ファチマ・クルーセイダー

生涯の巡礼

われわれの巡礼者の一人がわれわれの巡礼の間の彼の美しい経験について書いた。彼は人を惹きつける仕方で彼の経験に参与するようあなたを招いている。

The Fatima Crusader Issue 83, Summer 2006

ドン・ペネル

10月10日に私の妻と私はファチマそしてポルトガル、スペイン、フランスの他のいくつかの聖地への巡礼を始めた。

費用がどうであろうと、丸い諸教会、四角の諸教会、虹色の布を掛けられた教会の祭壇、無数の典礼的な乱用、絶えざる騒音、握手、を辛抱してきた40年の後にわれわれはわれわれの踏みにじられた精神を回復しなければならなかった。

われわれはヨーロッパの諸々の大聖堂やそれらの壮大な祭壇の絵を見ていた。そしてわれわれはわれわれの旧世界のカトリック遺産を見、経験することが必要であることを知った。

旅行の最初の滞在地は聖アントニオの生誕地であった。私がその教会に入ったまさにその瞬間に、これから先二週間、聖人たちが歩いたところを歩き、聖人たちが跪いたところで跪き、聖人たちが祈ったところで祈ることになるのだということを知り、また感じた。

私は、祭壇のところで祈るために跪いたとき、感激で圧倒された。なぜなら私は人が見ることができるであろう最も壮大な祭壇を眺めていたからである。私がこれまで北アメリカで見てきたどんなものにも似ていなかった。その教会を離れるとき、私は心の中で考えた。そして結局は声に出して次の質問を発した:北アメリカにおけるあらゆる豊かさをもってして、なぜわれわれはあのような教会を建てることができなかったのか? と。

ファチマでは、6万人の仲間の巡礼者たちと共にわれわれは一つの蝋燭行列に立ち会ったが、それはわれわれの背筋をぞくぞくさせるものだった。ファチマの聖母の現前に浴しながら、われわれは巡礼者たちの他の人々と一つであると感じた。壮観さ、儀式、歌、そのすべてのすばらしいものが確かに踏みつけられた精神を新たにした。

ファチマにいる間そして旅行のその他の時を通じて、可能であるときには、われわれの霊的指導者は夕食後に一時間の話をしてくれた。ファチマを車輪のハブのように用いながら、毎日われわれは少女としてのルチアが、そして生涯の後の方で、修道女としてのシスター・ルチアが彼女の聖性への旅を続けたさまざまの地方の町々へ旅をした。

歴史を愛する者の一人として私は自分の領域にいた。バタリヤでの八百年以上の古さのゴチックの大聖堂、勝利の聖母、は息をのむような見ものであった。私は手を外部の壁に当てた、そしてどういうわけか歴史の八百年という年を感じることができたと考えた。

われわれの旅行を通じてそのようであった。われわれは諸々の寺院、司教座聖堂、教会そして修道院を訪ねた。

各々の建物はそのデザインと美しさにおいて他のものにまさるように建てられたと思われた。各教会の祭壇の目に見える重々しさはただただわれわれの信仰を深めまた強めた。われわれの巡礼の霊的指導者が説明したように、あなたは目を絨毯あるいは祭壇という最下部に焦点を合わせることによって始めるが、しかしあなたの目と頭はついには祭壇の頂上へと移動しそして十字架につけられたキリストを覆う。あなたの目そしてそれゆえにあなたの魂は常に天国を見ることで終わる。

われわれは祖国のわれわれの教会には何が欠けているかを知っていた。そしてわれわれはわれわれの巡礼で何を見出したかを知っていた。それはカトリック教会というものがそうであり得るそしてそうであるべきものの外的な荘重さと威厳であった。

筆舌に尽くしがたい荘厳な雰囲気をもった千年以上も古い聖堂の内部で、われらの主の使徒 聖ヤコブの墓石に触れることを想像してください。もし私が過度に熱狂的な者として白状するならば、私は熱狂的である。なぜなら、北アメリカのどこにもあなたはあなたのカトリック信仰の力学を外的に触れあるいは内的に感じることができないからである。

ピレネー山脈を越えるわれわれの旅は、ただわれわれの北アメリカのロッキー山脈にだけ比較し得る絵のような、そしてほとんど圧倒的なものであった。

ルルドの水に浸かったことは、もちろんほんの数秒間だけであったが、一つのわくわくさせるものであった。それは冷たかった。そして私の注意力を高めた。しかし水浴から出たとき私はうきうきした。われわれがルルドでした経験はファチマでした経験と非常によく似ていた。それぞれ一つの異なった物語であり、それぞれ異なった経験であった。

二週間以上にわたってわれわれが訪れたそのように多くの他の場所はただわれわれの最初の日の経験を増しただけであった。そのように多くのことをあなたに告げたいが紙幅が少ないのでできない。

諸司教座聖堂は壮大であり、諸祭壇は美しく、諸々の御像は生きているようであった。毎日捧げられた伝統的なラテン語のミサは巡礼に参加したわれわれすべての者に対する最も真で最も長く持続する祝福であった。

世俗の世界に戻った。ここに一つの古い諺がある。「あなたはそれをあなたと一緒に持って行くことができない」、それとは金である。しかしあなたは次の巡礼であなたと一緒にそれを持って行くことができる。私は何度も、人々は彼らの金を彼らの子どもたちのための遺産として貯えるということを聴いた。私の提案は、あなたが生涯の巡礼をした後に残しておいたものを彼らに与えるということである。

あなた自身にあなたの労働の生涯の霊的な実りを否定しないでください。

2006/10/15 三上 茂 試訳

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作成日:2006/10/15

最終更新日:2006/10/15

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