ファチマ・ニュース

カトリック・ファミリー・ニュース2004年1月号から

ファチマにおける異教徒間プログラム

ジョン・ヴェナリ

カトリック・ファミリー・ニュースは先月、ファチマにおける諸宗教間の会議:「人間の現在、神の未来、聖なるものに関連した聖域の場所」について報じた。私は2003年10月12-13日に開催されたポルトガルでのこの会議に参加した。

ジャック・デュピュイ(Jacques Dupuis)神父およびミヒャエル・フィッツジェラルド(Michael Fitzgerald)大司教を含む会議の話し手たちは出席者たちに、カトリック教徒は非カトリック者たちをカトリック教会へ回心させようとするべきではないと語った。これは、新しいエキュメニカルな体制に従えば、非カトリック者たちはすでに「神の統治」の部分であり、救いのためにカトリック教会に回心する必要はないからである。

カトリックであり続けるためにカトリック教徒が信じなければならない決定された教義である「カトリック教会の外にはいかなる救いもない」という主題についてデュピュイ神父は嫌悪感を示してこう言った:「フィレンツェ公会議の身の毛のよだつようなテキストをここで引き合いに出す必要はまったくない」と。デュピュイ神父はまた対話の目的は「キリスト者がよりよいキリスト者になり、そしてヒンドゥー教徒がよりよいヒンドゥー教徒になること」を助けることであるとも言った。

リスボン首都大司教枢機卿、ファチマ聖堂の長、レイリア・ファチマの司教そして使徒座代表は皆、デュピュイ神父の演説に拍手した。その演説において、他の多くの侮辱もあったが、彼は教会の決定された教義を公然と非難した。

次の日、ヴァチカンのミヒャエル・フィッツジェラルド大司教は聴衆にこう語った。「デュピュイ神父は昨日他の諸宗教の人々との関係の確立についての神学的基礎を説明した。」簡単に言えば、フィッツジェラルド大司教はデュピュイ神父の異端説を賞讃したのである。

会議における日曜日のセッションは仏教、ヒンドゥー教、イスラム教、アングリカン、東方正教会そしてカトリックの代表者たちからの証しを含んでいた。このセッションにおいてインド、ヴァイランカンニ(Vailankanni)にあるカトリック・マリア聖堂のレクトール、アルル・イルダヤム(Arul Irudayam)神父はエキュメニカルな仲間関係のさらなる発展として、今やヒンドゥー教徒たちがカトリック教会内部で彼らの異教徒の儀式を執り行っていると自慢した。フィッツジェラルド大司教を含む会議の代表者たちはこのマリア聖堂が今や偶像崇拝の諸儀式に使われていることを喜んだ。ファチマ聖堂が同じようなやり方で神聖さを汚されるのは後どのくらいしてからなのだろうか?

ポルトガル・ニュース11月1日号はこの会議がファチマを一つの異教徒間の聖堂に変える計画の一部であると発表した。ファチマの隔週新聞ノティシアス・デ・ファチマ(Noticias de Fatima)もその出来事について報じた。その10月24日号のフロント・ページには赤色の太字タイプの見出しが派手に付けられた:「種々様々の信条の聖域」と。同じノティシアス・デ・ファチマの8ページは「聖堂、宗教的多元主義のために開かれる」という記事が掲載された。その小見出しはこう続いている。「ファチマの聖堂は異なった諸宗教に対して一つの普遍義的な使命、また歓迎の使命を引き受ける」。

ポルトガル・ニュースおよびノティシアス・デ・ファチマの両者はその陳述をこう特徴づけた。「ファチマの将来は異なった諸宗教が混合できる一つの聖堂を経験しなければならない」と。ノティシアス・デ・ファチマはこれらの言葉をフロント・ページの写真入り説明文として印刷した。そしてポルトガル・ニュースはこれらの言葉をファチマ聖堂のレクトール、モンシニョール・ゲッラ(Guerra)に帰した。

ファチマ聖堂のジャーナル

一つの小さなさらなるニュースがファチマの新しい汎宗教的冒険に関してポルトガルから届いた。今回はファチマ聖堂それ自身のジャーナル、ヴォス・デ・ファチマ(Voz de Fatima)からである。この新聞の11月17日号は会議について二つの小さな記事を載せた。その二つの記事は両方とも、ファチマにおける汎宗教的計画は未来の道であるという記事である。ファチマを一つの「異教徒間の聖堂」に変えると言われている計画は言及されなかった。肯定も否定もされなかった。しかし悲劇的にジャーナルは熱のこもった言葉で異なった宗教間の会議について、そしてファチマの新しいエキュメニカルな方向について語った。

「専門家たち、信仰における成長の例としての諸々の聖域を目指す」と題された最初の記事はファチマ会議の締めくくりの所見を要約した。「ヴォス・デ・ファチマ」はこう言った。「この会議におけるいくつかの宗教の代表者たちの出席の例は...『異なった宗教間の対話は何かあるものの支持あるいは放棄ではなくて、むしろ信仰そのものの必然性である』注2)から、主催者たちによって...強調された」と。

これは非常に重大なことである。ここでファチマ聖堂の公式新聞はその読者に、汎宗教的対話の新しい概念--それは会議それ自身の定義によって、われわれは非カトリック教徒をカトリック教会に回心させる努力をしないということを意味する--が「信仰そのものの必然性」であると告げているのである。

カトリック教徒が偽りの諸宗教の暗闇にいる人々を真の信仰へ回心させることをもはや企てないということがどのように「信仰そのもの」の必然性であり得るのであろうか?

ヴォス・デ・ファチマは次にこう書く。「ファチマ聖堂のレクトールであるモンシニョール・ルチアーノ・ゲッラは対話--この場合には異なった諸宗教の間の対話であるが--を諸々の橋に比較しながら、同じ見解を表明した。「われわれは未来においてわれわれがそれらを当てにすることができるかどうかを見出すために諸々の橋の基礎を分析することを意図している」と彼は主張した。彼の意見では、ファチマはエキュメニカルな対話そして異なった宗教間の対話の強化において「不可欠の役割」を果たすのである。

この陳述はノティシアス・デ・ファチマがモンシニョール・ゲッラに帰したことに似ている。そこで彼はこう言った。「それは第一歩である。われわれはポルトガルにおける技術者たちに似ている。彼らはわれわれが未来においてそれらに信頼できるかどうかを見るために橋の構造を点検することによって始めるのである。」

われわれは、「構造を点検すること」についての申し立てられたモンシニョール・ゲッラの「注意」にもかかわらず、ファチマ聖堂は、聖堂の公式のジャーナルに従えば、今やエキュメニカルな計画を開始したと見なしてもよいだろう。

ヴォス・デ・ファチマにおける第二の記事は宗教間対話のための教皇立委員会委員長、ヴァチカンのミヒャエル・J. フィッツジェラルド大司教を引用している。フィッツジェラルドも会議の講演者だった。そしてその中でフィレンツェ公会議を非難したデュピュイ神父の異端的な講演を賞讃した。

「ヨハネ・パウロ二世と共に進展した宗教間の対話」と題された記事はこのように始まる。「宗教間対話のための委員会議長はファチマにおける国際会議の議事の間に、カトリシズムが諸宗教を見るその見方が変わったと指摘しながら、他の諸宗教に門戸を開くヨハネ・パウロ2世の行動を賞讃した。」

「その任務はまだ残っている。そしてわれわれはイエズス・キリストを告げ知らせるが、しかしわれわれがそうするやり方は異なっている。」教会は「他の諸宗教における聖なるもののしるし、ヨハネ・パウロ二世と第二ヴァチカン公会議以前にはなされなかった議論の諸点を認め」始めているからである。

フィッツジェラルド大司教はさらに続けてヨハネ・パウロ二世の新しいエキュメニカルな諸発議に賛意を表した。彼は聖なるものの「共同の探求」において諸宗教は「ますます神なきものになっている世界の世俗化に直面するために諸力を和解させる」べきであると言う。彼はまた、教会の中にはこの新しい宗教間の努力を受け入れない人々がいるということを認めた。

「伝統を理解する彼らのやり方に非常に堅くしがみつく人々がいる」とミヒャエル・フィッツジェラルド大司教は言った。「これらの段階に批判的である人々がいる。しかしわれわれの答えは、われわれに反対する人々でさえ、すべての人々との対話でなければならない。」

「伝統を理解する彼らのやり方に非常に堅くしがみつく人々がいる」ことについて、私はフィッツジェラルド大司教に同意する。しかしそうしている人々は伝統的なカトリック教徒ではなくて、エキュメニストたち自身である。汎宗教的な諸活動のような諸々の新奇なことを含む「生ける伝統」に道をあけるためにその真の意味から伝統をねじ曲げたのは公会議後のエキュメニストたちである。彼らは「聖職者は新奇さを好むことから遠く、遠く離れていなければならない」と警告した教皇聖ピオ十世を無視している。

教皇聖ピオ十世はその近代主義反対の回勅において伝統を守る義務について次のように書いた。

「しかし、カトリック教徒にとっては、何物も第二ニケア公会議の権威を取り去らないであろう。そこではそれは『異端者たちの不敬虔なやり方に従って敢えて教会の伝統をあざけり、ある種の新奇さを発明し、...あるいは悪意または悪知恵によってカトリック教会の正当な諸伝統のどれか一つでもを転覆させようとする人々』を断罪している。...それゆえに、ローマ教皇、ピオ四世およびピオ九世は次の宣言の信仰告白への挿入を命じたのである。『私は使徒的および教会の諸伝統ならびに他の諸々の慣例と教会の諸法令を最も堅固に認めかつ奉ずる。』」注3)

そして第二ニケア公会議は不可謬的に次のように教えている。

「もし誰かある者が教会のどの書かれたあるいは書かれていない伝統でもそれを拒否するならば、その者は破門さるべし。」注4)

エキュメニズムは決定されたカトリック教義をあざけると同様に「教会の伝統をあざける」。それは教会の歴史を通じて断罪されてきた汎宗教的諸活動を誇りにする。注5)エキュメニズムの名において、今日の教会指導者たちはイエズス・キリストの唯一の真の教会を諸々の偽りの信条と同一の地平に置く汎宗教的「アッシジの精神」のような「諸々の新奇さを発明した」。これらの指導者たちはまた、彼らが非カトリック者たちを「見る」カトリシズムの「やり方を変え」ようと試みるのと同じように、「教会の書かれたそして書かれていない諸々の伝統を拒否する」。

このことの一つの明白な例は以前に言及された。ジャック・デュピュイ神父はこのファチマ会議において公然と、新しいエキュメニカルな宗教のために道をあけるためにフィレンツェ公会議の一つの決定された教義を、拒否されなければならない「身の毛のよだつようなテキスト」と呼んだ。フィッツジェラルド大司教は単にデュピュイ神父の話を賞讃するだけではなく、後に教皇聖ピオ十世および第二ニケア公会議によって決定された伝統を正当にも固守するカトリック教徒を嘲笑した。このようにわれわれは「伝統を理解する」彼らの近代主義的「やり方に最も堅固にすがりつく」のはエキュメニストたち自身であるということを見るのである。

枢機卿との「対話」

公会議後の教会がどのように非カトリック者を「見るそのやり方を変えた」かを議論する前に、我々はまず、エキュメニカルな教会指導者たちが、新しいエキュメニカルな政策について説明を求めるカトリック教徒たちとの対話に対して開かれているというフィッツジェラルド大司教の陳述に向かって以下のように言う。

われわれは、実際、そのような「対話」の一つの見本を持っている。

一つのやりとりが会議のときに聖ピオ十世会からの若者のグループとリスボンの枢機卿総大司教、ホセ・ド・クルス・ポリカルポとの間に起こった。若者たちはポルトガルにおける聖ピオ十世会修道院長ダンジュー(Danjou)神父がエキュメニカルな出来事を非難するパンフレットをファチマにおいて35,000枚配布するために組織したので、そこにいた。注6)M.J.C.F.(Catholic Youth Group in France)からの若者たちはチラシを配布するのを助けるために特に南フランスから来ていた。

これらの若者たちのうちの数人が会議に参加した。DICI注7)によって公表された次のインタビューは土曜日の午後のポリカルポ枢機卿の講演の後に、M.J.C.Fのメンバーたちとポリカルポ枢機卿との間で行われた。

M.J.C.F.:閣下、私は言葉の厳密さを求めたいのです。あなたは講演の中で「各々の宗教は真摯に実践されるときは神へと導く 」と言われました。しかし、ファチマのシスター・ルチアはオス・アペロスの中で神の十戒をコメントしながら、こう言っています。「私たちの崇拝に値するのは唯一の神です。他の神々は無であり、価値がなくそして私たちのために何もすることができません」と。われわれは神についてのこれら二つの見方をどのように和解させるべきなのですか?

ポリカルポ枢機卿:しかし、君、そのような見方は流行遅れだ。シスター・ルチアが話しているそれらの神々とは何なのか。われわれキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、われわれは皆同じ神を持っているのだ。

M.J.C.F.:(沈黙、驚嘆のあまり仰天して、目を大きく開いている。)

ポリカルポ枢機卿:もちろん、信仰はキリスト中心のものでなければならない。しかし他の諸宗教はキリストに向かって進歩しているのだ。各々は多かれ少なかれ、進んでいるのだ、それだけのことだ!

M.J.C.F.:しかし、われわれはイスラム教徒あるいはユダヤ教徒と同じ宗教を持っていません。それでは、われわれは同じ神を持っているとどのようにして言うことができるのですか?

ポリカルポ枢機卿:私は、若いときたくさん勉強した、よ。もし君がキリスト教徒なら、君がそうだと言う通り、それは文化の問題なのだ。それは君がそう教えられたからだ。イスラム教徒にとって、それはまた同じことなのだ。

M.J.C.F.:しかし、閣下、エキュメニズムはどこまで遠く行くのでしょうか?

ポリカルポ枢機卿:各々の宗教は君に教える何かあるものを持っている。他の諸宗教の経験は非常に大切だ。われわれは彼らから多くのことを学んだ。

M.J.C.F.:しかし、コーランにはそれでもこう書かれています。「キリスト教徒あるいはユダヤ教徒をあなたの友人と見なしてはならない」と。

ポリカルポ枢機卿:君、君はコーランを読んだのかい?

M.J.C.F.:ええ、2回!

ポリカルポ枢機卿:アラビア語で?

M.J.C.F.:いいえ。しかしわれわれの宗教は啓示に基づいています。いわゆる預言者モハメッドは本当に啓示の一部分を受け取ることができたのでしょうか?

ポリカルポ枢機卿:君は下手な翻訳を読んだに違いない。イスラム教は君に教えるべきたくさんのことを持っている。

M.J.C.F.:黙示録の中で、使徒聖ヨハネは偽りの預言者たちに注意するようにわれわれに警告しています。モハメッドは偽りの預言者ですか?

ポリカルポ枢機卿:(彼は神経質になってきた)若者よ、その答えの全責任を君に残す。

枢機卿は出て行くために彼らを払いのけた。しかし若者の一人が少し彼を引き留めた。

M.J.C.F.:閣下、あなたは私の質問に答えませんでした、そうですね?

ポリカルポ枢機卿:エレミアの時代には、モハメッドは偽りの預言者と考えられたであろうと言われたかもしれない。

枢機卿はそれからその若者を払いのけながら、そしてさようならを言わずに立ち去った。

注目しなさい、われわれは「若者を愛する」ほほえむ公会議後の高位聖職者たちの時代にいると考えられているのだ。しかしファチマでのこれらの若者たちは、青年の日に際だって見えるつまらない若者、人からものをだまし取ったロックン・ローラーではなくて、自分たちの宗教を知り、今日のエキュメニズムが永遠のカトリックの教えと実践とに矛盾していることを枢機卿に丁重に問いただしたカトリック教徒であった。若者のこのグループに対する枢機卿の微笑みはなかった。彼らが彼に出した質問に直接に答えるのに、ただ軽蔑とあざけりと拒否だけがあった。

翌日、入り口は三人の人間によって監視された。そしてM.J.C.F.の若者は中に入るのを許されるためにそれぞれ身分証明書を二度を示さなければならなかった。

一人の司祭がそのときドアのところで彼らを呼び止めた。「君たちは入ってはいけない!」

M.J.C.F.:しかしわれわれは許可証を持っています。

司祭:よかろう。しかしそのときたった一つの質問もしてはいけない!

さて、これらの若者はただ対話において枢機卿に関わろうと試みただけである。彼らはただ、次の日に、会議における他のメンバーたちに対話において関わろうと望んだだけである。しかし、彼らは、永遠のカトリック真理に基づいて、厳しい質問をしたために脇へ押しのけられ、沈黙させられそして警備されたのである。その司祭はそれから、これらの若者がどんなぶざまな質問もすることがないことを保証するために会議の間中彼らの背後にとどまっていた

このやりとりから新しいエキュメニカルな宗教が一人の誠実な批判者を遇することができないということは明らかである。それは、すべての時代のカトリック信仰に直面するとき、カードの家[吹けば飛ぶようなもの]である。それゆえ、フィッツジェラルド大司教が新しいエキュメニカル精神に反対する人々と喜んで「対話」していると言うとき、M.J.C.F.とポリカルポ枢機卿との間の上述のやり取りがわれわれに、この「対話」がどのように進むかの一つの観念を与えている。

エヴァンジェリゼーションと再定義された宣教

フィッツジェラルド大司教はカトリシズムは非カトリック諸宗教を「見るそのやり方を変えた」と主張している。彼はまた教会は今なお「イエズス・キリストを告げている。しかしその中でわれわれがそうするやり方は異なっている」とも主張している。

それはどのように異なっているのか? そして「教会は」非カトリック者を「見るそのやり方」をどのように変えたのか?

その答は「宣教とエヴァンジェリゼーション」についての教会のプログラムの一部と今や言われている「対話と宣言」の新しい政策のうちに見出される。「エヴァンジェリゼーション」と「宣教」はもはや厳密に、われわれが非カトリック者を唯一の真の教会へと回心させるために働くということを意味しない。公会議後の教会における他の多くの要素がそうであるように、われわれの進歩主義的指導者たちはこれらの用語を再定義した。

エヴァンジェリゼーションと宣教との真の意味はわれらの主がご自分の使徒たちに与えられた命令から来ている。すなわち、「だから、あなたたちは行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。--父と子と聖霊のみ名において洗礼を彼らに授けなさい」(マテオ28:19)。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は罰せられるであろう」(マルコ16:16)。聖なる宣教師たちはキリスト教の設立以来非カトリック者たちの回心のために死んだ。

しかし今日ではどうか? われわれはもはやそうしない。われわれはさっき、これを「流行遅れの考え方」と呼んだ、そしてわれわれは皆同じ「神」を礼拝しているのだと行ったポリカルポ枢機卿のことを読んだばかりである。それゆえ、われわれは敢えて非カトリック者を回心させることを試みないのである。むしろわれわれは偽りの諸宗教のメンバーたちとの汎宗教的対話に関わるのである。彼らの、人間の作った信条の内部にとどまることが彼らにとっては神に完全に受け入れられ得るものであるということを非カトリック者に告げる一つの対話に参加するのである。

これが「エヴァンジェリゼーション」と「宣教」の新しい概念である。それは「対話と宣言」--これは宗教間対話に関する1991年のヴァチカン文書の名称である--の新しいエキュメニカルな政策の一部である。ここには新しい体制がどのように働くかが示されている。われわれは非カトリック者たちにカトリック信仰を宣言する。なぜなら、われわれはカトリシズムが最善の宗教であると信じる--それは「真理の十全さ」を持っているので--からである。そしてわれわれは、われわれがそれを宣言する人々がまたそれが最善であると考えることを、またカトリックになることを選択することをも希望する。

しかし、もし彼らがカトリックにならないならば、そのときそれもまたすばらしいことである。彼らは彼らの偽りの宗教において完全に神に受け入れられ得る。なぜなら、--デュピュイ神父が彼の演説の中で言ったように--カトリック教徒と非カトリック者とは「神の支配における共同メンバー」であるからである。それゆえ、われわれは単純に彼らと対話をし、そして平和的な共存において共に働く。あるいはフィッツジェラルド大司教の言葉を用いるならば、われわれは「世界の世俗化に立ち向かうために」そして「他の諸宗教の人々の間により大きな平和と調和ともたらすために」お互いに働き合うのである。

これが、「エヴァンジェリゼーション」と「宣教」についての公会議後の教会の考えを構成する「対話と宣言」の新しい構成概念である。それが、ジャック・デュピュイ神父が彼の講演のなかで汎宗教的実践と宗教間対話を教会の「エヴァンジェリゼーションの使命」の一部として定義した理由である。そして彼は彼の主張を強化するために宗教間対話委員会からの1984年文書を引用したのである。

同じように1991年ヴァチカン文書「対話と宣言」は「キリストを宣言すること」を偽りの諸宗教との「対話」と同じ地位に置いている。その文書は言う。「ちょうど宗教間対話が教会の使命における一つの要素であるのと同じように、われらの主における神の救いの働きの宣言はもう一つの要素である。...一つを選びそして他を無視あるいは拒否するという問題はあり得ない。」注8)この1991年ヴァチカン文書に従えば、われわれは単にキリストを宣言しなければならないだけではなく、また唯一の真の教会へと回心する意図をもたない非カトリック者たちとも「対話し」、そして彼らの偽りの宗教を神への正当な道として認めなければならないのである。

そこで、最高の地位にある教会指導者たちが、非カトリック的な意味をまとわせた「宣教」や「エヴァンジェリゼーション」のようなカトリック的な言葉を用いるとき、ごまかされてはいけない。

教義の軽蔑

「対話と宣言」の新しいプログラムは諸世紀を通じての教会との妥協のない衝突である。

フィレンツェの公会議は「異教徒、ユダヤ教徒、異端者そして分離派は教会の外に」いる、そしてそのようなものとして、「死の前に」かれらがイエズス・キリストの唯一の真の教会、カトリック教会に加わらないならば、「永遠の生命に与る者であることは決してできない」と不可謬的に決定した。注9)

この真理に忠実であるトレント公会議のカテキズムは「不信仰者、異端者、分離主義者そして破門された人々は教会の囲いから排除」されると教えている。注10)換言すれば、プロテスタント、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、等々は地上における神の王国であるカトリック教会の部分ではない。注11)

数世紀後の教皇聖ピオ十世のカテキズムは変更なしに同じ真理を提供している。それはこう教えている。「真の教会の外部にいるのは、不信仰者、ユダヤ教徒、異端者、背教者、分離主義者そして破門された人々である。」それはさらにこう述べている。「ノアの箱船--それは教会の象徴であった--の外ででは洪水から救われることができなかったのとちょうど同じように、カトリック(普遍的)、使徒的、そしてローマの教会の外では誰一人救われることはできない。」注12)

教皇ピオ十一世は彼の、イエズスの聖心への人類の奉献において、この教えを具体化した。第二ヴァチカン公会議まで教会の公式の典礼の部分であったこの祈りは次のように書かれている。「なんじ、偽りの意見によって欺かれたるすべての人々、不和が彼らを分離せしすべての人々の王たり給え。まもなくただ一つの群と一人の牧者があらんために、彼らを真理の港と信仰の一致へと呼び戻し給え。偶像崇拝あるいはイスラム教の暗闇に未だ巻き込まれしすべての人々の王たり給え。彼ら皆を光と神の王国の中へ引き入れることを拒み給わざれ。」注13)

永遠のカトリック的教説に忠実なこの祈りはプロテスタントや東方正教会のような異端的また分離主義的グループのメンバーが教会のメンバーではないということを明らかにしている。そしてイスラム教徒と同じように、ヒンドゥー教徒や仏教徒のような、今なお偶像崇拝の暗闇に巻き込まれている人々は神の王国の部分ではない。

他の無数の例をあげることができるが、しかし偽りの諸宗教のメンバーについて諸世紀を通じてのカトリックの首尾一貫した教説を提示するには以上の引用で十分である。しかし、彼らの近代主義的夢想のために伝統的な教えを放棄している一つの新しいエキュメニカルな神学を構成する今日の「愛の文明」カトリック教徒によって不当にも拒否され、放棄され、軽蔑され、覆されているのがこの教えである。

新しい宗教

1963年に著名な神学者モンシニョール・デイヴィッド・グリーンストック(David Greenstock)は第二ヴァチカン公会議の間に、申し立てられた「現代の諸要求」に適合させるために一つの新しいエキュメニカルな神学を発明しようと試みる何人かの神学者たちがいる、と警告した。彼は、非カトリック者が一致と救いのためにカトリック教会に回心しなければならないという真理を何らかの仕方で拒否する一致の「新しい神学」はあり得ないと警告した。彼は「エキュメニカルな状況に適合させるたに一つの新しいエキュメニカルな神学を創り出そうとするいかなる試みも存在すべきではない」と書いた。注14)

しかしまさにこのことが第二ヴァチカン公会議において、そしてその直後の時期に起こったことである。フィッツジェラルド大司教の非カトリック者を見る「新しいやり方」はまさにモンシニョール・グリーンストックがトレント公会議および第一ヴァチカン公会議の裏切りとしてそれに反対して警告した「新しいエキュメニカルな神学」である。

実際、第一ヴァチカン公会議は、教皇でさえ(「カトリック教会の外では救いはない」というような)決定された教義を変えることはできないということを、不可謬的に教えた。

この点に関して、第一ヴァチカン公会議はこう教えた。「聖霊はペトロの後継者たちに、聖霊の啓示によって彼らが新しい教説を明らかにするように約束されたのではなくて、聖霊の助けによって彼らが使徒たちと信仰の遺産を通じて伝えられた啓示を厳粛に守るように、そしてそれを断固として保持するようにと、約束されたのである。」注15)

優れた神学者モンシニョール・ジョゼフ・クリフォード・フェントン(Joseph Clifford Fenton)は次のことを説明するためにこのテキストを用いた。「カトリック教義は不変である。...同一の真理は常に人々に神によって啓示されたものとして提示される。それらの意味は決して変わらない。」注16)

このように、教皇でさえ教説を変え、新しい教説を教え、あるいはカトリックの教説を、それが2000年間 教えられてきた仕方とは異なった仕方で解釈することはできない。

これらの人々--ファチマ聖堂レクター・モンシニョール・ゲッラ、ポリカルポ枢機卿、ジャック・デュピュイ神父そしてラッツィンガー、カスパー、ウォイティラという名の1940年代及び50年代の若い助祭たちでさえ--が、彼らの叙品の前に神に誓ったという近代主義に反対する誓約がこのことに付け加えられる。その誓約の部分はこうである。

「私は信仰の教説が正確に同じ意味において、また常に同じ趣旨において正統的な教父たちを通じて使徒たちからわれわれに伝えられたということを誠実に守ります。それゆえ、私は教義が一つの意味から他の意味へ、教会が以前に保持した意味とは異なって、進化したり変化したりするという異端的な誤った説明を完全に拒否します。

誓約の終りに彼らは神の前でこう誓う。

「私はこれらすべての条項を完全にそして誠実に守ること、そしてそれらを破ることなく保護し、教えにおいて、あるいは言葉あるいは書き物におけるいかなる仕方においても、それらからいかなる仕方でも逸脱しないことを約束します。このように私は約束し、これを私は誓約します。それゆえ神よ私を助けてください。そして私が私の手で触れている神のこれらの聖なる福音が私を助けてくださるように。」注17)

再び、モンシニョール・フェントンは1960年に、近代主義に反対する誓約をした後に近代主義を促進したいかなる司祭も自らを「カトリック信仰に反する罪人そして野卑な偽証者」として特徴づけるであろうと指摘した。注18)

悲劇的なことに、ファチマのこの汎宗教的会議に出た人々は、ローマにおける聖職者や最高の役職に至る高位聖職者と同様に、近代主義に反対する誓約をした人、そして今、昨日のカトリックの諸真理は今日の新しいエキュメニカルな宗教のために道をあけるために退けられ、あるいは手直しされなければならないと言う新しいエキュメニカルな宗教を促進している人、は彼らの誓約を破ったのである。彼らは、モンシニョール・ジョゼフ・クリフォード・フェントンの言葉で言えば、「カトリック信仰に反する罪人そして野卑な偽証者」である。

彼らはカトリック宗教を変化させないと神の前で荘厳な誓約をしたのである。そして彼rははそれを変えたのである。

われわれはこれらの人々のために祈らなければならない。しかしわれわれは彼らの悪い例に従ってはならない。またわれわれは、彼らがファチマにおける聖堂、聖母の訪問によって聖化された一つの場所を彼らの新しい異教徒間の宗教へと堕落させている間、怠けていてはならない。これらの人々、そして彼らのエキュメニカルな間違った信念のおかげで、それが触れるあらゆるカトリック的なものの神聖さを汚す汎宗教的「アッシジの精神」は今やファチマにおいて解き放たれている。

「沢山だ!」と言うべきときである。ファチマにおいて今進行中の侮辱に直面して、われわれはのんきのままであることは許されないであろう。もしわれわれが抗議をしないならば、もしわれわれが抵抗しないならば、もしわれわれが祝せられた御母に対するこの冒涜に一つの強力な反対をしないならば、そのときわれわれは聖母の子どもたちと呼ばれるにふさわしくないのである。

1)「ファチマは異教徒間の聖堂となるのか? そこにいた者からの報告」ジョン・ヴェナリ、カトリック・ファミリー・ニュース、2003年12月号、http://www.fatima.org/sprep111303.htmにあるウェッブにも掲載。

2)「ヴォス・デ・ファチマ」の両論考はJoseph Cain によって英語に翻訳された。

3)Pascendi 強調は筆者。

4)The Great Facade, p.28から引用。強調は筆者。

5)398 ADにカルタゴの公会議はこう教えた。「誰も異端者と共に祈ったり、あるいは詩編を歌ったりすることはいずれもしてはならない。そして教会の聖体拝領から切り離された者たちと、それが聖職者であれ、平信徒であれ、連絡を取り合う者は、破門されるべし。」Coun. Carth. iv, 72 and 73. Cited from The Sincere Christian, by Bishop George Hay,(James Duffy & Sons, Dublin - Imprimatur by G. J. Walsh, Archbishop of Dublin)p. 555.

6)同時にグルーナー神父のファチマ・クルーセイダーからのボランティアたちもまたChronology of Cover-up booklets を配布するためにファチマにいた。

7)Documentation Information Catholique Internationales, November 29, 2003 .(http://www.dici.org)

8)"Dialogue and Proclamation," No. 6. Taken from the Vatican web page.

9)Bull Cantate Domino issued by Pope Eugene IV at the Council of Florence, February 4, 1442.

10)Catechism of the Council of Trent, McHugh & Callan Translation,(Rockford: Tan, Reprinted 1982), p. 101.

11)モンシニョール・ジョゼフ・クリフォード・フェントンは「教会」という言葉は一つの非常に明確な意味を持っていると説明する。それは、地上における神の王国、神の契約の民、その外側では誰一人救われることができない一つの社会的単位を意味する。『「教会」という言葉の意味』、Msgr. Fenton, American Ecclesiastical Review, October, 1954. republished in the November 2000 Catholic Family News.(Reprint #519 available from CFN for $1.75)

12)The Catechism of Pope Saint Pius X,(First published in 1910, republished by Instauratio Press, Austria), pages 31 and 41.

13)ユダヤ教徒についてこの奉献はこう言っている。「御身の憐れみの眼をあの種族、かつての御身の選ばれた民の子らに向け給え。昔彼ら救い主の血を彼らの上に呼び下ろしたり。今彼らの上に救世と生命の好意を下し給わんことを。」

14)"Unity: Special Problems, Dogmatic and Moral," Father David Greenstock, The Thomist, 1963, J. Vennari, Catholic Family News, December, 2000.(Reprint #537 available from CFN for $1.7 post-paid).

15)Vatican I, Session III, Chap. IV, Dei Filius.

16)We Stand With Christ, Joseph Clifford Fenton,(Bruce, 1942), p.2.

17)Oath Against Modernism, issued by Pope Saint Pius X, September 1, 1910.

18)"The Sacrorum Antistitum and the Background of the Oath Against Modernism," Msgr. Joseph Clifford Fenton, The American Ecclesiastical Review, October, 1960, pp.259-260.

作成日:2004/01/12

最終更新日:2004/01/13

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