ファチマの聖母マリア

世界の奴隷化か、それとも平和か...
それは教皇にかかっている

ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち

神がロシアの奉献のこの行為を求めておられる理由

Father Nicholas Gruner, B.Comm., S.T.L., S.T.D.(Cand.)著

なぜ神はロシアの奉献をお求めになるのか? それは、神は全教会がロシアの回心をマリアの汚れなき御心の勝利として認めることを望んでおられるからである。このようにしてすべての民は聖母の偉大さを認めるようになるであろう。そしてこのことは、聖ルイ・ド・モンフォールや他の聖人たちによって預言されたように、マリアを通してイエズスの普遍的な支配を準備するであろう。

教皇と司教たちは、この荘厳な公的行為によって「すべての民は彼(イエズス)に仕える」という聖書の教えを明白にするであろう。すべての被造物(諸民族や諸国家を含む)はキリストのために造られている。(「すべての事物はあなたのものである。そしてあなたはキリストのもの、そしてキリストは神のものである。」)(と聖パウロは書いた)。そしてこの行為は再び、各々のそしてあらゆる民族(そして特にロシアの民族と国家)が神によって王たるキリストの奉仕のために取っておかれるということに、教皇と司教たちによる公的承認を与えるであろう。いかなるこの世の権威も、いかなる国家も、いかなる国土も、いかなる民も、いかなる民族も、神が創造なさったもの以外には存在しない。そしてすべての被造物はあらゆる生活の局面において神に奉仕しなければならない。-- ある民族の生活において何一つ、ある国家の住民のこの世的な福祉に関わる諸々の事柄でさえ、世俗的だと考えられるべきではない。(それはただこの時の間だけに属している)。むしろすべての事物は神に返されなければならない。すなわち、すべての政治、経済、法律、歴史、社会、家庭、制度、土地、財産、教育、医学、心理学、貿易、職業、労働、個人、家庭、都市、民族の人間生活のあらゆる局面がそうである。神の見地において適切に話せば、世俗的都市のようなものは存在しないのである。ある都市、ある国あるいはある文明は神のためであるか、それともそれが神に対する叛逆の状態にあるかのいずれかである。それは神によって世俗的であるように創造されているのではない。

マリアの汚れなき御心への奉献のこの行為によって、救いの経済におけるマリアの位置が認められるであろう。マリアは神ではない。そのことは確かである。むしろマリアは神の被造物である。しかしそれでもマリアはまったく独特の方である。-- それは単にマリアが一人の人間人格であり、そしてすべての人間人格が独特であるからだけではなく、むしろマリアが汚れなき方(無原罪の方)であるからである。マリアはおとめなる御母である。マリアは神の御母である。マリアはその功績と同意を通じてわれわれが救世主を与えられた唯一の方である。マリアは共同救済者である。唯一の救世主イエズス・キリストが存在するということは真である。(そして誰もここでこのことを否定しない。)しかしイエズスは人間となって[この世に]来られる前にマリアの同意をお求めになった。救世の業はイエズスが人間となられる前にマリアの同意を待ったのである。そしてイエズスがその人間性を通じてわれわれを救われたのだということを思い起こしなさい。イエズスの神としての意志とのマリアの意志のこの結びつきは単にお告げにおいてだけ完全であったのではなく、その十字架上の犠牲におけるイエズスとのマリアの意志の一致に至るまで、そしてそれを含んで完全であった。われわれの御母マリアはこの意志の一致を、御自分の神なる御子のこの犠牲を通じて聖化する恵みの生活へと霊的な子どもたちを導かれたとき、悲しみの剣で御自分の魂が貫かれてさえも保たれたのである。天国の門を開くことにおいてイエズスとのこの絶対的に独自の協力を通じてマリアはわれわれの霊的御母となられた。イエズス御自身が十字架の上でわれわれにこう言われた:「見よ、あなたの母を」。

エヴァは原罪においてアダムと協力した。そのように新しいエヴァ、マリアは聖化する恵みである霊的生活をわれわれに返し与えることにおいて、新しいアダム、イエズスと協力なさった。マリアはそれから真に生きるすべての人々の御母である。

マリアはイエズスがわれわれのために勝ち取られたすべての恵みの分配者である。教皇レオ十三世が言われたように:「すべての恵みはイエズスの人間性を通して、神からわれわれに、マリアの手を通してわれわれに来る」のである。明らかにそのとき、七つの秘蹟の秘蹟的な恵みもまたマリアの手を通してわれわれに来るのである。

マリアは、彼女が天において聖化する恵みの超自然的生活の中へとわれわれを「生む」ことによってその役割を続けておられる(第二バチカン公会議、Lumen Gentium, Ch. 8)。マリアは次に教会の御母である。彼女は神の家族の御母である。もしわれわれが神の子らであるならば、われわれはみなマリアの子らである。

人間の歴史におけるマリアの役割 --彼女が地上におられたとき--彼女が今天国におられるときと同様に--は教皇とすべてのカトリック司教たちの共同によるマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献のこの荘厳な公的行為によってもっと明瞭に見られるであろう。

マリアはまた、あるプロテスタントたちが昔信じたように、そしてあるカトリック者たちが現在考えていると見えるように、イエズスと名誉や栄光を競争しておられるのではないと、明瞭に見られるであろう。むしろ、奉献の行為において、ならびに奉献のこの行為からの諸々の結果において、イエズスは人々および諸民族の精神のうちでより強化さえされていると見られるであろう。なぜなら、この行為によってロシアはイエズスの教会--カトリック教会へと回心するだろうからである。ロシアは王たるキリストの甘美なくびきに一つの民族として喜んで服従するであろう。この恵みはただマリアに栄誉を帰することによってのみ与えられるであろう。--それはマリアへの栄誉のこの行為が与えられるまでは決して来ないであろう。それはこのことが神の御意志だからである。神は御自分の御母に栄誉を帰することをお喜びになる。神はわれわれみながマリアをすべての民族、そしてあらゆる心の女王と認めることを望んでおられる。

奉献のこの行為によって、教会、そして特に教皇および司教たちは神によって栄誉を帰せられるであろう。なぜなら、神はこの単純な行為のために恵みの奇跡を与えると約束なさったからである。神は一つの偉大な民族の、キリストとその教会への回心を、戦闘的無神論の諸々の計画や支配から離れてキリストの王権の抱擁への回心を約束なさった。司祭がスカプラリオ、あるいはロザリオ、メダイ、御像、何らかの聖物を祝福するとき、司祭がそれを祝福するときにその物を祝福なさるのは神である。それゆえ、教皇と司教たちがマリアの汚れなき御心を通じてロシアの国家と民族とを祝福し神に奉献するとき、神御自身がそのようにロシアを祝福し奉献なさるのである。御父なる神はすべての権威をイエズスにお与えになった。そしてイエズスは今度は御自分の権威を聖ペトロと使徒たちの集団にお与えになった。神はこの権威を歴史を通じてお認めになり、そしてわれわれの時代に神は、ロシアの回心というこの恵みに満ちた奇跡によって、教皇とカトリック司教たち(教皇に対する個人的従順と同じ一つのカトリック信仰によって結びつけられた)が神の摂理において持っている権威と独自のそして非常に特別の役割と使命に公的な承認をお与えになるであろう。同時に、イエズス・キリストの代理者としての聖ペトロの後継者、他のすべての司教たち--一緒に考えられるとしても--に対する至高の頭としての教皇の独自の役割は、ロシアを奉献することにおいて彼に加わるようにすべての司教に教皇が命令するとき、この荘厳な行為によって明らかにされるであろう。

ロシアのこの回心によって、人類は、神が歴史を監督しておられるということ、そして神がお許しにならない限り、あるいはお望みにならない限り、何事も起こらないということを明瞭に見るであろう。神は、すべての恵みがイエズスの生活、受難そして死を通して来るように、ロシアの回心を十字架につけられたキリストの功徳を通してお与えになるであろう。教皇ヨハネ・パウロ二世が言われたように、すべての人間の歴史の中心はキリストである(Redemptor Hominis Paragraph I)。そしてすべての恵みはまた、人類が、マリアの最も愛すべきそして母親としてのファチマ・メッセージを今まで無視してきた多くの人々によって見られているようにマリアを非常に無視しているけれども、われわれのために絶えず祈られるほどにわれわれを愛しておられるマリアの汚れなき御心を通じてわれわれに与えられるのである。

同様にまたこの奉献とその結果であるロシアの回心および人類に与えられる平和は祈りと犠牲の重要性を明らかにするであろう。なぜなら、教皇の指導の下にそして教皇と共にカトリック司教たちの集団によるこの集団的奉献をもたらすために必要とされる恵みが与えられるのはわれわれの祈りと犠牲を通じてであろうからである。

この世的な諸権力がキリストの名において教えまた支配する霊的な権力の首位性を認め、尊重しない限り人間社会における真の平和と適切な秩序をもたらすことには成功することができないということもまた見られるであろう。なぜならこれは神御自身がこれら二つの権力の間に確立なさった秩序だからである。

われわれがしなければならないこと

そこで、ロザリオを祈り、彼らの日々の義務を果たし、カルメル山のスカプラリオを身につけ、自分たち自身と家族とをマリアの汚れなき御心に奉献することは司祭、修道者そして平信徒の義務である。彼らが義務によって縛られているこの計画はファチマのマリアを通じて神によって与えられた( ファチマ・クルーセイダー No. 11-12, 世界平和はカトリック司教たちとあなたに依存しているを見よ)* これらの手段によって彼らは、マリアの汚れなき御心を通じて神にロシアを奉献するという彼らの指定された役割を彼らの霊的指導者たちが果たすための恵みを獲得するであろう。少なくとも大多数の信徒の協力は集団的な奉献のこの大きな恵みと平和の恵みが人類に与えられる前に必要であろう。多くの信徒はファチマの聖母に聴き従い、聖母の要求を満たしている。しかし神からの平和計画を完成させるためにはもっと多くの人々が必要とされる。われわれは単に神に口先だけの奉仕をするだけでなく、われわれの救いに効果的にそして実際に協力しなければならない。われわれはまた、イエズスがすでにすべてのことをなされた、そしてわれわれのすることは何もないと言うべきではない。神の恵みとのわれわれの協力はわれわれのための神の計画の本質的な要素である。同時にわれわれは成功が与えられるのはわれわれの努力によるのではなくて、それは神の恵みによるということを理解しなければならない。

* この書物の p. 117 以下を見よ。

教皇ヨハネ・パウロ二世は、まだ枢機卿であったときに、マリアに対する[司教たちの]共同的奉献を熱心に促進された。彼は教皇パウロ六世に対する請願の中に共同的奉献に関して以下のような言葉を書かれた。

教会の御母への信頼に満ちたこの行為を通じて、人類は無神論、戦争そして完全な破滅から救われるとわれわれは信じます。神の御母は、教皇様、あなたと共に、そしてその救いのために世界と共におられるでしょう。平和の一時期とキリストの大義における勝利が来るでしょう。

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2004/11/23 三上 茂 試訳

作成日:2004/11/23

最終更新日:2004/11/23

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