ファチマの聖母マリア

世界の奴隷化か、それとも平和か...
それは教皇にかかっている

第 XVI 部

補 遺

ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち

1988年にあるバチカンを根拠地とする大司教によって提出された関心事に対する回答

Q : あなたは、教皇およびすべてのカトリック司教たちによるロシアの奉献を促進することにおいて熱心が過ぎるのではありませんか?

A : 私は自分の熱意においてぜんぜん過度ではありません。まったくそうではありません!何かにおける過度はある事柄が均衡のうちにあるかどうかを見るためにその事柄の背景によって判断されなければなりません。明らかに、諸民族のまさに生存そのものがどうなるかわからないとき、世界中の40億の人々の個人的な自由や財産権がまさに取り返しがつかないほどに失われようとしているとき、そしてこの大災難が避けられる唯一の道は合法的な手段によってマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献を教皇と司教たちにさせることであるときには、この手段が用いられるよう求めることは過度に熱心なことではありません。

彼女の家族がまさにその瞬間にまだ住んでいる家を破壊しつつある火を消し止める義務を果たすように消防士に、大声でさえ、願う母親を誰も責めたりしないでしょう。それは過度の熱心さでもないでしょう。また正しく考える人は誰も母親が皆に聞こえるように大声でうるさく消防士たちに頼み、それを大声でしさえしても彼女を責めないでしょう。なぜなら、もし彼らが直ぐに行動しないならば、彼女の子供たちは皆恐るべき死のうちに滅ぶでしょうから。これは、もし教皇と司教たちが今世界を呑み込もうとしている、そして残りのわれわれをまさに食い尽くそうとしているロシア共産主義の火事から救い出さないならば、教会の数千万の子どもたちに起ころうとしていることです。

Q : あなたはファチマのこのメッセージに関して根拠のない主張をしているのですか?

A : ファチマの諸々の事実は私自身およびファチマ・クルーセイダーとは独立に、証拠書類でよく立証され、検証可能です。ファチマに関しては300冊以上の書物があります。それらは多くの言語で多くの国々において出版されています。そしてファチマについてのどの学者や研究者も、われわれがファチマに関する真理を告げているということで完全に満足することができます。もし誰か真面目な研究者がわれわれ自身と独立に見つけることができないある特定の主張についてわれわれに質問することを望むならば、われわれは彼に彼自身で検証できるようにわれわれの参考事項を提供します。これまで、われわれが言っていることがなぜ正しいかを示されることなしにわれわれが公表した何かある事柄の真実に誠実に、真面目に挑戦した人は誰もいません。

Q : あなたは何れにせよ教会における高い地位にある権威者の非難を恐れていますか?

A : 数年前、ある教皇使節が私を沈黙させようと試みました。私は教皇ヨハネ・パウロ二世に手紙を書き、匿名の人物(たち)がある知られていない、そして名前が明かされない、特定できない、申し立てられた非行という理由で私を沈黙させようと試みているということを彼に告げました。私は教皇に、もしわれわれが何か悪いものを印刷したのであれば、それを公に撤回するでしょう、しかしもし何も悪いことをしなかったのであれば、そのとき、教会当局者たちが私に何の理由もなしに拘束を課すことは悪いことであると告げました。いかなる理由もあるいは明確な申し立てもこれまでに提出されませんでした。勢力を持った大司教が個人的に私を止めようとして介入したのは7年以上も前のことでした。ファチマの聖母のお助けによってわれわれは今日まで続けることができました。そしてわれわれは聖母のお助けでもって出来る限り長く続けることを計画しています。これまでどの教会当局者もわれわれが公表したものに何か悪いことを論証しませんでした。

ときたま、どういうわけかわれわれが公表したものが正しくないと遠回しに言おうとされた司教がいましたが、しかしこれまでのところ真理、諸々の事実そして理由はわれわれの側にあります。われわれが、「上智の座」、「善き勧めを賜う御母」であられる天の元后の側にいる限り、われわれは恐れるべきものを何も持っていません。

Q : 「ある過度の熱意と根拠のない諸々の主張」が「最高の教会当局者たちからの非難をあなたの使徒職の上に」もたらすであろうという脅しについてはどうですか?

A : われわれは、すでに指摘したように、どんな根拠のない主張もしたことがありませんし、またその脅しの作者もわれわれがしたどんな根拠のない主張も指摘していません。第二に、われわれはすでにわれわれの熱意が過度のものではないということを指摘しました。

第三に、もし何らかの権威がわれわれを非難しようとしているならば、最初にわれわれが破ったと主張されている公布された法律がそこになければなりません。そしてその権威はわれわれに、いかなる法律をわれわれが破ったと考えられているのかを告げなければなりません。彼はわれわれに、その告発に対してわれわれ自身を擁護する機会を与えなければなりません。問題になっている権威はわれわれを非難することに対して喜んで責任を負わなければなりません。

これまでのところ、そのような責任を取る権威を持っている者は誰も見られませんし、またいかなる法律も破られていません。また私も教会法に反するあるはっきりとした罪で訴えられたこともありません。もしわれわれが何か真実でないことを公表したのならば、われわれそれを撤回するでしょう。しかしこれまでのところ、教会の権威はわれわれの側での何らかのはっきりした悪事でわれわれを告訴しませんでした。

Q : あなたは、何が匿名の教会高官たちがあなたの使徒職を非難するであろうというこれらの脅しをもたらしていると思いますか?

A : われわれは長い間、バチカン・モスクワ協定についてのわれわれの出版物がある司教たちを困惑させてきたということを知っています。ブルザナ司教はバチカン・モスクワ協定が教会を裏切ってきたとわれわれが述べることを好みませんでした。

私は、ファチマ・クルーセイダーの第 18 号において公表された公開書簡(この書物の p. 306 を見てください)の中で、バチカン・モスクワ協定は教会の裏切りであり、そして個人的なカトリック者の裏切りであるとということを彼に論証しました。彼は、真理に対して彼の心を閉ざし、そして私とファチマ・クルーセイダーに反対する諸々の虚偽を巧みに植え付けるために司教としての彼の立場を用いる以外には、われわれの諸々の事実と論法に対する何の答も持っていないのです。われわれのすべての仕事が無益なものとされ、そしてそのことによって共産主義者たちに北アメリカ全体と世界を奴隷化することを可能にするように、われわれの信用を傷つけることは明らかに悪魔の、そして聖母の他の敵どもの作戦計画です。バチカン・モスクワ協定がそのその地位にとどまっている限り、そのとき教皇と司教たちはロシアを奉献しなさいという聖母の命令に従わないでしょう。

それゆえ、われわれがバチカン・モスクワ協定の存在を主張することに立ち帰るのは悪意あるいは何らかの復讐の動機からではないのです -- それは、生命が、そして非常に多くの霊魂たちの永遠の救いさえが危ないからなのです。

ロシアの諸々の誤謬がわれわれの間に広められることに対してわれわれの持っている唯一の武具は真理の武具と剣です -- われわれがロシアの諸々の誤謬を公然と非難することを拒否する限り、共産主義者たちはわれわれを奴隷化することができるでしょう。すでに彼らは今や、成功から一歩のところにいるほどに近づいています。

Q : あなたは、自分たちの司牧者たちに、ロシアを奉献するように頼むために呼びかけ、手紙を出し、彼らを訪問すように人々を励ますときに、司教たちや枢機卿たちの仕事を混乱させていませんか?

A : われわれは繰り返し、教皇、枢機卿たち、司教たちが荘厳、公的な行為においてマリアの汚れなき御心にロシアを奉献するようにというファチマの聖母の要求に従うことが彼らの義務であるということを論証してきました。

われわれはこれが彼らの義務であるということを主張するための聖書的、神学的な理由を説明してきました。引用されたわれわれの諸々の典拠と権威はわれわれの出版物の中に、そして聖職者と数人の公会議教父たちの前で、1985年11月にバチカン・シティで開催されたわれわれのシンポジウムで言及されました -- われわれの論法あるいはわれわれの典拠には何の欠陥も見出されませんでした。

それゆえ誰かがわれわれに反対のことを示すことができるまでは、われわれが公表してきたすべてのことに従ってファチマの聖母に従うことは教皇と司教たちの義務であると見なすことが安全です。この書物はこの義務のいくつかの証拠を与えています(第 V 部p. 83 を見てください)。

それが彼らの義務であるということが確立されたならば、信徒が彼らの司牧者たちに、自分たちの救いのために必要なものであると考えることを告げる権利をそして時には義務すらを持っているということは第二バチカン公会議の教えです。(第二バチカン公会議文書、教会憲章 37 節を見なさい。また新教会法典、Can. 212 Section 2 and 3 をも見なさい)。

ロシアがすぐに奉献されないならば、全世界が共産主義ロシアによって奴隷化され、そして多くのカトリック教徒が殉教し、他の人々は背教することによって彼らの霊魂を失うということはファチマ・メッセージおよびファチマのシスター・ルチアから十分に明らかです。

確かにわれわれはこれらの問題に彼らの注意を促すことによって司教の仕事を混乱させているのではありません。なぜなら、遅すぎるようになる前にファチマの聖母の要求に耳を傾け、それに答えて行動することは彼らの仕事だからです。

Q : あなたは何らかの承認されていない、そうだと主張されている諸々の御出現に関係していますか?

A : いいえ。われわれはここでただファチマだけを促進しています。われわれはいかなる承認されていない御出現をも促進していません。われわれは、例えば、メジュゴリエ、サン・ダミアノ、ベイサイドを促進していません。

Q : 教皇と司教たちによるロシアの奉献を促進することで他の人々と協力していますか?

A : もちろん、われわれはすべてのカトリック教徒および善意の人々と交流関係にあります。もし、われわれの使徒職に属さない、善意の他の人(あるいは人々)がこの最も重要な目的、すなわち、ロシアの奉献を達成するようわれわれを助けようと努められるならば、その個人(集団)が共通善を達成するよう助けることができることをわれわれはするということは理に適ったことです。このことはわれわれが他のあらゆることにおいて彼らに同意するということを意味しません。またそれは他の人々が、私が上に述べたように、われわれの使徒職は承認されていないいかなる御出現をも促進しないがゆえに、あれこれの場所の承認されていない御出現のような他の目標を促進する集団に属するものとしてわれわれを正しく考えることができるということを意味しません。

Q : あなたは教会と教導権についての誤った考え方、すなわち、教皇はある民主的な議会の一人の選出されたメンバーのようなものであり、彼の決定を彼が受け取る手紙の数に従って行うという考え、を促進しているのではありませんか?

A : 絶対にそうではありません。私の考えからこれほど遠いものは何もないでしょう。私自身がファチマ・クルーセイダーの第 23 号でそしてまたこの書物において詳しく説明したということをあなたに思い起こさせてください。p. 31 以下を見てください。ここで答を短くするために、すべてのカトリック教徒は教会司法権に属する事柄において教皇に訴える権利 -- いいですか、権利です -- を持っているということはカトリック信仰の一つのドグマ[訳者注:聖座から不可謬的に決定された信仰箇条]であると言うだけで十分です。それゆえ、私は、ロシアの奉献のために教皇に請願しないようにカトリック教徒に不法に命令した一司教に反対して信仰のこのドグマを主張したのです。

明らかに、もしカトリック教徒が教会司法権に属する事柄における一つの裁定のために教皇に訴える、神によって与えられた権利を持っているならば、司教、あるいは枢機卿でさえ、あるいはその問題では教皇でさえ、その権利を妨げることは悪いことなのです。このドグマは二度、一度は1274年にリヨン第二公会議で、そして一度は1870年に第一バチカン公会議で決定されました。参考のためにこの書物の p. 457 を見て下さい。

第二バチカン公会議は、時にはわれわれは司牧者たちにわれわれの霊的必要を知らせる義務さえ持っているということをわれわれに告げています。明らかに、もし多くのカトリック教徒が教会司法権に属するある事柄について同じ仕方で感じるならば、彼らは教皇に対する請願を組織するために協力一致することができます。

Q : そのような請願は悪いですか?

A : ぜんぜん悪くありません。そうでないならば、なぜ教皇ピオ十二世は被昇天の教義を宣言されたとき、そのような請願に好意的に言及されたのでしょう。請願はまた諸聖人の列福や列聖のためにも集められます。

Q : しかし、これらの問題を決定することは教皇にかかっているのではありませんか?

A : そうです。そのことはまったく正しいのです。教皇は預言的啓示の問題に関して決定されます。もし私の記憶がただしければ、第五ラテラン公会議は預言的啓示の問題においては、教皇が唯一の審判者であると裁定しました。

Q : それでは、これらの問題に関してあなた、あるいは他の誰かが教皇に請願することはおこがましいことではないですか?

A : ぜんぜんそんなことはありません。われわれが教皇のところへ裁定を求めて行くのはまさに教皇が有能な判定者であるからです。それはちょうど、被昇天の教義の宣言を求めた信徒が教皇から一つの裁定を求めるために彼らの請願によって教皇のところへ行ったのと同じです。

Q : 教皇の行動によって、すなわち、奉献の荘厳、公的な行為に向かってそれ以上何もしないということによって、教皇はすでに、あなたやファチマのシスター・ルチアがなされなければならないと指定している明白な仕方でロシアを奉献する必要はないということを決定されたということが明らかなのではないですか?

A : まず第一に、いくつかの点を説明させてください。教皇は罪を犯すことができない方ではありません。すなわち、罪が不可能であるのではありません。ですから、われわれは彼の行動だけから、彼は必要であるすべてのことをしたと結論することはできません。その点をはっきりさせることは不忠実なことではありません。なぜなら、聖人たち自身、諸教皇が時折何かあることをすることを抜かすことによって処置を誤る罪を犯したと指摘したからです。このことの最も有名な例は聖書の中に見出されます。そこでは、イエズス・キリストの復活以来、割礼の律法はもはや義務的ではないというカトリック信仰の決定された教義を聖ペトロが主張しなかったその沈黙のために聖パウロは彼を非難しました。それゆえ、教皇の行為しないことは教皇の決定がなされたということを意味しません。

Q : しかし私は、教皇ヨハネ・パウロ二世がガニョン枢機卿に、奉献はなされたと語られたということを聞きました。教皇が決定されたということ、そしてあなたがさらに教皇に請願することは悪いことをしているということはまったく明らかではないですか?

A : 私は多くの事柄を聞いています。私はそのような意見を聞きました。私はまた教皇の言葉の相応しい証人たちによってそれらが矛盾しているということも聞きました。しかしもっと正確であるように努めましょう。なぜなら、そのような重要な問題においては、われわれは、奉献の行為における遅れによって危険に曝されている数百万の永遠の救いは言うに及ばず、数百万という(おそらく数十億の人々さえ)非常に多くの人々の生命が危険に曝されているときには特に、一つの誤りもすることができないからです。

第一に、教皇にとってガニョン枢機卿への彼の答を言葉で表現し、そして彼が世界を奉献したがゆえに1984年3月25日に彼はロシアを奉献したと言うことは不正確ではないですか? ロシアは世界の一部であるから、彼がロシアを奉献したと言うことは正しい、と。しかし教皇のこれらの言葉から、教皇が、彼はファチマの聖母の要求に従ってロシアを奉献したと決定的に主張したという結論を引き出すことは完全に誤りです。

私の知るところでは、教皇ヨハネ・パウロ二世は決してそう主張されたことはありません。ガニョン枢機卿になされたと主張されているような陳述が私の耳に届いたとき、私は直ちに私の資料提供者に、問題は人々が教皇に適切に求めなかったことだと告げました。人は彼にファチマの聖母の要求に従ってすべての司教たちと一緒にロシアを奉献することを求めなければならないのです。

教皇が、ファチマの聖母の要求を明確に述べながら、このことをするように求められたとき、彼は自分がそれをしたとは決して主張されませんでした。なぜなら、彼は自分がそれをしなかったということを知っておられるからです。実際、1984年3月25日に25万人の人々の前でマリアの汚れなき御心に世界を奉献された後、教皇ヨハネ・パウロ二世はファチマの聖母が今なおある人々の奉献を待っておられるということを認められました。私はこの点をさらにこの書物において説明しています。その同じ日の午後、1万人の巡礼者たちの列席する中、彼は再びファチマの聖母像の前で、聖母がある人々の奉献を今なお待っておられるということを認められました。( p. 182 以下を見て下さい。)

もっと最近、1988年4月に教皇ヨハネ・パウロ二世は、ある公的謁見においてすべてのカトリック司教たちと合同し、ファチマの聖母の要求に従ってマリアの汚れなき御心にロシアを奉献するよう彼に求める横断幕を祝福されました。彼はまたそれ[ロシアの奉献]がまだなされていないことを彼が知っているということを認められました。

このことは、教皇がファチマの聖母の要求はまだ従われていないということを意識し、知っておられるということを十分明らかにするでしょう。

Q : しかし、もし私が信用している誰かに教皇がその奉献はなされたと告げられたと私が強く主張するならば、あなたは何と言われますか? われわれ両方共が正しいことはあり得ないですね。

A : 教皇は、私が上に述べたあの陳述を1984年3月25日にされました。それらの陳述は午前に25万人の人々の前で、そして午後は1万人の人々の前での公的な陳述でした。それらの陳述は、午前の陳述については L'Osservatore Romano において、午後の陳述については Avvenire において報道されました。私は事務所に両カトリック新聞のコピーを持っています。

Q : 教皇はこの点に関するファチマのメッセージの明らかなそして文字通りの意味に反して教会に公式の裁定を与えたことは決してありません。シスター・ルチアは、話すことを許されるとき、ファチマの聖母の要求に従ったロシアの奉献はなされなかったということを常に口頭でもまた書面でも明白に述べました。それゆえ、たとえ教皇が心を変えたとしても、たとえ教皇が私的に(あるいはそのことに関する限りで公的にであってさえ)私的な博士としての彼の能力において述べ、ロシアの奉献はファチマの聖母の要求に従ってすでになされたという彼の意見を提供したとしても -- このことはそれ自体で教皇の判断を構成することはないでしょう。それは教会の司法権に属する問題ですから、われわれはこのことに関して公式的な教皇の裁定を求める権利を持っているのです。

このすべてのことは、もしそれが必要とされるならば、何が教皇の裁定を構成するかに関する問題を明確にするために述べられています。しかし、今事柄がそうであるように、教皇は奉献がなされなかったということを知っておられます。教皇はそれをしないままにし続けておられます。このことは教皇に対する何らかの道徳的判断を意味しません。それは単純に事実の陳述です。カトリック出版物の発行者としてこの最も緊急の、そして最も重要な事柄に関する諸事実を公表する義務をわれわれは負っています。

Q : 教皇がなすべきことをあなたが知っていると強調することはあなたの傲慢ではありませんか?

A : 真理を認めることは高慢あるいは傲慢の行為ではありません。この問題は公的な領域にあるのであって、諸事実がそれら自身のために語るのです。

Q : それでは、あなたは、教皇がなすべきことを知っていて、しかもそれをまだなしていないがゆえに、彼は無責任であるということを示唆しているのではありませんか?

A : 全然そうではありません。ファチマの聖母の要求に従うロシアの奉献の恵みは全教会のための恵みです。教皇は神の恵みの助けなしにはこの行為をすることはできません。私は、恵みに対する教皇の応答を判断したり、あるいは彼の義務を彼が果たすことを判断するべきではありません -- ただ神だけが彼の判事です。私は彼に対して判断を下すいかなる裁判権も持っていません。

しかし、ただ私が教皇の裁判官ではないという理由は、他の誰かに、諸事実を公表することに対して私を裁く権利を与えるものではありません。私の義務は教会がこの最も重要な点を理解できるように、ファチマのメッセージ、適切な諸事実そして神学を公表することです。ひとたびすべての事実が知られ理解されるならば、教皇はイエズスとマリアによって与えられた命令に従うべきなのです。もしファチマ・メッセージに他の意味があるならば、そのとき、教皇はそれによって彼が預言的メッセージを解釈する彼の使徒的権威を公式に嘆願する教皇の行為によって、このファチマ・メッセージが意味することあるいは意味しないことを解釈し、明白に、責任をもって、そして権威をもって決定すべきです。しかし、教皇の側でのただ何もしないことは、それ自体教皇が完全に責任をもって行動しているということを意味しません。ただ神だけがそのことを確実に知っておられます。そして教皇は、われわれと同じように、彼の行為と不作為の理由を神に答えなければならないでしょう。

Q : しかし、あなたは、教皇がファチマの聖母のメッセージに従わなければならないと言っておられるのですか?

A : 最も明確に、その通りです。教皇ヨハネ・パウロ二世御自身、1982年5月13日ファチマで、ファチマのメッセージは教会に一つの義務を課しているとはっきり述べられました。私はこのことについてファチマ・クルーセイダーのさまざまの号において詳しく書きました。

Q : しかしファチマは私的啓示であり、そしてそれゆえに教皇に義務を課すものではないのではありませんか。

A : いいえ。それは私的な啓示ではありません。それは預言的啓示であり、それは私的啓示ではなくて、最も決定的に公的な啓示です。ファチマでの太陽の大奇跡には7万人の目撃者がいました。それは私的なものではなくて、全教会が知るべき重要性を持っていました。ヨハネ・パウロ二世はファチマのメッセージはすべての人類に宛てられていると言っておられます。

私はこの書物の中で詳しく、教皇と司教たちが指定されたやり方で汚れなき御心にロシアを奉献するよう天の元后によって彼らに与えられた命令に従わなければならないものとして彼らに対して最も決定的に義務的なものであるということを説明しています。

私はまた、われわれもまたわれわれ自身に属するそれらの要求においてファチマの聖母に従う義務を負っているということを説明しています。

Q : 教皇はシスター・ルチアと話されましたか?

A : はい。

Q : そのことはシスター・ルチアが、教皇がなさることに同意しているということを意味しますか?

A : 彼女はおこがましくも教皇を判断しないでしょう。彼女の使命は教皇と教会にファチマの聖母のメッセージを中継して伝えることです。この使命において、彼女は45年以上も、これまでのところこの問題における諸教皇および司教たちの行動はファチマの聖母の要求にまだ応じていないということを述べなければなりませんでした。

Q : 私は、ファチマ・クルーセイダーが、教皇が霊的にそして肉体的に弱いということを公表したということを聞きました。あなたはこのことを公表することによって教皇を明らかに侮辱していませんか?

A : 私の思い出せる限りでは、ファチマ・クルーセイダーはそのような悪事を犯したことは決してありません。ファチマ・クルーセイダーは、われわれの敵どもの一つがそうしているとわれわれを誤って告発したようには、教皇を非難したことは決してありません。われわれは教皇が霊的に弱いと述べたことは一度もありません。われわれは教皇の身体的な強さ(私はどうしてもそれがどのように侮辱と考えられるのか分かりませんけれども)について論評したことは決してありません。

簡単に言って、われわれは決して教皇を侮辱したことはありません。私は、われわれの敵どものあからさまな嘘に対して答えないことによって、われわれがある人々に、われわれの沈黙によってわれわれを誤り伝えることを許したのだということを見ることができます。愛と正義はわれわれがはっきりものを言うことを要求しています。

Q : あなたは教皇がわれわれの祈りを必要としておられると主張したことがありますか。

A : はい、確かにそう主張しました。

Q : あなたは、そのことによって教皇の側での霊的な弱さを意味していませんか?

A : われわれは皆、教皇も含めて、原罪をもって生まれて来ました。洗礼の後でさえ、そして熱烈な霊的生活の後でさえ、われわれは皆原罪から残された弱さをなお持っています。それゆえ、トレント公会議はわれわれは皆(あなたと同様、教皇と同様、私も)いかなる時にもすべての十戒を常に守るためには神の恵みの助けを必要とする、と荘厳に決定したのです。恵みなしには、教皇は彼の義務を達成できないでしょう。それはカトリック教会の決定された教義です。私は教皇のために祈りを求めることがどの点で悪いことになるのか分かりません。そのこともまたファチマのメッセージの一部です -- 祈ること、教皇のためにたくさん祈りなさい --。聖母は教皇が多く苦しまなければならないでしょうと言われました。われわれがわれわれの祈りによって彼を助けることはまったく理に適ったことです。

Q : ある司教があなたと関係しているある人々はある仕方あるいは他の仕方で教皇が弱いと主張していると言っているということが報道されたのですか?

A : 私はすべてを知っているのではありません。私は人々が私の集まりの外部で何をしているか知りません。たとえもしそうであったとしても、それは私の責任でしょうか? われわれ[の出版物]は100万人の人々によって読まれ、ラジオでは数千万の人々によって聴かれています。確かに私は人々が民衆のレベルで何をし、何を言っているかに対して責任があると主張されることはできません。

そしてたとえそうであったとしても、教皇が霊的に弱いと言っている平信徒あるいは司祭について何が本質的に悪いことなのですか? 実際、もしそれが偽りであったならば、そう言うことは悪いことでしょう。しかし、もしそれが真であったならば、しかるべき理由を持っていればそう述べることは悪いことではないでしょう。ある司教が私と関係していると主張しているある個人について情報を集めているという事実、そして彼がわれわれに反対して見つけることができるすべてはこの個人が教皇は弱いと言っているということ、その申し立ては私には問題になっている司教が、たとえ彼がそのような些細なことのために時間を持っているとしても、たいしたことを持つことはできないということを私に示しているように思われます。さらにこの司教は私を沈黙させようとする口実を探しているように思われます。われわれは、私とわれわれの仕事を批判するための口実を、品位を落として探そうとするのはなぜか、別の仕方で何かよいことをしなければなりません。

Q : あなたは、多くの枢機卿がロシアの奉献について言われたことを公表する際に教会に対する判断と忠実さにおいて欠けていますか? あなたは枢機卿たちを教皇と対立させているのではありませんか?

A : 全然そうではありません。私が上で説明したように、枢機卿たちが述べられたことを、教皇御自身が述べられました。教皇が望んでおられ、ロシアを奉献することができる前にそれを必要と感じておられる公的支持を奪い去っているのはその人々であるとあなたに告げる人々。教皇ヨハネ・パウロ二世は南アフリカのハーレイ大司教に、ロシアを奉献する彼らの乗り気を示す十分な[数の]司教たちを自分は待っている、そして自分はそうするであろう、と告げられました。教会に対してひどい仕打ちをするのは、この問題において教皇に対して枢機卿たちを反対させようとしているということでわれわれを非難している人々です。教皇は奉献をすることを望んでおられないと言う人々、あるいは奉献が実際まだなされていないときにそれはなされたと言う人々は判断において欠けており、そして/あるいは教会に対する忠実さに欠けているのです。

Q : それではあなたはロシアを奉献なさるように教皇に請願し続けるように人々を励ますのですか?

A : ええ、まったくそうです。彼らはまた彼らの司教たちにも請願すべきです。

Q : あなたはなぜ非常に多くの人々に教皇と司教たちに手紙を書くように勧めるのですか? それはあなたが、教皇は事柄を選挙された上院議員、議会議員あるいは下院議員票決の仕方に従って決定されると考えているからですか?

A : あなたの質問は、彼らがまったく日和見主義的であり彼らの良心に従ってではなく、ただどれだけ多くの人々が彼らに手紙をよこすかに従ってだけ票を投じるということを示唆するためによき政治家たちに反対する偏った意味を含んでいると私は思います。それにもかかわらず、彼らの選挙有権者たちが彼らと共にいることそして事柄を神の律法に従って行う彼らの困難な決定において彼らを支持しているということを知ることは公職にある人々にとって常に有益です。このことを知ることは教皇にとってもまた一つの助けです。教皇は司教たちによる分裂の恐れのために行動することを恐れておられるから、特にそうです(このことは必ずしも彼が弱いということを意味しません)。フレイザー氏はこのことをファチマ・クルーセイダーの第 19 号において説明しました(その論考をあなたが結論に跳ぶ前に読んでください)。この論考はこの書物の中にもあります( p. 386 を見て下さい)。教皇がファチマの聖母に従い、彼女の要求に従ってロシアを奉献するために格闘するとき、非常に多くの信徒が彼と共にいるということを知ることは彼の手を強めるでしょう。

私はファチマ・クルーセイダーにおいてロシアを奉献するために、教皇と司教たちのために祈りと請願を集めることの有益なことを詳しく説明しました。

もしそれがそれほど効果的でも重要でもなかったならば、ファチマの聖母の敵どもは今もまだわれわれに対する彼らの嘘のキャンペーンによってわれわれを止めようと努力しないでしょう。

Q : それでは、あなたは、教皇が、受け取る最大多数の手紙が彼にするように告げるものを何であれしなければならないという理論に同意することを拒否されるのですか。

A : ええ、まったく拒否します。私がそのような理論にかつて同意したことがあると示唆することはばかげたことです。私の諸論考は、ファチマ・クルーセイダーにおける他のファチマ作家たちの論考と同じように、このことを教皇の諸々の決定の最終的裁決者であるとしたことは一度もありません。教皇はキリストの教えとカトリック信仰の教義(荘厳な決定によって教えられた教義ならびに通常のそして普遍的教導権によって教えられた教義)に従って判断しなければなりません。

信仰の問題、あるいは教会の判断の問題が真理と神の意志によってよりもむしろ票決によって決定されるべきであると示唆することはわれわれの思想の完全な説明の誤りです。

われわれが世界にこのメッセージを宣言することによって粉骨砕身しているのはまさにファチマのメッセージとこのメッセージを通じて与えられた命令が教皇と教会によって承認されそして明白に神の意志であるからです。われわれは遅かれ早かれ聖母の預言的言葉が実現されるであろうことを知って慰められます。なぜなら、聖母はこう言われたからです:「しかし最後には私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献されるでしょう。ロシアは回心し、平和の一時期が世界に与えられるでしょう。」

Q : あなたは、スティックラー枢機卿、ラッツィンガー枢機卿、マイヤー枢機卿が言われたとあなたが報告されたことを撤回するように求められたことがありますか?

A : 私は、信頼すべきそして独立の証人たちがわれわれに、三人の枢機卿たちが言われたと告げたことを、われわれが枢機卿たちによる否定の明白な陳述を得ない限り、われわれがどのように撤回することができるか分かりません。これまでのところ、どの枢機卿もそのような否定をなさっていません。実際われわれは一人の枢機卿の録音テープを持っています。それゆえ、われわれは彼がわれわれ両者が真であると知っていることを否定することを望まないだろうということを知っています。実際三人の枢機卿たちはわれわれの報告にほんのわずかの不快感をも示したことは決してありません。

Q : ニューヨークの大司教、オコンナー枢機卿が出て来られて、自分はファチマの聖母の要求に従ったロシアの奉献が為される必要がまだあるとということを知っていると言われたと私は理解しています。

A : はい、そうです。ファチマ・クルーセイダーの読者の一人、グリーナン氏はわれわれに、1988の春に彼が枢機卿とした短い会話について告げました。彼は枢機卿に、ファチマの聖母によって明白に述べられたようにロシアの奉献がなされたどうかを尋ねました。オコンナー枢機卿はこう答えられました:「いいえ、まだです。」教皇に奉献をするように求めるかどうかを尋ねられたとき、オコンナー枢機卿はこう答えられました:「教皇はまもなくそうすると私は確信しています」。

Q : あなたの啓発的なお答えありがとうございました。非常に有益だと思いました。

A : ありがとうございました。多くの善き人々がわれわれを支持してくれています。どうか彼らのために祈ってください。どうかまた、われわれについて誤った情報を与えられているために今はわれわれに反対している善意の人々のためにも祈ってください。彼らが理解し、ファチマの聖母の平和計画に反対し続けることがないように祈ってください。彼らが善意をもったままで誤謬のうちにいる状態からイエズスとマリアの意志に公然とまた知りつつ反対する状態へと落ち込まないように祈ってください。もし彼らがその状態を押し通すならば、それは彼らの霊魂の破滅であり得るでしょう。

イエズスはこの奉献を遅らせる御自分の司教たちに、彼らはフランス王の運命に似た運命を蒙ることになるであろうと警告されました -- その運命とはこの革命による公的な処刑です。

第 II 部

"THE JESUITS" からの抜粋

バチカンがなおバチカン・モスクワ協定を破棄していないという新しい情報が明らかになった。

マラキ・マルタンは1987年に発行された "The Jesuits" の p. 85 で、数人の枢機卿たちと教皇ヨハネ・パウロ二世との間の1981年春の会合を報告している。この会合に出席していたのはカザロリ枢機卿、ラッツィンガー枢機卿、ピロニオ枢機卿、バッジオ枢機卿、オッディ枢機卿そしてアンジェロ・ロッシ枢機卿である。

マラキ・マルタンは枢機卿が担当している省によって話者を同定している。はっきりさせるためにわれわれは問題になっている枢機卿の姓を括弧で付け加えた。

「議論にはほとんど不一致はなかった。しかしながら、Stato (カザロリ枢機卿)は防衛した。彼の取り組みは Religiosi (ピロニオ枢機卿)の取り組みがそうであったよりはあはるかに間接的であった。Stato は彼の同僚枢機卿たちに、彼がソビエトの交渉相手、アナトーリ・アダムシンとの教皇の二度の会合 -- そのうちの最近ののは1981年のまさにこの年の始めに行われた -- において現教皇と一緒であったということを思い起こさせた。教皇はソビエト側に、教皇あるいはポーランドの位階あるいは「連帯」の指導者たちのいずれによる言葉あるいは行動も1962年のバチカン・モスクワ協定を侵害しないであろうという保証を与えた。

Sato は1962 年の春の終わりにユジェーン・ティスラン枢機卿が、ソビエト政治局第一書記ニキータ・フルシチョフを代表しているロシアの高位聖職者、ニコディム首座司教と会うために教皇ヨハネ二十三世によって派遣されたということを彼の聞き手たちに説明する必要はなかった。教皇ヨハネは翌年10月に開催が設定されていた第二バチカン公会議に出席するためにソビエト政府がロシア正教会の二人のメンバーを許すかどうかを熱心に知りたがっていた。ティスランとニコディムの間の会合は当時フランス、メッツの司教であったポール・ジョゼフ・シュミットの公邸で行われた。そこで、ニコディムはソビエトの回答を与えた。彼の政府は、教皇が二つの事柄を保証するならば、同意するであろう、と。すなわち、彼の来るべき公会議がソビエト共産主義の、あるいはマルクス主義のいかなる非難をも出さないという保証、そして聖座はそのようなすべての公式的な非難を将来にわたって控えることを規則とするという保証、である。

ニコディムは彼の保証を得た。事柄はその後ヨハネ教皇のためにイエズス会士、アウグスティン・ベア枢機卿によって最終的な協定がモスクワで締結されるまで周到に用意された。そしてあのバチカン公会議において、ならびに聖座の諸政策においてほとんどそれ以来20年にわたって、ローマで遂行された。

Stato(カザロリ枢機卿)は、自分は問うべきただ二つの問いだけを持っていると言った。バチカン公会議そしてヨハネ二十三世以来の二人の教皇はこの保証を尊重した。[現]教皇もまたその保証を尊重されるであろうか? そして彼のポーランドの位階そして連帯の指導者たちはそれを尊重するであろうか?

Stato が問わなかった問いはこれまで誰にも非常に明白であったので、彼はそれを言葉にする必要はなかった:すなわち、それは、ヨハネ二十三世はどのようにして、ソビエト・マルクス主義とその共産党の代理人たちを明白に非難せずに、ラテンアメリカにおけるマルクス主義思想家たちや共産ゲリラたちを彼ら[イエズス会士たち]が支持しているという理由で彼らイエズス会士たちを非難することができるであろうか? という問いである。換言すれば、単にメッツ協定だけでなく、アダムシンに対する彼自身の保証に違反することなしに、余り知られていない協定が一般にそう言及されているように、あの「メッツ」は彼の教皇在位期間の間、尊重されるであろうか? という問いである。

そこで、Stato のメッセージは明瞭であった。彼は他の誰とも同じように、カトリックの教えからのイエズス会士の放浪癖が、いかなる協定あるいは同意にも違反しないという条件で、たしなめられ得るであろうということを知っていた。しかし彼はイエズス会士たちを守るであろう。教皇はそれについて戦われるであろうか? それとも妥協されるであろうか?

おそらく後者の選択を望みながら、Stato は[イエズス会]総長アルッペ神父が、いかなるカトリック教徒も、ましてイエズス会士も、「階級闘争」においてどちらの側を取るかを決定するために人間社会や歴史についてのマルクス主義的分析に頼ることはできないであろうということを論証する論考を公表しただけであるということを指摘し続けた。[国務省]長官である枢機卿[カザロリ]は、アルッペが1980年12月30日から4月4日までそれを公表するのを3ヶ月以上も待ったということを指摘しなかった。あるいはそのタイミングはアルッペがまさにこの私的な会合で考察されるであろう論争に対して警告されたということを示すと思われた。

Stato (カザロリ枢機卿)のイエズス会士たちの擁護は終わった。彼が次にしようとしたことはイエズス会に関するこの戦いを直接教皇の戦略の領域へと持ち込むための彼の乗り気と彼の能力の両方を指し示すことであった。換言すれば、それは賭け金を上げるためであった。

Stato は列席するすべての者に、教皇の国務省長官としての彼の立場が彼にUSSR および東側ブロックの政府との非公式だとしても友情こもった関係を維持することを要求しているのだということを思い起こさせた。たしかに、それらの関係はせいぜい、非常に薄い関係であった。しかしそれはソビエト社会主義兄弟関係に関連して他の諸政府の立場よりもはるかによかった。それらの関係を維持するために、彼はその兄弟関係に敵対する聖座のどんな声明からも彼自身離れていなければならないであろう。Stato の警告、辞職についての彼の脅迫そして公然たる反対は明らかであった。そして、彼自身の理由のために、ヨハネ・パウロが Stato を辞職に駆り立てる、あるいは免職にすることを望まなかったのは他の人々には知られていた。

Stato は教皇と自分の兄弟枢機卿たちに、主のブドウ畑においては誰も不可欠ではない、そして最終的な決定は教皇に属するということを確信させた。しかしながら、Stato と彼の省は、 -- その困難な仕事のすべての局面、その政治的および物質的な局面において -- これまで教皇の指導および「連帯」の助長において非常に効果的であった。

列席していた地位の高い人々は、中立的な経路 -- 例えば、バチカン所有および外国所有の持ち株会社、そしてそこにおいてバチカンが equity control を持っている融資会社 -- を通じてバチカン銀行の基金を「連帯」のいつも空っぽの金庫の中へと注ぎ込む Stato の役割を知っていた。バチカンにおける Stato の地位は彼をPECA,、すなわちバチカン経済問題局 Vatican's Prefecture of Economic Affairs の職権上のメンバーとした。PECAはバチカン基金の動きに関するすべての主要な決定を行っている。一方で、ヨハネ・パウロ二世はほとんどの諸教皇と同じように、バチカン銀行の網状組織内部での海外の金融会社や持ち株会社の細かいネットワークを熟知していない。厳密に言えば、Stato はいかなる基金の内緒での移動にも拒否権を発動することができた。それでも、もし教皇の現在の計画が立てられたならば、より少なくではなくもっと多くの金が「連帯」のために必要とされるであろう。

Sato(カザロリ枢機卿)はしかしもう一つの説明をしなければならなかった。基金の問題における昨年の教皇との彼の協力は危険の要素をもたらした。イタリア政府は国際的な在世の世界の至る所に衝撃波を送りながら、ミラノのアンブロシアーノ銀行において噴出したスキャンダルへのその調査を続けていた。善かれ悪しかれ、アンブロシアーノ銀行と彼の銀行スキャンダルにおいて告訴されたその銀行の取締役ロベルト・カルヴィは「あの連帯」のための基金の非常に重要な内密の供給に関係していた。

もちろん、国務省長官は、すべてが聖座の評判と彼の愛するポーランドのための教皇の働きのためにうまく行くであろうと信じていた。誰一人聖座と教皇の両方の最善の利益に対する彼自身の貢献を疑うことはできなかった。彼がイエズス会士たちについて彼の初期の論評をしたのはこの精神においてであった。

Romanita でさえ、Stato(カザロリ枢機卿)が教皇に向けてテーブルを押しやることを選んだ政治的および財政的な脅威という固いものを消化するのに困難な時間を持った。

著者マラキ・マルタンの個人的許可によって再録された。

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2005/03/11 三上 茂 試訳

作成日:2005/03/11

最終更新日:2005/03/11

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