ファチマの聖母マリア

「嵐の前の静けさ」

The Fatima Crusader, Issue 56, Winter 1998より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

この論考はミネソタ州セント・クラウドでグルーナー神父によって行われた講演に基づくものです。

今日われわれは悲劇と勝利の両方の瀬戸際にいます。悲劇について話す前に、私は聖母のメッセージが、そして私のメッセージもまた、希望のメッセージ、勝利のメッセージであるということを強調したいと思います。

われわれは聖母が次のように言われたということを思い出さなければなりません。そして彼女はそれを計画されたのであり、そしてそのことは起こるでしょう。「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを私に奉献するでしょう。ロシアは回心し、ある期間平和が人類に与えられるでしょう。」

それが彼女の預言です。それが彼女の予言です。それはまだ起こっていませんが、にもかかわらず起こるでしょう。

希望と気分のよさ

かなり以前、1984年にロス・アンジェルスで、ある無神論者に話していたときのことを私は今でも覚えています。私がファチマのメッセージと、それが与えていた平和の約束を彼に語ったとき、彼は長い間に現代世界に対する何らかの希望のしるしを見たのはこれが始めてであると言いました。ところで彼はそのメッセージを必ずしも信じていませんでした。しかしそれは世界にとって何らかの意味を持つ−と恐らく彼は見ることができたのでしょう−最初の希望のメッセージでした。

二種類の希望があります。一つはもしわれわれが真理をわれわれ自身からまさに隠し、悪いニュースを見ないならば、という考えに基づいています。そのとき、われわれは心の中に希望のこの感情を持つことができます。

キリスト教的な希望ははるかにそれ以上のものです。それは危険があるということ、すなわち、通り抜けるのが困難な道があるが、にもかかわらず、われわれが勝利の可能性を持っているということを認めています。

 ところでもちろん、キリスト教的希望はまず第一にわれわれ自身の個人的な永遠の救いに関わっています。われわれは天国への途上にわれわれ一人ひとりにとって多くの危険があるということを意識すべきです。しかしながら、もしわれわれが神の恩寵と光に従うならば、そのことは世があなたたちに信じさせたよりははるかに容易です。

世界の出来事とあなたの永遠の救い

私がここで話していることはわれわれの永遠の救いの希望です。なぜなら、われわれの永遠の希望はある程度現在の出来事と結びついているからです。ある仕方でそれは結びついており、ある仕方では結びついていません。それは古代の、ローマの時代の、あるいは他の時代の殉教者たちのようでなければならないことはありません。人々がわれわれにどんなことをするとしても、われわれは神と我らの主に忠実であり得るし、またなければなりません。

ファチマの聖母はあなたが払う税金について、結ばれる軍備協定や軍備縮小協定について、世界の状況について、そして同様にこれらすべての現世の事件について関心を持っておられます。それはそれらがあなたの永遠の救いよりももっと重要だからではなく、まさにあなたの永遠の救いがそのように重要だからです。

教皇ヨハネ・パウロ二世がファチマに行かれたとき、彼は聖母が話しかけておられる別の関心について語られました。教皇ヨハネ・パウロ二世は、彼女がわれわれの御母であり、彼女がわれわれの生活のあらゆる局面に関心を持たれるから、そのことを言われたのです。しかし、彼女は第一に、そしてとりわけ、われわれ自身の永遠の救いに対して関心を持っておられます。

政治と共通善

ある人々は、恐らく「ファチマ・クルーセイダー」あるいはグルーナー神父はあまりにも「政治的」であると考えます。もしわれわれが真にカトリック教徒であるならば、われわれはある程度政治的でなければならません。そしてそのことによって私は何を意味しているのでしょうか? もしわれわれがそうすべきであり、神によって命じられているように、われわれの隣人を愛するならば、そのときわれわれは共通善に関心を持つべきです。政治は共通善に影響を及ぼす立法に関わります。外交は共通善に関係します。今日外交はそれがしばしば実践されているように、われわれに害を与えるように働いています。というのは、それは実際に共通善に奉仕しないで、神の敵たちの協議事項にだけ奉仕しているからです。

聖トマスは法を共同体の共通善の責任を持つ者によって与えられる理性の秩序づけと定義しています。もし法が理に適ったものでないならば、権威を持つ者によって発布されないならば、そしてもし法が共通善のためでないならば、それは法ではありません。それはそのように単純なことです。

すべての法は共通善のためでなければなりません。さもなければ、それは単純に法ではありません。われわれはすべて共通善に対する義務を持っています。共通善は単にわれわれの妻、子どもたち、兄弟たち、姉妹たち、母たち、そして父たちの善に言及するのではありません。共通善はあらゆる人々に関係します。

共通善に反する大罪

だから、共産主義者のために投票することが大罪であるのとまさに同じように、堕胎に賛成する誰かのために投票することは大罪です。共通善に対するあなたの義務は基本的な問題においてそれに注意しないためにあなたがあなたの霊魂を失い得るほどに厳しいものです。

多くの人々はわれわれの義務は単にわれわれが知っている、あるいは出会う、あるいはわれわれが特別の関係を持つ誰かある人に対するものであると理解します。そのことは真です。しかし、われわれはまたわれわれが出会わないすべての人々、そしてわれわれが決して出会わないであろうすべての人々に対する一つの義務をも持っています。

聖トマスは兄弟愛は暖炉の中の火のようなものであるとわれわれに告げています。それは最も近い人々を暖めますが、しかし誰をも排除しません。明らかに神の敵である罪人に対するわれわれの愛は聖人そして神の友である人に対するわれわれの愛とは違った風に表現されるでしょう。

われわれの敵そして神の敵に対するわれわれの愛は彼らの回心のために祈ること、あるいは少なくとも彼らが教会に対してまた霊魂たちに対して加えようと意図している害が成功しないことです。そのようにして少なくとも地獄における彼らの場所は彼らにとってよりましなものでしょう。

われわれは真理を証言しなければならない

われわれはすべての人々に対して愛を持つべきです。しかし、そのことにおいて見失われてしまったことの一つは真理に対する義務です。われわれは単にわれわれに隣人に対して嘘を言うことを止めるよう命じられているだけではなく、また私的にも、公的にも真理を語る義務を持っています

真理に対する義務は共通善に及びます。それゆえに、聖母がファチマで話されるとき、彼女はその誤謬を広めているロシアについて話されます。

カール・マルクスは、私の知る限り、一度も殺人を犯してはいません。しかし彼の誤謬は1億5000万人以上の人々をその暴力的な死へと送りました。そしてそのことは堕胎を数えていなくてさえそれだけなのです。

聖母がロシアの誤謬について話されるとき、彼女は何かある非常に重大なことを話しておられます。そしてそれゆえ、真理に対するわれわれの義務は(a)聖母が言われたことの真理を支持すること、そして(b)今日でさえ、そしてわれわれがロシアは回心しつつあると告げられている間でさえ、広められている誤謬が存在するということを指摘することです。

それと違った風にあなたに告げることは虚偽です。すなわち、それはあなたに対するひどい仕打ち、愛のない行い、そして不正です。もし私が私自身の迫害が止むようにあらゆることが申し分ないという一つのバラ色の絵を描くために、「ファチマ・クルーセイダー」を出版し、ラジオ放送やテレビ放映をするためのあなたたちの寄付金を使っているとしたら、もし私がそうするためにこれらの手段を使っているとしたら、それはあなたたちに対して公正ではないでしょう。そして私はそうするように求められてきたのです。確かに、そうすることは私にとって人間的な見地からすれば、はるかに容易であったでしょう。しかし、もし私が彼らの圧力に屈してそうしたならば、私は人々から不正にお金を取ったことのために私の魂を失うことになるでしょう。

共通善と真理に対する義務は十分に強調されていないあるものです。生活の解決と幸福は、あなたたちが気分がよいと感じている限りあらゆることがうまく行っている[と感じさせてくれる]30分のテレビ幻想の中に完全にパッケージ化されて届けられる現代には特にそうです!

真理にとって重要なことは知られることです。さもなければ、聖母の勝利がやって来るとき、われわれは間違った側にいる自分自身を見出すでしょう。われわれは聖母と共に、あるいは勝利する者と共にいないでしょう。

信仰に対する明白な、近い、そして現在の危険

われわれは我らの主が、もしそれが可能であるならば、選ばれた者でさえ欺かれるであろうということについて語っておられる時代にいます。これは私の意見ではありません。

1984年に第三の秘密について話しているラッツィンガー枢機卿はこう質問されました。「あなたは第三の秘密を読みましたか?」(ファチマの第三の秘密に言及しながら)彼は言いました。「はい、読みました。」彼はこう質問されました。「それは何に関係していますか?」彼は言いました。「それはわれわれの信仰に関係しています。」

こう話しているのは信仰教義聖省長官です。彼は今日もなおその職にあります。そして彼の仕事は、数ある中で特に、報告され、そして検証された御出現を監視することです。彼は第三の秘密の実物のテキストに接した少数の人々の一人です。そして彼はこう言ました。「そうです。私はそれを読みました。それはわれわれの信仰の危険に関係しています。」

彼は続けてこう言っています。「そしてそれゆえにキリスト教徒の生活に対する、そしてそれゆえに世界の生活に対する(危険)に関係しています。」彼は第三の秘密は聖書の中に含まれている、そしてそれは「イ・ノヴィッシミ」終わりの事柄、終わりの時に関係するとわれわれに告げています。

選ばれた者でさえ....?

そこで、第三の秘密は、もしそれが終わりの時に言及しているとすれば、大棄教に言及しているのである。

聖パウロはテサロニケ人への第一の手紙、第二章において反キリストは大棄教がまず起こるまでは来ないであろうとわれわれに告げています。この棄教という言葉は何でしょうか。それは何を意味するのでしょうか? 棄教は聖パウロによってばかりでなく、我らの主御自身によって予言された大脱落です。主は言われます。「人の子がふたたび来るとき、彼は地上に信仰を見出すであろうか?」我らの主はその時について話されながら、こう言われました。「もしそれが可能ならば、選ばれた者でさえ欺かれるであろう。」

近代主義に関する教皇聖ピオ十世の1907年の回勅を私が最初に読んだとき、私は驚いたと言わなければなりません。私は現在それを4、5回読んできましたが、それは少なくとも年に一度は読む価値があります。

教皇聖ピオ十世は近代主義の策略は同時にあなたがなお信仰を持っているとあなたに信じさせる一方であなたの信仰を取り去ることであるとわれわれに告げておられます。そのことを彼らはカトリックの用語と用語法を使うことによってやるのです。しかしそのとき、あなたにそのことを言うことなしに、それらの用語に別の意味を与えることによって、そうするのです。

これが1960年以来カトリック教会において大規模に起こってきたことです。その結果「もしそれが可能であるならば、選ばれた者でさえ欺かれるであろう。」それがファチマの第三の秘密の重荷です。

内部からの欺瞞

教皇ヨハネ・パウロ二世はファチマに行かれたとき、このことをほのめかされました。「聖霊において育み、すべての人の救いを望まれる愛のすべての力をもった御母がその子どもたちの救いのまさに基礎そのものが堀り崩されるのをご覧になって、黙っていることがおできになるだろうか?」

教皇は彼自身の修辞的問いにこう答えられます。「いいや、彼女は黙っていることがおできにならない。」教皇はわれわれの救いの基礎が何であるかを説明される必要がありませんでした。われわれの救いの基礎はわれわれのカトリック信仰です。これはカトリック信条である聖アタナシウス信条の最初の行です。そしてあなたはこの信条がカトリック的であることを信じなければなりません。

アタナシウス信条はデンツィンガーあるいはどの標準的なカトリック神学の書物、ならびに聖務日祷のような最も公式的なカトリック祈祷書にも見出すことができます。

アタナシウス信条はわれわれにこう告げています。「救われることを望む者は誰でも、どんなよい働きをも為す前にまず第一にカトリック信仰に全体的かつ完全にすがりつかなければならない。」それはカトリック教会の教えです。

聖母はわれわれの信仰が掘り崩されているのをご覧になります。そしてそれゆえに彼女は沈黙したままでいることがおできになりません。そしてそれが彼女がファチマに来られた理由です。われわれの信仰は堀り崩されています。「掘り崩される」という言葉の使用によって教皇はその掘り崩しが教会の内部から為されているということを示唆しておられるのです。

あなたがそれを内部からしているのでないならば、あなたは掘り崩しているのではありません。そしてそれは一つの転覆行為です。もしそれが単に攻撃であったならば、教皇はそれを攻撃と言われたでしょう。しかし、彼は掘り崩されるという言葉を明らかにそして意図して使われたのです。

あなたの自由な、強力な後援

それが聖母がファチマに来られたたびにいつもわれわれがロザリオを祈るように強調された理由です。彼女は聖ドミニコに、もしあなたが毎日ロザリオを祈るならば、あなたは異端に陥ることはなく、またあなたの信仰を掘り崩させないであろうと約束されました。もしあなたが異端に陥るという不幸を持っても、しかしロザリオを祈り続けたならば、聖母は異端から抜け出すのに必要とされる恵みをあなたにお与えになるでしょう。

私の友人、「鳩男」として知られているハーミッシュ・フレーザーは共産主義者でした。彼は1947年に回心しました。1950年に彼はファチマ会議に出席しました。そして鳩が放たれたとき普通は巡礼聖母像と共にとどまっていましたが、一匹が彼の頭の上に止まり、長い間去ろうとしませんでした。それはあたかもファチマの聖母を讃える彼のスピーチが特別に強調されたかのようでした。

ハーミッシュはロシアが回心させられ得るということを彼がどのように知っているかについて話しました。彼は言いました。「私はまさにそのことを信じませんでした。私は私がそれを生き抜いたからそれを知っています。」しかし彼はその自伝の中で、共産主義者にとって彼らがその中にいる精神的な霧から逃れることがどのように不可能であるかを記述しています。彼らの全精神がどのように歪められ、ねじ曲げられているか、その結果ある特別な恵みなしには彼らにとってその精神状態を変え、カトリック信仰の恵みと真理に対して開かれることが不可能であるかを述べています。

精神がどのように働くか、そして階級全体が、そして人々の集団が真理に対してどのように閉ざされ得るかを知りたい人々にはそれは興味あるものです。しかし、始めから嘘つきであり殺人者である悪魔の計略はロザリオの単純な実行によって克服されます。それがどのように強力であるかをわれわれが理解すればいいのですが。しかしある地域ではロザリオはどのように軽蔑されていることでしょうか。

カトリック信仰は絶対的に必要なものである

信仰なしにはあなたは適切に秘蹟を受けることができません。信仰なしにはあなたはどんなよい働きもすることはできません。信仰なしにはあなたは愛を持つことはできません。あるいはそのことに関するかぎりでは希望を持つことはできません。あなたはまやかしの希望そしてまやかしの愛を持つことはできます。しかし、信仰なしにはあなたは真の愛あるいは真の希望を持つことはできないのです。

聖パウロは愛はそのいずれよりも大きいとわれわれに告げています。しかし信仰はにもかかわらず希望および愛の両者の基礎です。

聖母はわれわれに勝利を約束しておられます。第一に、そしてとりわけそれは信仰の敵ども、教会の敵どもに対する勝利です。しかし、われわれがそうすべきであるように、これらの霊的なことがらに集中している一方で、われわれは聖書においてか、あるいはファチマの公的な預言的啓示においてかのいずれかで、啓示の他の局面を見失ってはなりません。

聖トマスは、神は新しい教義を与えるためではなく、信者に彼らがその霊魂を救うためには何を為さなければならないかを思い起こさせるために、あらゆる世代に預言者たちを送られるとわれわれに告げています。

一時的流行の危険

癌の研究者であった私の祖父は医師たちでさえ一時的流行に走るということを指摘しました。しばらくの間大抵の医師は外科が行くべき道である、次ぎにピル、次ぎにこれ、次ぎにあれ、と言ました。これは医療実践を軽蔑しているのではありません。私が単純に言いたいことは、いろいろな職業において、そして聖職者の間でさえ、物事が一時的流行に向かうということです。

さて、ある真理がある職業に持ち出され、そしてしばらくの間強調され、発展するということには何ら問題はありません。それにはある種の論理があります。しかし起こっていることはある時代にある他の真理が忘れられるということです。

これらの真理のあるものはあなたの救いのために必要です。(それが神が信者に彼らがその霊魂を救うためには何を為さなければならないかを思い起こさせるために預言者たちを送られる理由です。)

使徒たちと預言者たち。教会の基礎

そしてそのように教会はただ司祭、司教そして教皇の基礎の上にだけ建てられているのではありません。このことはたとえあなたたちには異端的に聞こえるとしても、真です。聖書は、教会はまた預言者たちの基礎の上にも建てられているとわれわれに告げています。エフェソ人への手紙、第2章第20節は教会が使徒と預言者という土台の上に、キリスト・イエズスご自身を要石として築き上げられている、と言っています。そしてもしあなたが新約聖書の中で使徒行伝を読むならば、初代教会は使徒たちによって導かれていただけでなく、また預言者たちによって導かれていたということを見るでしょう。

そのことの最も大きな例は聖パウロの司教としての選任です。使徒たちが聖パウロが選任の選ばれた器である、彼がとっておかれるべきである、そして彼が司教とされるべきであると認めたのは預言の声を通してでした。彼は聖別されるべきでした。

このメッセージが与えられたとき、バルナバとパウロは、そして他の人々も同様に、祈りにおいて一緒に集まっていました。しかし、この集会の始めに呼び求められた聖霊が話され、そして言われました。「私はパウロとバルナバをとっておくことを望む。」

神のためにとっておくこと

それゆえ、奉献するという語はとっておくこと、そしてもっと正確には、聖なる目的のためにとっておくことを意味します。このことはその集会に出席している他のカトリック信者が聖霊にとって重要ではなかったということを意味しません。彼らもまた、彼ら自身の仕方で、彼らの洗礼によって奉献されていました。しかし、これは特殊的な奉献であり、そしてそれは聖パウロとバルナバを部屋にいた他の人々から区別しました。

それゆえ、奉献するという語はその文脈において理解されなければなりません。というのは、その語のまさに目的がとっておくことを意味しているからです。あなたはあるものを他のあるものからとっておきます。あるいはある人を他の人々からとっておきます。もしあなたが奉献するという語をその文脈において理解しないならば、確かに非常に容易にそれを誤解し、誤って解釈することがあり得ます。

私がこのことに言及するのは、ロシアの奉献について話が及ぶときに、今日この語が非常に誤用されるからです。聖母はロシアの奉献について話されました。そして同じ節で、同時に、彼女は「世界の司教たち」と言われました。それゆえ、彼女は「世界の司教たち」という表現を用いられたのですから、世界が何であるかを知っておられます。彼女は世界のカトリック司教たちが一つの国、ロシアを奉献することを望んでおられます。彼女はロシアという国を世界の他の国々から区別しておられます。それゆえ、世界の一般的奉献は彼女が命じられたようにロシアを特別にとっておくのではありません。

希望を決して失わないように

次ぎに、私はファチマのメッセージが希望のメッセージであるという点に戻りたいと思います。私はあなたたちがこのことを数年のうちに見るであろうと信じています。そしてあなたたちは以前には決してしなかったような仕方でその約束にすがりつかなければならないでしょう。われわれは今、しかしそのときには特に、聖母が「彼女の愛する人々を守られるであろう」ということ、ロザリオと茶のスカプラリオが聖母の守護をわれわれの上に引き下ろすということを思い起こさなければなりません。彼女に対するわれわれの個人的な奉献を新たにし、ますます熱心に生きるようにしましょう。これは現在、そしてこれからの危険におけるわれわれの大きな護りとなるでしょう。「最後に、私の汚れなき御心は勝利するでしょう。」最後に、です。聖母は一つの戦い、大きな戦いがあるということをわれわれに理解するよう望んでおられます。さもなければ、彼女は「最後に」とはおっしゃらなかったでしょう。

もし事態が、そうなるであろうと私が信じているように、悪くなるならば、「最後に」という聖母のこの約束を、そして彼女が勝利なさるということを思い起こしなさい。彼女が単に勝利されるばかりでなく、ロシアがカトリックになる、不可知論的な、あるいはそれほど戦闘的でないカトリックではなく、戦闘的なカトリックになるでしょう。

ファチマと聖パウロ

聖パウロが初代教会の最大の敵であり、そして彼が最も偉大な使徒に変わったように、そのことは幾分ロシアに、少なくとも生き残るある部分に、起こるであろう光景です。ファチマの聖母が世界の差し迫っている懲罰(それをわれわれは今日もなお生き抜いている)について与えられた大きなしるしが聖パウロの回心の祝日に起こったということは偶然の一致ではありません。

1938年1月25日に大きなしるしが見られました。私はカリフォルニア、東部アメリカ、カナダの人々からそう告げられました。そしてもちろん、それは全ヨーロッパでよく見えました。

北部アメリカではそれは非常に明るい白色の光として見られました。ある人々はそれはオーロラ・ボレアーリス、北極光であると考えました。しかし、そうではありませんでした。その光はスイスの空を非常に照らしたので、夜の11時に新聞を読むことができました。

私は1938年にオーストリアで神学生であった一人の司祭と話しました。そして彼は、空が日没後非常に明るい赤色だったので、神学校の司祭たちは大火で苦しんだ人々に秘蹟を授けるために呼び出されるだろうと考えた、と私に言ました。彼らは大災害が町で起こったに違いないと考えました。空を照らしている明るい光のために、彼らは来てくれるようにという救援の呼びかけを待ちながら、彼らの祈りを省略しました。それは決して来ませんでした。

これがそのしるしが与えた印象でした。それは都市全体が朝の3時頃まで燃え続けたこの明るい光を伴って燃えていたと思われました。

それは世界が見るであろうと聖母がルシアに約束なさった大きなしるしでした。「未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇の迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられるのです。」

ある人々はそれを単に第二次世界大戦を意味するものとだけ解釈しました。しかし、それはその時から今日まで続いている進行中の諸々の戦争、迫害、そして広範な飢餓に言及しているのです。

戦争、戦争、戦争

いたるところでの戦争。あなたたちはそれらすべてについて読みませんが、しかしジョージアにあるカーター・センターによれば、今日世界には110の武力紛争があります。私はそのことについての政治学の中には入って行きません。私はただ、あなたたちがこれを平和と呼ぶことは明らかにできないということを述べるだけです。

聖母は世界、人類は平和を持つでしょうと約束なさいました。そして彼女は平和について話されるとき、その御子がそれを用いられるのと同じ仕方でその言葉を用いておられます。それは単に、われわれがこれまで以上にもっと自由奔放に罪を犯し続けることができるような、戦争の欠如ではありません。教皇ヨハネ・パウロ二世がファチマで言われたように、それは単に罪がわれわれの諸々の制度の中で、そしてわれわれの社会の中で王座につかせられ得るような戦争の欠如ではありません。

平和、カトリック的な平和は単に戦争の欠如ではなくて、平和の王、平和の君であるキリストの君臨です。

真の平和

平和とは何を意味するのでしょうか? 聖トマスは聖アウグスティヌスに従って、平和を「秩序の静けさ」と記述し、定義しています。ボール・ベアリングの中に砂を、エンジンの中に砂糖を入れた後で車を走らせてごらんなさい。車は走行する秩序の中にはないでしょう。ところで、われわれは車のために多大のお金を払ったのですし、そのようにすれば車が動かなくなることを知っていますので、そのようなことをするほど馬鹿ではありません。

しかし、われわれは、車を走らせるための技術者の諸規則を破ろうとしないとしても、社会が平和のうちに生きるための創造主の諸規則を破ることは正しいと、どういうわけだか考えています。われわれは社会において、その創造主によって建てられた諸規則に反するならば、平和を持つことができず、われわれの社会を秩序のうちに動かすことはできません。

われわれにとって、われわれが神の法に反する諸実践を助長するために諸々の法律、制度、宣伝を設ける一方で、世界の中に平和を持つことよりも、ボール・ベアリングの中に砂を入れた車を運転することの方があなたにとってもっと容易です。それは殺すな、盗むな、隣人の妻を盗むな、等々のような基本的なことがらです。しかし、あなたがテレビをつけると、それはあなたにほとんど続け様に幸福はこれらのことがらをすることからやって来ると放送しています。ニュースの中であなたに堕胎は最高裁がそう言うからよろしいと告げるにせよ、あるいは連続放送劇の中で、あるいは他のどこかで、神の法に反して幸福を捜し求めることはよろしいとあなたに告げるにせよ、です。私はあなたが空白を埋めることができると確信しています。

なぜわれわれの学校は戦場なのか

数年前は、高校生が犯す最悪の罪は順序を守らずに話すこと、あるいはクラスの中でガムを噛むことでした。今日われわれの多くの高校は、生徒たちが彼らの教師あるいは仲間を殺し、あるいは彼らが自殺する前に警察によって武装解除され得るように、彼らが学校に持って来るナイフや銃を入り口のところで探知するための装置を持っています。

われわれはわれわれの学校から神を排除してきました。祈ることは法律違反です。しかし、もしわれわれが神の助けを求めないならば、神の法を生きることはわれわれにとって不可能です。聖アルフォンソはわれわれにこう言っています。「祈る人は救われるであろう。そして祈らない人は地獄に落とされるであろう。」

なぜそれはそのように働くのでしょうか? 非常に単純です。十戒は、もしわれわれが神の恵みを持たないならば、それによって生きることは不可能です。学校の子どもたちあるは大人たちにとって、もし彼らが神の恵みを持たないならば、神の諸々の法によって生きることは不可能です。しかし、もし彼らがそれを願い求めないならば、神の恵みを得ることはないでしょう。「求めなさい、そうすればあなたたちは受けるであろう」もしあなたが求めないならば、得ないであろうということは理解される。

神は第一の恵み、祈る恵みをくださいます。しかしもしわれわれが国を横切ってわれわれの学校の子どもたちの中でその恵みを押さえつけるならば、われわれの学校が戦場であることに何か驚くことがあるでしょうか?

最高裁はあなたは公然と、あるいは卒業式の間、あるいはどこであれ、祈ることはできないと裁定しました。この禁止の掛け値なしの効果は人々が公然と祈らないということです。彼らは神に第一の尊敬あるいは栄誉を与えません。

祈りなしには神はわれわれを助けることはできない

神にとって他の誰かに称賛を与えることは不可能です。神はご自分が至高の善であることをご存じです。神は被造物は皆、無に等しいということを知っておられます。被造物は限定されています。彼らはただ創造された善にしかすぎませんん。もしわれわれがひとり神にのみ捧げるべき栄誉を諸々の被造物に与えようとし始めるならば、神はわれわれの努力を祝福することがお出来になりません。それはまさに神の本性に反します。なぜなら、神は「まったき真」そして「まったき聖」であられるからであり、そして神は虚偽を証言することがお出来にならないからです。

それが、プロ・ライフの運動への世俗的アプローチが、意図はよいけれども、最終的に戦略的に失敗せざるを得ない理由です。というのは、プロ・ライフ運動は神に第一の称賛を与えなければならなかったからです。そして神に第一の称賛を与えることがないならば、神は、それがそうであるべきようには、彼らの仕事を祝福することがお出来になりません。

聖母が世界中に広められるロシアの誤謬について話されるとき、二十世紀の第一の誤謬、そして主たる誤謬は公的生活からの神の排除です。

       われわれの学校、病院、そしてわれわれの法律において、公的生活のまさにあらゆる局面において、神はますます排除されています。神がわれわれの諸々の制度から排除されればされるほど、それだけ多く神は御自分の祝福をわれわれから引っ込めなければならなくなられます。その結果は社会の、そして社会における多くの個人のますます多くの堕落です。

現在の主たる誤謬

神の諸権利に対するこの攻撃はロシアの主たる誤謬であり、その誤謬は今なお非常に活発であり、われわれの間に非常に広まっています。私は神とその諸々の法に公的な栄誉を与えるということが西あるいは東において何か大きく戻って来たとは見ません。たとえ神がある種の栄誉を与えられているとしても、それは一般的に、神の法が従われなければならないということを彼らがその行動や制度によって示していないように、単なるリップ・サービスに過ぎません。

神はただわれわれにその御名を尊敬をもって用いるようにと求めておられます。われわれは確かにそのことをすべきであるが、しかし神は遙かにそれ以上のことをするようにわれわれに期待しておられます。「主よ、主よ、と言う者が皆神の国に入るのではなく、私の父のみ旨を果たす人々だけが入る。」

神の選ばれた道具・ロシア

ファチマの聖母は政治的であることがらについて語っておられます。彼女はロシアについて、そして諸民族の絶滅について話しておられます。1946年に、シスター・ルシアはアメリカの教授ウィリアム・トマス・ウォルシュ教授−『ファチマの聖母』の著者−によってこう質問されました。「わたしたちは今日預言のどの段階にいるのですか?」そして彼女はこう答えました。「わたしたちはロシアが世界中にその誤謬を広めている段階にいます。」

それから彼はこう言いました。「そのことは共産主義が全世界を征服するであろうということを意味するのですか?」そして彼女は言いました。「そうです。」彼は通訳を介して話していました。そして彼はおそらく彼女が理解しなかったと思ったので、再び質問をしました。今度は彼はこう言いました。「それはアメリカ合衆国を含んでいるのですか?」そして彼女は再びこう答えました。「そうです。」

われわれは合衆国は世界の中で軍事的に最も強大な国であると告げられています。われわれは共産主義は死んだ、危険は過ぎ去った、そしてその点ではわれわれは何の問題もない、と告げられています。

誰が正しいか? 新聞や政治家たちか、それとも聖母か?

私はロシアに司令部を置いていた神の敵からの危険は過ぎ去ったと信じることを愛するでしょう。しかし、信じることは不可能です。さまざまの注意深いそしてよく考え抜かれた調査によってあなたもまたロシアからの重大な危険は実際まったく過ぎ去ったのではないということを見出すことができます。私はこれはあなたが諸々の新聞、テレビ局、ロシアを訪れた人々、あるいはこちらを訪れたロシア人たちによって教えられてきたこととまったく反対であるということを理解します。そのようなことを言うのは愚かであると考えられています。(ところで、私はこのことを1989年以来言ってきました)そしてそのとき、私は遙かにもっと愚かであると考えられていました。

今日、まだ答えられていない問題があるということを指摘するごく少数の声があちこちで上がっています。「ニューヨーク・タイムズ」でさえ、ロシアには秘密の軍事的に重装備されたコビレスキ山のようなことについて語るという不安な事実があります。ロシア人は彼らがそこで何をしているかを明らかにすることを拒んでいます。

もしわれわれが心配することを何も持っていなかったとしたら、もしそこには疑わしいものが何もなかったならば、彼らはなぜそれが何であるかをわれわれに告げないのでしょうか? どうしてもそれは唯一のことがらではありません。

エリツィンが再び大統領と宣言されたいわゆる選挙に至る6ヶ月の間に、いくつかの事実がわれわれの新聞に現れ始めました。それはロシアが全体主義に戻り得る可能性を、そして共産主義への逆戻りがあるであろうということを指摘しています。

もしあなたが世界を支配しようと今なお計画しているロシアの将軍たちの戦略と戦術を理解したいと思うならば、私はアナトーリイ・ゴリツィンによって書かれた一冊の書物を推薦します。彼は1961年にKGBから離反してこの国に来ました。彼は危険について西欧に警告するこの著作のために議会賞ならびに英国政府およびフランス政府から賞を得ました。

ロシアの古い嘘に代わる新しい嘘

1984年に彼は『古い嘘に代わる新しい嘘』という書物を出版しました。その本の中には148の預言があります−私は彼が宗教的な観点から書いていないので、それらを預言とは呼ばないでしょう−。彼は1984年に、ロシアにおいて間もなく148の発展が起こると予言しました。そして1993年までに139がすでに真実となりました。

CIAもアナリストもソビエト・ウォッチャーも、誰一人彼の実績を持っていません。1984年に、それが起こる5年も前に、彼はベルリンの壁の崩壊を予告しまっした。しかし、彼があなたに証明することは、ロシアのすべての変化は一つの目的−すなわち、あなたを欺くこと−を持っているということです。ことがら全体は始めから終わりまで、いわゆる中国とロシアの間の分裂がそうであるように、演じられているのです。

いわゆる中国とロシアの間の分裂の場合には、彼は彼らがどのようにCIAに勝つことができたかをあなたに告げます。彼はあなたにその詳細を与えます。もしあなたがこのことを信じるのが難しいと思うならば、この本を読むようにあなたに力説するでしょう。

ロシアのトロイの馬

1995年にゴリツィンは新しい本『ペレストロイカの欺瞞』を出版しました。その中で彼はもっと多くの予言をしています。そしてこれらの予言は同じ調子のものです。すなわち、欺瞞は共産主義の計画策定者たちの最も無謀な夢よりももっと成功してきたのです。彼は背景のあるものと彼がどのようにしてこれらのことがらを知っているかをあなたに明らかにしています。

彼が持ち出すすべての証拠と理由をもって彼が作る持って生まれた感覚から離れて、彼はこの危険に対して非常に洞察力があります。というのは、彼もまた目撃者だからです。彼は1958年そこに、KGBのための計画の最高段階に、いました。そして1988年に実行されるべきであったKGB30年計画に引き入れられていました。1950年代半ば、そしてそれ以後、中国の軍事的天才−彼はキリスト前500年に生きた人で、すべての戦争は欺瞞に基づくと言った−スン・ツーがKGBの理想となったと彼はわれわれに告げています。

われわれが西欧文化において戦争に勝った欺瞞について知っている最も有名な事例の一つはトロイ戦争です。そこでは10年の戦争の後に、攻撃軍が断念したと見せかけて舟を出して引き上げましたが、彼らは一つの贈り物−トロイの馬−を背後に残して行きました。

包囲されていた都市は攻撃にさらされて非常に疲れ、彼らの敵が撤退したと信じました。彼らはトロイの馬を都市の中に引き入れました。そしてその夜、木馬の中にいた戦士たちが出て来て都市の門を開き、隠れていた軍隊がトロイの人々を皆殺しにするために来させました。これはわれわれが今日そうだと公言されていることについてのうまい情景です。

神は栄誉を捧げられなければならない

今私はまた宗教的な観点からあなたがこのことが真であることをどのようにして知ることができるかを説明しましょう。

私は前に神は栄誉を捧げられなければならないと言いました。われわれは告解に行くとき、それは大変な仕事であると考えます。というのは、われわれはわれわれ自身に対するこの戦いで疲れているからです。われわれはわれわれが為すすべてに対してわれわれは称賛に値すると考えます。神学的にはそれは異端的です。しかし、われわれはわれわれが皆それをしているという感情を持っています。

われわれが回心し、よい告解をすることができる理由は恵みのためです。痛悔するためにはわれわれは恵みを必要とします。ところでこの恵みはわれわれのために十字架上でのわれらの主によって、そしてわれわれの祈りによって、あるいはわれわれのための他の人々の祈りによって得られます。

それが聖母が多くの霊魂が地獄に行くのは彼らが自分たちのために祈ってくれる人を誰も持たないからですとおっしゃる理由です。もしわれわれがわれわれ自身のために祈らないならば、あるいは誰かある人がわれわれのために祈ってくれないならば、われわれは回心し、たった一つの大罪を告白するためにわれわれが必要としている恵みを得ることはないでしょう。そして罪は、もしわれわれがそれから逃れないならば、われわれの霊魂の中にいごこちよく据えられ、あるいは安住させられる方法を持ちます。長年にわたって罪のうちに住む人はそこから抜け出すことがより困難であることを見出します。

神の憐れみはどんな罪あるいは罪人よりも大きいものです。しかし、われわれはそこには一つのプロセスがあるということに注意すべきです。そしてそのプロセスの第一歩は神の恵みです。告解においてもまた、赦免はいとも聖なる三位一体のみ名において与えられます。そして司祭はキリストの御血の功績をあなたの上に呼び下します。

告解において赦免を与える際に司祭が言うすべての言葉に注意を払いなさい。そうすればあなたは神がこのことをあなたの霊魂に対してなさることのゆえに栄光と称賛をお受けになるということを見るでしょう。

神によって以外にはロシアの根本的な回心はあり得ない

それゆえ、もしある人々がある反宗教的な宗教、その目的が神と戦うことである悪魔的宗教を建てたならば、そのとき彼らは神の恵みなしに、そして神が称賛を得ることなしに、それを放棄することはできないでしょう。もしそれが真正の宗教的回心でないならば、それは全然回心ではありません。

そしてそれゆえ、戦闘的無神論者、自らをあるときには「共産主義者」、また他のときには「社会民主主義者」と呼ぶ者、自らを「マルクス主義者」、「レーニン主義者」と呼ぶ者、彼らは多くの、多くの名前、顔、そして異なったタイトルを持っています。彼らは下部では実質的に同じです。そして彼らは神の恵みなしに、そして神が称賛を得ることなしには、回心することはできません。

ハーミッシュ・フレーザーが指摘していますように、戦闘的無神論者にとって、世俗的ヒューマニストにとって、共産主義者にとって、彼らが自らを説得してその中にはまりこんだ知的な行き詰まりから抜け出させる道を見つけることは恵みなしには不可能です。

それはまた罪が彼らの心の中にいごこちよく居座っているから不可能です。そしてそれは神の恵みと助けなしにはなされることはできません。あなたにとって、くつひもによってあなた自身を引っ張り上げ、そしてその上に立つある種のプラットホームなしにすべてあなた自身によって中空に立つことは不可能です。神の恵みはわれわれ自身を立たせるわれわれのプラットホームです。それなしにはわれわれは成功することができません。われわれは絶対的に贖い主を必要としています。それはそのように単純にそうです。それが神がわれわれの贖い主としてイエズスを送られた理由です。彼は単にわれわれの贖い主であるだけでなく、贖われるすべての者の贖い主です。人類はキリストの恵みと功績を通じてのみ贖われます。

諸々の事実と葬られたファチマの預言

われわれはキリストの恵みなしに、そして神がそのために称賛を得ることなしには共産主義の悪魔的宗教からのロシアの回心を持つことはできません。私は神にこの称賛が与えられるのをまだ見たことがありません。そして私はあの国が神に立ち帰ったのをまだ見たことがありません。

われわれはロシアの回心を見ないで、むしろロシアのさらなる堕落を見ています。今日彼らはハリウッドをさえ恥じ入らせる、もっとより西欧型のセックス・ショップ、ポルノグラフィ、映画を持っています。それは1989年以来起こってきたことです。それは聖母が約束なさっているロシアの回心ではありません。そう示唆することは冒涜です。今私はそれが冒涜よりもむしろ無知であると考える方を取りたいと思います。しかしもし彼らが何を言っているかを知っているならば、そのとき彼らは冒涜しているのである。

われわれはファチマの聖母が話された意味では、ロシアの回心を持っていません。そしてわれわれは1989年以前からの軍事的、あるいは政治的、あるいは心理学的、あるいは情報秘匿の危険の減少を持っていません。

やり方と戦術は変わりました。方法は変化しました。実体は同じです。そしてこのことはゴルバチョフが自ら言っていることと結びついています。このことはレーニンが過去にしたことと結びついています。そしてゴルバチョフは自分は同じテクニックに従っていると言っています。もしあなたがそのレベルで読み、情報を得たいと望むならば、それをあなたに証明する多くの文献があります。もしあなたが宗教的なレベルから知る必要があるならば、それもまた非常に明らかです。

われわれがごく近い将来この国で奴隷にされるであろうというのが私の意見です。われわれが奴隷にされるか、それとも絶滅させられるかのいずれかであるということが、聖母御自身のメッセージです。私は1957年12月26日にフエンテス神父に話しているシスター・ルシアの言葉をあなたに示しましょう。

「神父様、彼らに告げて下さい。祝せられたおとめマリアは何度も私と私の従兄弟、ジャシンタとフランシスコに、ロシアは、もしわたしたちがこの可哀想な民の回心を予め得ていないならば、全世界を罰するために神によって選ばれた懲罰の道具であるでしょう、と語られました。」

それは戦争、税金、政治あるいは外交を要しない

われわれが奴隷化され得ない唯一の道があります。それはより以上の軍事支出ではありません。それはより多くの政治ではありません。それは人々が彼らの希望と信頼とお金をその中に置く多くのことがらではありません。それはただファチマの聖母のうちにだけあります。

「神父様、彼らに告げて下さい。祝せられたおとめマリアは何度も私と私の従兄弟、ジャシンタとフランシスコに、ロシアは、もしわたしたちがこの可哀想な民の回心を予め得ていないならば」−ただ一つのもし....でないならばしかありません−「全世界を罰するために神によって選ばれた懲罰の道具であるでしょう、と語られました。」

あの可哀想な民の回心を得るただ一つの道があります。

神はそれを約束なさる

再びファチマの聖母を引用しましょう。彼女はこう言われます。「神が教皇に世界の全司教と共に、<この手段によって>ロシアを救うことを約束されながら」−promitendo−「私の汚れなき御心にロシアの奉献をするように求められる時が来ました。」

用いられている句は、<この手段によって>です。それはジョン・ハッファートが『ソウル・マガジン』において10年前に公刊したものとは違っています。彼はあたかも教皇と司教たちによるロシアの奉献がロシアの回心の単なる一つのしるしであるかのように、書いていました。そうではありません。それは誤りです。それが悪意に満ちたものであれ、あるいは無知によるものであれ、それは決定的に誤りです。

誰かが数千人の人々を重大に誤り導いたとあなたたちに告げる私は誰でしょうか? 私は誰かを裁くためにここにいるのではありません。記録はそこにあります。聖母の言葉は公刊されています。あなたたちは1976年に公刊されたシスター・ルシアの『記録集』Documentosを見つけることができます。この書物の大部分は彼女の自筆によって構成され、次ぎにタイプされた原稿が付されています。誰もこのテキストの信憑性に疑問を呈したことはありません。

聖母は<この手段によって>約束なさいます。もっと正確に言えば、神が約束なさいます−聖母は明白に神のみ名によって話しておられます−。しかしそれは<この手段によって>約束なさる神です。それ以外には別のものは存在しません。私がそこに存在することを愛するであろうと同じように、そこには他のものは存在しません。

必要な「道具」

われわれが人々の頭を通じてその単純な事実を得ることができればよいのですが。ちょうどあなたが何かある書く道具なしにはこのページの上に言葉を書くことができないように、すべて物体的な道具である秘蹟なしにはあなたは救われることはできません。

告解でさえ−それは言葉ですが−物体的道具です。あなたは言葉なしには、人間の身体のある物体的道具性によって媒介される一つのしるしが存在することなしには、告解することができません。すべての秘蹟は道具です。それは聖トマスの教えです。そしてあなたはロシアの奉献のこの秘蹟的なものは、神が教皇と司教たちの手に委ねられた一つの道具であるということを見出すでしょう。それなしにはわれわれは奴隷化を回避しないでしょう。他の道はないのです。

ところで、あなたはそれは極端に単純化されていると言うことができます。ある人々は迷信ということで私を非難しさえしました。そうではありません。そう言うことは冒涜です。これは迷信であると言うことはファチマの聖母が迷信を助長していると言うことと同じです。ファチマのメッセージは信ずるに値します。迷信を広めるとしてそれを非難することは迷信を広めるとして教皇教導権を非難することです。ことがらの単純な事実は彼らがファチマの聖母を信じたくないということです。

これは一つの全体的な別の話です。われわれはこう言うことができます。「よろしい、それでは、ファチマの聖母は御出現にならなかった。彼女はこれらのことがらを言われなかった。神は7万人の前で奇蹟を働かれなかった。起こったすべての預言は本当は何も意味していない。」私があなたたちに告げていること、他のいかなる道も存在しないということを信じることよりもそれがそうであろうと信じることはもっと愚かです。他のいかなる道も絶対にそして単純に存在しないのです。

聖書に記述されている今日のわれわれの状況

われわれが今日どこにいるかの情景を欲するならば、あなたはそれを聖書の中に見出すことができます。それは紅海のほとりに立っている旧約聖書における神の民のようなものです。聖書の中の節を思い起こすならば、民がエジプト軍に取り囲まれたのは出エジプトにおいてです。

彼らの剣は引き抜かれていました。彼らはイスラエル人の首をはねる、あるいは彼らの間を駆け抜ける用意を整えていました。そしてエジプト人は全速力で彼らを圧倒しようとしていました。そして人々はどこにも逃げ場がありませんでした。

彼らは、ちょうどわれわれがそうであるように、武装していませんでした。そして行くところはどこにもありませんでした。彼らの前には海があり、彼らの後ろには軍隊がいます。神はモーセに命令を与えられました。神は民全体に告げられたのではありませんでした。神はモーセだけに海の上に彼の腕を伸ばすように告げられました。

さて、神はエジプト人たちの目に砂を投げ入れることもお出来になったでしょう。神は多くのことをなすことがお出来になったでしょう。しかし、神はまずモーセから信仰と従順の行為を要求なさいました。神はまたすべての民の側にも信仰の行為を要求なさいました。モーセはその腕を海の上に伸ばしました。そして海は開けました。彼らは歩いて通り抜けました。ところで、一方の側に水の壁があり、他方の側にも水の壁があります。しかし、彼らは他の岸へ行くことができるように神がそこで水を持ち上げてくださると信じて、歩いて通り抜けました。彼らはマリアの名によって一人のおとめによって導かれました。それは今日われわれがどこにいるかについての描写です。相違はある人々がわれわれを圧倒する軍隊をまだ見ないということです。不幸なことに、私はあなたたちのすべてが、もしそれ以前でないとすれば、二三年先にそれを見るのではないかと恐れています。われわれは取り囲まれているのです。

われわれの敵は彼らの武器そして彼らの意図を隠してきました。しかし、われわれの前にまさに現れようとしています。

2500年前紅海のほとりに立っている神の民にとってたった一つの解決があったように、一つの解決があるでしょう。

神はその選ばれた代理者−教皇−に、神に対する信仰、希望、従順において、ロシアの上にその手を伸ばすように求めておられます。そして神はロシアを回心させられるでしょう。

われわれは教皇のために祈らなければなりません。

イエズスがシスター・ルシアに言われたように、「教皇のためにたくさん祈りなさい。彼はそれをなすであろう。しかしそれは遅いであろう。」

(次号に続く)

1998/03/06 三上 茂訳

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作成日:1998/03/06

最終更新日:1998/07/25

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