苦味のある胆汁のような短気の怒りによって狂暴になることは相応しいことではない。というのは、過度に怒りに満ちた判決は盲目だからである。実際、怒りの暗闇によって覆われる人は正義と真理の明瞭な光を識別することはできない。それゆえ忍耐の力強い盾が理性を逸した怒りの衝動に対して対抗させられなければならない。実際、書かれているように、「忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる」(箴xvi,32)のである。315A/ 実際、自分自身の内に閉じ込められた暴力と怒りを支配する者はライオンを殺す者よりも強いのである。
 しかし、突然の怒りと不寛容の悪徳によっていかに多くの悪が生じるか、誰が説明することができるだろうか。サウル王は怒りの衝動を抑制せずに戦慄すべき残酷さで主の祭司たちを殺害した。ソロモンもまた知恵の輝きで照明されてきたにもかかわらず、敬虔よりも暴君の支配を優先させて、怒りの激情で満たされ、彼自身の兄弟を殺すように命じた。邪悪なユダヤ人については私は何を言おうか。彼らは熱心ではあったが、その熱心さを知恵に従って持っていたのではなかった。そして彼らは神の子と彼の聖なる弟子たちに対する殺人者として振る舞った。しかし聖なるダビデは忍耐強さの徳を与えられてしばしばその敵をも寛大さの愛で許したが、しかし時には神の熱情によって刺激されて315B/ 主の敵を死の壊滅に至るまで踏みにじった。実際、神に愛された君主がしばしば敵とキリストの名の冒涜者に対して電光のような熱情を持つことは適切なことである。実際、もし外国人であるネブカドネツァル王が、イスラエルの神が口汚なく罵られることがないようにと大いに怒り、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される」(ダニiii,29)という布告を宣言するとすれば、正統的な君主はキリスト教の信仰、教義そして宗教の敵に対してどれほどもっと熱心に抵抗しなければならないことであろうか。彼らが称賛すべき熱情でキリストの事柄をもっと熱心に配慮するように努力すればする程、それだけその方の恩寵によって奉仕者に任命されたその全能の神に気に入られるのである。

  周知の労働と
315C/ 月桂樹のトロフィーの後に
  平和のトーガが輝き、
  そして王の冠は

  精選された宝石によって閃き
  黄色の黄金で綺麗な
  緋衣と共にきらめき、
  宮殿の上品な列柱が
  幸福に支配する者を
  祝福された運命が飾る時、
  いかにしばしば精神の宮殿を
  軽率な怒りが混乱させることか。
  そして内部で熱情が燃え

  盲目の怒りから生まれる。
  アエネアの壺は煮え立ち、
  天上では怒りながらそうではない。
315D/ あたかも君主の苛酷な
  雌獅子のように心は荒れ狂う。
  中庸を守ることを望まないで
316A/ 精神は染料で染められる。
  それゆえ精神に混ぜねばならぬ、
  平和のかぐわしい香りを。

  君主は静朗であれ、
  喜ばしい顔で輝いて。
  真理が知られる以前に
  いかなる判決も為されてはならない。
  実際知識によって夜でも、
  心はランプのようにあかあかと輝く。

第14章 キリスト教の指導者が自分自身の力にも臣下の力にも信頼すべきではなくて、主に信頼を置くべきであることについて

 しかし善い支配者は敵における横柄な暴君の傲慢を打ち負かそうと努力するとき、自分たち自身にも、また彼らの臣下の力にも頼るべきではなくて、徳と恩寵によっていと高き者に完全な信頼を置かなければならない。というのは、316B/ 神は信頼して神に希望を置くすべての者の唯一の力強い保護者だからである。それゆえに、預言者を通してこう言われている。「君候に頼らず、主を避けどころとしよう。」(詩cxviii,9)「人間に頼らず、主を避けどころとしよう。」(Ibid.8)。他の箇所ではこう言われている。「君候に依り頼んではならない。人間には救う力はない。霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる。」(詩cxLvi, 3-4)。エレミヤもまた、次のように言って詩編作者に共鳴している。「主よ、あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は、地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。」(エレxvii, 13)。また、「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。」(エレxvii,5)。それゆえに、誰も人間を信頼してははならない。あるいは誰も彼に抵抗することはできないと考えてはならない。316C/ 鯰という魚は誰も自分に対して鉤を投げたり、網を打ったりしないし、仮にそういう事が起こっても自分はすべての事を突破できると考えていた。にもかかわらず、鯰はやすを逃れることはできなかった。たとえ並外れた力で優れた誰かがこのために一人一人の人間を恐れないとしても、彼は多くの人々を警戒する必要がある。なぜなら、一人の人間によって打ち負かされ得ない人も間もなく多くの人々によって打ち負かされるからである。象は巨大であるが、殺される。ライオンは強く、虎は強いが、殺される。しかし自分より劣った者たちを恐れ、警戒することは思慮ある支配者の役割である。というのは、より優れた人々はしばしばより劣った人々から征服されるからである。鰐はいかに恐るべきものであり、その歯とその爪によって堪え難いものであることか。しかし鰐はその腹の中の小動物の水蛇から殺される。一角獣はその角で象を突き通す。恐るべき象は鼠を恐れる。野獣の王であるライオンは蠍の小さな316D/ 針によって苦しめられる。それゆえに、誰もよく考えないで自分自身の力に慢心してはならないのである。
 しかし誰も臣下の強さや317A/ 数に信頼を置くことがないようにとペルシャ人たちの王であるクセルクセスは、もともと彼の父によって始められたギリシャ人に対する戦争を5年の歳月をかけて準備した。すなわち、クセルクセスは70万の軍隊を彼の王国から、そして30万人を彼の援軍から、そして1200隻の衝角を持った艦船、3000を数える輸送船を持っていたといわれる。正しくは予想もつかない陸軍部隊や無数の海軍部隊のために、飲み水のための小川、歩行のための土地、そして航行のための海が辛うじて十分であると考えられたほどであった。しかし、スパルタの王レオニダスはクセルクセスの無数の軍隊に対して4000人でもって戦争に突入し、そしてペルシア軍を壊滅させて、祖国解放の愛のために戦争における最も輝かしい勝利者として彼の僅かの部下と共に死んだ。しかしクセルクセスはギリシャでの戦争に不幸にも敗れ、部下から軽蔑されるべき者となってその王城において包囲されて殺された。317B/ 実際、不名誉はこの世の栄光と曲がった傲慢の従者である。このためにソロモンによってこう言われている。「万軍の主は傲慢な者からすべての栄光を奪い、地上の有名な者を不名誉な者へと引き下げることを考えられた。」(イザxxiii, 9)。
 それゆえに、強い人間はその強さにおいて、また富める者はその富において誇ってはならない。実際、もしカキネガラシや小さな紫螺が人間よりも強いならば、なぜ土や灰が自慢するのか、そしてなぜ、大地から出たのに、傲慢によって誇って、人間的なものを軽蔑するのか。それゆえに、「誇る者は主において誇れ。」(1コリ1,31)。主は力強い者の弓を弱め、弱い者を力で装備される。主の御計画は誇り高い者が倒れ、謙遜な者が高められるということである。その方に父が天と地における完全な権威を与えられ、またすべての服従するものがその方の足元に置かれる。317C/ もし誰かが希望の錨を主のうちに信頼に満ちて固定するならば、彼は次のように書かれているように、慈悲で取り囲まれるであろう。「主を信頼する者は高い所に置かれる。」(箴xxix,25)。正しい人々の希望は次のように言う詩篇作者によって証言されているように、彼らに喜びをもたす。「主に信頼する者は慈しみに囲まれる。」(詩XXXII,10)。そして更に「いかに幸いなことか、主に信頼をおく人。」(詩XL,5)。実際、主に信頼して迷った人が誰かいるだろうか。主の命令に従って見捨てられた人が誰かいるであろうか。主に依り頼んで恥を受けた人が誰かいるだろうか。主は「同情に満ち、慈悲深い。」(コヘii,13)。

  獰猛な武器に頼っている力強い戦士は、
    彼自身と彼の臣下に間違って希望と信頼を置いているが、
  その人は震える葉のように動揺するだろう
    その葉を雹が振り落とし、そして南風が吹き払ってしまう。
317D/ 堅い金属の彼の鎧の胸当ての網の目は、

    蜘蛛の壊れやすい巣のように千切れる。
  鋭い剣は鉛の短剣のようになまくらで、
    信頼している盾はその主人を守らない。
  兜の保護は羊毛の帽子のようにしか彼を覆わず、
    裂傷を負わせるはずの槍も葦のような力しか持たない。
  恐るべきゴリアトはしばしばそのような事物を自慢したが、
    派遣された敵から投げられた石が彼を打ち倒した。
  盾も怯えさせる武器も彼に勝利をもたらさなかった。
    脅かす言葉もアッロフィロの役に立たなかった。

  もしライオン、虎そして鰐が殺され、そしてもし
    巨大で恐ろしい象が鼠を恐れるならば、このように
  いかなる戦士にとっても彼自身の力に頼ることは無益である、
    彼が青銅の手足を持っているとしても。
318A/ むしろすべての希望を生命の主に置かなければならない。
    その意志によってすべての王国を支配されるいと高き玉座の神、
  支配者たちに天上への希望を与えられる全能の神、
    その御手によって堅固な力を打ち倒される神に。

第15章 神の助けが敵対的な戦争の脅威を与えるどよめきに対して嘆願されるべきことについて

 それゆえに、もし戦争の噂が拡がるならば、物理的な武器や強さを頼りにするよりもむしろ主に対する絶え間ない祈りによって歩み行かなければならない。そして神の助けを求めなければならない。その御手のうちには救い、平和そして勝利がある。神はもし敬虔な信仰で呼び求められるならば、呼び求める者を決して見捨てられず、厄介な状況において彼らを援助者として慈悲深く援助される。実際、その選ばれた民の手と声が慈しみの父の方へと上げられる時、318B/ 敵の残忍な行ないは一掃される。そして時には突然の恥辱と死の罠が敵に仕掛けられ、一方で敬虔な者には予期せぬ勝利がもたらされる。そして敬虔な人々が彼らがそれについて望みを失った安全への道へと入るのに対して、他方において不敬虔な人々は予見できなかった死の罠に陥る。しかし、われわれが言っていることを明白な実例で証明してみよう。
 立法者モーセが主への祈りにおいて彼の手を上げていたとき、イスラエルは勝利していたが、しかし彼が少しその手を下げるとアマレクが勝利した(注28)。そのようにまたヒゼキヤ王(注29)が物理的な武器で戦わず涙と共に懇願したので、主の天使はある夜18万5000人のアッシリア人たちを滅ぼした。ヨシャファト王(注30)は主に賛美の声を上げた。そしてその賛美の代わりに主はヨシャファトの敵どもを、主が敵の奸計を彼ら自身へと向け変え、彼らがお互いに負わせた傷で倒れるという仕方で、倒された。318C/ しかし、イスラエル人たちは殺された者の武器から多くの戦利品を取って、それはすべてのものを持ち運ぶことができないほど一杯であった。また戦利品が多くて彼らはそのすべてを三日間では運び去ることはできなかった。神の助けに信頼してしばしば勝利したマカバイに関しては私は何を言おうか。それゆえに、恐れを抱いて次のように尋ねた彼の民に対して主の戦争において最も有名で不敗であったユダ自身は以下のように答えた。「この人数で、どうしてこれほど強力な大軍を相手に戦えましょうか。それにわたしどもは今日は何も食べていないので、力もなくなっています」。「少人数の手で多勢を打ちのめすこともありうるのだ。天が救おうとされるときには、兵力の多少に何の違いのあるものか。戦いの勝利は兵士の数の多さによるのではなく、ただ天の力によるのみだ。敵はおごり高ぶり、不法の限りを尽くして318D/ 我々を妻子ともども討ち滅ぼし、我々から略奪しようとやって来ている。しかし、我々は命と律法を守るために戦うのだ。天が我々の目の前で敵を粉砕してくださる。彼らごときにひるむことはない。」(1マカiii, 17-22)。そのようにして、敵へと殺到し、彼は彼らを滅ぼし、彼の敵どもから勝利を得たのである。
 これらの事柄が旧約聖書において起こっただけではなくて、更に似たようなことが新約聖書においても起こった。それゆえに歴史はコンスタンティヌス皇帝がキリストの十字架を旗として用いて彼のすべての敵を打ち破ったと語り伝えている。同じようにテオドシウス皇帝は戦うことによってよりもむしろ祈ることによって若干の暴君どもと彼らの軍隊を打ち倒した。主は彼に助けとして雷鳴を伴った嵐を彼の敵どもに対して319A/ 送られた。そして主は天の復讐でもって彼らを圧倒された。そのことに関してある詩人が優雅にこう言った。「おお、汝、神によって多く愛された者よ、お前のために空は戦場に参加し そして盟約した風が勝利のラッパへ向かって吹いて来る。」(注31)。
 しかし、もし強力な四大を通じて強大な主が偉大な業を達成されるならば、何たる驚異であろうか、というのは主は飛んでいる小さな被造物の場合にさえ驚くべき奇跡を行われることが知られているからである。実際、教会史は我々にコンスタンティヌス皇帝の時代に、サポレス(注32)という名前のペルシャ人たちの王が何万という軍勢でニシビン(ある人々はミグドニアのアンティオキアと言っている)の町を包囲したと語っている。そこの支配者でありまた指導者であったニシビンの司教は使徒的恩寵の光で照らされた人物、聖ヤコブス(注33)であった。更に、包囲の間に、シュロスで称賛すべき人物そして優れた作家であったエフライム(注34)が聖ヤコブスに、319B/ 城壁のところまで来てくれるように、外国人たちを見て彼らに対して呪いの槍を投げてくれるように懇願した。それゆえこの尊敬すべき人は説得されて城壁に登った。そして無数の大軍を見たとき、小さな被造物を通じて軍隊が天の力を認識することができるように、彼らの上に人を刺す蠅やブト以外のいかなる呪いも向けなかった。間もなく雲のような蠅やブトが彼の祈りに従った。そしてそれらは中空の象の鼻、そして馬や他の荷を背負う動物たちの耳と鼻の両方に満ちた。それらの動物たちは小さな被造物の力に耐えることができずに、その騎手や主人を振り払ってその背から投げ出し、戦士たちのばらばらになった隊列を混乱させ、そして軍隊を残したまま大急ぎで逃げてしまった。このような方法に恐れた皇帝は319C/ 御自分を敬虔に礼拝する人々の生命を予め配慮される神によって彼のうちに為された小さなそして優しい襲撃を認め、包囲のうちに勝利ではなく混乱を見て彼の軍隊を町から撤退させた。
 我々はまた、ある時軍隊の遠征においてキリスト教徒と共にいて、敵に対してこの世の武器によってよりもむしろ祈りによって戦わなければならないということが起こった他の聖なる人々のことをも読んでいる。アンティシオドルスの司教聖ゲルマヌス(注35)のような人がそうしたと読まれる。彼はトゥリカッシナの町の司教聖ルプスと共にピクト人とサクソン人に対するブリトン人による戦いの必要性が差し迫っていた時に、ペラギウス派の異端を撲滅するためにブリタニアに送られた。というのはピクト人とサクソン人が彼らの軍隊の大きさに信頼してブリトン人たちを屈服させようと計画していたからである。一方必要性が319D/ ブリトン人たちを野営地へ終結させた。不安になったブリトン人たちは彼らの側の方が劣っていると判断したので聖なる司教の助けを求めた。それゆえに、これらの使徒的な指導者たちを通してキリスト御自身が野営地において戦われた。尊ぶべき四旬節の日々も近づいていた。司教たちがいたことがその日々をより宗教的なものにした。それで民衆は毎日の説教によって教えを受け、洗礼の恵みへ競って集まった。実際、軍隊の大部分が救いの泉の水を求めた。主の復活の祭日のために教会が枝を組み合わせて作られ、遠征の広場には都市の外観が整えられた。洗礼を授けられて、軍隊は前進し、320A/ 民衆のうちには信仰が燃え立ち、そして武器の防禦が軽く見られて、神の助けに希望が置かれた。それからゲルマヌスが戦闘の指揮官として名乗り出、行軍の兵士たちを選び出した。そして彼は敵の接近が予想されている方向に両側の高い山に挟まれた谷を見て、ここに彼は部隊の指揮官として新しい部隊を配置した。ほどなく敵の恐ろしい軍勢が接近した。伏兵として配置された者たちが敵が近づいて来るのを観察した。その時直ちに軍旗手ゲルマヌスは彼ら全部を促して、彼の声に一つの喚声によって答えるように指令した。自分たちが不意に出現することを確信していた不注意な敵に向かって二人の司教は三度「アレルヤ」を叫んだ。全軍の一つの叫びがそれに続き、狭い所に押し込められた山々の空気に反響してその高い叫びを増幅した。敵の軍勢は恐怖で打ち倒された。320B/そして彼らは単に彼らの上にそびえる周りの岩ばかりでなく空の枠にさえ震え、彼らの足の速さが投じられた不安においては殆ど十分でないと信じた。彼らはあらゆる方向へ逃げ、無装備の身体だと識別されて救助されることを喜んで武器を投げ捨てた。彼らが渡った川は恐怖によって動転した多くの者を呑み込んだ。無垢のブリタニアの軍隊はその復讐を観察し、彼らに与えられた勝利の静かな観客となった。投げ捨てられた戦利品が集められ、そして敬虔な兵士たちは天上の勝利の喜びを抱擁した。司教たちは流血なしに強い敵に対して勝利を収めた。彼らは力によってではなく信仰によって獲得された勝利の凱歌を奏したのである。
それゆえに、これらのそしてまた他のそのような例によって、人間が世俗の武器によってよりはむしろ聖なる祈りと神の助けによって死の危険から守られるということが明らかに示されている。320C/ それゆえに、この現在の生の慰め、全ての危険に対する防御、そして敵に対する勝利がとりわけ求められなければならないということを主御自身が旧約聖書の中で我々に語っておられる。ヘブライの民に教えながら主はこう言われる。「あなたたちがわたしの掟に従って歩み、わたしの戒めを忠実に守るならば、わたしは時季に応じて雨を与える。それによって大地は作物をみのらせ、野の木は実をみのらせる。穀物の収穫にはぶどうの収穫が続き、ぶどうの収穫には種蒔きが続いて、あなたたちは食物に飽き足り、国のうちで平穏に暮らすことができる。わたしは国に平安を与え、あなたたちは脅かされることなく安眠することができる。わたしはまた、猛獣を国から一掃し、剣が国を荒廃させることはない。あなたたちは敵を追撃し、剣にかけて滅ぼす。320D/ あなたたちは五人で百人の敵を、百人で一万の敵を追撃し、剣にかけて滅ぼす。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちに子を生ませ、その数を増し、あなたたちとわたしの契約を立てる。・・・わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはない。わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしはあなたたちが奴隷にされていたエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。・・・しかし、わたしの言葉を聞かず、これらすべての戒めを守らず、わたしの掟を捨て、わたしの法を捨て、何一つわたしの戒めに従わず、わたしの契約を破るならば、わたしは必ずあなたたちにこうする。すなわち、あなたたちの上に恐怖を臨ませ、肺病、失明や321A/ 衰弱をもたらす熱病にかからせる。あなたたちは種を蒔いてもむなしい。敵がそれを食べ尽くす。わたしは顔をあなたたちに向けて攻める。それゆえ、あなたたちは敵に打ち破られ、あなたたちを憎む者に踏みにじられ、追う者もないのに逃げ去らねばならない。・・・それでも、まだわたしの懲らしめが分からず、反抗するならば、わたしもまた、あなたたちに立ち向かい、あなたたちの罪に七倍の災いをくだす。わたしは契約違反の罰として戦争を引き起こし、あなたたちが町に引き揚げるなら、あなたたちの間に疫病をはやらせ、あなたたちはついに敵の手に渡される。」(レビXXVI,3−17,23-25)。

 確かにこれらの事柄は立法者によって約束された地上の善を得ようと努力した最初の民に適用が許されるけれども、それにもかかわらず、それらは今や正当にキリスト教の民に適用され得る。主は現在の苦難において彼らを助け、天上において未来の善を約束される。それゆえに彼らにとって321B/ 主の命令を守り、主にすべての希望を置くことは最も適切なことである。主は御自分に信頼を置く人々をすべての敵から解放し、選ばれた民をここと来るべき生の両方において繁栄の結末へと移す力を持っておられるからである。

   風が荒れ狂うとき、
南東風の嵐が大きな音を立てて、
山々から轟き、
雲のような雹と共に、
樹木が前へ倒壊し、

海の動きが不穏なものとなり、
   悔恨と栄光を差し出す
風が雷によって響きわたり、
死すべき者の恐怖が拡がる。
321C/  そのとき戦慄する者の心は
天の怒りが投げ下ろされないように、
地上の人間どもの種族に。

誰であれ十分に賢明な者は、
思慮ある心でそのような危険を避ける、
そのような事柄に対する恐れから逃れ、
安全な場所に到達するために。
そのように強力な、
敵の旋風が襲うとき、

すべての人によって熱望さるべきだ、
天上で雷鳴を轟かす者の右の手が。
かの祝福された者は抜きんでている、
   彼は飛ぶ鳥の
   祈りによって
   困難な機械を
即刻貫き通す、

321D/ 金色の翼を持つこの
   鳥は嘴で。
断食が左の翼を支配し、
寛大さが右の翼を持つ。
天上の階級はそれらを認識し、
   喜んで新来者に挨拶する。
   そして彼に栄光の座を与える。

君主の前に。
神に捧げられた精神の贈物を、
その時彼は取る、乳白色の鳥は
天の気候を調べる、
   恩寵の賜物によってすべてを。

第16章 不幸がかくも強烈に起こるであろうことについて

 しかし、たとえこの世におけるなんらかの災難がもし正しく統治し、神の掟を守っている支配者を襲うとしても、322A/ 悲しんですぐに神から遠ざかったり、あるいは神の助けについて絶望したりしないで、信頼をもって行動し、そして神の善に完全に信頼しなければならない。まことに、この過ぎ行く生は正しい者にとって完全な試練であり、そこにおいては時に繁栄は災難よりも多くの害を為すからである。というのは繁栄は神の選民を投げ倒すが、災難は彼らを教えるからである。実際、知者たちがのべているように、地上の王国はさまざまの五つの時期から成り立っている。第一は辛苦の時期であり、王国が敵のどよめきと戦争によって緊張させられる時である。第二の時期は王国それ自身がその成長によって月のように完全さへ至るまで満ちていく時である。第三はその完全さにおいて、あらゆる側面において敵の攻撃から自由であって、言わば満月の輝きのようにその栄光の完全さにおいて有名となる時である。322B/ 第四はその王国の気高さが月のように欠け始める時期である。そして第五は、これは終末であるが、闘争と矛盾の時期であって、国家の頂点がシロアムの塔のように倒れ、そして国家そのものを強固なものにするために何か有益なことを為す者が誰もいない時期である。(注36)。それゆえに、地上の王国の栄光がいかに不安定で変わり易いものか、それが決して同じ状態にとどまりことがなく、月のように瞬間的に繁栄のうちに増大し、そのようにまた災難において減少するということをよく考えなければならない。更に、不変の栄光は地上の王国においては決して見出されず、天の王国において見出される。実際、この世の一時的な支配とはかない出来事の混乱した不安定においては 322C/、晴朗がしばしば災難の嵐の後に回復されるように、また晴れた空も再び嵐へと変えられるのである。
 それゆえに、もし何らかの災難が起こるならば、国家の思慮ある支配者はそのような荒れ狂う旋風によって絶えず動かされてはならず、精神の強力な堅固さで主において強められなければならない。そして繁栄の成功において主の慈しみについて感謝を捧げたのと同じように、災難の最中にあっても全能の神に感謝を捧げなければならない。実際、我々に起こる神の寵愛のうちにある時に神に感謝を捧げるだけでは不十分である。なぜなら、異邦人、ユダヤ人、取税人、そして異教徒でさえそうするからである。むしろ、災難と考えられることにおいても創造主に感謝を捧げることはキリスト教徒の固有の徳である。そのようにして喜ばしい心は神の賛美に沸き上がり、我々はこう叫ぶだろう。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名は322D/ ほめたたえられよ。」(ヨブi,21)。この世でどれほどしばしば災難に出会おうとも、いわば聖なる器である善き人々は彼らを懲らしめてくださる神に感謝を捧げる。しかし高慢で贅沢な、あるいは貪欲な人々は神に対して冒涜の言葉を吐き、そしてこう叫ぶ。「おお、神よ、そのような事柄を堪え忍ばなければならないほどのどんな大きな悪を我々は犯したのですか。」しかし、苦しみを被る正しい人々に関して我々はヨブのうちに次のように読む。「幸いなのは神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。彼は傷つけても、包み、打っても、その御手で癒してくださる。」(ヨブv, 17-18)。実際、神がしばしば我々を強められる穏やかな湿布に、神はしばしば苦難という最も苦い薬を加えられる。そして、悪臭を発する肉を取り除くことを求め、323A/ 腐った傷を焼鏝で焼くことを惜しまない慈悲深い医者のように、神は後に大きな同情を示さんがために今は同情を示されない。
 実際、時には戦争や他の災難が平和や静けさよりも我々にとってもっと有益であることがある。というのは、平和は人々を柔弱で怠惰そして臆病にするが、戦争は精神を鋭くし、また現在の事柄を過ぎ行くものとして軽蔑するように説得するからである。そして戦争は神の恩寵のよってしばしばより大きな平和と一致という最も甘美な結果を生む。それゆえに、コンスタンティヌス皇帝はこう結論する。「敵対の状態の後に一致へと回復された友情はより甘美である。」(注37)。しかし、善いそして正しい支配者は霊的な敵と肉的な敵、または何であれ敵対的なものから逃げるか、あるいは勝利のうちに征服するよう望まなければならないし、霊的武器で装備され、秩序づけられた者とならなければならない。彼は使徒に従って323B/ 正義の甲胄で武装され、希望の兜と信仰の盾で守られ、神の言葉の剣で輝く者として傑出しなければならない。実際、地上の聖なるそして最も秀でた王たちがそのような輝かしい武器によって守られたということ、彼らがその敵を征服し、そして敵から沢山の戦利品を持ち帰ったということ、また彼らが長くそして繁栄のうちに名声ある王国を支配したということを我々は非常にしばしば聖書の多くの節のうちに読むのである。長くならないために他の人々を省くが、聖なるダビデは、その全霊で真の神を畏れ愛したがゆえに、どのように霊的武器を賦与されて多くの危険を避け、しばしば相応しい復讐によって主の敵を打ち倒したことであろうか。

  月球が今や光によって成長し、
  輝く球体へと光線によって形成した、
  そして今度は動きによって変化しながら欠ける、
    角をもつ円盤。
323C/ 地上の王国もその様に二つに裂けた過程によって、

  今は繁栄によって栄光が増大するが
  しかし反対の端緒によって減じていく、
    王権は。
  人間的な出来事のはかない本性をなぜ嘆くのか、
  煙や潮のように迅速だと。
  このように世界の回帰を交替させるのではないか、
    これらの四大は。
  明るい昼の後に暗闇が続き、
  晴れた穏やかな日光の後に、

  直ちに雲におおわれて立ち登る、
    激しい嵐が。
  かくして喜ばしい平和に続く、
  争いの渦と思いがけない滅亡が、
  それによって人間たちの子孫は衰える、
323D/   野の花のように。
  しかし敬虔な君主は力ある主に、
  悔恨の心と喜ばしい顔つきで
  例のない窮乏を感じた後に感謝を、

    このように捧げる。
  天なる父の祝福された子孫、
  全宇宙を造りそして新たにされたあなた、
  我々は今あなたに感謝を捧げる、
    あなたの救いの薬のゆえに。
  あなたは癒す鞭で懲らしめられるのか。
  我々が子羊のように健康で美しくあることを願って、
  あなたの群れの聖なる囲いの中で、
    最良の羊飼いよ。

  それゆえ液状の没薬の盃を、
324A/ あなたの右の手は優しく我々に与えられる、
  我々が健康であるように、我々は喜んで飲む、
    救いの贈物を。
  また正義の甲胄によって熱心に、
  希望の安全な兜によって激烈に、
  神の言葉の剣と信仰の盾によって
    我々は武装されることを願う。
  そして十字の印しの輝く兜によって、

  懇願する民の祈りを立証してください、
  すべての敵の傲慢を征服するために、
    あなたの支配によって。

第17章 平和が敵によってもまた申し入れられ、あるいは敵が圧倒された後には傲慢であってはならないということ

 善い君主は多くの優れた徳によって、特に慈しみ、柔和そして魂の平和の静けさによって飾られる。不和を決して受け入れず、単に彼の友人に対してだけでなく、また敵に対してもできる限り平和の一致を抱擁しながら。敬虔で心の広い支配者は忍耐と慈しみの実例によって敵を凌駕しなければならない。詩編作者はそのことを証言して次のように言っている。「平和を憎む者と共に、私は平和を愛する者であった。」(詩cxx, 7)。それゆえに、思慮ある支配者は常に平和の合併によって彼の帝国を拡大し、支配し、統治するように努力しなければならない。平和はすべての事物の秩序の静けさであり、また王の権力の統一と増大だからである。実際、最も大きな事物が不和によって失敗するように、最も小さな出来事も平和的な一致によって繁栄する。それゆえに、プブリウス・スキピオ(注38)がヌマンティアの国家がなぜ以前は征服されずにいたのに、後になって破壊されたのかと尋ねたとき、一人のヌマンティア人、ティルセウスはこう答えたのである。「ヌマンティアは調和によって不屈であったが、324C/ 不和によって壊滅した。」(注39)。ヌマンティアの町はそれ自身のたった4000人の兵士で14年間にわたって4万のローマ人を寄せつけなかったばかりかまた勝利を得てさえいた。調和は紛争を抑制し、荒々しい事柄を温和さに、逆境を繁栄に、そして敵対を友情の静けさに回復する。それは友人たちの間で愛すべきものであり、敵によって征服され得ないもの、敵からでさえ望ましいものである。そのような調和は国内にあっては平穏であり、戦争においては勝利者である。調和は絶対に必要なものそして最も正しい理由が要求するとき以外は戦争に巻き込まれることを許したり望んだりしない。
 しかし、地上の幸福の成功と膨れ上がった自惚れによって傲慢になって、彼らの敵によって彼らに提案された平和を拒否し、不正な戦争を企てることを恐れないような者がいる。もっと悪いことには、もし彼らが二つの戦争に巻き込まれるようになるならば、いわばスパルタ人の激怒のように彼らは第三の戦争をも辞さないのである。324D/ しかしそのような人々はしばしば神の復讐の鞭によって正当にも破滅させられる。というのは、彼らは平和の賜物を彼らに提示されたものとして受け取ることを望まないからである。我々はそのことがユダの王アマツヤ(注40)にどのように起こったかを読む。彼はイスラエルの王、イエフの孫でヨアハズの子であるヨアシュ(注41)にこう言って、使者を送った。「来るがよい、戦いを交えよう。」(王下xiv, 8)。そこで、イスラエルの王ヨアシュはこう言ってユダの王アマツヤに答えた。「レバノンのあざみがレバノンの杉に、『あなたの娘をわたしの息子の嫁にくれ』と申し込んだが、レバノンの野の獣が通りかかって、あざみを踏み倒してしまった。あなたはエドムを打ち破って思い上がっている。その栄誉に満足して家にとどまっているがよい。なぜ挑発して災いを招き、あなただけでなく、ユダも一緒に倒れるようなことをするのか。アマツヤは、それにもかかわらず、満足しなかった。325A/ そしてイスラエルの王、ヨアシュは立ち上がった。彼とユダの王アマツヤの両者はユダの町ベト・シェメシュで遭遇し、そしてユダはイスラエルの前に打ち倒された。」(王下xiv,9-12)。
 ここで、我々は教会史において君主ユリアヌスに関して言われていることを想起してもよいだろう。多くの町や砦を占領したユリアヌスは次にペルシャ人たちの諸都市をも攻略した。クテシフォンの町に到着したとき、ユリアヌスはそこの王を非常に激しく包囲したので、王はユリアヌスに、もし彼が戦場から自由に退却することができるならば、彼の国の一部を与えることを提案しながら、ユリアヌスにたびたび使節を送ろうと試みた。ユリアヌスはこのことを欲しなかった。彼はその嘆願に同情しなかったし、また彼の精神のうちで、確かに征服することは良いことであるが、過度に征服することは厭わしいことであるということを認識しなかった。魔術的な技術を信じ、誤った勝利の希望によって慢心する場合は殊にそうである。ユリアヌスが確実な勝利を望みながら馬上にあって彼の軍隊を強めていたとき、325B/ 彼に対して投槍が不意に投げられ、腕を貫いて彼の脇腹へ突き刺さった。この傷がもとで彼は生命を終えた。しかしあの最も正しい[と慢心していた]者を負傷させた者が誰であるかはこれまで知られていない。ある人は眼につかないある者が傷を負わせたと言い、またある人はイシュマイル人の羊飼いの一人だと言い、他の人は飢えと行進で疲れた兵士だと言う。しかし、人間あるいは天使のいずれにせよ、彼が神の命令によってそうしたことは明白である。ユリアヌスは傷を受けたとき、すぐに手を彼の血で一杯にし、そして次のように叫びながらそれを空中へ投げた。「ガリレア人よ、お前が勝った。」彼は冒涜の言葉で主の勝利を告白したのである。

 それゆえに、誰も無分別な傲慢によって平和の恩寵を斥けてはならない。あるいは敵が打ち倒された後に、アマツヤやユリアヌスがしたように、傲慢な心で彼らに対して威張ってはならない。それゆえにこう書かれている。「恐らくあなたにも同じようなことが325C/ 起こらないように、あなたの敵の死について喜ぶな。」(シラvii,8?)。そして更に、「敵が倒れても喜んではならない。彼がつまづいても心を踊らせるな。主がそういうあなたを見て不快とされるなら、彼への怒りを翻されるであろう。」(箴xxiv,17-18)。実際、他人の不幸を喜ぶ者は神の御心に適わない。それゆえに、祝福されたダビデは彼の敵の破滅を喜ばなかったばかりでなく、ペリシテ人によって滅ぼされたイスラエルの勇敢な人々を愛の感情で悼みながら、次のように言って激しく悲しんだ。「イスラエルよ、『麗しき者』は、お前の高い丘の上で刺し殺された。ああ、勇士らは倒れた。ガトに告げるな、アシュケロンの街々にこれを知らせるな。ペリシテの娘らが喜び祝い、割礼なき者の娘らが喜び勇むことのないように。」(サム下i, 19-20)。聖なるダビデがいかに大きな325D/ 寛大の感情を彼の敵に対して持っていたかはそのような事柄によって明瞭に示されている。

  おお、全能の神がいかに平和を愛する人々を愛されることか。
  神は彼らに永遠のエルサレムの王国を約束された、
  彼らを恩寵によって天使の姿で
  飾りながら、心と顔つきにおいて輝かせられる。
  彼らの心に生来の単純さは
  胆汁を持たない鳥の性格のようである。
  天の王座の御父はこの子孫を喜ばれ、

  神は彼らをその相続人として選ばれる。
  平和を求める者は光輝ある者として現れ、
  そして言葉においてアッティカの蜂蜜のような香がする。
  平和を拒否する者は闇のうちにとどまり、
  そして目が見えない者として歩いて陥穽に落ちる。
  実際、精神の不和の混乱した動きは
326A/ 分別を欠いて災厄を生み出し、
  不注意な支配者たちにしばしば危険をもたらし、
  その直ぐ後に死の暴力が続く。

  平和は癒しながら不和な人々を結びつけ、
  平和は諍いを抑えながら喜びを蒔き、
  平和は永続する盟約によって諸国民を結合し、
  最善の支配者は平和によって王国を支配する。
  平和の贈物が喜ばしいものである人々は
  諸徳の香料でよい香りがする、オリーブの生えた
  豊かな主の山のように、そこから豊かに流れる、
  乳と蜜がネクタルの豊かさと共にキリスト者のところへ。

第18章 感謝を捧げる行為と善意の祈りが平和あるいは勝利の後に神に捧げられるべきである

 目の前にいと高き御者への畏れを持つ栄光の君主、王そして支配者は平和の静けさについても勝利の凱旋についてもそれらを326B/ わが物とせず、すべてのことを全能の神の恩寵に属すると見なして、平和の状態のため、あるいは成就した勝利のために、相応しい感謝と聖なる祈願を主に表明した。主は希望の信頼を主御自身に置く王たちに救いと栄光を与え、主を愛する人々の意志を尊重し、彼らの祈りを聞き届け、彼らを救済される。というのは、主は御自分を愛するすべての人々を保護し、そしてすべての罪人を滅ぼされるからである。実際、知恵の書はまさにこのことを確証して次のように言っている。「主を畏れる人たちよ、主が賜るすばらしいこと、すなわち、永遠の喜びと憐れみを待ち望め。」(シラii,9)。それゆえに、また預言者ヨエルによってもこう言われている。「主はその民の避け所、イスラエルの人々の砦である。」(ヨエiv,16)。主が口に言えない善で人類を助けられるその憐れみの大きさ、主の慰めの豊かさ、寵愛の寛大さのために、326C/ 我々は主に驚嘆し、そして伝令使たちの称賛の歌と物惜しみしない献身によって主を賛美しそして栄誉を帰さなければならない。詩編作者は我々に勧告し次のように言っている。「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」(詩cvii,21)。また、申命記のうちに読まれることはこのことに一致している。「この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。」(申x,21)。それゆえに、イスラエルの民がモーセに導かれて紅海を渡り、エジプト人たちが海に沈められたとき、イスラエルの民は主に賛美の歌を高らかに歌った。というのは、彼らは自分たちに対する主の偉大な寵愛をはっきりと認めたからである。その同じ民の有名なそして聖なる支配者や王たちについて私は何を言おうか。彼らは敵の手から解放されたとき、326D/ あるいは敵に対して勝利したときに、称賛の歌、平和の捧げ物そして主に喜ばれる他の犠牲によって彼らの解放者そして保護者に感謝を捧げた。これらの人々の中であの敬虔なそして賛美の歌を歌うダビデは主によって彼に与えられた好意のゆえに精神において喜びながら、こう叫んだ。「わたしの心は御救いに喜び踊り、主に向かって歌います、『主はわたしに報いてくださった』と。」(詩xiii,6)。このゆえに、あの民は預言者ナホムによって忠告された。彼はこう叫んだ。「ユダよ、お前の祭りを祝い、誓願を果たせ。」(ナホii,1)。実際、いかに多くの祝福を主の民がそのような誓願を通して受けたかは預言者ヨエルによって簡潔に記述されている。「お前たちは豊かに食べて飽き足り、驚くべきことをお前たちのために成し遂げられた主、お前たちの神なる主の御名をほめたたえるであろう。わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。」(ヨエii,26)。
327A/ しかし新約聖書の時代にも、多くのいとも聖なる支配者たちはいと高き御者の恩寵を忘れたことはなかった。彼らは神の恩寵の豊かさによって他の人々よりももっと力強くそして栄光に満ちて傑出すればするほど、それだけ全能の神に相応しい栄誉を返した。偉大なそしていとも優れた皇帝コンスタンティヌスはそのような者であった。彼は並外れた敬虔によって飾られ、また神の摂理の定めによって全ヨーロッパとリビアの支配者となった。これらに加えて、アジアの大部分をも支配しながら、彼はいたるところに忠実な臣下を持っていた。しかし、外国人たちのある者は自発的に彼に服従したが、他の者は征服された後に服従した。勝利はいたるところに見られた。皇帝はすべてのものにおいて征服者だと認められた。彼はいと高き神の力を認め、驚嘆しながら、そして彼と人類に全能の神の327B/ 恩寵によって与えられたかくも多くの恵みを数え上げながら、神の賛美と誉れの栄光に満ちた貴重な文章を次のような仕方で語りながら書いた。「いとも聖なる信仰を守りながら、私は真理の光に与かっている。光の真理によって導かれて、私は聖なる信仰を知る。最後にこのことを通じて、事柄それ自身が確証するように、私はこの宗教が崇拝に値するものであること、そしてそれがすべての人にいとも聖なる神の認識の教授を提供することを認める。私はそのような礼拝をすることを公言する。というのはこの神の力によって助けられ、大海のはてから始めながら、私は全世界を救いの堅固な希望によって占有したからである。私はこの神を礼拝する。神に献身した私の軍隊はその方の軍旗を肩に担い、また何かを正しい言葉で求めるときにはその方から与えられる。しかし私は著しい突然の勝利そのものから利益を受ける。それゆえに、327C/ 私は不滅の記憶によってこの神を称賛すると明言する。なぜなら私は神が最も優れたそして純粋な知性によって万物を超越される方であることを信じるからである。私は膝を折ってこの神を呼び求める。神はあらゆる人からただ純粋な精神と無垢な魂を要求し、徳と敬虔の行為を期待し、忍耐と慈悲の業によって喜び、柔和な人々を愛し、争いを起こす人々を嫌悪し、忠実を愛し、不忠実を罰し、すべての権力を冷淡に見下し、傲慢な人々の頑固さを罰し、高慢へ揚げられた人々を滅ぼし、謙遜な者や堪え忍ぶ者に相応しい栄誉を返される。これらすべてのことを考えて、私は神に多くの感謝を表す。というのは完全な摂理によって神の律法を守る全ての人々は彼らに回復された平和において相応しく喜ぶからである。」(注43)。
 そして最も敬虔で最もキリスト教的な327D/ 皇帝はその大きな好意に対して神に栄光を帰しながらこれらの言葉を語ったのである。実際、いかなる支配者が、彼がキリスト者の名前を与えられて標しづけられ、子供のときから乳と愛によって母なる教会の豊かな保護の下に養育され、そして神の恩寵によって君主の地位の頂点にまで高められたのに、全能の神に感謝の犠牲を限りなく捧げず、神の意志に謙遜にまた熱心に従い、神の聖なる奉仕者を喜ばせようと大いに努力しないであろうか。もし不敬虔なネブカドネツァル王がイスラエルの神を称賛し、もしアレキサンダー大王が、異教徒であったけれども、神の聖なる神殿に入り、神の権威に頭を下げ、膝を屈めて熱心に神の助けを求め、神に犠牲を捧げ、そしてその上聖なる神殿の祭司長ヤッドゥムを最大の名誉によって高めたとすれば。328A/ 皇帝の権威の最も聖なる光であるテオドシウス[2世]は神から彼に与えられた寵愛のゆえに頻繁に感謝を捧げた。神はキリストに対する彼の祈りを多くの名誉によって代償される。彼はキリストに対する愛に満たされて、エルサレムへ来た時ももう一度戻ったた時も、エルサレムに建立された諸教会と一つ一つの都市に置かれた教会を大いに尊敬した。

もし平和が実現し、あるいは栄光あるトロフィーが拍手するならば、
   軽率な者は誰もそのような事柄を僣称してはならない。

 実際、すべてを創造された神は恩知らずで傲慢な支配者を、
   いたるところで心の怒りによって軽蔑される。
 神は温和な、主に感謝を捧げる支配者を愛される、
   主は彼に多様な援助を与えられる。
 実際、富も支配も人々を繁栄させない、
328B/  もし天上の王座の御父に対する称賛と栄光がないならば。
 それゆえ神の好意によって優れている君主は、
   神に対して賛美の歌の称賛と祈りを捧げるべきである、
 平和が微笑むとき、傲慢な敵が打ち倒される時はいつも、

   繁栄した土地に溢れるばかりの富が広がる時はいつも、
 そして神が王と民によって凱旋される時はいつも、
   彼の民にすばらしい栄光を与えることによって。
 民の間につぶやきがあってはならない、
   静かな平和と多様な繁栄のマンナが増す時に。
 むしろ、喜びの歌が天に挙げられるべきである、
   そのように偉大な贈物のためにその歌に参加することは相応しい、
 全能の神の霊が地に満ち、
   天の王国が地の息子たちにも開かれる時は。

第19章 敬虔な支配者が守るべき聖にして母なる教会の特権、そして諸教会の相応しい支配人と管理者について

 実際、キリスト教の民の思慮あるそして聖なる支配者は328C/ 常に神の好意に注意する。そしてそれゆえに、彼はそのような恩恵の賦与者を名誉によって称賛し、そして自分が名誉を与えられたということを認める。そして彼は生ける神の花嫁である聖にして母なる教会の特権と事情について、また司祭たちの名誉と尊敬について、それらを保持しそして増大するべく、敬虔な意向によって称賛すべき関心を示す。実際、彼はキリスト教的献身によって何であれキリストとその聖なる教会の名誉と栄光に属するものを信頼すべき言葉によって秩序正しく調整するように努力する時に、またもし必要ならば、神の民の保護のために言わば盾のようにあらゆる敵に対して自らを差し出す時に、自分が神の忠実な礼拝者であるということを示し、彼自身と彼の王国が神の保護で守られることを熱望するのである。王国を成長させ、拡大することを望む者は328D/ 神の教会を名誉によって成長させることを止めない。そして過ぎ行く[地上の]平和と安全そして永遠的な[天上の]平和と安全を持ち続けることを望む者は教会の平和と安全について敬虔な賢明さでもって熟考する。それゆえに、彼は彼以前に神の意志に従って正しくそして敬虔に統治し、キリスト教の民をよく支配し、キリストの教会を適切な援助によって愛護したあの君主たちの堅固な模倣者でなければならない。彼らは常に彼らの目の前に神への畏れと天上の報酬の希望を持ち、そして彼らが実施ないし管理したすべてのものを神の意志に従って完成することを急ぎ、悪い人々の不正に同意せず、最も熱心に正義の秤に一致して曲がったものを真っ直ぐなものに変えるのである。実際、彼らは矯正することができるのにそれを見逃す者は確実に彼自身を犯罪の共犯者とするということを知っていた。329A/ 司祭エリについては列王記の中に次のように語られている。(注44)。彼は、神の礼拝において罪を犯し、神に彼らの犠牲を捧げる民に対して暴力を振るい、その上幕屋の入り口で奉仕する女たちと寝る彼の息子たちに対して pepercit、そして父親の権威でもって彼らを厳しく非難しなかった。彼らの上に、そして民の上に下された罰の何と大きかったことか。なぜなら、エリのあの息子たちは主の契約の箱、そしてすべての民と同時にペリシテ人の手に渡され、そしてイスラエルは非常に大きな災難と共に打ち倒され、その結果3万人の歩兵がそこで斃れ、主の箱も分捕られたからである。そしてエリの二人の息子、ホフニとピネハスは殺され、そしてエリ自身、神の箱が分捕られ、彼の息子たちが殺されたことを聞いて、椅子からあおむけに倒れ、首の骨を折って死んだ。329B/ そしてそのようにして祭司の職は彼の家族から取り去られ、他の家族に移された。またエリの家系の誰も主の神殿で再び祭司職についた者はいなかった。
 それゆえに、この実例や聖書から引かれた似たような例によって考えてみれば、いとも聖なる君主や支配者たちは甘い言葉の蜜を邪悪な説得の毒と混合するへつらう者たちを受け入れなかったし、また不正に媚び諂う人々の敵意ある欺瞞に同意しなかったのである。というのはもしそのような不正において彼らに同意されるならば、彼ら自身が罪を犯すだけでなく、彼らに同意する者たちが同じように滅びるからである。そして善いそして思慮ある王たちは、彼ら自身正しく生きていたがゆえに、敬虔な情熱によって罪を犯す者たちを識見をもって責め、訓戒した。それゆえに、彼らは329C/ 臣下のうちにある悪を責め、言葉と実例によって彼らを善へと促す努力をする時、彼ら自身のために主から二重の褒賞の棕櫚の枝を得るのである。実際、神の秩序が教会の統治において言わば神の代理者たることを求め、聖職者と臣下の両方の階級の上に及ぶ権威が与えられた神によって愛される支配者はそれぞれの人にとって何が正しいかを決定しなければならないし、彼の管理の下で第一の(聖職者の)階級は敬虔に服従することによって忠実に臣下とならなければならない。そしてそれゆえに、善い支配者のうちには称賛すべき意図がなければならず、神の教会の執事がその地位を合法的に維持しなければならず、また王の寛大さが彼らがその職務を神の掟と聖なる教会法の規定に従って十分に遂行できるように彼らに援助を与えるべきであるがゆえに、そのことを適切な情熱をもって取り計らわなければならない。また世俗の権威は神の家令に対する妨害となってはならず、むしろ329D/ 神の信仰を守り正義の尊重を全うすべく後援しなければならない。それゆえにまた、以前に既に述べたように、教会法や教会の問題が正しくそして合法的に論議される教会会議が毎年開催される必要がある。それゆえに、善いそして敬虔な支配者は、神のために聖別された場所のうちに妨害なしにとどまる主の名の聖性ができる限り守られるように最も熱心に配慮しなければならない。そしてそのような指導者と管理者たちは飽くことを知らない貪欲と無節制の持ち主ではない神の事柄を善く管理する人々の中から任命されなければならない。彼らは神のしもべとはしために十分な食事と衣服を与え、そしてとりわけ、教会法に一致して寡婦、孤児、そして貧しい人々に適切な食糧供給を実施しなければならない。そして330A/ 残ったものについて正統的な支配者のために適切な奉仕を示さなければならない。神の奉仕に属することが順序として第一に為され、人間の奉仕に属することがその次に為されるためである。実際、もし慎重な熟練によって肉の兵士に対する配慮が示されて、その結果彼らにすべての必要な費用が支払われ、そして戦乱においてより多く働く人々、国家の成功のためにより献身的な者、より強い者そしてより有益な者となる人々が報酬と名誉をより多く受けるとすれば、その聖なる働きと祈りによって国家自身が損なわれず無傷のままに守られるキリストの霊的な兵士たちについてはいかにそれ以上の配慮が為されるべきだろうか。見える敵も見えない敵もまた圧倒される。現世的な諸事物の豊かさは繁栄の結果によって積み上げられる。聖なる天使たちが人々の助けのために召喚される。平和の晴朗が330B/ 回復される。帝国は拡げられる。そして最後に、王の威厳と名誉は主の保護で末永くまた幸福に拡大され、そして息子たちの息子たちは統治権の頂点において尊敬される。

   正統的で祝福されたかの支配者は際立つ
彼は神への畏れによって尊敬され、そして愛によって燃え立っている
彼はキリスト教的なものを常に宮廷の関心事の前に置く、

甘美な栄光はいたるところで増大する。
彼はそのすべての特権を敬虔な持続によって守る、
王の候補者・キリストの花嫁が喜ぶようにと。
彼は王の公正によって強欲な狼どもを撃退する、
キリスト教徒の羊の群れが邪悪な者によって抑圧されないように。
彼は嫉妬する人々を雷電のように激しく攻め立て、

復讐の剣は邪悪な人々を追いかながら輝く。(注45)。
彼は慎み深い耳で金鍍金した言葉を軽蔑する、
330C/ 口から出る蜜が毒を与えないように。
なぜならおべっかつかいは口の中に蜜のように甘い言葉を持つが、
心の奥底には有毒な計略を隠しているからだ。
そのようなちっぽけな人間どもにキリスト教徒の支配者は抵抗しなけ ればならない、

   法令、慣習、秩序そして祖国の規則によって。
  彼は聖性に輝く神の奉仕者たちを大切にしなければならない、
彼らは言葉、心、そして道徳において神の気にいられることを学んだ。
   これらの祝福された祈る人々によって祝福された国家は
耕地が果実で溢れるようにあらゆる善きもので溢れ、
君主の名誉が支配し、そしてラッパは勝利を吹き鳴らし、
至る所に喜ばしい平和と静かな幸福が支配する。

第20章 いかに多くの不名誉が傲慢な君主にもたらされ、いかに多くの栄光がこの世においてもあの世においても正統的な君主に与えられるか

 神的な歴史と人間的な歴史に目を通して、主君たる王よ、私は多くのものの中からこれら僅かのものを閣下のために忠告の書として提示した。私は自分があなたの高位に従順な負債者であることを知りながら、あなたの愛によってこの330D/ 小品[を書くこと]へ促された。私はまた、ある種の善いそしてまた悪い支配者あるいは君主に関する神的および人間的な物語の中であちこちに読まれるものを一つの小品に簡潔に纏めれば有益であろうと考えた。あなたの天分はそれによって喜ぶことができるであろうし、またあなたの理解力の明瞭性に対する我々の献身の好意ある従順を示すこともできるであろう。このように蜜蜂はさまざまの花から蜜を彼らの主人の利益へ変えるべく集め、技巧的な手筈でもって最も感謝すべき蜜のつまった蜂の巣を作り上げる。
 それゆえ、あなたの天分の洞察力がこの書物を言わば手引としてもっとしばしば読みながら徹底的に読み通すことを望みたい。その限りで天上の神の正義がいかに多くの悪いものを悪い支配者に、331A/ いかに多くの善いものを善い支配者に報いているかをもっと容易に観察することができるであろう。実際、悪い支配者たちには現在の不幸、災難、捕虜になること、息子たちが孤児となること、友人が虐殺されること、農作物の不毛、堪え難い疫病、短くて不幸な日々、長い病気、最も悲惨な死、そしてとりわけ、永遠の苦しみが返って来る。しかし反対に、正しいそして聖なる支配者には多くの現在の慰め、富の満ち溢れ、勝利の栄光、平和の静けさ、輝かしい子孫の才能、多くの幸福な年月、未来における永遠の王国を報いる。実際、不敬虔な君主たちには繁栄していても逆境にあってもすべてのものが破滅的な結末に終わるように、神に選ばれた君主たちには逆境あるいは幸福な出来事は益となるように共に働くのである。使徒はつぎのように言ってそのことを証言している。331B/ 「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く。」(ロマviii, 28)。確かに、しばらくの間逆境によって苦しめられるが、その後繁栄のうちに主によって豊かに慰められる人々、そして自惚れの傲慢によって軽蔑されるが、[その後]天の助けで勝利を得る人々がいる。彼らの功績と絶えざる聖なる祈りによって敵どもが圧倒され、君主が捕虜にされ、そして最も防備を固められていた都市が蜘蛛の巣のように破壊された。海が通行可能とされた。強いものが弱くされ、弱いと考えられていたものが突然強いものとして浮上した。空気もまた風、雲、そして雹によってしばしば反逆者たちに対して戦った。天は復讐の火と雷鳴によって敵の軍勢の上に轟いた。海面は最も激しい暴風雨を駆り立てた。天使たちはその役目を忠実に果たした。(注46)。太陽、月、そして他の天体はその運行を固定することに決めた。そして大地は生きている者を呑み込み、そして同時に地下から死者を吐き出した。実際、すべての被造物は彼らに従属していた。なぜなら、彼らは心と言葉と行いにおいて創造主に従属し続けたからである。確かに彼らの聖なる努力は神を畏れそして同時に愛することであり、332A/ 王たちの栄光は御言葉と神の知恵の知識を探求することであるということを知って、聖なる物語を究めることであった。こう書かれている通りである。「知恵を獲得せよ、分別を獲得せよ。知恵の初めとして・・知恵をふところに抱け、彼女はあなたを高めてくれる。分別を抱きしめよ。彼女はあなたに名誉を与えてくれる。あなたの頭に優雅な冠を戴かせ、栄冠となってあなたを飾る。」(箴iv,5,7-9)。
 それゆえに、彼らは全能の神に喜ばれるこれらの技術、すなわち、正しく裁くこと、善い人々に対して謙遜で親切であること、しかし悪において傲慢である人々に対しては非難する者であること、貧しい人々を支え、神の教会を援助し、過ぎ去るそしてはかない王国にいかなる希望も置かず、常に天上のそして永遠の王国の幸福のうちに希望と憧憬を置くことを熱心に学んだのである。主君たる王よ、彼らの模範と注目に値する行為、そして過ぎ去り行く幸福な生、とりわけ永遠の報酬の栄光をあなたが常に愛し、考えそして模倣することは非常に適切なことである。実際そのように、全能の主はあなたのすべての敵に対する保護者であり擁護者であられるであろう。主はその大いなる力で彼らをあなたの足下に砕き、戦争あるいは平和の力によって彼らを屈服せしめられるであろう。そして主はこの世において幸福と栄光であなたの日々を延ばしながら、また永遠の幸福において神の御心にかなった正しい王たちの共同体を構成しながら、すべてのものにおいて主の恩寵の冠であなたを飾られるであろう。そして彼らは「あなたの息子たちはオリーブの木のようにあなたのテーブルを囲む」者(詩cxxvii,3)となり、あなたの後に彼らはあなたの王国の王座につくであろう。もし彼らが主の道を歩み、主の掟を守るならば、主は彼らにこの世における長い生命と幸福を、そしてとりわけ、我らの主にして救世主であるイエズス・キリストの救いの恩寵によって天の王国を、与えられるであろう。その方には父と聖霊と共にいつまでも永遠の栄光と権力がある。アーメン。

 セドゥリウスの『キリスト教的支配者について』は終わる


(E.J.ドイルの英語版による)

1)三重の世界:空気、大地、そして水。三重の世界(trifido orbe)はまた地球の三つの部分にも言及しているだろう。ヨーロッパ、アフリカそしてアジアを。Walthariusの冒頭の行を見よ。そこではヨーロッパを"Tertia pars orbis"(地球の三つの部分のうちの一つ)として言及し、またコルビーの修道院長Theodofridによる地理的な詩はアジアを同じように"in tertiaque parte orbis est"と記述している。
2)Lothar II.King of Lotharingia(855-869).
3)ローマ皇帝(325A.D.没)
4)St.Augustine, The Cityof God, trans. Marcus Dods(New York:Random House,1950),Bk.5,Chap.12.
5)Porphyrio in Horatium, Ep.1,62, ed. W. Meyer, 269.
6)Dist.Catonis in Poetae Lat. Min., ed. A. Baehrens, 3:237.
7)Cassiodorus, Historia Tripartita, 9:31. Text refers to Theodosius I.
8)Esther: a Jewish girl who became a queen of Persia and saved her people from destruction. See the Book of Esther.
9)M. Antonius in Scriptores Historiae Augustae, 22:4.
10)Antiochus: probably Antiochus IV, ruler of the Seleucid dynasty(175-163B.C.). He persecuted the Jews, and his outrages embroiled him in the Macabean warin which the Syrian armies were repeatedly defeated.
11)Nero, Roman Emperor(54-68A.D.)
12)Egea? Unknown.
13)"Julian the Apostate", Roman Emperor.
14)Theodoric, King of the Ostgoths,(d.526).
15)Pope John(d.526): arrested and imprisoned by Theodoric.
16)Symmachus, father-in-law of Boethius; imprisoned by Thodoric in 524 and later put to death.
17)Compare these seven "beauties" with the Proverbia Graecorum of Sedulius Scottus in Sedulius Scottus, ed. S. Hellmann(Munich:C.H.Beck'sche Verlagsbuchhandlung, 1906), p.130.
18)Aur.Victor, Epitome, chapter 24.
19)Valentinian I, Roman Emperor(363-64A.D.).
20)Constantine the Great, Roman Emperor(d.327 A.D.).
21)Jovian, Roman Emperor(363-64 A.D.).
22)Theodosius I, Roman Emperor(d.395); Theodosius II, Roman Emperor(d.490A.D.)
23)Cassiodorus, Historia Tripartita, 9:30. Text refers to Theodosius I.
24)Antonius Pius, Roman Emperor(137-161 A.D.).
25)1 Sam. 22:17-23.
26)1 Kings 2:12-25.
27)According to Pliny, the Silurus is a type of catfish(Historia Naturalis 9,15,17,#44).This catfish is most commonly found in the Danube, where it is known to reach a weight of 400 lbs. and a length of ten feet.
28)Exod. 17:8-16.
29)Hezekiah, King of Judah(724-695 B.C.). See 2 Kings 19:35-37.
30)Josephat, King of Judah(d.c.850 B.C.). See 2 Chron.20:1-30.
31)Orosius, Seven Books Against the Pagans, Bk.7, p.35.
32)Sapor II, King go the Sassanid Persins. The siege of Nisibis took place in 338 A.D.
33)St. James of Nisibis(early fourth century).
34)St. Effrem of Syria(c.306-373 A.D.): Syrian biblical exegete and ecclesiastical writer.
35)St. Germanus, Bishop of Auxerre(d.448 A.D.).
36)See Proverbia Graecorum in Sedulius Scottus,pp.129-130.
37)Cassiodorus, Historia Tripartita, 1:19.
38)Publius Cornelius Scipio(185/4-129 B.C.).
39)Orosius, Seven Books Against the Pagans, Bk.5,8.
40)Amasiah, ninth king of Judah.
41)Jehoash, King of Israel(800-775 B.C.).
42)Cassiodorus, Historia Tripartita, 6:46,47.
43)Ibid., 3:3.
44)1 Sam. 2:12-17; 4:1-18.
45)The Latin text reads Emicans et ultor ensis, but it is possible that Sedulius wrote Emicans ut ultor ensis, which translates "flashinglike an avenging sword" and matches the construction of the previous line, ardens more fulminis("fiery like a thunderbolt").
46)The text has deservierunt("zealously served"), but it makes better sense, given the context, to read desaevierunt("raged").

作成日:2009/02/01

最終更新日:2009/02/01

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