ファチマ・クルーセイダー

慎みとあなたの救い

The Fatima Crusader Issue 83, Summer 2006

スーザン・ヴェナリ

フルトン・J.シーン大司教の思想はしばしば霊感を与えるものです。人間の身体について彼が書いたいくつかの言葉をしばらくの間考察してみましょう。

「恩寵はわれわれの人間本性に何をするのでしょうか? まず第一に、それは身体を神の神殿とします。それが純潔のための諸々の理由の一つです。神殿とは何でしょうか? 神殿とはそこに神が住み給う一つの場所です。イエズスがエルザレムの神殿の中へ行かれそしてファリザイ人たちが一つの印を求めたときのことを思い起こしなさい。われらの主はこう言われました:「この神殿を毀しなさい。そうすれば私はそれを三日以内に立て直す」と。主は地上の神殿について話しておられたのではありませんでした。主は御自分の身体の神殿について話されていたのです。なぜならキリストのあの人間本性のうちに神が住み給うからです。あの神的な生命へのわれわれの参与によってキリストはわれわれのうちに住まわれます。それが身体が聖なるものである理由です。それがわれわれが身体に対して尊敬を持つ理由です。身体は虫けら、何か恥ずべきものではありません。それはキリストの神殿であり、そしていつかそれはまた栄光を受けるでしょう。」

夏がやって来るとタンクトップとショーツを身につけたい誘惑が人を引きつけるものであり得ます。だらしのな物腰でくつろぐこと、普段着のような格好でミサに来ること、子どもたちを隣人たちや友人たちと一緒に暴れ回らせること、彼らの盛装する注意と立居振舞は疑わしい影響のものでしょう。

教会は常に両親が子どもたちの服装に対して責任があるということを教えてきました。両親の第一の義務は教会においてだけでなく、またいつでもよい模範を与えることです。教会あるいは宗教的な儀式でのだらしのないそして慎みのない服装は容認できるものではありません。慎みのない服装は決して容認され得ないものです。

慎み深い服装のためのガイドラインはあるでしょうか? 教皇ピオ十一世の下で1928年に出された命令は時代遅れのものではありません。「...のどのくぼみの下の二つ指の幅よりも深く切り込まれている衣服、少なくともひじまで腕を覆わない衣服、そして膝の下までほとんど達しない衣服は慎ましいとは呼ばれ得ない。さらに透けて見える衣服は相応しくない...」

あなたはこの教えに対するティーンエイジャーたちの不満の声を聴くことができますか? われわれ自身が不満の声を上げますか? フルトン・シーンが身体についてわれわれに思い起こさせたことをわれわれは覚えているでしょうか? 身体はわれらの主の神殿です。ちょうど聖櫃がヴェールで覆われるべきであるのと同じように、われわれがわれらの主の住まいのための聖なる場所を覆うことはふさわしいことです。

聖母はファチマで次のように言われたとき単純に語られたのです:「われらの主をたいそう傷つけるある種のファッションが導入されるでしょう。」やさしい語調と態度で与えられた聖母の不吉な警告をわれわれは熟考すべきではないでしょうか。そしてそれをわれわれの時代のための教えと考えるべきではないでしょうか。われらの女王、神の御母、聖母に似るためにわれわれを助ける何をわれわれは着るのでしょうか?

人はその服装について何をすべきでしょうか? もしある衣服について疑いがあるならば、こう自問しなければなりません:「聖ヨゼフはこのタンクトップを野外パーティに着るだろうか?」「私はスパゲッティ・ストラップスを着た聖母に出会うことを好むだろうか?」もし私の身体が恥ずべきものではなくて、聖なるものであるならば、そのとき私はそれが聖なるものであるうように私の身体を纏わせることを切望すべきです。これらの「着物」は単に私のためではないというばかりでなく、それらは他の誰にとっても適切なものではありません。われわれはそれらについて何をなすべきでしょうか? われわれはそれらを、怠惰をもってではなく、喜びと愛とをもって断念します。

母親たちと父親たちは、ピオ十一世が1930年にその「キリスト教的な慎ましさに関する書簡」において教えられたように、彼らの子どもたちに、聖なる神殿のこの保護を教えなければなりません:

「彼らの子どもの教育、特に宗教的および道徳的教育に対する彼らの重大な義務を意識している両親たちは彼らの娘たちが小さいときからキリスト教的な教えにおいてしっかりと教えられているように注意すべきである。そして彼ら自身、言葉と模範によって慎ましさと貞潔の徳に対する愛を彼らの魂の中に根気強く教え込むべきである。そして彼らの家族は聖家族の模範に従うべきであるから、彼らは家庭の壁の内部で育てられたその成員たちが慎ましさを愛し、保つための理由と励みとなるものを見出すべきであるそのような仕方で支配しなければならない。」

衣服に対する社会道徳や規準は崩壊してしまいました。しかし神の前でわれわれはわれわれ自身の行動に対して答えなければならないでしょう。われわれは他の人々のために、特にわれわれの子どもたちのために一つの善い(辛抱強い)模範を示しているでしょうか? われわれは何かある聖なるものに対する適切な慎みをもって身を処しているでしょうか? われわれは透けて見えるファッションや品位を落とすファッションを避けているでしょうか。われわれはわれわれの子どもたちの衣服が他の人々に影響を及ぼすという効果をも考慮に入れながら、彼らの霊的な福祉のために子供たちを守っているでしょうか? われわれはわれわれの配慮に委ねられた霊魂たちのために愛をもってこれらのことを行っているでしょうか? もしわれわれが愛する神のためにこれらの事柄に注意を払っているならば、そのときわれわれはその中に神が住み給う一つの純粋なそして美しい神殿を提供するでしょう。

2006/10/06 三上 茂試訳

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作成日:2006/10/06

最終更新日:2006/10/14

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