オットー・ヴィルマンの陶冶論研究 その一

--「教育」と「陶冶」の問題 --

三上 茂


 はじめに

 小論の目的はヴィルマンの陶冶論研究の一端として、まず彼の人間観を概観し、次に社会及び文化についての彼の考え方を明らかにしながら、彼において「教育」(Erziehung)と「陶冶」(Bildung)がいかなる意味でとらえられているかを考察しようとするものである。ヴィルマンはその著『教授学』において、「教育」と「陶冶」を区別し、両者が多くの点で相互に交錯し、覆い合うことを認めながら、しかもそれぞれ固有の課題と業績とによって区別され、同等の権利を持つと主張する。他方、彼はロロフ編の『教育学辞典』では「教育」を「配慮」、「指導」。「陶冶」として語っている。ここでは「教育」の中に「陶冶」がいわば含まれていると考えられる。これら二つの考え方の間には矛盾があるのであろうか。以上の問題意識に立ちながら、彼の陶冶論の一端を明らかにしてみたい。以下の考察においては、彼の主著『陶冶論としての教授学』1)を主として用い、論文集『講堂と教室から』2)については機会を改めることにしてここでは触れない。

ヴィルマンの人間観

 ヴィルマンの人間観をうかがうには『教授学』の最後の章が手がかりとなるであろう。彼はそこで「人間の生活課題の全体における陶冶作業」3) と題して、人間に三つの要素を区別している。第一の要素は、「感性的・自己的要素」(das sinnlich-selbstische Element)である。生命維持の衝動はすべての動物に見られる共通の根本衝動であるが、これは自己保存の衝動と種属保存の衝動に区別される。自己保存は生命の一般的条件の確保、危険からの生命の保護に向けられる活動であって、栄養衝動及び防御衝動がそのために役立つ。種属保存は性の結合と前代による後代の保護・養育に向けられる活動である。これらの生命維持の活動の関係点は自己および種属であり、その手段は感性である。この「生命の維持」(Lebenserhaltung)は人間の課題であり、「感性的・自己的要素」は人間の関心界の一領域を形成する。

 次にヴィルマンは第二の要素として「理性的・公益的要素」(das verstaendig-gemeinnuetzige Element)を挙げる。これは衝動を抑制し、個体を結合させる。その意識の形式は理論的には、特殊的なものを一般的なものに従属させ、実践的には、特殊の利益を公共の福祉に従属させるという形を取る。この要素は人間生活の構成要素として、「感性的・自己的要素」とともに並ぶものであるが、それと対立し、それを克服するというよりはむしろ、それの単なる変形にすぎないと考えられる。即ち、理性的なものにおいて感性的なものは克服されず、公益的なものにおいても自己的なものは多様化されるにすぎない。他の人々との生活は恣意を制限しはするが、利己主義を根柢的に取り去らない。この要素は外部から内面へと作用するのであって、内面から外部へと作用する力ではない。このいわば機械的な圧力として作用する要素は人間にとって確かに不可欠もの、本質的なものではあるが、それとともに、さらに内面からの形成的な力を必要とする。

 それは、ヴィルマンによれば、第三の要の素としての「超感性的・無私的要素」(das uebersinnlich-selbstlose Element)である。即ち、衝動には超越的牽引力が、利己主義には犠牲が、恣意には内的結合としての宗教が対立する。この要素は「理性的・公益的要素」が外的に、また分別をもって働くのに対して、「感性的・自己的要素」と方向は反対であるが、それと同じように何か根柢的なもの、強制的なものを持っている。それ故、この第三の超越的要素は衝動をその根柢において把握し、最も内面的なものへと転ずることができる。自己を無にすることにおいて人間と人間とを結びつける愛の根柢が確保される。何故なら、ここでは衝動的な結合や理性的な社会化といういわば外的な結合を遙かに越えて、より高い第三者たる神への共同的な献身における内的な結合が行われるからである。

 以上述べた三つの要素は等間隔に並べられるものではない。第二の要素は第一の要素のいわば集合、多様化の結果であるとも考えられる。しかし、単なる集合であるのではない。何故なら、この第二の要素は動物には見られない人間本性の根本的傾向であり、人間がポリス的動物といわれるのもまさにこの要素に関係するからである。「感性的・自己的要素」によって動かされる「生命維持」の課題は、自我を超世間的秩序に組み入れる「生命の向上」(Lebenserhoehung)或いは「生命の聖化」(Lebensweihe)の課題と対置される。物質的・動物的な契機と理性的・超自然的な契機は多様な形で交錯しながら、我々の道徳的世界、現実の生活においてせめぎ合っていると考えることができる。ヴィルマンの人間観には、上述のように、人間存在の「中間者的性格」が見られるといってよいであろう。
 ところで、ヴィルマンは人間が他のすべての被造物から区別される本質的なものを「生活の充実」(Lebenserfuellung)と「生活の秩序」(Lebensordnung)のうちに見ている。前者は「文化」(Kultur)に、後者は「文明」(Zivilisation)に関係する。

 文化は生活に価値ある充実を与える物質的、精神的財の総体であって、信仰、知識、能力、労働、交際、あらゆる種類の芸術創造や創造的活動に基づく。文化は財にかかわるものとして、その卓越性はその幅と充実に依存する4)。
 文明は人間を共同体の成員とするところの諸々の制度及び生活形式、社会化及び共同体化を目指し、いわゆる自然状態の野蛮な、孤独の利己主義を克服する規定であり、宗教的及び国家的な規定、慣習、法、家族、社会、国家などの社会秩序がその根柢である。文明の強さはその基礎の持続性とその組織の堅固さにある5)。

 この文化と文明の対置の根柢にあるものは人間の内面的なもの、即ち心意(Seele)を二つの異なった現象、即ち理論的機能と実践的機能に分かち、その機能の担い手としての精神(Geist)と心情(Gemuet)とを区別しようとする動機である。ヴィルマンはここではこの人間の内的な二つの契機を社会から抽象された個人としての人間において考察するのではなしに、それらを文化的、社会的な次元において考察しているのである。「生活の充実」も「生活の秩序」も何れも個としての人間からだけでは達成され得ない。

 この文化と文明の対置に対応して、それらのドイツ語訳としての<Bildung>(陶冶)と<Gesittung>(教化)が考えられる。まず文化と陶冶に関して言えば、<kultivieren>は耕作可能な土地から創造力をおびき出すことであるが、<bilden>はその創造力をより内面的な形成へと導くことである。それ故に、文化人(Kulturmensch)が一定の文化圏に生まれ、そこで育った者を指すのに対して、陶冶された人(Gebildete)はそれだけではなく、それが彼個人にとって人格的な特性の源泉となるような文化の財を所有している人である。また、文明と教化について言えば、文明はそのことばから見ても市民社会(Buergerverband)から出たことばであるが、教化は慣習(Sitte)が作り出す拘束から出ている。教化は文明と同様に、客観的な慣習の全体を表すが、それだけでなく慣習に一致する心情或いは情調をも同時に表し、それとともに内面的作用を示している。教化は、それ故に、心情にまで突き入った文明、野生の克服であり、その限りで同時に倫理化(Versittlichung)の始めである。

 「生活の充実」を可能ならしめる文化や陶冶は財にかかわるものであり、陶冶の担い手は社会集団としての教養階層(gebildete Staende),教養圏(gebildete Kreis)であり、文化の担い手は全体としての国民、すべてての階層や圏を含む社会体(Sozialkoerper)であるが、それらは何れも集団の意識であって、単なる個人の意識ではない。

 また、人間存在の本質徴表である「生活の秩序」はまさに社会的存在としての人間にかかわるものである。「一人の人間は人間ではない」(Unus homo nullus homo.)。この命題は人間が個体としてまず存在し、しかる後に個人の集合として社会が存在するという原子論的な見解に対立するものである。

 以上の吟味から、ヴィルマンの人間学的背景として二つの世界が取り出されるのではないかと思う。私はいまそれを仮に「関わりの世界」と「交わりの世界」と呼ぶことにする。「関わりの世界」とは人間が客体としての財に関係する世界であり、そこにおいては財は単に人間がそれによって向上し、発展するための手段としてだけではなくて、同時に人間がそれに向かって高まる目的としても考察される。財はそのものとして一つの世界を構成し、人間との関わりにおいて運動する。「交わりの世界」とは主体としての人間が他の主体としての人間に関係する世界であり、具体的にはさまざまの種類の社会である。しかし、この二つの世界は平行的に、或いは別々に存在するのではなく、相互に入り組んでいる。アリストテレスが「すべての社会は善きもの(即ち財)のゆえに成立する」と言っているように、ヴィルマンも財を我々の生活を社会的に形成する力として規定している。従って「財の世界」(Gueterwelt)といっても、それが何らかの人間社会から孤立したものとして考察されるのではない。私はここではむしろ人間の関係のあり方として基本的に異なった二つのあり方を、一つは人間と財との関係としての「関わりの世界」、他の一つは人間と人間との関係としての「交わりの世界」のうちに見ることができるのではないかと考える。そしてヴィルマンはこれらの世界を「生活の充実」と「生活の秩序」の課題が達成せられる場として、またそこにおいて「生命の維持」と「生命の聖化」の課題が否定的にはたらきながら遂行される場として考察していると見ることができるであろう6)。しかし、彼はこの世界が純粋に人間的なホリゾントに終始するものではなく、超越的なものとの何らかの関わりを持つことを強調するのである。

二 「社会体」と「財の世界」

 ヴィルマンは『教授学』の序論において、社会と有機体との間のアナロギーを或る意味において認めている。「社会と有機体とを比較しようという刺激をかつてすぐれて与えていたものは、人々がその両者において、機能的に分化された部分から形成せられ、一致団結した自己保存に結合せられ、そして一体的な協働を可能ならしめる一つの全体を見ていたという事態である」7)。

 社会と有機体との間のアナロギーが成立するのは次のような点においてである。第一に「有機体が単一の系(System)なのではなくて、骨格系、筋肉系、血管系、神経系などの多くの系の交入に基づいているのと同様に、人間が一定の時代、一定の場所において編入される社会(Kollektivwesen)もまた、一つの団体(Verband)ではなくて、経済的、精神的、社会的及びその他諸々の関心によって、また共同生活、交際、風習によって建てられた国民的団体、政治的共同体、階層及び職業様式の組織、宗教社会及び無数の集団を全体としてそのうちに含むところの諸団体の交入であり、いわば一つの複雑な社会的織物(ein soziales Gewebe)である」8)という点である。これらすべての諸団体を包括的に指示し得る名称は「社会体」(Sozialkoerper)或いは「社会的有機体」(sozialer Organismus)である。これに対して、民族(Volk)、共同体(Gemeinwesen)、国家(Staat)、社会(Gesellschaft)などの概念は全体的複合体ではなくて、ある特定の結合のあり方を示すにすぎない。

 次に、社会体と有機体とが比較され得る第二の点は、両者においてそれらの構成要素の不断の生滅が起こっているということである。有機体は絶えざる合成と分解によって更新され、摂取されるものによって置き換えられた物質が排出される。人間の社会においてその類比として見られるものは個人の誕生と死であり、社会体における流入と流出である。

 さらに第三の点は、有機体が物質の交代にも拘わらず持続し、新しく入ってくる要素を同化し、それがさまざまの系に働きかけるのと同じように、社会体も個人の生滅にも拘わらずその同一性を確保し、個人を自己のうちに編入、同化し、それによって諸々の活動の連続性を確保する、という点である。

 最後に第四の点として言えることは、有機体の肢体がその働きに相違がありながら、全体としての有機体にほうしするのと同じように、社会体の肢体としての成員もその働きはそれぞれ異なり、しかも全体としての社会体に何らかの貢献をなす、ということである。

 以上吟味して来た点に関しては、有機体と社会体とのアナロギーは成立する。しかし、それは次の点において限界を持っている。

 まず第一に、自然的現象と社会的現象との根本的な相違が挙げられる。即ち、有機体の新陳代謝による更新が自然的過程(Naturprozess)であるのに対して、人間世界において行われる生命更新(Lebenserneuerung)は、確かに物理的過程をもそのうちに含んではいるが、しかしそれと同時に更に心的過程及び心的行為へと進み、物理的メカニズム、心的メカニズムを超越する意識的で自由な行為へと高まり、従ってまた、人間に特有のものである歴史的性格を持っている。

 第二に、有機体とのアナロギーは社会体における個人と社会的集団存在との相互作用を解明するのには何ら役立つものではない、ということが言われなければならない。何故なら、自然的世界の概念を精神的世界の概念に何の限定もなしに移行させる(翻訳する)ことは、ここでは種の相違(generische Verschiedenheit)を無視することであるからである。社会と生物体とのアナロギーは決して両者の現実的一致に基づくのではない。

 以上のことからうかがえるように、ヴィルマンは人間社会を有機的、連続的な統一として把握するのである。彼の言う社会体の層的構成については後に述べることにして、まず一般的に、社会体の機能に着いて考察することにしよう。

 社会体という観点は我々の考察をそれの生命更新へと向ける。ここから出てくる第一の点は生殖と遺伝である。社会的更新の過程の最初の行為は子孫の出産である。これは種属保存の衝動に基づくものであって、自己保存の衝動とともに、すべての動物の諸活動の最も強力な動因である。生むものの特性、素質が生まれるものへと移される遺伝は自然の一般的準備であるが、この遺伝によって動物は世代を同形のものたらしめ、生命の型を保持する。しかし、人間の社会においては出産は単に自然的秩序への編入であるばかりでなく、同時に倫理的、歴史的秩序への編入でもある。また、人間は衝動をより高次の動機との交錯によって醇化し、行為を倫理的諸制度によって規制し、性的結合を社会的諸団体のいわば原形質たる家族共同体へと高める。動物にあっては身体的な遺伝しか考えることができないが、人間は更にそのような第一次的自然ばかりでなく、遺産としての第二次的な自然をも伝えることができる。

 第二のものは物理的生活条件の賦与である。生まれてきたものを保護し、栄養を与え、世話することは、性的結合と並んで動物に共通する種属保存の衝動から出てくる活動である。出産と養育というこの二つの種属保存の行為は動物においてはそれほど緊密に結びついてはいないが、人間においては両者は分離することができない。このことを端的にしめしてうるのは、ドイツ語において<zeugen>(生む)ということばが<ziehen>(養成する)、<aufziehen>(養育する)、<auferziehen>(育成する)などのことばと語源を同じくし、<Zucht>(訓育)、<zuechten>(躾ける)と一致する、という事実である。ところで、親と子との関係は動物においては強力であるが、その期間は短い。それに対して、人間においては二つの世代の間に長い、内容豊かな生活共同体が入ってくる。子どもの長期の援助必要性は人類特有のものであり、一方において、子どもの発達の緩やかさは人間にますます大きな幅と深さを与え、他方において、弱い者を配慮しなければならないという必然性は親に倫理的な課題を与える。

 第三に、子どもの無意図的、自発的同化が挙げられる。生活共同体には子孫の精神的、倫理的同化作用が含まれているが、子どもの援助必要性が未だ初期の段階にある場合には、意図性と目的意識はそれほど前面に出てこない。それは心的活動(seelische Taetigkeit)というよりはむしろ心的過程(seelischer Vorgang)である。言語や習慣などは意図的同化作用の行われる以前にすでに無意図的に習得同化される。

 第四は、子孫の意図的、意識的同化である。「物質的財の伝達と交錯している精神的、倫理的財の伝達は意図性と計画性との性格をそれ自体のうちに担っている心的媒介に奉仕する。即ち、心的過程と名付けられるあの無意図的同化と並んで、またその後に、心的活動、意識的で自由な意欲の表現としての価値を持つところの社会の子孫への多様な影響作用が展開する」9)。この意識的な諸々の媒介の全体を表すために、古来総括的な対置的なことばが用いられてきた10)。いま、その主要範疇を表すものとして最も広い意味での「教え」(Lehre)と「訓練」(Zucht)を挙げることができる。「教えによって、知識と能力、信仰内容と世界観を含む精神的内容の伝達が媒介される。そして子孫の精神的同化は目的意識的な行為へと高められる。訓練によって、子孫の道徳的生活への導入と社会的諸団体への編入が行われる。そしてその関心圏は社会の慣習によって規定される」11)。

 社会的有機体がそのうちに含んでいるすべての団体や生活圏は「教えること」、また「訓練すること」を通してその成員に同化的影響を与えるのであるが、その同化的影響を受ける者は単に生徒(Schueler)や子弟(Zoegling)だけに限らないのであって、徒弟(Lehrling)、新兵(Rekrut)、修練者(Novize)、新米(Neophyt)、初心者(Neuling)などと言われる者も、彼らが入って行かねばならないその領域において、特別の社会体の精神的、倫理的な同化的影響をうけるのである。「教え」は一般に或る意識から他の意識への精神的内容の伝達(Uebertragung)に奉仕するが、それは伝達(Fortpflanzung)ばかりでなく、拡大(Ausbreitung)でもある。「教え」は上述のように子孫の知的、精神的同化をもくてきとするにとどまらず、それを越えて、或いはそれと関わりなく、もっと包括的な形式を取る。例えば、宣教、説教、宗教的宣伝なども「教え」の形式であり、また、学問、芸術にとっても「教え」はその生命要素である。他方、「教え」に対して、最も広い意味での「訓練」が存在するのであるが、これもまた単に子孫に向けられるものだけではない。例えば、教会の訓練(Kirchenzucht)、軍隊における訓練(Manneszucht im Heere)、国家の懲戒警察(Zuchtpolizei)などがこれに当たる。これらの同化的影響は先に挙げた子孫をたいしょうとするものからその対象の点で区別されるものである。

 以上、社会体の生命更新としてその諸々の機能について検討したが、次にその層的構成について検討してみよう12)。人間は自己保存及び種属保存の衝動によって社会化(Gesellung)へ向けられるが、この点においては同じ衝動によって集合生活をする動物と比較され得る。しかし、社会の形成において特に人間的といえることは、一方において、権威(Autoritaet)の下への意志の従属であり、他方において、伝統(Tradition)による精神的作業の集約である。この権威と伝統は社会の基礎であり、すべての社会を結合するものである。

 社会体の究極的要素は個人ではなく、最小社会としての家庭(Familie)である。換言すれば、家庭は社会的諸団体の根源的なものであり、同時にその他の社会的諸団体の原型である。社会体の更新はこの家庭において行われるのであり、その更新の段階は出産、養育、教育である。家庭或いは家は社会構成を表す三つの系列、即ち、「家族-部族-民族」(Familie-Stamm-Nation)、「家-郷土-祖国」(Haus-Heimat-Vaterland)、「家庭-団体-教会」(Familie-Gemeinde-Kirche)のそれぞれの初項を形成する原型なのである。家庭においては権威原理(Autoritaetprinzip)は多様な仕方で働いている。しかし、伝統の基礎を形成し選るにはその成員が少なすぎる。この意味において、家庭あるいは家は部族や郷土や団体の「共同生活」(Gemeinleben)に比較すればまだ「分離生活」(Sonderleben)というべきものである。

 この「共同生活」は物質的及び精神的財の産出と運動の場として、二重の層を形成している。一つは狭義の社会であり、他は民族生活(Volksleben)である。

 まず、第二の層としての狭義の社会はその成員に特別の業績能力と職業活動を要求する。職業活動の方向は非常に多様であり文化の状態に応じて異なっているが、ここでは主として物質的財に関係する生産階級(Naehrstand)と精神的財に関係する教職階級(Lehrstand)の区別による共同生活が考えられている。

 第三の層は民族生活である。伝統の対象であり、同時にその最もすぐれた手段でもある言語の担い手は家族でも種族でもなく民族である。また、慣習や生活形式は民族的なものとしてはじめてその本来的な刻印を保ち、信仰、知識、技能の伝達もまた民族生活としての共同生活を前提とする。

 これらの「共同生活」は人間的諸活動を始めるが、その所産及びそれ自身を持続させてゆく力という点で不十分である。ここに保護と実行力においてすぐれた集団意志の形成が必要とされる。この要請に応えるのが第四の層としての国家である。「共同生活」は「共同組織」(Gemeinwesen)、即ち、国家を要請するのである。国家においては家庭においてと同様に権威が作用するが、家庭と違ってその権威は権力を具備している。国家は歴史的所産であるが、逆にまた民族を歴史的ならしめる。国家を持たない民族もその祖国を持つが、祖国愛を育み高めるものは、国家を持つ民族をその歴史のうちに置く諸々の行為及び運命である。国家は「共同生活」を固定する傾向を持つ。国家は慣習と自然法がつくり出す「生活秩序」を「法秩序」へ高める。従って、国家による「共同生活」の規制は「正義」をその規範としなければならない。

 社会体の層的構成の第五は教会である。上述の四つの層が自然的、人間的秩序に属するのに対して、教会は同時に超自然的、神的秩序にも属している。物質的財が社会の存続のための基礎であるとすれば、精神的財はその社会の特質と発展の根柢である。精神的財の中核は霊的財であり、その永続的な担い手が教会なのである。教会は他の社会体とは異なり、純粋に内面的な目的か出発し、外来の要素を自己の目的に従って形成する。国家が下から上へと築き上げられるのに対して、教会の設立は上から下へと行われ、また、国家における権威が下から生起するのに対して、教会における権威は上から下降してくる。教会は、しかし、他の社会体と同じように有機的性格を示す。

 以上、簡単に見たように、社会体は、(1)家族、(2)狭義の社会、(3)民族生活、(4)国家、(5)教会という層的構成をなしている。ここでもう一度「生活の充実」と「生活の秩序」がこれらの社会体の各々にどのように関わっているかを振り返っておこう。「生活の秩序」は主として家族と国家に関係するが、「生活の充実」は主として狭義の社会と民族生活に関係する。そして教会は「生活の充実」及び「生活の秩序」の最も根柢となる超越的なものと関係する。

 以上見たように、重層的構成を示す社会体は財の世界と密接なつながりを持っている。ここで、彼の財概念について簡単に触れておこう13)。さまざまの財は全体として有機的統一をもった「財の世界」(Gueterwelt)を形成し、また「財運動」(Gueterbewegung)を行う。ヴィルマンによれば、財はまず、物質的財と精神的財に大別される。物質的財は人間の欲望を満足させることのできるもの、交換価値を持つものであり、衣食住その他に関係のある商品、生産物、土地、動物等々である。精神的財は知的財と霊的財、国民的財と超国民的財或いは超国家的財、個人的財と超個人的財というようにさまざまの角度から区別されている。個人的財は知識、才能、経験、能力などが含まれる。国民的財は言語、伝統、回想、風俗習慣などが含まれる。そして霊的財は信仰、宗教である。

 ところで、これらの財は意識のはたらき、心意の努力的機能によってはじめて財となる。このことは物質的財及び精神的財のいずれにも妥当する。物質的財においては感性的な対象がこの意識のはたらきの直接の対象であるが、それに対して精神的財においては意識の協働がさらに先へ進む。精神的財においても対象的なものは考慮されるが、それは精神的なものの運載者として理解されてはじめて対象的なものであり得るのであって、しかる後に財の契機として考えられるのである。例えば、書物、芸術作品、道具等は意識がそれらのものを或るそれらに応ずる活動と関係づけるときにはじめて精神的財となる。これらの領域においてはすべての事物的なものは単に沈殿、記号、象徴にすぎないのであって、その背後にある実在的なものを認めない限り意味がない。精神的財は精神的存在の活動と結合されたものとしてのみ我々にとって精神的財であり得る。このように理解するときのみ、精神的なものの誤った実体化や、逆に、精神的なものを単なる意識の状態に発散させてしまうことの危険を避けることができるのである。

 ヴィルマンは「精神的財運動」(geistige Gueterbewegung)を四つの型に区別している。第一は自然発生的財運動(spontane Gueterbewegung)である。これは、精神的財はすべて根源的には教える傾向を持っていないにも拘わらず、そのれらによって人間が教えられることを意味する。第二は下降的財運動(deszendente Gueterbewegung)である。これは意図的、意識的に前代が後代に対して精神的財を伝達する場合である。第三は水平的財運動(kollaterale G.)であり、例えば説教におけるように、成人が成人に対して行う場合の精神的財の伝達である。以上の三つの場合が或る一定の社会的統一の枠内での財運動であるのに対して、その範囲を越え出て他の社会的統一をもつ領域への影響という形での財運動が存在する。これを第四の型の財運動として区別することができる。例えば、宣教とか文化の伝達などはこれに当たる。

三 教育と陶冶

 前節において、社会体の生命更新の諸機能のうちの重要なものとして「教え」と「訓練」が考えられるということを見たが、ヴィルマンはその各々のうち、特に前代の後代に対する意図的、計画的な同化作用としての「陶冶」と「教育」を限定していると思われる。我々は当面の問題として、彼がそれらをどのような意味でくべつしているかという点について、彼の所説を辿りながら検討することにしよう14)。

 彼はまず、ことばの吟味から始める。「教育」(Erziehen)はその名称を<Ziehen>(養成)、<Aufziehen>(養育)、<Grossmachen>(大きくすること)、<Starkmachen>(強くすること)、<Wachsenmachen>(成長させること)から得ている。従って、根源的には子どもの身体的な発達に向けられた活動の促進或いは向上として理解されている。しかし、教育は単に生活の助成(Lebensfoerdern)だけでなく、生命の賦与(Lebensgeben)をも含んでいる。教育は養育と同じように、保護、支持、規制を必要とする児童に対する配慮(Fuersorge)の性格をもっている。また、教育は外的、身体的形式の制作(Herstellen)ではなくて、内的、倫理的形式の制作である限りで、出産(Zeugen)に似ている。教育は子どもの努力(Strebungen)がそのものとして配慮の対象となってはじめて養育から分かれる。子どもの努力を規制し、有害なものを阻止し、促進すべきものを支持し、動揺しているものを確保し、そこから習慣が生じてくることがらを強めること、こえらのことがらは教育の最も理解しやすい課題である。

 教育は「権威と従順」(Autoritaet und Gehorsam)に基づくが、この点において他のすべての訓練(Zuchtuebung)、即ち、教会における訓練、軍隊における訓練、一般に社会がその法秩序を守るために使用する訓練と同じ性格を持つ。ただ、教育はこれらの訓練よりもその内容が豊かであり、その行為は将来に向けられた配慮的な行為である。教育は躾け(Sittigung)から道徳化(Versittlichung)へと進みながら、すでにある努力や活動を規制するだけでなく、新しい、より高い努力や活動を呼び醒ます。このためには教育は精神的媒介を必要とし、教示(Unterweisung und Belehrung)、精神的刺激(geistige Anregung)を用いることによって、「教え」(Lehre)の領域に入り込んでくる。教授(Unterricht)、即ち、計画的に関連づけられ、教材の配慮のなされた教示(Belehrung)は、児童の自然の多様な努力の中心に、包括的で秩序立った活動や力の緊張を導き、児童の視野を広め豊かにしながら、新しい刺激や活動が生じてくる興味を呼び醒ますことによって、教育の最も力強い契機の一つとなる。教育的教授(erziehlicher Unterricht)の本来的なものは、将来に眼を向けてその目標と基準とを知識や技能の瞬間的、部分的な増加にではなくて、精神的発達に求めるという点に存する。

 次に、教育は意識的、倫理的な行為として、無意識的或いは半分意識的な単なる同化作用から区別せられる。もちろん、教育はそのような、人間と人間との関係から生ずる無意識的或いは半分意識的な影響を考慮しないわけにはゆかないが、しかし教育はそれらの影響をいわば教育の活動のための背景(Hintergrund)として考慮するのである。

 教育は青少年を配慮し、助成しながら、その発展において同伴して行くのであるが、その時、教育は未来にその眼を向ける。しかし、それは同時に過去、即ち、一方において、彼らを新しくつなぐ世代の鎖、他方において、いわば信託遺贈として保管され、受け継がれて行く慣習(Gesittung)の財、にも眼を向ける。それ故に、教育は二重の意味においての義務履行(Pflichtuebung)、即ち、子孫に対する愛の義務と、生活共同体及び慣習の担い手に対する社会的義務の履行である。

 教育の社会的性格(Ethos)はその個人的性格と分かち難く結合している。両親の権威のうちには公権力の権威が、教育的訓練のうちには共同体の訓練が、家庭の慣習のうちには一般的慣習生活が反映しており、そして教授(Unterricht)の基礎であり、訓育(Zucht)の指導的準則となる精神的内容は社会の生活内容に基づいている。それ故に、教育はその中での沽聖の活動範囲が非常に広く、また、それの人格的要素への関係の故にそうでなければならないとしても、にも拘わらず、一つの同一関係的行為(ein homologes Tun)としての形をとる。そしてその行為は教育が公事として取り扱われ、多かれ少なかれ国家がその担い手として現れることによって、集団的活動に高まることができる。しかしながら、そのような集団的な形が現れない場合、教育制度が社会体のまとまった、そして区切られた器官の形を取らないとしても、教育的配慮が表されている慣習、組織、手段、企図の全体として教育制度を語ることはできる。

 教育は社会的生命更新の全体において中間的位置を占める。即ち、出産と養育は教育の前に位置し、他方、青少年の特別の生活圏への編入とそれに結合された技能及び知識の教えこみと訓練は教育の終結を前提する。教育はある一般性において、また、基礎的領域の内部において働くものであって、それ故に、職業のため、また職業においての形成とは対立する。何故なら、教育がまず第一に、個人を配慮的な愛の対象と見倣し、倫理的な生活形成の一般的、基礎的前提を満たし、第二に職業圏の関心と要求を満たすのに対して、職業のための能力を目的とする形成はこの順序を逆にするからである。

 以上、比較的忠実にヴィルマンの所説を辿って来たが、彼は教育制度を次のように定義している。「教育制度は、それによって前代が青少年の本性と努力を、配慮し、代理しながら規制し、彼らがその固有の精神的、倫理的生活内容の基礎を子孫に与えることによって倫理的形成へと導くところの前代の同一関係的活動として表される」15)。

 では次に陶冶(Bildung)についても同様に彼の所説を辿ってみよう。

 まず陶冶ということばは、活動、即ち、陶冶すること(Bilden)と同時に、状態、即ち、陶冶されていること(Gebildetheit)を表している。その具体的な根本的意味、即ち、物質的素材の形成(Formung)或いは形式(Form)はずっと後になって棄てられたのであり、精神的領域への移行がなされたのは、それが教養(Erudition)、形成(Formation)、精神文化(Geisteskultur)、啓蒙(Aufklaerung)などの古い表現を受け継いだ後のことである。

 さて、陶冶は内的、精神的形成(Gestalten)を表すが、この意味において、単なる習い憶え(Anlernen)や教え込み(Anlehren)と対立する。もちろん、陶冶は内容の提供という点では教え(Lehre)と一致するが、その素材を自由に意の儘に用い、精神的に豊かなものとするという点で単なる知識や技能の獲得を凌駕する。つまり、教えによって得られたものは所有(Besitz)であるが、陶冶によって得られたものは同時に人格の確実性(Bestimmtheit der Persoenlichkeit)、習性(Habitus)である。

 陶冶は個性の要因として天性、気質、才能、素質などと並ぶものであるが、これらの自然的規定に対して、自由の所産であるという点で異なっている。即ち、陶冶は労働の結果、しかも主体自身の労働の結果であると同時に他の人々の協働の結果である。陶冶作業は個人的であると同時に社会的である。陶冶されているということは陶冶された者のうちの一人であるという意味である。

 ところで、教育について先に述べたように、陶冶はその基礎的なものに対する関係という点で教育と密接な親縁関係をもってくる。即ち、陶冶の素材をなしている一般的要素は、教育が人間に与えようとする精神的、倫理的生活内容の基礎に侵入してくるのである。先に見たように、青少年の倫理的形成及び教化(Gesittung)の財の伝達という教育の二重の課題もまた、陶冶への拡張を認める。陶冶は装備や装飾より以上のものであろうと欲するのであり、陶冶が人格に与える内的形成は同時に人格の倫理的根柢でなければならないのである。

 陶冶制度(Bildungswesen)は精神的財の保護と伝達に奉仕する制度であるが、この陶冶制度ということばは、学校制度(Schulwesen)、教授制度(Lehrwesen)、公教育(oeffentlicher Unterricht)などのことばが表すもの以上に包括的である。学校制度は本来的な陶冶施設の複合体として、たしかに陶冶制度の堅固な、いわば結晶化された中核である。しかし、陶冶制度は、それが個人教授、私的研究、自己教授によって行われるような陶冶獲得をも同時にそのうちに含み、同様に精神的交際、文学、新聞、芸術のように、教授や研究ほどには結合されていない形式において精神的成長を媒介する陶冶の準備や源泉をも含むものである。(ヴィルマンはこれらの陶冶作業[Bildungsarbeit]に対して自由な陶冶獲得[freie Bildungserwerb]と呼んでいる。)また、陶冶制度と教授制度も合致しない。教授制度は陶冶制度のもつ自由な、創造的な、学習を含んでいないし、陶冶制度はまた、職業的業績能力への傾向に専念するような教示や指導を閉め出す。陶冶制度は陶冶にまで導くように規定され、陶冶における形式の多様性のうちに目標と規準を見出すところの教授=学習制度である。以上の意味において、ヴィルマンは陶冶制度を次のように定義する。「陶冶制度は精神生活の自由に意の儘にすることのできる、そして実りある要素として、確実な基礎的、一般妥当的な技能、知識、洞察を獲得し、そしてそれとともに精神的、倫理的能力の一定の段階を達成することへ向かって個人を助けるところの制度、準備、手段の複合体である」16)。

 ヴィルマンは以上見てきたように、教育と陶冶とを社会的生命更新という全体的な観点からそれらを位置づけながら、一方を他方のうちに解消させずにその固有のあり方を取り出している。ここで、以上の論点をもう一度整理し、その相違点をはっきりさせるために彼のことばを引こう。

 「教育は第一に努力と意志に向けられるが、陶冶は精神的活動に向けられる。教育は倫理的同化であり、陶冶は精神的同化である。教育は権威と従順に基づく。陶冶は、たしかに同じように、より高い洞察の下への主体の従属を要求するが、しかし同時に主体の自由な協働をも要求する。教育の仕事は理性の成熟とともに終わるが、陶冶作業はそれを遙かに越えて全生涯を満たすことができる。教育制度は家庭生活及び公共生活の慣習と形式、社会的組織と社会の風習(Sitte)によって規定されると思われる。陶冶制度は第一に言語や言語学、信仰や知識、芸術創造や研究などに表れているような精神的活動に依存している。教育制度は教育的活動の同一関係的形成(homologe Gestaltung)にとどまっているが、陶冶制度は集団的な総括と組織化へと進み、社会の器官にまで形成される。そして知的財の運動を規制する」17)。

 以上の吟味によって、社会体の機能としての「教え」と「訓練」、さらにそれらが、前代の後代に対する配慮の全体としての「教育制度」と前代の後代に対する関係をもそのうちに含みながらさらにその関係を越え出る「陶冶制度」とに限定せられたことが明らかとなった。陶冶制度は、既に述べたように、陶冶作業と自由な陶冶獲得とをそのうちに含む制度であり、確固とした一定の組織、制度を持っているが、教育制度はそのようなものを持たない。しかし、この教育制度と陶冶制度が交錯し、相覆う領域が存在する。即ち、基礎的なものにおいては、教育と陶冶はその性格を異にしながらも一致する。次にこの点を検討してみよう。

 教育と陶冶とは基礎的なものにおいて一致すると言われたが、この点を検討するために、ヴィルマンがロロフ(Roloff)編『教育学辞典』(Lexikon der Paedagogik)18)の中で「教育」の項に執筆している論文を参考にしよう。

 彼はどこで教育を「成熟した人間が成長してゆく人間を生活共同体を基礎づけている財に参与せしめるために、彼らに及ぼす配慮的、指導的、陶冶的影響である」19)と規定している。

 我々は既に、生活共同体及び財については検討したので、ここでは前代が後代に及ぼす同化的影響としての配慮(Fuersorge)、指導(Fuehrung)、陶冶(Bildung)について考えることにする。

 これら三つのものは、古代ギリシア人が教育の全体を表すのに<trophee kai agoogee kai paideia>を用いていたことに由来すると見てよい。また、かれは心理学的な機能としての<生命、努力、認識>(Leben, Streben, Erkennen)にも相応する。アリストテレスにおいては、それらは<phusis-ethos-logos>(自然、習慣、理性)、<euphuees-gegumnasmenos-methodos>(よき素質、練習、方法)、<technee-suneetheia-phusis>(技術、習熟、自然)、<sungeneis-ethei-matheesei>(生まれつき、習慣、学習)、<erga-eugeneia-paideia>(仕事、よき生まれ、陶冶)などと言われ、プラトンにおいては<didakton-askeeton-phusei>が区別されている20)。

 ところで、教育活動の全体としての配慮、指導、陶冶はまた、養護(Pflege)、訓練(Zucht)、教授(Lehre)としても表されている。これらそれぞれ三つのものはまず教育の様式として、次に教育の領域ないし方法として現れると考えられる。

 教育の様式としては、配慮或いは養護は児童、青少年に向けられるものとして、老人、病者、貧者などに対する配慮から区別される。青少年に対する配慮は愛の活動(caritative Taetigkeit)の中心であり、児童、青少年のうちにある可能性、自然的素質を発展させ、育成し、促進させ、目覚めさせる。次に、指導或いは訓練も同様に社会や国家において支配している諸々の他の訓練から区別される。教育的訓練は児童の自然的及び精神的成長を規制し、導き、矯正することによって、正しい規範、道徳的完成へと導いていく教育のあり方である。第三に、陶冶或いは教授もまた、最広義での教えから区別される。この後者の意味での教えは知識、技能、信仰の伝達として、科学、芸術、宗教の生命要素であり、前者の意味での教え或いは陶冶は陶冶制度のうちに分化している生命要素である。教育的陶冶作業は精神生活の高さと方向、それがかかわる財に従って来ていされる。例えば、実用主義的教育様式は物質的財に、現実主義の教育様式は有用な知識に、人文主義的教育様式は精神の訓練に、宗教的教育様式は霊的財に、それぞれ強調点を置く。何れにしても、教育的教えないし陶冶は精神的内容の媒介、伝達によって青少年を内的に形成する教育のあり方である。

 以上述べた三つのあり方、様式は人間が自然的、道徳的、精神的(知的)存在であることから出てくる人間形成のあり方であるが、これらのものが端的に分離されて働くということはあり得ない。

 次に、全体的な教育の方法或いはしゅだんとしての配慮或いは養護、指導或いは訓練、教え或いは陶冶について見ることにしよう。

 これらの各々は再び多くの手段或いは方策を含んでいる。第一に、物理的生活条件の賦与としての養護は防護(Schuetz)、保護(Wartung)、庇護(Behuetung)、扶養(Ernaehrung)、被服(Bekleidung)を含み、また住居、睡眠、運動、遊戯などに対する配慮を含む。しかし、これらの養護或いは配慮は指導あるいは訓練及び教え或いは陶冶と重なり合う限りで教育学の対象とされる。

 第二に、指導或いは訓練はまず青少年の傾向(Strebungen)を規制しなければならない。それは刺激と圧力(Reiz u.Druck)、命令と禁止(Gebot u. Verbot)、約束と威嚇(Versprechung u. Drohung)、賞と罰(Lohn u. Strafe)によって行われる。これらはそれ自身孤立化させられてはならないのであって、常に習慣化を目標として協働しなければならない。それはその限りで、努力や意欲の活動の定着剤(Fixativ)としての意味をもつ。風習(Sitten)は習慣(Gewoehnungen)から生ずるが、この二つのものは教えが表象圏及び思想圏を基礎づけるのに対して、関心圏を規定する。習慣と自己の洞察との結合によって、慣習の教育(Sittenbildung)は倫理的陶冶(Sittliche Bildung)へと拡大され、目標としての性格、即ち、意志による意志の刻印、意志の永続的規定性が明らかにされる。

 第三に、それによって教え或いは陶冶が達成される教授(Unterricht)の方策或いは手段は心理学的、論理学的、倫理的なものに区分される。それらは何れも精神的内容の習得(Aneignung)を目標とする。習得は一般に把握(Auffassen)、理解(Verstehen)、応用(Anwenden)の段階において達成される。それは教授形式の提示(Darstellen)、説明(Erklaeren)、展開(Entwickeln)及び練習(Einueben)に一致し、心的機能の知覚(Wahrnehmung)、理解(Verstand)、努力(Streben)に相応する。訓練が関心圏にかかわるように、教授は表象圏にかかわり、それを思想圏へと高める。

 我々はここで少し厄介な問題に当面する。この節の前半で、教育と陶冶が区別せられ、その独自の課題と目標とが明らかにされたが、ここでは教育の全体において配慮、指導、陶冶が区別せられた。もちろん、前者における教育と陶冶の区別でも、それが基礎的なものとのかかわりにおいて一致するということが明らかにはされているが、ヴィルマンはこの「教育」と「陶冶」とをそれぞれ広狭両義に使用しているためにある種の混乱が見られるように思われる。

 我々は今まで三段階にわたって、社会体の生命更新を限定的に辿ってきたわけであるが、この流れを図式的に示すと次にようになる。

(1)

(2)

(3)

出産・養育

訓  練

教  え

教育制度

陶冶制度

教育=陶冶

配慮・養護

指導・訓練

陶冶・教え

 上の図によって、教育活動の全体としての配慮・養護、指導・訓練、陶冶・教えが社会体の機能の全体としての出産・養育、訓練、教えから、意図、組織、対象などの観点からふるい分けられていることがわかる。(3)の場面における教育は同時に配慮、指導、陶冶であるが、しかしまた、配慮、指導が努力、意志の領域に属し、陶冶が認識の領域に属するという性格を失っていない。

 我々はここでこの問題に関連して、教育活動の共通相と差別相に注目しなければならない。教育が同時に配慮、指導、陶冶であるということはその共通相が問題にされているのであり、それぞれの領域を形成するということはその差別相に基づいている。

 ここで、アリストテレスの<phusis-ethos-logos>の区別に基づいて、教育のいわば「様式性」と「領域性」について検討しよう。

 phusis は『形而上学』第5巻第4章において六つの意味が区別されている。今Ross, W. D. によれば、phusis は次のものを意味している21)。(1)成長する事物の生成、(2)成長がそこから始まる部分、(3)自然的諸事物における運動の内在的原理、(4)自然的諸事物がそれらから作られる無形、不変の質料、(5)自然的諸事物の実体(事物はその形相をもたないならばその自然をもたないと言われる。自然的事物は(4)と(5)の結合したものである。従って第一質料及び生成の過程の目的である形相は何れも自然である。)(6)一般に実体。

 さて、人間は生成し、成長するもの、自己自身のうちに運動の原理をもつものとして自然である。さらに人間は教育の出発点においてはその目的である形相にはまだ達していない質料としての自然であり、また生成の目的である形相に達する可能性をもつものとしての自然でもある。自然はまた端的に人間の身体を意味する。人間のさまざまの傾向、衝動、素質もまた自然的なものであり、人間の社会性、習慣性、理性もまた自然的なものである。自然は人間の教育の基礎である。しかし自然だけでは不十分である。

 ethosは第二のphusisであるといわれる。ethosがgegmumnasmenosやsuneetheiaと親縁性があることは先に見たが、これらのことばが行為や訓練を意味することは明らかである。我々が可能性としてもっている諸々の自然を現実性にもたらすのは行為、練習によってである。この行為の反復が習慣を作るのであり、それは一回的なものではなくて、永続的、性格的なものとなる。paan eethos dia ethos(すべての性格は習慣を通して)と言われるゆえんである。

 最後に、logosはmethodos, technee, matheesei, paideia に関係することばである。人間は、ギリシア的人間観に従えば、まず何よりも<zoon logon echon>(理性を有する動物)として、その理性としての存在を実現しなければならない。この「実現しなければならない」ということは、人間が本性的(自然的)に理性を有する者ではあるが、その出発点においえは可能的に知れる者であって、現実的に知れる者ではないということを意味する。教育はまさにこの可能性を現実性へともたらすことである。

 ところで、この可能性と現実性との関係はその先後関係が「本質上」(tooi eidei kai ousiai)と「生成上」(teei genesei)では逆になる。即ち、生成上可能性は現実性よりさきであるが、本質上現実性の方が先である。可能的に知れる者が現実的に知れる者になるためには、既に現実的に知れる者の力を必要とする。この意味において教育は自然的生成(genesis)に対して、技術的生成、即ち、制作(poieesis)といわれる。しかし、他方において、教育されるものの自然が運動の原理を自己自身のうちにもつものとして可能性から現実性へと生成するという意味においては、その生成は自然的生成でもある。自然と技術は、一方において運動原理を自己の内部にもつか、それとも外部にもつかという点で区別されながら、他方において何れも可能性から現実性へと運動するという点で同じ構造をもっている。

 以上、ごく簡単にphusis, ethos, logos の意味連関を見たが、この区別は普通に言われるような「体育、徳育、知育」の区別とは本質的に異なる。何故なら、後者の区別は教育現象の差別相のみに着目し、静学的、乖離的にその部分性、領域性のみを強調するからである。それに対して、前者の区別は教育現象を差別相とともに同時にその共通相を捉え、動学的、統一的に教育の全体を貫く共通性、様式性を明らかにし、しかも同時にその前提に立ってその領域性にも眼を向けることができるのである。我々は以上の吟味を同じような意味でヴィルマンの場合にも適用できると考える。配慮、指導、陶冶はそれぞれ内的連関を保っていて、一つが問題とされるとき同時に他のの二つがそれに連なっている。しかも、配慮と指導は努力、意志、心情の領域に、陶冶は認識の領域に属する。

 教育はいわば無記白紙の人間がまず存在し、しかるのちにそれに順次に、或いは別々に身体的能力や道徳的性格や知識が増し加えられてゆくことではない。道徳の成立と知識のせいりつとは切り離すことができない。しかもなおそこに固有の領域が存在する。我々はこのことを「様式性」と「領域性」との区別によって明らかにし得たと思う。

(1)Willmann, Otto: Didaktik als Bildungslehre, 1957, Herder.(初版は第1巻が1882年、第2巻が1889年)以下、Didaktikと略記。
(2)Willmann, Ott: Aus Hoersaal und Schulstube, 1904.
(3)Didaktik, SS.656-664.
(4)Didaktik, SS.66-67.
(5)Didaktik, SS.66-67.
(6)ヴィルマンにおいては、財の世界--生活の充実--伝統--(陶冶)という一連の系列が、社会体--生活の秩序--権威--(教育)の系列と並んで人間の存在の構造として把握されているのであるが、これを見てもわかるように、その観点は人間の集団的存在に向けられている。そしてまた、これらの系列は前者が人間の時間的構造を、後者が人間の空間的構造を示していると見ることもできる。即ち、それらは緊張関係、対立関係にあるのではなく、相補関係、相即関係にあるのである。いま仮に、これらの系列を横軸に取るとすれば、「生命の維持」と「生命の聖化」とは、縦軸の両極をなし、緊張関係がそこに存在すると見ることができる。これを非常に単純化して図式化すれば、以下のようになる。
                  
                                              
                                           
                                                
                      生命の聖化                          
                                                
                         緊                       
霊的財                      張                       家庭
                         関                       狭義の社会 
精神的財  財の世界----------------係----------------------社会体  民族生活 
                                                                                                                 国家
物質的財                                                                                                    教会

       生活の充実        相補関係              生活の秩序

                伝統------------------------------------------権威

         認識------------------------------------------倫理性

         (陶冶)                               (教育)

                       生命の維持

       (関わりの世界)                (交わりの世界)
  

(7)Didaktik, S.3.
(8)ibid.
(9)Didaktik, S.8.
(10)askein kai didaskein; paideuein kai askein; agein kai paideuein; ethizesthai-akouein; mathein-pathein;          ethos-logos; studia-artes; doctrina-disciplina-institutio.
(11)Didaktik, S.9.
(12)cf. Didaktik, SS.610-615.
(13)cf. Didaktik, SS.604-610.
(14)cf. Didaktik, SS.11-17.
(15)Didaktik, S.14.
(16)Didaktik, S.17.
(17)Didaktik, S.16.
(18)Roloff, Lexikon der Paedagogik, 1913, Bd. 1, S. 1158--
(19)ibid.
(20)cf. Willmann, Otto:Aristoteles als Paedagog und Didaktiker, 1909, SS. 78-79.
(21)Ross, W. D.: Aristotle's Metaphysics, Vol. I, p. 295.


 神奈川県立栄養短期大学 人文・社会科学研究会 研究報告 第1号 昭和43(1968)年3月 pp.45-73から転載

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