9世紀後半カロリング時代の「君主の鏡」

−セドゥリウス・スコトゥスの『キリスト教的支配者についての

書』とランスのヒンクマルの『王の人格と王の職務について』−

三上 茂


はじめに

 ヨーロッパの9世紀カロリング時代の「君主の鏡」についてはその代表的なものとして、聖ミヒエルのスマラグドゥスの『王の道』(810 年頃)(注1)、オルレアンのヨナスの『王の教育について』(831 年頃)(注2)、セドゥリウス・スコトゥスの『キリスト教的支配者についての書』(855 年以降)(注3)そしてランスのヒンクマルの『王の人格と王の職務について』(873 年)(注4)が挙げられる。このうち前の二つについては他の所で(注5)論じたので、本稿では後の二つについてその各々を検討し、最後に「君主の鏡」と教育との関連について考えてみたい。そもそも「君主の鏡」(speculum principum)(注6)は古代・中世から近世初頭にかけて長い間にわたって主として宗教者によって特定の支配者、特に王に宛てられた勧告の書物という形式で伝えられて来た伝統を持っている。ここで検討するセドゥリウス・スコトゥスとランスのヒンクマルもその伝統に連なる人々で、二人とも9世紀の後半に活躍した。

I.セドゥリウス・スコトゥスの『キリスト教的支配者についての書』

 セドゥリウス・スコトゥス(Sedulius Scotus)はアイルランド出身の詩人・学者・司祭であり、仲間と共に9世紀の半ば頃、フランク王国のリエージュに現れた。彼らがなぜ故郷のアイルランドを去って、大陸に出て行ったか、セドゥリウス自身の直接的な説明はないが、当時のアイルランドがヴァイキングの度重なる襲撃・掠奪を受けていたことはその一因と考えられる。「アイオナが802年に焼かれ、820年代にはバンゴル、ダウンパトリック、モヴィル、クロンモアが掠奪された。832年以降、アイルランドにおける最も強力かつ影響力を持った修道院共同体のアーマー、グレンダロウ、キルケアがヴァイキングの襲撃を受け掠奪された。840年代までにはヴァイキングはより広範囲の、持続的な戦争のためにアイルランドの田舎に城塞や永続的な基地を建設し始めさえした。」(注7)また文化的・学問的に大陸よりも進んでいたアイルランドがフランク王国の宮廷に仕えようと志す人々を、あるいはアルクインのようにフランク宮廷から招かれる人々を多く生みだしたということも考慮する必要があろう。

 いずれにせよ、リエージュの司教ハルトガー(840-854)とその後任司教フランコ(854-901)がセドゥリウスを後援した。後にケルンに住んだとも言われているが、晩年については詳かではない。

 『キリスト教的支配者についての書』(Liber de rectoribus christianis)はセドゥリウスの最もよく知られた著作であるが、特徴的なことはあのボエティウスの『哲学の慰め』と同じように、各章の論稿の後にそれをまとめる詩がつけられていることである。ミーニュ版のテキストではカール大帝(768-814:フランク王;800-814:西ローマ皇帝)あるいはルートヴィッヒ敬虔王(814- 40)に宛てたものとされているが、実際は、皇帝ロタール1世(ルートヴィッヒ敬虔王の長子、840-55:イタリア王、西ローマ皇帝)の子で855 年にロタリンギアの王となったロタール2世(855-69)のために855年から859年の間のある時期に書かれたものである。(注8)

 セドゥリウスの著作で他に知られているものに『抜粋集』(Collectaneum)がある。これは教父の著作からばかりでなく、古典ラテン作家、特にセネカやキケロの作品からの抜粋が多く含まれており、またその一部は『ギリシャ格言集』(Proverbia Graecorum)となっている。これらはアイルランドにおけるギリシャ・ローマ的教養の豊かさを示すと共に、アイルランド特有の「君主の鏡」の伝統−偽キプリアヌス、カトウルフ、アルクイン−のうちにセドリウスが立っていることをも示している。彼にはその他に文法、神学、政治学の著作がある。 ところで、『キリスト教的支配者についての書』よりも200 年ほど前に、今日偽キプリアヌスの名で呼ばれている一人のアイルランド人が『世の12の濫用について』(Liber de duodecim abusionibus saeculi)という書物を書いた。この書物は8、9世紀の「君主の鏡」著作家たちによってよく知られまた引用されている。特にその第9 章は王のあり方について述べられていて、セドゥリウスはその伝統を受継いでいる。彼以前のスマラグドゥスもオルレアンのヨナスもその影響を受け、後に続くヒンクマルも同様である。以下の論述に関係するので、少し長くなるがここに挙げておこう。

 「濫用の第九の段階は公正でない王である。すなわち、王は不正であってはならず、不正な者を矯正する者でなければならない。それゆえに、自らの内に王という名称の威厳を保持しなければならないのである。なぜなら、王(rex)という名称は、すべての臣下のために指導者(rector)としての職務を遂行するということを、意味としてもっているからである。しかし、自己のもろもろの性格を、それらが不公正でないようにと正さない人間が、どのようにして他者を正すことが出来るだろうか。それゆえ、王の正義によってその王座が高められ、真理によって民を指導する舵が固められるのである。王の正義とは誰であれ不正に権力によって抑圧しないこと、人々と彼の隣人とのあいだを不公平なしに裁くこと、異国の人々や孤児そして寡婦の庇護者となること、盗人を拘禁すること、姦通を罰すること、敵をいばらせないこと、不道徳な者や道化を養わないこと、不信心な者を地上から滅ぼすこと、親殺しや偽善者を生かしておかないこと、教会を擁護すること、施しで生きる貧しい人々を助けること、正しい者を王国の仕事に就かせること、老人・知者・思慮ある助言者をもつこと、魔術・占い・神託の迷信に注意を向けないこと、怒りを抑えること、敵に対して祖国を勇敢かつ正当に防衛すること、あらゆる点において神の内に生きること、順境に浮かれず、逆境を忍耐強く堪え忍ぶこと、神へのカトリックの信仰をもつこと、彼らの子らが不信心に振舞うことを許さないこと、一定時間祈りに精を出すこと、適切な時間の前に食物を摂らないことである。『いかに不幸なことか、王が召使いのようで、役人らが朝から食い散らしている国よ』(コヘx,16)。これらのことは現在の王国に繁栄をもたらす。そして、王をよりよい天上の王国へと導く。しかし、この律法に従って王国を管理しない者は当然国家の多くの災いを堪え忍ぶことになる。それゆえに、民の平和がしばしば破られ、傷害もまた王国から惹き起こされ、国の実りも減少し、民の奉仕が妨げられる。多くの悲しみが王国の繁栄に毒を投じ、愛する人々の子らの死が悲しみをもたらし、敵の襲撃は地方のいたるところを荒廃させ、猛獣は家畜の群を引き裂き、春と冬の嵐は大地の豊饒と海の仕事を妨げ、雷の襲撃はたびたび種蒔きと樹々の花と葡萄の嫩芽を焼き尽くす。実際、すべてに優って王の不正は単に現在の王国に暗黒をもたらすばかりでなく、またその子らや孫たちをも、自分の後に王国の遺産を保持させえないように暗くする。たとえば、ソロモンの罪のゆえに主はイスラエルの家である王国をその子らの手からばらばらに散らされ(王上xi,12)、またダビデの功績のゆえにその子孫によって(ダビデ)王のともし火がエルサレムでたえず燃え続けるようにされた(王上xi,36)。王の正義がいかに世々にわたって有効であり、見る者たちにとって明らかなものであるかを見なさい。民の平和は祖国の守り、民衆の自由、子孫の保護、病気の治癒、人々の喜び、大気のほどよい調和、海の静穏、大地の豊饒、貧しい者の避難所、子らの遺産、そして自分自身にとっては未来の幸福の希望である。しかもなお、人間のうちの顕著な者が王座に立てられるように、もし正義を行わないならば、首位にあるはずの者もまさに最後尾にとめ置かれるということを知るべきである。なぜなら、誰であれすべての罪人を現在自分の許にもった者は、将来罰を受けるであろうからである。」(注9)

 セドゥリウスの『キリスト教的支配者についての書』は序文と20の章から成っている。章の標題そのままではないが、以下章の内容を挙げてみよう。なお、セドゥリウスは王(rex)、君主(princeps)、支配者(rector)という言葉をそれほど厳密に区別せずに用いているが、ここでは王で統一した。1. 王は神と教会に栄誉を捧げねばならない。2.王は自分自身を支配しなければならない。3. 王国安定のための技術と努力。4. 王はその権力を知恵と信仰で飾らなければならない。5. 王は妻・子ども・家庭に関して聖なる支配の配慮を示さなければならない。6. 王は思慮に富んだ助言者と友人を選ばなければならない。7. 何が王を悪くするか。8.貪欲で不敬虔な王に下される罰。9.平和をもたらす慈しみに満ちた王。10.正しい王の王国を支える柱。11. 王は教会の主張を支持し、教会会議を後援しなければならない。12.王は司祭の勧告と戒めに従わなければならない。13.王は理性と情念を適切に用いなければならない。14. 王は人間にではなく、神に信頼を置かなければならない。15.王は戦争の脅威に対して神の助けを願わなければならない。16.王国を災難が襲っても絶望せず神に信頼しなければならない。17.王は敵の和平の申し入れに高慢になってはならない。18.和平や勝利の後に王は神に感謝を捧げなければならない。19.王は教会の諸特権を擁護しなければならない。20.この世においてもあの世においても高慢な王には不名誉が、正統的な王には栄光が与えられる。

 以上のようにセドゥリウスは王が神とその教会に対して、キリスト教の民に対して、家族に対して、そして自己に対してどのように振る舞わなければならないか、その振る舞いに応じてどのような報酬と罰を受けなければならないかを論究している。彼はまた王がどのような助言者を選定すべきか、戦争と平和に対していかなる態度を取るべきかについても述べている。

 セドゥリウスの典拠は聖書であり、特に旧約からの引用が多いが、教父から直接引用することはない。彼は多くの箇所で聖書以外にも歴史的な実例を出しながら論を進めている。

 セドゥリウスにとって王権は神に由来する。すなわち王の支配権は王たちの王、唯一の真の王である神から与えられる。彼は第1章においてパウロの『ローマの信徒への手紙』の次の言葉を引用している。「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられた…。」(xiii,1)。そしてそのすぐ後で次のように言っている。「善い支配者が自分は神によって立てられたということを認めるように、同じ程度に彼は正義の尺度に従って神と人の前ですべての事柄を規則通りに決定検討するように誠実に配慮して目覚めている。実際、全能の神に仕える者(ministri Omnipotentis)でなければ、キリスト教の民の支配者とはいったい何であるか。」(注10)この、王が「神に仕える者」(minister Dei)であるという規定も、同じくパウロの『ローマの信徒への手紙』の次の言葉、「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです」(xiii,4)を根拠にしている。第2章においてセドゥリウスはこう言っている。「なぜなら、神はあらゆる事物の主であり、彼の前に『天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて膝を屈め』(フィリii,10)、天と地のすべての権力は神の御手のうちにあり、神は王たちの王であり、正しくそして敬虔に支配するすべての者の栄光のための希望だからである。」(注11)王はまた神的秩序において「神の代理者」(vicarius Dei)として任命されている。(注12)

 それゆえに王の職務(ministerium regale)はまず第一に、王が神によって王権を与えられ、神に仕える者であるということから導き出される。セドゥリウスは「職務の遂行において君主の心と忠実な献身はそのように大きな恩恵と光栄ある職務をお与えになった神をゆるがせにしてはならない」(注13)と言って、王の職務がまず第一に神に対して信仰と礼拝と感謝を捧げることにあることを強調する。さらに王は教会とその奉仕者を保護しなければならない。王は「主の畑で働く者たちの援助者(adjutor)にして擁護者(protector)でなければならない」(注14)し、「生ける神の花嫁である聖にして母なる教会の特権…を守り、増大させる」(注15)努力をしなければならない。セドゥリウスは王に教会会議を招集するように勧告しているが、一方で教会会議の審議に介入したり、教会の固有の問題に干渉したりしないように警告している。(注16)王はその罪に対して為される司祭の非難を受け入れ、自己の罪を痛悔して、司祭の助言・忠告に耳を傾けなければならない。(注17)このような王の神および教会に対する義務・職務はまた王の徳として、神の恐れ(timor Dei)、信仰(fides)、敬虔(pietas)、神への信頼(confidentia)、謙遜(humilitas)、従順(obedientia)という対神徳を要求する。

 王の職務が神に由来することから、その職務に相応しくない王は神によって廃位される。「あの不敬虔なイスラエル王サウルは、主の前に忠実な奉仕者 (fidelis minister)として振る舞わなかったがゆえに、その王国とその生命を奪われた。」(注18)従って、王は神の前で犯した自己の罪について司祭の非難と忠告に耳を傾けなければならない。セドゥリウスはダビデが預言者ナタンの非難と忠告を謙遜に受け入れた例を挙げている。(注19)

 王はまた神的秩序において「神の代理者」として任命されているので、その限りでの王の職務はキリスト教的民の支配に責任を持つことである。(注20)セドゥリウスは第2章でイシドルスの有名な定義「王は支配することからそう名づけられる」(Rex a regendo vocatur)(注21)を引いているが、この支配はまず自己を支配すること、次に妻と子供たち・家族を支配すること、そして第三に自分に委ねられた神の民を支配することを含んでいる。(注22)

ここでは、第一と第二の支配は私的なものとして後で考察することにして、まず公的な支配としての民の支配から見ていこう。

 王の権力は公共の事柄(国家)の利益のために神が立てられたのであるから、 (regia potestas,quae ad utilitatem rei publicae divinitus est constituta)(注23)王は正義と公正を重んじ、平和を達成するために努力しなければならない。王は公正で平和をもたらす者(rex justus et pacificus)(注24)でなければならない。セドゥリウスは「実際平和の善さは非常に大きいので地上のはかないものの中でいつもこれ以上に喜びをもって聞かれ、これ以上に望ましいものとして求められ、これ以上に善いものとして見出されるものは何一つない」(注25)と述べて平和の重要性を強調し、戦争の脅威に対して神の助けを願わなければならない(注26)としながら、敵の和平の申し入れに対して高慢になってはならないこと、(注27)敵との和平や味方の勝利の後で神に感謝を捧げるべきこと(注28)など、戦争を前提にした上でそれに対して取るべき王の態度についても論じている。

 王は正しい裁判を行わなければならない。(注29)寡婦、孤児そして貧しい者たちを保護しなければならない。(注30)セドリウスは正しい王の王国を支える8 本の柱について語っている。「第一の柱は王に関わるすべての事柄における真理であり、第二の柱はあらゆる交渉における忍耐であり、第三は贈り物における気前の良さ、第四は言葉における説得性あるいは丁寧さ、第五は悪人たちの矯正あるいは抑止、第六は善い人々の友情と称賛、第七は民に課される税の軽さ、第八は富める者と貧しい者の間の正義の平等である。」(注31)この第七と第八の柱は法的正義と並んで為政者にとって重要な経済的・社会的正義の内容を示している。

 王はその権力を正しく行使することができるために、良い友人と思慮に富んだ助言者を選ばなければならない。(注32)

 以上の公的な王の職務に付随して要求される王の徳は正義(justitia)、公平(aequitas)、慈しみ(misericordia)、忍耐(patientia)、広い度量(largitas)、説得性(persuasibilitas)、慈悲深さ(clementia)などの政治・法律・経済に関わる社会的な徳である。

 私的な王の職務の一つは妻と子供・家政を思慮に満ちた配慮と家族的な愛情で支配することであり、もう一つは自己自身を支配すること、すなわち悪を退け、善を選んでそれを堅く保持することである。(注33)このことに関する王の徳は人間への愛(amor)、真理(veritas)および善(bonitas)への愛、心の平静(animae tranquilitas)、剛毅(fortitudo)、貞節(castitas)など他者と自己に対する徳である。

 以上、セドゥリウスの王権とその職務、王の徳についての考え方を見てきた。 彼は理論的・体系的に考察するよりはむしろ具体的に旧約聖書の王ダビデとソロモン、キリスト教の王コンスタンティヌスやテオドシウスなどの例を引いて論じることが多い。彼らは王の模範である。特にダビデは神の忠実な奉仕者、正しい王(rex justus)として、不敬虔な王(rex impius)であるサウルと対比されている。(注34)ソロモンは知恵における模範、(注35)その神殿建設で示された敬虔の徳における模範(注36)である。キリスト教の王の模範は自分が地上の帝国の所有者であったことより神に仕える者(Dei ministrum)であったことを喜んで感謝したコンスタンティヌス皇帝、(注37)貞節で思慮に富み、聖なる諸徳においてすぐれた妻プラシルラを持ち、(注38)またアンブロシウスの叱責と勧告を受け、謙遜と痛悔をもって罪を告白したテオドシウス皇帝である。(注39)

II.ランスのヒンクマルの『王の人格と王の職務について』

 ランスのヒンクマル(Hincmarus Rhemensis)は805/6年に生まれ、ヒルドゥインが院長であったサン・ドゥニ修道院で教育を受け、その後ルートヴィッヒ敬虔王(814-40)の宮廷に仕えた。845年にランスの大司教エボが廃位になって、その後任となった。大司教ヒンクマルはルートヴィッヒ敬虔王の息子シャルル禿頭王(840-77:西フランク王)の助言者であった。彼は846年から850年の間、兄弟のシャルル禿頭王とルートヴィッヒ・デア・ドイッチェ(843-76:東フランク王)に対して平和を勧告し、858年ルートヴィッヒ・デア・ドイッチェが西フランク王国へ侵入した時には、シャルル禿頭王の側についた。875年、ルートヴィッヒ・デア・ドイッチェが再び西フランク王国へ侵入した時にも、ヒンクマルはシャルル禿頭王に忠誠を尽くすように司教たちに勧告の書簡を送った。しかし二人の関係はいつも円満であるとは言えなかった。ヒンクマルはシャルル禿頭王のイタリア政策を恐らく是認しなかったと言われる。またシャルルがヒンクマルに相談せずにサンスのアンセギスに委ねて、教皇ヨハネ3世と計画したガリアの副司教の選任など、感情的な縺れもあったにもかかわらず、ヒンクマルはシャルル禿頭王に対して常に信義と忠誠の態度を取り続けた。

 ヒンクマルはシャルル禿頭王の死後、その子ルイ2世(877-79:吃り王)に王位を継承させたが、ルイの統治は短く、その子ルイ3世(879-82)とカルロマン(879-84)が西フランクの王位を継承した。ヒンクマルとルイ3世との関係は緊張を孕んだものであった。879年のノワイヨン・トゥルネの司教選定、881年のボーヴェーの司教選定に関してルイ3世とヒンクマルの間に葛藤が生じたが、最終的には王が折れざるを得なかった。(注40)

 以上簡単にヒンクマルの経歴を辿ってみたが、彼が現実政治にいかに密接に関わっていたかが読み取れる。西フランク王国の歴代の王たちの助言者を勤め、分裂した王国の葛藤にも直接、間接に立ち会っている。しかし、彼は西フランク王国の首席大司教であると同時に、教会法学者、神学者、伝記作家、歴史家でもある。神学の著作としては、オルバイスのゴットシャルクという修道士の予定説に反論した『予定について』、聖人伝として『聖レミギウス伝』、歴史的な著作として『ベルティニ年報』がある。彼はその他に多くの政治的文書、「君主の鏡」関連の著作を書いている。(注41)

 ここで検討する『王の人格と王の職務について』(De regis persona et regio ministerio)はその中でも代表的な著作であり、シャルル禿頭王に宛てて873年頃に執筆された。この作品は大まかに分ければ、序文、1.よい王とよい忠告そしてよい統治(第1-6章)、2.戦争について(第7-15章)、3.法律の制定、罰と寛大さ(第16-28章)、4.近親者の罪と彼らに対する処置(第29-31章)、5.特別の事例における司法(第32-33章)といった内容から成っている。

 ヒンクマルは聖書の他に、アウグスティヌス、グレゴリウス、偽キプリアヌス、ヒエロニムス、アンブロシウス、インノケンティウス、ヨハネ・クリゾストムス、チェレスティウスなど教父の著作、キケロ、オロシウスなど世俗作家の著作を引用しながら論を進めている。中でもアウグスティヌスは群を抜いており、『堅忍の賜物』、『神の国』、『ボニファキウス宛書簡』、『ヴィンセンティウス宛書簡』、『主の山上の説教』、『マケドニウス宛書簡』などを引用している。

 ヒンクマルは第1章から第6章までの部分で、善い王と悪い王の区別、権力の基礎としての善い統治、王と助言者との関係などについて論じている。ヒンクマルにとっても、王権の根拠は神である。地上の権力は神によって与えられる。彼は『箴言』「わたしによって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める。」(viii,15)の箇所をアウグスティヌス(注42)と偽キプリアヌス(注43)の著作と共に1度ずつ引用しているが、ここでの「わたし」とはもちろん神のことを意味している。さらに、善い王を神は作られるが、悪い王は神によってその統治を許容されるにすぎない、とヒンクマルは言う。そのことについては彼は『ホセア書』の言葉、「彼らは王を立てた。しかし、それはわたしから出たことではない。彼らは高官たちを立てた。しかし、わたしは関知しない。」(viii,4)をその典拠として引用している。(注44)

 第2章においてヒンクマルはヨナスと同じように、I.で紹介した偽キプリアヌスの『世の12の濫用について』の第9章を引用しているが、そこでは王という名称が担っている意味、王の職務の内容が述べられ、王の正義がその国の繁栄と民の幸福となり、逆に王の不正が国家に災いを、民に不幸をもたらすのだと論じられている。王の職務の内容は、権力によって不当に抑圧しないこと、公平な裁判を行うこと、寡婦・孤児・外国人など立場の弱い人々を庇護すること、不正や悪を許さないこと、要するに、正義の貫徹である。(注45)

 ヒンクマルは第3章でグレゴリウスの『道徳論』を引用しながら正しい統治すなわち王の正義が権力の基礎であると主張している。「神の前で統治者の善い指導に関してその功績を持つこの世の権力は偉大である。権力が善いのはその秩序によってである。しかしそれは統治者の用心深い生活を要求する。それゆえに権力を抑制すること、闘争することを知った者は権力を善く行使する者である。ひとが権力によって罪を超越して高慢になるということを知る者、他者の平等性と比較されることを知る者は権力を善く行使する者である。実際、人間精神は権力によって支えられない時でも大概は高慢になる。権力が彼に加わる時はどれ程もっと高慢になることだろうか。しかし人間精神は他人の悪の矯正を適切に行うことによって[そうならないように]予め準備させられる。それゆえに、パウロによってこう言われている。『権威者は…神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いる』(ロマxiii,4)と。この世の権力の職務を引き受ける時には、我々は援助するものを権力から引き出し、論難するものを滅ぼすということを知るように最も注意深く目覚めていなければならない。我々は他者の利益のために引き受けたことを外的に保持し、我々の評価によって感じたことを内的に保持しなければならない。」(注46)このことは、権力の高みに立って他者を支配する者は彼が支配する当の被支配者の利益のために神によって立てられていることを肝に命じ、謙遜(humilitas)を求め、傲慢(superbia)を避けながら権力を民の幸福のために活用しなければならないということであろう。

 彼は第4章ではアンブロシウスの『義務論』を援用して王が善い助言者を選び、その忠告に耳を傾けるべきだと述べるが、これは正義が王の徳であるがゆえに、その助言者にも正義が要求されるということである。善い助言者とは「その言葉が健全で非難の余地がなく、助言が有益で、生活が誠実で、知恵が適切である者」であり、「貪欲でない者、欺瞞・誤謬・悪意を持たない者、快楽や物質的利益を追い求めない者、自制心を欠いていない者」である。(注47)

 第5章ではヒンクマルはヨナスと同じように、アウグスティヌスのいわゆる「皇帝幸福論」(De civitate Dei,v,24:PL 41,170-171)を引用して、支配の知識を持つ者の支配以上に幸福なことはないと述べる。これも少し長くなるが、王の職務に関係するのでそのまま引用しよう。「真に敬虔を与えられて善く生活する者は、もし彼らが民を統治する知識を持っているならば、神の憐れみによって彼らが権力を持つよりも、人間的な事柄においてそれ以上に幸福なことは何もない。それゆえに我々はキリスト教の王たちを次のような場合に幸福だと言う。彼らが正しく支配するならば。彼らを高く持ち上げて尊敬する人々の言葉と極端にへりくだって挨拶する人々の追従のなかでも褒めそやされることなく、自分が人間にしかすぎないことを憶えているならば。自分たちの権力を神の礼拝のために最大限に拡大すべく神の主権に仕える侍女とするならば。彼らが神を畏れ、愛し、礼拝するならば。彼らがそこでは[もう人々が]共同相続人になることを恐れることがないかの神の国を[この世の国よりも]いっそう愛するならば。彼らが罰するときは遅く、赦すときはすばやいならば。彼らが敵意から生まれる憎悪を堪能させるためにではなく、国家を支配し、維持するために懲戒を行うならば。彼らが不正を罰から免れさせるためにではなく、それを非難すべきだとする期待のために赦免を容認するならば。彼らが通常は厳格に下すことを強いられている判決を憐れみの優しさと溢れる好意によって釣り合うようにするならば。彼らにとって奢侈が自由人の地位にふさわしいものであることができればできるほど、いっそう統制のとれたものであるならば。彼らがどんな民族を支配するよりも[自分たちの]邪悪な欲望を支配することのほうをむしろ好むならば。そして彼らがこれらすべてのことを空しい誉れへの熱望のゆえにではなく、永遠の幸福への愛のゆえに行うならば。彼らが自分たちの罪のために謙遜、憐れみ、祈り、犠牲を神に捧げることを怠らないならば。私たちはこのようなキリスト教徒たる皇帝たちは、今のところは希望によって幸福であるが、私たちが待望しているものが到来した後では事柄それ自体によって幸福であろうと言うのである。」(注48)

 第6章では、善い王が長い間あまねく統治することが有益であると述べている。これも「善い王」に強調点があり、あくまでも正義が貫徹されていての話であって、アウグスティヌスが言うように、「正義が欠けていれば、王国は大盗賊団以外の何であるか」(注49)ということになる。

 第7章から第15章までのいわば第2部は戦争に関する部分であるが、ヒンクマルはアウグスティヌスの『神の国』と『ボニファキウス宛書簡』を主として援用している。彼はこの部分でかなりの紙数を割いて戦争のために弁護論を展開する。彼は第7章においてアウグスティヌスに従ってこう言う。「戦争をすること、また征服した民族の上に支配を拡大することは、悪人どもにとっては幸いであるが、善良な人々にとってはやむをえない[悪だ]と考えられる。しかるに、よこしまな者たちが正しい人々を支配することは、さらにいっそう悪いことであるから、このやむをえない悪が幸いだと言われたとしても、あながち不当ではないであろう。」(iv,15)(注50)。ヒンクマルは第10章で「戦争をするために平和が求められるのではなくて、平和が達成されるために戦争が行われる」(注51)と述べて、平和のための戦争、やむをえざる戦争を肯定している。さらに彼は国家のために戦争に参加し軍隊の指揮の下で戦った者は神の意志に反するのではないこと、(注52)兵士が合法的に立てられたかぎりの権威に服して人を殺すとき、その国の法律は彼に殺人罪を負わせることはないこと、(注53)戦争の勝利は神によって正しい側にもたらされること、(注54)戦死者のために祈りと犠牲を捧げるべきこと(注55)などについて述べている。

 第三の部分(第16-28章)でヒンクマルは法・正義・犯罪・裁判・刑罰などの問題を論じる。王の職務(ministerium regis)は宗教的義務としての教会の保護、社会的義務としての寡婦・孤児・寄留外国人などの弱者のための配慮、そして法的義務としての法の制定・執行の三つに大きく分けられる。ここでは三番目の立法・司法の問題が扱われると見てよい。ヒンクマルにとって「正しい法律を命じ、正義に反するものを禁じ、正義に一致するものを定めること」は「王として神に奉仕すること」(注56)であり、まさにministerium Deiなのである。正義に反するものを禁じることは、それを欲する者に意に反して強制を加えることを意味するが、このことをヒンクマルは第17章で「正義を守るために強制も加えられるべきである」という形で論じている。サウロはキリストの大いなる暴力によって、真理の認識・正義へと強制された(使ix,1-22)。(注57)正義への愛によって不正な者を告訴する人はキリストに仕える者であるから、王は悪を行う者にとって恐るべき存在でなければならない。(注58)「罪を犯した人々に真理が告げられるとき、それは賢明な人にとっては有益な忠告であるが、愚か者にとっては無益な難儀である。『神に由来しない権威はない。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。』(ロマxiii,1-3)。実際、権威者が真理に好意を持ってある人を矯正するとき、矯正された人は権威者から称賛されるが、権威者が真理に敵対してある人を迫害するとき、[そのことによって]勝利の冠を得た人は[彼が抵抗した]権威者から称賛される。我々の教育においては敬虔な魂は怒るかどうかではなく、なぜ怒るかを、悲しむかどうかではなくて、なぜ悲しむのかを、恐れるかどうかではなくて、何を恐れるのかを問題にする。実際、矯正するために罪を犯した人を怒ること、解放されるようにと苦しんでいる人のために悲しむこと、滅びることがないようにと危険に陥っている人のために嘆くこと、私はこれらのことを健全な判断によって非難する人がいるかどうか知らない。たしかに、ストア派は憐れみを非難するのが常である。しかし、あのストア派が人間を解放するために憐れみによって心を乱される方が災厄を恐れて心を乱されるよりも遥かに誉むべきことではないだろうか。」(注59)

 第19章でヒンクマルは憐れみをかける場合の区別について論じているが、それは、憐れみ・慈しみ・憐憫の情がそれを受ける人の状態次第では益にもなり、また無益ないし有害にもなるということである。彼は潰瘍の患者を治療する医師を比喩として用いている。メスで切開し、切除したり焼き切ったりしなければならない箇所を、病人の涙の嘆願によって憐憫の情を起こして、薬を与えるだけで潰瘍の疾患を身体全体に広がらせ、生命の利益を損なうならば、これは無益・有害なな憐れみである。(注60)王もまたそうである。憐れみをかけてはならない者にそうするとき、その憐れみは不正なものである。(注61)  しかし王には寛大さが必要であり、正義(justitia)の厳しさは慈しみ(misericordia)の優しさと平衡を保たなければならない。王とその裁判官は罪に対して正当な罰を下さなければならないが、悔い改めた者や回心した人に対しては寛大な処置を講じることが許される。(注62)

 王は犯罪者の賄賂によって誘惑されたり、追従によって欺かれたりしてはならないし、(注63)犯罪者と友情を結ぶことを避けなければならない。(注64)また王は憎しみによって復讐すること(odio vindictam)ではなくて、愛によって非難すること(amore correptionem)を求めなければならない。(注65)しかし、王は犯罪者を死刑によって罰することも恐れてはならない。その理由は人間に害を与えるのは肉体の死ではなくて、罪だからである。(注66)ヒンクマルはアウグスティヌスに倣って死刑の罰を肯定する。

 彼は偽キプリアヌスを援用して、「王は悪人たちを矯正する者(corrector)でなければならない。窃盗を禁止し、姦淫を罰し、不敬虔な者を地上から滅ぼし、親殺しや偽誓者たちに生きることを許してはならない」と述べている。(注67)そのために王には剣が許されている。(注 68)

 第28章においてヒンクマルは法律の権威が守られるべきことを説き、偽キプリアヌスの『世の12の濫用について』の第12章を引用する。「第12番目の濫用の段階は法律を持たない民である。彼らは命じられているのに、裁可された法律を軽蔑し、さまざまの誤謬の道を歩みながら破滅の罠に陥る。右にも左にも逸れない王の道、すなわち神の律法が怠慢によってなおざりにされるとき、至る所で多くの破滅の道が歩まれる。」(注69)

 第29章から第31章までの第4の部分でヒンクマルは王の近親者にたいする正義・司法の問題を扱っている。神、教会、国家に反した者はたとえそれが近親者であっても肉の情にほだされて罪を見逃すことがあってはならない、肉親への愛が神の愛を裏切るようなものになってはならないことを、ヒンクマルはグレゴリウス、ヨハネ・クリゾストムスを援用しながら説いている。

 最後の2章(第32-33章)でヒンクマルは罪人の回心を待つキリストと教会が厳しさの杖であり、喜びのマンナであって、善い王はその二つの力を自らのものとしなければならないと王に勧告する。そして最後に、罪を犯す者が多いからといってその多さのゆえに刑罰をなおざりにしたり、猶予したりしないように警戒すべきであると述べて論を閉じている。

 ヒンクマルの「君主の鏡」の全貌は、アントンの研究を見ても明らかなように、この『王の人格と王の職務について』だけではなくて、彼の他の関連文献を渉猟しない限りなかなか明らかにはなって来ない。(注70)いずれにせよ先行する「君主の鏡」作家たちの作品に通暁しながら、該博な知識で教父の著作を援用する彼の力量は驚くべきものである。なお、彼のこの著作が『王の人格と王の職務について』という標題を持っていることについて考えてみる必要があろう。王は一人の人間であり、同時に一人の王である。しかしヒンクマルは人間であることと王であることとを同一次元で考えることはできなかった。彼にとって王は人間として、一個の人格として「神に仕える者」であり、他の人間と同じ次元にあるが、王として「神の代理者」であり、他の人間の支配者とされているのである。しかし、代理者はその代理の職務から逸脱するならば代理者たる資格を失う。王権はもともと人格に属するのではなくて、代理者たる職務に属するというのが、ヒンクマルがあえて人格と職務を分けた理由であろう。

III.「君主の鏡」と教育

 以上見てきたように、9世紀後半カロリング時代のセドゥリウスとヒンクマルの二人の「君主の鏡」には11世紀に見られた叙任権闘争のような聖俗二つの権力、皇帝の権力と教皇の権威の間の関係をめぐる問題は尖鋭な形では現れていない。そもそもこの時代にはそのものとしてそれぞれに独立し、対立する国家と教会といったものはまだ存在していなかった。この時期の「君主の鏡」はフランク国家=教会という一つのキリスト教的普遍共同体において王と司祭・司教が共同してそれぞれ神に仕える者・神の代理者としての役割を分担する中で、司祭・司教の側から王に対して発せられた要請だと見ることができる。それぞれの役割の違いについて言えば、王が神の代理者であるのは正義に基づく世俗権力の執行者・民の支配者としてであり、司祭・司教の方は神の言葉の保持者・宗教的教導者としての役割を担っている。一応はそう言えるのだが、ただここで注意しなければならないことは、当時の国家が今日我々が考えているものとはかなり様相を異にしていて、「国家」と「教会」、世俗的皇帝権力と宗教的教皇権威とが分離的に前提された上で、その両者の協調的「関係」を問うという形で問題が立てられないような独特のあり方、すなわち王のもとで聖職者たちによって支えられる「教会」としてはじめて成立した「神の御国」であったという点である。(注71)「君主の鏡」は従ってこのような「古相的な『神の御国』の秩序、宗教的・政治的全体世界の秩序」(注72)内部での王の神権的支配を正当化する機能を一方で果たしながら、その正当性が保証されるために王に課せられた職務・役割について、それを忠実に履行するように聖職者の側から王に対して厳しく要求するという側面を持っている。例えば、ヒンクマルのような「王の最高政治顧問として、その政策決定に全般的な影響力を行使した大宮廷司祭(archicapellanus)」(注73)は王の執政官と王に神の律法の遵守を迫る聖職者という異なる職務を同時に果たさなければならなかった。これはかなり微妙な立場である。しかしこの点についてこれ以上立ち入らないことにし、「君主の鏡」の王に対する聖職者からの助言・教育の面に考察を移すことにしよう。

 西欧キリスト教世界には「君主の鏡」の伝統が連綿として続いた。中世全体を通じて「君主の鏡」が王に向かって書き続けられたこと自体がひとつの驚きである。中世キリスト教世界に限定して言えば、王・君主・支配者が真の王である神の不完全な似像・神の奉仕者・神の代理者として相対的な意味しか持ち得ず、絶えざる批判・吟味・教育を受けなければならない存在であると見做されていたという事実があるからこそ、この世界は「君主の鏡」をかくも多く生み出してきたのではないであろうか。そうした観点からは、おのれを絶対化した専制絶対君主もその権威が神に由来するのでなくおのれの力量のゆえに選ばれたと考える支配者もキリスト教からの逸脱・堕落の形態である。なぜなら、王の神権的支配とは王の権力・権威が神に由来するということであって、王が神に等しい絶対支配権を持つということではないからである。

 ところで「君主の鏡」はもちろん君主に宛てられているがゆえに内容的に政治を抜きにしたものであり得ないことは確かである。しかしそれは一般に考えられるような政治学ないし政治哲学ではないし、政策論でもない。受取り手が君主であり、差出人は聖職者、大抵は司祭・司教か修道者である。しかも世俗の著者が一般的な「君主論」という形式で不特定多数の君主を想定して書いているのではなくて、一宗教者が一国の支配者である特定の具体的な君主に宛てて勧告という形式で書いている。著者は大抵の場合その君主の顧問・助言者という立場に立っている。それは私的な書簡とも異なる。章立てがなされ、文献が引用されて書物の体裁を整えている。言ってみれば、それは君主が座右の書とし、それに照らして絶えずおのれの王としての考え、振る舞いを点検・反省・改善すべき鑑・鏡であって、その目的のために君主の助言者によって書かれた勧告の書物なのである。「君主の鏡」(speculum principis)はそこからそう呼ばれるのである。「君主の鏡」は多くの場合その標題に教育に関連する言葉(institutio,instructio,eruditio)を冠している。(注74)このことは著者である司祭・司教が単なる王の助言者であるにとどまらず、その書物が王の指南・教育の書でもあることを意味している。この助言・忠告・勧告・警告は神の意志の表現としての聖書の言葉を根拠として行われるのであり、また聖書の権威に従った教父の著作からの引用を通して行われる。著者の主観的な思いも述べられてはいるが、主眼はそこにはない。「君主の鏡」は政治的・法律的・社会的な問題に関わることをその使命としている君主に、それらの問題の宗教的・倫理的な側面を明らかに示すことを目的とした教育的な書物だと言ってもよいだろう。「君主の鏡」は君主を対象とした政治的文書であると同時に教育的文書である。しかもそれは内容的にだけではなく、形式的にもそう言える。換言すれば、「君主の鏡」は王のあり方を教える内容を持っているとともに、神がそれを通して王を教育するという機能を果たしているのであり、その著者は神の教育の一つの方法・道具なのである。

 セドゥリウスはキリスト教的支配者のあり方についてロタール王に宛てて書いたが、それは彼がロタールは私人である一キリスト教徒としてではなく、公的な「神に仕える者」・「神の代理者」たる王としてその限りでの教育、すなわち「王の教育」を受けなければならないと考えたからである。人間的に見ればセドゥリウスがロタール王を教えるのであるが、しかし実際は神がセドゥリウスを通じてロタール王を教えると言うべきである。そのことを意識してセドゥリウスは『キリスト教的君主についての書』を書いた。同じことはヒンクマルについても、他のすべての「君主の鏡」作家についても言える。著者たちはいずれも単に自己の主観的な思いを述べているのではなくて、神の言葉を代弁しているのだ、否神御自身が彼を通して王の教育を為さるのだという強い信念を持っていたのであり、そのことによって王に対して強い教育力・感化力を発揮しようとしたのである。

 私は先に「王の教育」(institutio regia)は「神の教育」(paideia theou; educatio Dei)のひとつの形式であると言った。人間が教育するのではなく、神が教育するという「神の教育」の思想はユダヤ・キリスト教の根本思想である。旧約聖書のいたるところに神がモーセや多くの預言者を通して人間を教えられるということが記されている。人間が教えるのではなく、人間を通して神が教える。人間は神の教育のいわば道具である。「王の教育」はその対象が王という特殊な地位・職務を担う者である点で違うだけで、その他の点では「神の教育」と共通する。もちろん、「神の教育」の「の」は主格の「の」であり、「王の教育」の「の」は目的格の「の」であることは言うまでもない。従って、先に言ったように、セドゥリウスがロタール王を教えたと言うよりは神がセドゥリウスを通してロタール王を教えたと言うべきである。教育の主体は神である。教育の客体は王である。セドゥリウスは神の教育の道具として神によって選ばれた。教育の内容は王の職務・権限・徳・生活などである。王権を与えるのが神であるだけでなく、そのことを王に教えるのも神である。神の教えに耳を傾けず、それに背く王は王たるの資格を神によって剥奪される。しかし、神が民の罪のゆえに悪い王を許容されることもある。神の教育の道具である「君主の鏡」の著者は神の名によって王に神の教えを告げる。それが勧告・忠告・警告・助言である。「君主の鏡」の著者はある点で旧約聖書に登場する預言者の役割を果たしていると考えることができる。預言者は神の言葉を預かってそれを人々に告げるが、「君主の鏡」の著者はやはり神の言葉を預かってそれを王に告げる。預言者も「君主の鏡」の著者も「神の教育」の道具である。

 「神の教育」はすでに神御自身によるイスラエルの民の指導に示されている。 しかし、その時も神はモーセを通じてイスラエルの民に語られた。ここでもモーセは「神の教育」の道具である。『マタイによる福音書』においてイエスは「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。…あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」(マタxxiii,8,10)と言われた。パウロは「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(1コリiii,6)と語る。パウロもアポロも人を「信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者」(1コリiii,5)にすぎない。このような旧約・新約両聖書に流れている「神の教育」の思想は教父たちにも受け継がれた。アレクサンドレイアのクレメンスは『教育者』(Paidagogos)を書いて、「われわれの教育者は聖なる神、イエスであり、全人類の導き手たるロゴスである。この人間を愛する神(ho philanthropos theos)御自身がわれわれの教育者である」と述べている。(注75)アウグスティヌスも『教師論』(De magistro)を書いた。彼はその中で神以外に人間を教える教師はいないと主張する。(注76)教師と普通に呼ばれている人間は「神の教育」の言わば道具である。

 こう聴くと人はそれでは人間の主体性はどこにあるのかと反論するであろう。 しかし、人間が神の道具であるという意味は没主体的であるということではなく、人間が真理・善・正義の原因・根拠・規準ではないということである。それは人間自身がすべてのものの規準であるはずはなく、人間は神が定めた規準に従うべきだとする考え方である。モーセも多くの預言者たちも、パウロ、クレメンス、アウグスティヌスも皆極めて個性的・主体的な生き方をした人々である。ただ彼らはおのれを規準として示すことは決してしなかった人々である。神こそがすべてのものの規準・尺度であるということをそれぞれ独自の仕方で示した人々である。

 人間を規準だと主張する者は実は自己を規準とし、自己を真理・善・正義として示し、他の人間を自己の下にねじふせ、自己の考え、意志に従わせたいのである。神を規準とする人は自己をも他の人をも根本的には同じ者と考え、他の人を批判するのと同じ規準で自己を批判し、また他の人に自己を批判させることができる人である。人間中心主義と神中心主義はどちらがより人間的であるか。もちろん前者だと多くの人が思うであろうが、実はそれは知者・強者・富者中心主義の別名なのではないか。つまり、そのような人は人間が中心だと言いながら、中心に据えているのは自己であり、自己の知識・権力・地位・富が自己の力量によって、あるいは他の人間から獲得できると錯覚し、そうできない人間・そう考えない人間を見下す傲慢(superbia,hybris)に陥っているのである。人間中心主義が自己中心主義であり、利己主義に道を開くのに対して、神中心主義は人間の分際を弁えさせる謙遜(humilitas)の道、人道(humanitas)であって、それこそより人間的(humanior)であると言わなければならない。 9世紀前半に活躍したスマラグドゥスはその「君主の鏡」の標題を『王の道』(via regia)としたが、その道は王の権力によって維持される公道・国道であると同時に謙遜の徳によって歩まれる人の道である。同じく9世紀前半に活躍したオルレアンのヨナスはその「君主の鏡」を『王の教育について』 (De institutione regia)と題し、王の役割・職務が何よりもまず正義に基づく支配でなければならず、神の言葉の保持者である司祭・司教は王にそのことを忠告し、そうでない場合には警告しなければならないと考えた。これが「王の教育」なのである。本稿で検討したセドゥリウス・スコトゥスとヒンクマルもその出自の違いを越えて、フランク王国の君主の助言者・教育者として、伝統に従って、しかし彼ら独自の方法でその「君主の鏡」をそれぞれの王に与えたのである。

  1. Smaragdus Abbas S.Michaelis, Via regia, Migne PL 102,931-970.

  2. Jonas Aurelianensis, De institutione regia, Migne PL 106,279-306. J.Reviron, Jonas d'Orleans et son "De institutione regia". Etudes et texte critique, Paris 1930.オルレアンのヨナス、『王の教育について』、三上茂訳、中世思想原典集成 6、平凡社、1992 pp.314-377.

  3. Sedulius Scotus, Liber de rectoribus christianis, Migne PL 103,289-332.

  4. Hincmarus Rhemensis, De regis persona et regio ministerio, Migne PL 125, 833-856.

  5. 三上茂、『君主の鏡−9世紀カロリング時代の“王の道”と“王の教育について”−』参照、『中世の社会思想』に寄稿、創文社より刊行予定。

  6. H. H. Anton, "Furstenspiegel", 1040-1048; H. H. Anton, Furstenspiegel und Herscherethos in der Karolingerzeit, Bonn 1967, SS.45-131及び Otto Eberhardt, Via regia. Der Furstenspiegel von St.Mihiel und seineliterarische Gattung, Munchen 1977,S.286-320を参照。

  7. Sedulius Scotus, On Christian Rulers and The Poems,Translated withIntroduction by Edward Gerard Doyle, Medieval & Renaissance Texts & Studies, State University of New York at Binghamton, 1983,p.10.

  8. ibid.p.18;注5)の拙稿ではセドゥリウスの執筆年をAntonに従って840年頃としたが、ロタール2世の在位が855-69年であることから、Doyleに従って855-859年の間のある時期と改めた。

  9. Pseudo-Cyprianus, Liber de duodecim abusionibus saeculi, ix, MignePL 4, 877-878;オルレアンのヨナス、『王の教育について』、三上茂訳、中世思想原典集成 6、平凡社、1992 pp.333-334.を参照。

  10. Sedulius Scotus, op.cit., c.1, 293D.

  11. Sedulius Scotus, op.cit., c.2, 296C.

  12. Sedulius Scotus, op.cit., c.19, 329C.

  13. Sedulius Scotus, op.cit., c.3, 297C.

  14. Sedulius Scotus, op.cit., c.11, 309A. Sedulius Scotus, op.cit., c.11, 309A.

  15. Sedulius Scotus, op.cit., c.12, 311B. Sedulius Scotus, op.cit., c.12, 311B-C. Sedulius Scotus, op.cit., c.19, 328D.

  16. Sedulius Scotus, op.cit., c.1, 295D.

  17. Sedulius Scotus, op.cit., c.5, 300B.

  18. Sedulius Scotus, op.cit., c.4, 298C. Sedulius Scotus, op.cit., c.9, 307B.

  19. Sedulius Scotus, op.cit., c.15.

  20. Sedulius Scotus, op.cit., c.17.

  21. Sedulius Scotus, op.cit., c.18.

  22. Sedulius Scotus, op.cit., c.20, 332A.

  23. Sedulius Scotus, op.cit., c.19, 329A.

  24. Sedulius Scotus, op.cit., c.8, 308B-C.

  25. Sedulius Scotus, op.cit., c.6.

  26. Sedulius Scotus, op.cit., c.5.

  27. Sedulius Scotus, op.cit., c.3, 297D.

  28. Sedulius Scotus, op.cit., c.4, 299A.

  29. Sedulius Scotus, op.cit., c.1, 295A.

  30. Sedulius Scotus, op.cit., c.1, 294C.

  31. Sedulius Scotus, op.cit., c.5, 300D.

  32. Sedulius Scotus, op.cit., c.12.

  33. H. H. Anton, “Furstenspiegel und Herscherethos in der Karolingerzeit”, Bonn 1967, SS.283-284.

  34. “De cavendis vitiis et virtutibus exercendis”(869年頃)Migne; PL 125,857-930.“Novis regis instructio ad rectam regni administrationem”(877年),“De ordine palatii”,“Ad episcopos”などを挙げることができる。

  35. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.1, 834C.

  36. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.22, 851C.

  37. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.1, 834C.

  38. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.2, 835B-836B, 注9)を参照。

  39. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.3, 836B-C.

  40. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.4, 837D.

  41. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.5, 839C-840A;オルレアンのヨナス、『王の教育について』、三上茂訳、中世思想原典集成 6、平凡社、1992 pp.374-375.を参照。

  42. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.6, 840B.

  43. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.7, 840C.

  44. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.10, 842B.

  45. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.10, 841C.

  46. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.11, 842C.

  47. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.12, 842D-843A.

  48. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.15, 844A.

  49. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.16, 844C.

  50. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.17, 844D-845A.

  51. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.18, 845C.

  52. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.18, 845C-D, アウグスティヌス著作集第12巻『神の国』(2)第9巻第5章、PP.247-248、茂泉昭男、野町啓訳、教文館、 1982 参照。

  53. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.19, 846C-D.

  54. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.19, 846A.

  55. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.20, 847A;c.28.

  56. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.21, 847D.

  57. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.22, 848C.

  58. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.23, 849C.

  59. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.23, 849A.

  60. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.25, 850C.

  61. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.26, 851A.

  62. Hincmarus Rhemensis, op.cit., c.27, 851C.

  63. 注41)の文献を参照。

  64. 山田欣吾、『教会から国家へ−古相のヨーロッパ−』、西洋中世国制史の研究 I、創文社、1992、p.6。

  65. 同上書、p.11。

  66. 同上書、p.24。

  67. 例えば、オルレアンのヨナス、『王の教育について』(De institutione regia)、トゥルネのジルベール、『王と王子の教育』(Eruditio regum et principum;1259)、ヴァンサン・ドゥ・ボーヴェーの『君主の道徳的教育について』(De moralis principis instructione)など。

  68. 三上茂、アレクサンドレイアのクレメンスにおける「教育」についてー 『教育者』第1巻を中心にしてー、『アカデミア』人文・社会科学編 第43号、 1986.

  69. 三上茂、アウグスティーヌスの「教師論」における教授・学習の成立とことばの問題、神奈川県立栄養短期大学紀要 第3号、1971. 三上茂、アウグスティーヌスの『教師論』、『アカデミア』人文・社会科学編 第33号、1981.

 

1993.09.30


『アカデミア』人文・社会科学編 第59号 pp.199-224. 1994年1月

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