カロリング時代における「君主の鑑」-

--サン=ミイェルのスマラグドゥスとオルレアンのヨナス-

三上 茂


 われわれ日本人にはあまり耳慣れない「君主の鑑」(speculum regis sive principis; Mirror fo Princes; Fuerstenspiegel; miroir aux Princes)は、厳密な意味では、ヨーロッパ、特に中世に多く著された、世俗の支配者に宛てられた教会人の勧告の書物を指している1).本稿では、九世紀カロリング時代の前半に書かれたサン=ミイェルのスマラグドゥス(Smaragdus 750頃-825年以降)の『王の道』Via regia2)とオルレアンのヨナス(Jonas 780頃-842/43年)の『王の教育について』De institutione regia3)を中心にして若干の考察を試みるが、その前に第1節で、以上の厳密な意味での「君主の鑑」とは言えないが、広義に解すれば、「君主の鑑」に相応するものと見なされうる古代人の、支配者に対する勧告の書物や書簡についても触れながら、「君主の鑑」の系譜を簡単に辿ることにする4)。

一 「君主の鑑」の伝統

 まず、キリスト教ラテン西欧以外の世界について概観しよう。

 ギリシア、ビザンツの世界においては、紀元前370年にイソクラテス(Isokrates 前436/35-前338年)がキュプロス島のサラミスの若い王子ニコクレス(Nikokles)に与えた文書『ニコクレスへ』Pros Nikoklea、クリュソストモス(Chrysostomos; Dion Coceianus 40頃-112年以降)の『王の支配について』Peri Basileias、西暦一世紀から二世紀にかけてプルタルコス(Ploutaruchos 46頃-120年以降)が書いた『教育を受けていない君主に宛てて』Pros heegemona apaideuton、399年コンスタンティノポリスを訪問した際に、22歳の皇帝アルカディオス(Arkadios 在位395-408年)に宛てたキュレネの司教シュネシオス(Synesios 370/75-413頃)の『王の支配について』Peri Basileias、皇帝ユスティニアヌス一世(Justinianus I; Ioustinianos 在位527-65年)のための助祭アガペトス(Agapetos 6世紀)による『勧告の主要点の説明』Ektheias kephalaioon parainetikoon、皇帝バシレイオス一世(Basileios I 在位867-86年)が自分の名で息子のレオン(のちのレオン6世)[Leon VI 在位886-912年]のための大主教フォティオス(Photios 在位858-78年)に編纂させた『勧告の主要点』Kaphalaia parainetika、のちのアクリダmp大司教テオフュラクトス(Theophylaktos 在位1126年以後没)が、彼の弟子でミカエル七世ドゥカス(Michael VII Doukas 在位1071-78年)の息子コンスタンティノス(Konstantinos)のために与えた『王の教育』Paideia Basilikee、皇帝マヌエル二世パライオロゴス(Manuel II Palaiologos 在位1391-1425年)がその息子ヨアンネス(のちのヨアンネス八世パライオロゴス 在位1425-48年)のために与えた『王の行状の教え』Hypotheekai Basilikees agoogeesなどがある。

 ラテン世界では、セネカ(Seneca 前4/後1-65年)がその初期の弟子である皇帝ネロ(Nero 在位54-68年)に56年に与えた『寛容について』De clementia、詩人クラウディウス・クラウディアヌス(Claudius Claudianus 350頃-404年)の『称讃の辞』Panegyricus de quarto Consulatu Honorii Augusti における皇帝テオドシウス一世(Theodosius I 在位379-95年)からその息子、若いホノリウス(Honorius 在位395-423年)への挨拶などが挙げられるが、後者においては君主の鑑の要素と支配者称讃の要素が混じり合っている。

 次にキリスト教ラテン西欧の世界を見てみよう。

 アウグスティーヌス(Augustinus 354-430年)の『神の国』De civitate Dei の第5巻第24章、セヴィリャのイシドルス(Isidorus 560頃-636年)の王の定義、カルタゴのフェランドゥス(Ferrandus 546/47年没)が533年武官レギヌス(Reginus)に与えた勧告書簡、570年司教ブラガのマルティヌス(Martinus 515頃-79年)の『有徳な生のための規範』Formula vitae honestae、630年から700年のあいだにアイルランドで成立したと考えられる偽キュプリアヌス(Pseudo-Cyprianus)の『世の十二の濫用についての書』Liber de XII abusionibus saeculi などは、カロリング時代の君主の鑑に大きな影響を与えたものであるが、厳密に言えば、君主の鑑のジャンルには入れられない。

 ここで、君主の鑑とは区別されながら、それと密接に関連し、その先駆となった、メロヴィング朝およびカロリング朝の王たちに対する聖職者の勧告書簡を取り上げなければならない。ランスの司教レミギウス(Remigius 437頃-533年頃)がまだ異教徒であったクローヴィス一世(Clovis I 465/66-511年)の即位(428年)に際して送った書簡、アルルの司教アウレリアヌス(Aurelianus 551年没)のテウデベルト一世(Theudebert I 在位533-47年)宛ての書簡、ヴィエンヌの司教アウィトゥス(Avitus 450頃-518年)が洗礼を受けたばかりのクローヴィスに宛てた書簡、アングロ・サクソンの王たちに宛てたボニファティウス(Bonifatius 672/75-754年)の書簡、775年頃カール大帝(Karl der Grosse; Charlesmagne 在位768-814年)に宛てられたアングロ・サクソンの聖職者カスウルフ(Cathwulf)の書簡、アングロ・サクソン七王国の王たち(ノーサンブリアのエゼルレッド[Aethelred]、マーシアのエグフリッド[Egfrid]、ノーサンブリアのエアルトウルフ[Eardwulf; Eardulf]、マーシアのコエヌルフ[Coenwulf])やカール大帝の息子たちに宛てたアルクイヌス(Alcuinus 730頃-804年)の書簡などは、勧告だけでなく讃辞を含んだ混合形式である。これらの書簡では『旧約聖書』の王の模範(ダビデとソロモン)、正義(iustitia)・公正(aequitas)・敬虔(pietas)・謙遜(humilitas)・和合(concorddia)・柔和(mansuetudo)などの王の徳、パウロの『ローマの信徒への手紙』第13章に関連して王を「神に仕える者」(minister
Dei)、「神の代理者」(vicarius Dei)と捉える考え方などが述べられている。

 アクイレイアの総大司教パウリヌス(Paulinus 726/30-802/03年)がブルターニュの辺境伯フリアウルフのエーリッヒ
(Erich)に与えた『勧告の書』(796年頃)やアルクイヌスがブルターニュの辺境伯ウィド(Wido)に与えた『徳と悪徳の書』 De virututibus et vitiis liber (801/04年)などは、受け取り手が君主ではなくて、地方の有力者であり、したがって君主の鑑にとって本質的である君主の職務への顧慮を欠いている。

 オットー・エバーハルトによれば、「カロリング時代の最初の君主の鑑、したがってラテン西欧においてわれわれの知る最初に完全に仕上げられた君主の鑑はスマラグドゥスの『王の道』である」5)。スマラグドゥスは810年頃、これをカール大帝のために書いた6)。カロリング時代の代表的な君主の鑑はこのほかに、オルレアンのヨナスがアクイタニアのピピン一世(Pippin I 在位817-38年)のために書いた『王の教育について』 De institutione regia (831年頃)、セドゥリウス・スコトゥス(Sedulius Scottus 848-58頃活躍)が840年頃ロタール二世(Lothar II 在位855-69年)のために書いた『キリスト教的支配者についての書』 Liber de rectoribus christianis 、そしてランスの大司教ヒンクマルス(Hincmarus 804頃-82年)が873年カール二世禿頭王(Karl II der Kahre 在位840-77年)のために書いた『王の人格と王の職務について』De regis persona et regio ministerioが挙げられる。これらのうち、スマラグドゥスの『王の道』とヨナスの『王の教育について』は第二節と第三節で検討することにして、カロリング時代以後中世後期までの君主の鑑を列挙してみよう。

 1013年から1015年頃、ハンガリー王ステファン(Stephan)の名でその息子エメリッヒ(Emerich)のために著された『道徳の教育についての小著』 Libellus de institutione morum 、1002年ハインリヒ二世(Heinrich II 在位1044-77年)のために書かれた『マティルデの生涯』Vita Mathildis、1047年ハインリヒ三世(Heinrich III 在位1039-56年)に献呈サレタヴィポ(Wipo 1000以前ー46年以降)の『皇帝コンラート伝』 Gesta Chuonradi Imperatoris 、1159年ソールズベリのジョン(John; Johannes 1115/20-80年)の『ポリクラティクス』 Policraticus 、ブロアのペトルス(Petrus 1130/35-1211/12年)の『ヘンリー王との対話』 Dialogus cum regis Henrico(1174/83年)、ヴィテルボのゴデフリドゥス(Godefridus 1125頃-92/1200年)の『王の鑑』 Speculum regum (1180-83年)、ウェールズのギラルドゥス・カンブレンシス(Giraldus Cambrensis 1146頃-1223年)の『君主の教育について』 De principiis instructione (1180/1217年)、十三世紀半ばにフランス語で書かれたブロアのロベール(Robert 十三世紀)の『王子たちの教育』 L'enseignement des princes 、1246年頃スペイン語で書かれたアラゴンのハイメ一世征服王(Jaime I el Conquistador 在位1213-76年)の『知恵または教えの書』 Libre de saviese o doctrina やカスティーリャのフェルナンド三世(Fernando III el Santo 在位1217-52年)の求めに応じて編まれた『気品と誠実の書』 Libro de nobleza y lealtad (1250/63年)、十三世紀後半のフランシスコ会のトゥルネのギルベルトゥス(Gilbertus 1284年没)による『王と王子の教育』 Eruditio regum et principum (1259年)、ドミニコ会のボーヴェのウィンケンティウス(Vincentius 1190頃-1264年)による『貴族の子弟の教育について』 De eruditione filiorum nobilium と『王子の道徳教育について』 De moralis principis instructione 、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas 1225-74年)の『王制論』 De regimine principum ad Regem Cypri 、ルッカのトロメオ(Tolomeo; Bartholomaeus 1236頃-1327年)の『王制論』 De regimine principum 、十三世紀後半に最もよく読まれ、また各国語に翻訳されたアウグスティヌス隠修士会の修道士アエギディウス・ロマヌス(Aegidius Romanus 1242/47-1316年)の『王の統治について』 De regimine principum (1287年)、ドミニコ会士ロバート・ホルコット(Robert Holcot 1290頃-1349年)の『知恵の書註解』 Postilla super librum Sapientiae 、サンチョ四世(Sancho IV 在位1284-95年)が息子に与えた『罰と教え』 Castigos e documentos (1292/93年)などが書かれている。

 十四世紀に入ると国民国家への傾向と人文主義の影響が見られる。フアン・マヌエル(Juan Manuel 1282-1348年)の『階級についての書』 Libro de los estados (1327/32年)、ロペス・デ・アヤラ(Lopez de Ayala 1332-1407年)の『王宮の詩』 Rimado de palacio (1385年)、カストロヘリス(Castrojeriz)の『カスティーリャ註解』 Glossa castellana (1344年)、ラウール・ド・プレール(Raoul de Presles 1316-82年)の『共和国の道徳摘要』 Compendium morale rei publice
(1361/64年)、ジョン・ウィクリフ(John Wycliff; Wycliffe 1320/30-84年)の『王の職務について』 De officio regis(1397年)などが挙げられる。

 これ以外に、スラヴ世界とイスラム世界においても同様の伝統が受け継がれているが、ここではそれについて触れることはできない。

 以上、古代後期から十四世紀に至る君主の鑑の系譜を辿って、大まかに著作を列挙してきたが、そこから、王ないし君主が統治するところでは、連綿として君主の鑑という形での、主として聖職者からの支配者、特に皇帝や王に対する勧告、忠告、警告、倫理的・宗教的要請が行われてきたことが読み取れる。君主の鑑の標題はさまざまであるが、「鑑」(Speculum)、「教養」(eruditio)、「統治」(regimen)、「教育」(institutio)などの言葉がもちいられ、これらの著作の政治的・教育的目的を示している。

二 サン=ミイェルのスマラグドゥスの『王の道』

 サン=ミイェルのスマラグドゥスは750年頃おそらくアイルランドに生まれ、カステリオ修道院の院長職を805年頃引き受けた。彼の主要著作『修道士たちの冠』 Diadema monachorum は812年に、また『聖ベネディクトゥス修道院規則註解』 Expositio in Regulam S. Benedicti は816年に書かれたが、『王の道』は上述の通り、それより以前の810年にカール大帝のために書かれた9)。

 「王の道」(via regia)はギリシア語の basilikee hodos に相応する言葉であるが、いずれも「古代において、特別に建設された、直線的なそして確保された国道」10)を意味する。『旧約聖書』の『民数記』では via regia は via publica と等値されており、「王の道」は「公の道」なのである。モーセはエドム王に使者を遣わしてこう言わせる。「あなたの領土を通過させてください。....あなたの領土を通過するまで、右にも左にも曲がることなく、<王の道>を通って行きます」(『民数記』20・17)。スマラグドゥスは献呈書簡において『民数記』第21章第21節を引用しているが、その箇所はアモリ人シホンに言われた言葉である。スマラグドゥスはこれを比喩的に解釈して、王は天上の約束の祖国へと幸福な仕方で向かうために、王の道を通って急がなければならないと考える。「それは踏み慣らされた道であり、古代の聖なる王たちの足によってよく踏まれた道である」11)。スマラグドゥスは王の道を右に逸れても左に逸れてもいけないと言うが12)、また、右の道を王の道・徳の道として、それに対して左の道を奴隷の道・悪徳の道として語る13)。前者の場合では、王の道から逸れて曲がることが禁止されており、右に曲がっても左に曲がっても、王の道、徳の道から外れて、奴隷の道、悪徳の道を進むことになるのであり、後者ではまさにその二本の道が指摘されているのである。

 『王の道』の構成は献呈書簡と全32章から成り、第1章から第20章までは王の追求すべき諸徳を、第21章から第30章までは王が避けるべき悪徳を論じており、最後の第31・32章は主の助けの希求と祈りについて述べている。修道院長スマラグドゥスが王の徳として示すのは、当然キリスト教的な徳であり、それは修道者の徳と共通する点が多い。各章についての標題を見ると、スマラグドゥスが王の追求すべき徳、避けるべき悪徳として何を考えているかを読み取ることができる。第1章「神と隣人への愛」。第2章「主の掟の遵守」。第3章「畏れ」。第4章「知恵」。第5章「思慮」。第6章「単純さ」。第7章「忍耐」。第8章「正義」。第9章「誠実な裁判」。第10章「憐れみ」。第11章「業による主の讃美」。第12章「十分の一の捧げ物と初物」。第13章「富を天に蓄えること」。第14章「富の蓄えと死後の報い」。第15章「富を信頼しないこと」。第16章「富を誇らず、へりくだること」。第17章「平和」。第18章「正義の熱情」。第19章「慈しみ」。第20章「勧め」。第21章「傲慢」。第22章「ねたみと恨み」。第23章「悪に悪を報いること」。第24章「怒り」。第25章「へつらいへの同意」。第26章「貪欲」。第27章「借金」。第28章「裁判で報酬を要求すること」。第29章「不正な計量」。第30章「捕囚」。第31章「主の助けを求めること」。第32章「祈り」。

 これを見てもわかるように、『王の道』は、神および隣人への愛から始まって、祈りに終わるキリスト教的色彩の強い勧告であり、結局のところ、神を畏れ、その掟を守ること、隣人への愛の具体的な現れとしての政治的・法律的・経済的・社会的な正しさを王の道として要請している。

 彼が引用する典拠はすべて聖書であり、それは一行の短いものから十数行にわたる長いものまでさまざまである。『旧約聖書』の引用が159で、『新約聖書』の56の約3倍に当たるが14)、それはやはり王の模範の例として古代イスラエルの王たちがスマラグドゥスにとって最も適切だと考えられたからであり、特にダビデとソロモンを彼は模範としている。スマラグドゥスは聖書以外には、名前を直接挙げて引用してはいないが、たとえば、第7章でキュプリアヌス(Cyprianus 200/10-58年)の『忍耐について』 De bono patientiae を、第18章ではアウグスティヌスの『ヨハネ福音書講解説教』 In Iohannis Evangelium tractatus 第10説教を、第22章ではキュプリアヌスの『熱愛と嫉妬について』 De zelo et livore を自由に利用し、また第1章はバシレイオス(Basileios 330頃-79年)に帰せられていた『霊的な息子への訓戒』 Admonitio ad filium spiritualem から影響を受けている15)。

 先に見た各章の標題は徳と悪徳を羅列したようにも受け取れるが、そうではない。スマラグドゥスは王の徳を王の道として考察し、その道を通って王は歩き、走り、急がねばならないとしているように、天の国にまで通じている、一貫した道程・旅程を考えているのであって、各々の徳をばらばらに関連もなく並べているのではない。神と隣人を愛することが第一の段階、神の掟を守ることが第二の段階、神への畏れが第三の段階というふうに、それぞれの徳は王の道、徳の道の一階梯、一歩なのであり、それゆえにすべては関連し、全体としての道を形作っている。まっすぐに延びた道というイメージはどこからどこへとう出発点と到達点を考えさせるが、同時にその過程が重要である。スマラグドゥスはこの世とあの世を対比させることを好むが、道はそのあいだに走っている。ただし二本である。一本はこの世から永遠の救いへの右の道が、もう一本はこの世から永遠の滅びへの左の道が。道の全長はこの世の内に延びており、到達点だけがあの世にかかっている。われわれが通り、歩き、走り、急ぐのはすべてこの世においてである。行き着いて休らうか、苦しむかのいずれかだけが、あの世に属する。この二本の道が、追求すべき徳と避けるべき悪徳である。徳も悪徳もこの世に関わっており、われわれがいかに生きるかに関わっている。

 各々の徳が相互に関連していると同時に、個々の徳がそれに対応する悪徳と関連している。徳の道の道程がさまざまの徳によって成り立っていると同時に、また徳の道に平行して悪徳の道が走っている。愛・正義・平和・謙遜・知恵などが全体として徳を形成していると同時に、それに対応して憎しみ・不正・諍い・傲慢・愚かさなどが悪徳を形成している。スマラグドゥスは『王の道』の前半で徳を、後半で悪徳を取り上げるが、第21章の「傲慢」の箇所で、「悪を注意深く避ける人が善を安全に集める人よりも徳が小さいというわけではない」16)と語り、左の道である傲慢の悪徳は他の諸々の悪徳を養い、悪に同意する者を永遠の罰へ導くが、右の道である謙遜の徳は他の諸徳を養い、善く生きる者を永遠の生命に導くと述べている17)。

 徳と悪徳が道として語られるのは、それが歩かれる・踏まれる・走られる・急がれる・つまり実践・行為・業として問題にされるからにほかならない。勧告を受ける者は理解するだけでは足りない。徳を実践し、悪徳の実践から遠ざからねばならないのである。

 スマラグドゥスが語っていることは、われわれ一般の人間にもそのまま当てはまる点が多いが、しかし、彼は王に宛てて王の道を述べたのであるから、その点に関して考察しなければならない。

 スマラグドゥスは「王の職務」(regale officium)について第8章において論じている18)。彼が引用している『エレミヤ書』では次のように言われている。「正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない」19)。さらに、第9章の「裁き」を論じた箇所でも、彼は弱い人・貧しい人・孤児のための正しい裁判、寡婦・抑圧された者への支援、外国人・孤独な人の保護、悲惨な人・打ちのめされた人への援助を王の職務だとしている20)。第10章の「憐れみ」について述べた箇所でも貧しい人、寡婦、外国人、孤児に対する慈善の業を王に要求している21)。以下、第11章から第16章までの各章においてもスマラグドゥスは、収穫物や財産や富を寄留の外国人・孤児・寡婦のために施すべきことを要求する。要するに、スマラグドゥスは、ユダヤ・キリスト教の根幹である神と隣人への愛をその具体的な形において示している、あらゆる弱者・少数者への配慮を、支配者の職務・義務として繰り返し説いているのである。

 第18章における「王の職務」(ministerium regale)というスマラグドゥスの概念22)はパウロの「神に仕える者」(minister Dei[『ローマの信徒への手紙』13・4])にもとづくが、これは「神の代理者」(vice/vicarius Dei)の概念とともに、西欧の、特にキリスト教的支配者を規定する伝統的概念である23)。いずれにせよ、神に仕える者・神の代理者としての王は、その名が示す通り、まず神との関係においてその職務・義務を果たす者であり、彼の支配の基礎はまさに神の内にあると見られているのである。王のこのような把握は、自らを神の位置に置く異教的・ローマ的皇帝観とは根本的に異なる。スマラグドゥスが第1章から第7章にわたって、王が神に対して果たすべき義務を王の徳・王の道として述べるのは以上の理由による。神への関係にもとづいて人間への関係が定められる。第8章以下に述べられた他の、特に弱い人々に対する王の職務はそのような関連において理解されなければならない。

 神に仕える者である限りの王の職務に対して、神の代理者である限りの王の職務について言えば、ある点で神の立場に王が立つことになるので、他の人間、王としての自分に神から託されている臣下に対するさまざまの義務が課せられることになる。その職務にはたとえば、悪しき者を矯正し、改善し、抑制し、統制し、脅威を与え懲罰すること、臣下の悪しき行為に反対したりそれを禁止したりすることが含まれる25)。

 国政の担当者、等値の責任者としての王は神と隣人に対する義務を果たすために、知恵・思慮・単純さ・忍耐の徳を身に帯び、傲慢・妬み・恨み・怒り・貪欲の悪徳から身を遠ざけなければならない。

 王はまた、賄賂を取ること、悪に悪を返すこと、捕虜を取ること、裁判における不正な報酬を得ること、へつらう者の言い分に従うことなどを悪徳として避けなければならないし、適切な助言者の勧告を取り入れなければならない。

 以上の考察から明らかなように、スマラグドゥスはこの小さな論考において、キリスト教的支配者に対して聖書の教えにもとづいて、神に対する徳、自分自身に対する徳、他の人間に対する徳を巧みに関連づけながら示して見せたのである。かくして、彼の徳論は個人的・社会的・宗教的な拡がりを見せながら、王の責任と義務の拠ってきたる根源に迫っていると言うことができるであろう。徳論が徳目の羅列に終わらずに、有機的に連関を保ちながら生き生きとした、しかも深く基礎づけられた王への勧告、王の義務論・職務論として成功している例をわれわれはこのスマラグドゥスの『王の道』の内に見ることができる。それは修道院長から世俗の君主に贈られたささやかな、しかしきらりと輝くディアデマ(diadema 王の額を飾る宝石入りの帯状髪飾り)である26)。

三 オルレアンのヨナスの『王の教育について』

 サン=ミイェルのスマラグドゥスより30年ほど遅れて、オルレアンのヨナスは780年頃、彼と同じアクイタニア地方に生まれた。彼は818年から843年まで25年間オルレアンの司教を勤め、数々の教会会議に参加してその議事録の編集にも携わった。彼の著作はオルレアンと伯爵マトフリッド(Matfrid)の求めに応じて書かれた『一般信徒の教育について』 De institutione laicali 、トリノの司教クラウディウス(Claudius 827年頃没)の聖画像破壊(イコノクラスム)に関する意見の論駁を目的として書かれた『聖画像の崇敬について』 De cultu imaginum 、それと『王の教育について』が代表作である。これらの著作以外に、829年のパリ教会会議の議事録を執筆編集している。教会会議議事録と『一般信徒の教育について』および『王の教育について』は互いにある章が同一あるいは少しの違いが見られるといった関係がある27)。このようなことはスマラグドゥスの場合にも見られることで、当時としては稀なことではなかった。著作年代については、異なった見解があるが、『一般信徒の教育について』 が818/28年、『王の教育について』が831年、『聖画像の崇敬について』が彼が没する842/43年の少し前であろう。

 ヨナスは『王の教育について』をアクイタニアの王ピピン一世に宛てて書いた。ピピン一世はカール大帝の孫、ルートヴィヒ敬虔王(Ludwig I der Fromme 在位814-40年)の子で、カール大帝の死の年、814年に副王となり、817年に王の称号を得ている。その翌年の818年にはヨナスはオルレアンの、罷免されたテオドゥルフス(Theodulfus 760頃-821年)の後任司教となった。ヨナスがこの著作において用いた典拠は聖書とともに教父たちの著作であり、『旧約聖書』から55、『新約聖書』から37の合計92の引用28)、教父からは、ゲラシウス(Gelasius I 在位492-96年)、ルスペのフルゲンティウス(Fulgentius 462/67-532年)、セビリャのイシドルス、偽キュプリアヌス、アウグスティヌス、オリゲネス(Origenes 185頃-254年頃)、ベーダ・ウェネラビリス(Beda Venerabilis 673/74-735年)などの引用がなされており、彼の博識ぶりが窺われる。

 この著作は全部で17章から成っており、ピピン王宛ての書簡が前に付されている。書簡はピピン王に対して、以下になされる忠告に耳を傾けるように、聖書の言葉を引用しながら訴えている。そして、身体よりも魂のために配慮すること、己れの罪を神の前に告白すること、死をいつも目の前におくこと、審判の日を心にとどめることの四点を守るように勧めている29)。

 第1章と第2章においてヨナスは司祭の王に対する優位を論じ、王は司祭を遠sて神の律法に聴き従うべきであり、司祭は王に忠告し、勧告し、警告する権能と義務をもっていることを明らかにする。司祭・司教は神の前で王の救いについて弁明しなければならないからである。しかし、司祭が王の救いに責任をもつように、王は民の救いについて責任を負う。

 第3章ではヨナスは王の本質について論じる。その標題は「王とは何か、いかなる者でなけれならないか、何を避けるべきか」である。ヨナスは有名なセビリャのイシドルスの定義、「王とは正しく統治することからそう呼ばれる」(Rex a
recte regendo vocatur)30)を引き、王が正しく統治するという条件を満たさなければ王の名に値せず、暴君と呼ばれると言う。それゆえ、王は悪を斥けて善を行い、自らの善き業によって臣下に感化を与え、平和・協調・愛において人々を指導しなければならない。王は民のために神に弁明しなければならないから、彼らを言葉と模範によって敬虔と正義と慈悲の業へ燃え立たせなければならない。ヨナスはまた『申命記』を引用して、神への畏れ、律法の遵守、謙遜、正義の実践に注意を促す。さらに、彼は偽キュプリアヌスの『世の十二の濫用についての書』31)の第9巻をかなり長くj引用し、王の正義の内容について詳しく紹介している。王(rex)は彼自身正しい者(rectus)でなければならないが、同時に不正な者の矯正者(corrector)でなければならず、すべての臣下のために正す者(支配者)の職務(officium retoris)を遂行しなければならない。権力の濫用によって人々を抑圧しないこと、不公平な裁判を行わないこと、外国人・孤児・寡婦の庇護者となること、あらゆる不正な者を罰すること、教会を保護し、貧しい人を援助すること、正しい者を役職につけること、思慮のある人を助言者とすることなど、王の正義の内容はさらに述べられるが、これは祈りの時間、食事の時間にまで及んでいる32)。

 第4章においてヨナスは「王の職務」(regale ministerium)について論じる。彼は追うの職務は本来的には、神の民を導き、公平(equitas)と正義(justitia)をもって統治すること、彼らが平和(pax)と一致(concordia)を享受しうるように努力することであると言う。「神に仕える者」としての王の職務はまず第一に教会、聖職者、寡婦、孤児、貧しい人、乏しい人の擁護者(defensor)となることである。次に、王自身が、貧しい人の抑圧を見すごさないために、彼らの裁判を引きうけなければならない。

 第5章、第6章において彼は重ねて裁判について論じ、王が貧しい人の裁判を引き受けるべきこと、王の代理として公正な裁判官を任命すべきこと、王が不公平な裁判官や役人に自分の職務を委ねるならばそれは王の罪であることを協調する。ヨナスは王の正義を特に強調するが、それは神に対する敬虔(pietas)と人々に対する慈悲(misericordia)と相俟って王国の基礎を成す、王に必須の三つの徳のうちの一つである。彼は『旧約聖書』から多くの文章を引用したのち、こう言っている。「これらの言葉によって、敬虔、正義、慈悲が王国を安定させるということ、それに対して寡婦や孤児たちの侮辱、惨めな者に対する讒訴、違法な裁判そして正義の壊滅が王国を転覆させるということは非常に明らかである。それゆえに、多くの王国の崩壊も、その理由はそれらの王国が敬虔、正義、慈悲の土台をもたないからであって、すでに述べられたことはその土台に保証を与えるものである」34)。

 第7章において、ヨナスは王権の起源を論じる。王は祖先から王国を受けるのではなく、神から与えられるのであり、地上の王国は人間にではなく、神に帰せられる、王に王権を委ねるのは人間ではなくて神であるというのが、ヨナスの主張である。しかしながら、彼が「神の好意によって」(munere divino)王である者と「神の許しによって」(permissu
Dei)王である者を区別していることに注意しなければならない。敬虔に、正しくそしsて慈悲をもって支配する王は疑いもなく神によって支配しているが、不正に支配権を行使する者はただ神の許しによってのみ王であるにすぎない。後者については、ヨナスは、「私の怒りのうちに、私はあなたに王を与えよう」(『ホセア書』13・11)、「民の罪のゆえに、神は偽善者を王とされる」(『ヨブ記』34・30)という聖書の言葉を引用している35)。このような点に関して、ルヴィロンは次にように述べている。「その授与の形態がどのようなものであれ、王の権力はさまざまな条件によって制約された性格をもっていると思われる。もし王はその名にふさわしい職責を正しく果たさないならば、もし彼がその職務(ministere)をよく遂行しないならば、もし彼が正しく統治しないならば、君主はその王という名を失い、もはや暴君の名にしか値しない。そしてそのとき、彼の権威の輝きが単に失せてしまうばかりでなく、彼の息子や甥がその権威を受け継ぐことができないように抹消されてしまう。ソロモンはそのことの証人であって、彼の王権はもはや子供たちには受け継がれなかった。....王の権力は遺産としてではなく、義務、任務、職務として現れる」36)。王権は神によって王に委ねられているから、王は神の意志に従って統治を行わなければならない。「地上の王国の統一は人間の術策、願望、腕力によってではなく、徳と神の恵みのひそかな判断によって達成される」37).

 第8章において、ヨナスは臣下が王の権威に謙遜、従順に従い、王の救いのために祈り、王国の名誉のために力を尽くすべきだと述べる38)。彼はパウロの言葉を引用している。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、いまある権威はすべて神によって立てられたものだからです。したがって、権威に逆らう者は神の定めに背くことになります」(『ローマの信徒への手紙』13・1-2)。

 第9章ではヨナスは愛について述べ、神がわれわれを愛されたから、われわれも互いに愛し合うべきである、というヨハネの言葉を引いて、愛がなければ、その人の内に住むのは神ではなく、魂の敵だ、と主張する。愛がなければ善もありえない。愛がなければ、善を所有するどころか、憎しみ、嫉妬、貪欲、不和、偽り、無節制などのあらゆる悪がわれわれを支配する39)。

 第10章では、ヨナスは神の掟に背いた者たちに下された神の復讐の例を『旧約聖書』から挙げて、神の掟の無視によって断罪されることがないように王に警告する40)。

 第11章において、彼は信仰が言葉だけのものになって業をともなっていないこと、キリストの掟よりも人間の法律が尊重されていることを指摘し、初代教会の熱意が冷えて、形式的・外見的な信仰が支配していることに対して警告を発している41)。

 以下、信仰を得て悪を行う者は信仰がなくても善い業をなして死んだ者よりも罰が重いこと(第12章)、主日には教会へ出席し、また教会を祈りの場とすべきこと(第13,14,15章)、主の日を守り、ふさわしい聖体拝領をなすべきこと(第16章)が述べられる42)。

 第9章から第15章までは、ヨナスの論調はかなり手厳しく、現状が福音の理想からいかに離れているかを具体的に指摘したうえで、そのままでは救いではなくて、滅びが待っていると述べる。

 最後に第17章において、ヨナスはピピン王に対して彼の魂の救いと王国の栄誉を願いつつ、アウグスティヌスの『神の国』第5巻から皇帝幸福論を引用して巻を閉じる43)。

 以上、『王の教育について』の内容を簡単に紹介したが、全体の構成という点で振り返ってみると、まず第1・2章で司祭の権威と王の権力の関係が確定され、第3章から第8章において、王の本質とその任務、王国の基礎としての敬虔・正義・慈悲、王権の由来が神にあって人間にはないこと、王権が神に由来するゆえに、服従の義務が臣下や民に要求されることなどが論じられた。したがってこの部分が『王の教育について』の中心部分である。第9章では王と司祭、王と民を結び付ける愛の要としての位置を論じ、第10章以下第16章までの各章において、キリスト者としてすべての者に共通する義務を人々が遂行していない現実を抉り出したうえで、その履行を迫っている。ヨナスのこの構成は形式的にはそれほど均整が取れているとも言えないが、その宗教的・政治的な思想は聖書や教父の思想に裏打ちされて、内容的に深くまた重い。

 ヨナスの君主の鑑は、結局のところ、君主の権力が神に由来することから帰結する、君主の神に対する義務、彼が神から委ねられている「神の民」(populus Dei)に対する責任としての法的・経済的・社会的な保護に関して、神の民に対して霊的な面について責任を負う者としての聖職者の側から出された勧告だと言える。歴史的文脈の中で考えれば、ダイソンのようにこう言うこともできよう。「それは814年のカール大帝の死後、ルートヴィヒ敬虔王の統治の相対的な弱さのうちに、カール大帝の行政の非常に明白な特徴であった強固で徹底的な世俗的支配から自らを解放する--そして実際、世俗的な政府の行為に対する影響力を行使する彼ら自身の権利を確保する--好機を見たフランク王国の司教団の構成員たちの見解の手際のよい要約を提供している」44)と。しかし、これを近代においてそうであるような、完全に分離した独立の存在としての国家と教会のあいだの闘争だと取らない方がよい。ヨナスはキリストを頭とする普遍的共同体内部の役割分担を問題にしており、当面の問題として王の役割に焦点を当てているのである。王はなによりもまず正義にもとづいて統治しなければならない。神の言葉の保持者としての司祭・司教は、王が正義にもとづく統治をするように絶えず忠告し、そうでない場合に警告を発する役割を担っている。旧約の預言者の果たした役割を司祭・司教は果たさなければならない。王の主権の絶対性は主張されえない。神に仕える者としての王は同時に民に使える者でもなければならない。これがヨナスの主張の根本である。

結語

 以上、第二節と第三節で、カロリング時代前半の代表的な二つの君主の鑑について見てきた。この二つの著作はわずか20年ほどの間隔をおいて、激動する政治的・社会的な状況の中で、同じアクイタニア出身の聖職者によってそれぞれフランク帝国の君主に宛てて書かれた。二人の著者の置かれた状況はそれぞれ異なっていたであろうが、帝国の統一の過程で、世俗の君主によって任命され、簡単に解任されていた聖職者階級の一員でありながら、にもかかわらず君主の顔色を窺わず、へつらいに身をやつすことなく神の掟の遵守を君主に迫ったスマラグドゥスも、そしてまた、直接的な言及は避けながら、しかし王たちのまったく世俗的な権力闘争に心を痛めて、ピピン王に苦言を呈し、正義と慈悲にもとづく統治を説いたヨナスも、けっして過ぎ去ってしまった遠い1200年前の人物ではないように筆者には思われる。彼らには、もちろん、第一節で見たように、「君主の鑑」という連綿と受け継がれてきた伝統があった。しかし、彼ら自身がのちに続く伝統の基礎を強化した人物でもあった45)。

 王たちに宛てて「君主の鑑」がしきりに書かれたカロリング期の時代状況と現代日本の政治的・社会的状況を単純に比較することがもちろんできないが、さまざまの歴史的・社会的・文化的な条件の違いを認めたうえでなお、支配者の倫理についての考え方という一点に限って言うならば、その差はあまりに大きい。もちろん、カロリング期の時代にも現実の統治は「君主の鑑」が書かれること自体が表しているように、かならずしも理想的であったのではないであろう。しかし、彼ら支配者には厳しい、ある意味で絶対的な要求を絶えず突きつける者がいた。神を畏れ、愛し、正義を貫徹すると同時に、慈悲の心で民に奉仕すべきだという命令である。現代の日本ではスマラグドゥスやヨナスの役割を誰が果たせばよいのであろうか。「民の声は神の声」(vox populi vox Dei)ということをあまりに簡単に信じすぎない方がよいとも思われる。むしろ、われわれはもう一度、権力の根源は民にあるのではなくて、神にあるということを真剣に考えてみなければならないのではないだろうか。さもなければ、ヨナスがセビリャのイシドルスの言葉を借りて言うように、「<民の罪のゆえに、神は偽善者を王とされる>(『ヨブ記』34・30)。なぜなら、神がお怒りになるとき、民は彼らの罪にふさわしい支配者を支持するからである」46)という状況にわれわれは閉じ込められてしまうであろう。われわれがそういう状況に陥る危険性は常にあるのではないか。これは支配者だけの問題ではなく、民主主義の時代に生きるわれわれ自身の問題だということである。

1)以下の事典、文献を参照。
 P. J. Eberle, Mirror of princes, in: Dictionary of the Middle Ages, vol. 8, New York 1987, pp.434-436.
    H. H. Anton, Fuerstenspiegel, in: Lexikon des Mittelalters, Bd. 4, Muenchen 1989, Sp. 1040-1048.
    D. M. Bell, L'ideal ethique de la royaute en France au moyen age. D'apres quelques moralistes de ce
    temps, Geneve-Paris 1962, pp.7-28.

2)Smaragdus, Via regia, PL 102, 931-970.
3)J. Reviron, Jonas d'Orleans et son "De institutione regia". Etudes et texte critique, Paris 1930. オルレアンの  ヨナス/三上 茂訳 『王の教育について』、『カロリング・ルネサンス』(上智大学中世思想研究所編訳/監修 『中世  思想原典集成 6』)所収、平凡社、1992年、pp.314-377.
4)註1)に挙げた文献、特に H. H. Anton, op. cit.を参照。Cf. id., Fuerstenspiegel und Herrscherethos in der Karolin
   gerzeit, Bonn 1967, SS. 45-131; O. Eberhardt, Via regia. Der Fuerstenspiegel von St. Mihiel und seine literari-
   sche Gattung, Muenchen 1977, SS. 286-320.  さらに、W. Berges, Die Fuerstenspiegel des hohen und spaeten
   Mittelalters,(1938)Stuttgart 1952 を参照。
5)O. Eberhardt, op.cit., S. 304.
6)『王の道』の著作年代と受け取り人について、アントンは811年から814年のあいだにルートヴィヒ敬虔王に宛てられたものだと主張しているが、エバーハルトは814年以前ならカール大帝が、それ以後であればルートヴィヒが受け取り人だと主張している。後者の見解を取ったが、一般にはルートヴィヒに宛てたものという説が多い。
7)S. Hermann(Hg.), Sedulius Scottus, Quellen und Untersuchungen zur lateinischen Philologie des Mittelalters,
   I, 1, Muenchen 1906, SS. 1091. 三上 茂「九世紀後半カロリング時代の『君主の鏡』--セドゥリウス・スコトゥスの
 『キリスト教的支配者についての書』とランスのヒンクマルの『王の人格と王の職務について』--」、『アカデミア』第   59号(1994年)、pp.199-224.
8)PL 125, 833-856. 註7)の三上論文参照。
9)註6)を参照。
10)O. Eberhardt, op. cit., S. 503.
11)Smaragdus, op. cit., Epistola nuncpatoria (PL 102, 934B).
12)ibid., c. 4 (PL 102, 941D).
13)ibid., c.21(PL 102, 960C).
14)『旧約聖書』の中では『箴言』が44、『シラ書(集会の書)』33で『旧約聖書』からの引用の半数を占める。
15) H. H. Anton, Fuerstenspiegel und Herrscherethos in der Karolingerzeit, Bonn 1967, S176, Anm.220.
16) Smaragdus, op. cit., c. 21 (PL 102, 948A).
17) ibid., c. 21(PL 102, 960C).
18) ibid., c. 8 (PL 102, 947D).
19) 『エレミア書』22・3。 Smaragdus, op. cit., c. 8 (PL 102, 948A).
20) Smaragdus, op. cit., c. 9 (PL 102, 949B).
21)ibid., c. 10 (PL 102, 951A-B).
22)ibid., c. 18 (PL 102, 958B).
23)cf., H. H. Anton, Fuerstenspiegel und Herrscherethos in der Karolingerzeit, Bonn 1967, SS. 369-377;
     O. Eberhardt, op. cit., SS. 560-569.
24)Smaragdus, op. cit., c. 18 (PL 102, 958B).
25)Cf. ibid.
26)Smaragdus, op. cit., Epistola nuncpatoria (PL 102, 933B). スマラグドゥスが『王の道』にならってのちに修道士た
 ちのために『修道士たちの冠』 Diadema monachorumnを書いたことについては触れた。
27)J. Reviron, op. cit., pp. 47-56.
28)Cf., ibid., pp. 68-70.
29)Jonas Aurelianensis, Epistola ad Pippinum regem, in: J. Reviron, op. cit., pp. 129f.
30)Idem, De institutione regia, c. 3, in: J. Reviron, op. cit., p. 138.(以下、DIR, c. 3 のように略記) Cf. Isidorus,
    Etymologiae, IX, 3 (PL 82, 342): Reges a regendo vocati. Sicut enim sacerdos a sacrificando, ita et rex a
    regendo.
31)Pseudo-Cyprianus, Liber de XII abusionibus saeculi, IX (PL 4, 877).
32)DIR, c. 3, pp. 140f.
33)DIR, c. 4, pp. 145f.
34)DIR, c. 6, pp. 154.
35)新共同訳では「神は、神を無視する者が王となり、民を罠にかけることがないようにされる」となっているが、ここで    はウルガタ訳から訳した。神は民の罪にふさわしい支配者を許しによって立てられることがある。
36)J. Reviron, op. cit., ch. v: La doctrine politico-religieuse de Jonas d'Orleans, pp.81f.
37)DIR, c. 7, p. 156.
38)DIR, c. 8, p. 158.
39)DIR, c. 9, pp. 159f.
40)DIR, c. 10, p. 164.
41)DIR, c. 11, pp. 165-171.
42)DIR, c. 12, pp. 172-176; c. 13, pp. 177-181; c. 14, pp. 182-187; c. 15, pp. 188-190; c. 16, pp. 191f.
43)DIR, c. 17, pp. 193-194. アウグスティヌスの皇帝幸福論については、Augustinus, De civitate Dei, V, 24
    (PL 41, 170-171)、赤木善光・泉治典拠訳『神の国(一)』、教文館、1980年、pp. 377-378および前掲註3)三上    訳『王の教育について』、pp. 374-375 をも参照のこと。
44)R. W. Dyson, A Nineth-Century Political Tract. The De Institutione Regia of Jonas of Orleans, New York 1983, Introduction, xii.
45)スマラグドゥスやヨナスが確立した君主の鑑の伝統は中世を通じて受け継がれ、近世のマキアヴェッリ(Nicolo[di
   Bernardo dei]Machiavelli 1469-1527 年)でさえ、その『君主論』 Il Principe(1513年)において、中世の君主の鑑   に多くを負っている。ただ、マキアヴェッリはその主張の多くにおいて、800年以上にわたって君主の鑑の基礎とな    っていた大前提、すなわち、神への畏れと正義を始めとする徳が王国の守りであるという信念を、徹底して攻撃し    た。君主の鑑の伝統は以後、徐々に方向を変えていくことになる。Cf. P. J. Eberle, op. cit., p. 436.
46)DIR, c. 7, p. 156.


上智大学中世思想研究所紀要 中世研究 第10号 『中世の社会思想』 平成8(1996)年 pp41-64から転載

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