2007年までに完成が予定されているファチマの新しいコンクリート製のバシリカの将来のオープニングに結びつけられて、2月17日と18日の週末、シスター・ルチアの遺骸の移送のときにファチマで一つの特別の会議が開催された。その会議は「聖域 - 人間に有利である神のイニシャティヴ」と題されており、ゲッラ主任司祭の主宰であった。
それは金曜日の夕方と土曜日一日中行われ、約八名の講演者を誇る会議であった。私はその一部に参加した。そして一人のポルトガル語を話す協力者が会議全部に参加した。
その会議の明らかな目的は聖堂におけるボランティアの数を増やすことであった。それは今ある建物のためであり、同様にまた新しい教会が開かれる時のためである。それは諸宗教間のイベントではなかった。それゆえそれは、私が参加した2003年のファチマ会議で演じられた諸宗教間行事の狂気は含まれていなかった。注1)言われたことのあるものは興味深いものであり、建設的であった。他のさまざまの発言はやっかいなものであった。
良かったことについて言えば:われわれはファチマに来た巡礼者たちのうちの90%がポルトガル人であり、そして10%が外国人であることを知った。われわれはまた、巡礼を徒歩でするなお多くの peregrinos (巡礼者を意味するポルトガル語)がいることをも知った。
ドン・アウグスト・セザル司教 - 私は他のことは彼について何も知らない - は御聖体は御出現の中心である、巡礼者たちは霊的に変えられて家に帰るべきである、彼らは沈黙を求めて[ファチマ]聖堂に来るべきである、そして聖堂は娯楽のための場所ではないと言われた。彼はまた罪人たちの回心に対するファチマの三人の子どもたちの献身についても話された。
ロペス修道士の諸々の誤り
悲しいことに、何人かの講演者たちの口から出された困惑させる陳述もまたあった。例えば、ロペス・モルガド修道士、OFM はこの聖域への歓迎と歓待に関する思考体系のための聖書的な基礎(彼のテーマ)を見出そうとす彼の講演を行った。この発表の中で彼は、キリストが異教徒たちと一緒に食事をなさったと同じように、われわれの教会はわれわれのカトリック宗教に属さない人々に対して歓待の精神を広げることができる、と言いながら、異なる諸宗教の間の[交流という]アプローチを正当化しようと試みた。
この陳述は誤解を招くものであり、そして意識的に正確さを欠いている。一方において、いかなるカトリック教会あるいは聖堂も、カトリックの儀式に参列したり、教会の内部を見たり、あるいは私的に祈りをするために、教会に入ろうと望むいかなる非カトリック教徒に対してもその扉を閉ざすことはない。しかしカトリック教会は常に非カトリック教徒が彼ら自身の儀式をするという目的のために、あるいはアングリカンの牧師たちのための黙想会のために、あるいは内陣においてヒンドゥー教徒[がした儀式]のような、何らかの種類の非カトリック的な祈りの儀式のために、その扉を開くことを禁じてきた。教会はまたそこでカトリック教徒が非カトリック教徒と一緒に公的に祈るいかなる種類の祈りの集いをも禁じた。
教会が常にこのように行動してきた理由は単に、時間を超えて合法的に変化し得る規律的な理由のためではない。むしろそれは、カトリック教会が神によって啓示された唯一の真の教会であり、そしていかなる仕方でも偽りのそして人間によって作られた諸宗教と同一のレベルに置かれることはできないからである。
例えば、教皇レオ十三世はその回勅 Libertas において、「真理と誤謬が同等の権利を持つべきであるということは理性に反する」ことであると教えられた。にもかかわらず、エキュメニズムは、2003年10月にゲッラ主任司祭によって主催されたファチマ諸宗教間会議で近代主義者のジャック・デュピュイ神父が言ったように、誤謬と真理とを「対話における同等のパートナー」として措定する。
教皇レオ十三世はさらにその回勅 Immortale Dei において、神礼拝の種々様々の形式を真の宗教と同一の立場に置くことは不当」であると言われた。同じ線に沿って、教皇ピオ十一世はその回勅 Quas Primas において、諸政府が「キリストの真の宗教を偽りの諸宗教と同じレベルに、そして恥ずべきことにそれらと同じカテゴリーに」置いたことをひどく嘆き悲しまれた。もしこの[宗教]無差別主義を採用することが諸政府にとって十分に悪いことであるとするならば、カトリック教会において、あるいはカトリック施設において、そのことがエキュメニカルなそして諸宗教間[交流]の構想を通じて起こるときにはどれほどはるかに悪いことであろうか?
われらの主は、ただその位階的な構造と七つの秘蹟を持つカトリック教会だけを生む御自分の貴い御血のすべての滴を注ぎながら、十字架の上でお亡くなりになった。他のすべての宗教は単純にカトリシズムよりは不完全である良い組織であるのではない。むしろ、それらは偽りの宗教である。すなわち、それらは人々を神に、そして救いに導くという偽りの印象を与える偽りの宗教である。これらの偽りの宗教はそれらの信奉者たちの主観的意図がどうであれ、キリストの明白な意志に反して立てられているのである。
ひとたびカトリック教会がその壁の内部で公的に祈る偽りの宗教のメンバーたちにその扉を開くと、そのことは、これらの宗教が救いのために十分に良いものである、そしてこれらの偽りの宗教のメンバーたちが救いのためにキリストがお建てになった唯一の真の教会に改宗する必要がないという誤った印象を与える。今日の諸宗教間活動は、すべてのカトリック教徒が以下の神的なそしてカトリック的な信仰をもって信じなければならないフィレンツェ公会議で決定されたカトリック教会の不可謬の教義に完全に反する:
「いとも聖なるローマ・カトリック教会は、カトリック教会の外部にいる人々 - 単に異教徒ばかりでなく、ユダヤ人も、異端者もそして分離主義者もまた - のうちの誰一人、彼らが死ぬ前にカトリック教会に加えられていない限り、永遠の生命に参与する者であることはできないのであって、彼らは「悪魔とその使いたちのために備えられた」(マテオ25:41)永遠の火の中へ入っていかなければならない。...誰も、たとえ彼の慈善がどれほど大きかろうと、誰も、たとい彼がキリストの御名のために自分の血を注ぎ出そうととも、彼らがカトリック教会の懐のうちに、そしてその一致のうちにいない限り、救われることはできない、ということを固く信じ、公言し、かつ忠告する。」注2)
同じように、永遠的なカトリック教義に忠実であった福者教皇ピオ九世はその Syllabus of Errors の中で、「プロテスタンティズムは同じ真のキリストの宗教の別の形式である」と信じることは一つの誤謬であるということを教えられた。にもかかわらず、今日のエキュメニズムは、実際のところ、プロテスタンティズムを同じ真のキリストの宗教の別の形式に他ならないものとして扱っており、これは福者教皇ピオ九世によってまさしく避難されたその誤謬である。
ファチマで擁護されている今日のエキュメニズムと諸宗教間実践はこのように、そのような活動を断罪している諸世紀を通じての教皇の明白な教えに反しており(教皇ピオ十一世の回勅 Mortalium Animos を見てください)、スキャンダルのための、そして諸教皇によって一貫して断罪されてきた宗教的無差別主義の異端のための証明された飼育場なのである。
注:
「ファチマ、異教徒間の聖堂になるか? -そこにいた者からの報告-」ジョン・ヴェナリ、The Fatima Crusader The Fatima Crusader ,Issue 75 Winter 2004,。ウェッブ上ではwww.fatima.org/news/newsviews/111303.asp
教皇エウジェニウス四世、教皇教書 Cantate Domino , 1441,[フィレンツェ公会議], Denzinger, 714.
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作成日:2006/06/29
最終更新日:2006/06/29