スマラグドゥス・ミカエリス

『王の道』

933-934A/献呈書簡

 933B/ おお、いとも明敏なる王よ、全能の神は望まれた時、望まれた場所で、あなたを王の種族そして高貴な種族から高貴に創造された。そして憐れみに満ちて再生の洗礼盤へと導かれ、あなたの頭に聖香油を塗り、そして相応しい者として養子とされた。神はあなたを地上の民の王として立てられ、天における実子の相続人とすることを決められた。あなたはこの聖なる贈物によって豊かにされて荘厳に王冠を戴いている。
 第一に、あなたが王の腿からそして王家から出ているからであり、多くの王国を善く支配することはあなたに相応しい。第二に、神はあなたを王として、聖香油によって、また信仰告白によって、業と行為によって、強められるからである。第三に、あなたが永遠にキリストと共に幸福に王国を所有するようにと、王たちの王は小さなあなたをこれまで憐れみ深く養子とされた。933C/ これらの明らかな証拠は子供の頃から王であるあなに叫び、そして王であるあなたを強めている。主の好意によってあなたが得たこれらの王に属する事柄そのものを、あなたが注意深く、安全に守るように、そして業と実践によって防備するように、主はあなたのもとにとどまられる。実際、我々が生きているこの世の僅かの時間によって、我々は遅れるであろう。というのは、我々は一般的な肉の道を進み、そして速い足取りによって毎日約束された祖国へと急ぐからである。
 それゆえに、我々があの道についてただ賢明に問うことだけが残っている。その道は悪い盗賊から我々すべてを守り、待ち望んだ祖国へと我々を導く。このことについて預言者は、次のように言うとき、我々を勇気づけているのである。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」(エレvi, 16)。それゆえに、933D/ この道は我々によって慎重にそして識別して探求されるべきである。その道は我々を安全に永遠の安息へと導く。そしてその道は主によって我々に示された時に見出されたが、歩む者たちによって右へでも左へでもなく、その道を通って、注意深く、識別して我々によって歩まれなければならない。預言者が次の言葉によってそれについて告知しながら叫んでいるあの道が自らを提示している。「人間の道がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある。」(箴xiv,12)。しかし我々のうちのある者が無知によってこの点において誤り、道を踏み外すことがないように、預言者イザヤは敬虔に我々に忠告する。「あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る。あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け、934B/ 右に行け、左に行け』と。」(イザxxx,20-21)。イスラエルの民が他の諸王国を横切って、約束の祖国へ向かったとき、アモリ人の王シホンに使者を遣わして、次のように言った。「あなたの領内を通過させてください。道をそれて畑やぶどう畑に入ったり、井戸の水を飲んだりしません。あなたの国境を越えるまで『王の道』を通ります。」(民xxi,22)。
 いとも高貴なる王よ、それゆえに、もしあなたが天上の約束の祖国へ幸福に向かうことを望むならば、あなたは王の道を熱心に探し求めなければならない。なぜなら、あなたは地上における王であるから、天上の王国へと急ぎながら王の道を通って走らなければならないからである。それは踏み慣らされた道であり、古代の聖なる王たちの足によってよく踏まれた道である。その道を通ってヨシュアは非常にしっかりした足取りで急ぎながら、多くの王たちの首を折り、934C/ 不敬な者たちの軍勢を蹴散らし、エリコの城壁を破壊し、そしてイスラエルの民に約束の土地をぴんと張った綱によって分配した。その道を通ってダビデは真っ直ぐに進みながら、迫害者サウルに迫った。彼は石を投げることによってゴリアトを倒し、そして動きの鈍いアッロフィロから神の民を解放し、永遠の王国を自分のために堅固なものとした。その道を通ってしっかりと歩んでいるヒゼキヤを、主は憐れみに満ちて訪れ、死の床から呼び戻され、そして以前の生命に15の年数を加えられた。その道を通ってこれまで歩んだソロモンは、流れの水のように、知恵によって溢れるほど充たされた。実際、彼はその道から後退して彼の栄光に償うことができない汚点をもたらした。その道を通って歩みながら、正しい王、恐れを知らないホセアは高い地位にあるものを砕き、さまざまの忌むべきものを神の民から取り去り、主から多くの義を受けた。 934D/ いとも高貴なる王よ、見よ、王たちが王の道を通って神へと歩むのと同じように、他の聖人たちと共に天上の王国へと幸福に飛んで行くということを、あなたははっきりと見る。それは預言者によって「聖なる道」(イザxxxv,8)と呼ばれた、王の道である。汚れた者はそれを通って進むことはできない、と同じ預言者は言っている。そこには、ライオンや悪魔、すなわち、喰い尽くすものを周りに求めてほえるものは見出されない。また、悪い猛獣や悪霊ももちろんその道を通っては登らない。それは真っ直ぐな道で、主によって贖なわれ、解放された者がその道を通って歩む。あなたも毎日、主の助けによって、その道を通って行くことを我々は知っており、喜んでいる。そしてあなたが幸福に永遠の栄光へと行くであろうことを信じて疑わない。935A/ あなたが始めた善を完成すること、そしてそれを持続させて終局にまで導くことが重要である。というのは、始めた者ではなくて、持続させた者が安全であろうからである。見よ、王よ、主があなたに憐れみを垂れたもうたので、936A/ 私は王の道の記述を始めるであろう。その道を通って歩めば、あなたは躓くことはないであろう。かえって、あなたは完全で永遠の終局において喜びをもって主から王国を受けるであろう。我々はその喜びの道において第一歩を相応しく始める。

書物が始まる。

935A/
第1章 神と隣人を愛することについて

 それゆえに、いとも寛大なる王よ、主が命じられたように、すなわち、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」(申vi,5)、主を愛せよ。まず最初に主が愛してくださったのだから、愛せよ。このように、泥の中で愛の泉の上に横たわったヨハネはその書簡の中で次のように言っている。「兄弟たちよ、互いに愛し合おう、935B/ 神がまずわたしたちを愛してくださったのだから。」(1ヨハiv,19 )。なぜならもし、主が最初に我々の本性を愛されなかったならば、人間の脆さは主を愛することはできなかったからである。我々ができることはすべて、主のものである。我々は主に生かされて生き、また主に活気づけられて動かされるのである。なぜなら、人間は彼が受けなかったものを何も持っていないからである。よく意志することは人間の能力のうちにないことは明らかであり、まして完全であることはそうではないか。主はあなたが存在する以前にあなたを愛されたのであり、そしてそれゆえに、あなたが存在するようにと創造されたのである。さらに、聖書は賛美を捧げながら、叫んでいる。「あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。」(知xi,24)。おお、寛大な王よ、主は愛しながら、あなたを創造され、そして生かされ、養われ、守られた。そして再生の浴槽へと導かれ、新しくされ、935C/ 導かれ、知的な年代へと導かれた。そして主はあなたがまだ小さかった時に、あなたを王座へと高く上げられた。神はこれらすべてのことを憐れみをもって、そして愛によってあなたに為されたのである。それゆえに、おお王よ、心の目を開け。そしてあなたが存在する前に、あなたがわれらの主、イエズス・キリストによってどれほど愛されたかを知れ。あなたのためにその血が流されたことをあなたが疑うことがないように。あなたの心をあなたの創造主の愛へと引き上げよ。そして、僅かではなく、またあるものの中からではなく、上に述べたように、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。そのようにして何ものへの愛をもあなたの主への愛よりも優先することがないように。そして主御自身があなたに教えておられることを理解せよ。なぜなら、主はこう言われているからである。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタx,37)。なぜなら、実際もし我々が心を尽くして神を愛するならば、935D/ 父や息子たちへの愛を神への愛に優先させてはならないからである。
 おお、いとも敬虔なる王よ、しかしもしあなたが心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神を愛するならば、あなたはあなた自身と同じように、あなたの隣人を愛さなければならない。「なぜなら、律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいているからである。」(マタxxii, 40)。それゆえに、神と隣人を愛さない者は律法と預言を完成しないのである。神を愛し、また隣人を愛するというこの愛のうちに、真理と完全がある。なぜなら、次のように言われているからである。「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(1ヨハiv, 20)。なんとなれば、愛の源そのものであられる主イエズス・キリストは我々の精神に936A/ 愛の掟を刻みつけられて、こう言われているからである。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハxiii,34-35)。主の胸から溢れる愛を飲んだあの弟子も神の愛と隣人の愛に燃えてこう述べているからである。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は936B/ 神から出るもので、兄弟を愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。しかるに、兄弟を愛さない者は、愛を持たず、神を知りません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(1ヨハiv,7-12 )。使徒の頭であるペトロも、我々が互いに愛し合うように、情愛をこめて勧めながら、こう言っている。「だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」(1ペトiv,7-8)。彼が次のように言わなかったことに注意しなければならない。すなわち、ある時にはあなたたちと共にあり、ある時にはあなたたちから離れてしまうような、一時的な愛を持ちなさい、と。そうではなくて、彼はこう言っている。あなたたちと共にいつまでもとどまり、あなたたちの心から決して離れることのない途絶えない愛を持ちなさい、と。936C/ このように多くの罪人を覆い、彼らが決して永遠に滅びることがないように、[罪を]信徒たちの心から消してしまう愛の力は幸いである。
 多くの人々は、誰が隣人であり、神が愛せよと命じられたのはどのような兄弟なのかと尋ねる習慣がある。しかし、我々はすべてのキリスト信者が隣人であると言う。彼らは単に、理性によって隣人と呼ばれるばかりでなく、また信仰によって兄弟と呼ばれる。我々は一なる神を持ち、また同じ父を持ち、その恩寵によって再び生まれた者と呼ぶ。それゆえに、すべてのキリスト者は一般的に、キリスト者によって隣人と呼ばれるのである。使徒は、この小さき者の像を念頭に置きながら、愛すべきものを命じたのである。「夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。」(コロiii,19)。息子たちが愛されるようにと、同じ使徒は次のように言って、父親たちに忠告している。「父親たち、936D/ 子供を怒らせてはなりません。」(エフェvi,4)。奴隷たちが愛されるようにと、同じ使徒は次のように言って、忠告している。「主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。」(コロiv,1)。他の箇所でも、彼らについて聖書は次のように言う。「お前に召し使いがいるなら、兄弟として扱え。自分自身と同じように。」(シラxxxiii, 31)。友と敵が同じように愛されるようにと、使徒は命じている。そこでは友は神において、そして敵は神のために愛されるべきだ、と彼は忠告している。なぜなら、主も福音書の中でこう言っておられるからである。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタv,44)。さあ、主が愛すべきだ、と命じられた隣人が誰であるかはまったく明らかである。すなわち、妻、息子たち、奴隷たち、友人たちと敵たちがそうである。彼らの名においてすべてのキリスト者が937A/ 隣人と言われていることが知られ、愛すべきことが主によってすべての者に命じられている。それゆえに、すべてを抱擁し、すべてを愛し、あたかも隣人たちのうちの一人のように、隠された精神のうちにすべての者の愛を秘めている、愛の力は幸いである。徳を養い、罪を滅ぼし、怒りを抑え、憎しみを明らかにし、貪欲を排除し、諍いを抑制し、すべての悪徳を等しく避け、すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、非難の中でも恐れることなく、憎しみの中でも慈しみ深く、真理のうちに堅く立ち、心の曲がった非難の徒によっても激怒させられることなく、略奪者から奪われず、洪水によって破滅させられず、火事によって燃やされず、異端によって分裂させられない愛の力は本当に幸いである。その力は分割され得ないものを強め、難攻不落のものをとどめ、説明不可能なものを堅固にし、揺るがないものを持続させ、不滅のものを喜ぶ。それはすべての徳を937B/ 包むものであり、魂の蜜臘であり、精神の和合である。それは選ばれた者たちの社会であり、天使たちの歓喜である。敵対する者たちに分裂することがないように、それは精神を力強く固める。怒りによって支配されないように、それは理性的に抑制する。私見によれば、まさにこれこそが王の徳であり、それは宮廷におけるすべての人々に喜びのパンを分かち、すべての人々に楽しみのワインを注ぎ、すべての人々に甘いキスを与える。そして愛しながら、手を拡げてすべての者を抱擁する。おお、いとも聡明な王よ、それゆえにこのかくも明らかなそして祝福された王の徳を保て。それがあなたと共にあり、あなたと共にとどまり、あなたと共に成長し、あなたと共に前進し、あなたと共に喜ばれ、そして共に生きられるように。なぜなら、王の宴会のうちには、そのような王の徳が生き生きとして存在することが相応しいからである。

第2章 主の掟を守ることについて

 937C/ 主の助けによって我々は王の道を記述することを始めたから、その道において我々はその仕事の歩みを堅固に、熱心にそして秩序正しく始めること、その道を走りながら、そこに有害な妨げをではなくて、有益で永続的な喜びを見出すことが必要である。我々は、愛の創始者御自身が愛の完成の後に我々に掟を守ることを許されたということを見る。なぜなら、その方はこう言われるからである。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハxiv, 15-16)。おお、いとも寛大にして柔和な王よ、それゆえに、われらの主イエズス・キリストがどれほど我々を愛しておられるかを考えよ。主は約束と共に我々から主への愛を要求され、もし我々が主への愛の次に主の掟を守るならば、聖霊もまた我々と共に永遠に住まわれる、と言われる。なぜなら、937D/ 主御自身から(すでに上述したように)すべてのよきものが我々に貸し付けとして与えられ、そしてよきものを望み、そして業を為すことは主から予め我々に豊かに与えられているからである。我々は、愛するようになるために愛され、知るようになるために知られ、業を為すために助けられ、業を為すことによって徳において豊かにされるのである。それゆえにもし、神の愛と隣人への愛があなたを優しく打つならば、あなたは主が命じられたことを当然為すであろう。というのは、あなたはあなたが愛されるだけのことを為すからである。なぜなら、神の掟を忠実に果たさない者が神を心から愛することはできないからである。主が次のようにあなた自身を教えておられることを理解せよ。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」(ヨハxiv,23-24 )。使徒ヨハネも938A/ 主の愛に満たされて、書簡において次のように言っている。「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることがわかります。『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。」(1ヨハii,3-5)。ヨブ記も主の口によって聖なるものとされて、このこと自体についての証人である。それは主として王たちについてこう言っている。「神に従う人から目を離すことなく、王者と共に座につかせ、とこしえに、彼らを高められる。…その耳を開いて戒め、悪い行いを改めるように諭される。もしこれに耳を傾けて従うなら、彼らはその日々を幸いのうちに、年月を恵みのうちに全うすることができる。しかし、これに耳を傾けなければ、死の川を渡り、愚か者のまま息絶える。」(ヨブxxxvi, 7:10-12)。善良で正しいヨブ自身自分について938B/ 証言を与えながら、こう言っている。「わたしの足はその方に従って歩み、その道を守って、離れたことはない。その唇が与えた命令に背かず、その口が語った言葉を胸に納めた。」(ヨブxxiii, 11-12)。おお、善良なる王よ、それゆえに、我々はあなたについていつもそのような証言を聞き、そのような業をもしばしば見ることを望むのである。
 主御自身も御自分の愛とその掟の遵守についてイスラエルの民に忠告しながら、次のように言われる。「イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、…(それらを)守り、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。…イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる938C/ 主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。…もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。あなたの身から産まれる子も土地の実りも、家畜の産む者、すなわち牛の子や羊の子も祝福され、籠もこね鉢も祝福される。あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される。主は、あなたに立ち向かう敵を目の前で撃ち破られる。」(申iv,1;x,12;viii,11;xxviii,1-7)。
 938D/ 主はまたここでイスラエル人たちに対して、付け加えてこう言われる。

「あなたたちがわたしの掟に従って歩み、わたしの戒めを忠実に守るならば、わたしは時季に応じて雨を与える。それによって大地は作物をみのらせ、野の木は実をみのらせる。穀物の収穫にはぶどうの収穫が続き、ぶどうの収穫には種蒔きが続いて、あなたたちは食物に飽き足り、国のうちで平穏に暮らすことができる。わたしは国に平安を与え、あなたたちは脅かされることなく安眠することができる。わたしはまた、猛獣を国から一掃し、剣が国を荒廃させることはない。あなたたちは敵を追撃し、剣にかけて滅ぼす。あなたたちは五人で百人の敵を、百人で一万の敵を追撃し、剣にかけて滅ぼす。…しかし、939A/ わたしの言葉を聞かず、これらすべての戒めを守らず、わたしの掟を捨て、わたしの法を捨て、何一つわたしの戒めに従わず、わたしの契約を破るならば、わたしは必ずあなたたちにこうする。すなわち、あなたたちの上に恐怖を臨ませ、肺病、失明や衰弱をもたらす熱病にかからせる。あなたたちは種を蒔いてもむなしい。敵がそれを食べ尽くす。わたしは顔をあなたたちに向けて攻める。それゆえ、あなたたちは敵に打ち破られ、あなたたちを憎む者に踏みにじられ、追う者もないのに逃げ去らねばならない。」(レビxxvi,3-8;14-17)。また主はイザヤを通してイスラエルに対して叫び、そしてこう言われる。「わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる。あなたの子孫は砂のように、あなたから出る子らは砂の粒のように増え、その名はわたしの前から絶たれることも、939B/ 滅ぼされることもない。」(イザxLviii,18-19)。
 おお、王よ、それゆえに、あなたの神である主を愛し、そして大いなる主の愛のために主の掟を注意深く、そして熱心に守ることが、あなたにとって善いことである。なぜなら、主の掟は聖なるものであり、そして正しいし、それを守る人々にとって大いに救いとなるものだからである。そのために父と子と聖霊があなたのところに来られ、あなたのところで永続する喜ばしい滞在をなさるように、そしてあなたがそのような訪問者によって訪問されて永遠に幸福であるように。そのために、あなたの日々が祝福において、あなたの年々が栄光において、満たされるように。そのために、あなたの平和が幸福に増やされ、そして喜びが大河のように永遠に完成されるように。

第3章 畏れについて

 見よ、我々は既に神の助けによって、939C/ 王の道の第三の段階に到達している。そこでは我々は我々の業によって正しい道程を辿らなければならない。しかし、我々自身によってはそうすることができないので、我々は、我々がその道を辿る主の預言者に熱心に尋ねなければならない。
 善意のそして謙遜なダビデは聖霊に満たされて我々に臨み、そしてそこで神の掟の遵守の後に、我々が我々の業の奉仕のそして祝福された足を堅固なものとしなければならないということを示して、次のように言っている。「畏れ敬って、主に仕え、おののきつつ、喜び躍れ。」(詩ii, 11)。なぜなら、使徒もまた同じように我々に次のように言って、忠告しているからである。「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」(フィリii, 12)。見よ、どのように王の道が明らかであるか、見よ、それがどのように明瞭であるか、見よ、それが出会う者にどのように自らを示すかを。その道は行進する人々に対して平らな道として横たわり、939D/ そこを踏む人々に輝かしい道として現れるのである。いったい何がもっと明らかなのか。何がもっと輝かしいのか。主を愛する者がその掟を守り、掟のうちで行為することよりももっと相応しいことが何か有り得るだろうか。そして行為する者は無益に、あるいは尊大にではなくて、神への畏れをもって行為するのであり、そしてよき業について無益なそして空虚な賛美を自らに帰さず、主に相応しい感謝を絶えず捧げる。主は彼をよき業の実によって満たし、そして幸せな者が行為する際に、彼に助けを与えられる。なぜなら、次のように書かれているからである。「主を畏れる者は主に希望を置く。主は彼らの助け手であり、彼らの守護者だからである。」(詩ciii,11?)。
 おお、寛大な王よ、それゆえに神を畏れよ。神があなたに守護を絶えずそして幸いな助けを与えられるように。そしてあなたの声がマリア、モーセ、アーロンの声と一緒になって、940A/ 王たちの王のところにまで叫び、そしてこう言うように。「主はわたしの助け手、わたしの守り手。主はわたしの救いとなってくださった。」(出xv,2)。さらにまた、あなたの声はダビデ王の声と結びつけられて、歓喜の叫びに満たされて、声を挙げて叫んで、こう言う。「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避け所、わたしの盾、救いの角、砦の塔。ほむべき方、主をわたしは呼び求め、敵から救われる。」(詩xvii,2-4)。
 王よ、それゆえに、神を畏れよ。神が魂の軛と身体の力をあなたのために管理され、精神の支えと永遠の助けを与えられ、あなたの王国の角によって高い地位を作られ、勇敢の腕を樫材によって強化されるように。畏れにおいてソロモンは賛美の歌を歌っている。940B/ 「主を畏れれば長寿を得る。」(箴x,27)。おお、王よ、それゆえに、神を畏れよ。しかし、それは世々に聖なるものとしてとどまられる方への畏れによってである。それはあなたのためにこの世的な日々に永遠の日々を、永久の日々を、不死の日々を、永続的な日々を付け加えられる方への聖なる畏れによってである。それはむしろ、夕べのないそして無限の一日であり、幸福な喜びに満ち、欠けることのない光によっていっぱいにされ、天使の群れによって支えられた日、夜が変えることのない日、暗闇が暗くすることのない日、雲が覆わない日、夏の暑さが堪え難さを生ぜず、冬の寒さが緩慢さをもたらさない日である。それはあなた自身にとって聖人とひとつになり、天使と共通になり、両者と永遠になる日、あなたに幸福な喜びと共に天使たちの慰めを与え、祖先たちの仲間とし、預言者たちの数のうちに数え、歓喜のうちに940C/ 使徒たちの仲間とする日である。

 実際、ソロモン自身がよき畏れの素晴らしさについてこう言っている。「主を畏れることは命の源。」(箴xiv,27)。それゆえに、王よ、もしあなたが永遠において幸福に生きることを望むならば、生命の泉へと熱心に立ち帰らなければならない。なぜなら、主御自身が生命の泉であって、流れ続ける飲み水を与えながら、永遠の渇きを取り除き、栄光と共に不滅の冠を与えられるからである。ソロモン自身が再び次のように言っている。「主を畏れれば命を得る。」(箴xix,23)。それゆえに、王よ、主の畏れのうちには生命の充満が見出だされるということをあなたは見る。主の畏れが我々に不滅で永遠の生命を与えるということをあなたは見る。現在の生は日々の充実によっては支えられないが、未来の生はそうである。我々の日々の半ばにあって、我々は取り去られる。そしてこの生から、我々がまだ生きると考えている間に、我々の生命は奪われる。実際、正しい王ヒゼキヤはこのように言っている。940D/ 「わたしは思った。人生の半ばにあって行かねばならないのか、と。陰府の門に…委ねるのか。…わたしの生涯は羊飼いの天幕のように引き抜かれ、取り去られてしまった。…昼も夜もあなたはわたしの息の根を止めようとされる。」(イザxxxviii,11-12)。神の畏れのうちに知恵の充実、果実の充実、生産の充実、救いの宝があるということをシラ書の一節は同じように理解し、こう言っている。「主を畏れることは、知恵に満たされること、人々は、知恵の果実に陶酔し、彼らの家は、すべて望むもので満たされ、そのすべての倉は、知恵の産物で満ちあふれる。主を畏れることは、知恵の冠、平和の花を咲かせ、健康を保たせる。主への畏敬と知恵こそは、平和をもたらす神の賜物、…主はこれを見て、価値あるものとされた。」(シラ1, 20-23)。同書はさらに、あなたが主を畏れるように、救いに役立つ仕方で忠告し、941A/ こう言っている。「主の畏れを保て。そうすればあなたは長生きする。主を恐れて、主の憐れみを保て。そうすれば、あなたが倒れることがないように、主から離れることはない。主を畏れる者は主に信頼せよ。そうすれば、あなたたちの賃金は空にならない。主を畏れる者は主に希望を置け。そうすれば、喜びの行為においてあなたたちに憐れみが来る。主を畏れる者は主を愛せよ。そうすれば、あなたたちの心は照らされる。」(シラii, 6-10)。ソロモン自身は再びこう言っている。「彼らの誇りは、主を畏れることである。聡明な貧しい人をさげすむのは、正しいことではない。罪ある人をほめたたえるのは、ふさわしいことではない。地位の高い人や判事や権力者は、栄誉を受ける。だが、主を畏れる者は、彼らにまさる者なのだ。更に偉大なのは知恵を身につけた人。だが、主を畏れる人はもっと偉大だ。主を畏れることはすべてにまさる。神の畏れを持つ恵みを受けている人は幸いである。主を畏れることは、祝福された楽園のようだ。941B/ どんな栄誉にもまさって、その人を覆い守る。」(シラx,25;xxv, 13;xL,28)。
 王よ、それゆえに、これが王の徳であるということを見よ。そこには忍耐の保証があり、そこに生命の充実が見出され、そこに果実の充実が養われ、そこに何世代にわたる家系が繁栄し、それによって子孫の救いと平和が芽を伸ばし、それによって救いの宝が蓄えられ、それによって正しい者の心が照らされ、それによって彼らの賃金が何倍にも増える。実際、次のことは真実である。「神の畏れを持つことができる人は幸いである。」(シラxxv,15)。
 王よ、今、主が預言者マラキアを通して、畏れる者たちに約束されたことを聞き、そして熱心に守れ。彼はこう言っている。「あなたたち畏れる者にとってわたしの名が正義の太陽、その翼の健全さであることが明らかとなる。あなたたちは、出て行って、牛の群れの子牛のように跳び跳ねる。そしてあなたたちは不敬な者たちを、941C/ 彼らが灰になったときに、あなたたちの足の裏の下に踏み付ける。」(マラiv,2 ?)。それゆえに、あなたにとっても主の名は畏れるべきものである。あなた自身にとってもキリストが正義の太陽であらんことを。キリストがあなたの精神の暗闇を撃退し、心の無知を取り除き、知性の光を注ぎ、あなたのうちにある知恵の光を方向づけ、あなたの分裂の記憶を提示し、あなたの足元の敵の首を踏みつけながら打ち倒し、あなたの支配する忠実な王国を敵どもの待ち伏せから守られんことを。

第4章 知恵について

 我々が正しい道程を歩んで天の祖国へと幸いにも到達するに値する者であるように、王の道を通って天国へと進むように941D/ 我々に命じられる神に対して我々は大いなる感謝を捧げなければならない。それゆえに、我々は右にも左にも逸れてはならない。堅固で着実な歩みによって王の道を進まなければならない。そして純潔で聖なる天上的な畏れと聖なる知恵によって結びつけられなければならない。我々はこれら二つの共通の徳によって不滅の生命に到達するに値するのである。聖書は次のように言っている。「主を畏れることは、知恵の冠。」(シラi,22)。 また、「主を畏れることは、知恵の初めである。」(シラi,16)。さらに、「主を畏れることは、知恵に満たされること。」(シラi,20)。聖書が言うように、「主を畏れることは、知恵の根源」(シラi,25)である。それゆえに、もし主の畏れが知恵の初め、知恵の充実、知恵の冠、そして知恵の根源であるとすれば、ひとつのものが他のものに依存し、そして他のものが別のものに続くということはすこぶる明瞭である。942A/ そしてそれゆえに、それらのものは我々に最も近いものだと考えるべきであって、ばらばらのものではない。それゆえに当然のことながら、我々は畏れの後に知恵を置くのである。なぜなら、上述したように、知恵は悪意のある魂のうちへではなく、神を畏れる者のうちへ入って来るからである。(知i, 4) 。
 いとも明敏なる王よ、それゆえに、神を畏れよ、そしてあなたが王として王の道を知恵と共に賢明に辿ることができるように、あなたの魂を知恵を受け入れるために準備せよ。なぜなら、王たちについて、知恵の書は大いにそしてしばしば次のように叫びながら言っているからである。「支配者たちよ、わたしはあなたたちに言う。知恵を学び、職務にもとることがないように。聖なる掟を聖なる手段で守る者は聖とされ、…知恵は輝かしく、朽ちることがない。知恵を愛する人には進んで自分を現し、探す人には自分を示す。」(知vi,10;13)。942B/ いとも明敏なる王よ、それゆえに、あなたは特に王たちのうちから神の恩寵を豊かに与えられた彼らのうちの一人の王であり、この知恵は天上の声によって導かれるということを聞くのである。そして、王たちが知恵に満たされて行動するようにと、神託はしばしば王たちに叫ぶのである。それゆえに、我々は、あなたのすこぶる明瞭な卓越性によりかかって、あなたが注意深く明らかな神的知恵を学び、それを熱心にそして着実に求め、生温いそしてのろのろした仕方でなく、鋭い感覚でそして覚めた目で探求し、金や銀にもまして欲するように、繰り返し求める。それについては次のように言われている。「知恵を熱望することは人を御国へ導く。いま王座と王しゃくを享受する民の支配者たちよ、いつまでも治めうるよう、知恵を学ぶがよい。民を支配するすべての者よ、知恵の光を愛せよ。」(知vi,21-23)。
 942C/ いとも聖なる王よ、それゆえに、我々はあなたが、ソロモンが自分について、知恵の賛美について何を語っているかを、注意深く見ることを願う。彼はこう言っている。「わたしも皆と同じく死すべき人間であり、土で造られた最初の人の子孫である。母の胎内で肉となり、十か月、地の中で形を整えた。男性の種と夫婦の楽しみによってである。わたしも他の人と同じ空気を吸い、同じ苦しみの地に生まれ、最初に皆と同じ産声をあげ、産着と心遣いに包まれて育った。王の誕生といえども異なるものではない。だれにとっても人生の始まりは同じであり、終わりもまた等しい。わたしは祈った。すると悟りが与えられ、願うと、知恵の霊が訪れた。わたしは知恵を王しゃくや942D/ 王座よりも尊び、知恵に比べれば、富も無に等しいと思った。どんな宝石も知恵にまさるとは思わなかった。知恵の前では金も砂粒にすぎず、知恵と比べれば銀も泥に等しい。…知恵と共にすべての善が、わたしを訪れた。知恵の手の中には量り難い富がある。わたしはそれらをすべて楽しんだ。知恵が導いているからである。…知恵は太陽よりも美しく、すべての星座よりもはるかに輝かしい。光の後には夜が来る。しかし、知恵が悪に打ち負かされることはない。…知恵は地の果てから果てまでその力を及ぼし、慈しみ深くすべてをつかさどる。わたしは若いころから知恵を愛し、求めてきた。わたしの花嫁にしようと願い、また、その美しさのとりことなった。943A/ 知恵は神と共に生き、その高貴な出生を誇り、万物の主に愛されている。…節制と賢明、正義と勇気の徳を、知恵は教えるのである。人生にはこれらの徳よりも有益なものはない。…わたしは知恵によって不滅を得、後の世代にいつまでも記憶される。わたしは諸国民を治め、国々を服従させよう。残忍ま王たちもわたしのことを聞いて恐れる。わたしは人々の間では恵み深く、戦いのときは勇敢な者と見なされる。」(知vii,1-29;viii,1-7;viii,13-15 )。

 おお、いとも高貴にしていとも明敏なる王よ、知恵が王の徳であることに注意を向け、理解せよ。知恵は測りがたい仕方で王たちの王の宝からすこぶる豊かに出て来る。そして知恵は不注意な者や傲慢な者、妬む者や悪意に満ちた者には与えられず、柔和な者、謙遜な者そして943B/ 神を畏れる者に与えられる。実際、知恵は明らかに王の徳であり、預言の言葉は特に彼らに向かって、彼らが知恵を学ぶようにと、叫んでいる。知恵は王の徳である。なぜなら、それは善い行いをする王たちを義とし、消えがたい知識の光を彼らに注ぎし、心の目を照らし、精神の感覚を照明し、鋭敏な知性を統制し、身体の健康を作り出し、習慣に品位を与え、無限の宝を増やし、王国の徳を強力なものとし、神の友情に参与する者を選び、知恵と知性の、思慮と剛毅の、知識と敬虔の、そして神の畏れの精神によって満たすのである。知恵は王たちに正義と思慮、剛毅と節制を与え、徳と正気を提供し、王国に安定をもたらし、言葉において確実さを、雄弁において甘美さを、943C/ 与える行為において朗らかさを、慈悲のうちに人間らしさを、応答のうちに耳への快さを、識別において鋭さを、繁栄において優しさを、敵対関係において平和を、感覚における鋭さを、行為における緊張のなさ、表情に輝きを、そして戦における強さを、与える。知恵は王たちに、臣下が王国を分割して管理することを、そして民が(王国の)所有者たちに喜んで仕えることを、認める。そしてまた、外部の脅威の民を勇敢に征服させ、恐るべき民を服従させ、獰猛な王たちを踏みつけさせる。そして私は、知恵のうちに王国のすべての秩序ある配置が存する、と言おう。知恵は大いなる宝であり、それを見出す者は生命を見出し、それを所有する者は不滅の冠を持つであろう。隠された宝は主には明らかであるが、しかしすべての者に明らかであるわけではない。なぜなら、最も有名な人であるヨブは知恵についてそのように証言して、こう言っているからである。943D/ 「では、知恵はどこに見いだされるのか、分別はどこにあるのか。人間はそれが備えられた場を知らない。それは命あるものの地には見いだされない。深い淵は言う、『わたしの中にはない。』海も言う、『わたしのところにもない。』知恵は純金によっても買えず、銀幾らと価を定めることもできない。…金も宝玉も知恵に比べられず、純金の器すらこれに値しない。さんごや水晶は言うに及ばず、真珠よりも知恵は得がたい。…では、知恵はどこから来るのか、分別はどこにあるのか。すべて命あるものの目にそれは隠されている。空の鳥にすら、それは姿を隠している。滅びの国や死は言う、『それについて耳にしたことはある。』その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる。…そして人間に言われた。944A/ 『主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別。』」(ヨブxxviii,12-15;17-18;20-23;28)。
 いとも明敏なる王よ、見られるように、知恵については大いなるそして測り知ることのできない名声がここには響いている。明らかに、王の徳はこの世の金と比較されず、最も明るい銀とも等しくされず、透明なガラスの器とも比べられない。それと比較すれば、赤白の縞めのう石は緑になり、ラピス・ラズリは無と考えられ、トパーズは重要なものでないと評価される。黄金の小箱は素晴らしいものとは考えられず、いとも優雅な染め物は評価されないし、何か貴重で変わった小石も評価されない。まことに、あなたが見られるように、王の徳は知恵であり、それは王たちによって最も愛されるべきものである。
 おお、いとも明敏なる王よ、あなたが知恵から愛されるように、知恵を愛せよ。なぜなら、知恵の声は箴言においてそのように響いているからである。「わたしを愛する人を944B/ わたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。」(箴viii, 17)。王の心はそのようなものをあなたの善い業によって準備する、そしてあなたの熟慮と住まうことをいつも喜ぶ。知恵は思考の内にあってあなたに業によって何を為さなければならないかを教える。なぜなら、熟慮は知恵に属し、知恵を望む者には熟慮が刻印するからである。分別は知恵に属し、知恵を望む者には分別を与える。剛毅は知恵に属し、知恵を望む者には剛毅を与える。王国は知恵に属し、知恵を望む者に、そしてそれを望む限りで、王国を委ねる。知恵の声はソロモンを通して箴言においてこのように叫んでおられる。「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている。…わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力をもつ。わたしによって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める。わたしによって君主は治め、力ある者は正義を決定する。944C/ わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。わたしのもとには富と名誉があり、すぐれた財産と慈善もある。わたしの与える実りはどのような金、純金にもまさり、わたしのもたらす収穫は精選された銀にまさる。慈善の道をわたしは歩き、正義の道をわたしは進む。わたしを愛する人は嗣業を得る。わたしは彼らの倉を満たす。」(箴viii, 12;14-21)。それゆえに、王よ、キリストがあなたに地上の宝を充たし、永遠の宝を与えられるように、心の髄から叫べ、精神をまったく緊張させて叫べ、そしてソロモンと共に、主に向かって絶えざる祈りを捧げよ、神に尽きることなく懇願せよ、しばしば懇願せよ、切に懇願せよ、不断に懇願せよ、そしてこう言え。「先祖たちの神、憐れみ深い主よ、あなたは言によってすべてを造り、知恵によって人を形づくられました。あなたが造られたものを人が治め、信仰深く、944D/ 義に基づいて世界を支配し、公正な心で裁きを行うためです。あなたの王座の傍らにいる知恵をわたしに授け、あなたの子らの中からわたしを取り除かないでください。わたしはあなたの僕、あなたのはしための子、弱く、はかない命の人間です。裁きと律法とをまだわきまえていません。…あなたはわたしを、御民の王に選ばれました、あなたの息子や娘たちの裁き手として。あなたはわたしに命じられました、聖なる山に神殿を建てることを。あなたの住まわれる都に祭壇を築くことを、あなたが初めから設計された、聖なる幕屋のかたどりを作ることを。知恵はあなたと共にいて御業を知り、世界をお造りになったとき、そこにいました。知恵は、あなたの目を喜ばすものは何か、あなたの掟に適うものは何かを知っています。」(知ix,1-5;7-9)。
 まことに、王よ、知恵の徳は幸いである。知恵を見出す者は、知恵によって幸いな者とされる。945A/ 知恵は彼らの息子たちに生命を準備し、知恵を愛する者たちに自ら正義を与え、知恵を愛する者たちに思慮を贈る。知恵を保つ者は永遠の生命を次の世代へと受け継がせる。なぜなら、神は知恵を愛する者を愛されるからである。神は誘惑にあって彼と共に歩まれ、そして初めに彼を選ばれ、彼を固められる。そして真っ直ぐな道が神へと導く。神は己の秘密を彼に明かされ、そして思慮の知識と知性を彼の上に宝として積まれる。

第5章 思慮について

 それゆえに、知恵の照明と知識の宝の後に、王の道を幸福に走ることを望む者に、神が与え給うことによって、思慮が満たされなければならない。思慮は王の徳であり、最初の王たちによって大いに愛された。このように、ダビデ王について書かれている。945B/ 「ダビデは、サウルが派遣するたびに出陣して、思慮深く勝利を収めた。」(サムxviii, 5)。思慮はいわば前方を見ることだと言われる。しかるに、王は何を為すべきかを、行為の後で自分のしたことを後悔しないためには、予め、そして遠くから予見しなければならない。なぜなら、彼が神に対して、そして人々に対して為すすべてのことを、彼は思慮深く為さなければならないし、また予見しなければならない。王の仕事や熟慮が例えばさまざまの人の非難の言葉を受けないように、王はすべてのことを義によって、正しく、知恵を働かせて、思慮をもって為さなければならない。なぜなら、主の恩寵によって多くの人々を支配する者は他人の助言によってすべてのことを思慮深く管理しなければならないからである。このように、いとも思慮深いソロモンは箴言において言っている。「知恵ある者は多くのものを思慮によって支配する。」そして同じ箇所でこう言っている。「家は知恵によって築かれ、945C/ 英知によって固く立つ。」(箴xxiv,3)。思慮は大いなる徳であり、特に王の心のうちにあって、すべての王国を注意深く統治し、支配する。なぜなら、次のように書かれているように、思慮はすべての徳の飾りであり、言葉の栄光、話の名誉だからである。「分別ある人にとって、教訓は金の飾り、右腕にはめる腕輪のようなものである。」(シラxxi,24)。思慮は口の守り、行為の支配、心の平衡、舌の自制、すべての言葉の秤、事物の考量である。次のように書かれている。「分別あるひとは、言葉を吟味する。」(シラxxi,28)。さらに、次のように書かれている。「あなたの金とあなたの銀を溶かし、あなたの言葉によって小さな扉を作り、あなたの口によって正しい手綱を作れ。」(シラxxviii, 29)。また次のように書かれている。「あなたの口を開いて弁護せよ、945D/ ものを言えない人を、犠牲になっている人の訴えを。あなたの口を開いて正しく裁け、貧しく乏しい人の訴えを。」(箴xxxi,8-9)。「口の言葉が結ぶ実によって、人は良いものに飽き足りる。人は手の働きに応じて報いられる。」(箴xii,14)。マラキアもまた主のペルソナからつぎのように語っている。「レビと結んだわが契約は命と平和のためであり、わたしはそれらを彼に与えた。それは畏れをもたらす契約であり、彼はわたしを畏れ、わが名のゆえにおののいた。真理の教えが彼の口にあり、その唇に偽りは見いだされなかった。彼は平和と正しさのうちに、わたしと共に歩み、多くの人々を罪から立ち帰らせた。」(マラii,5)。パウロはコロサイの信徒に宛ててこう言っている。「いつでも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」(コロiv,6)。
 946A/ 王よ、それゆえに、この最も明らかな王の徳を愛せよ。それはあなたに王国の統治を教え、行為の区別を授ける。それはあなたの業の足を導き、思考の行為を調整する。それはあなたの子孫に王の豊かさを建て、建てられたものを強める。それはあなたに諸徳の飾りと多くの事物を提供し、王国の角を高く上げ、腕に強さを与える。それはあなたの口によって真理の法を与え、あなたの心によって知恵の理解を増す。それはあなたに多くの民族の首を支配させ、すべての者にあなたを愛させる。それはあなたの話によって金の飾りを置き、唇によって銀の贈物を与える。それはあなたの業によって絶えざる保護と相応しい栄光を与える。

946B/
第6章 単純さについて

 実際、聡明の徳は偉大である。しかし、それは単純さの徳によって適切に調整されなければならない。主が福音書において次のように言っておられるからである。「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタx,16)。いとも高貴なる王よ、それゆえに徳から徳へ、そして絶えずよりよいものにおいて利益を得ながら、王の道から逸れずに、聡明から単純さへと確実に歩を進めるように、歩め。単純さは王の徳であり、それは古の聖なる王たちによって愛されたのである。主は称賛すべきヨブについて称賛すべき人に悪魔に次のように言わせて、証言を与えられる。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪をさけて生きている。」(ヨブi, 8)。946B/ またモーセについて、聖書は次のように言って言及している。「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。」(民xii, 3)。知恵の書は、特殊的に王たちに彼らの支配について叫び、言っている。「国を治める者たちよ、義を愛せよ、善良な心で主を思い、素直な心で主を求めよ。主を試すことをしない人は主をみいだすからである。」(知i,1)。しかるに、ソロモンは箴言の中ですべての聖人について一般的にこう言っている。「正しい人は自分の無垢に導かれる。」(箴xi,3)。「完全な(simpliciter)道を歩む人は救われる。」(箴xxviii, 18)。パウロは次のように言っている。「わたしはあなたたちが善において思慮深く、悪において単純であることを望む。」(ロマxvi,19)。聡明が正しさの尺度を越えたり、あるいは単純さが無知の誤りによって不活発にならないように、946D/ 聡明は善において、選ばれた者たちの心を絶えず鋭くし、単純さは聡明の鋭さから適切に調整されなければならない。
 王の道は単純さである。それは、王国が王の道を進んで天国へと幸福に到達するために、王たちの歩みを単純に導く。王よ、それゆえに、永遠の生命へとより速く到達し、不滅の報償を早く得、平和と栄光のマントを着るために単純さの道を通ってしっかり走れ。

第7章 忍耐について

 王よ、徳から徳へと道を進み、単純さから忍耐へと幸福に歩みを進めよ。もしあなたがあなたの魂を喜びをもって所有することを望むならば、忍耐を持て。947A/ 我々の救いと平和の造り手である神は福音書においてこう言われる。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカxxi,19)。ソロモンもこう言っている。「成功する人は忍耐する人。背きを赦すことは人に輝きをそえる。」(箴xix,11)。パウロも次のように言っている。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」(コロiii,12)。この徳が隊長の徳であることを、ソロモンは箴言において、次のように言って、証言している。「忍耐強く対すれば隊長も誘いに応じる。穏やかに語る舌は骨をも砕く。」(箴xxv,15)。しかるに、使徒は同じ隊長たちに対して次のように言いながら、叫んでいる。「怠けている者たちを947B/ 戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」(1テサv,14)。使徒ヤコブは次のように言う。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」(ヤコi, 4)。それゆえに、隊長を和らげ、忍耐のない者を静めることを教え、王たちの仕事を完成へと導く徳は明らかに王の徳である。いとも柔和なる王よ、それゆえに、忍耐を通って歩み、忍耐を愛せよ。なぜなら、忍耐を通って走れば、あなたは障害に出会わないで、未来に完全で永遠の喜びを見出すだろうからである。実際、忍耐は大いなる徳である。それは自分を苦しめる者を苦しめず、愛する。それは不法な者に不法を免じ、仕返しをしない。それは、害を与えることができる人に対して、害を加えず、情け深い。忍耐は神に我々を委ねるものであり、すべての悪から我々を947C/ 守り、救うものである。それは怒りをなだめ、舌を制し、精神を統制し、平和を守り、規律を適切に遂行させ、欲望の衝動を弱め、情熱的欲望の暴力を抑え、敵意の炎を消し、金持ちの権力を制限し、貧乏な者の無力を支援し、繁栄において謙遜な者とし、逆境において強い者とし、不正と侮辱に対して寛大な者とし、誘惑を退け、迫害を堪え忍ぶ。忍耐は我々の信仰の基礎を堅固に強め、我々の希望の増大を大いに推進し、我々がキリストの道を辿ることができるように我々を導き、我々が神の子につき従うように強める。

 王よ、それゆえに、忍耐を愛し、喜びと全力での抱擁によって忍耐へと急ぎ行け。947D/ 実際、忍耐は王の道であって、それを通って進む者を永遠の王国へと幸福に導くのである。右にも左にも逸れないように注意せよ。忍耐が主の善であるように、性急さは悪魔の悪であることを知れ。そしてキリストがそのうちに住み、とどまる人は、忍耐のある人と見られるように、その精神を悪魔の放蕩が所有している人は、常に性急な者として生きている。しかし、王よ、あなたは王の道を守り、それから逸れてはならず、この幸いな徳によって、正義と呼ばれる徳へと、あなたの行為の歩みを幸せに続けよ。

第8章 正義について

 正義と裁判を行なうことは王の職務であるということを、エレミアは証言している。そこではこう言われている。「主はこう言われる。948A/ ユダの王の宮殿へ行き、そこでこの言葉を語って、言え。『ダビデの王位に座るユダの王よ、あなたもあなたの家臣も、ここの門から入る人々も皆、主の言葉を聞け。主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の血を流してはならない。もし、あなたたちがこの言葉を熱心に行うならば、ダビデの王位に座る王たちは、車や馬に乗って、この宮殿の門から入ることができる。王も家臣も民も。しかし、もしこれらの言葉に聞き従わないならば、わたしは自らに誓って言う−と主は言われる−この宮殿は必ず廃墟となる。』」(エレxxii,1-5)。王よ、それゆえに、948B/ もしあなたが永遠の生命を享受することを望むならば、もしあなたがそれによって永遠に栄誉を受けることを望むならば、正義を愛せよ。なぜなら、次のように書かれているからである。「もしあなたが正義に従うならば、あなたはそれを理解し、そしていわば名誉の僧服を纏って、それと共に住むであろう。そしてそれはあなたを永遠に守り、あなたは認識の日に支えを見出すであろう。」(エゼviii,5?)。 それゆえに、あなたは地上で王であるときに、天上で王の息子であるように、正しい裁きと正義を愛せよ。あなたが言葉によってに叫ぶ[天の]父を行為によって模倣せよ。正義を愛し、正義において行為せよ。なぜなら、あなたの天の父が正義を愛し、そして正義において働かれるからである。御父御自身がエレミヤを通してこう言われる。「わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ。」(エレix, 24)。あなたの全力で主を模倣しなければならない。主と共にあなたは永遠に生きることを望むからである。948C/ 主は預言者エゼキエルを通してこう言われる。「もし、ある人が正しく、正義と恵みの業を行うなら、すなわち、山の上で偶像の供え物を食べず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を犯さず、生理中の女性に近づかず、人を抑圧せず、負債者の質物を返し、力ずくで奪わず、飢えた者に自分のパンを与え、裸の者に衣服を着せ、利息を天引きして金を貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を真実に裁き、わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる、と主なる神は言われる。」(エゼxviii, 5-9)。王よ、それゆえに、正義と正しい裁きを愛せよ。それは王の道であり、948D/ 古代の最初の王たちによって歩まれたのである。正義を通して良い望みが正しい人々に与えられるだろう。正義を通して正しい人々は危機的な状況から解放されるだろう。正義を通して彼らの子孫は永遠に堅固な基を築かれるだろう。正義を通して彼らの家は多くの強さを受けるだろう。正義を保持することによって、正しい者の記憶は称賛と共にあるだろう。正義に従うことによって、聖人たちは神から愛されるだろう。正義を守ることによって、彼らは神から高く揚げられるだろう。正義を遵守することによって、彼らは神から栄誉を受けるだろう。正義に信頼することによって、彼らはあたかもライオンのように恐怖から自由であろう。正義において働く彼らは永遠の祝福を与えられるだろう。正義と共に働く彼らは永遠の報酬を受けるだろう。次のように書かれている通りである。「神の賜物は正しい人々にとどまり、その祝福はその報酬において素早く来る。」(シラi,7?)。王よ、これが王の道であって、それを通ってあなたが早く永遠の王国へと到達されうように。949A/ しかし、正義を程よく実行せよ。そして無慈悲という右[の道]を注意深く避けよ。なぜなら、平衡の取れた正義は王の道を保つからである。もし注意深く平衡が取られなければ、容易に無慈悲の中に滑り落ちるであろう。

第9章 裁きについて

 しかし、あなたにこのことが起こることがないように。聖書は、次のように言って、あなたに救いとなるように忠告している。「孤児たちに対しては父親のようになり、孤児たちの母親に対しては、その夫がするように手助けするがよい。そうすれば、いと高き方はお前を子とみなし、母親以上にお前を愛してくださる。」(シラiv, 10)。またヨブはこう言っている。「わたしは見えない人の目となり、歩けない人の足となった。貧しい人々の父となり、わたしにかかわりのない訴訟にも尽力した。不正を行う者の牙を砕き、その歯にかかった人々を奪い返した。かつてわたしは苦しむ人のことを思って泣いた。949B/ そしてわたしの魂は貧しい人々に同情した。」(ヨブxxix, 15)。またこれが王の徳であるということをソロモン王は次のように言って、確証している。「弱い人にも忠実な裁きをする王。その王座はとこしえに堅く立つ。」(箴xxix, 14)。おお王よ、それゆえに、あなたの王座が主によって堅固にされることをもしあなたが望むならば、あなたは貧しい人や孤児のために裁きを行うことを止めず、やもめや抑圧された者の支えとなることを止めず、外国人や孤独な人を保護することを止めず、悲惨な人を支え、打ちのめされた人を助け起こし、落ちぶれた人を力づけ、疲れた人を強め、力を与えよ。あなたは富によって乞食を支援し、罪人の手から抑圧された人を解放することを止めてはならない。主が次のように言って、王たちに彼らの裁きについてダビデを通して叫んでおられることを聞け。「弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から救い出せ。」(詩Lxxxi, 3)。949C/ この考えに一致してシラ書はこう言っている。「不当に扱われている者を加害者の手から救い出せ。」(シラiv,9)。同じように、イザヤは次のように主張しながらこう言っている。「裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。論じ合おうではないかと、主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。お前たちが進んで従うなら、大地の実りを食べることができる。」(イザi, 17-19)。おお王よ、それゆえに、貧しい人の擁護者には何が起こるかを見、そして十分に注意せよ。自分が彼らに責任を負う者であること、また自分が負債を返す者であることを、神は告げられる。神は罪人に雪の白さを約束され、羊毛の白さに清潔さを与えられる。最後に、神は大地の恵みを食べることを許される。すなわち、それは次のように書かれている人々の大地である。「聖人たちはその地で949D/ 二倍のものを所有するであろう。」(イザLxi, 7)。そしてそれについて、詩編作者は次のように言っている。「わたしは信じます、命あるものの地で主の恵みを見ることを。」(詩xxvi, 13)。あなたは永遠の大地の恵みがあの王たちに与えられることを見る。彼らはこれらの貧しい者たちの擁護者として生きる。永遠の大地の実りが彼らに食べ物として与えられる。彼らはこれらの貧しい人々を敬虔に保護することを知っている。その果実はいとも優れた天使たちの果実であり、永遠の果実、永続的な果実、最も甘く、最も愛すべき果実、豊かさと肥沃さに溢れ、快楽と喜びに溢れ、幸福と栄光に満たされた果実である。
 おお、正しい王たちの生活はなんと幸福なことであろうか。それはこの世の一時的な事物によっても強められて輝き、そして永遠においては天使たちと共に不滅のものとして憩っている。地上的なこの世では喜びによって養われ、かの世では美の栄光によって装われる。この世では950A/ 民の群れに取り巻かれ、かの世では天使たちの合唱隊に伴われる。この世では人々の大群から喜びを与えられ、かの世では天使たちの合唱で喜びを受ける。この世では帝国のあの軍隊が付き従い、かの世では救世主の軍勢のうちで歓喜する。この世では王のマントに装われて輝き、かの世では不滅の栄光によって光り輝く。この世では王冠を頂き、かの世では歓喜の喜びによって跳びあがる。この世では地上の王の息子が名を呼ばれ、かの世では天上の王の息子が公に認められる。この世では地上の王国の大きな遺産を優雅に受け、かの世では天上の王国の幸せな分け前を幸せに受ける。いとも明敏なる王よ、これらのことがあなたに起こるように、全力を尽くして努力することを止めてはならない。神の助けによって、もしあなたにこれらのことが生じるならば、あなたをそれ以上に幸福にするものは何もないであろう。もしこれらのことが主によって幸いにもあなたに与えられるならば、栄光においてあなたを超越するものは何もないであろう。

950B/
第10章 憐れみについて

 神の助けによって敬虔に貧しい人ややもめ、外国人や孤児を保護しようと欲する者はもし可能ならば、憐れみをもって彼らの貧しさをその良いものによって拭い去らなければならない。そして次のように書かれているように、彼らの乞食状態を慈善の業によってしばしば養わなければならない。「子よ、貧しい人の生活を脅かすな。乞い求めるまなざしの人をじらすな。飢えている人を悲しませるな。途方に暮れている人を怒らせるな。いらだっている人を更に苦しめるな。乞い求める人に与えることをためらうな。悩んで助けを求める人を拒むな。貧しい人から顔を背けるな。物乞いをする人から目を背けるな。お前を呪う口実を彼に与えるな。…貧しい人の訴えに耳を傾け、穏やかにそして柔和に、答えるがよい。」950C/ (シラiv,1-5;8)。「主の掟に従って貧しい人を助けよ。その人が困っているとき、空手で帰すな。…施しをお前の倉に蓄えておけ。それはお前をあらゆる災難から救ってくれる。頑丈な盾や丈夫な槍以上に、施しはお前が敵と戦うときの武器となる。」(シラxxix, 12;15-18)。しかし、これが王の徳であるということをソロモン王は箴言において示している。彼はこう言っているからである。「慈しみとまことは王を守る。王座は慈しみによって保たれる。」(箴xx, 28)。ダビデもまた慈善を憐れみの心をもって為すすべての人についてこう言っている。「いかに幸いなことでしょう、弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき、主はその人を逃れさせてくださいます。」(詩xL,1)。単純で正しく、かつ神を畏れる人であるヨブも自分について真の証言を告白しながら,信頼してこう言っている。「わたしが貧しい人々を失望させ、950D/ やもめが目を泣きつぶしても顧みず、食べ物を独り占めにし、みなしごを飢えさせたことは、決してない。(わたしを胎内に造ってくださった方が、彼らをもお造りになり、我々は同じ方によって母の胎に置かれたのだから。)着る物もなく弱り果てている人や、からだを覆う物もない貧しい人を、わたしが見過ごしにしたことは、決してない。彼らはつねにわたしの羊の毛でからだを暖めて感謝したのだ。わたしが裁きの座で味方の多いのをいいことにして、みなしごに手を振り上げたことは、決してない。もしあるというなら、わたしの腕は肩から抜け落ちてもよい。肘が砕けてもよい。」(ヨブxxxi,16-22)。慈善によって天に幸いにも宝を積もうと望む者は生温く、あるいはのろのろと、また恐れながら慈善を施してはならない。951A/ 貧しい人には喜んで出費されるということが主御自身によって明らかに述べられているのだから、我々は大きな精神の朗らかさをもって貧しい人に慈善を施さなければならない。なぜなら、主御自身、その裁きにおいて、主の右に座す人々にこう述べられているからである。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(マタxxv, 34-36)。しかし、いつこれらのことを為したか知りたいと望んで、尋ねるかの人々に、主は答えて、こう言われる。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタxxv,40)。
 王よ、それゆえに、世の初めから用意されていた王国を受け継ぐために、あなたは951B/ キリストのために貧しい人にしばしば慈善を施さなければならない。もしあなたがキリストのために貧しい人に喜んでパンを施すならば、あなたはキリストが永遠に返済者であることを理解するであろう。もしあなたがキリストのために貧しい人に寛大な右手を差し出すならば、あなたはキリストから永遠の憐れみを得るであろう。なぜなら、彼自身が憐れみある者でない者は神の憐れみに値することはできないからである。また人間の貧しい者の嘆願に耳を貸さない人は神に対する敬虔から嘆願によって何かを得ることはできないからである。このように真理の霊はソロモンを通してこう言われる。「弱い人の叫びに耳を閉ざす者は、自分が呼び求める時が来ても答えは得られない。」(箴xxi,14)。また天使ラファエルは慈善を喜んでそして寛大に為すようにと、次のように言って、我々に勧めている。「正義をもって慈善の業をする方が、不正を行って金持ちとなるよりも、よいことです。金をため込むよりも慈善の業をする方がはるかにすばらしいことなのです。慈善の業は、死を遠ざけ、すべての罪を清めます。」951C/ (トビxii, 8)。天使は慈善によって我々の嘆願が有効なものとなり、慈善によって生命が危険から贖われ、慈善によって魂が死から解放される、と告げ、そしてそのことを肯定している。おお、いとも高貴なる王よ、あなたの創造主、救世主、そして支配者御自身がすべての天使、大天使、太祖、預言者そして使徒の前、全世界の、すなわち天と地のすべての軍勢の前で、あなたに憐れみに満ちてご自分の右に座れと他の人々と共にそのように呼びかけられるとき、あなたにとってなんとよいこと、なんと甘美であることだろうか。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」(マタxxv,34)。 それゆえに、いとも柔和にして明敏なる王よ、十分な信仰、献身的な精神、永続的な業によってあなたの神なる主に951D/ 従順になって、用意せよ。あなたがキリストから天において衣服を受けるために、キリストに地上において着物を与えよ。あなたがアブラハム、イサク、ヤコブと共に永遠の宴会に来るに値する者であるために、食べ物と飲み物を与えよ。これはあなたにとって永遠の喜びであろう。主が地上的なものの代わりに天上的なものを、一時的なものの代わりに永遠のものを、小さなものの代わりに大きなものを、滅び去るものの代わりに永続するものを、染められたものの代わりに永続するものを、壊れやすいものの代わりに堅固なものを、過ぎ去りゆくものの代わりにとどまるものを返すことを始められるとき、それはなんと大きなそして何と最大の光栄であることか。それゆえに、王よ、キリストもまたあなたを天の王国の共同遺産相続者となさるために、あなたの返されたものから分け前をあなたの主に与え、地上の所有のうちからあなたの分かち合いの相手であるキリストに与えよ。なぜなら、キリストはあなたが持っているすべてのものをあなたに与えられ、あなたに952A/ 後に百倍にして返されるものを貧しい人への慈善においてあなたから要求されるからである。キリストはあなたが、永遠においていと高き者に栄光を帰しながら、為すことを望まれ、そして貧しい人々においてあなたから小さな名誉を要求されるのである。

第11章 業によって主が賛美されるように

 次のように書かれているように、憐れみの業によって主が尊ばれるということは真理として認められる。「弱者を虐げる者は造り主を嘲る。造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。」(箴xiv,31)。同じソロモンは言っている。「子らよ、心を尽くして主を敬い、主の祭司をあがめよ。」シラクの息子イエズスは言う。「力を尽くしてお前の造り主を愛し、主に仕える人々をなおざりにするな。主を畏れ、祭司を尊べ。規定に従って、祭司にその分け前を納めよ。すなわち、初物、賠償の捧げ物、952B/ いけにえの動物の肩の肉、清めのいけにえ、聖なる初物の捧げ物。」(シラvii, 33-36)。なぜなら、この徳もまた明らかに王の徳であることを、主はダビデ王に叫び、そして彼を通してご自分に栄光を帰すように、次のように言って、他の王たちに訴えられる。「告白をいけにえとしてささげる人は、わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に、わたしは神の救いを示そう。」(詩xLix, 23)。ダビデ王自身も自分自身についてこう言っている。「主よ、わたしの神よ、心を尽くしてあなたに感謝をささげ、とこしえに御名を尊びます。」(詩Lxxxv,12)。すべての人々のために王たちが神に栄光を帰すことは相応しくまた正しいことである。なぜなら、すべての人々のために王たちは952C/ 神から栄光を受けるからである。王たちよ、神に栄光を帰せよ、なぜなら神が最初にあなたたちに栄光を帰したからである。神の声はソロモンを通して叫び、こう言われる。「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている。…わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力をもつ。わたしによって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める。君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆、わたしによって治める。わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。わたしのもとには富と名誉が在る。」(箴viii, 12,14-18)。

 王よ、それゆえに、あなたは全力を尽くしてあなたの神なる主に栄光を帰さなければならない。神はあなたにすでに称賛を与え、今栄誉を約束されたのである。この世では神はすでにあなたに王国の教育、思慮そして剛毅を等しく与えられた。あの世では永遠の952D/ 不死を約束された。この世ではあなたを地上の王国へと登らせ、あの世ではあなたに天上の帝国を約束された。この世ではあなたに一時的な喜びを与え、あの世では永遠の喜びを約束された。この世では王国の遺産を与え、あの世では最も豊かな天国の所有を約束された。この世では満ち溢れる富を与え、あの世では後に受けるべきものを準備された。この世ではあなたをすでに王の紫の衣で装わせ、あの世ではこれから不死のマントで装われるであろう。この世ではすでにあなたの頭に王冠を乗せられたが、しかしあの世ではこれから永遠の冠を置かれるであろう。この世ではすでに王の花環を与えられたが、あの世では大いなるそして語り尽くせない喜びを与えられるであろう。この世では多くの仕事を与えられたが、あの世では輝かしい永遠の王国を約束された。この世では悲しみなしに一時的なものを取り去られたが、あの世では永遠に終わりなく生命を生きることを与えられるであろう。953A/ この世では砦において徳を持つことを与えられたが、あの世では天使たちとの幸福な交わりを与えられるであろう。この世では地上の多くの富を与えられたが、あの世ではすべての聖人たちと共に天上的で共同的なもの、すなわち、使徒がそれについて次のように言っている、あの永遠的なものを約束された。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された。」(1コリii,9)。

第12章 十分の一の捧げ物と初物について

 いとも明敏なる王よ、それゆえに、あなたの習慣と行為によってあなたの主なる神に栄光を帰せよ。十分の一の捧げ物と初物によって、そしてこう書かれているように、すべての捧げ物によって、あなたの生活においてあなたの主なる神に栄光を帰せよ。「子よ、分に応じて、財産を自分のために使え。主に対しては、ふさわしい供え物を献げよ。次のことを心に留めよ。死は必ずやって来る。」(シラxiv,11)。953B/ なぜなら、律法においても主はイスラエルの子らに命じて、こう言われるからである。「十分の一の納期である三年目ごとに、収穫物の十分の一を全部納め終わり、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、彼らが町の中でそれを食べて満ち足りたとき、あなたの神、主の前で次のように言いなさい。『わたしは聖なる献げ物を残らず家から取り出し、すべてあなたが命じられた戒めに従って、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、あなたの戒めからはずれたり、それを忘れたりしませんでした。それを喪中にたべたり、汚れているときに取り出したり、死者に供えたりしたことはありません。』」(申xxvi,12-14)。更に主御自身が預言者マラキアを通してこう言われる。「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによってわたしを試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために、天の窓を開き、953C/ 祝福を限りなく注ぐであろう。また、わたしはあなたたちのために、食い荒らすいなごを滅ぼして、あなたたちの土地の作物が荒らされず、畑のぶどうが不作とならぬようにすると、万軍の主は言われる。諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。あなたたちが喜びの国となるからだと、万軍の主は言われる。」(マラiii, 10-12)。
 いとも明敏なる王よ、それゆえに、善の与え主、また最善の与え主を見、そして思慮深く理解せよ。主はあなたに無数の王の富を与え、倉庫には多くの十分の一の捧げ物と初物を運び入れることを命じられた。今地上に置かれたあなたは、十分の一の捧げ物と初物によって主に栄光を帰せよ。主はあなたを天上に置いて天使的な富によって豊かにされるであろう。王よ、あなたにとって、正しい王たちの集いがいかに甘美であるか、長老たちの集まりがいかに快いものであるか、預言者たちの社会がいかに甘美であるか、953D/ 使徒たちの兄弟関係がいかに明るいか、殉教者たちの名声がいかに喜びに満ちたものであるか、乙女たちの栄光がいかに優れたものであるか、天使たちの平等がいかに喜ばしく、誉むべきものであるか、世々にわたってとどまる消し去ることのできない生命がいかに幸福であるか、を考えよ。王よ、もしあなたの十分の一の捧げ物と初物によって神に栄光を帰しさえするならば、あなたは未来にかくも大いなるそして名状できない宝を受けとるであろう。

第13章 宝を天に蓄えるように

 そして我々の事物の宝を天に蓄えるようにと、主は福音書において我々に次のように言って、忠告される。「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食ったり、さび付くこともない。」(マタvi, 20)。954A/ 更に主御自身は福音書において金持ちにこう言われる。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マタxix,21)。いとも明敏なる王よ、あなたの宝を天に置け。そこではあなたは敵や襲撃者を恐れないであろう。そこではあなたは隠れた盗賊や強盗を恐れることはないであろう。一般の盗賊や暴徒はそれを奪うことはできないであろう。実際あなたの祖国は天の国である。あなたは後になってあなたの祖国へと受け入れられなければならないのであり、さまざまの宝を隠さなければならない。天の国では大多数の大切な人々があなたを待っている。すなわち、両親、兄弟そして姉妹の無数の群れがあの世であなたが彼らのすでに安全な不死について見ることを、しかしいまはあなたの不安定な救いについて見ることを望んでいる。実際、あの世では長老たちの合唱隊があなたを待ち、多くの預言者たちがあなたを954B/ 望み、使徒たちとすべての聖人たちの楔形の集団があなたを知ることを欲している。おお、それらすべての聖人たちの集いへ到達すること、それらすべての者の幸福な集まりに行くことはいかに大きな喜びであることか。あの世で使徒たちの栄光に満ちた合唱隊を知ることはいかに最大のそして永続的な幸せであることか。あの世で預言者たちの歓喜の聖なる階級に参加し、乙女たち、殉教者たち、証聖者たちそしてすべての主のための勝利の候補者たちの間で聖人たちの楔形の集団に参加することは、いかに幸せであることか。王よ、あなたが彼らの幸福な集いに参加するに値するために、あなたの遺産のうちから毎日、天に良い宝を蓄え、悪い宝を蓄えるな。次に言われているように、良い宝と同じように、悪い宝もあるからである。「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から954C/ 悪いものを出す。」(ルカvi, 45)。実際、傲慢は人を膨らませ、怒りは燃え立たせ、貪欲は不安にさせ、無慈悲は刺激し、名誉欲は喜ばせ、欲望は下落させる。この人は不正の宝を自らのために蓄える以外の何を為すのか。実際、このような人について使徒パウロはこう言っている。「神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」(ロマi, 28-31)。またこれらの人々について彼は以下のように言っている。「あなたは、かたくなな心で改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、954D/ 神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」(ロマii,5)。

第14章 人間は自分のためにこの世において蓄えた宝のいかんに応じて、死後にそれを見出す

 今生きている人が天にどんな宝をどの位蓄えたかによって、彼はそれを死後に見出すであろう。実際、パウロはガラテアの人々に対してこう言っている。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に955A/ 信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」(ガラvi, 7-10)。ソロモンもこう言っている。「悪を蒔く者は災いを刈り入れる。寛大な人は祝福を受ける。」(箴xxii,7-8)。王よ、あなたが神から恵みを受けるに値する者であるために、憐れみに向かうに容易な者であれ。今の世に貧しい人に与えた種子を、あなたは未来に数倍の収穫として自ら刈り取るであろう。あなたが永遠の国において数倍のパンを見出すために、あなたのパンを飢えている人の器に入れよ。実際、ソロモンはこのように言っている。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。」(コヘxi,1)。しかるに、パンを水に浮かべて流すということは、貧しい人や飢えている人に、そしてこの世から移り過ぎて行く人に、慈善を施すこと以外の何であろうか。「月日がたってから、それを見いだすだろう」ということは、あなたが未来の世において955B/ かの豊かな賞から報いを受けるということ以外の何であろうか。

第15章 富に信頼を置かないことについて

 そして主はあなたに憐れみ深く今の世において王の豊かな富を与えられたから、あなたは未来の祖国においてそれらから多くの蓄えを見出すために、賢明に行為しなければならない。実際、それらが天の宝のうちに幸いに蓄えられていないならば、本当に他の富であるとは言われない。王よ、それゆえに、使徒に聞け。そして今の世のこれらの滅びやすい富に信頼を置くな。あなたは貧しい人に支払われたもののうちに天の宝を築くであろう。使徒パウロは次のように言っている。「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富みに望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。955C/ 善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。」(1テモvi,17-19)。実際、憐れみと正義の業は死後に人間を守るが、富はそうではない。ソロモンはこのように言っている。「不正による富は頼りにならない。慈善は死から救う。…富に依存する者は倒れる。神に従う人は木の葉のように茂る。」(シラx,2;箴x,2;xi, 28)。ダビデもまたこう言っている。「不正に信頼を置くな。そして盗みを欲するな。富が満ち溢れても、心は仕えるな。」(詩Lxi,11)。心が富に仕える人は、その富のうちに唯一の幸福があると信じる人である。このように心が富に仕える人は、貧しい人のためにものを消費することを望まず、むしろそれを懇願して獲得する。955D/ 彼は自分の金を使うことを欲せず、人を踏み付けることを欲する。彼はその遺産を困窮している人に惜しげなく与えることを望まず、相続人から集めたものを損失のないように守ろうと望む。そしてそれゆえに彼らは死後には何も見出さない。なぜなら、彼らは生きている間に貧しい人に何も与えないからである。彼らについて詩編作者は適切にこう言っている。「彼らはその眠りを眠った。そしてその手のうちにすべての富を持つ人々は何ものも見出さなかった。」(詩Lxxv,6 ?)。この目的のためにソロモンは富について要約された文章を作った。そこではこう言われている。「大規模にことを起こし、多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。池をいくつも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。買い入れた男女の奴隷に加えて、わたしの家で生まれる奴隷もあり、956A/ かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く、牛と羊と共に財産として所有した。…しかしわたしは顧みた、この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。…太陽の下に、益となるものは何もない。」(コヘii, 4-7;11)。
 詩編作者は多くの富を持つことを非難しているのではなく、心がそれに仕えることを禁じているのである。もし多くの分配が存在するならば、富の正しい集積はあなたに害を与えないであろう。実際、富によって憐れみの奉仕が困窮している者に拡げられる。富によって貧しい人の裸が覆われる。富によって外国人の欠乏が満たされる。富によって孤児たちの悲惨が拭い取られる。富によって寡婦の援助が与えられる。富によって飢えている人の飢餓が取り除かれる。富によって渇いている人の渇きが避けられる。富によって弱っている人の望みが満たされる。富によって受ける人々は悲惨から解放されるであろう。そして彼らの忠実な家令は未来において豊かにされるであろう。

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第16章 富において誇るのではなくへりくだりにおいて誇ることについて

 それゆえに、天上の宝のうちに隠されているあの富は永遠にとどまる。そして移り行く世において保持される富は過ぎ去りそして滅びる。滅び去るべき富に信頼を置くべきでないのと同じように、それは栄光を帰すべきものではないのであって、むしろ善いそして偉大な徳において喜び、かつそれに栄光を帰すべきである。富んでいる者は富において誇るのではなく、へりくだりにおいて誇らなければならないということを、ヤコブは次のように言って、証言している。「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。」(ヤコi, 9)。王よ、それゆえに、富において誇ってはならず、へりくだりにおいて誇れ。謙遜であれ、へりくだりにおいて堅固であれ。あなたが高位にあり、大いなる者であり、至高であればあるほど、謙遜を保て。なぜなら、つぎのように書かれているからである。「偉くなればなるほど、956C/ 自らへりくだれ。そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。…主の威光は壮大、主はへりくだる人によってあがめられる。」(シラiii,20)。王よ、それゆえに、もしあなたが謙遜を保つならば、あなたは恵みを受けるであろうし、あなたは栄光をも受けるであろう、そしてその上にあなたの魂の憩いを見出すであろうことを、あなたは見る。実際、そのようにあなたの主はあなたの救世主にして医師、あなたの創造主にして支配者であり、あなたが主に従うべきことを教えられ、あなたが学ぶべきことをあなた自身に、こう言って示される。「わたしは謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタxi, 29)。同じ主ご自身が預言者を通して叫びそして言われる。「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」(イザLxvi,2)。
 それゆえに、もしあなたが、神があなたを顧み、いと高きこをを956D/ 為し、栄光を与え、そして高められることを望むならば、神のみ前にへりくだれ。実際、使徒ヤコブはこう言っている。「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」(ヤコiv, 10)。この謙遜な王の道を通って、紫衣を着けそして高貴の髪紐を結んだいと強き王にして司祭たるダビデはしっかりと走りつつ叫んだ。「主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。たとえわたしがへりくだって聞かずに、わたしの魂を高く揚げたとしても。」(詩cxxx,1-2)。実際、謙遜の徳は偉大であり、すべてのものの驚くべき母そして諸徳の教育者である。しかし、この人間的な徳はどんなところからも意志によっては獲得されないのであって、それを望んだ者に主によって憐れみの心で与えられる。それは優れた諸徳の中でも最も尊敬すべき徳として957A/ 高く立っている。というのは、神の偉大さはそれを相応しく受けとったからである。この徳もまた王の徳であるということを古代の王たちの行為が証言している。傲慢なサウルを低くしながら主は言われる。「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ。」(1サムxv, 17)。そしてそれは次の隠された声を聞くことである。すなわち、あなたが自分を自分の目に大いなる者と考えたとき、あなたはわたしの目に小さなそして低い者とされた。ダビデはサウルの娘ミカルに、彼女が彼を蔑んだのを非難するために、こう言う。「わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。」(2サムvi, 22)。王よ、それゆえに、一人が傲慢によって王国の人々の中から独り打ち倒され、そして他の者が謙遜によって王国の栄光へと高められたということを見よ。それゆえに、彼らのうちに次のことが実現されたのである。957B/ 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(マタxxiii,12)。彼らのうちの一人が彼らの目には高められたとき、彼は主の目には正当に低められた。他の者が彼の目には低い者と見下げられたとき、彼は神の目には相応しく高められた。王よ、それゆえに、あなたが主の目には高められるために、あなたの目には低い者となれ。なぜなら、あなたがあなたの目に低くなればなるほど、いと高き者の目にはそれだけあなたは栄光ある者となるからである。

第17章 平和について

 神のために自分自身の前で自分を低くする者以上に、誰も神の前で自分を高くする者はいない。実際、神の子、キリストの相続者と呼ばれるために、人は謙遜なる主によって、とくにそのために、高められる。彼は平和を追い求めるだけである。957C/ なぜなら、彼は平和を捜し求め、平和の子に従わなければならないからである。そのような種類のことを使徒は次のように言って、われわれに勧告している。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」(ヘブxii,14)。また、主御自身も福音書においてこう言っておられる。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタv, 9)。実際、その神の掟と救いの教えの間に、救世主はすでに受難のすぐ前に、この掟と命令を守るように我々に委ねられた。主はこう言われる。「わたしは、わたしの平和をあなたがたに与える。」(ヨハxiv,27)。昇天される主は我々にこの遺言を残された。そしてその最も忠実な王にして預言者であるダビデを通して、それに従うように命じられた。「悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ。」(詩xxxiii, 15)。実際、もし我々がこのことに真摯な心で従うことを957D/ 望むならば、我々はキリストの相続人であろう。しかし、もし我々がキリストの相続人であろうと欲するならば、我々はキリストの平和において方向転換をさせられなければならない。もし我々が神の子であるならば、我々は平和をもたらす者でなければならない。実際、平和をもたらす者は神の子、謙遜な者、精神において柔和な者、心において単純な者、話において純粋な者、魂において無垢な者、性向において調和のとれた者、自己に忠実でひとつの心で首尾一貫している者でなければならない。

第18章 正義の熱情について

 王よ、王の道を進め。そこから右にも左にも逸れるな。正義の熱情から逸れることがないように、謙遜と平和の道を保て。王よ、謙遜と平和を保て、と私は言う。そしてダビデと共に叫び、こう言え。958A/ 「あなたの神殿に対する熱情がわたしを食い尽くしている。」(詩Lxviii, 10)。主が売り買いする人々を神殿から鞭で追い出されたとき、その行為においていかなる目的を真に達成されたのだろうか。エレアザルの子であるピネハスは正義の熱情のために主から永遠の司祭職の契約を受けるに値いした。主はモーセにこう言われる。「祭司アロンの孫で、エレアザルの子であるピネハスは、わたしがイスラエルの人々に抱く熱情と同じ熱情によって彼らに対するわたしの怒りを去らせた。それでわたしは、わたしの熱情をもってイスラエルの人々を絶ち滅ぼすことはしなかった。それゆえ、こう告げるがよい。『見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を授ける。彼と彼に続く子孫は、永遠の祭司職の契約にあずかる。彼がその神に対する熱情を表し、イスラエルの人々のために、罪の贖いをしたからである。』」(民xxv,11)。そしてそれゆえに、いとも柔和なる王よ、主の神殿に対する熱情があなたを食い尽くすように。その神殿においてはあなたもキリストの肢体である。958B/ 肢体は頭に従わなければならない。しかしもしあなたがキリストの教会のうちに何か悪しきものをたまたま見出すならば、あなたはそれを正し、改善することを躊躇してはならない。もしあなたが神の家、すなわち教会のうちに贅沢や泥酔へ走る人を誰か見るならば、神の家に対する熱情があなたを食い尽くしているならば、それを禁じ、反対し、恐れによって思いとどまらせよ。もしあなたが傲慢によって膨れあがり、怒りによって凶暴になり、暴力によって酔っ払い、兄弟に対する悪意によって嫉妬深くなり、欲望によって燃え立ち、盗みの貪欲によって征服され、残酷さによって激烈になるのを見るならば、すべてを抑え、すべてを脅かし、すべてを最も厳しく制御せよ。あなたのできることをなんでも、行為よりも人間のために、あなたが保持している王の職務のために、あなたが持っているキリスト者の名のために、あなたが行使しているキリストの代理のために為せ。キリストを/??????/するのを休むな。なぜなら、あなたはそれらをキリストから獲得したからである。そしてそれらをあなたのうちで完成せよ。「神殿に対する熱情があなたをわたしを食い尽す。」実際、この熱情は958C/ 救いをもたらし、信仰を保ち、廉恥を保持し、正義を愛し、神の教会を栄光に満ちた溌剌さで保護するのである。

第19章 慈しみについて

 あなたが謙遜と慈しみの義務を放棄しないために、このように正義の熱情を用いなければならないことを記憶せよ。次のように書かれているのを聞け。「慈善は命への確かな道。悪を追求する者は死に至る。」(箴xi, 19)。実際、このことは小さなことと考えられるべきではなく、いとも熱心に追求すべきことであり、徳をしっかりと保つべきである。徳はわれわれに不死の、永遠の生命を準備する。あなたは動揺する精神でではなく、慈しみをもってすべてを配慮しなければならない。あなたがどれほど黄金と緋衣で輝いていようとも、あなたは謙遜の慈しみを投げ捨ててはならない。あなたがどれほど958D/ 王の教養によって輝いていようとも、あなたは謙遜の慈しみから退いてはならない。あなたが民の群れによって取り巻かれていようとも、にもかかわらず、あなたは敬虔な慈しみを保て。なぜならそれは王の徳であり、良き王たちの守りだからである。その徳を守ることによって王たちの子孫が保たれ、彼らの王座は堅固にされるであろう。次のように書かれている通りである。「慈しみとまことは王を守る。王座は慈しみによって保たれる。」(箴xx, 28)。慈しみは民に仕えることを王の喜びとするものである。慈しみは、ソロモンが言っているように、王の顔を最も喜ばしく輝かすものである。「王の顔の輝きは命を与える。彼の好意は春の雨をもたらす雲。」(箴xvi,15)。慈しみは王の宮殿にいるすべての者に楽しみと喜びを与え、王のすべての子らに959A/ 満ち溢れるばかりの贈物を増やし、子ども、青年そして老人を喜ばせ、宮殿のあらゆる角を通り抜けて子どもたちを走り回らせ、多くの接吻と多くの抱擁を与える。いとも慈しみ深い王よ、それゆえに、私はすべての人に喜びを、そしてすべての人に愛を与える慈しみの徳があなたの顔にいつまでも輝くことを望む。

第20章 思慮深さについて

 そしてあなたがこれらすべてを思慮をもって行うようにと、聖書はソロモンを通して次のように言って、忠告している。「思慮深い人は皆知識に基づいてふるまう。」(箴xiii,6)。そしてイエススの子シラはこう言っている。「子よ、思慮なしになにごとをも為すな。」(シラxxxii,24)。そしてあなたが知恵と規律と思慮をもって生きるようにと、同じソロモンは次のように言って、あなたに忠告している。959B/ 「勧めに聞き従い、諭しを受け入れよ。将来、知恵を得ることができるように。』(箴xix,20)。「勧めを受け入れる人は知恵を得る。」(箴xiii, 10)。「相談しなければどんな計画も挫折する。参議が多ければ実現する。」(箴xv, 22)。彼はまたこう言っている。「香油も香りも心を楽しませる。友人の優しさは自分の考えにまさる。」(箴xxvii, 9)。「戦争には指揮する力が必要であり、勝利を得るためには作戦を練るべきだ。」(箴xxiv,6)。実際、思慮は大いなるものであり、王たちにとって非常に必要なものである。そしてそれは小さなものと考えられてはならず、金銀の上に置かれるべきものである。そしてまさにこのことを聖書は次のように言って、証明している。「金も銀も人の足もとを固めてくれる。だが、いずれにもまさる支えは、良い助言である。」(シラxL, 25)。
 959C/ 王よ、それゆえに、思慮がいかに王の徳であるか、聖書が、思慮は金や銀に優るということをいかに述べているか、思慮は泉のように豊かに溢れ出ると叫んでいるかを見よ。それゆえに、王の道を走るすべての者はこの思慮の徳を愛したのである。思慮の徳に絶えず強められてノアは百年の間箱船を造り、そして洪水のときにそれを操縦した。思慮の徳によって強められてアブラハムはその家族の絆によって煩わされずに、出立し、他の部族の間に分別をもって滞在した。思慮の徳に堅く信頼してイサクは主によってすべての民の祝福を己に受けた。母の忠告を聴いてヤコブは父の祝福を受け継ぎ、兄弟のなかでの長子権を得、子孫の十二族のなかで大いに繁栄した。この思慮の徳によって最も若いモーセは959D/ 60万人を砂漠を通って導いた。この思慮の徳によって彼の兄弟のアロンは忠実に聖なる役目と祭司の職務を果たしながら、通過した。この思慮の徳によって祭司エルアザルの子ピネハスは主に対する熱情に満たされて、ジムリをミディアン人の娼婦と共に槍で刺し貫いた。そしてすでに民の上に怒って懸かっている主の怒りを押しとどめた。それゆえに彼は永遠の祭司の祝福をその子孫に残したのである。ヨシュアはこの思慮の徳を養父モーセから受けて、30の部族の王たちを殺し、彼らの王国を破壊し、エリコの城壁を破壊し、約束の地に神の民を導き入れ、その地を彼らに、思慮の計算を用いて張った綱によって分割した。この思慮の徳によってサムエルは960A/ 神の民を正しく裁いて統治した。この思慮の徳によってダビデはゴリアトを殺し、ライオンと遊び、王国を受け継いで賢明にそして堅固に統治した。この思慮の徳によってソロモンは平和的に民に君臨し、至高の主のためにエルサレムに神殿を建立した。この思慮の徳によってエリアは五つの部族の人々を二度天の火によって焼き尽くし、神の助けによって、適当な時に天の雨を遅らせ、再び適当な時に呼び戻した。この思慮の徳によって殉教者たちは、主から永遠の生命を受けるために、一時的な死に自らを捧げた。この思慮の徳によって乙女たちや証聖者たちは主への奉仕において最後まで忍耐した
 王よ、それゆえに、あなたが為すすべてのことを思慮をもって為せ。なぜなら、次のように言われているからである。960B/ 「いと高き者が真理においてあなたの道を導いてくださるように、すべてのことにおいて祈れ。あらゆる業の前に真のみ言葉があなたを導かれるように。そしてすべての行為の前に思慮が支えるように。」(シラxxxvii,19-20)。「偉大なる主の御心ならば、彼は悟りの霊に満たされる。彼は知恵の言葉を注ぎ出し、祈りをもって主を賛美する。」(シラxxxix, 8)。

第21章 どんな傲慢も避けるように

 王よ、神の助けによって、これまで我々はあなたが為さなければならないことを順番に述べて来た。しかし、次に我々はあなたが安全に避けなければならないことを述べることにする。なぜなら、悪を注意深く避ける人が善を安全に集める人よりも徳が小さいというわけではないからである。いとも明敏なる王よ、960C/ それゆえに、あなたのすべての行為において、あなたは王の道をはっきり識別して守り、その道を安全に通って歩き、業の一歩をしっかりと続けなければならない。そして幸いに右の道をとって、注意深くまた慎重に左の道を避けよ。なぜなら、右の道は謙遜の徳であり、それは他の諸徳を養い、よく生きる者たちを永遠の生命へと導くからである。左の道は傲慢の悪徳であり、それはたの悪徳を養い、悪に同意する者たちを永遠の罰へと導く。実際、傲慢は第一のそして最大の悪徳であり、シラ書に言われている通りである。「高慢は、主にも人にも嫌われる。…高慢の初めは、罪である。高慢であり続ける者は、忌まわしい悪事を雨のように降らす。それゆえ、主は想像を絶する罰を下し、彼らを滅ぼし尽くされた。主は支配者たちをその王座から降ろし、代わりに、960D/ 謙遜な人をその座につけられた。主は諸国民を根こそぎにし、代わりに、身分の低い人々を植え付けられた。主は諸国民の領土を覆し、地の基まで破壊された。主はある人々を取り除いて打ち滅ぼし、彼らについての記憶を地上から消し去られた。」(シラx, 7;15-21)。主はまた低い木と高い木についての比較をしながら、エゼキエルを通してこう言われる。「そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。主であるわたしがこれを語り、実行する。」(エゼxvii, 24)。主はまた福音書においてこう言われる。「だれでも高ぶる者は961A/ 低くされ、へりくだる者は高められる。」(マタxxiii,12)。また主御自身がエレミアを通して傲慢な者に恐れをあたえてこう言われる。「傲慢な者よ。見よ、わたしはお前に立ち向かうと、万軍の主は言われる。お前の日、わたしがお前を罰する時が来た。傲慢な者はよろめき倒れ、助け起こす者はいない。わたしはその町々に火をつけ、火は周囲のすべてのものをなめ尽くす。」(エレL,31)。

 傲慢は大いなる悪であり、それは悪魔を天から追い落とし、人間を天国から投げ出す。それはまた毎日、悲惨な者たちを正しい状態からどん底へと押し出し、死後地獄へと沈める。傲慢はまず考えにおいて人間を高め、その後で高く上がった者を業において持ち上げる。それはまず心の秘められたところで人間を膨れ上がった者にし、その後で公衆の面前で墜落させる。961B/ 傲慢な者たちが外面的に倒れるのは、彼らがまず悲惨な者として内面的に高められるからである。実際、人間は正当に罪によって屈服させられて投げ倒されるが、傲慢になることによって自分の造り主を見くびる。いとも賢明なる王よ、それゆえに、傲慢の悪を大いに恐れ、避けよ。奴隷的な左の道を逸れて、王の道である右の道を通って速やかに走れ。謙遜を愛し、そして保て。そして主が聖書を通して熱心にあなたに叫んでおられることに注意せよ。主はこう言われる。「宴会の世話役に選ばれたなら、有頂天になるな。客の一人として、皆と同じようにふるまえ。彼らに心を配り、席につけ。自分の任務をことごとく果たした後に着席せよ。そうすれば、みんなの楽しみがお前の喜びとなり、事の運びが見事だというので誉れの冠を受ける。」(シラxxxii, 1-2)。

第22章 ねたみと恨みについて
962C/

 他人の善をねたむことと恨むことは小さな罪ではなくて、大きな罪である。悪魔は世界の初めに直ちにねたみと恨みにかられて最初に堕落し、そしてこのようにして他の者を破滅させた。しかるに後に人間が神の像に似せて造られたことを見て、ねたみと恨みで攻撃し、哀れな人間を誘惑しながら欺いた。しかし、持っていた天使的な幸福を最も悲惨な仕方で失った。そしてその時から、書かれているように、「悪魔のねたみによって死がこの世に入った。」(知ii,24)。しかし、悪魔の側にいる者たちは悪魔を模倣する。不正なカインは悪魔を模倣し、ねたみと恨みによって彼の正しい兄弟アベルを殺した。ねたみと恨みによってエサウはその兄弟ヤコブを敵とした。ねたみと恨みによってヨセフはその兄弟たちから売られた。961D/ ねたみと恨みによってダビデはサウルの敵そして追跡者とされた。各々の事例によってそれを検討するのをもっと遅らせてはならない。ユダヤの民はねたみと恨みによって滅びた。彼らははキリストを信じるよりはむしろ拒否する方を選んだ。ねたみと恨みは、一つの悪徳の名によって評価されるけれども、さまざまの構成要素によって多様な枝を生じる。それはすべての悪の根であり、悪徳の泉である。そこから憎しみが生え出、そこから自惚れが生じる。ねたみは貪欲を燃え立たせ、野心を掻き立てる。ねたみ恨みの悪によって神の畏れが退けられ、キリストの教権が無視され、裁きの日が予め見られず、傲慢が燃え立たせられ、激情が募らせられ、裏切りが謀られ、忍耐の無さが掻き立てられ、不和が怒り狂い、怒りが煽られる。他の権力の代理として立てられた者は自らを制限したり支配したりすることはできない。このゆえに、すべての平和の絆は962A/ 引き裂かれ、このゆえに兄弟の愛は汚され、このゆえに真理は歪曲され、統一は引き裂かれ、司祭たちが侮られ、司教たちが拒否される間に異端と分裂へと行き着く。ねたみから傲慢が生じ、ねたみによって魂は悪しく変えられる。そのような人々には食物も喜びではなく、飲み物も楽しみではない。いつも他者の善に向かって溜め息をつき、不満の声を上げる。このゆえにその顔は険悪、目付きは刺すようであり、顔色は蒼白、唇は震え、歯ぎしりをする。わたしはこれ以上に何を言えばよかろうか。ねたみと恨みからすべての悪徳の泉が湧き出てくる。
 いとも柔和にして高貴なる王よ、それゆえにあなたはすべてを愛し、そして父としてまた王としての愛情によってすべてを抱擁し、かくも有害な憎しみの悪を注意深く避けよ。なぜなら、使徒ヤコブはこう言っているからである。「ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがある。」(ヤコiii,16)。962B/ それゆえに、あなたは、ねたみと憎しみの怒りがいかに死をもたらすものであるかを見るのである。それはすべての徳の芽を焼き尽くし、破壊的な炎によってすべての良いものを滅ぼし、感情を消耗し、心をいらいらさせ、精神を抑圧し、人間の心をいわばペストのように破滅させる。おお王よ、それゆえに、ねたみと恨みに対して心に溢れるほどの善を与えよ。憎しみに対して兄弟的な慈愛と愛の武具を備えよ。すべての人との平和を愛し、すべての者との平和を保て。柔和と愛においてすべての人を抱擁せよ。天において天使と共に幸福に喜ぶために、地上ですべての人から快く愛されるように努めよ。

第23章 悪に悪を報いてはならないことについて
962C/

 純粋な心と全き精神で、あなた自身と同じように隣人を愛せよ。彼があなたに対して罪を犯した場合にも同じように、あなたは赦し、悪に悪を報いてはならない。こう書かれているとおりである。「悪に報いたい、と言ってはならない。主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。」(箴xx, 22)。それゆえに、あなたに対して罪を犯した者を心から赦せ。そして自分の罪から赦されるように、神を待ち望め。あなたに罪を犯した者に対して復讐してはならない。次のように書かれているからである。「復讐する者は、主から復讐を受ける。主はその罪を決して忘れることはない。隣人から受けた不正を許せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。」(シラxxviii,1-2)。しかし、あなたは王であり、至高の王の息子であるから、あなたの罪もまた主によって赦されるために、あなたの神である御父に倣い、隣人の罪をそのままにせよ。962D/ あなたの神があなたにそう為されるように、あなたの欲することをあなたの隣人にも為せ。主が復讐されることによって、罪があなたから期待されることのないように、隣人から補償を求めてはならない。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ロマxii,21)。神があなたに為されることをあなたが望まないことを、人間であるあなたは人間に為してはならない。新旧両聖書には次のような記述が繰り返されている。「あなたが為されることを欲ないことを他人にも為すな。」それゆえに、もし誰かが他人からは決して被ることを望まないことを他人に為すことを避けるならば、確かに彼は傲慢によって舞い上がった者が隣人を見下げないように注意する。彼は野心によって動かされて友人を怒らせないように注意し、ねたみの苦しみによって引き裂かれないように用心する。しかし、他人からして欲しいと望むことを他人に為そうと思う者は誰でも、確かに悪に対して善を、善にに対してより善いものを返し、抑制のない者に柔和を示し、963A/ 謙遜な者に善意の恵みを示し、誤った者に正義の道を示し、不和な者に平和へと呼び戻し、必要な物を欠いている者に与え、苦しんでいる者を慰めの言葉によって支え、そして隣人にとって大切なすべてのものを提供しなければならないと考える。

第24章 怒りを抑えるべきことについて

 思うに、人間は人間に怒りによって復讐しがちであるから、われわれの使徒は次のように言って、怒りによって罪を犯すことを禁じている。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」(エフェiv, 26)。いとも柔和なる王よ、それゆえに、怒りによって兄弟に対して復讐を望む者はその心において悪魔に場所を作るのだ、ということをあなた見る。実際、悪魔は、自分自身のうちにいる限り、キリストである太陽に陥落する。963B/ 太陽によってキリストが、暗闇によって悪魔が正当に理解される。また一人の人間の魂のうちに太陽と暗闇が同時にとどまることはできない。光が住めば暗闇は逃げて行く。闇にとどまる者には光が妨げられる。また甘さは苦さと共に、闇は光と共に、戦いは平和と共に、嵐は静けさと共にとどまることはできない。いとも柔和なる王よ、それゆえに、神の助けによって、怒りを捨て、怒りによって復讐をするな。我々に忠告しているパウロの言葉が何を言おうとしているのかを熱心に注意せよ。彼はこう言っている。「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」(コロiii, 8)。ヤコブもまたこう言っている。「人の怒りは神の義を実現しない。」(ヤコi,20)。ソロモンはこう言っている。「ねたみや怒りは寿命を縮め、963C/ 思い煩いは人を老けさせる。」(シラxxx,26)。全教会の飾り、説教者にして博士、模範にして形相、創造主、指導者そして支配者である我々の主御自身が兄弟の怒りから我々を完全に取り去って、こう言われる。「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」(マタv,22)。それゆえに、王たちにとって最も避けねばならないことはその怒りを爆発させてしまうことである。実際、また誰であれある人の怒りは王の怒りとは等しくないのである。王の怒りについてはこう書かれている。「王の憤りは若いライオンのうなり声。」(箴xix,12)。そして再びこう言われている。「王の怒りは死の使い。」(箴xvi,14)。それゆえに、王の怒りが復讐をもたらすことに対して効果的であればあるほど、それだけいとも忠実な王たちからは中庸で注意深くあることが要求されるのである。 いとも柔和なる王よ、我々が書いているこの王の道を、もしあなたが走り、そして963D/ 天上の王国へと幸福に登ることを望むならば、穏やかでいとも柔和であれ。そしてもし怒りが爆発するならばそれを抑え、精神を占領するならばそれを和らげ、魂に現れたならばそれを制止せよ。もし怒りの狂乱が魂を煽り立てるならば、兄弟的な愛がそれを抑え、兄弟的な優しさが怒りを和らげ、兄弟的な慈愛が凶暴さをなだめ、兄弟的な愛が憤りを静めなければならない。実際、怒りは大きな悪徳である。怒りによって知恵が失われる。怒りによって正義が置き去りにされる。怒りによって愛の共同体が分裂させられる。怒りによって平和の一致が引き裂かれる。怒りによって真理の法が失われる。怒りの棘によって刺激されて、身体は震え、舌は縺れ、顔は紅潮し、心臓はどきどきして興奮し、目は混乱させられて964A/ 闇に包まれる。王よ、それゆえに、これらのことがあなたに起こることがないように、怒りを抑え、すべてを忍耐をもって処理せよ。実際、あなたの言葉は権力によって満ちており、誰もそれに抵抗することはできないのである。それゆえに、あなたが王国を良くまた正しく統治し、またあなたの魂の所有者が永遠に喜ぶために、処置すべきことを平和をもって処置し、支配すべきことを平静さをもって支配せよ。

第25章 へつらう者に同意してはならないことについて

 へつらう者は自分が善に対して悪を返すことへと唆すことができる者と考える傾向があるが、彼らは自らに永遠の火を準備し、彼等の破壊の損失をもたらす。いとも慎重なる王よ、彼らを注意深く避けることを忘れるな。et qui sint illi acutissimeet caute discutito,そして、彼らがへつらい、称賛しながら王の道からあなたを逸らさせ、あなたの業の歩みを正しくない道に置かせることがないように、964B/ そのような者には決していかなる約束によっても同意してやってはならない。そのようなへつらう者ついては、次のように書かれている。「不法を行う者はその友を惑わして、良くない道を行かせる。」(箴xvi,29)。さらに、へつらう者に同意する支配者についてこう書かれている。「支配者が偽りの言葉に耳を貸すなら、仕える人は皆、逆らう者となる。」(箴xxix, 12)。同様にへつらう者についてこう書かれている。「うそをつく舌は憎んで人を砕き、滑らかな舌はつまずきを作る。」(箴xxvi, 28)。さらにそれに同意する者についてはこう書かれている。「悪事をはたらく者は悪の唇に耳を傾け、偽る者は滅亡の舌に耳を傾ける。」(箴xvii,4)。いとも明敏なる王よ、それゆえに、彼らが友のような顔をしてなみはずれた欺瞞によってあなたをごまかさないように、あなたはへつらう者の滑らかでしかも死をもたらす破滅を避けよ。964C/ 彼らについて書かれていることを聞け。「神を無視する者は口先で友人を破滅に落とす。」(箴xi,9)。同じように、彼らについてこう書かれている。「あなたたちは幸せだと言う者自身があなたたちを欺く。彼らはあなたたちの足の小道を狂わせる。」(イザiii, 12?)。それゆえに、このような者の中にあって、あなたが何を為さなければならないかを、聖霊は聖書を通して次のように言って忠告される。「銀にはるつぼ、金には炉。人は称賛によって試される。」(箴xxvii,21 。
 称賛する者やへつらう者の舌の間で正しい支配者がいかに銀よりも輝き、金よりも透明であるかを見よ。しかし、もし彼が次のように言っている聖書に一致したならば、これらのことは彼に起こる。「正しいことを語る唇を王は喜び迎える。」(箴xvi,13)。王よ、細心の注意を払って、964D/ 至高の王の前で、正しく語る者が喜び迎えられるかどうかを見よ。そしてあたなの前で、へつらいによってではなく、真実の言葉によって語る者が喜び迎えられなければならない。それゆえに、あなたの耳から説得者や欺瞞家の話を追い出せ。へつらう者の媚びる舌を拒否せよ。実際、それは良く響くが、悪く欺く。甘く歌うが、しかし悪く汚す。甘さを約束するが、魂を失わせる。

第26章 貪欲を避けるべきことについて

 王よ、それゆえに、あなたはへつらう者のため、また贈物のために正しい王の道を逸れてはならないし、また貪欲の悪の方へ正しい王の歩みを転じようとしてはならない。なぜかと言えば、王たちの貪欲を特に非難している965A/ 神によって書かれた文章が見出されるからである。ソロモンは箴言においてこう言っている。「王が正しい裁きによって国を安定させても、貢ぎ物を取り立てる者がこれを滅ぼす。」(箴xxix,4)。さらに彼はこう言っている。「奪い取る者の家には煩いが多い。賄賂を憎む者は命を得る。」(箴xv, 27)。福音書において主は弟子たちにこう言われる。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカxii,15)。この考えに一致してコヘレトは言う。「銀を愛する者は銀に飽くことなく、富を愛する者は収益に満足しない。」(コヘv, 9)。また預言者ハバククはこう言っている。「災いだ、自分の家に災いを招くまで、不当な利益をむさぼり、災いの手から逃れるために、高い所に巣を構える者よ。」(ハバii,9) 。使徒パウロは次のように言って、教えている。「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、965B/ つまり、偶像礼拝者は、キリストと神の国を受け継ぐことはできません。」(エフェv, 5)。 いとも寛大なる王よ、それゆえに、あなたがキリストと共に永遠の相続を受けるに相応しい者となるために憐れみを愛し、貪欲を避けよ。あなたの王国の地があなたによって悪く破壊されるのではなく、幸いに揚げられるように、すべての者に惜しみなく与える寛大な者であれ。あなたは貪欲な者としてあなたの家をひっくりかえしてはならず、寛大な者としてそれを建てなければならない。実際、貪欲は大きなそして途方もない悪である。それは消すことができないほどに燃え盛り、止むことなく焼き尽くす火である。聖なるヨブの書には貪欲についてこう書かれている。「賄賂を好む者の天幕は火に焼き尽くされる。」(ヨブxv, 34)。実際、身体が物質的な建物に住むように、精神は理性の分別のうちに住む。しかし、965C/ 貪欲の猛威が精神の判断力を荒らし回るとき、火は小部屋を荒廃させる。貪欲は限界を無視し、節度を知らず、所有の目的を無視する。そしてすべてを貪っても、内面的に満足を知らず、絶えず飢え、物乞いをする。貪欲は不如意であり、貧しさで満ち溢れている。貪欲は凶暴な歯ですべてを噛み尽くしても、まだ恐ろしい空腹を訴え、叫ぶ。そして貪欲は一つの名によって悪徳の一端であるけれども、次のように書かれているように、他の多くの悪徳がそれから芽生え、現れて来る。「金銭の欲は、すべての悪の根です。」(1テモvi, 10)。そして非常に多くの隠れた悪ばかりでなく、多くの明らかな悪が生じる。そこから悪徳は欺瞞的な集まりにおいてしわのよった顔に見出され、そこから貪欲は殺人者の都市の中心に、そこから魔術使いの公衆のうちに見出される。そこから公然と非難が認められ、そこから罪が公然と行なわれる。

965D/

第27章 他人の借金で家を建てることがないように

 しかし、おお、王よ、あなたは最も清潔な王の息子のようにすべての有害な賄賂から王の清い手を振る者であれ。なぜなら、こう書かれているからである。「虐げによる利益を退け、手を振って、賄賂を拒み、耳をふさいで、流血の謀を聞かず、目を閉じて、悪を見ようとしない者、このような人は、高い所に住む。」(イザxxxiii,15-16)。それゆえに、あなたが高い王座に座るに相応しい者であるために、貧しい人々の賄賂によってあなた自身を富ませたり、家を建てたりしてはならない。なぜなら、こう書かれているからである。「借金して家を建てる者は、石を集めて自分の墓を建てるようなものだ。」(シラxxi,9 )。またエレミヤはこう言っている。「災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を建て、966A/ 同胞をただで働かせ、賃金を払わない者は。彼は言う。『自分のために広い宮殿を建て、大きな高殿を造ろう』と。彼は窓を大きく開け、レバノンの杉で覆い、朱色に塗り上げる。」(エレxxii,13-14)。イザヤはこのような者について叫び、こう言っている。「災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに、この地を独り占めにしている。万軍の主はわたしの耳に言われた。」(イザv, 8-9)。このことをソロモン自身も次のように言って、禁じている。「昔からの地境を移してはならない。みなしごの畑を侵してはならない。」(箴xxiii,10)。
 王よ、それゆえに、全能の主はあなたに豊かな、花咲くそして富に溢れた王国を与え、父祖の多くの領地を分け与え、966B/ 多くの公の歳入を与え、多くの有力者の奉仕に名誉を与えられる。そこからあなたは王の宮殿を建てることができる。貧しい人々の涙や憐れむべき人々の出費によって王の家を建てないように注意せよ。

第28章 為すべき正義のために報酬は何も裁判官たちによって要求されてはならない

 王よ、正義のためにこの世の報酬は何も彼らが要求しないように、あなたの裁判官たちに命じよ。正しい裁判のために彼らが、一時的な利益でなく、永遠の利益を、滅ぶべき報酬ではなく、永続する報酬を、求めるように命じよ。貧しいか富んでいるかという個人的な理由を彼らは検討してはならない。彼らはすべてにおいて真理を守り、野心の報酬を気にかけてはならない。現在の報酬を追求する者は未来の栄光を望まない。966C/ 未来の栄光を望む者は正義のために報いを受け、現在の報酬を望む者は永遠の賞を受けないであろう。過ちを犯した者の裁判官の歪みに対してはモーセによってこう言われている。「ただ正しいことのみを追求しなさい。」(申xvi,20)。それゆえに、貪欲のためでなく、神のために正義を実行する正しい人を正当に追求しなければならない。正しく裁くすべての人は天秤を手に持つ。両方の錘において彼は正義と憐れみを持つ。しかし、正義によって罪人に判決を下し、憐れみによって罪人の罪を和らげる。彼がある人を正しい平衡によって、公平さによって矯正し、しかしある人を憐れみによって赦すように。

第29章 あなたの王国に偽りの天秤があってはならない

 いとも正しき王よ、それゆえに、966D/ 偽りの天秤があなたの王国にあることがないようにそれを禁止せよ。主がイスラエルの民に次のように言って禁じておられることを聞け。「あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升を置いてはならない。あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができるが、このようなことをし、不正を行う者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。」(申xxv, 13-16)。ソロモンもこう言っている。「おもり石を使い分けることは主にいとわれる。天秤をもって欺くのは正しくない。」(箴xx, 23)。同じ箇所で彼はこう言っている。「偽りの天秤を主はいとい、十全なおもり石を喜ばれる。」(箴xi,1)。実際、地上的な利益のために主の正義を見捨てることは大いなる不正である。967A/ 地上的な利益のために正しいそして法的に認められた升を欺いて変えたり、あるいは神によって定められた兄弟的な天秤を欺瞞のうちに変えてしまうことは隠された詐欺そして悪魔の業である。実際、我々は主から委託されて、また主によって強められてそれを忠実に保っているのである。なぜなら、神と隣人を愛することのうちに預言者のすべての律法はかかっているからである(マタxxii, 40)。それゆえに、偽りの天秤あるいはより小さな升や偽りの錘によって罪のない人を欺く者は隣人を愛しないで、彼を欺瞞によって打ち倒すのであり、また神をも愛しないで、欺きながら神の律法と掟を踏みつけにするのである。そしてこのことのうちに、不従順によって主の掟を守らない者は不従順によって律法と預言者を自分から遥かに遠いところに追放するのだということが明らかに示される。

第30章 捕虜を取ることを禁止すべきである

967B/
 いとも寛容なる王よ、それゆえに、あなたの王国において捕虜を取ることを禁止せよ。他の兄弟たちと共にあなたが毎日、「天におられるわたしたちの父よ」(マタvi,9)と呼びかけているかの御父のいとも忠実な子であれ。愛である御父が愛されるものはなんであれ、あなたも愛せよ。われわれのことを聞かれる御父が禁止されるものはなんであれ、あなたも禁止せよ。あなたがその方と共に永遠に支配することを望む御父を忠実に見倣え。御父御自身がモーセに命じてこう言われる。「もし悲しんでいる人がイスラエルの子らのなかから自分の兄弟を見つけ出し、そして彼を売って金を受け取ったならば、その人は殺される。そしてあなたはあなたの中から悪を取り除く。」(申xiv, 17?)。また御父御自身が預言者アモスを通して叫び、こう言われる。「ガザの三つの罪、四つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない。彼らがとりこにした者をすべて、エドムに引き渡したからだ。」(アモi, 6)。同じく、「ティルスの三つの罪、967C/ 四つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない。彼らがとりこをすべてエドムに引き渡し、兄弟の契りを心に留めなかったからだ。」(アモi, 9)。同じく、「イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない。彼らが正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。」(アモii,6)。
 召し使いに対して正しく正当に扱うように、そして自由人として解放するようにと、イザヤは叫び、こう言っている。「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を絶ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。」(イザLviii, 6)。シラ書もまたこう言っている。「誠実に働く召し使いや、懸命に尽くす雇い人を、冷遇するな。賢い召し使いを心から愛し、967D/ その自由を奪ってはならない。」(シラvii, 22-23)。さらにこう言っている。「お前に召し使いがいるなら、お前と同等に扱え。兄弟として扱え。」(シラxxxiii, 31)。また主はエレミヤを通してイスラエルの民にこの掟を与えられた。主はこう言われる。「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしは、奴隷の家エジプトの国からあなたたちの先祖を導き出した日に、彼らと契約を結んで命じた。だれでも、同胞であるヘブライ人が身を売って六年間、あなたのために働いたなら、七年目には自由の身として、あなたのもとから去らせなければならない、と。ところが、お前たちの先祖はわたしに聞き従わず、耳を傾けようとしなかった。しかし今日、お前たちは心を入れ替えて、わたしの正しいと思うことを行った。お前たちは皆、隣人に解放を宣言し、968A/ わたしの名で呼ばれる神殿において、わたしの前に契約を結んだ。ところがお前たちは、またもや、態度を変えてわたしの名を汚した。彼らの望みどおり自由の身として去らせた男女の奴隷を再び強制して奴隷の身分としている。それゆえ、主はこう言われる。お前たちが、同胞、隣人に解放を宣言せよというわたしの命令に従わなかったので、わたしはお前たちに解放を宣言する、と主は言われる。それは剣、疫病、飢饉に渡す解放である。わたしは、お前たちを世界のすべての国々の嫌悪の的とする。」(エレxxxiv, 13-17)。 人間は、神が服従する可能性をお与えになった限りで、神とその掟に真に服従しなければならない。そして各人は、他の救いの掟と正しい業の中で、神の並外れた愛のゆえに、968B/ 彼らを彼に従属させたのが自然ではなくて、罪であることを考慮して、奴隷たちを自由人として解放しなければならない。本性によって我々は平等に創造されているが、しかしある人々は他の人々に罪によって従属させられた。同時に、彼らは、もしあなたたちが解放するとすれば、彼はあなたたちから解放される、ということを考える人たちである。実際、条件的な軛は、主によって、あなたたちにも重荷を負わせている。いとも正しくまた敬虔なる王よ、それゆえに、すべての者のためにあなたの神に栄誉を与えよ。なぜなら、書かれているように、「彼はすべての者のためにあなたに栄誉を与えた」からである。あなたに強制された奉仕においてか、あるいはあなたに与えられた富においてか、彼らから自由人を作ることによって、そしてこの人々から施しを分配することによって、あなたは神の掟に従順であることをやめない。貧しい者の父、孤児の養育者、孤児を愛する者、寡婦の庇護者、巡礼者の教育者、規則に従うすべての職務の擁護者にして指導者であれ。968C/ キリストの賜物とその寛大な恩寵によって、知恵に満ち、賢慮に恵まれ、単純さによって豊かにされ、忍耐によって強められた者であれ。しかし正義の熱情によって生き生きとした者であれ。すべての者に対して柔和で平和をもたらす者であれ。しかし、正義の熱情によって高められた者であれ。正義を熱心に求める際には注意深い探求者、判決を下す際には最も用心深い探索者であれ。しかし、憐れみが常に判決に先行しなければならない。兄弟に憐れみに満ちて赦しを与える者が主から憐れみを受けるであろうことを記憶せよ。
 もしあなたがこれらのことを熱心に行なって果たすならば、王である主はあなたの王国を強め、王座を高め、腕を強められるであろう。なぜなら、主は彼の腕を強め、勝利を得るために彼の剣を助けをもって保証されるからである。実際、主は968D/ 預言者エゼキエルを通してこう言われる。「わたしはバビロンの王の腕を強め、その手に剣を与える。わたしはファラオの腕を折る。彼はバビロンの王の前で、刺された者のように呻き声を発する。わたしはバビロンの王の腕を強くする。ファラオの腕は弱くなる。わたしがバビロンの王の手に剣を与え、彼がそれをエジプトの地に伸ばすとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」(エゼxxx, 24-25)。
 なぜなら、主は彼の腕を弱め、そして折られるからである。主ご自身がこのことをエゼキエルに言われる。「人の子よ、わたしはエジプトの王ファラオの腕を折った。見よ、彼の腕は手当てを受けて巻かれることなく、力を補う添え木を当てて巻かれることもないので、剣を取ることができない。それゆえ、主なる神はこう言われる。969A/ わたしはエジプトの王ファラオに立ち向かい、その強い腕と折られた腕を共に打ち砕き、その手から剣を落とさせる。わたしはエジプトの人々を諸国民の中に散らし、国々の間に追いやる。」(エゼxxx,21-23)。そして詩編においてこう書かれている。「彼の剣を再び岩のかけらとし、戦いの時にも、彼の力を興してくださらない。」(詩Lxxxviii, 44)。
 しかし、それが為される以前に、主は勝利をも知っておられるということを、
ご自身がエゼキエルを通してこう言われる。「人の子よ、主なる神はこう言われる。あらゆる種類の猛禽と、あらゆる種類の野の獣に語りなさい。お前たちは集まれ。来て、わたしがお前たちのために屠ったわたしの犠牲に向かい周囲から集まれ。それはイスラエルの山々の上での大いなる犠牲である。お前たちはその肉を食らい、その血を飲め。勇士たちの肉を食らい、国の支配者たちの969B/ 血を飲め。それは雄羊、子羊、雄山羊、雄牛であり、みなバシャンの肥えた動物たちである。お前たちは、わたしがお前たちのために屠った犠牲から、飽きるまで脂肪を食べ、酔うまで血を飲むがよい。お前たちはわたしの食卓で、馬や騎兵、勇士やすべての兵士たちの肉を飽きるまで食べる、と主なる神は言われる。」(エゼxxxix, 17-20)。

第31章 主の助けを求めることについて

 いとも明敏なる王よ、それゆえに、主が腕における強さを、戦いにおける勝利をあなたに与えられるように、あなた自身常に慰めを求め、そしてそのための助けに依り頼め。なぜなら、次のように書かれているからである。「主の御名は力の塔。神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる。」(箴xviii,10)。それゆえに、救いは969C/ 民の多さにも、多くの軍隊にも存せず、主の名を呼ぶことのうちにある。実際、天の助けこそが安定した、堅固な守備である。これは王たちによって注意深く求められるべきであり、ダビデ王は喜んで模倣されるべきである。ダビデは謙遜に主に懇願しながらこう言っている。「神よ、わたしの叫びを聞き、わたしの祈りに耳を傾けてください。心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に、わたしを導いてください。あなたは常にわたしの避けどころ、敵に対する力強い塔となってくださいます。」(詩Lx,2-4)。実際、ここで岩と塔はキリストを意味している。この岩においてダビデは正当に自分が高く上げられると宣言しており、その信仰に自分が基づいていることを疑っていない。970A/ そしてこの塔において彼は守られ、その助けに信頼して諸徳によって鎧われる。実際、この塔は剣でではなくて、諸徳で満ちており、戦闘によってではなく言葉によって戦い、また地方的に防御するのではなく、全世界的に不屈の強さによってその選ばれた者を庇い、守る。

第32章 祈りについて

 なぜなら、ダビデ王は祈ることによってこの天上的な守りへと到達しているということが見られるべきだからである。実際、彼は次のように始めながら祈っている。「神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。敵の脅威からわたしの命をお守りください。わたしを隠してください、さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。」(詩Lxiii, 2-3)。いとも忠実なる王よ、それゆえに、主の助けによって支えられてあなたがあなたの王国を守ることができるように、絶えず祈りながら970B/ 主の助けを願い求めよ。実際、あなたは詩編のうちに祈りについてのダビデ王の無数の例を持っている。我々はここでソロモンからもごく僅かの例を挙げよう。彼はこう言っている。「主は逆らう者に遠くいますが、従う者の祈りを聞いてくださる。」(箴xv, 29)。「律法を守ることは、多くの祈りに匹敵する。」(シラxxxv,1)。さらに彼はこう言っている。「謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行く。」(シラxxxv, 21)。主は福音書においてこう言われる。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(マタxxi,22)。「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカxxi,36)。パウロもこう言っている。「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(ロマxii,12;エフェvi, 18)。しかるにヤコブはこう言っている。970C/ 「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。」(ヤコv,16)。我々は、神がその招きによってあなたに名誉を与え、善のすべての意志と信仰の業を徳において完成されるように、われらの主イエズス・キリストの御名があなたにおいて明らかにされ、そしてわれらの神そして主イエズス・キリストの恩寵によって、主においてあなたが明らかにされるように、使徒と共に絶えずあなたのために祈る。「そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行してくれることと、主によって確信しています。どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。」(2テサiii, 4-5)。アーメン。

 『王の道』と言われる修道院長スマラグドゥスの書物は終わる。

作成日:2009/02/01

最終更新日:2009/02/01

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