オットー・ヴィルマンの陶冶論研究

--『陶冶論としての教授学』 --

三上 茂


 様式的区別における配慮、指導、陶冶としての教育はそのうちに領域的区別としての教育と陶冶を含んでいるとも考えられるが、しかし、これら二つの区別の仕方では教育と陶冶の広狭二つの意味が一義的に確定できないと思われる1)。ヴィルマンの『教授学』においては、社会体の生命更新の重要な機能としての教育作用と陶冶作用とが区別せられているが、そのうち、この著作で主として取り上げられているのは陶冶の局面である。また、様式的区別における配慮、指導、陶冶のうちで、『教授学』においては主として陶冶の面が言及されているにすぎないように思われる。性格形成の面については正面から取り上げられておらず、その十分な検討は他の著作に俟たなければならないであろう。

 以下において、彼の『教授学』の中から、陶冶の動機ないし目的、陶冶の主体の心理的契機、財の先進的対象性という三つの点について述べることにしよう。

一 陶冶の動機ないし目的

 陶冶作業は主として精神的内容の媒介、伝達に向けられる活動であるが、そこにはたらいている動機は単純なものではない。ヴィルマンは「陶冶目的」に関する個所で陶冶作業の動機を精神的内容に対する関係という観点から考察しているように思われる。以下、順を追って見て行こう2)。

(1)自発的陶冶努力 直接的関心

 人間に本性的に内在している知識を求めようとする傾向、学習における喜び、模倣への傾向については古来多くの人々が語っている。今、二三の例を挙げれば、まずアリストテレスは次のようにいっている。「すべての人間は生まれつき知ることを欲する」(『形而上学』I, 1, 980a)。「学ぶことは単に愛智者にとってばかりでなく、また他の者にとっても最も快いことである」(『詩学』4, 1448)。「模倣することは人間に子どものときから備わっていることである」(同上)。

 ニコラウス・クザーヌスによれば、「知ることと考えること、精神の眼をもって真理を見ることは常に喜びをもたらす。人間が年を取れば取るほどそれだけこのことは彼にますます大きな喜びを与える。彼がそのことに専心すればするほどそれだけ真理の所有への要求はますます高められてゆく。」「ちょうど心がただ愛においてのみ真に生きるように、精神は認識と真理への努力においてのみ真に生きる。」

 ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは、「私はできるだけ多くのものを見、知り、吟味したいという欲求に殆どさからうことができない。人間は彼を取り巻いているすべてのものを自己の所有、自己の悟性の所有に変ずるために存在しているように思われる。しかも人生は短い。私は、この世を去らなければならないときに、私が触れなかったものをできるだけ少なく残して行きたいと思う」と言っている。

 このような逆らうことのできない欲求として現れる知識欲、学習欲は天才的な素質を持つ人に多く見られるとはいえ、普通の人間においても、自発的な、自ら生じる陶冶努力としてはたらく。それは本能的な強制力ではないが、根源的、無反省的動機として現れる。この自発的陶冶努力の特徴は、それが何らかの利益への顧慮や義務意識に導かれたり、或る他の関心に奉仕するのではなくて、それ自体が関心であり、或る対象の魅力や精神的成熟の喜び等によって点火され、養われるという点にある。

 このように、自発的陶冶努力は或る精神的内容をそれ自身のために把握しようとするのであり、従って直接的関心である。

(2)間接的関心

 これに対して、精神的内容を他の目的のための手段、すなわち、間接的関心の対象とする動機がある。この間接的関心を陶冶の主要な動機ないし目的とみなす見解に従えば、知識と技能は生活の要因であり、知識は力であり、陶冶は財産であるとされる。学習は業績を可能ならしめ、業績は、それに基づいて社会が個人に生存、地位、評価、影響を与えるいわば抵当となる。知識及び技能の実用的利用への傾向はあらゆる時代の陶冶作業の強力な動因であった。間接的関心の対象は、地位、名誉などの社会的なものや、収入その他の経済的なものが考えられるであろう。

 これらの動機は陶冶作業の全体のうちに正しく位置づけられるべき性格のものであって、過大評価も過小評価もともに許されない。すなわち、この動機は全然否定し去られたり、逆に、それのみが唯一のものとされたりするのではなくて、直接的関心や倫理的、美的動機などがより高次のものとして、それに結合されなければならないものである。この関心は社会的なものに関わっていて、しかも利己的な面を持つという意味で、社会的・利己的関心ともいうことができる。

(3)狭義の陶冶努力

 この陶冶関心においては学習や熟練、知識や技能の獲得が外的な目的のために求められるのではなくて、人間に価値ある特性、完全さを与えるものを内面において達成することへと向けられる。その関心はいわば「精神的なものにおいてはたらく芸術心」(ein am Geistigen sich betaetigender Kunstsinn)である。この見解に従えば、技能、知識、洞察の獲得は、それが人格的特性に転化し、われわれの全存在に融合し、そのことによってそれが人格的存在を洗練し、醇化するときはじめて真の正しい獲得である。

 この陶冶関心は美的、芸術的性格を持ち、美的関心と交錯する面を多分に持っているが、ただ美的関心が持っている自己放棄、無私性(Selbstlosigkeit)を欠いているという点でそれと区別される。それは知識、技能のみにとどまらず、さらに習慣、生活態度、交際にまで拡がってゆくが、これらの領域においても人格の充実、外的なものの内面化への同化へと向かう。

 人格の建設に向けられる努力としてのこの陶冶関心は業績能力への傾向に対立すると考えられる。すなわち、業績能力は特殊の知識、技能によって規定されるのに対して、人格的陶冶傾向は一般的要素を目指し、特定の領域に限定されない。また、前者は事柄、内容に規定され、その目標や規準を業績能力によって達成される一定の作品(Werke)に置くが、それに対して、後者は教えの内容に対してより大きな自由を持っており、その目標や規準は一定の作品であるというよりはむしろ主体に与えられる作用・影響(Wirkungen)に置かれる。さらに、前者は一定の知識・技能の達成をもって終結し、できあがり、完成ということがあるが、後者は、それに対して、そのような終結ということがない。

 この陶冶関心の原理は人文主義の原理であり、形式陶冶説の原理である。それはローマのhumanitas の概念と結びついて、精神的形成に奉仕する学習及び訓練は人間における人間的なものに関係するものと考えられた。また、それは形式陶冶の原理として、多くの素材ではなくて、精神の形成力こそが問題でなければならないと考えられた。

 以上のように、この狭義の陶冶努力は精神的内容を内面的形成の素材(Kunststoff der inneren Formung)と見倣すのである。

(4)倫理的動機

 人格の洗練とか醇化を目指す努力は、しかし、それが人格の倫理的なケルンにまでつき進まないならば真摯な課題となりうるものではない。人格の内面の建設と倫理的形成とは切り離すことができない。狭義の陶冶関心と倫理的努力との交錯は、例えば、次のような表現にも示されている。ギリシァ語のKalokagathia はいうまでもなく美に善がつけ加えられたものである。ラテン語のerudire(ex-rudis)は思考様式及び習慣が粗野を脱して高まることを表している。精神生活の醇化というときには同時に倫理的なものにおいて高められた洗練ということが考えられている。

 また、同様に業績能力への学習の傾向も倫理的関係点を持っている。例えば、bonae artes ということばは益があると同時に内的な支えを与える知識を意味している。

 この倫理的関心は個人の倫理的形成に向けられるものであり、この場合、精神的内容はその倫理的形成の素材としてのはたらきをする。

 ところで、教授と学習はそれ自体一つの倫理的な行為である。すなわち、教師と生徒、師と弟子との関係においては倫理的関係の最も根源的なものである父と子との関係が繰り返される。教師は第二の父親、精神的に生む者である。

(5)社会的-倫理的動機

 上述の教師と生徒とのいわば敬虔的関係(Pietaetsverhaeltnis)は単なる個人的感謝の感情に基づくだけではなくて、さらに、教師は彼が学習者に伝達する精神的財の管理者(Verwalter)であり、この受け渡しは義務と結びついた仕事であるという事実に基づいている。すべての教授・学習は価値に関わるが、それは主体のうちに何かを達成するための単なる手段としてのみ把握されるのでは不十分である。それはむしろ、保持され、伝達されなければならない教えの財(Lehrgut)、超個人的価値として把握されることを要求する。この財のありか、この価値の担い手は、もちろん、人間の意識であるが、しかし、個人の意識というよりはむしろ集団の意識である。個人の意識はその財に満たされるかぎりで全体及び諸々の世代の仕事に組み入れられる。

 この社会的-倫理的関心は精神的内容を財として、共同の義務履行の対象と見倣す。

(6)超越的傾向

 古の人々は教授・学習によって伝達されてきた財や精神的作業が向かうべき徳を神からのものと考え、神々を最初の教師、知識や芸術や教授の仕事の保護者だと見倣している。神聖な伝統が教えの内容となっていた東洋においては研究と教授は祭祀とともに成長した。また、ギリシァ人はアテーナ、ヘルメス、アポロ、ムーサイなどの神、女神を陶冶作業の内容や理想の神的擁護者として崇拝したし、パイデイアそれ自体を神にまで高めている。ピタゴラス、ソクラテス、プラトンは人間精神の形成に専念することを神的なことがらであると見倣した。宗教的教えの内容を学習の中心としたキリスト教はすべての現世的努力や精神的努力を彼岸的関係点に高め、精神の素質を神の賜物だと教えている。すなわち、それは神からわれわれに委託されたタラント(マタイ、25,14以下)なのである。中世キリスト教の教育学は、陶冶の動機が知識欲や実利にではなくて、キリスト教的完成への熱望に置かれなければならないとし、正しい陶冶作業は神への奉仕だと考えた。

 これらの見解に共通に見られることは陶冶作業において伝達媒介される精神的内容が、何にもまして神の栄光のために用いられなければならない神の賜物であるということである。以上六つの動機を図式的に示せば次のようになる。

無意識的

1 自発的陶冶努力
2 間接的関心

意識的

高次の関心

3 美的動機; 狭義の陶冶努力

 

個人に関係する

4 倫理的動機; 徳の努力
5 社会的-倫理的傾向

 

個人を越える

6 超越的傾向

 これらの動機をもう一度全体的な陶冶目的の観点から見直してみよう。1,2,3の動機は4の動機をその規準として考慮しなければならない。何故なら、1と3の動機は容易に文学趣味(Schoengeistelei)とか名人気取り(Virtuosentum)などに堕す危険を持っているからであり、このような堕落を防ぐものは無私性(Selbstlosigkeit)をその特徴とする倫理的意図だからである。

 2の間接的関心はやはり、精神的成長を狭く、利己主義的に職業のための準備としてだけ意味を持つものと考える傾向を持っている。そしてまた、業績能力がそのものとして評価されずに、他の外的な諸々の規準によって判断される。それゆえ、間接的関心もまた倫理的動機をその規準としなければならない。

 ところで、4の倫理的動機は徳の努力として個人の倫理的完成に向かうものであるが、それが個人を関係点とするかぎりで、やはりその限界を持っている。なぜなら、それは精神の自己完成であるかぎりにおいて自己を中心とするものであり、或る種の利己主義をそのうちに含んでいると考えられるからである。個人においては倫理的なものが中心であることは確かであるが、しかし、個人が倫理的なものの中心であるのではない。利己主義は個人が自己の内部にとじこもることによってではなく、自己をより高い秩序に捧げること、自己を放棄することによって克服される。それゆえ、徳の努力としての倫理的努力はその規準を社会的-倫理的動機のうちに持たなければならない。

 社会的-倫理的動機に於いて社会的-利己的動機としての間接的関心はその正当性を保証される。なぜなら、後者が個人主義的に社会的関心を求める傾向を持っているのに対して、前者はそれらの社会的関心が単に個人のためばかりではなくて、同時に共同の福祉のため、祖国のため、人類のためにも存在するということを明らかにするものだからである。

 しかしながら、この社会的-倫理的動機を究極的に基礎づけるのは超越的動機である。個人を越える倫理的社会は神の定め給うた社会であり、また、事物の規準は人間ではなくて、神である。

 以上見たように、ヴィルマンは陶冶の動機のヒエラルヒーが正しく把握されなければならないと考えている。「何故なら、低次のものは高次のものへ、過ぎてゆくものは過ぎざるものへ向けられ、手段は目的に従って規定されなければならないのであって、その逆ではないからである」3)。

二 陶冶の主体の心理的契機

 人間の内的現象の根柢である魂、心意(Seele)の要素として、理論的機能と実践的機能とを区別すること、従ってまた、認識と努力活動、感性的能力と精神的能力とを区別することは歴史的に深く基礎づけられた形而上学的、倫理的直観に遡ることができる。このように人間の内面的な現象は二つの異なった機能に区別されるが、その機能のそれぞれの担い手として挙げられるもっとも一般的な名称は精神(Geist)と情意(Gemuet)である。

 ところで、陶冶は理論的機能に属し、知識、認識、知性の領域で行われ、その担い手は精神である。しかしながら、陶冶の究極的目的は倫理的なものであるから、それはその影響を情意にまで拡大しなければならない。陶冶は人間をその知性的側面から捉えるのであるが、しかし、そこにとどまらずにさらに全人を強化するのでなければならない。それゆえに、陶冶論はこれら二つの根本力、すなわち、精神と情意との間の関係に特に注目する必要がある。しかしまた、陶冶が全人を目指すものであるからして、人間の有機的生を構成し、同時に精神的生の根柢となっている植物的、発動的、知覚的機能をも考察しなければならない。

 まず第一に、植物的生命(das vegetative Leben)はすべての高次の諸機能の前提であり、それを害うことは精神的活動を減退させ、情意生活を抑圧する。このことは理論からはしばしば見過ごされるが、実践においては等閑視されて決してそのままで済むことのない重要な点である。

 第二に、発動的機能(die motorische Funktionen)は技能及び芸術の全領域の根柢である。その誘因は努力に、そして最後的には衝動に遡る。分化、孤立化、複合などによるそれらの機能の形成は認識諸力を通じて達成されるが、しかしながら、にもかかわらず一つの領域を表している。アリストテレスは実践的要素及び理論的要素と並んで制作的要素(das poietische Element)を立てている。教授論によって殆ど等閑視されているこの制作的要素は、陶冶にとって理論的要素と実践的要素との間の結合項である。

 堪能(Fertigkeit)はその媒介が教えによってなされるという点で知識(Kenntnisse)と共通し、また練習(Uebung)によって獲得されるという点で慣習(Sitte)と共通する面を持っている。技能(Koennen)は精神的内容に基づくという点で知識(Wissen)と共通し、規則(Regel)と結びついているという点で当為(Sollen)と共通する。それゆえに、技能は知識の証明(Probe)であり、行為への動因(Antrieb)である。また、技術(Kunst)は知識を生活へ導く。愛は諸々の技術を教えるが、逆に、われわれは練習するものを愛し、同時にわれわれが知っているものを生き生きと保持する。堪能における指導(Unterweisung)は学問(Wissenschaft)における教授(Unterricht)の補完である。

 第三に、感覚的機能(die sensitive Funktionen)は認識の出発点、表象界の最初の基礎を成す。それは精神的活動のうちに含めて考えることもできる。しかし、精神的活動をより厳密に(a potiori)解する場合に、古来の心理学が感性的機能と精神的機能とを二つの異なった心意能力(Seelenkraefte)に帰属させているのは正当である。認識に関しては、感性的機能は個別的なものの知識を越え出ない。概念や根拠に基づく認識、目的や価値への認識はその担い手としてより高次の能力を必要とする。感性的起源の表象は心的現象(Psychische Geschehen)の素材である。それに対して、思考、意欲、当為は生起(Geschehen)としてではなくて、ただ行為(Tun)としてのみ理解されうる。

 われわれの表象界(Vorstellungskreis)の素材は自分の見たもの、自分の経験したものはわずかの部分であって、それ以上に他の人々の直観や経験、過去や遠隔の地の知識がそれに寄与している。それは精神的な眼が見、想像が形成し、記憶が保持し、その後にことばによって開かれたものである。陶冶はこれらすべての機能にその手段を結合しなければならない。内容空虚な目的をもってそれらの機能を一般的に目覚めさせるのではなくて、一定の目的においてそれらの機能を確立されるべき世界像への顧慮をもって活動させ、価値ある内容をもってそれらの機能を満たさなければならない。

 では次に、思考及び思考的認識(denkende Erkennen)について見ることにしよう。表象界は思考、すなわち、より高次の能力のはたらきのいわば基底(Unterlage)、貯蔵室(Vorratskammer)、作業場(Werkstatt)を構成する。そして思考的認識がその表象界を思想界(Gedankenkreis)へと改造する。すべての学問及び芸術の理論的側面は思考作業から生まれ、また思考に刺激と訓練を与える。いかなるものも論理的な諸活動をはたらかせる機会、すなわち、分析と綜合、概念構成、判断と推論、定義、分割、論証などを引き起こす機会に事欠くことはない。

 古代の人は正当にも、「精神的直観」(das geistige Sehen)として把握される思考と「内的なことば」(das innere Sprechen)としての思考とを区別した。前者は知性(Verstand, intellectus)の直感的思考(das intuitive Denken)であり、後者は理性(Vernunft, ratio)の推論的思考(das diskursive Denken)である。知性は「何か」という問いに導かれ、多様性のうちに一般性を、現象のうちに本質を、外的なもののうちに内的なものを、記号のうちに意味をたずねる。理性は「何故か」をその拍車として持ち、内的連関、根拠、必然性を探求する。知性に属する思考形式は概念(Begriff)であり、理性に固有の思考形式は推論(Schluss)である。両者は共通の形式として判断(Urteil)を用いる。概念の把握は定義であり、推論は論証(Beweis)の核心である。

 ところで、陶冶獲得における知性の使用は多様であり、従ってそこにおいて考察されるべき理解作用(Verstehen)には三重の理解作用が区別される。すなわち、ことばの理解(Wortverstehen)、事物の理解(Sachaverstehen)、実践的理解(das praktische Verstehen)がそれである。ことばの理解は意味、思想を対象とする。事物の理解は本質、目的、概念を対象とし、従ってそれは把握(Begreifen)にまで高められる。実践的理解は目的に奉仕する手段を対象とし、従ってそれは知識から技能への移行過程を形成する。われわれはこの理解の三重の様式が言語において最も明瞭に結合されているのを見る。すなわち、理解の対象は言われたことの意味であり、把握の対象は言語形式(Sprachform)であり、実践的理解の対象は言語の使用である。

 次に思考形式の第二の型としての理性について述べよう。理性(Vernunft)ということばは知覚する(vernehmen)ということばに従って名付けられている。理性的な者(der Vernuenftige)が知覚するところのものは、それが他人の洞察からであれ、または自己の洞察の声としてであれ、彼の認識を支え、或いは彼の行為を規定する。前者は理論的理性であり、後者は実践的理性である。理性は存在と当為に向かって秩序づけられている。理性は認識と行為、形成と行動に指導の準則としての理念、模範としての理想を指示する。

 最後に、陶冶作業における努力(Strebungen)、情意(Gemuet)及び感情(Gefuehl)について述べよう。陶冶作業にとって、認識能力が出発点及び目標点を表すように、実践的機能、努力、すなわち、陶冶作業がそれでもってその作業を遂行するところの諸力もまた出発点及び目標点である。陶冶作業は成長する内面生活に向けられる仕事であるが、しかしその内面生活を協同作業(Mitarbeit)へと呼びかけることに向けられている。従って、陶冶作業は努力の全領域から生ずるのである。学習、認識、知識、模倣への衝動は学習作業の最初の手がかりである。興味、すなわち、所有の精神(Besitzgeist)及び評価(Geltung)への努力も不可欠のものである。規則的な活動への習慣は努力と均衡しなければならない。表象界の形成と関心界(Interessenkreis)の形成とが連携しなければならない。

 表象界と関心界とがそうであるように、知性と意志も相互作用において発展する。すなわち、知性の洞察は欲求(Begehren)を意欲(Wollen)へ、習慣的な行為(Tun)を意識的な行動(Handeln)へと高める。そして逆に意志は思考を必要とする高次の精神活動の原動力となる。

 情意の発展は理性の発展に結びついている。理性が内的な語りかけ(innere Sprechen)であるとすれば、情意はその声への共鳴(Resonanz)である。認識的理性が求めるものは単に精神の成長ばかりではなくて、感情と努力とを満たす一つの善である。思考されたものは、それが感情にまで入りこむ場合にはじめて完全な所有、内面生活の要因となる。制作的理性(gestaltende Vernunft)はなおより多く情意の協働に向けられている。

 感情も陶冶作業の関係点として表される。しかし、陶冶価値のための主題を獲得するという目的で感情を更に詳しく分析することはその目的に反する。何故なら、われわれは知識や洞察を受け取ったり、分け与えたりすることができるし、技能を獲得したり、伝達することができるからである。しかし、感情は何か自己成長的なものであって、教えたり、指図したりすることはできない。感情生活は陶冶の仕事場(Werkstatt)ではなくて、むしろそこで陶冶がその最も美しい作品を展示する広間(Halle)である。感情の規定に向けられた規則は或る一般性を超え出ない。否、矛盾の形をとる傾向さえある。陶冶は感情の鋭い対立や性急な移りかわりを緩め、しかも奇形の情意生活から保護しなければならない。陶冶は激情や自然的な力から摘み取ってはならない。陶冶は情意の活動の世界のうちに定位しなければならないが、しかも感情の寸断、意識されないものの意識への引き入れに対して警戒しなければならない。

 以上、ヴィルマンの所説を辿って来たが4)、彼が陶冶の主体の契機として理論的機能としての精神と実践的機能としての情意を挙げ、それの媒介項として制作的機能を指摘していることは人間の主体的構造の把握として当を得たものであろう。彼は他の個所で、陶冶の三つの契機として、「生きた知識」(lebendiges Wissen)、「精神化された能力」(durchgeistiges Koennen)、「純粋な意欲」(gelaeutertes Wollen)を挙げ5)、前の二つのものは第三の純粋な意欲と結合することによってのみ人格的なものとなると述べている。

三 財の精神的対象性

 陶冶は精神的内容とのかかわりを離れては成立し得ない。陶冶によって伝達され、習得同化される精神的内容はいかなる意味において対象、素材として伝達、同化されるのであろうか。

 ヴィルマンは次のように述べている。「陶冶作業の素材は陶冶手段(Bildungsmittel)であると同時に教授財(Lehrgut)である。精神は素材を自己に同化せしめなければならない。しかし、そのためには精神が素材に同化せしめられるということが必要とされる。陶冶は内的形式(innere Form)に向けられている。しかし、その内的形式は外的なものへと出て行くことによってのみ獲得され得るいわば資産(Besitzstand)に結合されている。陶冶は主体の性質(Qualitaet)である。しかし、その性質は主体が客体の多様な性質に自己を捧げるということによってのみ獲得される。生徒は端的に教材の規準であるのではなくて、ただ彼の理解力が考慮されねばならない限りにおいてのみそうである。それはまさに児童は訓育(Zucht)においては、彼のうちに植え付けられねばならないエトスの規準ではないのと同じである。教授と訓育はたしかに個人の精神的及び倫理的な成長(Gedeihen)を目標とするが、しかし同時に認識及び生活の財の伝達(Ueberlieferung)をも目標とする」6)。

 この見解は相対立する陶冶の原理としての実質的原理と形式的原理との単なる折衷ではない。それは「陶冶の客体と主体との関係についての第三の見解」(die dritte Anschauung von dem Verhaeltnisse von Objekt zum Subjekt der Bildung)7)である。精神的内容、陶冶内容それ自体のうちには一つの有機的な力(eine organische Kraft)が存しており、それは精神的内容が精神のうちに受け入れられる際に表象及び思想に規定的に関与するのである。このことによってはじめて主体の内面的形成は行われるのである。

 ここで、精神的内容のもつ有機性、対象性について、ヴィルマンの所説に従いながら、検討してみよう。

 プラトンは思考内容(Denkinhalte)を有機体(Organismen)との関連において把握している。彼は『パイドロス』の中で、この意味において言葉について語っている。このことは他のすべての精神的形象(geistige Gebilde)についても妥当する。すなわち、それは頭と足、真ん中と両端をもつところの一つの「動物」(zooon)(Phaedr.264C)である。知識を持っている者の言葉、すなわち、真の精神の作品(Geisteswerk)は生きている(lebendig)のであり、魂を持っている(beseelt)。それを文字によって固定する場合に、その言葉から有機的な性格をいくらかでも毀してはならないのであり、それはただ記憶のための憶え書き(Merkzeichen fuer das Behalten)だけを提供すべきものである(ibid, 276C)。そのような作品は一つの種子(Samenkorn)であって、それは受け取る精神に入って、再び種子を生ずる植物となる(ibid. 276B)。そのことを明らかにするためには多様に分裂したものを見渡しながら(ueberblickend)一つの形相のうちに集めること(eis mian te idean sunoroonta agein ta pollacheei diesparmena)が要求される(ibid. 265D)。精神の作品はイデアと同じように、一なるものであり、そしてしかも多くの個別的事物のうちに根付いていたもの(en kai epi polla pehukoth)である(ibid. 266D)。精神の作品を再構成しようと思う者は慎重にこの構造に注意を払って、その一部分をも事物に反した仕方で分離してはならず、かえって自然に従って分けなければならない(kata phusin temnein)(Crat. 387)。そのことによって、彼は動物を身体の部分に従ってばらばらにせずに、骨を砕いてしまう下手な料理人に比較されないで済むのである(ibid. 265A)。

 精神的内容はちょうど犠牲の動物のように各々の肢体に従って分解されなければならない(Pol. 285)。また、医学はさまざまの薬剤の効果についての知識ではなくて、治療の諸関係の洞察である。前者は医学の外的な仕事(pro iatrikees)であり、後者はta iatrika を対象とする。悲劇は効果の手段(Effektmittel)のよせ集めではなくて、一つの全体であり、その全体は効果の手段に対しては、ちょうど和音が個々の音に対して持つのと同じような関係を持っている。そうしてはじめて悲劇(ta tragika)を構成するのであるが、効果の手段は悲劇の外的な仕事(pro tragoodias)である(ibid. 268A-E)8)。また、人間の知識は知識内容への参与(methexis)であり、知識の段階と程度とは知識内容に従って規定される。すなわち、知覚は見得るもの(horaton genos)に参与し、直感的知性(nous)は叡知的なもの(noeeton genos)に参与する(Rep. 509 sq. und 533 sq.)9)。

 アリストテレスもまた、プラトンと同様に、学問や芸術の有機的性格を認めている。それらは「精神的可能性」(dunameis logikai)である。学問や芸術は自然において現れる諸力とは異なり、精神的可能性のうちにその形相(eidos)、すなわち、研究者や芸術家の精神における形成的原理(formierendes Prinzip)を持っているが、しかし同時に、学問や芸術は研究者や芸術家に課された課題であって、それはその解放の諸条件をそれ自身のうちに持っている。健康の理念は医学の logos であり、それは主観的に医者の精神のうちにあるが、客観的には彼が治療し得るために身につけなければならない規則の全体のうちにある。この意味において、健康、すなわち、この病人の治療は健康にするという課題がそこに含まれている logos から生ずる10)。

 プロティーノスもまたプラトンの流れに属している。彼にとっては叡知的なもの(das intellligible)が有機的統一(autozooon)であるが故に、われわれの認識がそれに同化するところの学問もまた一つの有機的なものである。彼は次のように言っている11)。「一つの学問においてと同様、すべての学問においても、諸々の対象に従っての区分が行われる。そうでなければ、学問それ自体がその故に分解し、ばらばらになってしまうだろう。そうではなくて、各々の対象は可能的に全体をそれ自身のうちに持っている(echei de hekaston dunamei to holon)。何故なら、原理と目標点とは同一のものであるから。それ故、人は諸原理(archai)が目標点(telee)や全体(hola)であり、そしてすべてのものが存在の最高のもの(to tees phuseoos ariston)に向けられるように、自己自身を形成しなければならない(paraskeuazein auton)。そのように認識する者は彼岸的なものを所有しているのであり、彼はそれを、--もし把握しているならば--、この最高のものに関係づけているのである」(Enn. III, 9,2)。

 他の個所では、学問の有機的性格がもっと明瞭に述べられている。「学問は一つの全体であり、その部分はそれらが一つの全体を形成し、またその全体から出てくるそのようなものである。種子もまた一つの全体であり、その中で種子が自然に従って分解されるべき部分は種子から出てくる。そしてしかも、種子は全体としてとどまる。その全体性は何ら損傷を蒙らない。ただ質料のみが分割されるのである。すべてのものは、しかし、一つの固有のものである。....学問においてわれわれがまさに取り扱い、そしてそれ故に現前しているのは一つの現実の部分(aktueller Teil)である。しかし、その他のものは不可視的にこの現実的なものと可能的に結合されているのであり、この部分のうちに全体が存在している。それ故に、学問は一つの全体であると言われる。部分は或る意味において全体を現実化する。すべての個別的なものは操作のために予め存在する。しかし、部分としてはその個別的なものはそれが全体と関連している(
pleesiasan tooi holooi)場合にはじめて完全な力を獲得する(endunamountai)。いかなる命題(theooreema)も他の命題から解き離されない(ereemon)。もしそうであるとすれば、それはもはや芸術や学問とは何の関係もなくなり、いわば子どもの片言のようなものであろう。しかし、それが学問に属するならば、それは可能的に全体を含んでいる(ei oun episteemonikon echei dunamei kai ta panta)。それらに関係して精通している者は、そこからその他のものを首尾一貫して展開する(epagei)。幾何学者は分析において、どのように一つの命題が、そこへその分析が導くところのすべての前提を含むか、そして同様にその系列に従って、何がその前提から出てくる(genantai)か、ということを示す」(ibid.,
IV, 9, 5)。

 以上、プロティーノスは精神的なものが生きているもの(Lebendiges)であることを可能性と現実性の概念によりながら示しているのである。

 古代の Idealismus は、上述のように、真なるもの(das Wahre)を智恵あるもの(sophon)として、固有の内的な思考的構造をもつ客体として、zooon 或いは一つの生命に満たされた種子として把握したのである。それとともに、それは思考的なもの(das Gedankliche)に或る実体性(Substantialitaet)を帰したのである。Idalismus は思考的なものを単なる人間の所産に引き下ろそうとする Nominalismus に対立する。 Nominalismus はそれとともに聖なる教えや原典を神的な存在として実体化した(substanziert)古代の思考様式のうちの正しいものを神話的被蔽から引き剥がしてしまったのである。

 では、キリスト教においてはそれはどのように理解されたのであろうか12)。たしかに、キリスト教的意識は救いの教えそのものを聖なる存在としては把握していない。しかし「生命のことば」(die Worte des Lebens)は、にもかかわらずキリスト教的意識にとっては、人間の心のうちにその場所を求める恵みの力がそのうちにはたらくところの生きもの(zooon)、精神的可能性(dunamis logikee)、神的種子である。信仰はまず一つの実体(hupostasis elpizomenoon
pragmatoon; substantia rerum sperandarum)(Hebr., 11,1)と言われている。また、信仰は誠実さにおいて守られるべき寄託であり、抵当である。「あなたはキリスト・イエスに対する信仰と愛とをもって、わたしから聞いた健全な言葉を模範にしなさい。そしてあなたに委ねられている尊いものを(teen kaleen parakatateekeen; bonum depositum)わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい(phulaxon; custodi)」(2 Tim., 1, 13, 14)。さらに、信仰は器の中に置かれるように人間の心の中に置かれるべき宝である。「しかしわたしたちはこの宝(theesauron)を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものではないことが、あらわれるためである」(2 Cor.,4,7)キリストから来た救いは一つの財であって、その管理者は使徒たちである。彼らは「神のさまざまな恵みの良き管理人」(kaloi oikonomoi poikilees charitos theou; boni dispensatores multiformis gratiae Dei)(1, Petr., 4. 10)と呼ばれている。「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた」(Johan., 1, 16)。救いは最良の、最も完全な財であって、それは「あらゆるよい贈物(dosis agathee;datum optimum)、あらゆる完全な賜物(dooreema teleion; donum perfectum)は上から、光の父から下ってくる。父には変化とか回転の影とかいうものはない」(Jac., 1, 17)ということに由来する。この賜物を受け取ることは人間にその内的な充足を与える。彼が持っていたもの、彼が以前にあったものはこの彼のうちに置かれた内容に比すれば消滅してしまう。「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか」(Cor., 4, 7)。

 聖書に挙げられた多くのたとえも信仰をひとつの内容と見倣し、それが人間の心の中で成長してゆくものであることを示している。

 聖アンブロシウスは信ずる者に委ねられた抵当、財の汲み尽くすことのない、神秘に満ちた内容を黙示録の封印された書物に比較している。「われわれは父祖の教えを保ち、受け継いだ封印を異端的な不遜によって敢えて破らないようにしよう。われわれのうちに荘重な書物の封印を敢えて解こうとする者が誰かいても、それは信仰告白者によって封印され、多くの殉教によって神聖なものとされる」(Amb., De Fide III)13)。

 アウグスティーヌスは『告白』の中で、記憶の分析のところで精神的財について語っている。われわれが記憶によって所有しているものは像ではなくて、事物それ自体である(nec eorum imagines gero, sed res ipsas)。われわれはここでわれわれのうちにある事物に関わっているのであり、それを認識し、是認し、規定するのである(Conf., X, 9, 16; X,
10, 17)。--学問や芸術は精神的財として生活の力(Lebensmaechte)となり、またそれらは魂が感性的なものから超感性的なものへと向上してゆく一段階である(De quant. anim., 70-76)。アウグスティーヌスにおいてはこの精神的内容が同時に魂の個人的生命の構成要素であるという点がより明瞭に現れている。彼が記憶(memoria)と名づけているものはわれわれが思想界(Gedankenkreis)として表すものである。しかし、現代の理解では、思想界は心的行為のいわば沈殿物にすぎないが、アウグスティーヌスは彼の memoria に客観への関係を保持している。彼はもちろん最高の実在たる神を探求するために memoria を追求したのであるが、彼にとっては内面の像の世界が問題であったのではなく、内面の像と現実とに同時に根柢として存在する客観的、思考的なものが問題であったのである14)。

 最後に、スコラ学派のこの問題に対する見解について見よう15)。彼らにとって「知識」(scientia)は「知る行為」(scire)とともに「知り得るもの」(scibile)をも表す。トマス・アクィナスは scibile は scientia に先行する(Sum. Theol., I, 13, 7 ad 6)と言っている。彼にとっては、このように、知識(Wissen)において知識内容(Wissensinhalt)と知る行為(Wissenstaetigkeit)とは区別されるべきであるということは確実なことであった。何故なら、客体としての fides quae
creditur と主体が実現する fides qua creditur とが対置される信仰の類比(Analogen)がここで考えられるからである。キリスト教の信仰内容は不変であるが、信仰の行為は常に新しく、変化しながら個人のうちに実現される。トマスは「現代の信仰と過去の信仰とは一つの信仰であるか」という問いに答えて次のように言っている。「信仰ということで、信仰の客体、すなわち、信じられるもの(objectum fidei scilicet res credita)が、そのようなものが精神の外部にあるものとして理解される場合には、われわれにおける信仰も、祖先における信仰も、同一のものであり、信仰はそのものの統一を保っている。それに対して、信仰がわれわれによるその受容という点で考えられるならば、それはさまざまの表現様式の故に多様な形をとる(plurificatur per diversa enuntiabilia)。しかし、この多様性は、すべての信者がそれぞれ一つの信仰をもつということがそこから明らかとなるような信仰の多様性を決して必然的に伴うものではない」(Quaest. disp. de fide, 12)。

 学問は魂よりも高次のものである(sicut etiam scientia posset dici major anima.)(Sum. Theol., I, 16, 6 ad 1)。知識内容は知識の規準である(scibilia sunt mensura scientiae.)(Sum. Phil., I, 61)。われわれの知らない知識内容はあるが、その逆は存在しない(ibid. 66)。

 聖書が信仰内容を一つの実体(Substanz)と名づけていることは既に述べたが、トマスは実体について次のように言っている。「実体はあらゆる事物の第一の始め(incohatio)を意味する。特に、事物がその能力に従って第一の原理のうちに含まれており、そこから完全に生じてくる場合(quando tota res sequens continetur virtute in primo principio)はそうである。例えば、われわれは次のように言う。すなわち、証明できない第一諸原理が学問の実体をなす、というのはそれらの原理はわれわれのうちにあるこの学問の第一のものであり、それらの原理のうちにその能力に従って全学問が含まれているからである、と。この意味において、信仰は、われわれのうちにあるこの第一の始めがその能力に従ってすべての希望すべき事物をそのうちに含んでいる信じる者の一致のうちにその場を占めるが故に、希望すべき事物の実体である、と言われる。何故なら、われわれは信仰においてわれわれが従っている真理を明らかに見るだろうという点において至福となるということを希望しているからである」(Sum. Theol., II-II, 4, 1)。従って、ここでは信仰内容と知識内容とは、思考的な萌芽からのそれらの成長のうちに示される両者の有機的構造の基礎において類似したものとして表されている。それとともに、ここでは理念的なもの(Idealien)はいわば動物(zooon)、有機体であるというプラトンの説が確認され、そして同時により高次の関連のうちに組み入れられているのである。

 しかし、ここで注意しなければならないことは、トマスにとって知識内容は事物の様式に従っての実体とされるのではなくて、可能的、潜在的なものと考えられるということ、またそれは認識する精神と結合されることにおいて始めて現実化、顕在化されるということである。この可能的なものはアリストテレスの dunameis logikai と同じように、potentiae
rationales と呼ばれる。認識内容と認識する精神とは重なり合って存在する。しかし、認識する精神のうちには、同様に、認識内容との接触において現れる萌芽が存在する。「われわれのうちにははじめからある種の学問の種子が存在する(praeexistunt in nobis quaedam semina scientiarum.)それは感性的事物から抽象された概念(species)の基礎の上に、能動知性の光において直ちに認識される根本概念(Grundbegriff; primae conceptiones)であって、一部分は公理(axioomata)のような複雑なものであり、一部分は存在者、一、類似の概念のような単純なものである」(Thom.,
Quaest. disp. de verit., 11, 1)。

 知識は精神がその知識内容に同化される場合にその完全態を保持する(Scientia est assimilatio scientis ad rem
scitam. Sum. Phil., II, 60)。或いは、知識は知識内容が認識する精神に刻印されるとも言われる(Scientia est sigillatio scibilis in intellectu scientis. De verit., 2, 1 ob 6.)この客観的=主観的意味において、知識は知識内容の完成である(Scientia est recta ratio scibilium. Sum. Theol., II-II, 55, 3)。精神的活動による可能的知識内容の現実化と精神的活動の知識内容をもってしての充足とにおいて両者は一致する Scientia est quodammodo scibilia. (In III de
anim., 13a)。この命題はアリストテレスの esti d'he episteemee men ta episteeta poos (De anim., III, 8)のラテン語訳である。しかし、アリストテレスは思考的なものと思考とのこの一致の究極的な根拠を与えることはできなかった。というのは、彼は思考的なものを神的思考に帰因させなかったからである。しかし、この点においてプラトンに従うトマスにとってはこのことは困難なことではなかった。神のうちにあるイデアは scibile(知識内容)の究極の根拠であり、univer-
salia ante rem(事物に先行する普遍)は universalia in re (事物に内在する普遍)の前提である。そして諸々の学問の根本形態の最高の見解は神的真理のうちに存する。

 トマスは学問或いは知識の性格を以下のように規定している。学問或いは知識はわれわれの思考が事物における思考的なもの--それは究極的には神のうちにあるイデアに遡る--に同化することに基づくとすれば、ここからでてくる帰結は、第一に、その対象は個別的、感性的、変化するものとしての事物ではなくて、事物における普遍的、必然的なものであるということである(Scientia est universalium. Thom., in II de anim., 12b; hee d'episteemee toon katholou, Arist., De anim., II, 5; Scientia non est particularium, singularium, corruptibilium, non est eorum, quae sunt a
fortuna. Die Nachweisungen bei Schuetz, Thomas Lexikon, 2. Aufl., 1895, S. 729.)。感覚知覚が示すような個別的なもの、偶然的なものに関する知識はそれ自身のためにではなくて、むしろ実用的な根拠から価値があるのである。

 学問或いは知識の概念から出てくる第二の帰結は諸々の学問は一般的なものを目指すとはいえ、にも拘わらず一般概念それ自体ではなくて、それを手段として考察される事物を対象とするということである(Sunt scientiae de rebus,
non autem de speciebus vel intentionibus intelligibilibus. In III de anim., 8c)。ただ論理学だけは例外である。何故なら、それは entia rationis (論理の実体)を取り扱うからである。 de illis intentionibus, quas ratio adinvenit in rebus
consideratis, sicut intentio generis, speciei et similium. In met., 4. この規定によって学問にその実在的内容(Realgehalt)が確保され、このことが起こり得る。何故なら、スコラ実在論は一般的なものを実在的に事物のうちに存するものとして把握し、species intelligibilis (可知的形相)によって一般的なものの精神への挿入を説明するからである。これに対して唯名論は知識にただ概念やことばのみを内容として与える。その結果、それは思考行為をではなくて、思考内容をそのものとして内容とするのである。

 第三の帰結は、諸々の学問の多様性が存在し、それゆえ事物がその対象であるということである。トマスは次のように言っている。「一つの包括的な原理からすべてのものが導き出されるということは不可能である。何故なら、存在者のさまざまの類が存在するからである」(quia genera entium sunt diversa)(In II post. anal., 53)。それとともにすべての認識を綜合的に一つの原理から構成しようとする一元論的見解はしりぞけられる。

 諸々の学問(Wissenschaften)は財である。その所有は財を分けることに結びつく。「飢えている者にパンを与え、知らない者に智恵のことばでもって教えることは活動的生活に属する事柄である」(Greg., sup. Ezech., 14 bei Thom., de verit., 11; Thom., Quaest. in lib. Boeth. de trin., II, 2, 1a)。教授(das Lehren)と学習(das Lernen)はそれとともに倫理的活動へと高められる。教授は scibile (知識内容)への関連において与えること(Geben)、提示すること(Darbieten)であり、学習は受け取ること(Empfangen)である(Disciplina est acceptio scientiae. Thom., in V Phys.,
3 i; Docere est causare scientiam in alio operatione rationis naturalis illius. De verit., 11, 1)。教師が生徒に教えるものは教師のうちにおいても、生徒のうちにおいても同一のものである。何故なら、それは id quod scitur (知られるところのもの)であるから。しかし、species intelligibiles quibus scitur (それによって知られるところの可知的形相)は異なっている。教えることはひとつの術である(Magister causat scientiam in discipulo per modum artis. Sum. phil., II, 75)。学ぶことは知ることと同じように、常に或る性質のすでに存在した知識を必要とする(Omnis disciplina et ominis
scientia ex praeexistente fit cognitone. ibid.; Uebersetzung von Arist., Anal. post., L. 1 in)。教授はそこから出発し、より易しいものからより難しいものへと進まなければならない(A facilioribus omnis scientiae fit disciplina. In lib. de
causis, 7.)。教える術はすべての術と同様、自然を尊重しなければならない。何故なら、教授の方法は術に属しているが、発見の方法は合自然的であるからである(Methodus inventiva est naturalis, methodus doctrina aritificiosa.
De verit. 1, 1.)。

 以上、われわれはヴィルマンの所説をたどりながら精神的財の有機性・対象性ということがどのような意味で言われ、考えられているのかという点について検討した。ここで明らかにされたことは、陶冶の客体としての精神的内容は精神のうちに吸収されて自ら成長してゆくという有機的性格をもつものであること、また、それは事物の様式に従っての実体ではないが、しかし単なる思考作用でもないところの精神的=客体的な存在であるということであった。この精神的内容はそれによって人間の内的成長がもたらされるところの陶冶の手段でもあるが、しかしまず何よりもそれはリアルなものとしてそれ自身の固有の構造と内的法則をもつものであり、人間がそれに同化することによってはじめて彼を豊かにすることができるところのものなのである。

(1)三上 茂、 「オットー・ヴィルマンの陶冶論研究 その一 --「教育」と「陶冶」の問題--」、神奈川県立栄養短期大学 人文・社会科学研究会、研究報告I、 1968,p. 45以下参照。
(2)cf. Willmann, Otto: Didaktik als Bildungslehre, 1957, SS.288-313.
(3)ditto, S.664.
(4)ditto, SS.328-355.
(5)ditto, S.320.
(6)ditto, S.326.
(7)ditto, S.324.
(8)Willmann, Otto: Geschichte des Idealismus, Bd. I, SS.382-383.
(9)Willmann, Otto: Aristoteles als Paedagog und Didaktiker, 1909, SS.177-178.
(10)ditto, S.179.
(11)Willmann, Otto: Geschichte des Idealismus, Bd. I, SS.674-675.
(12)ditto, Bd. II, SS.100-101.
(13)ditto, S.101.
(14)ditto, SS.296-297.
(15)ditto, SS.401-409.


Resume

Die Bildungslehre von Otto Willmann

 --Seine ”Didaktik als Bildungslehre”--

Shigeru Mikami

 In dieser Abhandlung handelte der Verfasser drei Punkte aus Willmanns Werke ”Didaktik als Bildungslehre” und
”Geschichte des Idealismus”. Erstens, die Motive der Bildung, zweitens die psychologische Momente des Subjekts der Bildung, und drittens die geistige Gegenstaendlichkeit der Gueter.

 1. Als Motive der Bildung zaehlt Willmann sechs auf, naemlich,
1)das spontane Bildungsstreben,
2)die mittelbaren Interessen,
3)Bildungsstreben im engerem Sinne,
4)die ethischen Motive,
5)die sozial-ethischen Motive und
6)der transzendente Zug.

  Alle diese Motive beziehen sich von einander, aber der transzendente Zug muss anderen Motiven zu Grunde
liegen.

 2, Die psychologischen Momente des Subjekts der Bildung nennt Willmann der Geist als theoretische Funktion und die Gemuet als praktische Funktion. Er stellt poietische Funktion zwischen beider als Mittelglied.

 3. Die Bildung kann ohne Beziehung zum geistigen Inhalte nicht zustandekommen. Der geistige Inhalt ist nicht nur Bildungsmittel, sondern auch das Lehrgut. Der geistige Inhalt hat also eine Gegenstaendlichkeit und einen organischen Charakter.

 神奈川県立栄養短期大学紀要 第2号 昭和45(1970)年3月 pp.67-77から転載

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