ファチマ・クルーセイダー

礼儀正しさ 愛徳の花

The Fatima Crusader Issue 83, Summer 2006

イーヴ・ル・ルー神父

今日の尊大なずさんさは恥知らずの自由によって夢中にさせられた人間が光の満ち満ちた日中に彼の堕落を示し、それを他の人々の上に重くのしかからせる進行の最後の段階を表している。こ不作法な誇示は、礼儀正しさの何らかの外的しるしに対して通例示される軽蔑によって証明されるように、即座にそして徹底的に捨てられる丁寧さに対する本能的な嫌悪へと変えられる。

その意味を彼らがもはや理解しない、しかし彼らが今なお周到な配慮をもって保存している時代遅れの慣習によって束縛された、不満のある気難しい老人たちと見られている人々を嘲笑し、軽蔑して嘲ることがいつものこととなってしまった。

他方において、他者に対する考慮の厚かましい欠如に拍手を送り、そのことに自由の頂点を見ることが適切なことだと考えられている!礼儀正しさのいかなる規則からも最終的に解放されて、人間は自己自身を充実させることができると考え、礼儀正しさという古臭い規則を拒否することによって彼が偽善といういまいましいくびきを振り捨てたと、聴きたいと思う人には誰にでも叫び声を上げて、彼が望むように行動するのである。これからは、彼は彼自身であることができる。そして光の満ち満ちた日中に彼の真のそして深い人格を示すことができるのだ!

われわれは、この粗雑な詭弁の背後に人間の自己の最も恥ずべき局面の下品な誇示によって快楽へと変えられた軽蔑に値する利己主義が隠れていることを知っている。獣性への下落は、最も邪悪な本能がそのとき自由に活動することを許されるように、礼儀正しさが死に絶えるとき、決して遠くはない。われわれはそこに、他の多くの領域においてと同様に、われわれの時代の固有の偽善を見る。そこでは革命的、奴隷的なご機嫌取りがわれわれの感情に迎合し、鏡においてのように、- すべての規則が最終的に廃止されて - 人間が一つの自由な社会で「成熟した」民主主義「における責任ある市民」として自由に生きることができるであろう想像上の黄金時代をわれわれに対してそれらの感情に提案させるのである。もちろん、このすべては、翻訳されるとき、ただ最悪の専制政治の支配の下での嘘の奴隷制度 - 見せかけを促進する悪魔の奴隷制度 - を意味するにすぎない。

われわれは、すべての秩序が消失した社会、そしてそこでは真理、善そして美の自然的な位階が判断の一つの時代遅れの基準となった社会に生きているのか - それともわれわれは間もなくわれわれが生き残っていると言わなければならないだろうか? しかしながら、われわれが成長するのはわれわれがこの秩序に服従するときだけである。なぜならそれは霊魂にそれを深く形成することができる唯一のものである繊細さを与えるからである。そのような繊細さが今やけなされ、破壊されているので、われわれは、そこで自分自身と自分の野蛮な力を確信した野蛮人が彼の惨めな粗野さを恥知らずにも見せびらかす間君臨している一つの無政府状態の確立を目撃している。このように、礼儀正しさの欠如は、社会における生命の終末の前兆、それなしには共同体において生きることができない諸徳の拒否の明白なしるし以上のものではない礼儀正しさの難破を告げ知らせている。

しかしこの欠陥はただ自然的な秩序だけに影響を与えているのではない。それはまたわれわれの信仰を生きることからわれわれを妨げ、霊的な戦いを遂行するためのわれわれの意志を不毛にしている。実際、この戦いはわれわれから断念、服従、自己の抑制、われわれの諸情念に対する戦いを要求する。それゆえにわれわれにとって、われわれが絶えずわれわれ自身を警戒していないならば、われわれが直面しなければならない多くの障碍にもかかわらず、そのような生き方に関わり、その進路を長く歩むことは不可能である。礼儀正しさはこの最高の注意へとわれわれを義務づける。もしそれが突然消失するならば、いかなる統制も一定の仕方で霊魂の上にもはや加えられないので、霊魂は弱くなる。そしていかなる規則にも従わない霊魂は諸情念に対するその支配権を行使することができない。

それはある過度のわざとらしさに陥るという問題ではなくて、超自然的な諸徳の具体化のために絶対に必要であるあの高潔さを彼の本性に与えることを人間に許すという問題である。超自然的な生命はわれらの主の受肉への参加という一つの神秘であり、そしてその中に根を張り、受肉される一つの霊魂を要求する。礼儀正しさは、われわれに自分たち自身を支配することを教える一方で、われわれを神の子どもたちの尊厳へと高めるために、恩寵にとってわれわれの心の中へ植え付けられることを可能にする。それなしには、われわれはわれわれのキリスト教的使命の高貴さに相応することができず、われわれの情念の奴隷とされるままにとどまるであろう。

われわれは毎日祈りによって神とのわれわれの関係を新たにし、そしてこのようにして神の親密さの中へと入り込む。われわれは規則正しく連絡を取り合い、そしてすべての秘蹟の仲介によっていとも聖なる三位一体の生命そのものへのより親密な参与を受け取る。このすべてのことはもしわれわれが単純な礼儀正しさの諸規則にわれわれの霊魂を従わせることによってそれを純化しなかったならば、不可能である。

礼儀正しさは一般に愛徳の花と呼ばれているが、それは実際そのようなものである。それは容易に軽視される諸徳に属する。なぜなら、それらは通常輝く外的なものによって魅了されたわれわれの高慢な目には重要でないものとして現れるからである。しかしそれらはわれわれの啓発のために本質的なものである。そしてそれらのたびたびの不在は確かにわれわれの内的生活がなぜそのように貧弱であるかを説明する。

聖人たちはわれわれに礼儀正しさの彼らの模範をもって道を示された。聖フランシスコ・サレジオ、聖ピオ十世のことを考えてみなさい。あるいはわれわれにもっと近いマルセル・ルフェーブル大司教のことを考えてみなさい。彼は彼がその犠牲者であった多くの不当な攻撃にもかかわらずそのような礼儀正しさから決して離れることはなかった。彼らの異なった諸徳は礼儀正しさのうちに神的な親しさにおいて成長することを彼らに可能とした受肉のための一つの好ましい土台を見出した。なぜなら、礼儀正しさは霊魂を強めそして生の戦いに参加することをそれに許す一つの下部構造だからである。

これは一つの重要な問題であるので、今月われわれはそれをこの短い文章と共に簡単に紹介する。経験はわれわれに礼儀正しさが欠けているところでは「古い人間」の諸情念がいかなる抑制力をももたないが、一方で、その反対に、礼儀正しさは認められ尊敬されるとき、霊魂を強めるということを示している。In Christo Sacerdote et Maria.[司祭たるキリストとマリアにおいて。]

愛は堪忍し、情あり、愛は妬まず、自慢せず、高ぶらず、非礼をなさず、おのれのために計らず、怒らず、悪を負わせず、不義を喜ばずして真実を喜び、何ごとをもつつみ、何ごとをも信じ、何ごとをも希望し、何ごとをもこらうるなり。(1コリ13:4-7)

2006/10/12 三上 茂 試訳

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作成日:2006/10/12

最終更新日:2006/10/12

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