ファチマの聖母マリア

世界の奴隷化か、それとも平和か...
それは教皇にかかっている

ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち

ファチマ・メッセージの核心

ローマ、聖テレサ教皇庁立学部、神学教授、Father Joseph de Saint-Marie 著

ファチマの聖母はわれわれにこう告げられた:「ただ私だけがあなたたちを助けることができます。」次のような反対がしばしば提出される:これはおそらく一つの敬虔な誇張ではないか?  信心の行き過ぎではないか? ジョゼフ・ド・サント・マリー神父は啓示とカトリック神学に照らして聖母の普遍的な仲裁を分析している。彼はファチマの御出現および世界におけるマリアの約束された勝利が聖書、伝統そして教会の教えに完全に一致しているということを示している。

このようにわれわれの省察の歴史的基礎を確立した後に、今や聖母によって話された言葉のうちにわれわれがそれを見出すメッセージそのものを考察することにしよう。メッセージの本質は7月13日の宣言のうちに見出される:「彼ら(霊魂たち)を救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられます。もし私があなたたち言っていることがなされるならば、多くの霊魂が救われ、平和が来るでしょう。」(それは主要な主張である。)もしわれわれがこれを分析するならば、それが一つの教義上の真理と一つの訴えを含んでいることが分かる。その真理は仲裁者としてのマリアの役割である。「ただ私だけがあなたたちを救うことができます。」注1)神はあらゆることをマリアの仲裁に依存させることを望んでおられる。これはファチマ・メッセージの中心にある教義上の真理である。

そしてこの真理の実践的な結果である訴えは:救われ、平和を手にするためには、われわれはマリアがお求めになった信心を実践しながらマリアへと行かなければならない。

この核心をめぐって、他の二つの真理、他の二つの局面が現れる。第一は最高の重大さを持った一つの警告である。聖母は世界における不幸の原因である罪を非難しておられる。そして第二は約束と預言の両方である。「しかし最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。」

このことを四つの点に要約しよう:

第一の点

罪のために世界に脅威を与えている危険の最初の警告。

第二の点

マリアの訴えの根底にある福音的な真理。マリアは仲裁者であって、彼女だけが罪とその諸結果からわれわれを保護することがおできになる。

第三の点

訴えそのもの:「マリアのところへ行きなさい。この信心を実践しなさい。」

第四の点

そこにわれわれはファチマの真のメッセージを持っていると私は考える。それはまったく短いものである。しかしわれわれは、そのことを省察するとき、これらの数語が輝くような豊かさ、そして限りない深さ、実際福音書のすべての深みを持ったものであるということを見る。なぜなら、ファチマのメッセージは実際マリアの汚れなき御心を通過した福音書のメッセージだからである。注2)

さて、これらの四つの点の各々について簡単に省察してみよう。

第一点

警告は罪に関してである。これはまた天使の言葉においても現れている。世界における至高の悪、最も恐れられるべき悪は罪である。他のすべてのもの、貧困、苦しみ、葛藤、戦争等々、そして就中死:これらすべては罪の諸結果にしかすぎない。これらの危険がどれほどわれわれの時代において黙示録的であろうとも、われわれは罪そのものを恐れなければならないほどには罪の諸結果を恐れる必要はない。罪は霊魂の喪失、世界における戦争や破局の原因である。これは聖母が非難しそしてわれわれに対して警告なさっていることである。

そしてこれらすべての罪、世界の罪の終りのない繰り返し、大海の中でも一つの主要な罪がある。その主要な罪とは何であるか? その現代的な名は無神論である:それは神の拒絶である。そして大衆のこの無神論、人類の歴史において一つの新しい現象を構成する組織化された戦闘的、征服的な無神論は神の最初の否定を構成したアダムとエヴァの原罪のそのすべての諸結果における最後的な仕上げにほかならない。

祝せられたおとめがファチマで非難しておられる第一の罪はそれゆえに無神論の罪、世界のすべての罪に共通の源であるこの一般的な罪である。そしてこれはかなり詳しく取り扱われる必要があるということがついでながら注意されなければならない。しかし私は、この話の中で言う必要のあるすべてのことを言うことはできない...

聖母が「御自分の汚れなき御心に対して犯された罪」について語っておられることに注意しなさい。この表現は説明を要求する。なぜなら、罪は普通は神に対する攻撃として考えられるからである。詩編作者はこう言っている(詩編 59:6):「ただあなたに対してのみ私は罪を犯した。」そうである。罪は神に対する攻撃である。しかし神はキリスト、受肉されたみ言葉の聖心を通して苦しみ給う。聖心はそれにおいて「み言葉が人とされた」汚れなきおとめからまったく分離不可能である。このように罪はキリストの人性において神を傷つける。祝せられたおとめである御母はキリストの人性から決して分離されることはできない。そしてそれゆえ罪はそれが聖母の御子の聖心を傷つけるとき同時にマリアの汚れなき御心を傷つけると言われてもよいのである。

無神論はそのときキリストとマリアの両者に影響を与える一つの基本的な罪である。それゆえにファチマの警告におけるロシアの特別な役割があるのである。そして私は、共産主義ロシアの役割を強調しなければならない。なぜなら、祝せられたおとめは「ロシア」と言われたけれども、私は単純に「ロシア」とは言わないであろう。-- なぜなら、これは聖なるロシアとそのキリスト教的使命のことをさして言うこともできるであろうからである。また私は単純に「共産主義」とも言わないであろう。なぜなら、共産主義は今や世界的な現象であり、そしてそれはもう一つの頭:中国を持っているからである。そのすべてのことはファチマ・メッセージのうちに必然的に含まれている。しかし、私は「共産主義ロシア」すなわち、実際にサタンの帝国を世界中に確立するためにサタンによって選ばれた道具である限りでのロシア、と言うであろう。共産主義ロシアのこの罪に対して、そしてロシアを含む世界を共産主義から救うために -- ここで私は聖母の訴えに言及する。しかし全体としての文脈に影響を与えることなしにそうする。祝せられたおとめは御自分の汚れなき御心へのロシアの奉献を要求なさるであろう。あなたは、無神論である根源的な罪と世界にキリストの支配の代わりにサタンの支配を確立するための戦闘的無神論の道具である「共産主義ロシア」との間に私がしている、そしてなされるべき、連結を見る。

われわれはそれが罪について言っていることに関連を持つ限りで警告について考察した。しかしわれわれは、聖母がまた戦争についても話されたということを想起しなければならない。1917年に聖母は1918年の平和を予告なさった。聖母はまた1939年--45年の戦争を予告なさった。それに続いたものは秘密のままにとどまっているメッセージの有名な第三部であった。われわれはそれが何を含んでいるかを知らない。しかし私が後に言及するであろうある正確な糸口、そして就中われわれが知っていることのすべての内的論理がわれわれにある確実さをもってこの秘密の第三部が第三次世界大戦の予告であり得るということをわれわれが推測するのを許す。それは単純に、マリアの要求が聴き入れられなかったがゆえに、特に共産主義ロシアの行動によって無神論が広まることをやめなかったからである。

あなたは私がかなり長くこの警告を論じたことに気づく。私はあらゆる点をそのように長く展開することはできないであろう。そしてそこにおいて私は休止するであろう。なぜなら到達されるべき実践的結論は明らかであるからである。それを広めるための道具が共産主義ロシアである無神論の罪は諸々の戦争と大変動へと導く。それは聖母が言われたことである。そしてわれわれは今日そのことの真理を見ることができる。救済策そして唯一の救済策 -- そしてわれわれはこのことを今日の教会に印象づけなければならない -- 罪とその諸々の結果に対する唯一の救済策はマリアの汚れなき御心のうちにある。それはファチマでの聖母の要求に対する応答のうちに含まれている。あなたは私がどのように警告から訴えへ、そして訴えから応答へと進むかを見る。それらは分離不可能である。

第二点

われわれの省察を続けよう。警告に関するこれらの観察の後に、われわれはそれが密接に結びつけられている訴えに進まなければならない。危険の警告は一般的に提案された一連の行動がその後に続く。われわれはこの訴えを、もしわれわれが第一にそれの福音書的および神学的な基礎を考察するならば、そして第二にそれが「私だけがあなたたちを救うことができます」という言葉の中に含まれているということを考察するならば、よりよく理解するであろう。私はこの主題をこの論考の基礎を準備したテキスト、そしてしかるべき時に公表されるであろうテキストにおいてかなり長く展開した。

ただ二つの考えだけを簡単に検討させてほしい。

第一はマリアの仲裁である。この問題は、あなたが知っているように、公会議において議論された。そしてなされた反対は聖パウロの『チモテオに送りし先の書簡』の'Unus Mediator'にある聖パウロから取られたものである:すなわち、「これ人たるキリスト・イエズスにましまし...神と人との仲裁者もまた唯一なり。」 このキリストの独自の仲裁がどのようにキリストの仲裁に従属する他の諸々の仲裁を抑圧しないかを理解するために、われわれは教会の doctor communis 共同の博士である聖トマス・アクィナスに向かわなければならない。彼はそのことをみごとに示している。一つの事実を確立することによって始めよう:イエズス・キリストは司祭職を制定された、然りか否か? 然り、キリストは奉仕職である司祭制度を設立された。そして司祭は神の民、信徒、洗礼を受けた人々とキリストを仲裁しないか? 然り、司祭は仲裁者である。そこでそこには事実第一が存在する。聖トマスが確立することはキリストから分離されたのではなくて、キリストにおけるその存在、キリストの唯一の仲裁に付け加えられるのではなくて、この唯一の仲裁の力を通じての存在、他のものである一つのもの、しかし同一である、奉仕の司祭職と諸々の秘蹟の仲裁がある。それゆえにそれは議論のための問題ではないのである。それは承認を要求する一つの事実である:すなわち、唯一の仲裁者が存在するということ、そして諸々の従属的な仲裁者はこの唯一の仲裁の豊かさのうちに含まれているということである。そしてこのようにわれわれはすでに、キリストの唯一の仲裁がいかにマリアの仲裁を抑圧しないかを理解することができるのである。キリストは実際マリアの仲裁の基礎、源である。キリストはそれに栄養を与える内的な核である。それゆえに、そこに一つのジレンマ:唯一の仲裁者かそれとも多くの仲裁者かというジレンマ、があるということを認めることを拒否することが必要である。キリストの仲裁という一つの仲裁に由来しながら、数多くの従属的な仲裁があると主張することが必要である。このようにマリアはその御子の仲裁の豊かさを利用可能なものとするための仲裁者である。そして今日マリアは彼女の内部で受肉した者となられたみ言葉、キリストの仲裁の豊かさを利用可能とすることができる唯一の仲裁者である。その意味においてのみ聖母によって使用される。それは以下に示されることからもっと容易に理解されるようになる。

われわれがここで思い起こさなければならない第二の考えは聖母が御自身をキリストと教会との間に見出しておられるということである。聖母はいかなる仕方においても教皇、司教、位階、秘蹟、等々の教会の諸々の仲裁を抑圧しておられない。反対に、聖母はそれらに注意を向けておられる。聖母は別の、相互補完的な秩序におられる。そして聖母は霊魂の救いのために教会内部での多くのそしてさまざまの制度に完全性を与えようとしておられる方である。御聖体はここにその卓越した地位を持っておられる。ルルドにおいてと同様ファチマにおいて、そしてあらゆるところで聖母がなされる第一のことは司祭たちを通じて御聖体であるその御子のところへ人々を導くことである。次に第二の点が存在する。

このように聖母が、彼女だけがわれわれを救うことができると主張なさるとき、何を意味しておられるのかをわれわれは理解しなければならないということである。聖母は御自身でキリストの代理をなさるのではない。聖母は御自身をキリストの位置に置かれるのではない。また聖母は教会とその諸々の制度に取って代わると言い張られているのではない。その反対である。聖母がわれわれに告げておられることは聖母の汚れなき御心によってキリストの恩寵の力を明らかにすることがキリストの御意志であるということである。そして聖母は、教会が自らを聖母の汚れなき御心に委ねないかぎりその使命を達成しないであろうとわれわれに告げておられるのである。

霊魂の救いのため、世界平和のためそして神の栄光のためのキリスト、マリアそし教会:そのようなものがファチマの核心にある幻視である。それは福音全体である。それはまた最も確実な神学がわれわれに告げるものである。このようにあなたはメッセージの核心に、そしてマリアによって要求された奉献および聖母がわれわれに生きるように望んでおられる「信心」の根底に、神が今日勝利することを望んでおられる偉大な真理、神学者たちがそれについて研究しつつある真理、「すべての恵みの仲裁者マリア」あるいはマリアの普遍的仲裁として知られている真理が存するということを見ることができる。あるいはあなたはそれをもっと単純にこう呼んでもよいであろう:「マリアの普遍的母性」。仲裁 -- 母性、それは同一の実体である。キリストは彼の生命をただマリアを通じてのみお与えになる。

これらの考えと共にあなたはマリアによって子どもたちに話された単純な言葉の並々ならぬ豊かさを見るであろう。

その中には全ファチマ・メッセージの基礎である真理がある。

第三点

第三の点は訴えである。われわれはすでにその内容を述べた。そして今や以下のようなそれの本質的な特徴を繰り返すそう。回心を生きるためにマリアのところへ行きなさい。なぜなら、聖母がわれわれになされるこの訴えは福音書の訴えであるからである。聖マテオの福音書の冒頭は特に明瞭である:「この時よりイエズス初めて教えを述べ、『改心せよ、けだし天国は近づけり』とのたまえり。」(マテオ4:17)回心し、神に立ち帰りなさい。悔い改めなさい。なぜなら、天国は近いからである。この福音書のメッセージ:そこにファチマのメッセージの訴えがある。なぜならマリアはわれわれに福音について思い起こさせる以外のことを決してなさらなかったからである。しかしマリアはわれわれに次のことを告げることにおいてキリスト御自身の意志に従ってそれについてわれわれに思い起こさせられる:私の御子イエズスがあなたたちからお求めになるこの回心、あなたたちはそれをしなければなりません。そしてあなたたちはイエズスがそれを望んでおられるように、今日私に来ることによって以外には、そして私の御心への信仰によって、すなわち、私の「仲裁」を通じて、すなわち、私の「母性」を通じて以外には、そうすることができないのです。この回心--それはキリスト者として生きることを意味します--はただ私を通じのみ達成することができます。そのようなことは神の御意志であって、私の意志ではありません。そのようなものがファチマの訴え、この「信心」--キリスト教的生活である--への訴えである。

そして私は、聖母が「神は世界に私の汚れなき御心への『信心』を打ち建てることを望んでおられます」と言われたとき、実際にはこう言われたということを指摘したいと思う:「神は世界において私が支配すること望んでおられる」と。

ついでに、この「信心」という言葉についてあることを言ってもよいであろう(それはかなり長い議論を必要とする)。それはどれほど際だって尊敬すべきものであろうと、ある敬虔の単純な実践の問題ではない。霊魂に対する尊敬を持つことは必要であり、そしてキリスト教的な生き方にとって非常に尊いものである健全な「諸々の信心の実践」を軽蔑することは確かに私の意図ではない。しかしわれわれは福音的生活の十全性の方向をさらに見通さなければならない。理解する必要のあることは「信心」という言葉の十全な意味である。それは献身あるいは奉献を意味するラテン語の'vovere', 'devovere' に由来する。それゆえにマリアへの完全な奉献はわれわれの心において、そして世界においてマリアが支配することを可能にするという意味である。

ファチマの訴えの特別な性質

そこでそのようなものが聖母の訴えである:それはわれわれに、マリアを通して福音書の回心の生活を送ることを要求している。そのことをわれわれは聖母にわれわれ自身を奉献し、われわれのうちに聖母が支配なさることを許すことによってすることができる。これはわれわれの生活のあらゆる局面に影響を及ぼす一つの計画である。

これはすべてのキリスト者のためのものである。すべての人々の罪、就中無神論のすべての基本的な罪を克服することはファチマの普遍的な訴えである。そしてわれわれはこの普遍的な罪と並んでこの罪の拡がりのための主要な道具:すなわちロシアが存在するということに注意しなければならない。それゆえマリアの汚れなき御心への共産主義ロシアの奉献というファチマの訴えの特別な性質があるのである。これは全世界の司教たちと一緒に教皇によってなされなければならない。なされてきた諸々の奉献は聖母の要求をこれまでのところ果たしていない。非常に重要なものではあったけれども、1942年にピオ十二世によってなされた最も荘厳な奉献でさえそうではなかった。それは確かにヨーロッパの歴史において一つの転換点をしるした。しかしそれは全世界の、そして教皇自身による奉献であって、すべての司教たちと一緒に教皇によるロシアの奉献ではなかった。それがファチマの訴えがそこで異なる点である。

強調されなければならないことは奉献への呼びかけである。なぜなら、もう一度私に強調させてもらいたい。一方において、すべての洗礼を受けた人々に宛てられた奉献への普遍的な訴えがある。そして他方において位階に関係する特別の奉献がある。

そして私はもう一度言う:今日の世界はなぜ、絶えず広まるテロリズムを伴ったそのような混沌の中にあるのか? 世界はなぜ、たぶん黙示録的破局のまぎわにいるのか? それはファチマの聖母によって明らかにされた、そしてその後にシスター・ルチアに対するさまざまのコミュニケーションによって明らかにされた神の御意志への効果的な応答がなかったからである。

あなたは今やこのファチマの訴えの重要で決定的な重要性を見るのである。

ただ聖母を通じてのみ世界のために救いがある

これは私の省察の本質である。私が歴史的、預言的...あるいは神学的観点から、後に言うであろうすべてのことは位階による決定を支持し、正当化するための議論以上のものではないであろう。そして何よりもまずファチマで明らかにされたこの神の要求の実現によって、そしてそれのみによって、世界が救われるであろうということ、そして他のすべてのことは、十字架の聖ヨハネが言っているように、単なる無駄骨折りであるということが理解されることによって、である。他のすべてのことは無駄であり、時間の浪費である。ファチマでの聖母の要求への応答から離れて、世界において平和を確立することへ向かってなされるすべてのことは無駄であろうし、また失敗に終わるであろう。なぜなら、もし神が御自分の意志をこのような仕方で知らしめられないのならば、代わりの手段を探し求めることは人間のためではないからである。

第四点

それゆえ私は第四点:すなわち、最後の勝利の告知と約束へと進む。私はこの第四点を強調しなければならない。なぜなら、ファチマ・メッセージは、その厳しさと重大性そしてその悲劇的な局面において、にもかかわらず大きな希望のメッセージであるからである。聖母がこの最後の勝利を告知なさるそのやり方に注目しなさい:「しかし最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう」。なぜ「しかし」なのか? なぜなら、聖母は御自分の要求が果たされる前に多くの時間が経過するであろうということを知っておられたからである。そしてなぜ「最後に」なのか? なぜなら、同時に拒否と待機の時期の間に、罪がそのすべての悲劇的な諸結果を伴って増大するであろうからである。それゆえに、あなたは最後の勝利のこの告知のうちにどのように、人類を待ち受けている諸々の苦しみの告知が含まれているかを見るのである:それは--もしわれわれが聖書的なこの言葉を用いることが許されるとすれば--われわれを脅かす懲罰の警告である。

聖母はそのすべてをご覧になっている。しばしばファチマ・メッセージについて黙想する人々は苦しみの局面で急に立ち止まり、ただ諸々の破局だけを見るように誘惑される。それは良いことでもまた健全なことでも、キリスト教的でもない。われわれは十字架を見、キリストの受難を黙想しなければならない。しかしわれわれは復活祭と復活の光においてそうしなければならない。そしてそのことはまさに聖母がその御約束と共にわれわれがすることを助けておられることである:「しかし最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。」ファチマ・メッセージを希望のメッセージ、勝利のメッセージとするのは最後の勝利のこの告知である。われわれが日々キリスト教的な戦いを続けるために必要な強さと忍耐を見出すのは聖母の預言的な言葉によって目ざまされたこの希望である。世界が無神論へとますます深く突っ込んで行くにつれてますます困難となっていくこのキリスト教的な戦い--幻想を持たないようにしよう--、そして東ヨーロッパの諸国において荒れ狂っている迫害は西ヨーロッパにおいてもわれわれを罰しようとしている。なぜなら、われわれは神の御母の御心を通してわれわれ自身を救おうとなさる神の御意志に答えなかったからである。

だからこそ、近い将来においてわれわれは教会の十字架を与えられているのである。しかしこの十字架は復活のひかりにおいてわれわれに現れる。それが、私がファチマのメッセージは希望の、平和の、強さの、喜びさえのメッセージであると言う理由である。なぜなら、それは最後的な勝利のメッセージだからであり、そしてこの勝利は愛の勝利だからである。それが「心」という言葉の意味である。「私の心は勝利するでしょう」は「愛は勝利するでしょう」を意味する。それは黙示録においてわれわれが告げられているように、「諸聖人の忍耐」によって、信徒の忠実さによって、われわれ一人ひとりが自分自身のものを担い、そして全教会もまたその十字架を担いながら、イエズスがわれわれに与えられる十字架を担うことにおけるわれわれの強さと志操の堅固さを通じて、勝利するであろう。

それゆえ、あなたはこの最後の預言的告知の重要性を見る。なぜなら、それはファチマの全メッセージと神秘をキリストの復活の光のうちに置くからである。

  1. 1917年7月13日に。特に「私独り」に注意せよ。(著者の脚注)。

  2. これらの四つの点は「祝せられたおとめに対する真の信心」において聖ルイ・ド・モンフォールによってまったく同じ仕方で予告され論じられた。N. 50:「神は...後の時代にマリアがこれまで以上に輝かなければならないと望んでおられる。1.)憐れみにおいて。哀れな罪人たちそして回心してカトリック教会へと立ち帰るべき放浪者たちを連れ戻し、愛をもって迎えるために。(神の憐れみの預言的「警告」)。2.)力において。彼らに反対するすべての人々を諸々の約束と脅迫によって誘惑し押し潰すために険悪に立ち上がる神の敵どもと戦うために。(神の力の黙示録的「戦争の雄叫び」)。3.)恵みにおいて。イエズス・キリストの勇敢な兵士たちと忠実なしもべたちとを鼓舞し、支えるために。(マリア--神の恵みの通路--への全体的な「奉献」)。4.)勝利において。マリアは悪魔とその追随者たちに対する勝利者(戦列における軍隊のように恐るべき)とならなければならない。(原始の福音的創世記3:15 神の勝利の予告)」(編集者脚注)

編集者注

それゆえにファチマについての本質的なことはマリアの汚れなき御心を通じての神の計画である:彼ら(罪人たち)を救うために「神は世界に私の汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられます」。(1917年7月13日)

マリアの汚れなき御心に対する信心、--その中にファチマ・メッセージの霊的意味が見出されるであろう-- マリアに奉献された生活(聖ルイ・ド・モンフォール、T.D.:257-265によって示されたように、マリアにおける、マリアを通じて、マリアと共に、そしてマリアのための)は実践的にはファチマの聖母によって要求された二つの重要な行動を当然伴う。一つはすべての人に命じられた行動で「初土曜日の償いの信心とマリアの汚れなき御心への自分自身の全体的奉献」であり、他方は教皇と司教たちに命じられた行動で、マリアの汚れなき御心への「ロシアの奉献」である。

神のこの御計画は位階による[マリアの]汚れなき御心へのロシアの荘厳かつ公的な奉献の行為の必然的な結果としてのみあり得るマリアの汚れなき御心の「勝利」においてその頂点に達するであろう。これはロシアの回心において結果するであろう。そしてマリアの汚れなき御心に対するこの信心をイエズスの聖心の信心の側に置くという結果を持つであろう(1936年5月18日のルチアの手紙)。聖ルイ・ド・モンフォールによって予告された神の同じ御計画を見よ:「もしそのとき、確実であるように、イエズス・キリストの知識と王国が世界の中に入って来るならば、それはただマリアの知識と支配の必然的な結果としてのみ可能であろう。」(T.D.:13)ルチアに対するわれらの主の言葉はこのことを証言している:「私は私の全教会がロシアの奉献をマリアの汚れなき御心の勝利として認めることを望んでいる。」マリアの支配。

目次へ

2004/11/21 三上 茂 試訳

作成日:2004/11/21

最終更新日:2004/11/21

World Enslavement or Peace...It's Up to the Pope: Section IV; Chapter 2 へ

マリア様のページへ

トップページへ

inserted by FC2 system