ファチマ・クルーセイダー

EWTN:もはや恩寵のチャンネルではない

EWTN:誤りに陥ったあるネットワーク 書評

The Fatima Crusader Issue 83, Summer 2006

エドゥイン・ファウスト

兄弟たち:「すべて神より生まれ奉りし者は世に勝つ、しかして世に勝ちたる勝利はわれらの信仰これなり」- 1ヨハネ5:4

私がEWTNによって放映された諸々の誤謬についてのクリストファー・フェララの説明を読み終えたのは復活祭後の最初の日曜日であった。そしてその日の書簡の強いそして希望に満ちた言葉が私の思考の中になお反響していたことはよいことであった。そうでなければ、私は絶望の悪魔に耳を傾けていたかもしれない。悪魔の囁きは多かれ少なかれ教会の分裂のこの時代には休みなく続いている。

トマス・マートンはかつてうわべの無意識の皮肉を込めて、われわれの時代において公的であるすべてのものは明らかに偽りであると述べた。正統的なカトリシズムの旗じるしを掲げると称しているあのEWTNにおいてその公的な人物がマートンの非難の下に倒れる。フェララ氏が議論の余地のない諸事実の整理を通じて論証しているように、EWTNは新しい教会 - 彼が[正統]信仰の振りをするが、にもかかわらず位階の祝福を享受する近代主義的諸命題、典礼上の諸逸脱、そして規律上の堕落の集まりを意味するために用いている言葉 - の代理人となった。

カトリックの伝統の復活のための一つの力となったかもしれない一つの企業が「節度のある近代主義」のための代弁機関へとどのように変わったかということは妥協の諸々の危険についての教訓的な物語に寄与する。EWTNの創設者マザー・アンジェリカはロスアンジェルスのマホニー枢機卿、そして拡張によって、マホニーの異端に対して親近性を持つすべての者 - すなわち、ほとんどすべての全国司教団、そして数人のローマ教皇庁委員会の長たち - に対する彼女の批判によって合衆国におけるカトリック位階を立腹させた。

マザー・アンジェリカをしてネットワークを教会の権威者たちから救うためにそれをある平信徒の団体へのネットワークの統制を断念するように導いた位階の策謀はフェララ氏によって上手に語られている。彼はマザー・アンジェリカの決断が破滅的な結果を持たなければならなかったとういことを論証している。しかしそれは言ってみれば彼女とネットワークの教会法上の周辺を清潔に保った。その後に続く總崩れは新しい教会が真理に対する立派な態度のその権利を優先する人々から強要する恐るべき代価を例証している。

EWTNについての私の最初の印象

私が夜遅く、そしてまったく偶然に、マザー[・アンジェリカ]が支配権を持っていた(相対的に)よき古き時代に遡るその頃に、EWTNにチャンネルを合わせた最初の頃を思い出す。画面に現れた最初の人物は聖書を抱え、彼がテキストから引用したある意味を説明している一人の平信徒 - 私は彼の名前を忘れた - であった。

私はそのとき「カトリック」ネットワークの存在を知らなかった。そしてその番組はあるプロテスタントの宗教放送であると思っていた。その憶測は単に一人の平信徒の説教 - 今なお説教壇を引き渡すべきである元プロテスタント牧師 - に基づくだけではなく、その場面のエートスに基づいていた。それは sensus catholicus[カトリック精神]を欠いていた。

しかしながら、私がそのチャンネルを直ぐに変えることは、その間に教皇の写真がいくつかのお世辞の言葉を伴って画面に映し出された一つの番組報道によって引き止められた。次の番組の司会をしていた一人のフランシスコ会士のその次の登板がそうであったと同じように、このことは私を驚かせた。

彼は長い白いあごひげを持っていた - 私は長すぎると思った - そのあごひげは彼にわざとらしい奇抜さの外見を与えていた。そして彼の大きな悲しそうな両眼の中のさげすむような表情は、あたかも彼が彼自身の言葉によって疲れたかのようであり、彼らに話さなければならない必要性にいらいらしているようであった。

彼の話題は信仰の意味であった。彼は軽い苛立ちをもってキリスト教世界がかつて、われわれは信仰のみによって救われるか、それとも信仰は働きに加えられるかということに関する一つの論争によって引き裂かれたということを説明した。彼の態度はわれわれが、ありがたいことにそしてやっと、そのような屁理屈に対するわれわれの傾向を克服し、そしてよりその問題についてのより成熟した、そして寛容な見解を採用したということを示唆した。しかしその見解の実質は明らかにされなかった。私は彼の態度が恩着せがましいものと思った。そしてはなはだしい無知のゆえにもまた知的な不誠実さのゆえにもいずれも彼を非難するのを自制することができなかった。それで私はテレビを消した。私は後になってそのエキュメニカルなフランシスコ会士がEWTNの画面にはどこにでも現れる人物であるベネディクト・グレッシェル神父であることを知った。

グレッシェル神父はカトリック教義を攻撃している

フェララ氏は教会の外にはいかなる救いも存在しないという決定された教義を拒絶しているグレッシェル神父のテレビ放映された陳述のいくつかを列挙している。グレッシェル神父は単に、彼がこの教義を決して受け入れなかったと言うだけではない。彼はこのカトリックの教えを彼が早くからそして常に拒絶していたことを、立派な人々がすべてカトリックではない、そして立派な人々は地獄へは行かないとう事実を彼が良識をもって把握していた証拠として、多かれ少なかれ自慢している。

われらの主が「グレッシェル神父に立派と見える人は救われる」と仰らなかったという事実を脇に置くとして、問題の否定できない事実は、すべてのカトリック教徒が破門の苦痛の下に、教会の外にはいかなる救いも存在しないという教義を受け入れることを義務づけられているということである。よりまともなそしてよりよい時代ならば、グレッシェル神父は彼の異端を公式に撤回するか、それとも破門に直面するかのいずれかを要求されたであろう。今は、フェララ氏が公会議後の”anomic landscape”[社会的規制や価値体系を失った社会的混沌状態の風景]として非常に正確に記述しているものにおいて、グレッシェル神父は刑罰を受けることなく彼の諸々の誤謬を蔓延させているのである。

EWTNは異教主義を促進している

私が言ったように、私はグレッシェル神父をEWTNのよりよい時代に最初に見た。しかしそのときでさえ、そこには多くの世俗化があり、そして不健全な多くのものがあった。例えば、このネットワークはその初めからヨハネ・パウロ二世礼賛を促進した。フェララ氏が示しているように、礼賛への忠誠は故教皇の言葉や行動のすべての批判の抑圧を要求した。もっと悪いことには、それはただ躓きを与えるものとしてのみ記述され得る教皇の行動が正統性の基準とされるということを要求した。

このネットワークはそれがヨハネ・パウロ二世のとっぴな考えや行動を擁護することについて関心を持つことよりも信仰を擁護することについて関心を持つことは遙かに少なかった。

このネットワークは、メキシコ・シティにおけるファン・ディエゴのための列聖ミサの間のアステカのダンサーたちの使用やフアン・バウティスタとヤシント・デ・ロスアンヘレス殉教者たちの列聖の間に一人の女性のインディアンによる聖なる煙と羽による教皇の清めのような、教皇ミサへの異教の儀式の導入を賞賛した。

故教皇がかつて言ったあるいは行ったことは何一つEWTNのおべっかを使う解説者たちから口やかましい反応を引き出さなかった:教皇がコーランに接吻したことも、教皇の諸派融合主義的な世界祈りの日の儀式挙行も、司教の地位を要求している中絶賛成の異端者たちとの共同典礼も、教皇が諸カトリック教会を教会分離の諸派へと引き渡したことも、何一つ[口やかましい反応を引き出さなかった]。受け入れられ得るものとして欺瞞的に解釈され得なかったすべてはこじつけられるかあるいは完全に無視された。

それは道徳的規範と社会的エチケットがわれわれの上にいる権威のうちに置かれた人々を軽々しく批判することを差し控えるように勧めるということなのであろう。そしてこのことは最高度に教皇に適用するであろう。しかしフェララ氏が聖パウロ、聖トマス・アクィナスそしてシエナの聖カタリナに訴えることによって論証しているように、教皇でさえ彼の行動が信仰に躓きを与えあるいは信仰を害するときには、彼より地位の低い人々の懲戒に従属しているのである。

教皇の人格の心酔がベネディクト十六世の下で続くかどうかはまだ見なければならない。しかし前例がそこにあり、そしてたぶん従われるであろう。その結果は信仰に関する教えが教皇の公的な振る舞いと個人的な意見に従属させられることになるであろう。それは逆さまにされた教皇不可謬性である。

EWTNの他の諸々の誤り

フェララ氏は弁護士である。そして彼は証明可能な事実に骨の折れる注意を払いながらEWTNに対する訴訟を準備している。明快で迫力ある文章を書く才能によって助けられた細心の文書による証拠固めと念入りな分析をもってフェララ氏はEWTNの番組が促進している教義上の諸々の誤謬と悲しむべき神聖冒涜の迷宮を通ってわれわれを導いている。

各章各章において彼は、伝統的なロザリオを破壊し、ファチマ・メッセージを取り除き、典礼を異教化し、教会の一つの新しい「ユダヤ」部門を造ることに協力し、伝統的信仰を支持する人々の信用を傷つけ、とんでもない「クールなカトリシズム」を伴った現代の頽廃に迎合するこのネットワークの諸々の試みを詳しく述べている。

後者の企画は、それが教会からその威厳を剥ぎ取り、ヒッピーであろうとする無益で愚かな試みにおいて最新のファッションを着用する年老いた女のように若者に憧れているので、特に悲惨である。ご機嫌取りにおけるいかなる努力も若者の軽蔑を起こさせることにおいて新しい教会の「クール・カトリシズム」よりも効果的なものはない。

この書物における最も悲惨な章は私にとって少なくとも性的グノーシス主義を扱った章である。フェララ氏はEWTNの専任の性科学者グレッグ・ポプカクによって提出された奇怪な諸概念を検討している。ポプカクは性を一つの秘蹟としてひっくり返し、カトリック的慎みのすべての感覚を放棄してしまった。そして - 彼の大げさなエロスへの讃歌において - すべての感覚、時期を放棄した。ポプカクはひどく下品な言葉で神への性的類比を行いさえしているので、それらを読むことは苦痛である。しかし、私を最も混乱させることはポプカクの想像もできず口にも出せない逸脱ではなくて、EWTNの主たる説教家かつ神学者に変わった元プロテスタント牧師スコット・ハーンによって促進された聖霊の女性化である。

いとも聖なる三位一体に対するEWTNの攻撃

三位一体はわれわれの信仰の源であり起源、カトリック宗教の主要な神秘である。すべての異端は三位一体の否定として始まったか、あるいは最終的には教会の三位一体教義に対する攻撃に帰着したかの何れかである。人はこの偉大な神秘にただ跪いてのみ近づくべきであると言うことはおそらく言い過ぎではない。にもかかわらず、ハーンは聖アウグスティヌス、聖トマス・アクィナスそして数千年を通じての教導権の教えに反する三位一体の類比を提出する許可を自らに与えた。

ハーンは、人は神に「御母」と呼びかけるべきではないと陰険にも注意しているけれども、聖霊は「花嫁の/母親の」そして「妻/母」であるとしたいのであろう。しかしもし聖霊が神の母の局面であるならば、人はフェララ氏が近代主義者の策略においておきまりのものとして指摘している二枚舌:すなわち、掘り崩された正統性の不誠実な肯定と並ぶ異端の促進以外には、その忠告のためのいかなる理由も見ることができない。

三位一体における聖霊の役割を彼らの家庭における彼の妻キンバリーの役割とハーンがなぞらえていることは知性と学習とを所有していると称せられている一人の人間をまごつかせるであろう陳腐さの水準に降りることである。しかしハーンは「夫/父」たる御子という想定された法律的役割を「妻/母」たる聖霊の聖化する役割と対比する一つの図式を工夫してさえ、その点を強調している。

フェララ氏が指摘しているように、この図式は聖化する恩寵を、あたかも恩寵によって聖化される人がまたその同じ恩寵によって義化されないかのように、二つのタイプに分離することを含んでいる。そのような根拠のない分離は恩寵に関する教会の神学にはいかなる場をも見出さない。またその図式は「夫/父」である御子が「妻/母」である聖霊の花婿であるということを必然的に示唆する。これは御父を何処に残すのか? 御父はこの類比の子どもとなったのか? そしてそれはいかなる種類の醜いオイディプース的イメージを呼び起こすのか?

ハーンの類比の本質的な不条理は、ハーンの賞賛者たちの一人 - 彼はそれにもかかわらず彼の神学的な自由行動を大目に見ることができない - を含む New Oxford Review の解説者たちからの何らかの援助を受けたフェララ氏によって詳細に論じられている。

聖霊を女性化しようとするハーンの試みに対するフェララ氏の批判は論理的であり、伝統的な教説に基づいている。しかし私は一つの点において彼に反対しなければならない:すなわち、彼は一つの新奇さとしてハーンの考えに言及している。それはどうみてもそうではない。

聖アウグスティヌスはスコット・ハーンを論駁している

昨年の間私は聖アウグスティヌスの De Trinitate - 『三位一体論』- をたまたま読むことになった。聖アウグスティヌスの著作のすべてについてそうであるように、この作品も特にその意味が豊かである節をしばしば繰り返し読むことによって、ゆっくりとそしてよく熟考しながら読まなければならない。私は、ハーンが三位一体を一つの家族になぞらえているのを読んだとき、聖アウグスティヌスがこの考えを反駁することにいくつかの章を捧げたことを思い出した。第12巻第5章でアウグスティヌスはこう書いている:

神の似像の三一性が人間の本性に属する三つの人格で、男と女の結婚と彼らの子において実現されているように見出し得ると思う人々が、根拠のある意見を述べていると私には思えない...彼らはいわば聖霊という第三のペルソナは、彼の息子でも彼の娘でもない男から発出する女であろうと言う...

聖アウグスティヌスは次ぎにこの誤ったそして相応しくない類比が導く「諸々の誤謬」を調べることに進む。そしてそれらの誤謬はフェララ氏によって詳細に述べられたものと同じである。聖アウグスティヌスはこの類比を「不条理」で「容易に論駁され得る」ものであると特徴づけている。にもかかわらず、彼はその根拠のない論理とひどい傾向という理由でそれを最終的には拒否しないと言っている...しかし神的な聖書がそれが誤りであることを明白に示しているがゆえに、拒否するのだと言っている。なぜなら、神はこう言われたからである:「われらに似せて、われらにかたどって、人間を創ろう」。

聖アウグスティヌスは彼が"sapientia"(知恵)と"scientia"(知識)との間にしている区別のための聖書的な基礎を規定することへと進む。この区別はアウグスティヌスの思考において決定的である。彼は、人間における神の似姿、三位一体の刻印は、人間精神が変化のない真理 - sapientia - を観想するときにのみ、そしてそれが現世の諸々の事柄 - scientia - を秩序づけるときではなく、人間精神のうちに見出され得ると言う。彼はガラチア人に送りし書簡の箇所(ガラチア3:26-28)に言及する。その中で聖パウロはキリストにおいて新たにされた者にとっては男も女もない、と言っている。聖アウグスティヌスはこう言う:これは、「彼らがそこで神の似姿へと新たにされているからであり、そこには性はないからである...すなわち、精神の霊において」ということである。

聖アウグスティヌスはまた、人は男、女そして子どもにおいて三一性を措定することを許されるけれども、それはいかなる仕方においても神のペルソナの三位一体にたとえられることはできない、と述べている。そして彼はある人々によるそのようにする試みについて僅かの軽蔑もなしに語っている。

ところで、問題が生じる:もし人が、私の限られた学習をもってすれば、EWTNがその普及のための手段を提供するおよそ十六世紀も前にハーンの類比に対するアウグスティヌスの非難について知っているならば、なぜ世評ではそうだと見なされているこのカトリック・ネットワークの神学的な指導者たちがこの知識を所有していないのか? ハーンは実際に聖アウグスティヌスを読んだのか? 彼は学問的な肩書きと教授の地位を持っている。彼は書物を出版している。三位一体に関してかつて書かれた最も有名な論文に彼が親しんでいると期待することはもっともなことではないか? そしてもし聖アウグスティヌスからはずれるならば、彼はどの点でこの教会の神学博士が不適切であるかあるいは訂正の必要があるかを言う義務を持っていないのか?

フェララ氏は「個人目当ての」ad hominem 攻撃に従事するのを拒否することにおいて、そして彼がただ客観的な誤謬にのみ関わっているのであって、主観的な性向に関わっているのではないという彼の認識において、聖なる愛徳を良心的に固守している。私はこの論評において同じようにすることを希望するであろう。にもかかわらず、私はハーンによって示された種類の厚かましさを決して咎めるべきものではないとして黙許することはできない。そして私はさらに、カトリック伝統に関するそのような向こう見ずは、それが神学の問題においてであれ、あるいは典礼の問題においてであれ、あるいは決定された教義の問題においてであれ、新しい教会の特徴となったと言うであろう。

途方もないこととして私に衝撃を与えることは、われらの主がわれわれに御自分の御母を与えられたときに、ハーンが聖霊のうちに母を探さなければならなかったということである。「花嫁的/母親的」なものの霊的理想を探すことにおいてなぜハーンは祝せられた御母そしてカトリック霊性にとってそのように不可欠である聖母への信心の豊かな伝統を利用しないのか? 諸世紀を通じて多くのカトリック著作家たちによって提出された霊的母性の適切な教えはマリアがイエズスを生むために聖霊と協力なさったとき、彼女は諸々の霊魂の内にキリストを生むために聖霊と協力し続けておられるということである。彼女はその御子によって価するものとされたこれらの恩寵の仲介者として神秘体[カトリック教会]のうちに神の子らを生み給うのである。

にもかかわらずハーンは聖アウグスティヌスによって四世紀に論駁された一つの古代の誤謬の再発の中に霊的な母性を追い求めるのである。

プロテスタント説教師たちの説教壇 EWTN

フェララ氏はEWTNの人物たちの多くがカトリックのエートス全体が公会議後の諸改革の無秩序の中で失われていた第二ヴァチカン公会議の後に教会に入った元プロテスタント牧師たちであるということを注意することにおいておそらくわれわれにこの不思議に対する鍵を与えたであろう。それより前の時代には、そのような改宗者たちは彼らの場所を信徒席のうちに占め、そして信心深い平信徒として信仰に関する彼らの知識と愛において成長したであろう。今は、彼らはアラバマ、イロンデールへと新しく移転した彼らの説教壇を占領し続け、そして自分たち自身を神がわれわれに与え給うた最も偉大な神学の巨星たちと等しい者また彼らのライバルとさえすることを自由にしていいと思っている。はかりの一方の側にわれわれはアウグスティヌス、アクィナスそして教導権を持っており、そしてはかりの他方の側にハーン、ポプカク等々を持っている。その不釣り合いは極端である。

T.S.エリオットはキリスト教文明に関するいくつかの講演を行ったがその中で彼は文化的な崩壊の過程を詳細に論じた。彼は、ある文化が強いとき、それは接触する外来の諸要素を同化すると言った。これはその歴史の大部分を通じてそうであったカトリック教会の場合であった。ローマ帝国の僻地における使徒たちの小さな一団から信仰は世界を席巻しそれをキリスト教世界に変えた。しかしその過程は終わりを告げた。第二ヴァチカン公会議以来、教会は急速で根本的な崩壊を蒙った。エリオットは文化が同化の力を失うほどに弱くなり得る、それから、それが外来の諸要素と接触するとき、それらを吸収し変形する代わりにそれ自身吸収され、変形されると指摘した。

EWTN は、フェララ氏が指摘しているように、「神学をする」ことを自由と考える何人かの改宗したプロテスタント牧師たちを呼び物にしている。そのネットワークは彼らに一つの電子の説教壇と莫大な会衆とを提供している。彼らはカトリック教会における一つの新しい現象:平信徒の説教師を表している。これらの平信徒の説教師たちは EWTN を吸収し、彼らがおそらくそこからはずれたプロテスタントのエートスへと変形した。彼らは教導権の教説を人が彼の私的な判断に従って信奉することができる、あるいは信奉しない「伝統的な諸々のモデル」へと降格した。ハーンの三位一体に関するいじくりまわしはカトリック教会の文化的崩壊の徴候である。EWTN は信仰を促進することからはほど遠く、信仰の終焉を記録にとどめている。

われわれは EWTN と妥協することはできない

その結論において、フェララ氏は EWTN を支持している人々にそうすることを止めるように忠告している。なぜならそのネットワークは近代主義的な新しい教会の妥協した代理人となってしまったからである。彼は伝統的なラテン語のミサと健全な司祭たちや教師たちを探し出し、信仰の決定された諸教義を固守し、諸々の新奇さによって誘惑されないために信仰に対して忠実であるすべての人々を励ましている。

彼はまた新しい教会の悪魔的な方向感覚喪失をファチマの光に照らして見ている。マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献から結果したであろう諸々の祝福は不従順な位階によってわれわれの上にもたらされる呪いとなった。それはまさにそのネットワークを一つの不純なものとされた信仰のための媒体としたあの位階との EWTN の妥協である。「教会は近代主義との妥協によっては決して再興され得ない」とフェララ氏は書いている。この文章はこの危険な時代における教会権威者たちとのわれわれのすべての交渉における支配的な規範となるべきである。

妥協はもっともなもの、ある場合には勧められるものであろう。そして生活の多くの領域においてその通りである。しかしカトリック信仰へのわれわれの固着は絶対的でなければならない。さもなければわれわれはそれを失うであろう。

あなたのカトリック信仰を用いなさい、さもなければあなたはそれを失うかもしれない

私は若かったとき、広く旅行した。そして私の放浪はかつて私をスペイン北部の海岸のはずれの一つの小さな島に導いた。その砂地の土地と岩の多い土手では多くのものが育たなかったが、しかし非常に多くの山羊がその低い岩壁の囲い地の内部で草を食っていた。そのあるものは前足を後ろ足にすこしゆるく間を開けて紐で結ばれていた。他の山羊たちはそうされていなかった。このことは私の好奇心を呼び起こした。それで私は通訳を介して一人の農夫に、なぜある山羊たちが紐で縛られ、他の羊たちはそうではないのか、尋ねた。彼は、紐が若い山羊たちがその足を拡げることを妨げ、その結果彼らは走ることができず、壁を乗り越えることができないのだ、と私に告げた。しばらく後に山羊たちはもはや走り跳ぶことを試みることがなく、その結果紐ははずしてもよいのだ、と説明した。

近代主義との妥協はわれわれを新しい教会の囲い地の内部に留めておくであろう紐である。しばらく後にはわれわれはわれわれを自由にするであろう真理を忘れ、永遠に縛られたままにとどまるであろう。

EWTN:A Network Gone Wrong において、フェララ氏はわれわれにわれわれの信仰の力を呼び戻し壁を跳び越えるように勧めている。

2006/10/14 三上 茂 試訳

EWTN:A Network Gone Wrong に関してもっと詳しくは
ネット上の
www.networkgonewrong.org
を訪問してください。

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作成日:2006/10/14

最終更新日:2006/10/14

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