ファチマの聖母マリア

今日ウクライナ・カトリック教会は猛烈に迫害されている

The Fatima Crusader, Isuue 27: Feb.-April 1989より

ソビエト政府による宗教に対する意図的攻撃において「ウクライナ・カトリック教会よりも多く苦しんだ制度はない」と主張しながら、合衆国国務省は最近ソビエトのウクライナ・カトリック教会抑圧と題する国務省当局の報告を出した。国務省の人権と人道的諸問題事務局によって準備されたその報告はどのようにソビエト政府が1946年にウクライナ・カトリック教会を強制的に一掃しようとしたか、そしてローマと一致しているウクライナ西部のウクライナ・カトリック教徒による彼らの信仰の自由な実践におけるすべての試みを絶えず抑圧してきたか、その証拠を提出している。

シュテフェン・スリク大司教の訴え

特別報告に関してコメントしながら、フィラデルフィアのウクライナ・カトリック教会大司教区のシュテフェン・スリク大司教は「ウクライナ・カトリック教会の迫害された信徒のこの悲劇的な物語は全世界の人々によって共有されなければならない。ソビエトの労働収容施設、監獄、そして精神病施設において長い年月を過ごした後に「死の収容施設」として知られるクチノ(Kuchino)の近くの悪名高いキャンプ36から最近釈放された、地下ウクライナ・カトリック教会における主要人物ヨシフ・テレリャ(Yosyf Terelya)が述べたように、『ウクライナ・カトリック教会についてのすべての情報は綿密な調査のために世界の公衆によって伝えられるであろう。世界のカトリック教徒たちはわれわれがいかなる条件で存在しているかを知るべきであり、また思い起こさせられるべきである。』」と述べた。

この国務省報告をできる限り多くの聴衆と共有する努力において、フィラデルフィアのウクライナ大司教区はそれをアメリカ・カトリック司教たち、主要報道機関そして合衆国政府の適当な高官たちに配布している。

合衆国における兄弟司教たちへの訴えにおいてスリク大司教はこう書いている:「同じキリストの体のメンバーとして、私は、あらゆる可能な手段を通じて人間の兄弟愛と正義の感覚に訴えることによって現代のカタコンベの中のわれわれのウクライナ・カトリック教徒の兄弟たちの闘争を容易にする助けをあなたたちが選んでくださると信じています。」

世界中のウクライナ・カトリック教徒たちの熱烈な希望を表明することにおいて、スリク大司教は、ソビエト政府がソビエト連邦におけるウクライナ・カトリック教会のこの情け容赦のない迫害を終わらせることを祈っている。「もし『グラスノスチ』の精神が真正で信頼できるものであるならば、そのときソビエト政府はこの基本的人権の侵害を終わらせることに熱心であるべきだ。」

公式報告

ボルシェヴィキが権力を掌握して以来過ぎ去ったほとんど70年近くの間、ソビエト連邦の共産党は宗教を除去しようと努力してきた。あるいはそれに失敗すると、それを国家の諸目的のために利用しようと努めてきた。宗教に対するこの意図的な攻撃においてウクライナ・カトリック教会よりも多く苦しんだ制度はなかった。西部ウクライナにおける数百万の人々の信仰を主張しながら、教会--指導者たちと信徒は同じように--はソビエトの支配によって組織的に抑圧されてきた。公式のソビエトの歴史編修は、教会が1946年に「自らを精算した」、その信徒はロシア正教会に「自発的に参加した」と主張するところまで行ってさえいる。注1)

しかしウクライナ・カトリック教会は、多くのサミズダト(samizdat)[地下の]文書や教会を抑圧する必要性についてのソビエト出版物における繰り返された議論が証言しているように、カタコンベにおいて生き続けている。本文書はその抑圧についての説明を発表するものである。

ソビエト連邦における教会と国家:1917-1946

ソビエトが1939年にポーランドから強制的に併合した西部ウクライナに主として位置しているウクライナ・カトリック教会はその近代の系統を辿れば、その礼拝と霊性とのビザンチン形式を保つ一方でローマ・カトリック教会と結びついた1596年のブレスト連合(Union of Brest)に行き着く。このように、ロシア正教会あるいは東部ウクライナにおける革命の後に現れたウクライナ自立正教会(Ukrainian Autocephalous Orthodox Church)とは違って、ウクライナ・カトリック教会はその始まりから教皇の権威を認めて、西を見ていた。

西部ウクライナはソビエト政権にとって一つの特別な問題を提出している。なぜなら、ソビエトの資料に従えば、ソビエト連邦における公式に認められた修道会の半数近くがその場所にあるからである。注2)加えるに、ウクライナ・カトリック教徒を含む多くの非公式のグループがある。さらに、ウクライナ・カトリック教会は西部ウクライナにおける独特のウクライナの民族的および文化的アイデンティティを持った人々の一つの中心としての役割を果たしてきた。これらの特徴がソビエトの目に教会を特長づけたことは驚くべきことではない。

法律が宗教に対して差別をする

その最初の数年にソビエト政権はすべての宗教的組織を、政権に対する政治的反対と内外の敵との共謀の廉で非難しながら、攻撃した。すべての宗教団体は教会の国家からの分離および学校の教会からの分離に関する1918年2月5日のソビエトの布告に始まる差別的ソビエト法制に苦しんだ。

新しい法律はすべての礼拝堂を国家に移した。聖職者とその家族は彼らの市民的諸権利を剥奪された。少数派の[教派の]組織的な宗教教授は犯罪となる違反とされた。そしてすべての神学的な諸学校は閉鎖された。最終的にはすべての男女修道会も閉鎖された。政権は罵倒的な反宗教宣伝活動を後援した。それに伴ったのは信徒たちの困惑とすべての重要な地位からの彼らの排除であった。

しかしながら、1920年代の間に、政権はその戦術を個々の教会や諸セクトの「ソビエト化」の方向に移した。「不忠実な」宗教指導者たちはソビエト国家に対する忠誠の綱領を喜んで受け入れた他の者によって置き換えられた。そして彼らの集団の内外の活動に対する広範にわたる統制に屈服するよう準備された。1927年までにはこれらの条件は、制限された不確かな容認の見返りにロシア正教会のモスクワ大主教によって受け入れられた。しかし、その代価は無神論的国家とのそのような妥協が彼らの教会の規範や霊的使命とは相容れないと考えた多くの正教会の司教たち、聖職者そして信徒たちの疎外であった。

しかしながら、これらの初期に獲得された特権は長くは続かなかった。1929年までにスターリン政権は暴力的な広範な反宗教宣伝活動に乗り出した。ますます多くの教会やあらゆる信仰の祈りの家は当局によって、しばしばでっち上げられた「労働者たちの要求」に基づいて、閉鎖された。増大する数の司教たち、聖職者が追放され、投獄され、あるいは処刑された。

この状況は、ソビエト連邦のいたるところで制度的宗教のほとんど全体的な抑圧においてその10年間の終りまで最高潮に達しながら、1930年代後半の間悪化した。ソビエト当局はこの時期の間にウクライナ自立正教会(Ukrainian Autocephalous Orthodox Church)に居残っていたものを、その司教たちの大部分と数千人のその信徒を殺しながら、滅ぼした。注3)当局はまたウクライナ・カトリック教会の精算のための計画を書き上げた。これらの計画はソビエトが1939年にカトリックの大きな集団を抱えていた西部ウクライナと西部ベラルーシを獲得すると共に現実となった。

ソビエトの占領と共に、直ちに長年続いていた教会の諸制度--学校、神学校、修道院、そして出版社を含む--の廃止あるいは国家接収、そしてすべての教会財産と土地の没収が続いた。最後にナチスが1941年6月にソビエト連邦に侵攻したとき、ソビエト秘密警察は大多数のウクライナ・カトリックの司祭を検挙した。彼らは殺されたか、あるいは東部へ強制移送されたかのいずれかである。

USSRに対するナチスの攻撃に続いて、スターリンは諸々の宗教団体に対する彼の戦術を実質的に変更した。ソビエト政権のまさに生き残りを気遣って、彼は反宗教的宣伝を弱めた。そしてナチス・ドイツに対するその闘争においてソビエト連邦のすべての潜在力を利用することを希望して、ロシア正教会ならびに他の諸教派に重大な譲歩を提供した。

しかし1944年のソビエトのウクライナ再占領と共に、すでにナチスの占領の下で苦しんできたウクライナ・カトリック教徒の抑圧が、1946年の教会の公式の「精算」において頂点に達しながら、もう一度再開された。

1946年ウクライナ・カトリック教会の精算

西部ウクライナのソビエト再占領のまさに始めからウクライナ・カトリック教会を精算することを狙った対策が取られていた。1944年冬から1945年にかけて、ソビエト当局は秘密警察NKVDによって指揮された「再教育」集会にカトリック聖職者たちを喚問した。

1945年4月5日にソビエト・メディアは反カトリック宣伝活動を開始した。それから1945年4月11日に、NKVDは在俗司祭および修道司祭を含む西部ウクライナの全ウクライナ・カトリック位階を逮捕し始めた--それは以後の5年間にわたって続くであろう一つの計画であった--

NKVDは首都大司教ヨシフ・スリピ(Yosyf Slipyj)のほかに首都大司教総代理ニキタ・ブドゥカ(Nykyta Budka)司教、スタニスラフ(Stanislav)の司教グレゴリー・コミシン(Gregory Khomyshyn)と彼の補佐司教ジョン・ライティシェフスキ(John Laityshevsky)、プリアシフ(Priashiv)の司教パウル・ゴイディチ(Paul Goydych)と彼の補佐司教バジル・ホプコ(Basil Hopko)、ヴォリン(Volyn)の使徒座視察者ニコラス・チャルネツキ(Nicholas Charnetsky)、ドイツにおけるウクライナ移民のための使徒座視察者モンセニョール・ペーター・ヴェルフン(Msgr. Peter Verhun)、ペレミシュル(Peremyshl)の司教ヨザファト・コツィロフスキ(Josaphat Kotsylovsky)と彼の補佐司教グレゴリー・ラコタ(Gregory Lakota)を逮捕した。(これらの人々のうち1人を除いて全員は刑務所で死んだか、それとも逮捕直後に死んだかのいずれかである。彼らの健康は彼らが受けた虐待によって駄目にされた。ただ首都大司教スリピだけは、教皇ヨハネ23世の努力によって、1963年に最終的に刑務所から釈放され、ローマに向けて出発することを許された。)

目撃者たちによれば、リュボフ(Lvov)においてだけでもその当時800人の司祭たちが投獄された。そしてチョルトコフ(Chortkov)においては約150人の司祭がテルノポル(Ternopol)地域からシベリアへ強制移送された。注4)

そうこうしている間に、1945年5月末に、これらのカトリック聖職者の大量逮捕が成し遂げられたので、ソビエト当局はいわゆるギリシャ・カトリック教会のロシア正教会との再統一のための開始委員会を後援した。これは一つの準備委員会であって、それはその後に--1946年3月8日から10日までリュヴォフで--一つの偽司教会議--当局はそれを一つの「ソボル」("Sobor")と宣言した--を召喚した。その「ソボル」において1596年ブレスト連合に終結が宣言された。そしてウクライナ・カトリック教会はロシア正教会に「再統合された」と布告された。

この任務全体はソビエト当局によって計画され、指導された。「ソボル」の知識は公衆には知らされなかった。何らの代表者の前もっての選挙も行われなかった。そしてただ216人の司祭と19人の平信徒だけ--ウクライナ・カトリック教会を代表していると申し立てられた--が「再統合」をもたらした。NKVDが残っているカトリック聖職者たちをロシア正教会に加わるよう強制する仕事を委ねられたのは驚くほどのことではない。

再統合は受け入れられない

ヴァチカンと西側にあるウクライナ・カトリック教会の両者は、それが教会法にも違反し、非合法のものであると考えて、この強制された再統合を認めることを拒否した。カトリック教会法および伝統的ロシア正教会の教会法に従えば、司教会議は、それが正当であるためには、教皇によって、あるいは大司教によって召集されなければならない、そして司教たちの参加がなければならない。にもかかわらず、ソビエト当局はこの「ソボル」とその諸決定が今日までUSSRにおけるすべてのウクライナ・カトリック教徒を拘束するものと考えている。

ほとんど300人のウクライナの聖職者と教皇ピオ12世の1946年および1952年のウクライナ・カトリック教会擁護の回勅の抗議は顧みられないままになってしまった。さらに、同じ運命がトランスカルパチア地方におけるカトリック教会を見舞った。その地方は第2次世界大戦の終わりにウクライナSSRの中に併合されたチェコスロヴァキアの一部であった。そこではムカチフ・エパルチー(Mukachiv Eparchy)が精算され、そして1947年にロシア正教会に従属させられた。その司教テオドール・ロムザ(Theodor Romza)は殺された。注6)

カタコンベにおけるウクライナ・カトリック教会

彼らの教会の公式の廃絶の40年後も、ソビエトの資料でさえ確証しているように、ウクライナ・カトリック諸共同体はソビエト連邦の中で存在し続けている。カトリック教会の生き残りについての最も雄弁な証拠は、すべて歴史的記録を偽り、カトリックの指導者たちと聖職者の名誉を害し、そして教会員たちをおびえさせることを計画した書籍、パンフレット、雑誌、テレビ番組、映画、講演、そして展示を通じて教会に反対する精力的なキャンペーンを実行しているソビエトの宣伝のうちに見出される。

第2次世界大戦中に数千人のユダヤ人の生命を救い、45年間(1900-1944年)にわたって彼の教会を導いた偉大な首都大司教アンドレイ・シェプティツキー(Andrei Sheptytsky)はソビエト高官たちによって中傷されている。

最初にカタコンベ教会の司祭たちは1945年-1949年の間ロシア正教会に属さず、彼らの聖職上の諸義務の公的遂行を諦めながらカトリック教徒としてとどまった人々である。1946年以後はカトリック平信徒のかなりの部分がこれらの「非合法的な」司祭や修道僧たちの儀式に依存し続けた。これらの聖職者の数はソビエト当局者たちが「反抗的な」聖職者と呼んだ人々--彼らの刑期を終えた、あるいはスターリン後の恩赦の特典を受けた人々--の帰還と共に1940年代半ば以後に増加した。

非-スターリン化がウクライナ・カトリック教会の復活へと導くであろうという希望は密かなカトリック諸活動の著しい強化を産み出した。しかしながら、1950年代後半までに、ますます多くの教会への「回心者たち」が正教会信仰を拒絶し始めたので、共産党当局者たちはより多くの司祭たちの逮捕と反カトリック宣伝の新しい波を引き起こすことによって教会に対する公式政策における変化へのいかなる希望をも一掃した。この広範な反宗教キャンペーンにもかかわらず、司祭の数は西部ウクライナにおいて1950年代そしてその後も、一部は追放の中での秘密の叙階のために、増加した。加えるに、テルノポル(Ternopol)とコロミア(Kolomyia)における秘密の神学的「諸神学校」の存在が、それらの組織者たちの逮捕に関連して1960年代にソビエトの新聞で報じられた。

ある一定数のウクライナ・カトリックの司祭たちが西部ウクライナの外部で追放の中で、あるいはシベリア、カザフスタン、リトゥアニア、そして東部ウクライナにおける自由な定住者として、しばしば彼らの信徒に遠くから奉仕しながら、生きている。宗教的諸共同体や修道会の会員たちはお互いに緊密な連絡を維持し、そして大部分は彼らの誓願に忠実にとどまっていた。1947年にはリュヴォフにおいて秘密のカトリック修道院が警察によって摘発された。

上述の報告は1987年1月の人権および人道主義的諸問題局(the Bureau of Human Rights and Humanitarian Affairs)によって準備されたものである。

1.注4を見よ。

2.Voprosy nauchnogo ateizma, publication No. 24, Moscow, 1979, p. 46. Stanovleniya i rozvytok masovoho ateizmu v zakhidnyhh oblastiakh Ukrainskoi RSR,(Kiev, 1981)p. 51.

3.1920年代および1930年代における東部ウクライナにおけるウクライナ自立教会のソビエトによる抑圧と精算は西部ウクライナにおけるウクライナ・カトリック教会の後の抑圧と精算の一つの先触れであった。革命直後、多くのウクライナ正教会の司教は1920年に一つの独立したウクライナ自立正教会を創立して、ロシア主教の正教会から分離した。1924年までに教会はウクライナSSRの中に30人の司教、1500人の司祭と助祭、そして1100の小教区を抱えていた。しかしながら、1922年からはソビエト当局は一つの分派を支持することによって内部からそれを分裂させることを試みながら、自立教会に対する諸々の制限条件を課し始めた。1926年には彼らは多くの他の指導者たちと一緒にその首都大司教バジル・リプキフスキ(Basil Lypkivsky)を逮捕し、その中心団体全ウクライナ教会会議の解散を命じた。それから1930年における教会の解散において頂点に達する1929年における大規模な抑圧的処置が取られた。残りの教会は1930年の終りに再建することを許されたが、最後の小教区が1936年に抑圧されるまでに徐々に滅ぼされた。ウクライナ正教会の資料によれば、教会の2人の首都大司教、26人の大司教と司教、およそ1150人の司祭、54人の助祭、そして約2万人の教会会議の平信徒ならびに無数の信徒が皆殺された。Ukraine: A Concise Encyclopedia, vol. 11, University of Toronto Press, pp. 170-171. を見よ。

4.Analecta O. S. B. M., First Victims of Communism White Book on the Religious Persecution in Ukraine(Rome 1953)pp.42-44. この書物はローマに住むウクライナのカトリック司祭たちによって書かれた。それは教会承認を得てイタリア語から翻訳された。

5.See, for example, K. Kharchev, chairman of the Council of Religious Affairs attached to the USSR Council of Ministers, in an interview for the Warsaw weekly, Prawo i zycie, February 8, 1986, p. 13. The current stand of the Russian Orthodox Church regarding the Lvov "Sobor" is presented in detail in "The Moscow Patriarchate and the Liquidation of the Eastern Rite Catholic Church in Ukraine", Religion in Communist Lands, vol. 13, No. 2, summer 1985, pp. 182-188. Compare the article of Metropolitan Nikodimus of Lvov and Ternopol, published in Visti z Uhrainy, No. 5, January, 1986, with the article in Moskovskyye novosti, No. 22, June, 1986, and the article of K. Dmytruk in Radianska Ukraina, May 31, 1986. 6. Analecta, First Victims

2004/03/04 三上 茂 試訳

作成日:2004/03/04

最終更新日:2004/03/04

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