ファチマ・クルーセイダー

聖母の要求を果たさないための差し迫った懲罰

The Fatima Crusader Issue 80, Summer 2005 より

ポール・クレイマー神父、B.Ph., S.T.B., M. Div., S.T.L.(Cand.)

以下は2004年9月24日、カリフォルニア州、グレンデールにおけるイエズスとマリアの大使セミナーでなされた講演の編集された写しである。

われわれはいかにしばしば、教会におけるすべての混乱の状況、世界における諸々の心配事の状況において「それが導いているのは何か?」「それはどこで終わるのか?」という質問を聞くことであろうか。われわれはそれが終わりになるところを正確に知っている。なぜなら、ファチマの聖母は「終わりに、私の汚れなき御心は勝利するでしょう....」と言われたからである。その勝利がもたらそうとしているものはそれに続く言葉であった。「終わりに私の汚れなき御心は勝利するでしょう、教皇は私にロシアを奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして平和の一時期が世界に与えられるでしょう。」

預言的に話した人々、そして祝せられたおとめマリアの御出現はこぞってわれわれに、世界の大懲罰があるだろうと告げている。最も確実な預言および御出現のすべてはわれわれに、1634年にエクアドルのキトにおいて聖母が言われたように、それは、邪悪が、悪が勝利していると見えるとき、すべてが失われていると思われるときであろうと告げている。

「私の時が来るでしょう」

聖母はこう言われる、「それから私の時が来るでしょう。」恵みの奇跡が世界の上に起こるであろう。悪は滅ぼされ、邪悪は征服されるであろう。そしてファチマのメッセージにおいて、ファチマの秘密において、そして最も重要なことに、一般にファチマの第三の秘密と呼ばれている秘密の第三部において、それがすべて説明される。

聖母は、もし人々が神に対して罪を犯しつづけるならば、そのとき世界は懲罰を受けるでしょうと言われた。聖母がなされたまさに第一の要求は、人々が神に対して罪を犯すことを止めることであった。なぜなら、神はすでに余りにも多く背かれておられるからである。

あなたはなぜファチマで私の聖なる御母を通じ
てあなたに与えた私の要求に従わないのか?

「われらの主はすでに余りにも多く背かれています」

人々は神に背くことを止めなければならない。もし彼らが神に背くことを止めるならば、神は憐れみを垂れ給うであろう。そして神は平和をお与えになるであろう。しかしもし彼らが神に背くことを止めないならば、もし人類がその罪に固執するならば、そのとき神は世界を:戦争、飢餓そして教会に対する迫害をもって、罰しようとなさる。それゆえ、もし十分な数の人々が償いをし、そして罪人たちの回心をもたらすならば、ロシアの奉献とロシアの回心をもたらすであろう恵みが与えられるであろう。

そしてもし人々が神に対する罪を止めるならば、そしてそのときにのみ、その恵みが与えられるであろう。しかし人類はますます深く罪の中に沈み、そして神に対する反逆は一般的になっているので、そのとき神はロシアの回心をもたらすロシアの奉献のための効果的な恵みを与えることを差し控えられるであろう、そして世界は懲罰されることになるであろう。その懲罰のまさに内容はファチマの第三の秘密のうちに明らかにされている。

ファチマの第三の秘密とは何であるか? 確かにわれわれは秘密の最初の二つの部分のテキストから、聖母が子どもたちに、「あなたたちは地獄を見ました。そこには哀れな罪人たちの魂が行くのです」と言われたということを知っている。そして聖母は続けて神の御計画が何であるか -- 地獄に行くことから罪人たちを救うために -- を説明なさった。そしてそれをもたらす方法はマリアの汚れなき御心に対する信心の確立を通じてである。

罪人たちを救うために

そのことをもたらすために、聖母は5回の初土曜日の信心を望んでおられる。そして聖母はロシアの奉献を望んでおられる。教皇が、世界のすべての司教たちと一緒に、それぞれが彼自身の司教座聖堂で、ロシアをマリアの汚れなき御心に奉献されるようにしよう。聖母はこの手段によってロシアは回心し、平和が世界に与えられるでしょうと言われた。諸々の時代を通じてずっとすべての預言者たちおよび諸聖人の諸々の預言の一致が存在する。

邪悪は粉砕されるであろう。神はその聖なる御母の栄光において、また教会の諸々の伝統の栄光において勝利なさるであろう。教会の諸々の伝統は教会の歴史において以前にはかつてなかったようなそのような輝きのうちに完全に回復されるであろう。これはマリアの汚れなき御心の勝利の時であろう。聖母が言われたように、物事が完全に失われたと思われるとき、邪悪が勝利を占めると見えるとき、「それは私の時が来た時であり、そのとき私の時は来るでしょう。」

大懲罰 -- 間もなく!

第三の秘密のうちにわれわれはある非常に前もって決まっている細部においてあの大懲罰の本性であるものを正確に持っている。ハリケーンが全力で襲撃する前に、最初は青い、夏の空が雲に覆われ始め、そして風がだんだん強くなり、天気が荒れ模様になるように、われわれは、1945年に教皇ピオ十二世によって予告された、あの大災難、歴史における大暴風雨の内容であろうものの最も初期の始まりを誤解してはならない。

教皇ピオ十二世は次のように言われた。そしてこれは世界が第二次世界大戦の諸々の恐怖を経験した直後であり、そして人々が平和を切望していた時であった:「世界は世界史においてかつて存在しなかったような苦しみを間もなく経験しなければならない。間もなく人類はこれまでになかった最悪の苦しみを経験しなければならない。」これはファチマの第三の秘密の内容である。

教皇ヨハネ・パウロ二世は1976年フィラデルフィアの聖体大会で、彼がまだ教皇でなかったとき、 -- 彼はまだウォイティラ枢機卿であった -- ファチマの第三の秘密の内容であるその懲罰について語られた。そして彼は、教会が一つの大きな試練を経験しなければならない、それは教会と反教会、福音と反福音との間の闘争であろうと言われた。

そして1981年に教皇に選出された直後に、彼はその同じ主題に戻られた。そして今回は彼ははっきりと、これがファチマのメッセージの内容、ファチマの秘密の内容であると話された。そして彼は教会が間もなく大きな試練を経験しなければならないと繰り返して言われた。

彼らはわれわれに嘘を言っているのか?

それではファチマの第三の秘密には何があるのか? 五年前、2000年6月26日にバチカンは彼らがファチマの第三の秘密の全体であると主張した一つの幻視を公表した。私は一人のブラジルの司教と話をしていた。そして彼は私に尋ねた。「ところで、第三の秘密に幻視以上のものがあるとするならば、彼らはわれわれに嘘を言っているのだろうか? なぜなら、彼らはそれが第三の秘密の全部であると言ったからである。」私は答えた。「ラッツィンガー枢機卿は精神的な保留をしています。秘密全体はその幻視のうちに暗々裏に含まれています。その意味において、その非常に限定された意味においてそれは秘密全体です。」

しかし第三の秘密は厳密には、世間で言うあの幻視 -- それは秘密に属しているが -- ではない。それ[幻視]は秘密の一部である。しかし、秘密は聖母の言葉から成っている。シスター・ルチアの甥であるヴァリニョ神父が指摘したように、「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう、云々」という文言は第三の秘密の始まるところにある。

バチカンは1960年に、教皇ヨハネ二十三世が秘密の入っている封筒を開けファチマの聖母の言葉を含んだ1ページを読まれた後、第三の秘密に関して匿名の新聞社向け発表を行った。その新聞社向け発表は、秘密は決して公表されないであろうと述べた。そして明確に「三人の小さな羊飼いたちに対して一つの秘密として聖母が打ち明けられた言葉」としてそれに言及した。これは鍵になる重要な表現である。すなわち、「聖母が打ち明けられた言葉」。それは聖母の言葉を含んでいる1ページの手紙である。

証明:「本当にそれはそのすべてではない」

2000年6月26日に公表されたものは幻視を記述したシスター・ルチアの4ページのものであった。それは聖母の言葉ではなかった。秘密が三つの部分に分けられているということはそのように周知の事実である。そしてわれわれは二つの部分のテキストを持っている。そしてそれゆえに、そのテキストが、真ん中の文章において「云々」をもって終わる個所、それは第三の秘密が始まる個所である。それは常識の問題であって、人は言語学者でなければならないことはない。そして、これは秘密の第二の部分が終わるところ、そして第三の部分が始まるところであるという結論に達するためにテキスト批判の分析に深く入っていかなければならないことはない。

しかし本当にそれについては何の疑いもない。1952年9月2日に、シュヴァイグル神父が第三の秘密についてシスター・ルチアにインタビューをするために、教皇ピオ十二世によって個人的にコインブラに遣わされたとき、彼はそうするように教皇によって権限を与えられて、個人的にシスター・ルチアと話をした。彼はローマに戻った。そして彼が住んでいたルッシクムで、彼は同僚たちが彼に第三の秘密について質問したとき、彼らにこう告げた:「私は第三の秘密に関してファチマで学び知ったことについて何も明らかにすることはできない。しかし、それが二つの部分を持っており、一つは教皇に関するものである、と言うことはできる。」もう一つの部分は、論理的に -- 私は何も言ってはならないけれども -- 「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう」という言葉に続くものであろう。それゆえ、ファチマの聖母の言葉があの「云々」に続くということはまったく確実に一つの確立された事実である。そしてシスター・ルチアの回想記において、あの「云々」の後に彼女は「ここに秘密の第三の部分が始まる」という言葉を付加的に述べている。

秘密が私のところに持って来られた。私をそれを見た。そして私が最初に言ったことは、「これは秘密ではない!」ということである。その判断をしたのは私ひとりではなかった。教皇ヨハネ・パウロ二世の親密な友人であり、また個人的にヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿を知っている一人の神学校教授は同じ印象を持った -- これは第三の秘密ではない、と。

それは[第三の秘密では]あり得ない。

そしてそれゆえ彼は、バチカンに行ったとき、ラッツィンガー枢機卿を訪ねた。そして彼に会った。彼は婉曲な物言いをしなかった。彼は言った:「これは不可能である!これは第三の秘密全体ではあり得ない!」と。そして彼はラッツィンガーに然りか否かを彼に答えるよう強く要求した。「これは事柄全体ですか? これは事柄全体ですか、それともそうではないのですか? それは全体ではあり得ない。さあ、私に言ってください!」ラッツィンガーは認めた「確かに、それはそれの全体ではなかった。」

第三の秘密は第二バチカン公会議に関することである

この教授は私が個人的に知っている一人の司祭であり、そして私が知っている多くの人々がこの司祭を個人的に知っている。彼はさらに答を求めて迫った、自分は引き下がらないだろう、と。そして彼は詰問した。「秘密には何があるのですか? もしそれがそれの全部でないならば、それでは、そこには何があるのですか?」ラッツィンガーの答はそれを明らかにしている。彼らがそれをそのように長年にわたって隠していた理由にはもはや何の不思議もない。そしてなぜバチカンの職員たちは、教皇ヨハネ二十三世の治世の間、彼らの新聞社向け発表において「それは決して公表されないであろう」と言ったのか? ラッツィンガーは、第三の秘密において、聖母が悪しき公会議があるでしょうと警告しておられる、と言った。そして聖母は諸々の変化に対して警告なさった。聖母は典礼における諸々の変化、ミサにおける諸々の変化に対して警告なさった。これは第三の秘密において明白に述べられている。

しかしながら、ラッツィンガー枢機卿のような人々は第二バチカン公会議の言葉が神の言葉に相当すると信じている。彼らは公会議のうちに何らかの悪があると信じることができない。そしてそれゆえ、彼らはファチマのメッセージを信じないことを選ぶのである。そしてこれはラッツィンガー枢機卿がファチマの聖母の御出現はシスター・ルチアの想像の中に呼び出された何物かであると示唆した理由である。

2000年6月26日に公表された The Message of Fatima 「ファチマのメッセージ」という書物は反ファチマの近代主義者エドゥアルド・ダニス神父を引用しているラッツィンガー枢機卿の説明を含んでいる。ダニスはファチマに反対してそのような偏見を持っていて、その結果ポルトガルへ行って諸々の事実を検討することを拒否した人物である。なぜなら、彼の精神はすでに御出現に反対するよう出来上がっていたからである。ラッツィンガーはそれと同じ意見である。そして彼は、これらの御出現はシスター・ルチアが彼女の生涯の初期に敬虔な書物を読む際に出会ったものに基づいた彼女の想像において作り上げられた何かあるものであったと、同じように言うのである。

ラッツィンガー枢機卿に対する私の質問は、彼女が敬虔な書物のうちに読んだものの想像はどのようにして太陽の大奇跡を作り上げたのか? ということである。核爆弾に相当するエネルギーのようなそのように大きなエネルギーの解放がどのように12分の間に膝までの深いぬかるみを乾いた土地に変えたのか? シスター・ルチアの子供時代の想像はどのようにしてこの奇跡を考え出すことができるであろうか?

第二バチカン公会議:
不可謬ではない公会議

第二バチカン公会議については非常に大きな混乱がある。私は The Wanderer の中で、信仰の教義に関係する第二バチカン公会議におけるあらゆる事柄が不可謬的に述べられているという絶対に馬鹿げた教義的説明を与えた絶対に信じがたい論考を読んだことを思い起こす。そして彼らが引用している権威は Catholic Encyclopedia[カトリック百科事典]である。もちろん、 Catholic Encyclopedia のその引用はまったく文脈からはずれている。

Catholic Encyclopedia は、もちろん、公会議が教義に関して教えるとき、公会議は不可謬的に教えると正しく述べた。しかし、それは公会議の目的そのものが教義を決定することであるからである。以前のすべての公会議は教義を決定した。それが、ある公会議について不可謬的であるところのものである。すなわち、それが教義を決定するとき、そう[不可謬]であるということである。もし教皇が出席しているならば、彼はその決定を不可謬的にそして荘厳に宣言し、その結果そこには何らの疑いも存在しない。もし彼が出席していないならば、もし彼がそれを後になって、あの荘厳な宣言でもって裁可するならば、そのことはその公会議を不可謬のものとする。

第二バチカン公会議自身でさえ不可謬的な教えと不可謬的ではない教えとの間の一つの明白な区別をしている。そしてそれゆえ、あるエキュメニカルな公会議が召集され、そして世界の司教たちが一緒に集まり、教義に関する宣言をするとき、もし彼らが決定しないならば、そのときその行為自体は不可謬的な行為ではない。述べられた教えは不可謬的であるかもしれない。例えば、もしそれがすでに普遍的なそして通常の教会の教導職の決定的な教えであるならば、そのとき、それが教えであるもののまさに内容そのものはすでに不可謬的である。しかしそれは、それ自身においてそしてそれ自身で一つの不可謬的な行為ではない。

ある公会議が教義に関する一つの宣言をするという単なる事実はその陳述を不可謬のものとするのではない。公会議は一つの荘厳な決定をもって教義を不可謬的に宣言しなければならない。もしそれが決定されないならば、それは一つの不可謬的な行為ではない。それは非常に単純な事柄であり、そしてそれが教会の教えである。第二バチカン公会議には諸々の重大な誤謬がある。厳密にいうならば、エキュメニズムに関する教えは異端的である(The Fatima Crusader Issue No.79, page 57を見よ。)

エキュメニズムの異端

教皇聖ピオ五世は彼のカテキズム、ローマ・カテキズム -- トレント公会議のカテキズムとしても知られている -- において、プロテスタント諸宗教のすべては偽りの諸宗教である、彼らは悪魔によって鼓舞されている、そしてそれゆえに彼らの所産は悪である、と教えておられる。第二バチカン公会議におけるエキュメニズムに関する布告は、神がこれらの教会と諸教会共同体とをお用いになる、すなわち、そのものとして、神が彼らを救いの手段としてお用いになると言っている。

ところで、教会の教え、カトリック信仰は救いの手段が聖なるカトリック教会の諸々の秘蹟であるということで非常に明白である。これと並んでいるのは、教え、信仰の遺産、すなわち、教会と教会の教導職によって述べられているもの、神の啓示である。救いの手段であるのは、カトリック信仰であり、カトリック信仰の実践であり、七つのカトリックの秘蹟である。

プロテスタントの諸宗教は、教皇聖ピオ五世がそのカテキズムにおいて教えておられるように、そのものとして、悪魔によって鼓舞されている。第二バチカン公会議の新しい宗教はこれらの悪魔的に鼓舞された諸々のセクトが神によって救いの手段として用いられていると言っている。そしてにもかかわらず、 The Wanderer は、第二バチカン公会議のあらゆる教義的な宣言は不可謬的なものであるとあなたたちに信じさせようとするであろう。トレント公会議と第二バチカン公会議は両者とも正しくはあり得ない!あなたは教えにまったく対立したのである。ただ一つだけが真であり得る。他は偽りである。

第二バチカン公会議において、われわれは非カトリックおよび非キリスト教のすべての諸宗教が善なるものとして記述されているのを見る。公会議教会(すなわち、すべての時代のカトリック教会ではないもの)においては、すべての諸宗教が善なるもの、そして真なるものとして考えられている。公会議教会に従えば、彼らはいくつかの誤謬を持つという不幸に苦しんでおり、そして善と混合されたいくつかの悪がある、しかし彼らは善であり、そして彼らは真である、と。

それは新しいエキュメニカル教会:すなわち、ローマ・プロテスタント・公会議エキュメニカル教会の偽りの教説である。ローマ・カトリック教会は常に一つの異なった教えを持ち続けてきた。ただ一つの真の宗教が存在する。ただ一つの真の教会が存在する。ただ一つの真の信仰が存在する。そしてそれはカトリックである。他のすべての諸宗教は偽りの諸宗教である。他のすべての諸教会は偽りの諸宗教である。それは常にカトリック教会の教えそして信仰であった。

それゆえここにわれわれは、教皇ピオ十二世によって告げられたように、教会史における最大の異端となりつつあるものの始まり -- 世界がかつて見た最も大きな苦しみをもたらすであろうものの始まり -- をすでに見ているのである。

サタンの支配下の教皇?

マラキ・マルタンは、アート・ベル・ショーにおける彼の最後のインタビューの中で、一人の反教皇について話した。オーストラリアから電話で呼び出しをする一人の電話をかけてきた人がいた。そして彼は一人のイエズス会士が彼に第三の秘密において、言ってみれば、完全に悪魔の支配下に置かれた一人の教皇が出るであろうということが明らかにされていると彼に明らかにしたと言った。マラキは答えた。「それは秘密の文字通りの言葉のように響く」と。

教皇聖ピオ十世は、彼が一つの幻視を見たと言われた。そして彼はその幻視の中で、彼の後継者が彼の兄弟たちの死体の上を飛んで行くのを見られた。そしてこの教皇は国外追放の身とならなければならないであろう、ということを見られた。彼は身を隠すことになるであろう、彼は自分の身分を隠すために変装しなければならないであろう。彼は引退して暮らすであろう。しかしそれから彼は発見されるであろう。そして彼は残酷な死を遂げるであろう、という幻視である。

私は、われわれが、これらの預言はベネディクト十六世のこの教皇在位期間において実現されるかもしれないと、安全に結論することができる、と思う。私がこのことをなぜ信じるか、その一つの理由は、私がローマの聖痕を持った人、アントニオ・ルフィニを個人的に知ったからである。私は彼をほとんど20年の間知っていた。彼は1955年に目に見える聖痕を受けた。そして彼は教皇ピオ十二世によって非常に高く尊敬された、それでピオ十二世はルフィニが聖痕を受けたその地点に一つのチャペルを建てることを認可した。

私はルフィニに単刀直入に尋ねた:「ロシアの奉献につ いてはどうですか? ロシアを奉献なさるのは教皇ヨハネ・パウロ二世でしょうか?」そしてルフィニはこう答えた:「いいえ、それはヨハネ・パウロ二世ではないでしょう。それは彼のすぐ次の教皇ではないでしょう。しかしその後の教皇、彼はロシアを奉献する教皇でしょう。」

そのことはヨハネ・パウロ二世と彼の第二番目の後継者との間に、中間のただ一つの教皇在位を残す。彼は教皇ピオ十世が幻視において見られた教皇、懲罰の教皇であろう。聖母がその御出現の一つの中で言われたように、「ローマは一つの大きな革命を経験するでしょう。」それは、バチカンに大量殺戮、大虐殺がある時であろう。そして教皇は変装してローマを逃れるであろう。

「暗闇の偽りの教会」

これは、聖母が、教皇は迫害されるでしょうと言われたとき、意味されていたことである。教会は迫害されるであろう。聖痕を受けたアウグスティノ会の修道女、アンナ・カタリナ・エンメリッヒは偽りの教会、彼女が「暗闇の偽りの教会」と呼ぶものを記述している。正教会とプロテスタンティズムの諸々の誤謬はその偽りの教会によって採用されるであろう。それは一つのエキュメニカルな教会となるであろう。なぜなら、反教皇が世界によって -- 信徒によってではなく、世界によって -- 世俗的世界と世俗的諸政府によって認められるであろう。

反教皇はその「教会」の合法的な教皇として、そしてバチカン国家の合法的な長として認められるであろう。その「教会」はすべての偽りの諸宗教と結びつけられるであろう。それらはフリーメーソンの傘という普遍性の下で一緒に結びつけられるであろう。その混成のエキュメニカルな合体においていわゆる文明化された世界の認められた宗教が存在するであろう。これは、世界がかつて見たことがないような大迫害の時代にわれわれが入って行くであろう仕方である。

決して以前のようではない迫害

「愛の文明」の名において、「一致」の名において、第二バチカン公会議の名において、真の信仰は非合法化されるであろう。ただ法的に認められた宗教だけが大目に見られるであろう。このことの結果として何が起こるかを見るためには多くの想像力を必要としない。ただイギリスとアイルランドの改革を見ればよい。最も恐ろしい残酷な拷問と処刑がカトリック教徒たち、そして特に聖職者に対して遂行された。

司祭たちは捕らえられたとき、吊され、溺れさせられ、そして四つ裂きにされた。

プロテスタントたちは忠実なカトリック教徒のアイルランド人を娯楽の対象として用いた。彼らは頭の上にリンネルの布きれを結びつけ、そしてそれに火を点けるのであった。そしてそのカトリック教徒が燃えているリンネルの布きれを取り除けようとしたときには、彼は自分自身の頭皮を剥ぎ取り、引き剥がすことになるのであった。このことは、カトリック教徒たちがその信仰を断念し、プロテスタントになるよう励ますそれほど穏やかではない一つのやり方であった。

用語、語彙はすでにそこにある。私が言うように、あの迫害がどのように起こるかに関しては、われわれの想像力に残されるものは何もないであろう。認められた宗教を受け入れない大勢に順応しない人々、反抗的な人々、彼らはいかなる種類の取り扱いを受けるか? それはただ、カトリック教徒たちに対して適用されたイギリスとアイルランドにおける刑罰法規をただ見るだけでよい。

アイルランド人のカトリック教徒たちはいかなる教育からも閉め出された。彼ら[イギリス人]は彼らを完全な文盲と完全な無知の状態にとどめおくことを欲した。カトリック教徒たちをプロテスタンティズムで洗脳するための彼らの試みにおいてそれはより容易なやり方であったであろう。プロテスタントたちはすべての土地を所有した。そして彼らはさまざまの穀物、農園動物たちそして家畜を持っていた。

しかしカトリック教徒たちはジャガイモ以外には何も持たなかった。そして[ジャガイモの]胴枯れ病が突然発生したとき、彼らを飢えから救うために何の努力もなされなかった。

イギリス帝国は帝国の市民たちのために一つの法的な解決を探した。その結果、すべての者は種々様々の植民地とイギリス連邦の一部となった諸国において彼の固有の市民権を持ったであろう。

それは、一つの人目を引く例外を伴っていた:すなわち、アイルランド人は国家なしのままに残された。彼らは彼らのイギリス人たる地位を失った。それは彼らが外国に移民として出ることを一層困難なものとした。

この国に戒厳令が敷かれるまで待て。そして一つの非カトリック宗教が確立された宗教となるまで待て。それはわれわれの憲法上の宗教的自由が廃止されるであろう時である。一つの確立された教会が存在するとき、そのとき刑罰法規が存在するようになる。そしてそれは、われわれが、教会の迫害はすべて何に関わっているかを発見するようになるときである。そのとき世界の歴史においてかつてなかったような苦難が存在するようになる。

ロシアは攻撃するであろう

1989年にソビエト連邦の崩壊があったと一般には信じられている。そしてそれ以来、冷戦は終わったと信じられている。しかし、最近、Wall Street Journal でさえ、今や一つの新しい冷戦が存在するということを指摘した。ロシアは西側に対する戦争を準備している。

1年前、私がロシアを訪問したとき、私はロシアにおける諸々の出版物を読んでいた。そしてロシアの政治解説者たち自身、彼らが西側に対して戦争をすることを計画していると認めた。このことの理由は何か? 彼らは合衆国が攻撃的に中央アジアと中東の内部へと動いていると説明している。ロシアの指導者たちは彼らが包囲されつつあるということを非常に憂慮している。彼らは、アメリカ人たちがただそこに一時的にいようとしているだけだと主張しているが、しかしそのとき彼らは留まろうとしているのであり、そしてわれわれ(ロシア人たち)は追い出されようとしている者たちである、と言っている。

アメリカの軍事計画

アフガニスタンの征服そしてイラクの征服のための攻撃は外国のテロリストたちの行為に対する一つの反応であったと一般には述べられている。にもかかわらず、アフガニスタン、イラク、イランの征服はずっと以前に、2001年9月11日のずっと前に計画されていたのである。

古い諺が言うように、Veribus scriptum manent -- 書かれた言葉は永遠である。

遡って1990年代に書かれた目前の、近い未来の外国政策であろうものを概略している諸々の文書が存在する。そしてこれらの文書はそれらの国々の征服を要求しているのである。なぜなら、フリーメーソンの政府(政府の内部の秘密の政府である)が(ブッシュ一世が1991年9月11日に、われわれは世界の中に確立することを望んでいると言ったように)世界の中に新世界秩序を確立することを望んでいるからである。

新世界秩序

新世界秩序は完全にフリーメーソン的なものである。そしてその宗教はフリーメーソン的である。あなたは1ドル紙幣を眺める、そしてあなたは「神にわれわれは信頼する」という表現を見る。あなたはその表現の左側を眺める、そしてあなたはどの神について彼らが話しているかを見る。あなたはピラミッド、エジプトのピラミッド、三角形そして目を見る。そしてあなたは、いわば、あの三角形から発している太陽光線を見る。

ジョージ・ブッシュ一世は光の一千の点に言及した。光の一千の点、これはフリーメーソンの光、フリーメーソンの太陽神、異教的エジプトの太陽神の光である。アルバート・パイクが彼の Morals and Dogma of Freemasonry 「フリーメーソンの道徳と教義」において言っているように、「光の保持者ルチフェル、それを疑うな」。それは「われわれは神に信頼する」と彼らが言うとき意味している者である。

テロリズムと戦うという名において、彼らは戒厳令を完全に実施するであろう。それは舞台に上りつつある。合衆国憲法において、憲法における諸々の自由はすでに大きく取り消されてきた。それから、「宗教的狂信の徒」だと決定された人々が彼らの家庭から取り除かれ、そして収容所へと送り込まれるであろう。私はこのことについてすでに1989年に話した -- 緊急事態において、すべての財産、すべての車両を押収し、そして民間人を逮捕し、そして彼らを収容所へ送り込む権限を政府に与えるジョージ・ブッシュ一世によって制定された「行政命令」である。その「行政命令」によって彼らは法律の力を与えられた。これは北アメリカにおける教会の迫害となるであろう。そして戦争が起こるであろう。

第三次世界大戦

諸々の時代を通じてずっと諸聖人のすべての預言において、そして聖母の最も信頼できる確実な御出現において、一致して一つの恐ろしい世界大戦が起こるだろうということが明らかにされている。

それは突然、東から西へ向かって勃発するであろう。聖母はシスター・エレナ・アイエロに「ロシアが秘密の軍隊をもってアメリカを攻撃するでしょう」と言われた。ロシア人たちはすでに特別軍と共産主義赤色チャイナと共に彼らが訓練したアラブのテロリストたちを持っている。彼らは、合図が与えられる日を待っている大軍、秘密の軍隊を持っている。それから彼らは一緒に爆発し、西側、そして合衆国、そして北アメリカの至る所において大混乱を作り出すであろう。

そして彼らはヨーロッパを攻撃するであろう。朝には世界は平和のうちにあるように見えるであろう。夕方には全世界は戦争の中に投げ込まれるであろう。聖母はこう言われた:「もし人々が回心しないならば(もし彼らが彼らの罪から立ち帰らないならば)世界は戦争、飢餓、教会の迫害そして教皇の迫害によって罰せられるでしょう。」私は、われわれがすでに、戦争、飢餓、教会に対する迫害、そして教皇に対する迫害のその時に起こるであろうシナリオについてある考えを持っていると考える。

聖母は、諸聖人および偉大な聖性の評判をもって亡くなった他の聖なる個人たちの多くの預言と並んでこう言われた:「悪が勝利しているように見えるでしょう」と。そしてそれはマリアの汚れなき御心の勝利が始まるであろう時である。

ロシアは、回心して、神の敵どもを征服するであろう

ロシアを奉献させないためにあらゆる言い訳がなされている。彼らは、われわれはロシアを奉献することはできないと言っている、なぜなら、そのことは教会の迫害を引き起こすからである、と。教会はロシアにおいてすでに迫害されている。しかし聖母は奉献が教会の迫害をもたらすでしょうとは仰らなかった。聖母は奉献がロシアの回心をもたらすでしょうと言われた。ロシアが回心するとき、ロシアは教会を迫害することを止めるであろう。

単にそれだけでなく、ロシアが回心するとき、(そしてロシアはまさにその日までなお地上における最も強力な軍事的超大国である)、カトリックの伝統は、世界がかつて見た最も強力な軍事的超大な力を持つことになるであろう。ロシア正教会の人々は非常に信頼に足る伝統主義的な人々である。今日、彼らはローマ教会を恐れている。なぜなら、彼らは教会における第二バチカン公会議プロテスタント革命を見たからである。彼らはどのように教会が大きく破壊され、転覆され、堕落させられたかを見た。彼らがこのことが彼らの伝統に起こることを許すというそのような考えは我慢できないものである。

私がロシアにいたとき、一人の非常に高い教育を受けたモスクワ市民は私にこう説明した:ロシアにおいては、もしあなたが典礼における一つの祈りの言葉遣いをただ変えようとしただけでも、それは異端に等しいと考えられたであろう、と。正教会の信徒たちはそのことに対して反乱を起こし、そのような変化を拒絶するであろう。しかし彼らはローマ教会において、諸々の変化に対し、聖書において予告され、ファチマの第三の秘密においてもまた予告された大背教へと教会を導いているプロテスタント化する諸々の変化に対して非常にわずかの抵抗しか存在しないということを見た。

しかしロシアの回心と共に、伝統的な正教のロシアは伝統的なカトリック・ロシアとなるであろう。そしてそのことは新世界秩序を押し潰すであろう強い影響力を与える精神的な力となるであろう。

恐れるな

世界はまさに一つの恐るべき戦争の中へと投げ込まれようとしている、とピオ十二世は言われた:「世界は間もなく世界史の中でかつてなかったような苦難を経験しなければならない。」悪魔はすべての悪:戦争、苦難、飢餓、飢え、教会に対する迫害、の作者である。その悪は彼の手先であるフリーメーソンを通じて遂行されている。

彼らは、全世界に広められた一つの確立されたフリーメーソンの宗教でもって彼らがわれわれの国を破壊し、それを一つのファシストの共和国、ファシストの独裁制へと変え、一つの世界共和国の中心とすることができるように、ルチフェルが礼拝され、そしてイエズス・キリストが冒涜されるように、諸々の攻撃の背後にいる者たちである

しかしわれらの主イエズス・キリストは言われた:「恐れるな、私は世を征服した!この世の君は彼の玉座から投げ出された!」キリストは永遠の王、主たちの主、王たちの王であうということを思い起こそう。そして全能の御父は言われた:「あなたは私の子である。今日私はあなたを生んだ。あなたの手に錫杖を置いたのは私である。そしてあなたは諸国を支配するであろう。」王であるのはキリストである。そして聖母はそのことをわれわれに思い起こさせるために来られたのである。

キリストが勝利なさるのは聖母を通じてである。「終わりに、私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして平和の一時期が世界に与えられるでしょう。」聖母は言われた;「すべてのことが失われ、そして悪が勝利しているように見えるとき、そのとき私の時が来るでしょう。」

聖母の勝利によって、カトリック教会、カトリック信仰は全世界中で勝利するであろう。そして全世界はこう告白し、そして高らかに歌うであろう:Christus Vincit, Christus Regnat, Christus Imperat:すなわち、キリストは打ち勝たれた、キリストは支配なさる、キリストは君臨なさる、と。

2005/08/29三上 茂試訳

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作成日:2005/08/29

最終更新日:2007/09/27

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