高度技術社会と統合的人間教育

三上 茂

I. 高度技術社会と呼ばれる現代世界の問題

  ゲオルク・ピヒトは現代文明を「科学的-

技術的文明」と呼び、その業績がもたらした物質的豊かさを追求する大量消費社会によって人々が目を眩まされ、人類がそこでしか生きることができない生態学的環境を破滅的危機に陥れていることに気づこうとしない事態に対して警告を発してきました。生態学的危機と一言で言われるものの具体的な姿は多岐に亙っていて、水と大気と大地の汚染、化学物質や核放射能による世界の有毒化、大量消費に伴う大量廃棄など枚挙に暇がありません。ここでそれらについて仔細に検討することはできませんが、それは簡単に言ってしまいますと、人間を含む自然の破壊の進行であり、人類だけでなく、すべての生き物の生物学的生存の保障が危ぶまれる世界の状況であります。ピヒトは『いま、ここでーアウシュヴィッツとヒロシマ以後の哲学的思索ー』1という書物において次のように述べています。「自然の破壊は進行している。なぜならば、科学と技術とを制限し、有意義な目標に向けることを容認するであろうような機構はこれまで何一つ存在しないからである。われわれの文明の現在の危機は、人間の道徳的意識が質的な飛躍をして技術の発達に追いつく場合にのみ、克服されるということが、すでにしばしば指摘されてきた。」2(p.296)と。彼は、現代世界は生物的環境だけを破壊しているのではなく、人類の精神的・心的な環境をも同時に破壊しているのだと言っています。

 私は、ピヒトの思索の助けを借りて、世界の生態学的危機、環境の危機だででなくて、人権と平和の危機についても考えて見たいと思います。ピヒトは現代における問題をアウシュヴィッツとヒロシマを経験したわれわれの人間の問題として哲学的に思索しました。私はそれにチェルノブイリを加えて考えてみたいと思います。

 現代世界を象徴する場所としてのアウシュヴィッツ、ヒロシマ、チェルノブイリ3は高度技術社会がその否定的な側面を人類にえぐり出して見せた場所であります。それは単なる地理的な場所、物理的な空間ではなくて、人間がそこで科学的・合理的な思考を働かせ、高度の技術を駆使して人間の尊厳を愚弄した場所なのです。それは人権の問題、平和の問題、環境の問題に関わって高度技術社会の持つ負の側面について最も先鋭的な形でわれわれにわれわれの生のあり方を再考させる場所であると私は思います。順番に見ていきたいと思います。

 

 1) 「アウシュヴィッツとは...スターリンの粛清と共に始まり、以来全世界を震撼させてきた恐怖の波の象徴である。われわれは、大量殺戮の、拷問の、自由の抑圧の時代、そして宗教や人間の尊厳を愚弄する時代に生きているのだ。...」4とピヒトは言います。

 私は、アウシュヴィッツを人権問題の象徴的な場所として考えたいと思います。しかも、それは高度技術社会の人権問題であります。アウシュヴィッツは特殊ドイツ的な問題の場所ではなくて、現代の世界の普遍的な問題を象徴する場所です。ナチス・ヒットラー政権は当時の最先端の科学・技術を用いて人間が人間を選別・処理することに着手して、ユダヤ人を主として600万人以上の人々を地上から抹殺するというジェノサイドを実行しました。これを単なる過去の出来事として、また特殊ナチス・ドイツ的なものとして、歴史の彼方に葬り去ることはできません。ナチスがユダヤ人抹殺のために援用したのは最先端の科学・技術でした。生物学、優生学、医学、薬学、心理学、化学、工学をはじめ、多くの学問・技術が動員されました。これは目的が間違っていたために、単に悪用されたにすぎないもともと善である科学・技術という問題として片づけられることなのでしょうか。確かに、技術は道具的な性格があり、その道具をいかなる目的のために用いるかによって、善悪の問題が生じるのだ、ということは認められます。人間が理性を賦与された存在として科学・技術を発展させることは人間の歴史のある点での進歩でありましょう。しかし、まさにその科学・技術の道具的・手段的性格が世俗の権力者にひたすら奉仕するという仕方で自らの目的についてはいっさい問わないということ、あるいは逆に価値中立性を楯にして権力者に迎合し自らの社会的・学問的地位を拡大していくということが科学・技術の世界に生じたのであり、現に生じているのではないでしょうか。

 ところで、ナチスの優生思想が今日もソフィスティケイトされた形でわれわれの世界を支配していると私は思います。確かに、人種的・民族的な優劣による選別・淘汰という極端なあるいは素朴な形では主張されたり、実行されたりしていないでしょうが、個々の人間の遺伝的な資質の優劣を問題にし、劣等とされる生命を排除しようとする優生思想はますます強化されつつあるように思います5。生物学、医学は人間が地球上の生命を、人間の生命をも含めて、自由に操作する方向をますます強めています。

 また、人々がほとんど意識しませんし、また問題にもしませんが、世界の至るところで大量の生命を闇から闇へと葬り去っている人工中絶の問題は、世界的な規模での形を変えたアウシュヴィッツ問題である、と私は思います。年間何千万と言われるこうした生命の処理・抹殺は人口問題の解決のための一つの方策として国家の法律によって是認され、個人的なレベルでは家族の幸せのためのやむを得ない措置として人々によって実行され、その数はますます増大していると推定されます。

 また、ナチスが殺人工場で使用した毒ガスは、アウシュヴィッツだけの過去の問題ではありません。現代の多くの国家は軍備の一環としていっそう強力な殺傷力を持つサリン、vxといった毒ガス兵器を保有していますが、これはまさに現代世界の問題であります6。人を殺す以外の目的を持たないものを作り出す科学・技術に多くの科学者・技術者が関わっているということは何を意味するのでしょうか。化学兵器による戦争抑止力とか、相手国が先に使った場合の報復手段であるという理屈が持ち出されるようですが、私には悪循環を増幅させるもの以外の何物でもないと思われます。

 殺人のためではない農薬の問題もアウシュヴィッツに連なる問題をはらんでいます。1984年12月3日にインドのボパールという大都市で起こったアメリカの多国籍企業ユニオン・カーバイド社農薬工場からの毒ガス漏出事故は周辺の人々に静かに降り注ぎ、8000人の人間を殺し、生涯にわたって回復不能と見られる約30万人の傷病者を産み出しました7。農薬、つまり殺虫剤や化学肥料は人類のための農業生産の増大を目的としていますが、結果的には大地・河川・海洋を汚染し、人間を大量に殺し、生涯にわたる苦しみを与えています。

 このように見てきますと、アウシュヴィッツは人権が愚弄された場所であると同時に、平和や環境の破壊とも連なっている現代の問題が集約されている場所でもあると言えるのではないでしょうか。

 日本でかつて起こった水俣病問題、現在問われているエイズ発症問題もある点でアウシュヴィッツに結びついているように私には思われます。水俣病は長年にわたって一企業の垂れ流した工場排水が不知火海の魚介類汚染を引き起こし、それを食した人々が発症し、多くの人が無念の死を遂げ、今も苦しんでいます8。今年(1996年)になって政治的な幕引きが行われ、水俣病の決着と報道されましたが、果たして問題は解決されたのでしょうか。血友病患者のエイズ発症問題も製薬会社が汚染された血液製剤を生産し販売し続けたことによって多くの人の命を奪い、被害者を拡大させたと考えられている問題です。アウシュヴィッツが人権を真正面から攻撃したのに対して、水俣病やエイズ発症は意図的・直接的な人権侵害という形をとらないので、われわれにはその真の姿が見えにくくなっています。しかし、企業の利益追求第一の行動によって、人々はその人権、最も基本的な生存の権利や健康的な生活をする権利を侵害されているわけです。このような問題は侵害する側に侵害の意図があるかないかだけでは判断してはならないと思います。予想されるべき結果を当然予想して行為すべきであるにもかかわらず、そうしないで利益、利潤を第一にすることから公害も薬害も発生しています。しかも、公害にしろ、薬害にしろ、引き起こされた前例はなんら教訓とされることはなく、形を少し変えただけで、似たようなことが繰り返されてきました。行政が侵害される人々よりも侵害する企業の意向を尊重する傾向があるという構図も一向に変わっていません。

 2) ヒロシマは現代の平和問題の象徴的な場所であると私は思います。二十世紀は核の時代であると言うことができます。核の連鎖反応という物理学上の発見は、単なる科学理論として学問の領域にとどめられずに、アメリカという国家が戦争を終結させ、平和を実現するという口実の下に膨大な国家予算を使い、科学者・技術者を総動員して原子爆弾を作り、ヒロシマに投下するという仕方で戦争行為の中で実践されました。このことは世紀の最先端の科学・技術がまさに戦争のために、人を殺戮するためにその威力を発揮するということを如実に示しています。原爆投下によってヒロシマで約13万人・ナガサキで約7万人の人々が一瞬にしてその命を奪われ、それ以上に多くの人々が被爆の苦しみを背負わされました。アメリカはヒロシマ・ナガサキの2個の原爆で核の廃絶をすべきであったと私は思いますが、1945年末にはさらに2個、1946年には9個、1948年には50個を製造、所有しました。ソ連が1949年に原爆の開発に成功して、その後アメリカとソ連は核軍拡競争に突入し、原爆投下5年後の1950年にはアメリカは300個の原爆を保有するに至りました。イギリスが1952年、フランスが1960年、中国が1964年に核爆発に成功して核保有国の仲間入りをしました。1967年のアメリカの核爆弾の数は32,500個、1986年のソ連の核爆弾は45,000個でした。高度技術社会は原子爆弾や水素爆弾だけでなく、その爆弾を発射・命中させるためのミサイルその他の超ハイテク兵器を開発し、現在もそれらの近代化を押し進めています。アメリカは彼らが戦争終結と平和実現のためと言っていた目的を達成した後にも、核を廃絶するどころか、今度は戦争を未然に防止し、平和を維持する核抑止力が必要というまやかしの議論を作り出して、ヒロシマ原爆の威力の千倍といわれる水爆を開発し、1954年3月1日にビキニ環礁で爆発させました。核保有国は核開発のための実験を繰り返し、新たな核所有希望国、あるいは潜在的核保有国の数を増やしています。

 ヒロシマ・ナガサキで核爆弾投下によって最初に生み出されたヒバクシャはヒロシマ・ナガサキだけで終わりませんでした。ヒバクシャという言葉は今や世界共通語となっています。核爆弾投下によってではありませんが、核実験によって、世界中に、特にネイティヴの人々の中に新たなヒバクシャが続々と生み出されました。アメリカのインディアン、アメリカの実験海域のビキニ・マーシャル諸島の人々、オーストラリアのアボリジニ、中国の実験区域の少数民族の人々がそうです。それだけでなく直接、実験に携わった核保有国の軍人や技術者たちなどもヒバクシャとなりました。昨年のフランス、今年の中国の核実験の終了で、核実験は行われないことになっていますが、核保有国はシミュレーション実験を継続することを公言しています。この半世紀間に行われた核実験は大気圏内実験が約500回以上、地下核実験が1500回以上、合計2000回以上であります。

 今年(1996年)CTBTの延長が可決されましたが、核兵器が廃絶されるわけでは全然ありません。西暦2003年までに米ロは戦略核の弾頭をそれぞれ3000-3500発まで削減することに合意しましたが、一発の核弾頭の破壊力がヒロシマ原爆の100倍から1000倍もあるようなものがアメリカとロシアだけで合計7000発もあり、その他の核保有国の分も加えれば、核の脅威の事態は変わっていないどころか、ますます深刻化していると言わなければなりません。半世紀前のアウシュヴィッツが終わっていないように、同じく半世紀前のヒロシマもまた終わっていないのです。それどころか、核保有国の増加、核弾頭の恐るべき数を考えれば事態は、このままでは絶望的だとも言えます。

 3)チェルノブイリは現代の環境問題の象徴的な場所であると私は思います。1986年4月26日旧ソ連チェルノブイリ原発は大爆発を起こしました。これは原爆投下でも、核実験でもなく、核の平和利用として電力を生産するための発電所の大事故によってヒロシマ原爆の10倍と言われる放射能を放出したものであります。

 原爆や水爆は人を殺すためのものであるから悪であり、廃絶しなければならないが、原発は電力という人間にとって不可欠のエネルギーを生み出すものであるから善である、あるいはまあ善くはないとしても我慢しなければならないものである、と考えている人が多いと思いますが、果たしてそう言えるのでしょうか。私は、チェルノブイリは核の問題という点でヒロシマと双子であり、原水爆と原発は人類や地球にとって同じ種類の悪である、と考えています。

 アイゼンハウアー大統領ははやくも1953年12月の国連総会で「アトム・フォー・ピース」(原子力平和利用)を訴える演説を行っています。アメリカは当時、これからの核に関する世界政策として、ウランの継続的な確保、核施設の恒常的な運転・維持という多分に軍事的な目的を絡めて、平和利用を打ち出したと言われています。現に核保有国では軍事用と民生用の区別といってもその境界線は非常に曖昧です。特に再利用のために取り出されるプルトニウムの場合にはそのことが言えます。平和利用といっても、原子力発電所というのは核分裂の速度を緩やかにして、核分裂の際に生ずる崩壊熱を取り出して、発電に利用する仕組みであり、湯を沸騰させるために原子力を利用するものですが、一方で原子炉の中でウランからプルトニウムを生産する施設でもあるわけであります。ここでは、軍事利用と平和利用の境界線の曖昧さという問題にはこれ以上深入りしないことにします。

 ここで世界の核施設における大事故の歴史を簡単に振り返ってみたいと思います。1955年11月29日にはアメリカでEBR-1が炉心溶融事故を起こして閉鎖されました。1957年10月10日にはイギリス、ウィンズケールでプルトニウム生産炉が核燃料溶融事故を起こして大量の放射性沃素を放出しました。1957年12月には旧ソ連、チェリャビンスクの核施設で軍事プルトニウム抽出後の再処理廃棄物が大爆発を起こして周囲を広範に汚染しています。50年代に、つまり原子炉を運転して10年目くらいで事故が起こっており、その後も頻繁に事故は繰り返されています。絶対起こしてはならない、そして学者たちが天文学的数字を挙げて何十万年に一回の確率でしか起こらないと保証していた大事故がこのように起こっていたわけです。そして、1979年3月28日にはアメリカ・スリーマイル原子力発電所が大事故を起こしました。これは炉心溶融の大事故でした。周辺一帯に放射能を放出し、住民を避難させざるを得ないほどの大事故だったにもかかわらず、事故の内容・規模がひた隠しにされて、その結果世界に原発の危険性を警告することを妨げることになりました。それから7年後1986年4月28日にチェルノブイリの大事故が起こったのです。チェルノブイリという名前は黙示録に出てくる「にがよもぎ」を意味し、チェルノブイリ大事故は世界に対する黙示録的な警告である、と述べた書物もありました。私もそのことに関してはまさにそう受け取るべきであったと思います。しかしながら、このときにも、世界中の原発関係者、政府関係者、学者たちは事故の重大さをいかに小さく見せるかに腐心しました。彼らは、ソ連原子炉の特殊性、ソ連の運転員の規則違反、モラルの低さ、技術水準の低さ、等々、特殊ソ連的なものに大事故の原因を限局し、世界の原子力推進に歯止めをかけることのないように全力を尽くしました。日本では特に、ああいう事故は絶対に起こらないと断言する学者が多数いました。先に見ましたように、イギリスやアメリカやソ連の軍事核施設ですでに事故は起きていたのです。飛行機事故を絶対起こさない国は飛行機を所有しない国です。原子力発電所事故を起こさない国も同じことが言えるはずです。技術である以上、事故の可能性をゼロにすることは原理的にあり得ないことは当然のことではないでしょうか。しかし、人々は学者の言うことを信じ、時の風化によってチェルノブイリを忘れました。

 チェルノブイリ原発の爆発によってばらまかれた放射能の影響、特に子どもたちの健康に対する影響は10年後の今日その深刻さを増しています。1995年11月22日の朝日新聞(夕刊)の記事によれば、チェルノブイリ原発事故の影響を受けたベラルーシ、ウクライナ、ロシア三ヶ国で子どもの甲状腺ガンが90年代に入って急増し、地域によっては(ゴメリ地域)発生率が事故前の100倍にもなっていることが、同年11月20日に開催された世界保健機構(WHO)主催の「チェルノブイリと他の地域の放射能事故の健康影響に関する国際会議」の席上、中嶋宏・WHO事務局長から報告されました。

 技術の例として飛行機の例と原発の例を並べましたが、本当は同列に考えてはならない、根本的な問題が含まれていると思います。それを同列に考えるとき、「原発は必要悪である」、あるいは「エネルギー供給という恩恵を受ける対価として放射能汚染という危険も覚悟すべきである」という議論に落ち込むと思います。人間的な技術は何度もテストを繰り返し、改良を加えながら完成されていきますが、原発はシミュレーション・テストはできても、実地のテストを繰り返し、改良を加えるなどということが不可能なぶっつけ本番の脆さを持っている特異なものなのです。

 ドイツのヘルベルト・グルールという人が核エネルギーの平和利用について述べていることをここで少し長くなりますが引用したいと思います。「この新しいエネルギー源−ウラン−は....まず戦争目的のために発見された。....しかしそのことで、人跡未踏の地−地上の生存者にとっては、たぶん禁じられてさえもいる領域−へ歩みが踏み出されたのである。この歩みが開いた全く新しい次元は、自然の規則的サイクルにとってはこれまでよりさらにいっそうラジカルな革命を意味している。なんとなればここでは−平和的利用に際してもまた−環境破壊を引き起こす材料が解き放たれたのみならず、その統御を逸脱するか、もしくはその強力な放散の結果として生命の世界とただ接触するにいたるやいなや、いかなる種類の生命にとっても壊滅的である原材料が解放されたのである。それに比べれば火のもっている壊滅力などは、まるで無害な代物である。核エネルギー産出が支障なく経過する場合においてさえ、200ないし300年足らずのうちに、決して自然と接触してはならない数百万トンの物質が発生するだろうことは確実である。

 この種のエネルギーは、つねにどこででも統御に服するであろうか。物質の運送と放射性廃棄物の堆積とは、数千年にわたって絶対安全に、いかなる破局や汚染もきたすことのないように取り扱われ得るであろうか。人間の弱さとか、国家間の戦争だとか、社会の絶えざる転覆とかに関する数千年の経験に基づいて、ただその反対だけが確実であろう。

 『ファウスト的な契約』は結ばれたのである。人類は(一時的に)エネルギーを手に入れる。しかし、人類の生命は未来永久に、致命的な放射線の漏洩という脅威のもとに立たされる。しかしそのことを左右するのは悪魔だけではなくて、たとえ悪魔ではなくても、時に怠慢な巨大な数の人間たちである。

 かくして問題は、果たして人が今日原子力発電所を建設するかいなか、そしてその際、最大限可能な安全のための予防手段を講ずるかいなかではない。世界の原発が数百年以上もその放射性廃棄物を産出するならば、いったいどこにその廃棄物を納めたらよいのか。...この問題は解決されていないのだ!...原子力の利用をもってしては、将来の問題は何一つ解決されない。むしろ次の世代に『遺贈』されるのは略奪され尽くした地球、さらには有毒物質を背負った地球なのである。」9。

 昨年暮れのもんじゅ事故に関連して、宇宙物理学が専門の大阪大学池内了教授は今年1月16日の朝日新聞において「核」依存の生き方に警告、と題して次のように述べておられます。「地球上のすべての営みは、原子が結合したり分解したりする『化学反応』で支えられている。その根本は太陽の光エネルギーで、せいぜい一千度の温度で反応が進む。一方、原子力エネルギーは、原子の芯にある原子核が融合・分裂する『核反応』によって生ずる。核反応は太陽の中心部で一千万度もの温度で起こっている反応である。

 この温度差を見れば、二つの反応が本質的に異なっていることがわかるだろう。核反応は輝く星の世界、化学反応は生命が生きる惑星の世界の営みなのである。原子力利用とは、一千度を扱う化学反応の技術で、一千万度もの核反応を操作することなのだ」と。そして、人間の技術への過信、原子力を操作しようという人間の傲慢について警告を発しておられます。

 現在世界中の運転原発は400基をゆうに越える数であり、日本はその1割以上、50基ほどが運転されています。その日本の原発のほとんどは軽水炉という原発ですが、日本はこれをプルトニウムを使用する高速増殖炉に転換して行くことを国策として掲げています。昨年12月のもんじゅ・ナトリウム漏洩事故によって現在その進行が一時ストップしていますが、しかし、国は人々の忘却と風化を当てにして気長に事を進めるつもりのようで、高速増殖炉計画・プルトニウムによる核燃料サイクル政策を放棄していません。世界中の原発推進国−56基の原発を抱え全電力の75%を原発でまかなっているフランスを含めて−が高速増殖炉政策を放棄している中で、日本だけは資源節約を口実にしながら軽水炉の10倍もの経費のかかる高速増殖炉推進を進め、もんじゅ運転を諦めず、青森県の六ヶ所村に再処理施設を建設中です。もんじゅ事故が示したように、高速増殖炉は冷却材として水ではなく、空中で燃えるナトリウムという人間には制御の非常に難しい物質を使用する原発です。ナトリウムはまた水と接触すると爆発しますが、原発では管を介してナトリウムと水を接触させないと発電できません。ナトリウムの金属を腐食させる性質を考えれば、いかなる特殊鋼を使用しようとその漏洩の危険性は非常に大きいということは否定できません。さらに、高速増殖炉の燃料はプルトニウムで、その放射能の半減期は2万4400年です。このプルトニウムがほぼ無害なものに変化するためにはその半減期を10回から20回経過しなければならないと考えられています。つまりプルトニウムというのは24万年ないし48万年の厳重な管理を必要とするとてつもない代物です。人類にとってこれは永遠に等しい年月ではないでしょうか。さらに厄介な問題は高速増殖炉では、再処理の過程で軽水炉原発廃棄物のおよそ600倍もの廃棄物を生み出すという点です。現在、軽水炉の廃棄物でさえそれぞれの原発サイトで満杯に近づき、その最終処分場でさえ決定されていないのに、その上高速増殖炉によって放射性廃棄物を600倍にも増加させることは、特に狭い国土の日本にとってはまさに子孫に対する犯罪的行為です。

 ヘルベルト・グルールがさきに述べていた原発のおぞましさはこのように高速増殖炉においては何百倍、何千倍にも増幅されることは確かです。ドイツは1991年3月カルカー高速増殖炉建設を断念しましたし、1994年4月にはイギリスも高速増殖炉PFRの運転を停止し、開発を断念しました。アメリカ、フランスも撤退しています。経済大国になって変な自信をつけた日本の政府も学者も技術者も世界の教訓に学ばないおごりを持っていると私は思います。

 II. 近代の超克

  アウシュヴィッツ・ヒロシマ・チェルノブイリを産み出してきたものは何でしょうか。単純化を承知で敢えて言えば、それは人間のヒュブリス・傲慢であると私は思います。そしてこの三つの現代の象徴的な場所に共通している特徴は何でしょうか。これも単純化して言えば、その場所で人間は高度の科学・技術によって作り出した組織、制度、施設など諸々のものを使って、大量の人間を殺戮し、健康を奪い、人権を蹂躙しているということです。ヒロシマとチェルノブイリを並べること、ましてアウシュヴィッツと並べることに違和感あるいは不快感を持つ人がいらっしゃるかもしれません。アウシュヴィッツはある人間が他の人間を選別し、殺戮し、抹殺した典型的な例ですが、しかしそれは形を変えて、今日の優生学的措置、人口中絶、水俣病・エイズの発症、人種的・民族的差別としてなお根強く生き残っており、ますます洗練された科学・技術によって支えられていることについては先に述べました。アウシュヴィッツとヒロシマで行われた行為は人間の絶滅、ジェノサイドを冷静・緻密に計算された高度科学・技術によって遂行した近代の、否全人類の歴史の汚点であり、人間のヒュブリス・傲慢の極致であります。そしてヒロシマとチェルノブイリにおける核は、先にも述べましたが、核の問題として同じものであり、最高度の科学・技術の成果として過去半世紀の人間を殺し、傷つけただけでなく、人類が生き残るとしての話ですが現在の人間そして未来の人間をも殺し、傷つけ続けるでしょう。ヒロシマとチェルノブイリは、ヒロシマで使われた原爆が戦争のためであり、他方チェルノブイリで爆発した原子力発電所は平和のためであるから、同列に論じられないと考えられています。しかし、現に核兵器は戦争抑止のため、つまり平和のためと言われていますし、原発はわれわれ人間だけでなくすべての生き物を未来永劫にわたって脅かし続けるものです。コントロールできないものをできるかのごとくに考えること自体が人間のヒュブリス・傲慢であると思います。

 前にも触れたことですが、科学・技術が価値的に中立であり、道具的であるということはある意味ではその通りでしょう。しかし根本のところでは、科学・技術には人間のヒュブリス・傲慢が付随しており、科学・技術は智恵の木の実を禁を犯して食し、神のようになろうとしたアダムとイヴの罪を共有しているように私には思えます。科学・技術は人間に限界を設定しません。神の領域である生殺与奪の権の行使を自らのものと自認しているように私には見えます。

 生物・化学兵器や大量破壊兵器を駆使する近代戦争、強制収容所、原水爆による大量殺戮、原子力発電所という人間の管理能力を超える施設の運転事故による緩慢な大量死、医学の領域における胎児の抹殺や生命操作などはみな、高度科学技術にって産み出された兵器や施設・設備によってはじめて可能な事柄であります。このような仕方では科学・技術は価値的に中立であることを止めて、悪魔的な目的に奉仕する悪魔的なものとなるのではないでしょうか。

 しかし、このような科学・技術を主語とする言い方は科学・技術を擬人化してしまい、あたかも人間を離れて科学・技術が一人歩きをするかのように考えさせる危険を持っているのかもしれません。やはり科学・技術を何のために、どのような仕方で用いるか、それを用いる人間自身のあり方が問題である、と考えるべきでありましょう。

 ピヒトは科学・技術と人間との関係を少し角度を変えて、学問と政治の関係として考えているようで、次のように述べています。「プラトン以来、政治理論の大きなテーマの一つである学問と政治の関係はわれわれの自然的環境が脅かされることによって、新しい不気味な姿を見せている。われわれはわれわれ自身の生活圏をまさに破壊しようとしている。なぜならば、政治と経済は向こう見ずに、科学研究の成果をもてあそぶからであり、また、科学は、それがこの世の権力者たちに自由に使わせる諸器具の与える影響に対して責任をもつことを拒むからである」10と。しかし、この場合にも、政治と経済を動かしているのは人間であり、科学・技術の成果をもてあそぶ政治家や経済人のヒュブリス・傲慢が問われるだけでなく、また権力者の誘惑あるいは命令に応じて良心と責任を放棄する科学者・技術者のヒュブリス・傲慢も問われるでありましょう。

 近代以降、人間は測定可能なものしか存在しないかのような錯覚を「科学的思考」という名の下に抱かされてきたのではないでしょうか。人間は考え得る限りのことを考え、作り出し得る限りのものを作り出すことを進歩と見なすように教育されてきました。人間はかつて持っていた人間と自然との正しい関係、調和的なサイクルとは全く正反対のサイクルのなかにいる、とピヒトは言います。キケロが文化とはもともと耕作を意味し、精神の陶冶つまり魂と精神の耕作のことであると言うとき、この比喩によって明らかにしようとしたのは、人間の人間性は、人間が自分の耕地を耕すのと同じ入念さを以て、自分の内的な諸力と諸能力とを世話する場合にのみ発達するということを言おうとしたのだ、とピヒトは言います。人間と自然との相互作用において自然の改良は人間の改善へ通じ、人間の改善は自然のさらなる改良に通ずるような、そういうフィードバックが古代の高度文化には関与していました。ところがまさにその反対が現代の状況であります11。ピヒトの言葉によれば、「自然の進行する破壊が人間の人間性の進行する破壊を伴った。過度に発達した工業諸社会は....消費熱によい痴れて、世界の食糧難、海洋と大気との汚染、自然的生活圏の破壊、原料とエネルギーとの蓄えの不正な搾取、世界中の教育危機、教養の崩壊、人権のいや増す軽視、暴力行使、拷問、集団虐殺−他の言葉でいえば、現在の歴史時代を規定するすべての実態−を確認しようとしなかった。..外的生活水準の高まりにつれて、精神的道徳的生活水準は沈下した」12、ということになります。

 人間が自らを自然を越える者として自然を征服し、自然を破壊するようになったのには、キリスト教が与って力があったとピヒトは考えている13ようですが、私は必ずしもそうは言えないと思います。人間を神の被造物であり、神の似姿であると教えるキリスト教が同じく神の被造物である自然を破壊することを奨励したはずはないと思うからです。神が造り給い、すべて善しと見られた世界を神の似姿であるはずの人間が征服したり、破壊したりすることを、神の意志に沿うことだと教えるはずはないと思います。むしろ、先に指摘したように、人間はおのれの被造物である地位を否認し、地上の支配者たらんとするヒュブリス・傲慢によって、そして自然の生態学的バランスがいかに微妙なものであるかについての無知によって、今日の危機を招き、しかもまだ考え方も生き方も改めていません。人間のヒュブリス・傲慢はおのれの地位についての無知から生まれると思います。科学は自然についての知見を人間に深めさせたと言われます。ある点でそうですが、しかし、それは断片化され、専門化された仕方でそうなのだと思います。諸科学はまだ自然を破壊しているすべての因子をその相互関連において総合的に解明したとはとても言えませんし、そもそも専門分化する科学の性格からしてそれは無理なことでしょう。

 ピヒトは環境破壊というのは病気の外的徴候にすぎない、原因は物理学や生物学の分野に存するのではなくて、経済的、社会的、政治的な過程から生じている、と言います。彼は、環境の脅威は、科学と政治という仲間同士がわれわれの生態系の構造を理解する場合にのみ克服される、と主張します。彼はこうも言っています。「人間による自然の解体が可能となったのは、近代的思惟が『自然』の下に、われわれが自然科学と技術によって支配できる、かの客観的領域だけを理解しているにすぎないということによってであった。人間自身が自然の中に存在すること、且つ人間が自然の搾取と破壊によって自分自身の生活条件をも一緒に廃棄していることを忘れたのである。近代的思惟は自然に反して行動するという、人間の不気味な可能性を無制限に使用してきた」14のだ、と。

 ピヒトの言う近代的思惟と実践を乗り越えること、先に挙げた池内教授の言葉を借りるならば、「資源やエネルギーの多消費構造を改め、せめて五年まえのレベルに五年かけて戻り、十年前のレベルに十年かけて戻るという縮小路線に移ること」が環境破壊をくい止める唯一の道であると私は思いますが、日本を始め、世界中が未だに右肩上がりの成長路線を目指して、破滅への速度を速めているのではないでしょうか。

 私は、人権、平和、環境の破壊は病気の外的徴候であり、その最も深い原因は人間が神を否定し、神の地位に取って代わろうとしたヒュブリス・傲慢にある、と言いたいと思います。己を神のごとく見なす者は神の被造物である自然を、そして他の人間を思い通りに操作することによって自然の尊厳と人間の尊厳を破壊するのです。神であり得ない被造物、かつて天使であったとされるサタンが神の地位を簒奪せんとして神に反逆したとき、悪がこの世に存在することになったと聖書は教えています。今日、われわれは悪魔・悪霊・サタンについて語ることをしなくなりました。しかし、今日ほど悪があらゆる領域において跳梁している時代はかつてなかったのではないでしょうか。麻薬・暴力・犯罪・中絶・自殺が大人の世界のみならず子どもの世界にも浸透してきています。子どもの世界は大人の世界の忠実な反映・写しです。表で科学・技術の進歩、経済の発展、平和の達成、教育水準の向上など、近代の成果による人類の向上が称賛される一方で、裏では同時に、無神論の拡大と信仰の衰退、科学・技術の悪魔的使用、核兵器や生物化学兵器のような近代兵器の威嚇による偽りの平和、物質主義や拝金主義の横行、学校教育の荒廃が起こっており、今日それらはその頂点に達するかの様相を示しています。

 III. 統合的人間教育

  私はこれまでに、教育とは一人の人間が人間になることを援助するために他の人間が関わる仕事であると考え、学生にもそう教えて来ました。人間は人間として生まれ、最初から人間であると言えますが、しかし、同時に人間になるというプロセスを経なければならない存在であります。この自力では達成できない目的達成のプロセスにおいて別の人間がその人のいわば人間化を援助をするのが教育という仕事であります。出発点にある人間は到達点にある人間とある意味で同じであり、ある意味で異なっています。そこには成長・成熟・発達・完成という目的へ向かう運動があります。教育は目的的な活動であり、この目的はまさに人間への成長・成熟・完成であります。教育という仕事はこの到達点(terminus

ad quem)としての人間を考慮に入れざるを得ませんし、また現実に考慮に入れてきたことは確かであります。ただ問題はその目指されている人間がいかなる者であるかということであります。

 教育はそういう意味では、世界観・人間観を離れて考えられない仕事でありますが、しかし現実には、特に近代以降、国家が教育に関する大幅な権限を持つようになってからは、学校という制度の中である特定の人間像を型として集中的に刻印するという機能を果たしてきたと思います。近代以降でも時代によって、またヨーロッパとアメリカ、日本など地域によっても学校教育制度のあり方が異なりますので、一般的に述べることは危険ですが、大胆に言ってしまえば、近代学校制度は国家が家庭・地域社会・教会あるいは寺院に代わって教育の主たる任に当たることになった制度であり、そこで目的とされた人間は国家に忠誠を尽くす国民、国家を支える経済社会を担って行ける有能な職能人でした。この点は現在でもそう大きく変わっていないと思います。近代学校制度のなかでは、科学・技術がそういう国民、職能人を養成する最も強力な武器・手段として位置づけられましたが、科学・技術は同時に国家が本来持っている世俗性を押し進め、いわば脱超自然を促進するという役割をも担いました。

 欧米の歴史においては教育に関する教会と国家の指導権争いに、やがて教会が敗退してゆくという過程を辿るわけですが、しかし、それでも教会と家庭が教育において、特に人間観に関わって宗教的・道徳的な配慮をまったく放棄するということは全体として見ればなかったのではないでしょうか。もちろん、世俗化は時代が進むに連れて欧米社会においても例外ではなくなっています。キリスト教徒の数が減少しているだけでなく、洗礼を受けているキリスト教徒自身の教会出席とか秘蹟参加が減少してきていると言われています。

 ところで、現実の国家というのはその性格からして、道徳的ではあり得ないのではないか、というのが私の率直な感想であります。個人に許されない武力による威嚇や報復、つまり戦争をする権利を保有し、死刑制度によって人を殺す権利を保有し、諸国家の間に貧富の差を生じさせ、ある国家による他の国家の搾取を正当化し、世界の富を独占する権利さえ保有しようとします。その国家が教育の権限を掌握し、国民を教育するとき、そこで行われる道徳教育というのは、神の前に膝を屈め、人間の超自然的な存在を尊重し、人間の尊厳を真の意味で守るための道徳教育ではなくて、国家の許容する範囲で行動する国民としての義務や他国の犠牲を省みず自国の富を増大する経済活動のための勤勉さを教え込むだけの道徳教育という意味しか持ち得ないのではないでしょうか。

 近代は、知識と智恵の区別ということで言えば、知識を増大させ、智恵を捨てたように思います。近代ヒューマニズムは科学・技術の目の眩むばかりの成果を前にして、人間の理知を過信し、超自然を拒否することによって同時に人間もその一部である自然を破壊し始めたのです。近代は結局、ヒューマニズムを神を否定する世俗的な人間中心、あるいは人間独善の意味で信奉し、それを教育の根幹に据えて、青少年の心に大人の持っているヒュブリス・傲慢を植え付け、育てたと私は思います。しかし、そのような無神論的・世俗的ヒューマニズムからは本当の意味での人間の尊厳は導き出せないと思います。世俗的人間中心主義は、人間を神から解放し、人間が人間の主人となることを標榜しながら、結局のところある種の人間がある種の人間の主人として振る舞うことを正当化し、黙認するアンティ・ヒューマニズムになることは、近代の、特に現代の歴史が示していると思います。

 学校教育の話に戻りますと、近代化を欧米に遅れて始めた日本は近代学校制度を欧米から取り入れて急速に整備し、欧米の科学・技術を吸収しました。日本の学校制度は欧米で家庭と教会がその教育権に関して国家に対して執拗に抵抗した歴史を持たずに、国家が独占権を最初から掌握するという形で始まりました。日本ではキリシタンが徹底的に弾圧され沈黙させられた歴史、仏教の中では一向宗がやはり弾圧され根絶やしにされた歴史を持っていますが、欧米における「いわゆる王権と教権の拮抗・対立」を経験しませんでした。明治政府は近代学校制度において、疑似宗教である天皇制を道徳教育の根幹に置きました。欧米の宗教・道徳教育におけるキリスト教にあたるものとして天皇制国家神道なるものを編み出したわけですが、これは似て非なるものの典型であると私は思います。「脱亜入欧」は「和魂洋才」とセットになって、明治以来の日本の学校教育を支配しました。洋才の方は神を否定する近代的思惟に支えられた科学・技術であり、和魂の方は人間観・世界観で争うはずである宗教という相手のいない国家が擬似的に作り出した天皇制似非宗教に基づく日本独善・八紘一宇の超国家主義でした。日本の近代学校制度は忠良な臣民、勤勉な企業戦士を大量に作り出す機関としての役割を十二分に果たし、すでに日清・日露戦争において教育の成果としてのその力量を世界に誇示できました。欧米世俗国家の植民地争奪戦に遅れて参加した日本は彼らを見習って朝鮮、台湾の侵略併合、中国はじめアジア諸国の侵略に突き進みました。

 アメリカの科学・技術水準の高さと資源の圧倒的な豊かさによって日本は太平洋戦争に敗れました。戦後日本は天皇制と軍国主義を清算して、民主主義と平和主義の国に生まれ変わり、学校教育においても180度の転換を果たした、と言われて来ました。戦争に負けたことだけは確かですが、天皇制と軍国主義をすっかり清算して民主主義と平和主義を貫徹してきたのか、ということについてはいろいろな問題があると、私は感じております。少し極端な言い方をしますと、看板をすこし塗り替えたけれども、実質的にはあまり変わらなかったのではないか、とい気がしています。私は、戦後民主主義の変質を言う前に、戦前と戦後の変質がどういう意味で言えるのかを考えなければならないと思います。

 日本は戦前の形とは違うにしても国民統合の象徴という形で天皇制を残しましたし、アメリカの世界戦略の変化の中で警察予備隊として出発させ、保安隊と名を変えながら、今はその装備において世界で一二を争う自衛隊という名の軍隊を持っています。

 戦後の学校教育では事情が変わったのでしょうか。確かに、制度、教育内容、教育方法において大きな変化を経験しました。アメリカのプラグマティズム・経験主義的方法が導入され、教師の権威ということに対して子どもたちの自由や自発性の尊重ということが言われました。しかし、それらは間もなく「戦後の行き過ぎ」というような理由をつけられて、軌道修正の試みがなされ、平和教育も政治的偏向教育という汚名を着せられて押しつぶされて行きます。政府は高度経済成長を迎えるずっと以前から戦後の荒廃から立ち直る経済立国の道を追求し、学校教育はそのためのいわば企業戦士創出の役目を担わされることになりました。

 日本の教育において形式的には変わったけれども、戦前にも戦後にも共通して内容的に、ほとんど変わっていない点があるのではないかと私は考えています。それは超越者である神の前に責任をもって立つ個人という人間観を持っていないという点であります。明治政府は疑似宗教として天皇制を国民に押しつけましたが、そもそも日本人は天皇を超越的な神と考えたわけではないと思います。天皇は、偉人が死ねば神として祭られるいわゆる祭神という意味での神と目されたのでしょうが、庶民の感覚では生きている人間である天皇はそういう意味においてさえ、神とは考えられなかったのが実状であったと思います。戦後の天皇の「人間宣言」は言ってみれば、明治政府の疑似宗教創設、そして以後の政権の現人神信仰強制の失敗の確認でしかなかったと思います。

 ところが悪いことには、戦後教育は戦前の天皇制疑似宗教教育を真の宗教教育であるかのように誤認し、「あつものに懲りてなますを吹く」譬えのように、教育における宗教的なるものを一切拒否し、私立学校のなかでのみそれを許した、ということです。子どもたちは優秀な企業戦士として、あるいは国家の官吏として役立つ学力をつけた人間になるか、それとも目上の命令に従順で団体的に行動できるだけの人間になるように、競争と選抜の中で教育されて来ました。

 日本の伝統になってしまった学校にすべてを委ねる家庭というあり方もこのような学校教育のやり方を追認し、あるいは補強する役目を果たしました。繰り返し言えば、超越者である神の前に責任をもって立つ人間、これは別の角度から見れば、超越者である神の子どもとして同胞である他のすべて人々に対して、企業の戦士や国家の役人としてでなく、一人の人間として対することができる人間であるわけですが、そういう人間は日本の場合、学校の中ではもちろん、家庭においても、育ててこられなかったのです。日本においてはキリスト教は大きな力を持っていません。神道や仏教もそういう役割を果たしていません。特定の宗派が教育を独占することは問題があることはたしかですが、超越者に対する畏敬の念を持たせるという宗教教育をしないことが、科学をもってすべてを測ろうとする多くの人々によって支持され、暗黙の承認を与えられていることが大きな問題である、と私は思います。

 最後になりましたが、統合的教育ということで私が考えていることは次のようなことです。integrate,integration,integratedという英語の言葉は統合・統一・完全・融合・融和というような意味を含んでいます。統合とは、いくつかの要素、側面をばらばらのままにせず、まとめ、合体させ、統一的なものとして完全にする、ということだと言えます。

 従って、統合的教育とは、人間がさまざまの側面を持っており、知性的・感情的・意志的・身体的側面だけでなく社会的な側面や宗教的・道徳的側面を調和的に発達させるべきであるという考えに基づいて行われる教育のことだと考えることができます。

 全面的・調和的発達ということは理想ではあっても、現実的にはある面に秀で、他の面ではそれほどでないということがあります。あらゆる面での発達ではなくても、各々の子どもたちが彼の可能性として発達させることができるものを発達させること、そのための機会を提供することは大切ですが、すべてにおいて秀でることを強調しすぎることは大多数の子どもたちを少数の子どもたちの犠牲にすることにつながると思います。

 しかし、それらの諸側面のなかで、宗教的な側面だけは特別の、例外的な地位を占めています。なぜなら、それは人間の地平、人間自身の内部だけの問題ではなく、人間と自然との関係、人間と人間との関係に関わるものでもなく、人間と超越者である神との関係に関わることだからです。この関係は創造主と被造物との関係であり、そのことを抜きにして他のすべての関係はそもそも成立しないからです。

 教育学の歴史の中では調和的発達の教育という言い方で統合的教育を強調した人の一人としてペスタロッチという人の名前を挙げることができます。彼は頭と手と心の調和的発達と言いましたが、これら三つは同列ではなく、心の面が他の二つの面を支配しなければならない、と主張しています。そしてペスタロッチにとって、心の面というのは心理学的ないしは精神医学的な意味ではなくて、道徳的・宗教的な意味での人間のあり方のことでした。超越者である神の前で人間の分際を弁えることができるような人間のあり方を認める教育のことです。現代の学校教育はまさに頭と手の発達だけを行おうとする、あるいは手さえなくて頭だけを発達させる教育をしているのではないでしょうか。いま学校の中で起こっている多くの問題は心の面を無視していることに起因しているのではないでしょうか。現象的に起こってくるさまざまの問題に場当たり的に対処していても、肝心要のところが抜かされていますから、状況は悪化するばかりです。人間存在の超越的次元が無視される場合には、他のすべての面において優秀ではあるけれども、あるいはそうであればあるだけいっそうヒュブリス・傲慢に身を任せる人間を作り出す結果に終わると思います。

 人間がヒュブリス・傲慢を捨てることは絶望的に困難なことなのでしょうか。私は真の科学者は超越者の前に謙遜に膝を屈めることができると思います。人間にヒュブリス・傲慢を植え付けるような科学は似非科学であると思います。創造主である生ける神に立ち帰る以外に自然の破壊も戦争もとどめることはできず、人間の真の尊重も達成されないと言わなければなりません。 

 私は教育を人間の仕事だと言って来ましたが、実はユダヤ教・キリスト教には伝統的に「神の教育」、ギリシャ語でパイデイア・テウーあるいはパイダゴーギア・テウーという考え方があります。これは神が人間を教え給い、導き給うということです。神が父であり、人間は神の子どもであるわけですから、父である神の教えを受けることなしに、神の子どもである人間は成長し、完成へと向かうことができないということであります。旧約聖書の詩編の冒頭の箇所でも、創造主であり、主宰者であり、審判者でもある神の教えを愛し、神の導きに従うことがいかに幸いなことであるか、それに反して神に逆らう者の道は滅びに至る、と歌われています。

 私はここで、西暦150年から215年まで生きたギリシャ教父の一人、アレキサンドリアのクレメンスという人の『パイダゴーゴス』という書物の内容のごく一部を紹介したいと思います15。彼は教育者(パイダゴーゴス)と教師(ディダスカロス)を概念的に区別し、前者は人間を有徳的な生活(ソーフロノス・ビオス)へ導き、後者は人間を知的な生活(エピステーモニコス・ビオス)へと導くと言います。クレメンスによれば、神は同時にこの意味でのパイダゴーゴスであり、ディダスカロスであります。彼はこの書物では神のパイダゴーゴスの面を取り上げたわけです。後にアウグスティヌスやトマス・アクィナスはクレメンスのいうディダスカロスの面をデ・マギストロすなわち教師論という形で取り上げ、神がいかなる意味で教師であるのか、そしていかなる意味で人間の教授活動は成立するのかということを照明説や能動知性論を展開しながら説明しました。

 クレメンスに戻りますと、彼はパイダゴーゴスである神は人間の道徳教育ないし性格形成(エートポイア)に関わられるのだと言います。人間は神に似せて創造された神の似姿であり、神から出たのですから神に帰らなければならないのです。人間はしかし、原罪によって神へ帰る道から逸脱し、あらぬ方向へとさまよわざるを得ない存在であります。「人間を愛し給う神」(ホ・ピラントローポス・テオス)は逸脱しさまよう人間を、時には情念の混乱や性格の歪みから生じる魂の病を治療する医者として、時には神へと帰る道を走る走者である人間を正しい方向へ正しい走り方で走るように指導し訓練し監督するトレーナーとして、時には悔い改め・回心(メタノイア)を要求する厳しい裁き手として、勧告・説得・奨励・懲罰によって導かれる「教育者」(パイダゴーゴス)である、とクレメンスは言います。

 ギリシャ語の「教育」(パイダゴーギア)という言葉は「子どもの指導」(パイドーン・アゴーギア)という意味である、とクレメンスは言っています。彼によれば、この子どもは、まず第一に「人間を愛し給う神」(ピラントローポス・テオス)の「愛し子」(ピレートン)である人間のことを指しておりますから、従って人間の指導者すなわち教育者は神であります。人間の世界における教育はこの「神の教育」の模倣においてしか成立しないとクレメンスは考えたのです。そうだとすれば、神を拒否する、あるいは無視する教育は原理的にはあり得ないはずです。しかし、近代世界は「神の教育」を認めず、教育とは大人が子どもを、国家の指導者が国民を、企業のトップが労働者を教育することだとしか考えなくなりました。しかし、本当はクレメンスが見たように、人間は大人であっても、神の子どもであり、まず「神の教育」を受けるべき存在なのです。その「神の教育」に倣う者として人間である大人は自分たちの子どもを教えることができ、国家の指導者は国民を教育することができ、企業のトップは労働者を教育することができるのです。そのことを否定する近代世界においては、子どもは大人がすることを見て、国民は国家の指導者がすることを見て、労働者は企業のトップがすることを見て、それらと彼らが教えていることとの間にギャップ・矛盾・欺瞞を見てしまうのです。そのような人間的なレベルでのいわゆる教育が成功するはずのないことは明らかである、と私は思います。知識・技術の伝達としての教授ということでは成功したかに見える近代学校制度はエートポイア・道徳教育・人間的善の促進としての教育という点では完全に行き詰まらざるを得ない状態に陥っているのではないでしょうか。それは現代世界が罪というものを犯罪の領域に閉じこめ、人間の定めた法律に違反することだけを罪だ考え、被造物である人間が創造主である神を認めないこと、神の掟に違反することを罪とは考えない状況と平行しています。

 ユダヤ・キリスト教の神は単なる超越者ではなくて、人間を愛し、人間を導き、人間に懲罰を与えるために、歴史のなかで人間に積極的に介入される方であり、旧約・新約両聖書はまさに歴史における神の人間への関与の記録であると言ってもよいと思います。新約において神の啓示は完了したと言われていますが、今世紀の初め1917年にポルトガルのファティマで、聖母マリアが3人の子どもたちの前に出現され、現代の人類に対する神の警告を子どもたちに託されたということをヴァティカンは公式に認めました。私はこれは、聖母が子どもたちを通して、現代の人類に「神の教育」を認めるように呼びかけられたのだ、と理解することができると思います。神は大人たちのヒュブリス・傲慢を打ち砕くために、子どもたちを「神の教育」の道具とされ、人間に真の謙遜を教えられていると、私は思います。

 神の教育に基づくその模倣としての人間の教育こそが、私には統合的教育であるように思われます。そのような教育が果たして世界に、そして日本に確立あるいは回復できるのかどうか、私にはわかりませんが、そのためには人類が傲慢を棄て、謙虚になれるようにまず神を信じる者たちが祈ることから始めるしかないと思います。                            

                                          終わり


(第16回 カトリック社研中部セミナー 統合的人間教育を考える 1996-10-12の発表原稿に若干の加筆訂正を行った)

                   

1)ゲオルク・ピヒト、斉藤義一監修/大野篤一郎・福島正彦・浅野遼二訳、『続・いま、ここでーアウシュヴィッツとヒロシマ以後の哲学的思索ー』、法政大学出版局、1992,

p.550+13

2)上掲書、p.296.

3)以下の文献を参照せよ。

*アウシュヴィッツ関連文献

・ルドルフ・ヘス、片岡啓治訳、『アウシュヴィッツ収容所−所長ルドルフ・ヘスの告白遺録−』、サイマル出版会、72

・シモン・ラックス、ルネ・クーディー、大久保喬樹訳、『アウシュヴィッツの奇蹟−死の国の音楽隊−』、音楽の友社、74

・ヴィクトル・フランクル、霜山徳爾訳、『夜と霧−ドイツ強制収容所の体験記録−』、フランクル著作集1、みすず書房、77

・キティ・ハート、吉村英朗訳、『アウシュヴィッツの少女』、時事通信社、83

・プリーモ・レーヴィ、竹山博英訳、『アウシュヴィッツは終わらない−イタリア人生存者の考察−』、朝日新聞社、84

・平和博物館を創る会・平和のアトリエ編、『アウシュヴィッツの記録』、三省堂、85

・宮田光雄、『アウシュヴィッツで考えたこと』、みすず書房、86

・早乙女勝元、『アウシュビッツと私』、草の根出版会、改装版、88

・武田龍夫、『アウシュビッツ幻想紀行』、サイマル出版会、88

・マリア・ヴィノフスカ、岳野慶作訳、『アウシュビッツの聖者コルベ神父』、聖母の騎士社、88

・青木進々、『アウシュヴィッツとその背景』、グリーンピース出版会、89

・国立オフィシエンチム博物館ほか編、青木進々訳、『アウシュヴィッツ収容所−写真ドキュメント 6ヶ国版− 』、89

・<アウシュヴィッツに消えた子らの遺作展>を成功させる会編、『テレジン強制収容所−アウシュヴィッツに消えた子どもたち:絵画記録−』、ふるぷ出版、91

・チャイヤ・シュトイカー、エリザベート・グッテンベルガー、金子マーティン編訳、『ナチス強制収容所とロマ−生還者の体験記と証言−』、明石書店、91

・K.スモーレン、『アウシュヴィッツの悲劇』、柳原書店、92

・F.K.カウル、日野秀逸訳、『アウシュヴィッツの医師たち−ナチズムと医学−』、三省堂、93

・ジュディス・S.ニューマン、千頭宣子訳、『アウシュヴィッツの地獄に生きて』、朝日新聞社、93

・アルヴィン・マイヤー、三鼓秋子訳、『アウシュヴィッツの子どもたち』、思文閣出版、94

・ソール・フリードランダー編、上村忠男ほか訳、『アウシュヴィッツと表象の限界』、未来社、94

・ティル・バスティアン、石田勇治ほか編著、『アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘』、白水社、95

・木村愛二、『アウシュヴィッツの争点』、リベルタ出版、95

・野村路子編集構成、『写真記録:アウシュヴィッツ:ホロコーストの真実』、ほるぷ出版、95

*ヒロシマ・核兵器・ヒバクシャ関連文献

・豊田利幸:『核戦略批判』、岩波新書568、65

・H.コルディコット:『核文明の恐怖−原発と核兵器−』、岩波現代選書、79

・高榎尭:『現代の核兵器』、岩波新書195、82

・H. ローゼンバーグ;中尾ハジメ、アイリーン・スミス訳:『アトミック・ソルジャー』、社会思想社、82

・J.A.メドベージェフ著;梅林宏道訳、『ウラルの核惨事』、技術と人間、82

・J.F.ケナン;佐々木担、文子訳:『核の迷妄』、社会思想社、84

・春名幹男:『ヒバクシャ・イン・USA』、岩波新書308、85

・O.E.ケリー;T.H.サッファー:『カウントダウン・ゼロー原爆兵士の黙示録ー』、社会思想社、85

・M.ロワン=ロビンソン著;高榎尭訳:『核の冬』、岩波新書314、85

・M.カルドー;陸井三郎訳:『戦争論と現代−核爆弾の政治経済学−』、社会思想社、86

・C.コーフィールド:『被曝の世紀−放射線の時代に起こったこと』、朝日新聞社、90

・S.ファース著・河合伸訳:『核の海−南太平洋非核地帯をめざして−』、岩波書店、90

・桐生広人:『南の島のヒバクシャ−フォト・ルポ−』、リベルタ出版、90

・豊田利幸、飯島宗一、牧二郎編著:『太平洋の非核化構想』、岩波新書150、90

・中国新聞「ヒバクシャ」取材班:『世界のヒバクシャ』、講談社、91

・前田哲男:『非核太平洋 被爆太平洋−新編 棄民の群島−』、筑摩書房、91

・中川保雄:『放射線被曝の歴史』、技術と人間、91

・日本科学者会議・編:『地球環境問題と原子力』、リベルタ出版、91

・高木仁三郎:『核の世紀末ー来るべき世界への構想力ー』、農文協、91

・ウラル・カザフ核被害調査団編:『大地の告発ー戦慄のコバルト爆弾疑惑ー 』、リベルタ出版、93

・アルバカーキー・トリビューン編、広瀬隆訳:『マンハッタン計画 プルトニウム人体実験』、小学館、94

・C.ノーウッド;棉貫礼子、河村宏訳:『胎児からの警告−危機に立つ生命環境−』、新評論、82

・E.H.スターングラス:『赤ん坊をおそう放射能−ヒロシマからスリーマイルまで−』、新泉社、82

・M.ブラウン;棉貫礼子、河村宏訳:『荒れる大地−死を呼ぶ有毒廃棄物−』、筑摩書房、83

・A.イーレシュ他著;瀧沢一郎訳:『核に汚染された国−隠されたソ連核事故の実態−』、文芸春秋、92

・M.ダントーニオ;亀井よし子訳:『アトミック・ハーベスト−プルトニウム汚染の脅威を追求する−』、小学館、95

・吉田文彦:『核解体−人類は恐怖から解放されるか−』、岩波新書396、95

・豊崎博光:『核の陰を追って−ビキニからチェルノブイリへ−』、NTT出版、96

・豊崎博光:『アトミック・エイジ−地球被曝はじまりの世紀−』、築地書館、96

原子力発電・反原発関係文献

・技術と人間編集部・編:『原子力発電の危険性』、技術と人間、76

・反原発事典編集委員会・編:『反原発事典』1:[反]原子力発電・篇、現代書館、78

・反原発事典編集委員会・編:『反原発事典』2:[反]原子力文明・篇、現代書館、79

・H.コルディコット:『核文明の恐怖−原発と核兵器−』、岩波現代選書、79

・樋口健二:『闇に消される原発被曝者』、三一書房、81

・田原総一朗:『原子力戦争』、講談社文庫、81

・高木仁三郎:『プルトニウムの恐怖』、岩波新書、81

・槌田敦:『石油文明の次は何か』、農文協、81

・C.ノーウッド;棉貫礼子、河村宏訳:『胎児からの警告−危機に立つ生命環境−』、新評論、82

・E.H.スターングラス:『赤ん坊をおそう放射能−ヒロシマからスリーマイルまで−』、新泉社、82

・M.ブラウン;棉貫礼子、河村宏訳:『荒れる大地−死を呼ぶ有毒廃棄物−』、筑摩書房、83

・市川定夫:『いのちの危険信号』、技術と人間、83

・高木仁三郎:『核時代を生きる−生活思想としての反核−』、講談社現代新書699、83

・伊原辰郎:『原子力王国の黄昏』、日本評論社、84

・堀江邦夫:『原発ジプシー』、講談社文庫、84

・川辺茂:『魚は人間の手では作れないー原発で苦しむ漁民の立場からー』、樹心社、84

・R.L.ラシキー;三輪妙子、井上礼子訳:『カレン・シルクウッドの死』、社会思想社、84

・原子力発電に反対する福井県民会議:『高速増殖炉の恐怖−もんじゅ差止訴訟−』、緑風出版、85

・原子力資料情報室:『放射性廃棄物−下北・幌延を核のゴミ捨て場にするな−』、85

・高榎尭:『核廃棄物−安全に処理する方法はあるのか−』、岩波ブックレット、85

・高木仁三郎:『いま自然をどう見るか』、白水社、85

・赤木昭夫:『チェルノブイリの放射能』、岩波ブックレット、86

・天笠啓祐:『原発はなぜこわいか』、高文研、86

・土井淑平:『反核・反原発・エコロジー−吉本隆明の政治思想批判−』、批評社、86

・原子力資料情報室:『ヨーロッパ反原発の旅』、86

・反原発運動全国連絡会・編:『反原発新聞』0-100

号、野草社、86

・広瀬隆:『東京に原発を!』、集英社文庫、86

・経セミ増刊:『チェルノブイリ原発事故』、日本評論社、86

・北村博司:『芦浜原発はいま−芦浜原発20年史−』、現代書館、86

・室田武:『新版・原子力の経済学』、日本評論社、86

・佐藤進:『現代科学と人間』、三一書房、86

・高木仁三郎:『チェルノブイリ・最後の警告』、七つ森書館、86

・高木仁三郎:『原発事故−日本では? 』、岩波ブックレット、86

・槌田敦:『エントロピーとエコロジー−「生命」と「生き方」を問う科学−』、ダイヤモンド社、86

・内橋克人:『原発への警鐘』、講談社文庫、86

・朝日新聞社原発問題取材班:『地球被曝−チェルノブイリ事故と日本−』、朝日新聞社、87

・甘藷珠恵子:『まだ、まにあうのなら−私の書いたいちばん長い手紙−』、地湧社

87

・藤田祐幸:『ポスト・チェルノブイリを生きるために−暮らしと原発』、御茶の水書房、87

・原子力資料情報室:『原子炉危険性国際研究』、87

・原子力資料情報室:『食卓にあがった死の灰−チェルノブイリ事故による食品汚染』、 1

・2 、87

・U.グーバレフ;金光不二夫訳:『チェルノブイリの黙示録ー石棺』、リベルタ出版、87

・樋口健二:『原発被曝列島』、三一書房、87

・広瀬隆:『危険な話−チェルノブイリと日本の運命−』、八月書館、87

・久慈力:『チェルノブイリ黙示録−原子力国家の崩壊』、新泉社、87

・田代ヤネス和温:『チェルノブイリの雲の下で』、技術と人間、87

・高木仁三郎他:『われらチェルノブイリの虜囚』、三一書房、87

・麻生丈士:『原発を読む−チェルノブイリ・ノート−』、八月書館、88

・安斎育郎:『放射能・そこが知りたい』、かもがわ出版、88

・安斎育郎:『がん当たりくじの話−国境なき放射能汚染−』、有斐閣、88

・B.イーズリー;里深文彦監修、相良邦夫、戸田清訳:『性から見た核の終焉』、新評論、88

・「岩佐裁判の記録」編集委員会・編:『原発と闘う−岩佐原発被曝裁判の記録−』、八月書館、88

・NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム:『ヒロシマ・残留放射能の四十二年』、日本放送出版協会、88

・鎌田慧:『日本の原発地帯』、河出文庫、88

・R.P.ゲイル他:『チェルノブイリ−アメリカ人医師の体験−』上下、岩波新書、88

・土井淑平:『原子力の神話の崩壊−ポスト・チェルノブイリの生活と思想』、批評社、88

・弘中奈都子他編:『放射能の流れた町−スリーマイル島原発事故は終わらない−』、阿吽社、88

・別冊宝島:『推進か? 廃炉か? 決定版・原発大論争』、JICC出版局、88

・現代農業:『反核・反原発ふるさと便り−土と潮の声を聞け』、農文協、88

・原子力資料情報室:『プルトニウムが降ってくる−プルトニウム空輸の危険性−』、88

・原子力資料情報室:『出力調整−その危険と矛盾−』、88

・広瀬隆:『チェルノブイリの少年たち』、太郎次郎社、88

・広瀬隆:『眠れない話−刻々と迫りくる日本の大事故−』、八月書館、88

・広瀬隆:『下北半島の悪魔−核燃料サイクルと原子力マフィアの陰謀』、JICC出版、88

・広瀬隆:『北陸が日本地図から消える日−能登原発恐怖の疑惑−』、JICC出版、88

・広瀬隆・広河隆一:『四番目の恐怖』、講談社、88

・倉沢治雄:『原子力船「むつ」−虚構の航跡−』、現代書館、88

・松岡信夫:『ドキュメント・チェルノブイリ』、緑風出版、88

・中島哲演:『原発銀座・若狭から』、星雲社、88

・西尾漠:『原発の現代史』、技術と人間、88

・自治労原発問題研究会・編:『原発事故から身を守る−防災・自治・くらし』、第一書林、88

・柳沢桂子:『放射能はなぜこわい−生命科学の視点から−』、地湧社、88

・M.ガムバロフ他:『チェルノブイリは女たちを変えた』、社会思想社、89

・原子力資料情報室:『自然放射線もあぶない』、89

・反原発全国集会88実行委員会・編:『脱原発へ歩みだす』、七つ森書館、89

・広瀬隆・編著:『原発がとまった日−1億2000万人のための脱原発読本−』、ダイヤモンド社、89

・伊良子序:『スリーマイル島への旅』、星雲社、89

・三輪妙子・編著:『女たちの反原発』、労働教育センター、89

・NHK 取材班:『いま、原子力を問う』、日本放送出版協会、89

・名取弘文:『子どもと話そう原子力発電所』、農文協、89

・F.ポール・山本楡美子訳:『チェルノブイリ』、講談社文庫、89

・シチェルバク・松岡信夫訳:『チェルノブイリからの証言』正・続、技術と人間、89

・佐原勉・編著:『六ケ所村では何が起こっているのか−原発核燃料サイクルQ&

A』、ラジオ技術社、89

・島田恵:『いのちと核燃と六ケ所村』、八月書館、89

・高木仁三郎:『巨大事故の時代』、弘文堂、89

・山本知佳子:『ベルリンからの手紙−放射能は国境を越えて−』、八月書館、89

・阿部功:『原発を子供たちに残せますか? 』、現代書林、90

・朝日新聞「原発問題」取材班:『チェルノブイリ・汚染大地・5年目の報告』、朝日新聞社、90

・C.コーフィールド:『被曝の世紀−放射線の時代に起こったこと』、朝日新聞社、90

・土井淑平:『環境と生命の危機−核のゴミは地球を滅ぼす−』。批評社、90

・原子力資料情報室:『原発は地球を救わない−地球温暖化問題と原発−』、90

・原子力資料情報室:『セラフィールド、ラ・アーグに生きる人びと−再処理工場のほんとうの話』、90

・G.メドベージェフ・松岡信夫訳:『内部告発−元チェルノブイリ原発技師は語る−』、技術と人間、90

・田中三彦:『原発はなぜ危険か−元設計技師の証言−』、岩波新書、90

・坂東弘美:『とどけウクライナへ−私たちのチェルノブイリ救援日誌』、八月書館、91

・樋口健二:『アジアの原発と被曝労働者』、八月書館、91

・樋口健二:『これが原発だ−カメラがとらえた被曝者−』、岩波ジュニア新書、91

・広河隆一:『チェルノブイリ報告』、岩波新書、91

・広瀬隆:『最後の話−死の灰と世紀末−』、八月書館、91

・J.マクソーリ;浜谷喜美子訳:『シャドウの恐怖ー核燃料再処理工場で汚染された人々の運命ー』、ジャプラン出版、91

・中川保雄:『放射線被曝の歴史』、技術と人間、91

・日本科学者会議・編:『地球環境問題と原子力』、リベルタ出版、91

・高木仁三郎:『核の世紀末ー来るべき世界への構想力ー』、農文協、91

・滝川康治:『幌延−核のゴミ捨て場を拒否する−』、技術と人間、91

・綿貫礼子:『大地は死んだ−ヒロシマ・ナガサキからチェルノブイリまで』、藤原書店、91

・原子力資料情報室:『原発事故はどうおこるか−チェルノブイリより危険な軽水炉』、92

・小出裕章:『放射能汚染の現実を超えて』、北斗出版、92

・Z.A.メドヴェジェフ・吉本晋一郎訳:『チェルノブイリの遺産』、みすず書房、92

・M.ロビンソン;鮎川ゆりか訳:『ピーター・ラビットの自然はもう戻らない』、新宿書房、92

・瀬尾健:『チェルノブイリ旅日記ーある科学者が見た崩壊間際のソ連ー』、風媒社、92

・槌田敦:『原発安楽死のすすめ』、学陽書房、92

・田中三彦:『空中鬼を討てー原発・地球環境「非常識」のすすめ』、ダイヤモンド社、92

・山本定明;淡川典子:『原発事故の起きる日−緊急避難はできるだろうか−』、技術と人間、92

・J.ディブリン、沢田朋子・松村美也訳:『太陽がふたつ出た日−マーシャル諸島民の体験−』、紀伊国屋書店、93

・反原発出前のお店編;高木仁三郎監修:『反原発出前します』、七つ森書館、93

・核戦争防止国際医師会議+エネルギー・環境研究所著;田窪雅文訳:『プルトニウム−核時代の危険物質をいかに扱うべきか−』、ダイヤモンド社、93

・西尾漠:『脱!プルトニウム社会』、七つ森書館、93

・西尾漠:『プルトニウム生産工場の恐怖ー漠さんが語る六ケ所「核燃」施設ー』、八月書館、93

・鈴木真奈美:『プルトニウム=不良債権』、三一書房、93

・高木仁三郎編:『プルトニウムを問うー国際プルトニウム会議・全記録ー』、社会思想社、93

・原子力資料情報室:『出口のない核燃料サイクルー世界のプルトニウム・廃棄物政策ー』、93

・ベラ・ベルベオーク/ロジェ・ベルベオーク著、桜井醇児訳:『チェルノブイリの惨事』、緑風出版、94

・原子力資料情報室編:『再処理−その徹底検証−』、原子力資料情報室、94

・原子力資料情報室編:『いま、再処理の是非を問う−「再処理を考える青森国際シンポジウム」報告集−』、94

・広瀬隆=文・橋口穣二=撮影:『ドイツの森番たち』、集英社、94

・核燃料輸送反対全国交流会編:『放射能が走る−核燃料輸送白書−』、日本評論社、94

・小林圭二:『高速増殖炉もんじゅ−巨大核技術の夢と現実−』、七つ森書館、94

・アラ・ヤロシンスカヤ著;和田あき子訳:『チェルノブイリ極秘−隠された事故報告−』、平凡社、94

・高木仁三郎+原子力資料情報室編:『高木仁三郎が語るプルトニウムのすべて』、原子力資料情報室、94

・高木仁三郎:『プルトニウムの未来−2041年からのメッセージ−』、岩波新書、94

・榎本益美著・小出裕章解説:『人形峠ウラン公害ドキュメント』、北斗出版、95

・広河隆一:『チェルノブイリから広島へ』、岩波ジュニア新書251、95

・広瀬隆:『柩の列島−原発に大地震が襲いかかるとき−』、光文社、95

・M.ダントーニオ;亀井よし子訳:『アトミック・ハーベスト−プルトニウム汚染の脅威を追求する−』、小学館、95

・広河隆一:『チェルノブイリの真実』、講談社、96

・今中哲二ほか:『チェルノブイリ10年−大惨事がもたらしたもの−』、原子力資料情報室、96

・緑風出版編集部編:『高速増殖炉もんじゅ事故』、緑風出版、96

・豊崎博光:『核の陰を追って−ビキニからチェルノブイリへ−』、NTT出版、96

・豊崎博光:『アトミック・エイジ−地球被曝はじまりの世紀−』、築地書館、96

4)ピヒト、上掲書、序文、p.5.

5)・古川清治、山田真、福本英子、『バイオ時代に共生を問う−反優生の論理−』、柘植書房、89

 ・福本英子、『生物医学時代の生と死』、技術と人間、89 等を参照せよ。

6)S.マーフィー他、綿貫礼子、里深文彦訳、『生物化学戦争−悪夢のシナリオ−』、現代教養文庫、85

を参照せよ。

7)ダン・カーズマン、松岡信夫訳、『死を運ぶ風−ボパール化学大災害−』、亜紀書房、90

8)水俣病に関しては以下の文献を参照せよ。

・石牟礼道子:『苦海浄土−わが水俣病−』、講談社、69

・五十嵐文夫:『新潟水俣病−おそるべき昭和電工の水銀公害』、合同出版、71

・原田正純:『水俣病』、岩波新書B113、72

・石牟礼道子編:『水俣病闘争 わが死民』、現代評論社、73

・砂田明:『祖さまの郷土 水俣から』、講談社、75

・三島昭男:『哭け、不知火の海ー水俣に捧げた鎮魂の闘い−』、三一書房、77

・最首悟:『生あるものは皆この海に染まり』、新曜社、84 

・羽賀しげ子:『不知火記−海辺の聞き書』 水俣=語りつぎ 1、新曜社、85

・原田正純:『水俣病は終わっていない』、岩波新書293、85

・原田正純:『水俣病にまなぶ旅−水俣病の前に水俣病はなかった−』、日本評論社、85

・鬼塚巌:『おるが水俣』、現代書館、86

・水俣大学を創る会編:『共生への模索−水俣大学構想』、二期出版、1988

・土本典昭:『水俣映画遍歴−記録なければ事実なし』 水俣=語りつぎ 2、新曜社、88

・最首悟編:『出月私記−浜元二徳語り』 水俣=語りつぎ 3、新曜社、89

・原田正純;『水俣・もう一つのカルテ』 水俣=語りつぎ 4、新曜社、89

・原田正純:『水俣が映す世界』、日本評論社、89

9)ヘルベルト・グルール、辻村誠三、辻村透訳:『収奪された地球−「経済成長」の恐るべき決算−』、東京創元社、84、pp.125-127.     10)

ピヒト、上掲書、第12章 科学的政策助言と環境保護、p.318.

11)ピヒト、上掲書、第16章 人間的環境の価値秩序、pp.364-365参照.         

12)ピヒト、上掲書、第16章 人間的環境の価値秩序、p.365.

13)ピヒト、上掲書、第12章 科学的政策助言と環境保護、p.326参照.

14)同上、p.326-327.

15)三上 茂、アレクサンドレイアのクレメンスにおける「教育」について−『教育者』第一巻を中心にして−、アカデミア人文・社会科学編、第43号、1986を参照。

以上、1998年2月28日発行の「社会問題と倫理」ブックレット2、統合的人間教育を考える、南山大学社会倫理研究所、p.4-47より転載

 

作成日  :1998年03月01日

最終更新日:1999年06月07日

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