トマス・アクィナスの教育論

-ハビトゥス形成としての教育-

三上 茂


I はじめに

 トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225-74)はヨーロッパ中世盛期の著名な神学者・哲学者であり、主著『神学大全』Summa Theologiaeによって、わが国にはその名を知られているが、教育史・教育思想史の文献にはわずかな言及があるだけであり、その評価も概して否定的なものが多い。彼は托鉢修道会のドミニコ会士として、間をおいて前後二回、パリ大学神学教授を約6年間勤めたほかに、転々と移動したヨーロッパ各地で教授・著作活動を続け、ぼう大な数の著書を残している。彼の『真理論』De Veritateと『神学大全』にはそれぞれ「教師論」De Magistroと題された一節があり、トマスはそこで教授・学習の問題をとりあげている1)。彼がそこで論じたことは、知識の獲得ということに関して、教師と学習者のそれぞれに帰せられる役割はなんであるかということであった。他にトマスは教育を直接の主題とするまとまった著作を残していない。「教師論」のみをもってトマスの包括的な教育思想を論じることは無理であると思われる。私はここで、トマスが主として『神学大全』第二部において展開しているハビトゥスhabitusおよび徳virtusに関する考察を手がかりにして、彼の教育思想を明らかにしたい2)。トマスの考えているハビトゥスないし徳の形成はまさに人間の形成にほかならないと私には思われるのである。

 なお、ハビトゥスというラテン語は習慣、習性、適性、能力態、所有態と訳されているが、ここでは敢えてそのまま音を写してハビトゥスとして用い、むしろその意味するところを明らかにしてゆきたい。以下の論述において、ハビトゥスは能力potentia、行為actusとの関連において考察が進められるが、ここで注意しておかなければならないことは、それが人間本性(人間がなんであるか)を最も深い層において示す一つの「質」qualitas、性状(人間がどのようにあるか)として、人間本性との関連をもっているということである。言いかえれば、ハビトゥスは人間本性へと本質的に秩序づけられており、実現されるべき目的としての人間本性として人間の最も内面に属するものなのである。

II 心身論と人間の諸能力

 ハビトゥスの考察に入る前に、ハビトゥスの担い手となる人間の諸能力、そして能力の担い手となる人間について簡単に検討しておく必要がある。

 唯物論は魂の存在を否定し、精神的なものを身体的なものに還元してしまうが、他方、観念論は魂が人間であって、身体は魂が使用する単なる道具にすぎないと考える。どちらの立場も精神と身体のどちらか一方を取って他方をこれに還元してしまう一元論であって、トマスにとってこれらのどの立場も問題にはなりえず、人間が精神身体的存在であることは疑う余地のないことであった。彼にとって問題であったのは、魂と身体との合一ということと魂の身体からの超越ということ、これら二つの側面の緊張関係であった。トマスは表現の上で、アリストテレス(Aristoteles, 前384-322)の質料・形相論によって彼の立場を述べているが、人間の知性認識のはたらきの分析を通して、質料・形相論を超える彼独自の立場を取って、合一と同時に超越の側面を強調している。まず、形相たる魂は質料たる肉体と合一し、合成実体tる人間、身体としての人間が成立すると考えられる。しかし、この説明では形相たる魂は質料たる身体に内在し、そのうちに埋没していると考えられ、身体的なものを超越する知性認識のはたらきを有する人間については解明されえない。そこで、そのような知性認識のはたらきの主体として、身体を超越する知的実体としての人間が考えられなければならない。ここでは、魂は身体に埋没しているのではなくて、むしろ魂が身体を包みこみ、包みこむということにおいてそれを超越しているのであり、身体がむしろ魂に参与するのである。簡単に言えば、人間は身体と合一することによって自らを完成させる知的実体、受肉した精神なのである。ところが、人間の知性認識のはたらきは身体的なものからの超越の度合が進むに従って完成されるということから言えば、人間の魂と神体との合一も究極のところで、魂の身体からの超越へと秩序づけられていると言わなければならない。ただ、身体からの超越・離脱と言われていることは、身体を否定的にとらえて、それから端的に脱却することと考えられてはならず、身体が全面的に魂に仕えるように変容せしめられ、精神化されることだと解されるべきである。ところで、トマスは、人間を考察する仕方は身体の側からも可能であるが、神学者として、魂の側から考察し、身体はそれが魂への関わりを持つかぎりにおいて考察すると言う。そこで、人間の諸能力を魂の側から簡単に検討しておこう。

 まず、生殖・成長・栄養摂取という三つの役割をもつ自育的な能力がある。この能力の対象はもっぱら魂と合一している身体のみに限られている。次に、魂と合一している身体だけでなく、すべての可感的な物体を対象とする感覚的能力がある。さらに、なお一層普遍的な対象、あらゆる有ensに関わる知性的能力がある。ここでは魂と合一している身体にのみ関わる自育的能力は考察しないことにして、感覚的能力と知性的能力について検討しよう。

 これら二つの能力はいずれも、魂が主として外部の事物と何らかの仕方で結びつく能力であるが、その関係の仕方は大きく二つに区別される。一つは魂のうちに外部の事物の似姿が取り入れられるという仕方であり、他は魂自身が外部の事物に傾き、その方向へ引きつけられるという仕方である。前者は把捉の能力であり、後者は欲求の能力である。これらの能力のはたらきの違いは次のように言いかえることができるだろう。把捉する能力のはたらきは、把捉される事物が把捉するものにおいて存在することということにおいて完成されるが、欲求の能力のはたらきは、欲求するものが欲求される事物へ傾向づけられるということによって完成される。

 把捉の能力はその対象の特質に従って感覚的認識と知性的認識の能力に区別される。前者は可感的・個別的なもの、後者は可知的・普遍的なものの把捉に関わる。トマスは感覚的認識の能力として、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の五つの外部的固有感覚と共通感覚・表象力・評定力・記憶力の四つの内部的感覚を挙げる。内部的感覚という概念は一見奇異な感じを与えるが、トマスはそれがあくまでも感性のレベルでの把捉の能力であることを強調する。しかし、外部的感覚も含めて、人間の感覚的把捉の能力は高次の把捉能力たる理性に参与することによってすでに理性的な性格を「分有的な仕方で」per participationem 得ているのである。

 知性的認識の能力をトマスは知性intellectusとも理性ratioとも呼んでいるが、同一の能力がそのはたらきの違いから区別して呼ばれているのである。すなわち、知性認識する intelligere ということは端的に可知的真理を把捉することであるのに対し、理性認識する、推理する ratiocinari ということはすでに把捉された可知的真理から出発していまだ把捉されていない可知的真理を認識すべくそれへと進むことである。それは静止と運動の違いに対応するとされる。

 先に感覚的認識の対象は可感的・個別的なもの、知性認識の対象は可知的・普遍的なものであると述べたが、トマスによれば、知性的認識の対象の世界は感覚的認識の対象の世界から離れて別に存在するのではない。人間の知性的認識は感覚的認識によって把捉された個々の事物を個別的な側面においうてでなく、それが可知的 intelligibilis
である限りにおいて把捉するのである。つまり知性的認識は可感的な対象を可知的なレベルに高めるという仕方でなされる。ところで、可感的事物は認識主体のうちに質料を伴わずに、しかし質料的諸条件を伴って受け取られる(これが表象像である)。トマスはこの表象像から質料的諸条件を分離して可知的形象へと高める(抽象する)はたらきをするところの知性の能動的側面を能動知性 intellectus agens と呼び、それに対してそのようにして可知的なレベルにまで高められた事物の本質を示すところの形象(可知的形象)を受け取ることによって、本来の意味での認識を行う知性の受動的側面を可能的知性 intellectus possibilis と呼ぶ。このような区別は人間が「受肉した精神」であることから当然出てくる、とトマスは考える。

 トマスはさらに、その目的あるいはそのはたらきの及ぶ範囲という観点から思弁的知性 intellectus speculativus ないし思弁理性 ratio speculativa と実践的知性 intellectus practicus ないし実践理性 ratio practica とを区別している。すなわち、思弁的知性はその把捉するところのものを行動にまで秩序づけることなく、単にこれを真理の考察にまで秩序づけるのであるが、実践的知性はその把捉するところのものをさらに行動にまで秩序づけるのであって、その考察の範囲が行動にまで拡張されるのである。

 次に欲求の能力について検討しよう。欲求は広い意味でそのものがなんらかのものへと向かう傾向性であると言えるが、このような意味では、魂のない物質も、例えば火が上昇し、石が落下するように、一定の傾向性を示し、自育的な魂の能力をもつ植物はさらにさまざまの傾向性を示す。これらのものの傾向性はそのものの自然本性にもとづく傾向性であるから自然本性的欲求と呼ぶことができよう。欲求の対象はそれを欲求するものの目的・善であり、欲求するものはそれに向かって運動し、それに到達して休らう。

 トマスによれば、人間の固有の自然本性的な欲求の対象は無条件的な意味における意志 voluntas が、その究極目的としてそれにいわば必然的に傾向づけられるところの全的な善であり、その究極目的への到達が至福 beatitudo である。ところで、人間は認識によってこの究極目的を内面化しうるから、意志の必然的傾向性と言っても、それは石が落下する自然必然性と同じ性格のものではなく、意志に固有の自然本性的運動としてまさに意志的・自発的 voluntarium だと言わねばならず、何ものも意志のこの自発性を暴力的・強制的に破壊することできないのである。このような意志による究極目的の自然本性的欲求は万人に与えられているが、それが自然本性的であるかぎりで、人間は、その主であり支配者であることがらには属さないのである。この点で意志は動かすものであるよりは動かされるものであり、自らのはたらきの第一原因ではありえない。トマスは、人間がその活動の主であり、支配者であるのは、彼があれかこれかを選ぶことができるかぎりにおいてであると言う。そのような選択は目的にかかわるのではなく、むしろ目的への手だて、つまり手段にかかわる。つまり手段は目的のゆえに欲求されるものであり、そのようなはたらきをする能力をトマスは意志と区別して自由意志 liberum arbitrium と呼ぶが、しかし意志と自由意志は二つの別の能力ではなくて同一の能力だと言う。それはちょうど知性と理性が同じ能力であるのと対応する。意志の対象はそれ自身のゆえに欲求されるところのものであるが、自由意志の対象はそのような目的のゆえに欲求されるところの手段なのである。人間は手段を選択することを通してのみ目的を意志するが、また逆に目的を意志することがはじめて手段を選択させる根拠になるのである。トマスによれば、人間が選択を通じて自らの行為の主である(自由である)のは、彼がそれの主ではないような意志による究極目的の欲求に基づくのである。

 人間の魂の欲求的能力には自然本性的欲求のほかに、その把捉するところのもの、すなわち認識されたものによって動かされる受動的能力としての欲求能力がある。ところで、知性によって把捉される望ましいものと間隔によって把捉される望ましいものは、同一の事物においてもその普遍的な特質に即してであるか、それとも個別的な観点からであるかに従って区別される。そこでトマスは知性的欲求能力のほかに、感覚的欲求能力を上げ、それは類においては一つの能力であるが種において二つののうりょくであり、欲望 concupiscibilis と怒り irascibilis がそれであると言う。欲望は適合的なものに従い、有害なものから逃れようとする傾向性であり、怒りは自己に適合的なものを脅かすとか、有害なものをもたらすような敵対的なものに抵抗しようとする傾向性である。感覚的欲求の対象(望ましいもの appetibilis )によって欲求能力のうちに引き起こされる動性は情念 passio と言われるが、それは同時にさまざまの身体的変化(呼吸・動悸・表情など)を伴うから、そこでは魂だけではなく、心身合一体としての人間全体が動かされ、影響を被ることになるのである。トマスによれば、感覚的欲求能力は魂の上位の部分たる理性や意志に従うが、その仕方は個別的観念を比量する感覚的認識能力たる思考力 vis cogitativa を介して理性に従い、また行動の実現ということに関して意志に従う。しかし、感覚的欲求能力は何らかその固有なものを持っているから、時として理性や意志の命令に反抗することがありうる。

III ハビトゥスと徳

 トマスは人間的行為・活動の根源・原理としてハビトゥスを挙げているが、それは能力とどう関係するのだろうか。むしろ能力こそ行為・活動の根源なのではないか。トマスのハビトゥス概念は能力と行為とを結びつける重要な概念であり、それの理解は人間の過程性を明らかにすると私には思われる。

 トマスによれば、ハビトゥスは能力に附加された質 qualitas であり、それによって能力はその活動のために必要とされる完成を受け取るのである。したがって、ハビトゥスは能力とは別の何かではなくて、強化され完成された能力と言ってもよかろう。人間の能力とか素質と言われるものは大部分は生まれつきのままでは不完全・未完成であって、完成されるべきものである。見るとか聴くといった感覚知覚はそれだけを切り離して考えればハビトゥスではないとも言えるが、人間においては理性の活動に参与し、その支配下にある限りでは、それさえハビトゥスなのである。見る力を養うと言われるのはこのような意味においてである。いわんや、高度の知性的認識や道徳的行為についてハビトゥスをぬきにして考えることは不可能であろう。

 ところで、能力 potentia は可能態を、行為 actus は現実態を意味する。トマスはハビトゥスを可能態と現実態との中間に位置づける。言いかえれば、ハビトゥスは可能態にある能力がその現実態である行為へ向かって秩序づけられている状態なのである。この関連で言えば、そもそも可能性ないし能力をもたないものにはハビトゥスも形成される余地はないし、また能力がすでに一定の活動・行為をなしうる能力として完成されている場合にもハビトゥスはないということになる。すなわち、全く受動的であるだけの能力にも、全く能動的であるだけの能力にもハビトゥスの形成はありえず、部分的に受動的であり、部分的に能動的であるような能力のうちにのみハビトゥスは存在するのである。ハビトゥスの形成とはそのような能力のうちで能動的原理が受動的部分にはたらきかけてその未規定性を規定し、不完全さを完成させせてゆく過程である。もちろん、このような規定・完成はいっきょになされるものではなく、行為の反復という長い過程を経て徐々に形成されると言わなければならない。以上のことから明らかなように、ハビトゥス形成において、行為の反復は必要条件ではあるが原因ではなく、原因はむしろ能力のうちにある能動的原理なのである。

 ところで、ハビトゥスは能力をよいはたらきへと秩序づけるものであり、能力がよく活動できるように完成するものであるが、このよいはたらきへの秩序づけが徳 virtus と呼ばれる。つまり、徳はよいハビトゥスなのである。しかし、このよさは、トマスによれば、二つの仕方で語られる。一つは能力をそのはたらきにまで完成するかぎりにおいて、つまり相対的に secundum quid よいと言われる仕方であり、後述する学知 scientia や技術 ars はそのような意味で知性的徳と呼ばれるが、これは一般に理解される徳ということばが含んでいる道徳的完成を意味するものではない。これに対して、無条件的・端的に simpliciter よさが語られるのでは、能力を単によくはたらかせるにとどまらず、それを正しく行使するような仕方で完成させるハビトゥスの場合であり、それによって人は端的によい人たらしめられる。正義 justitia や節制 temperantia のような意志ないし理性や、意志の支配下にある能力を担い手とする道徳的徳がこれである。このような道徳的徳は人間の自然本性をその究極目的へと正しく秩序づけるような、つまり彼の自然本性の実現へと導くような行為を保証する強化・完成された能力であり、端的なよさなのである。

 以下、簡単に認識的能力を担い手とする知性的ハビトゥスと欲求的能力を担い手とする道徳的ハビトゥスのうち枢要徳と呼ばれるものに限って検討しよう。

 トマスは知性的認識能力のハビトゥスとして、前述のようにその考察の及ぶ範囲の相違に従って、思弁的知性ないし思弁理性のハビトゥスと実践的知性ないし実践理性のハビトゥスを挙げ、前者に直知 intellectus 、学知 scientia 、叡知 sapientia を、後者に技術 ars と知慮 prudentia を属せしめている。

 直知は第一諸原理のハビトゥス habitus primorum principiorum と言われる。第一諸原理は存在(有) ens ,一 unum の概念のように単純なものと、例えば「全体はその部分よりも大きい」という命題のように複雑なものとに区別されるがいずれも、認識がそこから出発し、それへと立ち帰るところの根源・原理であり、それ自体もはや論証されえいないという意味で第一のものである。トマスはこのような第一諸原理の認識を直知と呼び、それはすべての人に与えられている自然本性的ハビトゥスであると言う。このような第一諸原理は知性によって自然本性的に naturaliter それ自体によって per se 直ちに statim 推論なしに sine discursu しられるとされるけれども、しかしそのことは直知が全体的に知性の内的な自然本性に由来するということを意味するのではない。すなわち、直知は部分的には外的原理たる可感的表象の助けなしにはありえないのである。例えば、人は全体が何であり、部分が何であるかということを感覚を通じてしか知りえず、その意味では直知は部分的に感覚的認識のうちにその起源をもつのである。直知のハビトゥスは他の知性的認識のハビトゥスの基礎になるという点で、知性的認識の第一の完成であり、真理の探究とか学習の成立の根拠であると言えよう。

 第二の学知は直知が諸原理のハビトゥスと呼ばれるのに対して結論のハビトゥス habitus conclusionum と呼ばれる。人間の認識はその大部分が推理 ratiocinari の過程を経て、努力と労苦の末に獲得される。この推論の過程はそれ以上もはや論証されえない諸原理から出発して特定の結論に至って止む。直知と学知の関係はいわば静止と運動の関係である。したがって学知は一つのものから他のものへと進行する理性的な運動として知性を完成・強化するハビトゥスだと言えよう。トマスによれば、人間は知性的存在のうち最下位を占めるから、直知による認識は人間より上位の知性的存在の分有によるものであって、人間は学知による一歩一歩の認識を通じてその知性を完成させてゆかなければならないのである。学知は一方において諸原理から結論への道(発見の道 via inventionis)を、他方において結論から諸原理への道(判断の道 via judicii)をたどる。いずれにせよ学知は諸原理と結論との連関を明らかにし、それらを秩序づけるという仕方で成立する。

 トマスは、知性は感覚を通じて獲得される表象像(phantasma)へ自らを転じることなしには新しい学知を獲得することはできない、と述べている。人間の知性の完成は事物を判然と限定された仕方で認識することのうちに存する。そのとき事物は特殊的・分明に把捉される。そかしいまだ不完全な知性は最初は事物を判然たらぬ一般的な仕方でしか把捉していない。学知を獲得するということはこうした判然たらぬ一般的な知識を判然たる個別的な知識へと深めることであって、トマスはそのことを知性的能力の可能態から現実態への進行としてとらえる。そしてこの進行の過程は知性が感覚によって援助されることなしには起こりえないのである。

 学知の担い手たる可能的知性は能動知性によって感覚的表象から抽象された可知的形象を受け取ることによって認識する。厳密に言えば、受動的能力たる可能的知性は可知的形象を受け取ることにおいて現に考察しつつある considerare 知性なのであるが、考察を終えて現に認識の働きを行っていないときにも、その受け取った可知的形象を保持しつづけることができる。この保持が(知性的)記憶 memoria(intellectiva)と言われるものであるが、トマスはそれをハビトゥスとして可能的知性のうちに形成されると説明している。してみれば学知は記憶のことだとトマスは言っているのだろうか。そうではない。確かに、記憶は学知と密接に関連しており、記憶なしにはまた学知もありえない。しかし、トマスによれば、学知は記憶として保持された可知的形象の秩序づけ ordinatio であり、推論・論証によって真の結論へと秩序づけられ、その能力が強化・完成された知性の一つの性状(ヘクシス)なのである。

 ところで、学知というハビトゥスの形成は行為の反復を必要とするが、しかし行為の反復がハビトゥスの形成の原因であることはできない。トマスによれば、その真の原因は可能的知性という受動的原理を未規定で不完全な状態から、必要に応じて速やかに活動できるように規定され、完成された姿へと状態づけるところの能動的知性の光やそれによってもたらされる第一諸原理のような知性の能動的原理なのである。したがって、学知のハビトゥスが決して機械的・自動的な行為の反復とか、あるいは外部からの単調な刺激に対する反応の機制によって原因されるのではなく、能力の担い手たる主体の内部からの生命的・知性的な活動の結果として形成されてくるということは明らかであろう。

 第三の叡知は、それが他の諸学知と同様、諸原理から結論を論証するという点である種の学知であるが、最高の諸原因に基づいて考察を進めるというその対象の卓越性という点では他の諸学知を超え、それらを方向づけるより高次のハビトゥスとされる。それはあらゆるものについて判断し、それを秩序づける。というのは、それが第一原因へと立ち帰ることによって完全で包括的な判断を可能とするからである。これは形而上学的認識のハビトゥスと言いかえることもできようが、トマスによれば、その論証は学知の論証よりも確実性において優れている。もちろん、トマスがこのように言うとき、「われわれにとって」 quoad nos の確実性とそのものの「本性に従って」 secundum naturam のそれを区別した上で、後者の意味で考えているのである。したがって、叡知のハビトゥスは「われわれにとって」は直知から出発して諸々の学知を獲得した後に到達されるところの知性の自然的な完成の頂点に立つものだと言えよう。

 続いて、実践的知性ないし実践理性の二つのハビトゥス、技術と知慮について検討しよう。まず、技術は「制作されるべき事物についての正しい理性」 recta ratio factibilium だと言われる。ところで、実践的知性がその対象に関してもつ関係は思弁的知性がその対象に関してもつ関係とはちょうど逆になっているということに注意しなければならない。すなわち、思弁的知性のハビトゥスたる直知・学知・叡知において知られる対象は必然的であり、それらのハビトゥスの形成において対象が知性を規定し、その尺度となるのに対して、実践的知性のハビトゥスたる技術・知慮にあっては、その対象は非必然的であり、知性がその対象にとっての規範であり、尺度となる。したがって、技術的なことがらにおいては、制作された事物は、それが測られるところの基準--これは制作者の知性が作り出した正しさ rectitudo である--に一致するとき、よいと言われる。トマスによれば、技術がかかわるところの制作は他動的なはたらきとして、その結果が外部にある素材へ出てゆくということから、技術の目的は制作される事物にあり、したがって技術のよさも制作された事物のうちに見出される。ところで、厳密に言えば、技術的なことがらにおいては二つの活動が含まれている。トマスはそれを「認識」 intelligentia と「制作」 factio と呼ぶが、前者は技術的思考と言いかえてもよかろう。技術的思考は技術者がその技術によって作られるべき事物の形相を原理としてそこから始めるところの計画の案出をはじめとする一連の活動であり、それは制作--外的な素材にはたらきかけて完成した作品を産出する活動--へと接続する。技術者は技術的思考において普遍的なものにかかわり、制作において個別的・特殊的なものにかかわるから、両者は区別されるが、普遍的な原理を、特殊的な事物を制作すべく外的な素材に適用することが技術である以上、技術的思考と制作という労働は分離できないであろう。しかし、知性のハビトゥスである限りの技術はそれを獲得する者を事物を制作する活動にまで秩序づけることによって、彼の知性に完成的強化を及ぼすのだと言えよう。制作活動にまでの秩序づけとは、技術的思考が、作られるべき事物がその正しい理解に合致して作られるようにと判断し命令しながら実際の制作活動を方向付けることである。

 実践的知性の第二のハビトゥスは知慮であり、それは「為されるべきことがらについての正しい理性」 recta ratio
agibilium だと言われる。トマスが知慮は本質的には secundum essentiam 知性的徳であるが、質料的には secundum materiam 道徳的徳であるとしていることからも明らかなように、知慮の対象は人間的・道徳的な行為である。人間が正しく行為するためには何を為すべきかということ(目的)だけでなく、それをどのようになすべきかということ(目的へ至る手段)が重要である。しかるべき正しい目的を選択するように人間を状態づけるのは道徳的な徳であって、それは目的達成手段に関しては何ごとも決定しない。知慮はむしろ意志による正しい目的の欲求に基づいて、その目的実現のための手段をしかるべく選択する。それゆえ、知慮という実践理性のハビトゥスは人間の欲求がそれによって正しい目的へと秩序づけられるところの道徳的徳を前提とすると同時に、手段へと向かう欲求に関してその規準となる。実践理性が知慮というハビトゥスによって強化・完成されて正しく行使されるとき、それは正しい理性 recta ratio と呼ばれ、究極目的へ至る手段たる具体的・特殊的な目的ないし善を正しく考量し conciliari 、判断する judicare ことができるのである。

 なおトマスは思弁的知性の自然本性的ハビトゥスたる直知に対応するものとして、実践的知性の自然本性的ハビトゥスを挙げ、それを良知 synderesis と呼んでいる。それは実践的第一諸原理(善の観念と「善はすべてのものが欲求するところのものである」とか「善は為すべく、悪は避くべきである」といった命題)を直ちに把握させるところのハビトゥスである。そこで学知が諸原理の直知に基づいて結論へと推論するように、知慮は実践的諸原理の良知に基づいて為されるべきことがらの特殊的結論へと推論すると言われるのである。

 人間がよく行為するように欲求的能力を完成するハビトゥスは道徳的徳である。トマスは知慮を知性的徳と道徳的徳の中間に位置づけたが、それと正義 justitia 、節制 temperantia 、剛毅 fortitudo という中心的な道徳的徳を枢要徳 virtutes cardinales と呼んだ。トマスによれば、徳の形相的原理は理性の善 rationis bonum である。それゆえ、徳の形相的原理が理性の考察それ自体のうちに見出されるのが知性的徳たる知慮であり、それに対して理性の秩序が欲求能力のうちに建てられるのが道徳的徳である。すなわち、理性の秩序が外的な行動 operatio に関して建てられるのが正義の徳であり、内的な情念 passio に関して及ぼされるのが節制および剛毅の徳である。またその担い手という点から見れば、知慮の担い手はその本質によって per essentiam 理性的である実践理性であり、他の三つの枢要徳たる道徳的徳の担い手はその本質によってではなく分有によって per participationem 理性的である欲求能力とされる。すなわち、正義の担い手は意志という知性的欲求能力、節制のそれは欲望、剛毅のそれは怒りというそれぞれ感覚的欲求能力である。

 正義の徳は他者(個人および共同体)へのかかわりにおいて人間の行為を正しい理性に従って秩序づけ、その持ち主の意志を強化・完成するハビトゥスである。それゆえ、正義はすぐれて、社会生活に関して人間の行動を秩序づける徳であり、各人にかれのものを帰するという共同体的性格をもった徳である。

 これに対して、節制と剛毅の徳は人間の内的な情念にかかわり、欲望や怒りの能力を正しく秩序づけて彼をよき行為へと完成するハビトゥスである。情念はそれ自体としては道徳的に無記であるか、人間が理性的存在であるからして、感覚的欲求能力が上位の能力たる理性や意志の命令に従うか否かということが常に問題となり、そこにハビトゥスという形でのそれら感覚的欲求能力の理性への一致としての道徳的徳が必要とされるのである。

 ところで、トマスは人間の究極目的への到達あ(至福)という観点から、上述した人間的完成としての知性的徳と道徳的徳の上に、さらに神からの恩寵として(つまり、人間の努力によって獲得されるのではなくて)与えられるいわば超人間的な徳があると言う。それは信 fides 、望 spes 、愛 caritas という三つの対神徳 virtutes theologicae である。ここでそれについて検討することがでいないのは残念であるが、トマスが人間の感性の三段階を区別し、知性的徳は道徳的徳に伴われ、そして道徳的徳は対神徳、特に愛徳によって完成されることにおいて人間が真の究極目的へと正しく秩序づけられると考えていたことは忘れてはなるまい。

  

IV むすび

 以上、トマスのハビトゥスないし徳についての考えを概観したが、彼がそれをいかに動的に、また人間全体において統一的にはあきしていたかをいくぶんなりとも明らかにしえたと思う。トマスにおいてハビトゥスの形成はすなわち人間形成であり、実現され、完成されるべき目的・課題としての人間の自然本性へ向かっての運動である。逆に言えば、人間の自然本性は生まれつき完成されたものとしてすでに与えられている(所与 Gegebenheit )のではなく、ハビトゥスの形成を通じて徐々に実現すべき目的として課せられている(課題 Aufgabe)のである。ハビトゥスの担い手たる能力はそのままではあくまでも素質・可能性であって、それが容易に、速やかにそのして喜びをもって発現・現実化できるような状態にまで強化される必要がある。そのような可能性の現実化の過程がハビトゥス形成であり、まさに「人間の人間化」の過程、人間が人間に成ることである。

 教育の営みは、厳密に言えば、「人間の人間化」として語るだけでは不十分であり、「人間の人間化への他の人間による援助」として規定すべきである。この点についてはほとんど触れることができなかったが、トマスがハビトゥス形成の真の原因を受動的であるとともに能動的でもある主体(人間)の内部における能動的原理に帰していることからもうかがい知ることができるように、他の人間(教師)によるはたらきかけはあくまでも援助としての性格を失わないと言わなければならない。トマスにとって教育は決して教師という技術者によってなされる生徒という素材の加工ではありえなかった。

 トマスは人間の感性と理性のレベル、知性と意志のレベルを区別したが、それらを人間全体・人間の自然本性へと秩序づけ、統一的に理解した。彼は人間の完成をハビトゥスの形成を通じてはじめて可能になるものととらえており、人間の知的側面と道徳的側面を中心にしながらも、身体的・感性的側面を無視せず、しかもそれらの自然的・人間的完成を神の恩寵による超自然的完成へと秩序づけている。トマスの思想は決して一面的な主知主義として位置づけられることはできず、かえって全面的・統一的だと言わなければならない。

 教育の歴史において、トマスの思想は教育の現実に適用され、制度の中で実践されてきたとは言いがたい。しかし、ペスタロッツィー(Johann Heinrich Pestalozzi, 1746-1827)やルソー(Jean-Jaqcues Rousseau, 1712-78)、いなコメニウス(Johann Amos Comenius, 1592−1670)よりはるか以前に、トマスが「合自然」の教育を強調したことは教育思想史を考える上で一考に値するという一点を取っただけでも、トマスの思想が現代の教育学に対して実り豊かな示唆を与えることは確かであろう。

[注]

(1) トマスの『教師論』に関しては拙稿「トマス・アクィナスの『教師論』(その一)」『九州大学教育学部紀要』第11集(1966年)、「トマス・アクィナスにおける『知識の獲得』の構造」『教育哲学研究』第15巻(1967年)、「トマス・アクィナスにおける教育の過程性」『神奈川県立栄養短期大学紀要』第1号(1969年)を参照。

(2)トマスの典拠は一々挙げると余りに多くなりすぎるので全て割愛した。なお、執筆にあたって参考文献に挙げた九州大学稲垣教授の著書から多くの示唆を得た。

[参考文献]

トマスの邦訳
『神大全』第1-8, 11, 13, 15, 18巻、創文社、1960-85年。

トマスの著作からの英訳の抜粋(ペーパーバックス)
V.G Bourke(ed.)The Pocket Aquinas, New York(Washington Square Press), 1960.
M. T. Clark(ed.)An Aquinas Reader, New York(Doubleday), 1972.
A. C. Pegis(ed.)Introduction to St. Thomas Aquinas, New York(Modern Library), 1948.

トマスの教育に関する文献
J. Mausbach, Grundlage und Ausbildung des Charakters nach dem hl. Thomas von Aquin, 3. Aufl. Freiburg
(Herder), 1920.
M. H. Mayer, The Philosophy of Teaching of St. Thomas Aquinas, New York(Bruce), 1929.
W. L. Wade, A Comparison of "De Magistro" of Saint Augustine with the "De Magistro" of St. Thomas Aquinas,
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日本語文献
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稲垣良典『トマス・アクィナス』(思想学説全書)けい草書房、1979年
稲垣良典『習慣の哲学』創文社、1981年
松本正夫、門脇佳吉、K.リーゼンフーバー編『トマス・アクィナス研究』、創文社、1975年。
三上 茂『トマス・アクィナスのハビトゥス論と教育』『アカデミア』第96号、1974年。

『教育思想史 IV』中世の教育思想(下)、上智大学中世思想研究所編集、東洋館出版社 昭和60年11月 pp.179-199から転載

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