ファチマの聖母マリア

リジューの聖テレーズ

The Fatima Crusader Issue 74, Summer 2003より

ベルナデット・ヴェスコ.

「だから、自分を低くしてこの幼な子のようになる者が、天の国でいちばん偉いのである。」(マタイ 18:4)

リジューの聖テレーズの短い生涯は並はずれた業績によって区別されなかった。少なくとも、現代世界の基準から偉大さと同一視されるような種類のものではなかった。

彼女は、単純な環境のうちに気づかれずに生活されたナザレの聖家族の生活にならって形成された隠れた生活を送った。祝せられたおとめマリアを模倣しながら、テレーズの「卓越した徳と恩寵は同じように彼女の行動の単純性の下に隠されていた」注1)。

1873年に生まれたテレーズ・マルタン(Therese Martin)がリジューのカルメル会修道院に入ったのはわずか15歳の時であった。彼女が結核で亡くなったとき、24歳であった。にもかかわらず、彼女の短い生涯の内部で神のこの小さき花は、福音書においてわれらの主によって輪郭を描かれた聖性と霊的な子どもらしさへの確実な道を証明するであろう天国への「小さき道」を構成する聖性の偉大な高さへと達した。

自伝ある霊魂の物語において彼女が記述した彼女の生涯は彼女を急速に聖性へと進歩させた謙遜と犠牲で充たされていた。彼女は、自分が「非常に小さな霊魂」であると主張しながら、最も小さなそして最も弱点のある霊魂たちでさえ愛、犠牲そして忍耐を通じて彼女の道に従い、そして確実に天国の花園に達することができると強く主張した。

テレーズはしばしば、その全生涯を偉大な聖者として送る祝福されている霊魂たちと一方で他の者たちは彼らの旅路の途中で深く弱点を持ち、絶えず倒れる霊魂たちとの間にそのような不均衡があるという事実を熟考した。

彼女はより小さな、弱点を持った霊魂たちがどのように天国を確信することができるか不思議に思った。なぜなら、彼らは偉大な霊魂たちよりもはるかに弱いからである。自分自身深く欠点のある霊魂たちの一人であると信じていたこの聖人はその問題について照明を受けるように熱心に祈った。そして彼女の照らしをその自伝に書いた。

「[イエズスは]自然の書物を私の前に開かれました。そして私はイエズスが創造なさった花がみなそれ自身の美を持っていること、バラの輝きと百合の白さとはスミレからその香りを奪わないし、また雛菊の魅力を減じるものではないということを見ました。私はもし小さな花がみなバラでありたいと望んだならば、自然はその春の飾りを失い、そして野原はもはやその種々様々の花でいろどられることもないということがわかりました。」

「ですから、主の生ける庭園、霊魂たちの世界においてもそうなのです。百合やバラに比較されてもよい偉大な聖人たちを創ることは主を喜ばせます。しかし主はまた雛菊やスミレであることに満足しなければならない小さな聖人たちをもお創りになりました。雛菊やスミレも主がそれらを見ることを選ばれるときには主の眼を喜ばせるために主の足もとに気持ちよく横たわっています。主が望まれるようにそれらが幸せであればあるほど、それらはそれだけ完全です。」

「私はさらに何かあることを見ました:私たちの主の愛は、最も偉大な霊魂を通じてと同様に、主の恵みに完全に委ねる一つの小さな霊魂を通じても輝き出すということです。真の愛は自己を低くすることのうちに示されます。そしてもし誰もが教会を飾る聖なる博士たちのような人ばかりでしたら、神が彼らのところに来られたとき、神はかがむことが十分おできにならないと思われるでしょう...神をお喜ばせするものは野のこれらの花の単純さです。そしてそれらにそのように低くかがむことによってです。神は御自分がいかに無限に偉大であるかをお示しになります。ちょうど太陽がヒマラヤ杉にも小さな花にも等しく照るように、神的な太陽も偉大な人にも小さな人にも皆に等しく照るのです。」

このように、リジューの聖テレーズはわれらの主の庭園のバラの一つであるけれども、すべての霊魂たち、特に最も小さき霊魂たちのための彼女の激励は、われわれは自分自身の低さを超えて決して高まることはないであろうということに絶望しているわれわれにとって最も大きな価値を持つものである。その反対に、聖テレーズは、われわれは自分たちの欠陥や不完全さを長々と述べるべきではなくて、その代わりにわれわれの小ささを認め小ささにおいて喜ぶべきであるとわれわれに教えている。なぜなら、この条件はもしわれわれが忍耐するならば、われわれを確実に天国へと連れて行くであろうからである。

聖テレーズの小さき道

聖テレーズは偉大な行為や完全性に存する聖性の高尚な高みに達することは彼女自身できないと信じて、異なった手段を通じて:すなわち、彼女の「小さき道」を通じて聖人となり天国に達しようと努めた。

聖テレーズの小さき道は保証つきの神との一致におけるわれわれの霊的生活の「単純さ」である。それは愛、忍耐そして子どものような信頼に存する。恐れも落胆も、常に神の強さに依存し、そして自分自身の小ささを認める、この道を生きる神の単純な子どもをくじくことはできない。

聖テレーズは自伝の中で彼女の小さき道を説明した。先ず第一に、あなた自身を子どもたちの中でも最も小さな者として心に描きなさい。それから彼女はこう言う:

「すべての徳の実践によって、聖性の階段を登るための試みにおいてあなたの小さな足を上げなさい。でも、あなたが最初の一歩でさえ登ることができるだろうと考えないでください。神はただあなたの善い意図だけをお求めになっています。階段の一番上で神はあなたを愛情を込めて見守っておられます。間もなく神の愛はあなたの無駄な努力によって征服されるでしょう。そして神は御自分の腕にあなたを抱き上げるために御自身で降りて来られるでしょう...『小さいままにとどまる』ということは私たちが自分たち自身の無であること、小さな子どもがあらゆるものをその父親から期待するように、私たちがあらゆるものを神の善性から期待するということ、私たちがあらゆるものを気遣っているのではないということ、そして私たちが霊的富を蓄積することについては考えていないということを意味します。貧しい者の間にあってさえ、子どもは、まだ小さい間は必要であるものを受け取ります。ひとたび彼が成長すると父親はもはや彼を保護せず、働いて自活しなさいと彼に言います。だからこそ、私は小さいままにとどまったのです。私の唯一の配慮は愛と犠牲の花を集め、それを神の善き楽しみのために神に捧げることでした。」

彼女は更にこう説明した:「小さい者であること、それは私たちが実践している諸徳を、あたかも私たちが何らかの善が可能であるかのように、私たち自身に帰さないということを意味します。私たちは、神がこの宝を御自分の小さな子どもの手に置かれたということ、そしてその宝は常に神のものであるということを認めます...小さい者であることは私たちが自分の欠点に決して失望しないということを意味します。なぜなら、子どもたちはしばしば倒れるけれども、真剣に自分自身を傷つけるには余りにも小さいからです。」

聖テレーズの小さき道において、小さい者の花、毎日の犠牲は神に対するわれわれの愛の最も大きな証拠である。それらはわれわれがどのように「神を勝ち得る」かである。このカルメル会修道女の例はこのことを完全に例証している。神の愛のために沈黙のうちに苦しむことから厳しい論評を抑え、代わりに微笑を与えることまで、あらゆる可能な状況における彼女の犠牲を通じて、彼女は自分自身の強い意志と人間的な自己愛を征服した。

いちど、テレーズが汚れた洗濯物をしていたとき、もう一人のシスターが知らずに汚水を彼女にかけ続けた。シスター・テレーズは、彼女が一歩引き下がって、そのシスターに自分が汚水のしぶきを浴びているというしるしとして顔からその汚水を拭おうとどのように誘惑されたか、しかしそうする代わりに、神への犠牲としてこの苦行を捧げることを思い起こしたかを記述した。

彼女は言った。「なぜそのように気前よく提供された宝を拒否するほどに十分に愚かでありましょうか? 私は自分の憤激を隠そうと気をつけました。私は汚水ではねかけられることを楽しむように一生懸命努めました。そして30分の終わりまでに、私は中傷のこの新しい形式に対する真の経験を獲得しました。そのような宝が与えられるこの地点を見つけたことは何と幸運なことだったでしょう!私はできる限りしばしば戻って来るでしょう。」

日々の行為と義務における年がら年中の屈辱はおそらく、そのように我慢のなさに傾いている哀れな人間本性にとって他のいかなる形式の償いよりも難しい。注3)日々われわれがするすべてのことにおいてわれわれ自身の自己意志と容赦なく戦うことは確かに小さなことではない。このように、われわれは小さな毎日の犠牲が些細なことではないということを見るのである。反対に、それらは「宝」であり、それによってテレーズが聖性の中二階へすばやく飛ぶように登った手段である。

霊魂たちに対するテレーズの愛

リジューのカルメル会に入る前に、テレーズは彼女の特別な使命を熟考した。そして「しばらくの間、彼女は宣教の活動的な使命とカルメル会の観想的な生活の間の彼女の選択において躊躇した。彼女は遠隔地の宣教に対する非常に強い魅力を感じた。しかしイエズスの声は彼女により隠れた生活とイエズス御自身とのより親密な生活へと呼びかけた。」注4)

彼女がしばしば決心を議論したテレーズの妹セリーヌはテレーズの使命をこのように書いた。「修道生活はテレーズにはとりわけ霊魂たちを救う手段だと思われました。その理由で、彼女は外国宣教会に参加することを考えました。でも、もっと多くの霊魂を苦行と自己犠牲によって救うという希望が彼女にカルメリットになることを決心させました。彼女は私たちの本性にとって、その労働の結果を一度も見ることなく、励みとなるものもなく、そしてどんな種類の気晴らしもなしに働くことはより困難であるということ、そしてすべての仕事の中で最も骨の折れる仕事は自己支配であるということを考えました。彼女は『この生きている死』を選びました。なぜなら、それは霊魂たちを獲得する最も確実な方法だからです。」注5)

彼女がカルメル会から来るのを感じた強い引きに加えて、もう一つの恵みが彼女の大きな使徒的召命の神秘的な形を理解するために与えられた。ある日曜日、彼女がミサの後書物を閉じたときに、十字架にかかったわれらの主の御絵が、ちょうど主の聖なる御手の一つを顕わして、部分的にはみ出した:

彼女が以前には決して感じたことがなかったような言いようのない悲しみの感情が、貫かれ、血を流しているこの崇拝すべき御手を見たとき彼女の心を貫いた。それは見捨てられた救世主に与えられるべき愛を嘆願しているように見えた。瞬間的に彼女に愛すべき返答がやって来た。なぜなら、彼女はわれわれにこう告げているからである:「私は、私が主の尊き御血を受け、そしてそれを霊魂たちの上に注ぎかけられるように、永遠に十字架の足下にとどまる決心をしました。」

霊魂たちの救いに対するこの熱意はますます強くなった。そして彼女の心の中に、死んで行かれる救い主の言葉がこだました:「われ渇く」。それは彼女の心の中に「これまでに知らなかったそして非常に熱い火」を点火したのである。彼女は霊魂たちのために渇きをいやすことを渇望した。そして彼女の使徒的熱意は聖霊降臨の後に使徒たちに与えられたような奇跡を当てにした。

プランジーニ(Pranzini)という名の冷酷な盗賊、色魔そして人殺しが彼女の焼き尽くす熱意によって利益を受けるべき最初の人物であった。当時のすべての新聞は死刑を宣告され、そして多くの点でそれに値したこの哀れな犯罪者によって犯された三つのショッキングな殺人を詳しく報道した。そのニュースはテレーズの静かな家庭の領域にさえ入って来た。今や熱心な「霊魂たちの漁師」となったテレーズは直ちにこの巨大な魚を捕まえるための彼女の網を投げることに決めた。言葉を換えて言えば、彼女は人間たちの中でも最も堕落したそして悔悛の情のない者を回心させようと決意した。そしてその目的のために、直ちに、彼女自身がわれわれに告げているように、勝利を得る最も確実な手段に決めて、彼女の力の及ぶすべての霊的手段を採用した:「自分自身では何もできないということを知っていますので、私は彼の身代金として私たちの救い主の無限の功徳と聖なる教会の宝を捧げました。」彼女の信仰はたじろがなかった。しかし、霊魂たちを求める彼女の探求において勇気を得るために、彼女は神へと立ち帰り、彼女の個性的に単純なそして信頼に満ちた仕方で祈った:ああ、私の神よ、私はあなたがこの哀れなプランジーニを赦してくださることをまったく確信しています。私はたとえ彼が自分の罪を告解せず、また悔悛のどんなしるしも与えなかったとしても、このことを信じるでしょう。なぜなら、私はあなたの限りない憐れみに信頼を持っているからです。でも、彼は私の最初の罪人ですので、私自身の慰めのために悔い改めの一つのしるしを乞い願います。

テレーズは、普段は新聞を読まなかったけれども、今はただプランジーニについて知るだけのためにラ・クロワのページを熱心に細かく調べた。彼の処刑の翌日、彼女は不幸な人殺しの最後のニュースを得るために急いで新聞を開いた。そして以下が彼女が読んだことである:「刑務所の入口のところでその刺客は死んだように蒼白に見えた。教誨師がおぞましいギロチンを見えないように隠すために彼の前を歩いた。他の者たちは一緒に彼を助けていた。彼は司祭と処刑人たちを脇へ押しのけた。彼が断頭台のところへ来たとき、ディーブラーが彼を押しやった。しかしその前に、彼の良心は突然の悔恨によって明らかに打たれた。なぜなら、彼は教誨師に彼の十字架を求め、3回それに接吻したからである。」そしてカトリック新聞はこう論評した:「もし人間の正義が彼の死によって満足させられたとすれば、おそらくこの最後の十字架接吻はただ悔恨だけをお求めになる神の正義を満足させた。」注6)

このしるしはテレーズを「霊魂たちの漁師」としての彼女の独特の役割において確証した。--それはちょうど、霊魂たちに対する渇きが彼女を虜にしたのがイエズスの傷を見たことにおいてであったのと同じである。そして今や彼女の「最初の罪人」の最後の行為は「十字架を3回接吻することによってこれらの聖なる傷に対する彼の信頼を置く」ことであった。注7)

罪人たちのうちでも最も冷酷な者に一身を捧げるテレーズはすでにファチマの聖母がわずか30年後になさるであろう悲しい嘆願に答えることの一つの模範を示していた:「罪人たちのために祈りなさい、たくさん祈りなさい。なぜなら、多くの霊魂は、誰も彼らのために犠牲をし、祈ってくれる者がいないので地獄に行くからです。」テレーズは愛と犠牲の彼女の小さな道を通じて「霊魂たちのために漁ること」によってそのことを理解していた。彼女は最も豊かな漁獲を確信することができたであろう。

1925年にテレーズを列聖された教皇ピオ11世は、彼女を偉大な宣教師聖フランシスコ・ザビエルのそばに置いて、外国宣教の共同保護者と宣言された。この特別の役割のためにピオ11世が与えられた理由はテレーズが霊魂たちに対して、そして「彼女にとってそのように貴重であった」霊魂たちに対して持っていた熱心な愛と「彼女の最も激しく燃える強調の霊感」注8)であった。彼女の修道院から彼女は、文通を続け、特別に祈っていた2人の宣教司祭の霊的姉妹であった。

霊魂たちへの彼女の献身のうちにそのように反映していたのは神に対するテレーズの愛であった:彼女の修道院の沈黙のうちに、テレーズの心のうちの愛の炎は霊魂たちに対するますます増大する熱意をもって彼女を鼓舞した。彼女は霊魂たちを救うことを熱望した。しかしながら、彼女の熱意は常に彼女の小さき道と一致していた。彼女は「最も普通の犠牲は、もし神の愛のためになされるならば、神の御心を喜ばせる」ということを知っていた。彼女の目的は霊魂たちの救いであった。そしてこの目的のために彼女は自分の最も普通の行動--一つのピンを拾い上げることさえ--を神の最も憐れみ深い愛に対する愛の行為として捧げた。彼女の最も小さな行動は永遠の生命を積んでいた。注9)

彼女の致命的な病気の強い苦痛を通してさえ、彼女の心は霊魂たちに対する愛で燃え続けた。彼女はこう言っていた:「そのような程度まで苦しむことが可能であると考えたことは一度もありませんでした。私はただそのことを霊魂たちを救いたいという私の強い望みを通じて理解することができるだけです。」

テレーズの使命--
彼女のバラのシャワー

彼女の生涯を通じてずっとテレーズは彼女がこの世では長く生きないであろうという予感を持っていた。彼女は神を愛し、そして霊魂を救うという彼女の生涯の使命がただ死の後にのみ完全に実現されるであろうということを知っていた。彼女が死の床についているとき、彼女はこう言った:「私は私の使命がこれから始まろうとしている--他の人々を私が神を愛したように神を愛させるという私の使命--霊魂たちに私の小さき道を教えることだと信じています。私は地上に善いことをすることで天国の生活を過ごしたいと望んでいます...私は天国で怠けていられないと思います。なぜなら、教会と霊魂たちのために働くことが私の望みなのですから。私はこの恵みを神に願っています。そして神がそれを与えてくださることを確信しています...あなたは見るでしょう。私の死後、私はバラのシャワーを降らせましょう。」

神が御自分の愛する花テレーズの熱心な望みを拒否することがおできにならないということは何か不思議なことであろうか? 彼女は自分の死後、地上に戻り、善いことをすると約束した。そしてこの聖人は本当にその約束を守った。死後間もなく、テレーズは霊魂たちに神の愛の花でシャワーを降らせ始めた。そしてまだ地上にいる霊魂たちの祈りに対する彼女の答はそのように印象的ですばやく、そして多数であったので、彼女の列聖のために、教会は諸聖人の列聖においては普通である遅れを短くしたほどであった。

小さき花[テレーズ]の取り次ぎに帰せられる請願に答えた多数の文書化された奇跡や回心がある。そして彼女によって助けられてきた人々の心のうちにのみ記録されているもっと多数の奇跡や回心が確かにある。明らかにリジューの聖テレーズは誰もが必要なときに向かうことができ、確実に答えてもらうことができる聖人たちの一人である。

彼女は霊的必要そしてこの世の必要の両方において、被造物のうちの最も貧しい者そして最も低い者を愛をもって助ける。聖テレーズに対する請願への答は非常にしばしば請願者に送られる、一つの形あるいは別の形におけるバラを伴うであろう。この天上的な好意のしるしは彼女の死の床での約束「バラのシャワーを降らせる」ことの文字通りの実現である。彼女は最もかたくなな罪人たちを回心させ、「不治の」病を癒し、そして最も悲惨な状況の中で取り次ぎをしてきた。

バラはテレーズの特別の署名である。それは「彼女が聴いた、そして神がお答になっているという一つのしるしを必要とする人々への囁き」の彼女のやり方である。数千人の人々は彼らの請願と祈りに恵みとバラでもってテレーズが答えるそのやり方を証言してきた。「多くの奇跡が目に見えるバラの出現なしに聖テレーズの取り次ぎを通じて起こった:通常は神の御意志を受け入れる深い内的な平和と神の愛すべき御計画と現存を見ることが経験された『バラ』である。」注10)

テレーズが彼女の死以来、生きている人々に提供してきた援助を記述し始めることさえ不可能である。「援助、癒し、回心、前もっての警告そして幻視の奇跡の簡潔な記述はバラのシャワーと題された7巻を充たしている。そしてそれらはリジュー修道院の中へ絶えず流れ込む諸々の証言の滝におけるほんの一滴を形成するにすぎない。シスター・テレーズはいたるところにおり、そして彼女の配慮は誰の傍をも通り過ぎない:...一人の若い司祭は進行した結核から瞬時に癒され、そしてそれ以後完全な健康を保っている。一人の盲目の少女はテレーズを見、そして直ちに正常な視力を取り戻している;彼女の請求書を支払うことができないあるイタリアの修道院の院長は空の机の中に十分な金を見つける;エディンバラのあるプレスビテリアンの監督は彼女によって教会の中へと導かれる;...一台の車がテレーズへの人々の呼びかけによって崖の縁から引き戻される;彼女の十字架からのひとひらの花びらが舌ガンを消失させる...彼女の善行を見たことがない国あるいは彼女の名が呼び求められないところはほとんどない。彼女の聖性は明らかであり、彼女の奇跡は否定できない。」注11)

リジューの聖テレーズの霊的子どもの小さき道はキリストが「だから、自分を低くしてこの幼な子のようになる者が、天の国でいちばん偉いのである」(マタイ 18:4)と言われたとき、福音書においてわれわれに命令された聖性への道である。

聖テレーズの小さき道の効力と超自然的な智恵を認めて、1997年に教皇ヨハネ・パウロ2世は彼女を教会博士と宣言された。そのとき教皇はこう述べられた:「幼きイエズスの、そして聖なる御顔のテレーズはすべての『教会博士』の中で最年少である。しかし彼女の熱心な霊的旅はそのような成熟を示しておりそして彼女の著作において表現されている信仰の洞察はそのように広大で深遠なので、それらは偉大な霊的師たちの間の一つの場所に値する。」注12)

聖テレーズの小さき道はわれわれの救いを達成するための日々の闘いにおいてわれわれを勇気づけるべきであろう。なぜなら、それは達成不可能な要求でわれわれを圧倒しないで、信頼と勤勉でもってわれわれに霊感を与えるからである。なぜなら、聖テレーズが言ったように、「聖性はある種の信心の行いの実践に存するのではなく、私たちの弱さを意識して、しかし神の御父としての善性に--躊躇することなく--信頼して、神の御手の中で私たちを謙遜で小さなものとする心の状態に存するのです。」それゆえに、神の最も小さな子どもとして謙遜になるように、そして聖テレーズの小さき道の日々の犠牲によって天上の庭園における花としてのわれわれの報償を得るように努力しよう。

脚注

1. Morteveille, Blanche. The Rose Unpetaled: St. Therese of the Child Jesus. Translated by Mother Paula O.S.B. The Bruce Publishing Company, Milwaukee: 1942, p. 209.

2. The Story of a Soul.

3. The Rose Unpetaled: St. Therese of the Child Jesus, p. 147.

4. Ibid, p. 77.

5. Ibid.

6. Ibid, pp. 89-90.

7. Ibid, p. 90.

8. Ibid, p. 240.

9. Ibid, p. 190.

10. Society of the Little Flower website.

11. Gheon, Henri. Secret of the Little Flower, St. Therese of Lisieux.

12. Homily of Pope John Paul II as he proclaimed St. Theresee a Doctor of the Church(October 19, 1997).

2004/03/27 三上 茂 試訳

作成日:2004/03/27

最終更新日:2004/08/02

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