ファチマ・クルーセイダー

悪魔的な方向感覚喪失

「悪魔的な方向感覚喪失」という言葉は最近ますます頻繁に会話において用いられるようになっている。それは何であろうか? それは何を意味しているのであろうか? それは私と何の関わりがあるのだろうか? グルーナー神父はカトリック教会の大きな部分を集合的に、また信徒の多くの個人の霊魂を徐々に冒してきたこの伝染病に関するあなた方の質問に答えている。

The Fatima Crusader Issue 83, Summer 2006

ニコラス・グルーナー神父、S.T,L., S,T,D.(Cand.)

ある人が方向感覚を喪失しているとき、その人は混乱の状態にあり、その進路を見失っている。彼は事柄を明瞭に理解しない。それはどこかへ行ってベッドや窓や扉が家のあなた自身の部屋とはすべて異なっている部屋に眠っていることに似ている。そして真夜中に突然目が覚めて起き上がり、最初方向感覚を喪失し混乱する - 私はどこにいるのか? 扉は何処か? 窓はどこか? そのように大抵の人は実際に方向感覚喪失を経験したことがあるのである。

他方において、悪魔的な方向感覚喪失はある人が悪魔のさまざまの策略によっって方向感覚を喪失させられるときのものである。これらの悪魔的な策略は単にテレビや映画で描かれる一種の憑依[何かにとりつかれること]ではない。悪魔的な方向感覚喪失の提供者たる悪魔はしばしばターゲットにした人物に何とかして現実とはまったく異なる知覚を与えようとする。しかも、そのように悪魔的な方向感覚喪失をさせられた人物は彼が考えていることが、実際は一つの嘘であるときに真理であると確信させられているのである。

個人と社会が影響を受けている!

悪魔は諸々の個人に、彼らの富と成功のゆえに彼らが神によって祝福されている - 同時に彼らが罪を犯し、欺き、嘘を言い、そして自らを真っ逆様に地獄へと投げ込んでいるときに - と考えさせることによって彼の方向感覚を喪失させるのである。

個人の悪魔的方向感覚喪失よりももっと悪いのは神と神の御母を侮辱する社会全体の方向感覚喪失である。

悪魔は権力、金銭、不法な快楽、誤った野心、彼ら自身の母胎における彼ら自身の赤ん坊たちの殺人などの多くの追求を持っている。世界における最も貴重な贈り物は子どもたちである。にもかかわらず悪魔は明らかに人々を、彼らが子どもたちを中絶することによってよいことをしていると考えさせるように騙しているのである。

中絶を支持している医師、看護婦、政治家、そして一般公衆でさえ方向感覚を喪失している - そしてそれは年に五千万人の赤ん坊を殺し、その上その悪事を犯す人々をもし彼らが悔い改めないならば永遠にわたって地獄へと送るという致命的な結果を持っているのである。

いくつかのカトリックのネットワークさえ方向感覚を喪失している

大規模な方向感覚喪失はEWTN:A Network Gone Wrongにおいて記述されている。この書物はいわゆるカトリック・テレビ・ネットワークであるEWTNが彼らの異端と彼ら自身のブランドの方向感覚喪失をあたかもそれがすべて「福音の真理」であるかのように放映することによって実践的なカトリック教徒たちさえをどのように誤り導いているかを暴露している。

EWTNの方向感覚を喪失した指導部は洗礼によって信仰の真理を受けた多くのカトリック教徒を欺いている。EWTNにいるこれらのカトリック教徒たちはキリストの真の教会を認めている。にもかかわらず、彼らは先へと進み、そして少なくとも暗々裡に信仰箇条の一つあるいはそれ以上のものを否定している。そのことは彼らを質料的な異端者にしているのである。

ひとたびカトリック教徒が彼の誤りが直接的にカトリック信仰に反することを意識するようになりそしてその誤りを拒否しないことにおいて頑固となるや、彼は単に質料的な異端者ではなくて、形相的な異端者となる。

質料的な異端者とは異端を信じているがしかしそれが異端であるということを知らない人である。例えば、ある人が自分は神の超自然的な恩寵の助けなしに善良であり得ると考え、そしてこれがペラジアニズム(自然主義)の異端であるということを理解していない場合である。

このように、善意をもって、彼の理論が異端的であるということを知らない(誰もこれまで彼にそのことを指摘しないから)ならば、われわれは彼が形相的な異端者ではないと見なさなければならない。彼はカトリック教会が教えるものを受け入れることを拒否していないのであって、明らかにカトリック教会が教えるものをただ知らないのである。

他方において形相的な異端者は彼が信じていることがカトリック教会によって決定されたことに反するということを知っている人間である。われわれの上述の例に従えば、カトリック教会は善良であるためにはわれわれは超自然的な恩寵を持たなければならないと荘厳に教えている。しかしそのことを知っているにもかかわらず、形相的な異端者はその教義を受け入れることを拒否し、そしてそれでもなお自分はカトリック教徒であると主張するのである。

形相的な異端者はカトリック教徒であることはできない。なぜなら形相的異端者は ipso facto[まさにその事実によって](すなわち、形相的な異端を犯すという行為によって)彼自身を教会から切り離すのであり、そしてそれゆえにもはやカトリック教徒ではないからである。あらゆる罪がある人を教会から切り離すのではなくて、異端の罪がその人を切り離すのである。

われわれが今日経験している悪魔的方向感覚喪失は単に大部分の非カトリック教徒が方向感覚を喪失しているということだけではない。また彼らは彼らがしている - カトリック教会に入ることを拒否している - ことが重大な罪であるということを彼らが知らないということでもある。そしてまた彼らは神がなぜ彼らを創造なさったかをも知らず、そして彼らが天国へ行くために何をしなければならないかを知らないのである。

われわれがここで話している悪魔的な方向感覚喪失は、自分たちは神に奉仕していると考えているが、しかし教会が常に教え実践したものに重大な仕方で反している信念や実践を奉ずるカトリック教徒の方向感覚喪失である。この方向感覚喪失は悪魔によって諸個人のうちに、そしてカトリック人口の大きな部分において産み出されてきた。

盲人が盲人を導いている

われらの主はファリザイ人たちについて言われたときこのことについて話された。「彼らはめしいにしてめしいの手引きなり、....二人とも穴に陥るべし」(マテオ15:14)。もし盲人がもう一人の盲人によって導かれることを自らに許すならば、その公算は彼ら二人とも、手引きも導かれる者も、溝あるいは深い井戸の中へ陥るであろうということである。身体的に盲目である人に起こることはまた霊的に盲目である人にも起こるであろう。彼は自分の道を失い、彼がどこに行くかを知らない。そして盲目の手引きに従い、最も確実に悪い場所 - 地獄 - に終わるであろう。

それが今日起こっていることである。悪魔的な方向感覚喪失は単に単純な人々の間にあるだけではなく、単に神の掟を守らない罪人たちの間にあるだけではなくて、悪魔的な方向感覚喪失は同じようにまた指導層にも影響を与えた。

実際、この悪魔的な方向感覚喪失を患っているのはすべてのもののうちで大部分教会の指導層であると思われる。

シスター・ルチアはフレール・ミッシェルによって引用されたさまざまの手紙の中でこのことについて話した。彼女はまたそれについて、彼女が次のように述べたとき、フエンテス神父とのインタビューの中で話した:

「悪魔は神に最も背くことが何であるか、そしてどれが短い時間で彼のために最大数の霊魂を獲得するかを知っています。」

「このように悪魔は神に奉献された霊魂たちを制覇するためにあらゆることをします。なぜならこのようにして悪魔は彼らの指導者たちによって見捨てられた信徒の霊魂を離れさせることに成功し、そのことによってもっと容易に彼らを捉えるでしょうから。

日曜日に教会に行って祈りを唱えるが、しかしまたこの方向感覚喪失によって感染させられる多くの敬虔なカトリック教徒がいる。それは彼らが、彼らの洗礼の恩寵と堅振の恩寵に反するこれらの盲目の指導者たちを信頼しているからである。彼らは指導者たちが、「われわれに従いなさい、われわれは正統で保守的な真のカトリック者である...われわれに従いなさい」と言うとき、彼らを信用しているのである。

教会における多数の方向感覚を喪失した人々は、実際は彼らが悪魔に奉仕しているときに、彼らの宗教を生きていると主張しながら多くの時間を費やしている。彼らがサタンに奉仕しているときに、神に奉仕していると彼らに考えさせそして実際に信じさせるために、悪魔にとって彼の諸目的に奉仕する人々を獲得することはまったく一つの妙技である。これは悪魔的な方向感覚喪失の典型である。

「悪魔的な方向感覚喪失」という文言はどこから出たか?

その言葉を造り出したことに対してわれわれはファチマのシスター・ルチアに感謝することができる。あなたはそれを彼女の書き物に、特に1969年と1971年の間のそれに、見出すであろう。彼女は繰り返しこの陳述に立ち帰っている。

第二ヴァチカン公会議以来教会における非常に多くの変化と共に忠実なカトリック教徒たちと友人たちはシスター・ルチアに、さまざまの聖職者、司教たちや司祭たちの奇妙な活動を知らせた。カトリックの信徒は何かが間違っているということを知っていた。そしてそれゆえに彼らはこのことについてシスター・ルチアに助言を求めた。彼女はそれは悪魔的な方向感覚喪失であると説明した。悪魔がその背後におり、そして悪魔は多くの人々を、驚くべきことに司教たちや枢機卿たちをさえ、誤り導いた、と言った。そして彼女はそうは言わなかったけれども、おそらく教皇自身をさえ誤り導いたであろう。

なぜわれわれはこれまでにこの脅威について聴かなかったのか?

その言葉と共に浮かび上がって来たのはシスター・ルチアではなくて、むしろファチマの第三の秘密における祝せられたおとめ御自身であったであろう。第三の秘密は1960年までに明らかにされることになっていた。しかし今日に至るまでそれは完全には明らかにされて来なかった。

第三の秘密は教会における背教のわれわれの時代を予告している。われわれはチアッピ枢機卿がこう言っておられるがゆえにこのことを知っているのである:「第三の秘密においては、他のこともいろいろあるが、大背教が教会においてトップのところで始まるということが予告されている。」このことはヴァチカンにおける多くの枢機卿たち、司教たちそして司祭たちが信徒を誤り導いているそして彼らを背教へと導いているということを意味している。

すなわち、多くの信徒は2000年の間カトリック教会によって教えられたものとしての神の教義的な教えと道徳的な教えに反する異端、分裂、反逆へと導かれているのである。もしあなたが今日周りを見るならば、教会において進行している多くのことは教会が何世紀にもわたって一貫して信じかつ教えてきたことに反しているのである。

われわれは第三の秘密においてこの悪魔的な方向感覚喪失とその御用達および奨励者たちに気をつけるように警告されていたのである。特にそれはわれわれに悪しき牧者たちに用心するように警告している。われわれは彼らが罪があるかないかという意味において悪いと言っているのではなくて、彼らが羊を天国の方へではなく、地獄の方へ誤り導いているという意味において悪いと言っているのである。

ピオ十二世教皇が死の前に秘密のテキストを明らかにすることを選ばれなかったので、それは何人かの方向感覚を喪失した人々、枢機卿たちや司教たちの手に残された。彼らは順々に、第三の秘密において記述されていたのは彼ら自身、そして彼らの異端や背教や分裂であるということを明白に認識していた。

一方において、彼らはファチマのこのメッセージを信じなければならないことはない、なぜならそれは単に一つの私的啓示に過ぎないからである、と自分たち自身に告げた。他方において、彼らは彼らの心、精神そして公的立場において彼らの方向感覚喪失が彼らに与えた諸々の誤謬を採用することへと引き渡され、その結果第三の秘密は決して明らかにされないということを見るために、彼らの影響の力、彼らの立場そして彼らの説得の力のすべてを用いたのである。

それゆえ、一般的に信徒はこれらの悪魔によって方向感覚を喪失させられた司祭たち、司教たちそして枢機卿たちを信じ続けた。その一方で高い権威を持ったこれらの同じ教会人たちは秘密への彼ら自身の私的な接近を通じて予め警告されることができ、そして彼らの誤謬の主要な敵を認識することができた。

完全なファチマ・メッセージを促進する人々は悪魔によって方向感覚を喪失させられた聖職者たちが最も恐れなければならなかったまさにその人々である。それゆえに、彼らは彼らの攻撃のほこ先をマリアの使徒たちそして完全なファチマ・メッセージを促進している人々に向け、同様にまた伝統的な信念や実践を擁護する人々を攻撃した。なぜならそれはそこで悪魔が悪魔的な方向感覚喪失を通じて霊魂たちに対する彼の攻撃を行う場所であるからである。もし彼が霊魂たちを信仰から、そして恩寵の諸々の水路から切り離すことができるならば、そのとき彼は確実に彼らを地獄へと引き込むのである。

第三の秘密と共に葬られたファチマの警告

背教の指導者たちは信徒たちに与えられる筈であったファチマの秘密における天から来る警告と勧告の多くのものを沈黙させた。

その代わりに彼らは第三の秘密を盗み見てそれを教会と信仰の擁護者たちに反対して用いた。

彼らは第三の秘密を1960年に葬り、そして今なおそれを葬り続けている。これがあなたたちがこれまで完全な第三の秘密を聴かなかった理由である。そして、彼らがファチマを促進している振りをしている一方で、なぜ実際にはファチマと戦っているか、その理由である。

ファチマ聖堂の当局者たちが2004年春にあのカトリックの聖域においてヒンドゥー教の礼拝を許したとき、われわれはファチマそれ自身におけるこの悪魔的な方向感覚喪失を見たのである。

彼らはこのことを聖にして善なる事柄であると主張しながら一般公衆に提示した。しかしたといゲッラ神父のような聖堂の指導者がこれを背教の一つの行為として認めないとしても、多くの人々(彼らのうちのある者はしばしば教会に行くことさえしない)はこれを背教、神聖冒涜そして不敬として認めるということに注目することは元気づける事柄である。

あなた自身とあなたの家族を守りなさい

[1]この悪魔的な方向感覚喪失に対する防御の第一線は祈ること、特にロザリオを祈ることである。聖母はもしあなたが毎日ロザリオを祈るならば、あなたは異端に陥ることはないでしょうと約束なさっている。そしてもしあなたがすでに異端に陥っていたならば、毎日ロザリオを祈ることによって祝せられたおとめはあなたをその異端から引き出してくださるであろう。

[2]カトリック教徒は毎日ロザリオを祈らなければならない。特に彼らは悪魔によって方向感覚を喪失させられた指導層によってほとんど完全に取り巻かれており、同様にまた悪しき指導者たちに従って背教へと陥っている同僚たちや仲間たちに取り巻かれているからである。あなたについてのあなたの五感と頭を守り、この方向感覚喪失によってあなた自身感染した者とならないためにあなたは毎日少なくともロザリオ五連を祈る必要がある。

シスター・ルチアはこう説明した:

「人々は毎日ロザリオを唱えなければなりません。聖母は、われわれが誤った教義によって騙されないように、そして祈りとわれわれの霊魂を神へと高めることを通じて信用を落とさないように、あたかも悪魔的な方向感覚喪失のこれらの時代に対して予めわれわれを武装させるためであるかのように、すべての御出現においてこのことを繰り返されました。」

[3]よいカトリックのカテキズム、トリエント公会議のカテキズムあるいは聖ピオ十世のカテキズムあるいは1880年に出版されたボルティモア・カテキズムのような1960年以前に出版されたカテキズムを読み学習することによってあなたの信仰を知りなさい。

[4]悪魔とその追随者たちの策略と諸々の技巧を学ぶことによってあなた自身を守りなさい。

自分たち自身はカトリックであると信じているかも知れないが、しかし背教と不道徳を促進している役者たちのある者について知識を得なさい。EWTN:A Network Gone Wrong[EWTN:誤りに陥ったネットワーク]を読みなさい。それはカトリックであると主張しているがしかしそうではないさまざまのチャンネルによってあなたに売りつけられている悪魔的な方向感覚喪失の一つの主たる例を提供している。彼らは善意であるかも知れないがしかしカトリック信仰を教えていない。

EWTN:A Network Gone Wrong は方向感覚を喪失した司祭たち、枢機卿たち、司教たち、修道者たち、修道女たちそしていわゆるカトリック諸制度によって今日教えられている指導的な諸異端のいくつかを列挙している。

不可謬的な諸決定はなくなることができない

その書物の美しさはそれが、ローマ・カトリック教会がわれわれに保証している荘厳な諸決定が不可謬的であるということに立ち戻ってあなたにそれを指摘していることである。すなわち、教皇と諸公会議(第二ヴァチカン公会議ではない、というのは第二ヴァチカン公会議にはいかなる公式的な明白な不可謬的決定も存在しないからである)の教義的な布告の趣旨と意味に対してわれわれが忠実であるかぎり、われわれは絶対的に安全な立場に立っているのである。

その教義を固守しなさい - それに踏みとどまりなさい。信仰に関しては、われわれは、これらの不可謬的な諸決定によって定義されたものとしてのカトリック信仰に踏みとどまっているならば、天使たちと神の側にいることは確実である。われわれはこのようにしてもし誰かが(それが司祭、司教、枢機卿、教皇あるいは平信徒であれ)これらの決定に反したことを言うならば、悪魔的な方向感覚喪失と誤謬を認めるであろう。われわれは諸決定を信じなければならず、そしていかなる聖職階級のであれこれらの盲目の指導者の誤った教えを拒絶しなければならない。不可謬的な諸決定は最高の決定である。

それらが不可謬的と呼ばれるのは、教会がわれわれにこれらの決定はなくなることができないそして誰も、教皇でさえ、それらに反対のことを言うことができないと告げているからである。われわれは、不可謬的な諸決定を信じているかぎり、カトリック教徒であり、そして神御自身が福音、伝統、イエズス・キリスト御自身そして聖書を通してわれわれに教えておられることを信じているのである。

[5]あなたはまた『悪魔の最後の戦い』をも読むべきである。それは、なぜわれわれは、第三の秘密が背教についてのものであるかを知っているかそしてなぜわれわれは、それが異端を促進しているカトリックの司祭たち、司教たちそして枢機卿たちに言及しているかを知っているのかをあなたにもっと詳しく説明する。

この書物はまた、何が起こりつつあるか、彼らが自分たちは信仰を擁護している者たちであると信じているときでさえ、誰が実際に神およびカトリック教会の友人であり、誰が実際に敵であるか、をあなたがより高度のレベルで認識することができるように、あなたが彼らの動機を(彼ら自身の書き物から取られた)理解する助けとなるであろう。

上述のこれら五つの点はあなた自身の救いを守るためにあなたがなすことができる事柄である。他の人々に対する愛と正義においてわれわれはまた悪魔的な方向感覚喪失について何かをすることを義務づけられている。あなたはあなたの子どもたちを教育し、あなた自身で彼らにカトリック教義を教えなければならない。なぜなら多くのいわゆるカトリック学校は異端を教えているからである。あなたは真のカトリック教会が何を教えているか、そして真の教会とは何か、またカトリックであるように見えるが実際にはカトリックではない人々をどのように確認するかを子どもたちに詳しく十分に説明しなければならない。

あなたたちはまたあなたたちの夫、妻、そして成人の兄弟姉妹、並びに隣人や神に奉仕しようと努めているあなたの知っている誰にでもその言葉を伝えるべきである。

われわれは現代の悪魔的な方向感覚喪失に反対しなければならない。シスター・ルチアはこう言った:

「これは世界に押し寄せ霊魂たちを誤り導いている悪魔的な方向感覚喪失です!それに対して立ち上がる必要があります。そしてこの目的のためにあなたは私がここで告げることを用いることができます...」

悪魔的な方向感覚喪失をどのように認識するか

われわれはカトリック教会が荘厳にそして明白に教えたこと、あるいは聖人たちが教えたことにまったく反するある事柄を誤謬と認めることができる。

一つの例を挙げてみよう。アリウス派の人々は異端者であるアリウスに従う異端者たちのグループである。そして西暦325年にアリウス派の異端はニケア公会議によって断罪された。アリウス派はイエズスが神のペルソナではなく、御父である神と等しくなくて、御父である神よりも何らかより劣った仕方において神的であると考えられると教えた。

それゆえにニケア公会議はイエズスは常に神である、「神よりの神、光よりの光、真の神よりの真の神、生まれたが造られたのでなく、御父と実体において同一」であると決定した。

鍵になる言葉は同一実体 consubstantial である!同一実体とはイエズスが御父と同一の実体の方であるという意味である。唯一の神が存在する。御父なる神はある仕方で一つの神性を所有しておられる。そしてイエズス・キリストは別の仕方で同一の一つの神性を所有しておられる。両者は同一の実体のものである。聖霊なる神もまた御父と御子と同一実体である。

アリウス派はそれがニケア公会議によって決定された後でさえ、およそ十年間地下に潜り、アリウス派でなくて正統派であった司教たちを取り除くためにその時間を要した。彼らはこれらの真のカトリック司教たちを、彼らの目的を達成するために教会や国家の諸々の法律を用いながら、一つあるいは他の口実によって、巧妙な手段を用いて役職から取り除いた。彼らは真のカトリック司教たちに対して生活を悲惨なものにすることによって彼らの役職からある司教たちを辞職するように強いた。

キリストに対する攻撃

A.D.336年にアリウス派は一つの言葉の一つの文字を変えた。Homoousion は「同一実体の」を表すギリシア語である。その言葉はニケア公会議の荘厳な決定において用いられた。アリウス派は一つの"e"をその言葉に加えそれを Homoeousion と読ませるようにした - その言葉は「実体においてのように」ということを意味した。アリウス派はこのようにして定義の意味を「父と同一実体」から単なる「父に似た」に変えたのである。

この言語的体操[今日近代主義者たちが用いているものに似た]によって、彼らは十分な混乱と無秩序を引き起こすことができ、カトリック教会における権威の地位にカトリックではなくて、アリウス派である司教たちを昇進させるために皇帝の世俗的権力を得ることができた。

信徒たちを彼らの異端に協力させるために彼らはミサの中へ手による聖体拝領のような新しい実践を導入した。このことの目的はイエズスが御父なる神に等しい方ではないという新しい教説への信仰を強化し、その結果ホスチアを使徒たちによって教えられたように舌で受ける代わりに、彼らは聖なるホスチアをそれがそれほど重要でないかのように取り扱ったのである。このようにして彼らはホスチアを彼ら自身で手に取るように平信徒や修道者たちに奨励した。

聖なるホスチアに対するカトリック的な崇敬と礼拝は、イエズスを神として礼拝しないように、そしてイエズスを相応しい深い崇敬をもって取り扱うことがないように、彼らの追随者たちと混乱したカトリック教徒たちに教えたアリウス派の人々によって破壊された。

それゆえにカトリック教会において多くの信徒たちは A.D.336年と 381年の間およそカトリック司教たちの90%によって誤り導かれたのである。A.D.359年と361年に彼らは偽公会議をさえ持った。

彼らはまたA.D.326年から371年までエジプトのアレキサンドリアの司教であった聖アタナシウスのような忠実な司教たちや聖職者たちを迫害した。アリウス派であったエジプトの他の司教たちは異なった時期に五回も聖アタナシウスを強制的に国外追放にした。このようにして彼は45年のうちの17年を追放の身で過ごした。時には彼は生命のために逃げなければならなかった。

アリウス派の司教たちは何物にも止まらなかった。彼らは聖アタナシウスを売春婦と共に罪を犯したと訴え出さえした。そして主たる証人としてその売春婦と共に裁判にかけた。「蛇のごとくさとく、鳩のごとく素直なれ」(マテオ10:16)という福音書をよく知っていた聖アタナシウスは彼ら自身のゲームで彼の敵どもに打ち勝った。彼は素直で蛇のごとくさとかった。彼は彼自身の司教總代理に彼の司教の装いをさせた。そして一人の普通の司祭としての服装で裁判所に行った。法廷でその売春婦の証人はアタナシウスの司教總代理を指さして言った:「ここにアタナシウスがいます。彼がそうです。」彼女はそれがアタナシウスではなかったので嘘つきであることが証明された。

今日の諸々の誤謬をどのように認定するか

私は一つの簡単な理由でアリウス派の人々のこの話をしている。(教会における一つの社会的力としての)アリウス派の異端が終わっておよそ150年後の A.D.540年にレランの聖ヴァンサンは信徒の一つの簡単な問い:「信徒席にいる一人の人間としてわれわれはどのように異端と異端的なグループや運動を認識するべきですか?」という問いに答えている

私の思い出すところでは、聖ヴァンサンは次の問題を提出している:「一つの国あるいは司教区にもし何らかの新しい教えが導入されるならばどうするか、信徒のメンバーはどのように反応するか?」聖ヴァンサンはカトリック教徒は当代のカトリック教徒たちが他のところで何をしているかを見るべきであると言っている。

例えば、もしヘンリー八世がイギリスにおけるカトリック教会の中へ一つの新しい聖体拝領の儀式を導入するならば、- イギリスにおけるカトリック教徒たちはフランスにおいてカトリック教徒たちが何をしているかについて報告を得、そしてこのようにしてそこフランスでカトリック教徒たちが今なお彼らの祖先たちと同じミサに与っており、そしてイギリスで起こっている偽りの新奇さによって騙されていないという報告を得ることができる。

聖ヴァンサンは言う:「それではもしその新奇な実践が同時にカトリック世界の至るところに導入されるならばどうか?」上述のわれわれの例に従えば、もしイギリスにおける一カトリック教徒が同時にそのように影響を受けていない他の諸国において彼の同時代人の誰をも見出すことができないならばどうか?

聖ヴァンサンはそのときカトリックであり続けることを望むカトリック教徒は彼らの祖先がしたことを参考にする必要があると述べることによって彼自身の問いに答えている。そしてこのように彼らの先祖の例に従うことによって彼らはいかなる偽りの新奇さによっても騙されないであろう。

レランの聖ヴァンサンを引用すれば、彼はこう言っている:

「もし何らかの新しい伝染病がもはや教会の小さな部分ではなくて同時に全教会を毒そうとするならば一人のカトリック教徒は他のいかなる選択をすることができるか、そのとき彼の大きな関心事はいかなる偽りの新奇さによってももはや誤り導かれることができない太古の昔(伝統)に結びつくことであろう。」

これは今日カトリック教徒たちがなすべきことである - すべての時代の伝統にすがりつくことそして第二ヴァチカン公会議以来全教会の中へと導入された偽りの新奇さによって騙されることを自らに許さないことである。

それゆえ、われわれはどのようにして真であるものを認識するであろうか? その答は教会が常にしてきたこと、常に言ってきたこと、常に教えてきたことである。このすべてのことはもっと徹底的にEWTN:道を誤ったネットワークという書物において説明されている。

これがあなたが健全な伝統的カトリック書籍を読むことがあなたにとって非常に重要である理由である。これが、すべての先行の時代のわれわれの先祖や聖人たちによって、並びに使徒たちによって教えられた真の信仰を学ぶために、あなたたちが一つの供給源を持つことができるように、われわれが聖母のブック・サービスを提供している理由である。

真のカトリシズムの敵対者たちは信仰が聴くことによって来るということを知っている。このことは、信仰は言葉によって伝えられるということである。そして真の信仰を攻撃するために彼らは多くの世紀にわたってスコラ的哲学および神学において教えられたような厳密な用語や区別を攻撃する。これらの用語はカトリックの教義的、不可謬的諸決定の建築用ブロックである。カトリック信仰が2000年の間われわれに不可謬的に伝えられているのは教義的な諸決定を通じてである。

近代主義者たち、われわれの時代の異端者たちは何かある新しいものを彼らの意味不明瞭な言語の中へと滑り込ませそしてそれは教会が常に教えてきたことであると主張する。彼らは聖トマス・アクィナス、ボルティモア・カテキズム、トリエント公会議、教義的な諸公会議を攻撃する、あるいは彼らはそれらを沈黙のうちに無視する。

あなたは、彼らがどのように教説の言葉の実体を攻撃するか、彼らがどのようにそれについて話すかによって近代主義者たちの多くを認定することができる。彼らは敬虔、イエズス、マリアそして諸聖人に対する尊敬と名誉を促進しているか、あるいは彼らは聖なる諸教説や諸聖人について無礼にまた冷淡に行動したり話したりしているか? 彼らの新奇な実践や態度によって彼らはどのようにミサにおいて行動しているか、そして彼らの祈りを唱えているか、あなたに警戒するようにシグナルを与えているか?

何世紀にもわたって教会が教え実践してきたことは安全である。しかしあなたは新奇であるあるいは変えられている何かあるものについては、たといそれが公会議、あるいは教皇、あるいは枢機卿から来ているとしても、もしそれが教会が常に教えてきたあるい話して来たことに反するならば、警戒しなければならない。新奇な教えに直面したならば、あなたは喜んで立ち上がらなければならない - あるいは少なくとも一つの開かれた精神を維持しなければならない - そしてたとい誤り導いている人が自分がしていることは善い理由のためであると信じているとしても、おそらく司祭たち、司教たち、枢機卿たちの一人、あるいは教皇さえがある偽りの教説を促進することによってあなたの信仰を誤り導いているということがあり得るということを認めなければならない。

例えば、非カトリック者たちを一つの真の教会へと回心させることを求めず、むしろ彼らとの収斂を求める今日のエキュメニズムは教会が常に教えてきたこと、教会が不可謬的に決定したことに反している。それはしたがって抵抗されなければならない。もう一つ別の例は、もしあなたが告解室で、教会が常に罪であると教えてきたことは、彼に従えば罪ではないとあなたに告げる司祭に出会うならば、そのときその司祭は避けられなければならない!

あらゆる人が影響を受けている

悪魔的な方向感覚喪失は異なった仕方であらゆる人に影響を与えている。われわれは今第二ヴァチカン公会議以来生きているカトリック教徒たちについて話している。例えば、大部分のカトリック教徒は金曜日に罪の償いをする必要はないと考えている。そしてそれゆえに一つの非常に実践的な仕方で彼らは方向感覚を喪失しているのである。彼らは謝り導かれている。なぜなら、われらの主御自身聖書の中でこう言われたからである:「改心せずば汝らみな同じく滅ぶべし」(ルカ13:3)。

われわれは各自原罪を持っている。たといそれが洗礼において取り除かれているとしても、何らかの影響が霊魂のうちに残されている。われわれはこれらの影響に対して戦わなければならない。そしてそれらの影響に対して戦う際に必要な武器の一つが罪の償いである。

金曜日に罪の償いをしなさい

われらの主の言葉は過ぎ去らないであろう。そして主がわれわれに告げておられることは絶対的に真である。金曜日に罪の償いをする必要はないと考えている人々は、たとい彼らの無知がまったく彼ら自身の責任ではないとしても、悪魔の罠の中に落ち込んでいるのである。

キリストは金曜日にわれわれの救いのために苦しまれた。そしてわれわれはその事実の公的な認知を与えるべきである。金曜日に罪の償いをするという行為は単に一つの私的な行為ではなくて、われわれの償いに公的に証言を与える一つの社会的な行為である。われわれ自身の罪のための公的補償においてわれわれがそれを金曜日にすべきであるということは論理的である。(われわれはわれらの主の十字架上の処刑に一致してわれわれの罪の償いの行為を神に対して捧げるべきである。)それが、カトリック教会が今日に至るまで、われわれを取り巻いている方向感覚喪失に反して、われわれは毎金曜日に罪の償いをしなければならないと主張している理由である。

日曜日のミサを欠かしてはならない

第二ヴァチカン公会議の前には北アメリカのカトリック教徒の75%が毎日曜日にミサに行っていた、そして今やわずか25%が日曜日にミサに行っているということについてはどうか? 明らかに、北アメリカにおいて50%以上のカトリック教徒が彼らの周りで流布している考え方によって影響を受けており、その結果彼らは毎日曜日ミサに行き神を礼拝する必要を知らない(そして感じない)のである。おそらく彼らはミサに行くことによってのみ彼らが得ている諸々の恩寵を必要としないと考えている。実際は、ある人がミサに行かない重大な理由を持たないならばミサに行かないことは大罪なのである。われわれは神がミサにおいてわれわれに与え給う諸々の恩寵を必要としている。恩寵なしにはわれわれは確実に他の諸々の大罪に陥るであろう。

離婚という「婚姻無効宣告」

第二ヴァチカン公会議の前には別居しまたは離婚したカトリックの夫婦の数は非常に少なかった。私は信仰を実践している人々のうちの1%以下であったのではないかと考えている。第二ヴァチカン公会議の前には北アメリカでは一年におおよそ百の婚姻無効宣告が行われていた。その公会議以来ヴァチカンは北アメリカの夫婦に対して一年に数千という非常に多くの婚姻無効宣告与えている。これらは悪魔的な方向感覚喪失に基づいた誤謬である。

新しい「神学」と新しい諸理論は一種のカトリック的「離婚」へと同調させられた多くの現在の「婚姻無効宣告」を引き起こしてきた。真の婚姻無効宣告というのは、一つの適法の用語であって、それは男と女が結婚式の手続きを経たとしても、結婚が起こることを妨げた何らかの真の妨げのゆえにそこには結婚が決してなかったということを意味する。(例えばもし二人のうちにいずれかが密かにすでに結婚していたならば)。しかし「離婚」という言葉は、ええ、われわれは結婚した、しかしわれわれは互いに約束し、神の前で結婚の誓いを交わしたけれども、今やわれわれは最初の結婚の相手から別れ、他のある人と結婚する権利を持っていると主張する、と言う何かあるものを意味している。

離婚はわれらの主イエズス・キリストによって(マテオ19:3-12)そしてカトリック教会の教えによって禁じられている。にもかかわらず結婚が何であるかそして何がインフォームド・コンセントであるかについての規則を勝手に変更することによって彼らは一つの間違った抜け穴を見つけ、一年に数千という多くのカップルの良心を和らげることができたのである。(このことはすべての婚姻無効宣告が正当でないということを言おうとしているのではない。)われわれが生きているこの時代は非常に根本的に方向感覚を喪失させられているので、われわれにあたかもそれらが新しい発見であるかのように、あるいはあたかもわれわれの祖先がとんまで何も知らなかったかのように描かれている誤謬に対して警戒すべきである。

トリエント・ミサとその信仰が迫害されている

背教と悪魔的な方向感覚喪失は多くの人々に影響を与えている。それはこれらの仕方で個人的にあなたに影響を与えているか? おそらく与えていないであろう。しかし他方において、もしあなたが伝統的なカトリック信仰にすがりつきトリエント・ミサに与っているならば、あなたは影響を受けている。なぜなら、カトリック教徒であると主張している人々が、実際あなたが忠実である時に不従順である、あるいは異端的である、あるいは偽のカトリック教徒であるとしてあなたを馬鹿にしたりあるいは非難したりするからである。それにもかかわらず、あなたは、皮肉なことに自分たちは聖であり、従順でありそして模範的なカトリック教徒であると主張している偽の兄弟たちからの迫害を堪え忍んでいる。それはこのことを我慢するための一つの試練である。しかしもしわれわれがこれをわれらの主の苦難に一致して捧げるならば、われわれは天国において多くの功績を得るであろう。

トリエント・ミサ、すべての時代のミサ

悪魔的な方向感覚喪失は三十年以上にもわたってラテン語のトリエント・ミサは禁止されている、そのミサに行く者は不従順である、そしてトリエント・ミサを捧げる司祭はある種の反逆者であるという嘘を広めてきた。

事柄の真実はトリエント・ミサが禁じられてきたということは決してないということである。教皇ヨハネ・パウロ二世によって1986年に指名された九人の枢機卿たちは次の問題に答えた:「教皇パウロ六世あるいは誰か他の有力な権威はトリエント・ミサを禁止しているか?」その答は「いいえ、していない!」であった。九人の枢機卿たちはラテン典礼のある司祭(神の前で立派な)がある司祭、司教、枢機卿あるいは教皇によってトリエント・ミサを捧げることを禁じられることができるかどうか尋ねられた。そして九人全部からのその答は「誰もある司祭にトリエント・ミサを捧げてはならないと命令することはできない」であった。

今年でさえ、カストゥリヨン・ホヨス枢機卿はトリエント・ミサは禁じられていないと公的に言い続けておられる。そしてエステヴァン枢機卿もまたそのことを確証しておられる。トリエント・ミサが決して禁じられてこなかったということを証明するためにわれわれが過去のファチマ・クルーセイダーにおいて書いてきたもっと多くの記事がこの主題に関してたくさんある。

トリエント公会議および第一ヴァチカン公会議の諸々の法令や信経がわれわれにカトリック教徒は教会の伝統的な典礼を信奉しそれにすがりつく義務を持っていると告げているのではあるが、明らかにカトリック教徒たちの大部分は今日トリエント・ミサへは行っていない。

トリエント公会議および第一ヴァチカン公会議(1870)の信経はこう述べている:「私はまた諸々の秘蹟の荘厳な執行におけるカトリック教会の受け取られ承認された典礼を受け入れ認める。」そしてトリエントの公会議は次のように不可謬的に定めている:

もし誰かが諸々の秘蹟の荘厳な執行においていつも用いられているカトリック教会の受け取られそして承認された典礼が軽蔑されてもよい、あるいは執行者によって罪を伴わずにそして随意に抜かされてもよい、あるいは教会の司牧者によって他の新しい典礼に変えられてもよい、と言うならば、その者が誰であれ(quemcumque),その者は排斥されよ。」(第7セッション、カノン13、Dz 856; D.S.1613)

今日、司祭たちの大部分がそうすべきであるときにトリエント・ミサを捧げていないということもまた明らかである。

今日多くの人々は欺かれている

このようにカトリック教徒たちは日々至るところである偽りのカトリシズムによって欺かれている。諸々の例はいわゆるカトリック・テレビ・ネットワーク(例えばEWTN)、近代化されたカテキズム、キリスト教一致についての偽りの考え方、あなたたちに避妊器具を用いても大丈夫と告げ、あるいはいかなる状況の下でも自然家族計画(NFP)を用いても大丈夫と言う結婚準備講座などを含んでいる。そのリストは無限に続く。

避妊や不法なNFPを実践する結婚した夫婦は悪魔的な方向感覚喪失のための主要な候補者である。なぜなら「彼らに対して悪魔は力を持っている」(トビア書6:17)からである。

平均的なカトリックの平信徒の男性(そして平信徒の女性)はいつでも欺瞞の標的である。多くのカトリック教徒たちは偽りのカトリシズムによって取り囲まれており、そしてわれわれ各人は反抗し何らかの霊的活力と熱心を得る必要がある。われわれは祈りをもってわれわれ自身に、諸々の時代のよきカトリックの教えをもってでわれわれの精神に予防接種を行わなければならない。われわれは真の伝統的なカトリック教徒たちと協力することによってわれわれの社会的な接触を予防接種しなければならない。さもなければわれわれは地獄へ引きずりこまれるに十分なほど影響を受けるであろう。

攻撃されるファチマ

ファチマの問題においてさえあなたはファチマを信じる必要はない、すなわち、それは単に一つの「私的啓示」にすぎない、と告げられている。これは間違っている。教皇ヨハネ・パウロ二世と共に働いた偉大なカルメル会士の神学者ヨゼフ・ドゥ・サント・マリー神父は、ファチマは「私的な啓示」よりもより高い範疇にあり、そして無視することは許されないと説明した。ドイツの博学なルドルフ・グレイバー司教は、ファチマは単に一つの「私的な啓示」ではなくて、われわれすべてがファチマの聖母を本気で受け取ることを義務づけられている公的、預言的な啓示の範疇にあると言われた。

それは非常に単純である。聖パウロはわれわれにこう告げている:「霊を消すことなかれ、預言を軽んずることなかれ、何ごとをもためして良きものを守れ」(1テサ5:19-21)。ファチマ・メッセージはカトリック教会によってためされ、そして良きものであることが見出されている。それゆえに、われわれはそれにしっかりとすがりつかなければならないのである。

真のファチマ・メッセージは日々の悪魔的な方向感覚喪失に対する解毒剤である。彼らの「新しい宗教」をかばっている偽りのカトリック教徒たちはファチマに反撃している。なぜならファチマはカトリック信仰の防護だからである。彼らは明らかに一つの嘘であるファチマの「新しいヴァージョン」を並べることによってファチマを攻撃している。再び、このことの多くは『悪魔の最後の戦い』のうちにその証拠を提供されている。

われわれは天の助けを期待できるか?

もちろん!実際、ファチマのメッセージにおいて聖母はこう約束なさっている:「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして平和の一時期が人類に与えられるでしょう。」

われわれは最後には「すべての異端の綜合」である近代主義の異端が、祝せられたおとめがファチマでわれわれに使うように告げられた手段をもって克服されるだろうということを知っている。

しかしわれわれもまたわれわれの役割を果たさなければならない

もしわれわれがわれわれの役割を果たすならば天は確かにわれわれを助け給うであろう。祝せられたおとめは毎日毎日われわれが義務を果たし、毎日ロザリオを祈り、カルメル山の茶色のスカプラリオを身につけ、そして初土曜日に償いの聖体拝領をすること - すなわち告解、聖体拝領、ロザリオの玄義を15分間黙想すること - 並びにマリアの汚れなき御心に対して償いをするという意向をもって5連のロザリオの祈りをすること強く要求なさった。

われわれは他の人々に知らせるためにわれわれの役割を果たさなければならない。われわれは償いへの呼びかけを導くためにわれわれの司祭たち、われわれの司教たちそしてわれわれの教皇を待っていてはならない。シスター・ルチアが言ったように:

「私たちは償いをするために教皇の側でのローマから世界に対する一つの訴えを待つべきではありません。また私たちは私たちの司教区における私たちの司教たちからの、あるいは諸修道会からの償いへの呼びかけを待つべきでもありません。」

そうではありません!われらの主はすでにこれらの手段を非常にしばしばお用いになりました。そして世界は注意を払わなかったのです。だからこそ今私たち一人ひとりが自分自身を霊的に改革することが必要なのです。各人は自分自身の魂を救わなければならないだけではなく、また神が私たちの道に置かれたすべての魂をも助けなければならないのです。」

神の恩寵に頼りながら、われわれは神と祝せられたおとめがわれわれに要求しておられるすべてのことをすることができる。われわれはわれわれの近くにいる親しい人々にとってよい模範でなければならない。そしてあらゆる慈愛と親切とにおいて彼らに真実を教えなければならない。われわれはわれわれを無視し馬鹿にする人々によってかき乱されてはならない。

教会が常に教えてきたことを真正のものである諸々の典拠から捜し出しなさい。

聖なるロザリオはすべての問題を克服する

シスター・ルチアはわれわれにこう告げている:

「それがどのように困難なものであろうと、この世のことであれ、あるいはとりわけ霊的なことであれ、私たち一人ひとりの個人的な生活において、私たちの家族の生活において、あるいは世界の諸々の家族において、あるいは宗教的共同体の生活において、あるいは人々や諸民族の生活においてさえ、ロザリオによって解決され得ないどんな問題もありません。」

あなた自身のロザリオ十字軍をあなた自身で個人的に始めなさい。それからあなたの家族、友人たち、そして隣人たちと一緒に始めなさい。悪魔的な方向感覚喪失を克服し、世界と教会に真の平和をもたらすためにロザリオを至るところで奨励しなさい、そして他の人々にも同じことをさせるようにしなさい。

この危険な時代において聖パウロの次の忠告に従おう:

「われ神のみ前、また生者と死者とを裁き給うべきイエズス・キリストのみ前において、その公現とみ国とに対してこいねがう、汝、御言葉を述べ伝えて、時なるも時ならざるも、しきりに勧め、忍耐をつくし、教理をつくして、かつ戒め、かつこいねがい、かつおどせ。けだし時至らば、人々健全なる教えに堪えず、耳かゆくして、私欲のまにまにおのがために教師をたくわえ、耳を真理にそむけ、身を寓言にゆだぬるに至らん。されど汝は慎みて、万事をしのぎ....」(2チモテオ4:1-5)。

私は、あなたと私が忠実に留まりそして最後に聖パウロと共に次のように言うことができるように祈る:

「われ良き戦いを戦えり、われわが道のりを終われり、われ信仰を保てり。」

2006/10/02 三上 茂試訳

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作成日:2006/10/02

最終更新日:2006/10/14

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