司祭たちのファチマ運動

目次

序論 アップ(2008/04/16)

第Ⅰ部 ファチマを理解する

第1章 集まる嵐 アップ(2008/04/16)

第2章 ファチマのメッセージとは何か?アップ(2008/04/17)

第3章 「人々が信じるようになるために...」 アップ(2008/04/18)

第4章 五回の初土曜日の信心 アップ(2008/04/19)

第5章 ロシアの奉献 アップ(2008/04/20)

第6章 聖母の陳列棚 アップ(2008/04/21)

第7章 警告に告ぐ警告は無視される アップ(2008/04/22)

第8章 それはなされたか?アップ(2008/04/23)

第Ⅱ部 司祭たちのファチマ運動を始める

第9章 司祭たちのファチマ運動の五つの原理 アップ(2008/04/24)

第10章 司祭職のためのファチマ・プログラム アップ(2008/04/27)

序論

今日の信仰するどんなカトリック教徒が教会のそのように多くの部分において信仰と規律の危機を嘆かないのか? 分別のあるどんなカトリック教徒がわれわれの全文明の加速化する衰微、時間が経てば経つほど全人類の神による懲罰をより身近にもたらすように思われる衰微に対する警告を感じないのか?

それでも神はわれわれの苦境を無視なさらなかった。われわれが「憐れみの御母、われらの光、われらの甘美さそしてわれらの希望」として御挨拶し、われわれが悩みの時に飛んで行くまさに神の御母その方は教会の最高の当局者たちによってそのようなものとして認められた神御自身からの一つの特別のメッセージ:すなわち、ファチマのメッセージをわれわれにお伝えになった。

このメッセージの中で、汚れなきマリアは危険から脱する一つの方法と多くの霊魂の救いと世界における平和をもたらすであろう聖母の汚れなき御心の栄光ある勝利への道とを約束なさった。

1982年5月13日にファチマでのその説教において、教皇ヨハネ・パウロ二世はこう尋ねられた:「彼女が聖霊の中で育てられ、そしてすべての人の救いを望んでおられる愛のすべての力をもっておられる御母は御自分の子どもたちの救いのまさに地盤そのものが堀り崩されているのをご覧になるとき、沈黙したままでいることがお出来になるであろうか?」教皇は次に彼自身の問いにこう答えられた:「いいえ、聖母は沈黙したままでいることはお出来にならない。」

ここで教皇は明らかにファチマのメッセージを、その信仰がそのように多くの場所で掘り崩されているがゆえにまさに霊魂たちの救いそのものが危機に陥っている今日の教会における危機のための神の救済策として提示されたのである。そしてその同じ説教の中で、教皇はまた「諸国家と一つの全体としての人類の上に現れているほとんど黙示録的な脅威」についても話された。ファチマのメッセージは、教皇がその説教の中で「世界中に広がっている、そして個人、諸国家そして全体としての人類に脅威を与えている悪...」と同一視なさったものと共に起こっている全人類に対する脅威を述べているのである。

2000年5月13日に教皇は1917年のファチマの御出現の後間もなく亡くなった二人のファチマの幻視者、ヤシンタとフランシスコの列福式を挙行するためにファチマに戻って来られた。この機会に教皇はファチマの第三の秘密を含むファチマのメッセージの内容がその本性において黙示録的であり、黙示録の第12章に関係していることを明らかになさった。彼は列福式にために集まった大群衆に次のように宣言なさった:

「ファチマのメッセージは、その『尾が天の諸々の星の三分の一を掃き落とし、それらを地上に投げ落とす竜』(黙示録12:4)と関わらないように人類に警告している、回心への一つの呼びかけである。人間の最終的な目的地は天国であり、天の御父があらゆる人をその憐れみ深い愛をもって待っておられる彼の真の家である。」

「神は誰一人失われることを望まれない。それが『失われた人を捜し、救うために』(ルカ19:10)2000年前に神がその御子を地上にお送りになった理由である。そして神は十字架上でのその御死去によってわれわれを救われた。誰もあの十字架からその力を無にしてはならない!イエズスは死なれそして『多くの兄弟たちの間で最初に生まれたもの』(ロマ書8:29)となるために死者の中から復活なさった。」

「祝せられたおとめは、その母親としての関心において、男たちや女たちに、『すでに非常に背かれておられるわれらの主なる神に背くことを止める』ように求めるためにここファチマに来られた。御自分の子どもたちの運命が危機に瀕していると聖母に語ることを強いたのは一人の母親の悲しみである。この理由で聖母は小さな羊飼いたちにこうお求めになった。『罪人たちのために祈りなさい、たくさん祈り、犠牲を捧げなさい。多くの霊魂は彼らが彼らのために祈りそして犠牲を捧げる人を誰も持っていないがゆえに地獄に行きます』と。」

ファチマのメッセージはそれゆえに黙示録の書物のうちに見られる「竜の尾」 - 悪魔 - に関係している。それは天から諸々の星 - 伝統的に奉献された霊魂たちを指しているものと解釈されている - の三分の一を掃き落とす。教皇はキリスト御自身のまさに使命そのものそしてキリストの啓示をファチマでの神の御母の諸々の警告と指示に関係づけられたのである。

ファチマでの彼の1982年の説教の終りの方で、教皇は、ファチマのメッセージは福音書と伝統に密接に関係づけられているがゆえに、それはメッセージが指示していることに従うように教会に一つの義務を課しているのだ、とはっきりと宣言なさった。教皇御自身の言葉をこの小冊子の主題として役立たせよう:

「ファチマのメッセージの聖母の訴えは非常に深く福音書と伝統の全体のうちに根づいているので、教会はそのメッセージが自分に一つの義務を課していると感じている。」

ファチマのメッセージはそれゆえに「単なる一つの私的な啓示にしかすぎないもの」ではないのである。教会のあらゆる成員はファチマでの神の御母御自身によって教会に課された義務を尊重する義務を負っている。教皇が明確になさったように、無数の霊魂たちの永遠の運命と全世界のこの世的な運命がほかならず危機に瀕しているのである。

この小冊子の目的はファチマのメッセージがどのように現在におけるカトリック教徒の信仰と生活を脅かしている諸々の危険に対する解答を保持しているかを示すこと、そして司祭職にある人々のためにメッセージが司祭としての各人に課している義務を尊重しまたそれに従うための一つの方法を提示することである。

われわれはここに一つの司祭たちの世界的なファチマ運動 - 霊魂たちの善と世界の安全および保護とのために教会のすべての成員たちによるファチマ・メッセージの理解とそれへの支持を促進することにひたむきな司祭たちの運動 - の創設を提案する。

この運動はいかなる形式的な教会法上の統一体の創出をも含まないであろう。しかしむしろファチマの聖母の諸々の要求に応える個々の司祭たちによる祈りと行動という目的の一致を含むであろう。その運動の成員たちは、教会法と第二バチカン公会議がわれわれにそうすることを奨励しているように、さまざまの手段を通じてこの極めて重大な教会問題に関して相互に話し合うであろう。

この運動には通常の種類のどんなリーダーシップあるいは組織的構造も存在しないであろう。この運動の指導者は神の御母なるおとめであり、そしてその構造はカトリック司祭である。その運動の憲章は、あらゆる時代に教会の教導職によって教えられ、そして教会の諸々の聖人や博士たちによって説明されたように、 各々のあらゆるカトリック司祭の諸々の権利と義務以外の何物でもない。われらの主の神的委託と一致して、司祭としてのわれわれの第一次的な義務は「行ってすべての民に福音をのべ伝え、わが汝らに命ぜしことは何であれすべて守るように教え」ることである。教皇ヨハネ・パウロ二世が明らかにされたように、ファチマのメッセージはまさにその使命そのものに最も密接な仕方で結びつけられている。もしわれわれ司祭が、われわれの時代において遂行されるものとして神の委託に忠実であるべきだとするならば、われわれはそのメッセージを無視することはできない。そのメッセージはまさに今日の教会の援助のためにマリアによって伝えられたからである。

なぜわれわれは司祭たちのファチマ運動を必要とするのか? 基本的な理由は以下の通りである:

教皇ヨハネ・パウロ二世が指摘されたように、ファチマのメッセージはいかなる疑いをも超えて、引き続く諸教皇によって認められた神の御母の信頼できる御出現である。ヨハネ・パウロ二世は三人のファチマの幻視者たちのうちの二人を列福され、そしてローマ・ミサ典礼書のためにファチマの聖母の毎年の祝日を定められた。ファチマのメッセージは正式にそして取消しできない仕方でカトリック教会の生活の一部である。

教皇ヨハネ・パウロ二世は7万人の人々によって目撃された一つの公的な奇跡によって真だと確証されたメッセージの内容は霊魂たちの救いのため、そして「諸々の民と全体としての人類の上に次第に迫って来ているほとんど黙示録的な諸々の脅威」および「世界中に広まっており、個々の人間存在、諸々の民そして全体としての人類を脅かしている悪...」の回避のために決定的に重要である、と述べられた。

メッセージそれ自身はそれが要求していること - 世界中の司教たちすべてと一緒に教皇によるマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献を含む - を心に留めることに失敗することは教会の迫害、教皇御自身を除外することなく司教たち、司祭たちそして平信徒の殉教そしてさまざまの国の絶滅に結果するであろう。

聖母御自身が警告なさったように、もしメッセージが知らされそして心に留められないならば、数百万の人々は恐ろしい仕方で死に、そして無数の霊魂は永遠に失われるであろう。

われらの主御自身は「私に仕える人々」はメッセージに従わないことによる破滅的な諸結果を避けるためにメッセージを知りそして心に留めなければならない、そしてこれは単に司教たちや教皇だけではなくて、聖なる司祭のすべての成員をも意味する、と警告なさった。

もしメッセージが知られそして心に留められるならば、多くの霊魂は救われ、全体としての世界は、ロシアの回心そしてその結果として起こる奇跡的なものに他ならないであろう世界平和の一時期を含む大きな霊的および物質的な利益を受けるであろう。

御自分の被造物に対する神の御約束のすべてに一致して、メッセージがわれわれから要求していることは非常に僅かなことである。しかしそれが代わりに約束していることは計り知れないほどの価値のあることである。他方においてメッセージに心を留めることの失敗の諸結果は破局的であろう。

それゆえに、ファチマのメッセージを知らせ心に留めることは最大の分別であり、それを無視しそれに従わないことは最大の愚かさである。

要するに、もし二十一世紀のわれわれ司祭が諸々の秘跡の管理と福音の説教を通じて霊魂たちの救いというわれわれの使命に対して忠実であるべきならば、われわれはその使命の中へファチマのメッセージを組み入れる以外の他の選択を持たない。ファチマのメッセージは、神御自身がわれわれの時代にとって不可欠であると考えられた諸々の祈りと信心を完備した、現代における教会の救済の使命を遂行していくための神御自身がお定めになった特別の教えである。ファチマのメッセージは救済史におけるこの時点のための信仰の真のカテキズム - 神の啓示のための代用品ではなくて、あらゆるカトリック教徒の啓発と恩寵における成長のための神の啓示への手引き - である。

この小冊子は二部に分けられている。第一部においては、ファチマのメッセージの物語に親しんでいないであろう人々はその歴史と内容について何らかのことを学ぶことができる。ファチマで聖母によって要求されたロシアの奉献、そしてヨハネ・パウロ二世が1982年および2000年のファチマでの彼の説教においてほのめかされた黙示録的内容の最も重要な要素をほとんど確実に含んでいるファチマの第三の秘密をめぐる論争もまた議論されるであろう。

第二部においては、われわれは提案された司祭たちのファチマ運動の五つの原理を詳述し、ファチマのメッセージの実現を早め、聖母によって約束された教会と世界のための奇跡的な霊的および物質的な利益を確保するために運動の五つの原理を実践に移すための実用的な示唆を提供する。

われわれはこの小冊子を、それがある小さな仕方で汚れなき御心の最終的な勝利 - 教会のための、救いを必要としている霊魂たちのための、そしてただ神の恩寵だけが産み出すことのできる真の平和を絶望的に必要としている世界のための一つの栄光に満ちた贈り物 - をより近くにもたらすことを助けるように、希望と祈りをもって数千人の司祭たちに利用可能なものとした。ファチマの聖母、われらのために執り成し給え!

第 I 部 ファチマを理解する

第1章 集まる嵐

「ロシアの諸々の誤謬は世界中に広まるでしょう...」これは聖母がその諸々の要求に心を留めることに失敗することの一つの結果としてファチマのメッセージの中で伝えられた多くの警告のうちの一つである。言うところの「共産主義の崩壊」にもかかわらず、ロシアの諸々の誤謬は広まり続けており、そして世界は神の像と似姿において作られた人間人格に反する道徳的、霊的そして身体的な暴力の連鎖的下降を続けている。これが、1982年と2000年にファチマでした説教の中でヨハネ・パウロ二世が明らかにしたように、彼をそのように苦しめたまさにその状況である。

あなたがこれらのページを読んでいるときに、中東は戦争突発の危険が迫っており、イラクにおける殺戮は日に日に増加し、スーダンのダルフールにおける紛争のように、諸々の紛争が至るところで大殺戮を引き起こしている。ダルフールでは過去3年にわたってアラブの市民軍によって40万人の無辜の市民たちが虐殺されてきた。ロシアはイラクや他の場所でのイスラム・テロリズムへのその財政的および他のつながりと共に、ウラディーミル・プーチンの下でのネオ・スターリニズムの独裁国家となった。彼の権威主義的な支配をニューヨーク・タイムズでさえ公然と非難している。ある最近の世論調査は、ポーランドの人々がロシアを彼らの国家に対する最大の脅威と考えているということを示した。もっと不気味なことにはロシアは今や赤色チャイナと軍事同盟を結んでいる。赤色チャイナの経済力は合衆国および他の西欧諸国を超えて成長し続けている。

全面戦争の諸勢力が集まっている一方で、中絶のホロコーストが神の報復を求めて叫ぶすべての虐殺された幼児の血と共に、地球の至るところで続いている。女性たちは今や中絶された子どもたちの身体から取られた細胞を美容の処置のために使用している - これは中絶それ自身を合法化したのと同じように、ロシアにおいて始められた常習行為である。

かつてキリスト教国であった西欧のあらゆる国において、自分たちを民主主義国家と呼び、彼らの「自由」を自慢している世俗化された諸政府は宗教および自然法に対して彼らの攻撃を加えている。ロシア - ある人々はロシアが1984年以来回心したと敢えて言っている - においては、カトリック教会はかろうじて存在することを許されている。中国においては、教会は地下へと追いやられてしまった - 教会の司祭たちそして司教たちは逮捕され、投獄され、あるいは共産党の残酷な人々によって攻撃された。第三世界の他の国々においては、カトリック少数派の人々は非カトリック多数派の手で暴力や迫害を蒙っている。

地震、津波、火山や他の諸々の自然災害もまた、来るべきもっと悪くさえある諸々の災害の脅威をもってわれわれの騒然とした世界を打っている。2004年の津波だけで11の異なった国々の213,000人以上の人々を殺した。

1907年に教皇ピオ十世 - 列聖された最後の教皇 - はその最初の回勅の中で、彼がペトロの玉座に登るために選任されたとき、こう宣言された。彼は「他のすべてのことを超えて今日の人間社会の破滅的な状況によって恐れさせられた。なぜなら、誰が、社会は現在、過去のどの時代においてよりも一つの恐ろしいそして深く根づいた病気に苦しんでいる - その病気は毎日進行し、その最も内部の存在へと食い入りながら、それを破滅へと引きずり込んでいる - ということを見そこなうことができるだろうか?」と断言された。彼は彼の時代の大多数の人々が「永遠の神に対するすべての尊敬を失った」、そして「公的および私的生活の表明において至高の意志に対するいかなる尊敬も払われていない - いやむしろ、神の記憶と知識を完全に破壊するためにあらゆる努力とあらゆる術策が用いられている」と述べられた。彼はこう結論された:「このすべてのことが考慮されるとき、この大きな邪悪さがいわば、最後の時代のためにとっておかれている諸悪の前味わいそしておそらくその始まりではないか、そしてすでに世界には使徒が語っている『滅びの子』が存在しているということを恐れるに十分な理由がある...」と。

1950年に教皇ピオ十二世はこう言われた:「世界は今や[ノアの]大洪水の前よりももっと悪い。」今日の世界の状態についてピオ十世、ピオ十一世そしてピオ十二世のような偉大で聖なる教皇たちは何と言われるであろうか?

現代世界についての彼の楽観主義にもかかわらず、教皇ヨハネ・パウロ二世でさえ、ヨーロッパ全体が「神から離れ、キリストから離れた人間の幻影」に屈したこと、そして「ヨーロッパ文化があたかも神が存在しないかのごとくに生活する...人々の側で『沈黙の背教』の印象を与えている」ことを認めることを強いられた。故教皇はこう言われた:この沈黙の背教の諸々の結果は「出生数の先細り、司祭職や修道生活への召命数の減少、そして結婚を含む生涯続く献身をすることの、あからさまな拒否ではないとしても、困難」であると言われた。

ヨハネ・パウロ二世の言葉はかつてのキリスト教諸国の至る所で人々の大集団が彼らの結婚を不毛のものとする避妊を実行しているという恐るべき現実を反映している。自然法と避妊に反対する教会の不可謬的な教えに対する反抗のこの状態のうちに生活しながら、人々は神の恩寵と彼らの家族に対する神の祝福を失い、知らずに彼ら自身を悪魔の権力の下に置いたのである。旧約聖書が述べたように、大天使聖ラファエルはこう教えた:「結婚のとき、自分たちの心から神を追い出し、心なき馬か、らばのように、本能におぼれる人に対しては、悪魔は強い。」(トビアの書6:17、ヴルガタ訳)

避妊、中絶、離婚そして「同性結婚」のこの時代においては悪魔が実際かつてキリスト教徒であった人々の大集団に対して権力を獲得したということを誰が否定することができようか? 家族は崩壊しつつあり、そして社会はそれと一緒に崩壊しつつある。西欧の諸国民は子どもがいないために死に絶えつつあり、その一方でイスラム教の集団はキリスト教文明の最後の痕跡を覆い尽くす脅威を与えつつある。

同時に、教会はまたその全歴史においておそらく最悪である一つの危機:すなわち、信仰と規律の崩壊、至る所でのスキャンダル、諸々の召命の減少、そして真の信仰からあらゆる種類のセクトへの大量離反、を経験しつつある。

バチカン自身の統計は1978年から2004年まで、世界の人口がおよそ50%増加した一方で、世界における司祭の総数が3,5%、男子修道者の数が27%、女子修道者の数が22%減少したということを示している。たといわれわれが、教区の神学校および修道会の神学校に在籍している哲学および神学のすべての学生が司祭職志願者であるというバチカンの想定を受け入れるとしても、世界中で、現在職務についているあらゆる100人の司祭たちに対して司祭職「志願者」はわずか28人しかいない。明らかに、これらの「志願者たち」の多くはずっと司祭叙階まで進まないであろう。それでは明日の司祭たちはどこからやって来るであろうか? 奇跡がないならば、司祭たちは存在しなくなるであろう。今でさえ、アフリカからの司祭たちが信徒に奉仕するためにアイルランドへと転任させられている。なぜならアイルランド - 聖パトリック自身によって改宗させられた土地 - はほとんど召命がないからである。同じ状況はヨーロッパの至る所で、そして合衆国においてさえ、真である。

カトリック教徒の世界人口における割合は教会の宣教活動における著しい落ち込みを反映して過去26年にわたって17%と18%の間まで沈滞してしまった。さらに、今なお自らをカトリック教徒と呼んでいる人々の大多数は、彼らがたまたま意見が合わないカトリック教会のどのような教えに対してもそれを固守するいかなる義務をももはや感じていない。カトリック教徒は、合法化された中絶、避妊、離婚そして他の道徳的な諸問題についての彼らの見解において、今やプロテスタントたちやユダヤ教徒たちと大部分は区別できない。ヨハネ・パウロ二世が教会における沈黙の背教について語られたことは何ら驚くべきことではない!

今日の世界の状態を眺めれば、われわれは過去100年にわたって諸教皇のすべてが達した結論と同じ結論に達することができるだけである:すなわち、キリストと彼の教会に対する反乱の諸力が世界を黙示録的な戦争と世界的な荒廃の瀬戸際へと近づけた。それらは人類の歴史において以前には決してなかったような神を無視している世界の諸々の罪に対する神の懲罰であろう。信仰を持っていない人々でさえ世界が大災害へ向かっていると感じているように、信仰を持っているどんな今日の人間が[ノアの]大洪水よりも大きな人類の懲罰を恐れないだろうか?

幸いなことに、神は人類の反乱に直面して沈黙したままにとどまられなかった。神は御自身の御母をファチマにお送りになり、われわれのやり方を変えるように警告し、そしてわれわれの叛逆的な世界が十分にそれに値する神の懲罰を避ける手段を提供なさった。

第2章 ファチマのメッセージとは何か?

聖トマス・アクィナスがわれわれに教えているように(『神学大全』II-II, Q. 174, Art. 6)、教会の歴史の各々の時代に神はその民に危険について警告し彼らがその危険を避け、彼らの霊魂を救うためになさなければならないことを彼らに告げるために、一人の預言者を送られた。「預言を軽蔑してはならない」と聖パウロは聖書の中で不可謬的にわれわれに教えている。確かに、啓示は最後の使徒の死と共に完成された。しかし神はカトリック教会におけるその預言者たちを通じて警告と矯正とを与え続けておられる。われわれの神は理神論者たちの不在の神ではなくて、生ける神、イエズス・キリストであって、キリストは御自身が約束なさったように、世の終りまで常にわれわれと共におられるであろう。

われわれの時代のための神の預言者はおとめにして神の御母に他ならない。聖母はわれわれに警告、矯正そして霊的援助を与えるために、教会によって真正のものとして認められた諸々の御出現のうちに、十九世紀半ば以来繰り返し御出現になった。不思議のメダイの聖母(1830年)、ラ・サレットの聖母(1848年)、ルルドの聖母(1858年)そしてノックの聖母(1879年)はすべて、二十世紀になった直後、そしてロシアにおけるボルシェヴィキ革命のほんの数週間前に、聖母のすべての御出現のうちでも最も劇的な御出現のための道を準備した。

聖ピオ十世が反キリストの到来の先触れをする世界における増大する背教について書かれたわずか数年後に、聖母は1917年5月から10月までの毎月13日にポルトガル、ファチマに再び御出現になった。これら一連の御出現において、神の御母は三人の羊飼いの子どもたち:ヨハネ・パウロ二世が列福なさった福者ヤシンタと福者フランシスコ、そして2005年2月13日にこの地上を去ったシスター・ルチア、に教会と世界のための一つのメッセージを打ち明けられた。

ファチマのメッセージの最も重要な部分は1917年7月13日の聖母の御出現において神の御母によって啓示された。そのとき聖母はファチマの偉大な秘密と呼ばれるものを打ち明けられた。その秘密は三つの部分に分けられている。第一の部分は恐るべき地獄の幻視であった。その幻視のうちに三人の子どもたちは恐るべき苦しみを受けている多くの霊魂を見た。第二の部分は、地獄の幻視の直後に伝えられたが、それはシスター・ルチアによって彼女の日記の中に記録されているように、おとめ[マリア]御自身の言葉そのものを含んでいる。われわれはここでバチカン自身のウェッブサイトで公表されている翻訳を用いる:

「あなたたちはあわれな罪人たちの霊魂が行く地獄を見ました。彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられます。もし私があなたたちに言うことがなされるならば、多くの霊魂は救われるでしょう。そして平和がやって来るでしょう。戦争[第一次世界大戦]は終わろうとしています。しかしもし人々が神に背くことを止めないならば、もっと悪い戦争がピオ十一世の教皇在位期間中に勃発するでしょう。あなたが未知の光によって照らされる夜を見るとき、それは、神が戦争、飢饉、そして教会と教皇の迫害によって世界をその罪のために罰しようとなさっていることが神によってあなたたちに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。このことを防ぐために、私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と初土曜日に償いの聖体拝領をすることを求めるために戻って来るでしょう。」

「もし私のこれらの要求が聴き入れられるならば、ロシアは回心するでしょう。そして平和がやって来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは諸々の戦争と教会の迫害を引き起こしながら、世界中にその諸々の誤謬を広めるでしょう。善人は殉教するでしょう。教皇はたくさん苦しまなければならないでしょう。さまざまの国が絶滅させられるでしょう。最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心するでしょう。そして平和の一時期が世界に与えられるでしょう。」

シスター・ルチアは彼女の第四の回想録の中で、聖母が秘密の第二の部分を述べられた後に、ポルトガルの国へのこの神秘的な言及をされたということを明らかにした:すなわち、「ポルトガルにおいては、信仰の教義は常に保たれるでしょう、云々」ファチマ学者たちは、これらの言葉がファチマの第三の秘密として知られている偉大な秘密の第三の部分の始まりであり、そして第三の秘密がポルトガルの外部での教会における信仰と規律の危機を預言していると結論することにおいて一致している。シスター・ルチアは彼女の上長たちに、聖母が1960年までには第三の秘密は世界に明らかにされることを望まれたと忠告した。なぜなら、その意味がそれまでには「もっと明らかになっているだろう」(mais claro)からだ、と彼女は説明した。

上に引用した聖母の言葉が明らかにしているように、ファチマのメッセージの第二の部分は光栄ある約束と恐ろしい警告の両方を含んでいる。

「もし私があなたに言っていることがなされるならば、多くの霊魂が救われるでしょう、そして平和がやって来るでしょう。」

「もし私のこれらの要求が聴き入れられるならば、ロシアは回心するでしょう。そして平和がやって来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは諸々の戦争と教会の迫害を引き起こしながら、世界中にその諸々の誤謬を広めるでしょう。善人は殉教するでしょう。教皇はたくさん苦しまなければならないでしょう。さまざまの国が絶滅させられるでしょう。」

神の御母はこれ以上にもっと明瞭であることはお出来にならなかったであろう。すなわち、もし彼女の諸々の要求が聴き入れられないならば、霊魂たちは失われ、そしてさまざまの民は絶滅させられるであろう。そして彼女の諸々の要求とは何であるか? 第一に、聖母は教皇と世界のカトリック司教たちとによってなされる一つの荘厳な公的儀式において聖母の汚れなき御心へのロシアの共同奉献を求めるために戻ってくるでしょうと約束なさった。

第二に、聖母はまた、教会において5回の初土曜日の信心として知られるようになった「初土曜日における償いの聖体拝領」を要求するために来られるであろうと約束なさった。

これら二つの要求に加えて、聖母は1917年7月13日に打ち明けられた「偉大な秘密」にすべて関連する、以下に述べる他の緊急の要求をファチマ御出現の間になさった:

信徒が「彼らの生活を改め、彼らの罪の赦しを願うこと。彼らはこれ以上われらの主に背いてはならない。なぜなら、主はすでに余りにも多く背かれておられるからである。」

われわれが茶色のスカプラリオ - カルメル山の聖母のスカプラリオ - を身につけること。シスター・ルチアは「ロザリオとスカプラリオは不可分のものです」と言った。

われわれが日常の諸義務によって要求される犠牲を行うことによって償いをすること。聖母はわれわれがロザリオの祈りをするように要求なさることに特に固執なさった。1917年10月13日 - まさに太陽の奇跡のその日(われわれはそれを次章で論ずるであろう) - の御出現の間に、聖母はこう宣言なさった:「私はロザリオの聖母です。」聖母は、御出現になる度毎に教会のすべての成員によるロザリオの祈りを強く要求なさった。ファチマで聖母はロザリオが背教、混乱そして広まる悪のこの時代におけるわれわれの主たる霊的武器であるべきことを明確になさった。

最後に、ファチマのメッセージはカトリック教徒の信心生活への追加として神がお定めになった七つの祈りを含んでいる。ファチマでの一連の御出現の間に、三人の子どもの幻視者たちは五つの独特で強力な祈りを教えられた:二つは平和の天使によって、そして三つは神の御母によって。後になって、スペイン、リアンジョでシスター・ルチアに話しながら、われらの主御自身がさらに二つの祈りを書き留めさせられた。数百万の人々にとって、これらの祈りは聖母がファチマで世界にお与えになった希望と平和のメッセージを具体的に表現している。以下にそれらの祈りがある:

I.
わが神よ、私はあなたを信じ、崇め、希望し、愛します!私はあなたを信じず、崇めず、希望せず、愛さないすべての人々のためにあなたに赦しを願います!

II.
[罪人たちのために犠牲をするとき、次のように祈りなさい]:おお、わがイエズスよ、それはあなたへの愛のため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れなき御心に対して犯される罪の償いのためです。私はこの犠牲をあなたに捧げます。

III.
おお、わがイエズスよ、われらの罪を赦してください。われらを地獄の火より救ってください。すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導いてください。

IV.

おお、いとも聖なる三位一体よ、私はあなたを礼拝します!わが神、わが神、私はいとも祝せられた秘跡のうちにおられるあなたを愛します!

V.
マリアの甘美なる御心よ、ロシア、スペイン、ポルトガル、ヨーロッパそして全世界の救いであってください。

VI.
おお、マリアよ、あなたの純粋で汚れない御宿りによって、私のためにロシア、スペイン、ポルトガル、ヨーロッパそして全世界の回心を得させてください。

VII.
いとも聖なる三位一体、御父、御子、そして聖霊よ、私はあなたに、御自身がそれによって背かれておられる神聖冒涜、侮辱そして無関心を償うために、世界の諸々の聖櫃のうちにまします同じ御子イエズス・キリストのいとも貴重なる御身体、御血、御霊魂そして神性を捧げます。そしてそのいとも聖なる御心とマリアの汚れなき御心の無限の功績を通じて、私はあなたにあわれな罪人たちの回心を願います。

そこで、これがファチマのメッセージの内容である:すなわち、ロシアの[教皇と司教たちによる]共同奉献、五回の初土曜日の信心、われわれの罪および他の人々の罪を償うために犠牲を捧げること、茶色のスカプラリオを身につけること、ロザリオの祈りをすることそして七つのファチマの祈りをすることである。これらの手段によって、霊魂たちは救われ、平和が世界に与えられ、そして諸国民の絶滅が避けられるであろう。

第3章 「人々が信じるようになるために...」

1917年7月13日のファチマの聖母の御出現の間にルチアは聖母に、「あなたが私たちに御出現になっていることを人々が信じるようになるために一つの奇跡を行ってくださること」を願った。それに応えて聖母はその年の10月13日に「私はすべての人が見て信じるように一つの奇跡を行います」と約束なさった。

1917年10月13日に起こったことは救済史において独特のものであった:すなわち、その出来事が神の御母によって前もって文字通りに計画された一つの公的な奇跡であった。そして聖母はその約束を守られた。その日吹き降りの暴風雨の中で、およそ7万人の人々は、信じる者も信じない者も同じように、子どもたちが主張してきたことが真実であるかどうかを見るために、聖母が三人の子どもたちに御出現になってきたコヴァ・ダ・イリアに集まった。彼らは理性的な人間なら誰も否定することができないであろう一つの証拠を受け取った。予告されたまさにその時間にそしてその場所で太陽の奇跡が起こった。

太陽がその頂点にあった正確に正午に始まって、大群衆は太陽が物理学の諸法則のすべてを無視するのを目撃した。最初、太陽の外観はそれが銀盤のようになるように変えられた。そして全然不快感なしに、あるいは目に損傷を与えることなしに、太陽を直視することができた。次に、太陽は、空中で回転しながら風景を浸しそして変えたさまざまの色のすばらしい配列を放射した。最後に、まったくの恐怖のある瞬間のうちに、太陽は、通常の外観に、そして空中の通常の位置に戻る前に、あたかもそこにいるすべての人々を火葬にするかのようにコヴァの上に真っ直ぐに落ちてきた。太陽が落ちて来たとき、人々は神のあわれみを嘆願しながら、跪いた。罪人たちと信じない者たちは即座に回心した。「奇跡だ、奇跡だ!」と人々は群衆の至る所で叫んだ。

世俗的なジャーナリストたち、科学者たち、そして群衆の中の最も悪意をもったアンチ・カトリックの人々でさえすべて、同じ事柄を目撃した。ポルトガル、コインブラ[大学]の理学部教授、ホセ・マリア・デ・アルメイダ・ガレット博士の目撃報告は典型的である:

「終日どんよりしていた空は突然明るくなった。雨が止んだ。そしてあたかも太陽が、冬のような朝がそのように薄暗いものにしていた田舎の風景を光で満たそうとするかのように見えた。私は御出現の場所を何事かが起こるかもしれないという、冷たくはあるが一つの落ち着いた期待のうちに、そして私の注意力を引き立てる何事も起こることなしに長い時間が過ぎたので好奇心を減らしながら、眺めていた。太陽は、ちょっと前に、それを隠していた厚い雲の層を突き破って、今やはっきりとそして強く輝いた。」

「突然、私は数万人の人々のわめき叫ぶ声を聞いた。そして私は群衆全体が私の足下であの広大な場所において広がり...彼らの背を、その時まで彼らのすべての期待がそれに集中していたあの場所へと向けるのを見た。そして他方の側の太陽を見た。私はまた彼らの視線を集めている点の方へ振り向いた。そして私はその鋭い縁を持った一つの非常に大きな円盤のような太陽を見ることができた。それは視力を損なうことなしに輝いていた。その太陽は霧(その瞬間に霧は無かった)を通して見た太陽と混同されることはできなかった。なぜなら、それはヴェールをかぶって不明瞭でもなく、またぼやけてもいなかったからである。ファチマでは、太陽はその光と熱を保っていた。そして一つの大きなゲームをするテーブルのように鋭い縁をもって空にはっきりとかかっていた。最も驚くべきことは眼を痛める、あるいは網膜を損傷することなしに、光と熱をもって輝いている太陽の円盤を長い間凝視することができることであった。[この時の間]、太陽の円盤は静止し続けていたのではなかった。それは一つのめまぐるしい運動をしていた。[しかし]そのすべての輝きにおける星のまたたきのようではなかった。なぜなら太陽は狂ったようにぐるぐる周りながらそれ自身の上を旋回していたからである。」

「私がたった今述べた太陽の並はずれた出来事の間、周囲の状況にはまた色の諸々の変化があった。太陽を眺めながら、私はあらゆるものが暗くなるのを認めた。私は最初に最も近くのいろいろのものを見た。そしてそれからできるだけ遠くの地平線へと視野を広げた。私はあらゆるものが紫色を帯びたのを見た。私の周りのいろいろなもの、空と周囲の状況は同じ色に染まっていた。近くのものも遠くのものもどちらもすべて古い黄色のダマスク織りの色を帯びながら、変化した。人々はあたかも彼らが黄疸にかかったかのように見えた。そして私は彼らがそのように醜くまた見た目がさえない者に見える視覚の楽しみの感覚を思い起こす。私自身の手も同じ色をしていた。」

「それから突然、人は一つの大きな叫び声、すべての人々から発せられる苦痛の泣き声を聴いた。太陽は突然、それ自身を天空から解き放ち、乱暴に旋回しながら、あたかもその巨大なそして燃えさかる重さでもってわれわれを押し潰すかのように、血のように赤くなって、威圧するように地上に向かって前進するように見えた。これらの瞬間に起こった感覚は真に恐るべきものであった。」

「私が述べたすべての現象はいかなる情緒的な動揺もなしに静かで穏やかな精神状態において私によって観察されたものであった。それらを解釈し説明することは他者の仕事である。私は[1917年]10月13日以前あるいは以後にも似たような大気中のあるいは太陽の現象を観察したことは決してなかったということを断言しなければならない。」

その奇跡にはもう一つ別の驚くべき局面があった。泥の中につかり、雨でたっぷり浸されたコヴァは、雨の中に立ち尽くしていたすべての人々の衣服がそうであったのと同じように、突然からからに乾いた。降りて来る太陽の熱は水蒸気のあらゆる滴を直ぐさま蒸発させた。しかし誰一人、太陽エネルギーのこのこの巨大な噴出によって害されなかった。

しかしながら、このすべてのことよりもさらに劇的なことは、コヴァに立ったさまざまの病気を持った数千人の人々の即座の治癒 - 直接的な神の介入のもう一つの否定できないしるし - であった。

ファチマの聖母によって与えられた諸々の約束と警告は太陽の奇跡 - 信じない人々でさえ目撃し、否定することができなかった一つの先例のない、前もって告げられた公的な奇跡 - によってあらゆる疑いを超えて真正のものとして証明された。しかしながら、その奇跡を見なかった(あるいは少なくともそれを見ることを認めようとしなかった)群衆の中の一人の成員がファチマの村から遠くないオウレムの市長、アルトゥーロ・デ・オリヴェイラ・サントスであったということは最も印象的である。彼がかじ屋であったがゆえに「ブリキ屋」として知られていたこの獰猛なフリーメーソンで御出現の反対者はその前の八月に子どもたちを誘拐し、もし彼らが見たり聞いたりしたことを撤回しないならば、殺すぞと脅迫した。しかしながら、死の脅迫の下でさえ、子どもたちは彼らが目撃したことを否定しようとはしなかった - これは御出現の、そしてそれらの内容を世界に伝えるために神によって選ばれた目撃者たちの、信憑性のもうひとつのしるしである。

太陽の奇跡はファチマのメッセージが、カトリック教徒たちが適当と思うに従って受け入れたり離れたりすることができる単なる一つの「私的啓示」にしかすぎないという後の主張を笑いものにする。神はわれわれが無視するオプションを持っている一つのメッセージを証明するために公的な奇跡を働かれないであろう。天からのいかなるメッセージも重要でないことはない。中でもこのメッセージはそうである。ファチマの聖母の言葉は霊魂たちの幸福と世界の安全のために全教会によって注意を払われるべく神によって意図されたものである。諸国民の絶滅の脅威は「私的な啓示」ではなくて、われわれすべてに対する一つの警告であった。

ファチマの聖母はロシアの奉献と五回の初土曜日の信心に関して御自分の約束を守るために間もなく戻って来られるであろう。しかしながら、太陽の奇跡そのものの日に聖母はわれわれがすでに触れたファチマ・メッセージを実行するための三つの規定を明らかになさった。

第一に、聖母はわれわれすべてがそれを身につけることを聖母が望んでおられることを示しながら、われわれ自身を彼女の特別の保護の下に置きながら、そしてそのことによってわれわれに救いについて保証しながら、茶色のスカプラリオを差し出された。シスター・ルチアはロザリオとスカプラリオが不可分のものであると言った。

第二に、聖母は御自分でこう言われた:「私はロザリオの聖母です。あなたが毎日ロザリオの祈りを常にし続けますように。」

第三に、聖母は神の罰を避けるために悔い改めと生活の改善をお求めになった。あの日にある人々が癒されたがしかし他の人々が癒されなかった理由を説明して聖母はこう言われた:「彼らは生活を改善し、彼らの罪の赦しを願わなければなりません。われらの神なる主にこれ以上背いてはなりません。なぜなら、主はすでに余りにも多く背かれておられるからです!」

茶色のスカプラリオ、ロザリオ、悔い改めと[生活の]改善 - これらは神の御母が、世界がさらなる教えをもって聖母の帰還を待っていたときに、彼女の子どもたちにお与えになった主要な処方箋であった。

第4章 五回の初土曜日の信心

われわれが見たように、1917年7月13日に、教会によって真正だと考えられ、先例のない公的な奇跡によって確証されたメッセージにおいて、神の御母はこう約束なさった:「私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために戻って来ます。」

その言葉通りに、1925年12月10日に、聖母はルチア、今はシスター・ルチアに、彼女が当時住んでいたスペイン、ポンテヴェドラで、御出現になった。聖母は五回の初土曜日の信心を要求することによって御自分の二つの約束のうちの一つを守られた。聖母は輝く雲の上に高められて、御自分の側の幼子イエズスと共に御出現になった。聖母は棘によって囲まれた御自分の御心を示された。そして御子イエズスはシスター・ルチアにこう言われた:

「恩知らずの人々があらゆる瞬間にそれでもって貫き通すところのあなたのいとも聖なる御母の棘に覆われた御心に同情しなさい。そしてそれらの棘を取り除くために償いの行為をする者は誰もいないのです。」

それから、シスター・ルチアが忠実に物語っているように、いとも聖なるおとめ[マリア]はこう言われた:

「わが娘よ、私の御心をご覧なさい。それは恩知らずの人々が彼らの神聖冒涜と忘恩とによってあらゆる瞬間にそれでもって私を貫き通している棘で取り巻かれています。あなたは少なくとも私を慰め、そして私に対して償いをするという意向をもって、引き続く五ヶ月の初土曜日に告解をし、聖体拝領を行い、ロザリオ五連を唱え、ロザリオの十五の玄義を黙想している間に十五分間を私と共に過ごすすべての人々を、救いのために必要なすべての恩寵と共に死の瞬間に援助することを私が約束するということを私の名において告知するように努めなさい。」

聖母が後にシスター・ルチアに説明なさったように、その信心は五回の土曜日を含んでいる。なぜなら、人々が汚れなき御心に背くあるいは冒涜する五つの仕方があるからである:

「マリアの汚れなき御心に対して犯される罪と冒涜の五つのタイプがあります。

汚れなき御宿りに対する冒涜;

聖母の永遠の処女性に対する冒涜;

同時に彼女を人々の御母として認めることを拒否することにおける彼女が神の母たることに対する冒涜;

子どもたちの心の中に公的にこの汚れなき御母に対する無関心、あるいは軽蔑あるいは憎しみさえ植えつけようと努める人々の冒涜;

彼女の聖なる像において彼女を直接に暴力を加える人々の罪。」

「わが娘よ、ここに、なぜマリアの汚れなき御心がこの小さな償いの行為を求めるように私に霊感を与えたか、その理由があるのです。」

この御出現の後間もなく、聖母マリアは再び御出現になるであろう - 今度はロシアの奉献に関して彼女の約束を守るために - 。

第5章 ロシアの奉献

1929年6月13日にスペイン、トゥイで、聖母は御自分がロシアの奉献を求めるために戻ってくるでしょうという彼女の約束の第二の部分を果たすためにシスター・ルチアに御出現になった。シスター・ルチアは礼拝と償いの聖時間の間、修道院の聖堂において祈っていた。カトリック教会の聖人たちへの認められた天からの御出現の記録の中でさえ、この御出現は並はずれたものであった。シスター・ルチアは何が起こったかを次のように詳しく話した:

「私は木曜日から金曜日にかけて午後11時から真夜中までの聖時間をしたいと私の上長と聴罪司祭に求めて許しを得ました。夜独りで聖堂の真ん中の聖体拝領台の前で跪き、天使の祈りをひれ伏して唱えました。疲れを感じて、立ち上がり、跪きました。そして腕を十字架の形に伸ばして祈りを続けました。」

「唯一の光は聖櫃からの光でした。突然ある超自然的な光が聖堂全体を照らしました。そして祭壇の上に天井まで届く一つの光の十字架が現れました。十字架の上の部分、いっそう明るい部分に一人の人のお顔と胸から上のお身体を見ることができました。その方の胸の上には同じように光り輝く一羽の鳩がいました。そして十字架に釘づけにされて、他のお方の身体がありました。」

「その少し下に、空中にカリスと大きなホスチアがかかっており、それらの上には十字架に付けられたお方の顔とそのお胸の傷から数滴の血が滴り落ちていました。これらの血の滴はホスチアの上を流れくだり、カリスの中へ落ちていました。十字架の右側下方に、汚れなき御心をその手にされた聖母がいらっしゃいました。....[それは汚れなき御心を....その手にされたファチマの聖母でした。....その御心は剣の突き刺さった、あるいはバラに取り囲まれた御心ではなく、茨に取り囲まれ炎の冠のついた御心でした。....](十字架の)左側には何か大きな文字があり、あたかも祭壇の上に流れ落ちる水晶のきれいな水のようでしたが、『恩寵と憐れみ』という言葉を形作っていました。」

「私はそれが、私に示された至聖三位一体の神秘であるということ...を理解しました。」

フレール・ミッシェルはこの御出現を正当にも「三位一体の神の御出現」と呼んだ。太陽の奇跡においてそうであったと同じように、それに似たことは何も他に世界の歴史においては存在しなかった。この御出現によって、神御自身は聖母がシスター・ルチアに告げようとされたことの並はずれた重要性を示された:

「神が教皇に、この手段によって救うことを約束なさりながら、世界の全司教と一致して、私の汚れなき御心へのロシアの奉献をするようにお求めになる時が来ました。」

神御自身がこのことを要求なさった。シスター・ルチアは単に神の御母ばかりではなく、いとも聖なる三位一体[の神]の前に立ったのである。もちろん、シスター・ルチアは、彼女の聴罪司祭ゴンサルヴェス神父に、彼女の彼との公表された文通の中に示されているように、神の御要求を直ちに伝えた。

シスター・ルチアが後にわれらの主に、なぜ主は、[マリアの]汚れなき御心へのロシアの奉献なしにロシアを回心させられないのかと尋ねたとき、主はこうお答えになった:

「それは、その信心を後に広めて、マリアの汚れなき御心への信心を私の聖心への信心と並んで置くようになるために、私の全教会がその奉献をマリアの汚れなき御心の勝利として認めることを私が望んでいるからである。」

少なくとも次の七十年の間、シスター・ルチア - 「ブリキ屋」によって恐ろしい死をもって脅迫されたにもかかわらず真実を否定しようとしなかったその同じルチア - は同じ証言を与えた:すなわち、聖母は、神のメッセンジャーとして、教皇と全世界の司教たちによって共同してなされるべき一つの儀式の中でロシアの、そしてただロシアだけの、公的な奉献を要求なさった。

われわれは、ひとたび聖母の単純な要求が尊重されれば神が教会と世界の上に授けようとなさっている比類のない利益の一つの前触れをすでに与えられた。ポルトガルにおいて、その国が[マリアの]汚れなき御心に奉献されたときに起こった三重の奇跡は、神の被造物が、神が要求なさったとおりに神を礼拝し、神に従うときの神の慈善を証明している。

第6章 聖母の陳列棚

あたかもおとめ[マリア]が要求なさった奉献の有効性を証明するかのように、神は、言ってみれば、ポルトガルにおける一つの証明計画を許すことが適当であると見られた。1931年5月13日 - ファチマの最初の御出現の記念日 - に、そしてその出来事のためにファチマに来た30万人の信徒の列席する中で、ポルトガルの司教たちは彼らの国をマリアの汚れなき御心に荘厳に奉献した。そうすることにおいて、彼らはファチマ・メッセージとそのロシア奉献の要求の真正性に証言を与えた。

これらのよい司教たちはポルトガルを、ヨーロッパ中、そして特にスペインを席巻していた共産主義の悪影響から国を保護するために聖母の保護の下に置いた。世界はロシアと東ヨーロッパにおけるレーニンとスターリンによる、そして後に中国における毛[沢東]による、数千万人の組織的大量虐殺について知っている。あまりよく知られていないことは、スペインにおける共産主義革命がスペイン市民戦争(1936-39年)の間の非常に多くの司祭たち、修道士たちや修道女たちそして平信徒たちの大量殺戮に責任があったということである。その市民戦争の間に彼らはスペインの道徳観念のない世俗的政府に対するすべてのカトリック教徒のレジスタンスを一掃しようとした。カトリックの勢力は最終的にそれに打ち勝った。そして教皇ヨハネ・パウロ二世はその後これらの殉教者たちのうちの233人を列福なさった。

1931年までに世界中へのロシアの諸々の誤謬の広まりについてのおとめ[マリア]の預言は情け容赦のない正確さをもってすでに実現されていた。その年の聖母の汚れなき御心への奉献の結果として、ポルトガルは三重の奇跡を経験した:すなわち、壮大なカトリック・ルネッサンス、カトリックの社会諸原理に一致した政治的および社会的な改革、そして共産主義と戦争の損害からの保護である。

そのように著しいカトリック生活の偉大な再生があったので、それを通して生きた人々はそれを疑いなく神の働きに帰した。この時期の間、ポルトガルは司祭の召命において猛烈な急増を享受した。修道者の数は10年間でほとんど四倍となった。修道会の数も同じように増加した。カトリック生活の大きな刷新があった。それはカトリック新聞、カトリック・ラジオ、巡礼、黙想会、そして教区および小教区の生活の枠組みの中へと統合された一つの巨大なカトリック・アクション運動などの発展を含む多くの領域において示された。

このカトリック・ルネッサンスはそのような大きさのものだったので、1942年にはポルトガルの司教たちは司牧的書簡において次のように宣言した:「25年前に眼を閉じそして今眼を開いた者は誰でも、ファチマでの祝せられたおとめ[マリア]の御出現の慎み深いそして目に見えない要因によって働かれた変化がそのように大きいので、もはやポルトガルを認知しないであろう。実際、聖母はポルトガルを救うことを望んでおられる。」

1931年の奉献の後間もなく、アントニオ・サラザールはポルトガルにおいて権力の座に登った。そしてカトリック的な反革命的プログラムを開始した。彼は政府の諸々の法律そして社会制度がキリスト、キリストの福音そしてキリストの教会の律法に調和させられた一つのカトリック的な社会秩序を創造するために努力した。サラザールは「家族、そして家族を擁護する教会の教えの重要性を下げるあるいは解消する」何らかの法律あるいは社会計画の強烈な敵対者であった。

サラザール大統領は単に空虚なプロパガンダに没頭したのではなかった。彼は教会において行われる結婚のために離婚を禁じた法律を含む家族を保護するための法律制定を行った。意外なことに、カトリックの結婚数はこの法律が通過した後に実際に増加した。1960年までにサラザールは、世俗的社会秩序というフリーメーソンの考え方に一致して以前に制定された自由な離婚法によってほとんど達成されていたポーランドにおける結婚制度の破壊をほとんど完全に逆転することに成功した。1960年についてそうであったように、この国におけるすべての結婚の91%近くがカトリックの教会法上の結婚であった - これは神の介入なしには誰一人期待することができなかった一つの驚くべき偉業である。

これらの驚くべき宗教的および政治的な変化に加えて、平和の二重の奇跡があった:すなわち、ポルトガルは共産主義のテロから、特に隣で荒れ狂っているスペイン市民戦争から、そして第二次世界大戦の荒廃から保護された。

ポルトガルの司教たちは1936年に、もし聖母がスペイン市民戦争の諸々の結果からポルトガルを保護してくださるなら、マリアの汚れなき御心に対する国家的な奉献を更新することによって彼らの感謝を表明しましょうと誓った。彼らの言葉に忠実に、1938年5月13日に彼らは聖母の保護に対して感謝するために[マリアの]汚れなき御心へのポルトガルの奉献を更新した。セレイェイラ枢機卿は公衆の面前で次のように認めた:「ファチマの聖母が1917年に御出現になって以来...神の特別の祝福がポーランドの国土の上に降りてきた...特にもしわれわれがわれわれの誓約以来過ごして来た2年間を振り返って見るならば、神の見えざる手が、ポルトガルを戦争の鞭と無神論的共産主義の道徳的悪影響を与えないでおくことによって、ポルトガルを護られたということを認めざるを得ない。」

教皇ピオ十二世さえ、ポルトガルがスペイン市民戦争の諸々の悲惨さと共産主義の脅威一般とを免れたことに驚きを表明された。ポルトガルの人々への挨拶において、教皇は「そのように脅威的で、そしてあなたたちにそのように近い[スペインでの]、そしてしかもそのように予期しない仕方で避けられた、赤の危険」について話された。ほとんどのカトリック教徒はスペイン自身においてさえ、一つの司教区、セヴィリアの司教区が戦争の荒廃から護られということを知らない。何故[護られたの]か? それはセヴィリアの大司教が彼の司教区をマリアの汚れなき御心に奉献したからである。戦争がスペインの他の場所の至る所で150万人の生命を奪ったけれども、この司教区のどの場所においても、スペイン市民戦争の結果として一人の暴力的な死も無かったのである。

スペインからの共産主義の脅威を免れた後に、第二の、より大きな危険が目前に迫った。第二次世界大戦がまさに勃発しようとしていた。おとめ[マリア]の1917年7月13日の預言のなおもう一つの実現において、戦争が「ある未知の光によって照らされたある夜に」続いて「ピオ十一世の在位期間に」始まるであろう。

1939年2月6日、戦争布告の七ヶ月前に、シスター・ルチアは彼女の司教、モンシニョール・ダ・シルヴァに手紙を書いた。彼女は彼に戦争が差し迫っていると書いた。しかし次に一つの奇跡的な約束について語った。彼女は「この恐ろしい戦争において、ポルトガルは司教たちによってなされたマリアの汚れなき御心への国家的な奉献のゆえにそれを逃れさせられるでしょう」と言った。そしてポルトガルは戦争の恐怖を逃れたのである。

もっと驚くべきことに、シスター・ルチアは1940年12月2日に、他の国々もまた、もし彼らの司教たちが彼らの国をマリアの汚れなき御心に奉献したならば受けたであろう戦争の間の特別の保護を、ポルトガルは受けている、と彼に告げるために教皇ピオ十二世に手紙を書いた。彼女はこう書いた:「教皇様、われらの主は、他の国々もまた聖母に自らを奉献したならば与えられたであろう恩寵の証拠として、ポルトガルの高位聖職者たちによるマリアの汚れなき御心への国家の奉献のゆえに、この戦争においてわれわれの国に特別の保護を約束しておられます。」

同じように、ポルトガルのセレイェイラ枢機卿はファチマの聖母に、この時期の間に聖母がポルトガルのために得られた大きな恩寵を帰することを躊躇しなかった。1942年5月13日に彼はこう言った:「ここで25年間に起こってきたことを表現するために、ポルトガルの語彙は奇跡というただ一つの言葉しか持たない。そうだ、われわれは、われわれがポルトガルのすばらしい変化をいとも聖なるおとめ[マリア]の保護に負うていることを堅く確信している。」

セレイェイラ枢機卿はポルトガルのために聖母が得られた、あの国家の1931年および1938年の奉献に対する天からの報酬としての、奇跡的な祝福は、ひとたびロシアがまた聖母の汚れなき御心に適切に奉献されるならば、聖母が全世界のために与えようとなさっていることの単に前触れにすぎないと主張された。枢機卿が言われたように:「ポルトガルにおいて起こったことは奇跡であると宣言している。そしてそれはマリアの汚れなき御心が世界のために準備なさったことを予示している。」

この時期のポルトガルがなぜ「聖母の陳列棚」と呼ばれたのかを理解することは難しいことではない。ポルトガルの三重の奇跡は教皇と世界のすべてのカトリック司教たちによって行われる一つの荘厳で公的な儀式においてなされるロシアの奉献がどのようにロシアと世界に影響を及ぼすかということの単なる予告編にしかすぎない。ポルトガルの奇跡的な例はまた現在を判断することにおいてわれわれに有益である。もしわれわれがポルトガルが奉献された後のこの国の三重の奇跡をロシアと世界の現在の状況と対比させるならば、ロシアの奉献は今もなおなされなければならないということは明らかである。

神の御母御自身われわれに、ひとたびロシアが聖母の汚れなき御心に奉献されるならば、全世界が聖母の陳列棚になるであろうと約束なさった:「最後に、私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして平和の一時期が世界に与えられるでしょう。」

残っている質問は厳しいものである。「最後に」[来るはずの]汚れなき御心のこの勝利は無数の霊魂たちの喪失とさまざまの民の絶滅の前に、あるいは後に来るのであろうか? それらのことは聖母の御要求を実行することにおいて余りにも長く遅らせることの結果であると聖母は明らかになさった。その質問に対する答は、司祭たちのファチマ運動がファチマ・メッセージへの教会の従順を確保することに成功することができるかどうかにおそらくかかっているであろう。

第7章 警告に告ぐ警告は無視される

1931年にスペイン、リアンジョでわれらの主御自身シスター・ルチアにこう語られた:「私に仕える人々に、もし彼らが私の命令の遂行を遅らせることにおいてフランス王の例に従うならば、彼らがフランス王に従って不幸になるであろうということを知らせなさい。」

フランス王の例とは何か? 彼は、われらの主が1689年6月17日に聖マルガリタ・マリア・アラコックへの御出現 - 信じるに値するものとして教会によって承認されたもう一つの御出現 - において命令されたように、聖心にフランスを奉献することができなかった。続くフランス王の後継者たちもまたこの命令に従うことができなかった。その御出現の100日後のその日 - 1789年6月17日に - フランスの王ルイ十六世は第三階級によってその権力を剥奪され、そして四年後に彼はギロチンにかけられた。彼が処刑を待っていた監獄の独房でのフランスを奉献しようとする彼の試みは余りにも小さく、余りにも遅かった。それは、世界がわれらの主の力がフランスを救うということを知るようにわれらの主が命令された荘厳で公的な行為ではなかったのである。

リアンジョでわれらの主御自身われわれに、もしわれわれがもう一つ別の奉献 - ロシアの荘厳かつ公的な奉献 - が行われならないという、ファチマでの主の命令に従うことができないならば、主の教会の聖職者たちの多くが首を刎ねられたフランス王に従って不幸に陥るであろう、それと共におそらく[ノアの]大洪水よりももっと悪い一つの懲罰であろうものにおいて全民族が絶滅させられるであろうと警告なさった。

これらの出来事はこれから起こるべきことである。ファチマのメッセージは、ある人々が今日われわれに信じさせようとしたように、単に二つの世界戦争や共産主義の興隆の預言ではない。第二次世界大戦が終わり、そしてスターリンがヨーロッパの半分を征服したずっと後の1957年12月26日にフエンテス神父とのインタビューの中でシスター・ルチアは来るべきもっと悪い諸々の大災厄について語った:

「神父様、いとも聖なるおとめ[マリア]は非常に悲しんでおられます。なぜなら、善人も悪人も、誰も聖母のメッセージに注意を払わなかったからです。善人は彼らの道を続けていますが、しかし聖母のメッセージにどんな重要性も払うことなしにそうしています。悪人は、彼らの上に実際に落ちかかる神の罰を見ないで、メッセージについて気遣うことさえなしに彼らの罪の生活を続けています。しかし、神父様、私を信じてください、神は世界を罰せられるでしょう。そしてこれは一つの恐るべき仕方でなされるでしょう。天からの懲罰は差し迫っています。」

「神父様、1960年が来る前にどれだけの時間があるでしょうか? もしあらかじめ世界が祈らずまた痛悔しないならば、それはすべての人にとて非常に悲しいことでしょう、誰一人まったく喜ばないでしょう。私は他のどの詳細な説明もすることはできません。なぜなら、それはまだ一つの秘密だからです。いとも聖なるおとめ[マリア]の意志に従えば、ただ教皇様とファチマの司教様だけがその秘密を知ることを許されています。しかし彼らは、影響されないようにそれを知らないことを選ばれました。これは1960年までは秘密のままにとどまるでしょう聖母のメッセージの第三の部分です。」

「神父様、いとも聖なるおとめ[マリア]は何度も私のいとこのフランシスコとヤシンタ、同様に私自身にも、多くの国々が地の面から消えるでしょうと告げられました。聖母は、もし私たちが予めあの可哀想な国の回心を手にしていないならば、全世界を罰するために神によって選ばれた懲罰の道具となるでしょうと言われました。」

シスター・ルチアはまた私にこう告げた:「神父様、悪魔は祝せられたおとめ[マリア]に対する決定的な戦いをする気分になっています。そして悪魔は何が最も神に背くことであるか、そしてどれが短い時間で彼にとって最大の数の霊魂を獲得するかを知っています。このように悪魔は神に奉献された霊魂たちに打ち勝つためにあらゆることをします。なぜなら、このやり方で悪魔は指導者たちによって見捨てられた信徒の霊魂を離れさせることに成功し、そのことによってより容易に彼らを捕らえるでしょう。」

教皇ヨハネ・パウロ二世の2000年のファチマでの説教を思い起こしてください。その中で教皇はこう宣言された:「ファチマのメッセージはその『尾が天の星の三分の一を掃き落とし、そしてそれらを地上に投げる』(黙示録12:4)『竜』に関わることがないように人類に警告する、回心への呼びかけである」と。 - これは伝統的に理解されているように、悪魔の影響のゆえに、彼らの高められ身分からの司祭たちや他の奉献された霊魂たちの堕落への言及である。

シスター・ルチアは、奉献された霊魂たちの堕落と一緒に、民全体が地上から消失するであろう、そしてこの一連の破滅的な出来事は1960年に続く数年において始まるであろう、と警告した。

シスター・ルチアはまた、これらの恐ろしい出来事が「1960年までは秘密のままにとどまるであろう聖母のメッセージの第三の部分」において予告されているということを明らかにした。これはファチマの第三の秘密への一つの明白な言及である。第三の秘密は明白に物質的および霊的な二重の懲罰を予告している。そこにおいては、教会における信仰と規律の危機が「多くの民を地の面から消失させる」ことを引き起こすであろう一つの地球的な大破局を伴っているであろう。

第三の秘密についてのこの見方は1984年11月11日に発行されたイエズスという題がついているイタリアの雑誌におけるヴィットリオ・メッソーリによる当時のラッツィンガー枢機卿の決定的なインタビューにおいて劇的に確証された。そのインタビューの中でラッツィンガー枢機卿は、彼が第三の秘密を読んだということ、そしてそれが信仰とキリスト教徒の生命そしてそれゆえに世界の生命を脅かしている諸々の危険」について語っているということを明らかにされた。再び、われわれは教会における一つの危機そしてその結果として起こる世界全体への危険のテーマを見るのである。

他の多くの証拠の断片 - それについての議論はこの小冊子の範囲を超える - と共にこのインタビューは、有名なカトリック作家、アントニオ・ソッチに、彼の最近の書物ファチマの第四の秘密において、第三の秘密は疑いもなく教会における危機と世界における破局的な出来事についての聖母の警告の言葉を含んでいると結論させることへと導いた。注1)ヴィットリオ・メッソーリ自身ソッチの書物についてのあるレビューの中で述べているように、ソッチは「[バチカンによって]明らかにされた秘密の部分(「弾丸と矢に」によって殺される「白衣を纏った司教」の部分)は真正のものであるが、しかしただ一つの断片を構成するにすぎない。その全体においては、メッセージは信仰の危機、位階の一部による裏切り、教会のために備えられている、そしてそれと共に人類全体のために備えられている破局的な諸々の出来事についての恐ろしい言葉を含んでいるであろう。」注2)

バチカンがソッチの諸々の結論のいかなる局面をも否定しなかった、第三の秘密の隠されたテキストが存在するという彼の主張さえ否定しなかったということは非常に印象的なことである。ソッチは単純に無視され得る人ではない。彼はイタリアにおける国民的な有名人である。そしてラッツィンガー枢機卿のための記者会見を個人的に行った。ソッチの書物に直面してのバチカンの沈黙は大いに意味がある。

2007年5月10日に出版されたベルトーネ枢機卿によるその後に出された書物そして2007年5月31日の彼のテレビ・インタビューはアントニオ・ソッチの結論 - 公式にまだ明らかにされてこなかった第三の秘密の一部が残っているという - が正しいという確信を強める。

ソッチの書物の出版は、その影響がカトリック教会を超えて全世界へと達するファチマのメッセージの絶対的な緊急性をはっきりと引き立たせる。世界全体が危険に陥っている。そしてその危険の警告が第三の秘密のうちに含まれている。ラッツィンガー枢機卿は、メッソーリとの1934年のインタビューの中で、更に「この『第三の秘密』のうちに含まれている諸々の事柄は聖書において告知されてきた、そして他の多くのマリア御出現において、何よりもまず第一にファチマの御出現において、繰り返し言われて来たことに一致する...」ということを明らかにされた。

枢機卿の「他の多くのマリア御出現において告知されてきたこと」への言及はまったく意味深いものである。1973年10月13日 - ファチマでの太陽の奇跡のまさにその記念日 - に、聖母は二重の懲罰 - 教会と全世界の - について警告するために日本の秋田に御出現になった。秋田での御出現は地方司教による長い調査の後に真正のものとして承認された。ラッツィンガー元枢機卿、現ベネディクト十六世教皇は秋田のメッセージをファチマ・メッセージと「本質的に同一」のものとして述べておられる。ここに聖母が秋田でシスター・アグネス笹川に言われたことがある:

「前にも伝えたように、もし人々が悔い改めて自らを改善しないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下されるでしょう。それは、以前には人が決して見たことがないような、[ノアの]大洪水より大きい罰であるでしょう。火が天から下り、人類の多部分を、よい人も悪い人も、司祭も信者も容赦せずに拭い去るでしょう。」

「生き残った人々は、死んだ人々をうらやむほどに悲惨な自分たちを見出すでしょう。あなたたちのために残っている唯一の武器はロザリオと私の御子によって残されたしるしだけです。毎日、ロザリオの祈りを唱えなさい。ロザリオの祈りをもって、教皇、司教たちそして司祭たちのために祈りなさい。」

「人が枢機卿は枢機卿に、司教は司教に対立するのを見るようになるほどに、悪魔の働きが教会の中にまで侵入するでしょう。注3)私を敬う司祭は、同僚(他の司祭たち)から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者で一杯になり、悪魔は多くの司祭や奉献された霊魂たちを主の奉仕から離れさせるように圧迫するでしょう。」

「特に悪魔は、神に奉献された霊魂たちに対して猛威を振るうでしょう。たくさんの霊魂が失われることが、私の悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪の赦しはなくなるでしょう。」

秋田のメッセージとシスター・ルチアによって述べられたものとしての第三の秘密を含むファチマのメッセージの間の類似はこれよりももっと正確であることはできないであろう:両メッセージは、もし神に反する多くの司祭たちや司教たちそして平信徒の背教が続くならば、教会における危機と人類の大部分の破滅を予告している。われわれはすでに、聖母がファチマと秋田の両方の地でそれについて警告なさった奉献された霊魂たちの、司祭職、修道会そして修道院からの大量離反を述べた。それに続く神の全世界の懲罰ははるか彼方のものであることができるであろうか?

ファチマと秋田の間の類似は2000年6月にバチカンが公表した第三の秘密からの幻視によってもっと明らかにされる。「白い衣服を身に纏った司教」についての公表された幻視のうちに、われわれは、多くの司教たち、司祭たちそして平信徒たちの死体の側を通り過ぎて半分廃墟になった都市を足取り重く通り抜ける明らかに教皇である一人のよたよた歩いている人物を見る。その教皇は一つの大きな木の十字架がある丘の頂上に苦労して辿り着く。彼が十字架の前に跪くとき彼は一団の兵士たちにょって処刑される。われわれはまた、人類から罪の償いを要求している一人の復讐する天使の両手から地に向かって出ている炎を見る。これは荒廃した世界、おそらく原子兵器を含む世界戦争によって荒廃させられた世界における教会の苦しんでいるそして迫害された残りの者たちの絵画的描写ではないか?

しかしながら、ファチマのメッセージの最初の二つの部分は、白い衣服を纏った司教、司教たち、司祭たちそして平信徒たちの死体で満たされた半分廃墟になった都市、兵士たちによる教皇の処刑、そして復讐する天使の両手から発する炎についてのいかなる説明をも与えていない。また最初の二つの部分は多くの奉献された霊魂たちの堕落から生じている教会における危機 - 秋田のメッセージと第三の秘密に関するフエンテス神父とのシスター・ルチアのインタビューの両方において言及されている出来事 - に言及していない。バチカンによってまだ明らかにされていない第三の秘密の部分、すなわち、「ポルトガルにおいては、信仰の教義は常に保たれるでしょう...」という聖母の陳述に続く聖母の言葉はほとんど確実に2000年にバチカンによって明らかにされた幻視の説明を含んでいる。

ファチマのメッセージの最初の二つの部分、1931年のシスター・ルチアへのわれらの主の警告、シスター・ルチアのフエンテス神父との1957年のインタビュー、1973年の秋田のメッセージ、第三の秘密に関するラッツィンガー枢機卿の1984年のインタビューそして2000年のバチカンによって公表された第三の秘密からの幻視はすべて同じ結論を指し示している。神はわれわれに教会における危機とそれに似たことは以前には決して起こったことがない全世界の神による懲罰について警告なさった。

教会と世界の二重の懲罰についてのこの預言がまさにわれわれの目の前に繰り出されていることを誰が否定することができるだろうか? 第二バチカン公会議はわれわれに「時代のしるし」を読むことを強く迫った。神の助けをもって、われわれは実際それらのしるしを読むことができる。そしてそれらはすべて大災難を指し示している - 世界がその進路を直ぐさま変えない限り - 。ファチマのメッセージはわれわれに、それが遅すぎる前に、その進路を変える手段を与える。

1)教会と世界における来るべき危機についての聖母の諸々の忠告を含む第三の秘密のなお明らかにされるべきテキストの存在の証拠についての非常に注意深い議論については、ポール・クレイマー神父の『悪魔の最後の戦い』(The Devil's Final Battle, Terryille, Connecticut, The Missionary Association, 2002)第12章を参照しなさい。

2)Vittorio Messori, “Fatima, There is a Fourth Secret to Reveal,” Corriere della Sera, November 21, 2006.

3)これは明らかに、正統的な教えと実践から逸れている他の高位聖職者たちに対する何人かの高位聖職者による正統性の擁護から教会において起こってる紛争への一つの言及である。ここでもまた第三の秘密の黙示録的な性格が示唆されている。聖パウロが預言したように、「人々が、健全な教えを聞こうとしない時が、必ず来ます。そのとき、人々は、自分に都合のよいように、耳を楽しませる教師たちを大勢手もとに集め、そして、真理に耳をそむけ、作り話に心を傾けます。」(2テモテ4:3-4)。

第8章 それはなされたか?

神の御母は地上に来られた。そして完全な御母そしてまさに天の元后の気遣いをもってわれわれに、霊魂たちへの、そして世界への危険について警告なさり、またわれわれにその危険を避けるための手段をお与えになった。われわれは聖母のメッセージに関して何をしたか? われわれは、世界が黙示録的な大きさの大災難にますます近づいているけれども、聖母のメッセージに従うことに失敗した。このことはわれらの御母をどのように悲しませなければならないことか!シスター・ルチアがフエンテス神父に打ち明けたように:

「神父様、いとも聖なるおとめ[マリア]は非常に悲しんでおられます。なぜなら、善人も悪人も、誰も聖母のメッセージに注意を払わなかったからです。善人は彼らの道を続けていますが、しかし聖母のメッセージにどんな重要性も払うことなしにそうしています。悪人は、彼らの上に実際に落ちかかる神の罰を見ないで、メッセージについて気遣うことさえなしに彼らの罪の生活を続けています。」

すでに見たように、[マリアの]汚れなき御心へのロシアの奉献は最大限の天からの罰を避けること - そして1957年以来教会と世界に対してすでに与えられて来た罰を軽減すること - への鍵である。この奉献は言ってみればダムを開き、そして奇跡的な恩寵の洪水を世界の中へもたらす。聖母が約束なさったように、「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心するでしょう。そして平和の一時期が世界に与えられるでしょう。」

ロシアは1982年にそして再び1984年に[マリアの]汚れなき御心に奉献されたと言う人々がいる。そのとき、教皇は世界の名を挙げたが、しかしロシアの名を挙げなかった奉献の儀式を行った。彼らはこう言う:世界の奉献はロシアの奉献と同様によいものである、なぜなら、結局のところ、ロシアは世界の一部であるからだ、と。彼ら自身これら二つの儀式が行われて以来教会と世界の更に悪化する状態を目撃しているにもかかわらずこの安易な議論に固執している。われわれは1982年および1984年以来汚れなき御心の勝利に似た何かあることを見たことがなく、ただ世界における増大する不道徳と不穏な状態を、そしてヨハネ・パウロ二世自身教会における「沈黙の背教」と呼ばれたものを見ただけである。明らかに教皇ヨハネ・パウロ二世の1982年および1984年の奉献は、聖母がロシアの奉献の後に起こるでしょうと約束なさった諸々の結果へは導かなかった。

辞書が説明しているように、「奉献」という言葉は「それを神に捧げられたものとして(通常は宗教的な儀式をもって)それをとっておくことによる何かあるものの聖化」を意味する。注4)ある事物を奉献するためには - すなわち、それを他の諸々の事物からとっておくことによってそれを聖化するためには - 人は奉献されるその事物を明瞭に指定し、そしてとっておかなければならない。例えば、一つの新しい教会が司教によってカトリックの礼拝のために奉献されるとき、その司教は彼がその特定の教会を奉献しているということをその儀式の中で明細に述べなければならない。さもなければ、その教会は奉献されることにならないであろう。同じように、共同墓地は、その土地の特定の一区画がその奉献の対象として司教によって明瞭に指定されなければカトリックの埋葬のために神聖化された土地として奉献されることはできないのである。

ある人が、司教は特定の教会の建物あるいは共同墓地の区画を一度も明確に指定することなしに、単純に司教区全体を奉献することによって一つの新しい教会あるいは一つの新しい共同墓地を奉献することができると言うことは完全に不合理なことであろう。しかしその不合理さは、汚れなき御心に世界を奉献する教皇ヨハネ・パウロ二世による1982年および1984年の儀式がまたロシアの奉献でもあったという主張を正当化するためにある人々によって推進されている。常識は、ロシアがロシアの名を挙げることすらしない、ましていわんやそれを世界の他の国々からとっておくこともしない、一つの儀式において奉献される - 世界からとっておかれることによって聖化される - ことはできないということをわれわれに告げるに十分である。

われわれはこの点においてわれわれを導くための常識以上のあるものを持っている。シスター・ルチアは繰り返し、聖母がお望みになったことはロシアの奉献であって、世界の奉献ではなかったということを明らかにした。彼女はこの点を何度も強調した。いくつかの例を考察することにしよう。

1947年に著名なカトリックの歴史家ウィリアム・トマス・ウォルシュは彼の権威のあるファチマの歴史書『ファチマの聖母』において、「ルチアは聖母が汚れなき御心への世界の奉献をお求めにならなかったということを明らかにした。聖母が明確に要求なさったことはロシアの奉献であった。」彼はこう述べた:

「シスター・ルチアは一度ならず、そして熟慮された強調をもって、こう言った。『聖母が望んでおられることは教皇と世界のすべての司教たちが特別の一日に聖母の汚れなき御心にロシアを奉献することです。もしこのことがなされるならば、聖母はロシアを回心させられるでしょう。そして平和がやって来るでしょう。もしこのことがなされないならば、ロシアの諸々の誤謬が世界のあらゆる国に広まるでしょう。』」

トマス・マッグリン神父によって彼の書物『ファチマの幻視』(p.80)において報告されたように、1949年にシスター・ルチアは聖母の要求についての彼の誤解を「いいえ、世界ではありません、ロシア、ロシアです」と強調することによって訂正した。この従順で服従的な修道女がこの点に関して一人の司祭を強く訂正しなければならないと感じたということは際だったことである。

1952年におとめマリア御自身シスター・ルチアにこう言われた:「私が私の汚れなき御心へのロシアの奉献を常に待っているということを教皇に知らせなさい。ロシアの奉献なしには、ロシアは回心することができませんし、また世界が平和を手にすることもないでしょう。」

1982年にオッセルヴァトーレ・ロマーノは、1978年にシスター・ルチアが彼女の相談相手であるパスクアーレ・ウンベルト神父、S.D.B.から「聖母はかつてあなたに聖母の汚れなき御心への世界の奉献について話されたことがあるか?」と尋ねられたとき、彼女が「いいえ、ウンベルト神父様、一度もありません。1917年にコヴァ・ダ・イリアで、聖母はこう約束なさいました。『私はロシアの奉献を求めるために戻って来るでしょう』」と答えた、と報道した。

教皇ピオ十二世宛の手紙の中で、シスター・ルチアはロシアへの明白な言及を伴った世界の奉献に言及した。ウンベルト神父が彼女になぜそうしたのかと尋ねたとき、彼女はこう答えた:「あなたの御質問に答えて、私は明らかにしましょう。ファチマの聖母はその御要求の中でただロシアの奉献にだけ言及なさいました。私の聴罪司祭の指示で教皇様に書いた手紙の中で、私はロシアの明白な言及を伴った世界の奉献を求めました。」シスター・ルチアは、従順であり、服従的であったので、彼女の聴罪司祭の提案に従い、聖母が要求なさったことに世界の奉献の要求をつけ加えた。それでもやはり、彼女は聖母はこのことを要求なさったのではなく、ただロシアの奉献だけを要求なさったのだということを強調した。神によって選ばれた証人は彼女が与えられたメッセージから逸脱することはできなかったし、またそうする積もりもなかった。

それゆえに、シスター・ルチアは、1982年の儀式は聖母の御要求を満たしたかどうかを教皇の個人的代表によって公式に尋ねられたとき、真実を話すことに失敗することはできなかったのである。1983年3月19日に彼女はラセルダ博士とメッシアス・コエリョ神父のいる前で教皇使節ポルタルピ大司教閣下にこう語った:

「1982年5月13日の奉献の行為において、ロシアは奉献の対象であるものとして現れませんでした...ロシアの奉献は聖母がそれを要求なさったようにはなされませんでした。」

1984年3月22日 - 1984年の世界の奉献の2日前 - にシスター・ルチアは彼女の古い友人、エウジェニア・ペスタナ夫人にこう語った:「あの奉献は決定的な性格を持つことができません。」

1985年9月、1984年世界の奉献の18ヶ月後、シスター・ルチアはスペインにおけるブルー・アーミーの出版物である雑誌 Sol de Fatima によってインタビューを受け、次のように言った:

質問:それゆえに彼[ヨハネ・パウロ二世]はトゥイで要求されたことをなされなかったのですか?

シスター・ルチア:そこではすべての司教たちの参加がありませんでした。そしてそこではロシアの言及もありませんでした。

質問:それでは奉献は聖母によって要求されたようにはなされなかったのですか?

シスター・ルチア:ええ、なされませんでした。多くの司教たちはこの行為に何らの重要性をも与えませんでした。

最後に、1987年7月20日に、シスター・ルチアは上長によって命じられたように投票に行く途中でジャーナリストのエンリケ・ロメロにロシアの奉献は要求されたようにはなされなかったと語った。

およそ70年の期間(1917-1987年)にわたるこの繰り返され、そして動揺しない証言を考慮すると、シスター・ルチアが後に「考えを変えた」そしてロシアがロシアの言及なしに奉献されたことに「同意する」ようになったという主張は信じるに値しない。そのような主張は、聖母が彼女から明確に要求なさったこと、そして彼女自身のそれ以前の証言のすべてだけではなくて、また理性と常識をも拒否するシスター・ルチアを持つことになるであろう。

さらに、シスター・ルチアが突然彼女の証言を変えたという主張は他の所で十分に証明されてきたように疑惑を起こさせる諸状況によって取り囲まれている。注5)これらの状況はコンピューターを決して用いなかったシスター・ルチアからのコンピューターによって作られた手紙の突然の出現、シスター・ルチアが1960年以後独立のインタビューアーたちに近づくことができないようにされていたこと、そしてホアキン・マリア・アロンソ神父 S.T.D., Ph. D. によるファチマのメッセージについての決定的な研究の抑圧 - 彼は16年間ファチマの公式の公文書保管係であった。その間に彼は多くの機会にシスター・ルチアをインタビューした - を含んでいる。注6)

ある人々は教皇ヨハネ・パウロ二世が、自分は聖母が要求なさった仕方で奉献を行ったと宣言されたと示唆した。しかしながら、証拠は、教皇が自分はそのようにはしなかったということを知っておられたということを明らかにしている。

1982年5月19日、1982年世界の奉献の6日後、ヨハネ・パウロ二世は次のように述べられた:「私は、世界における司教の職務と奉仕においてローマの司教の彼のすべての兄弟たちとの共同的一致を強調するために具体的な状況において可能なあらゆることをしようと努めた。」

1984年の奉献の儀式の間、そして彼が汚れなき御心に、ロシアをではなくて、世界を「委ねる」という言葉を言った後に、教皇は自発的に次の言葉をつけ加えられた:「特にあなた御自身がわれわれの奉献と信頼とを待っておられる人々を照らしてください。」教皇はこのように公的に聖母によって要求された奉献がまだなされてこなかったということを認められたのである。これらの言葉は1984年3月26日のオッセルヴァトーレ・ロマーノにおけるその出来事の公式の報告のうちに含まれていた。

翌日イタリアの司教たちの新聞 Avvenire には、その中で教皇が、奉献の儀式の数時間後に聖ペトロ大聖堂での彼の所見を述べている間に、以下のように言ったことが引用されている:

「われわれはこの日曜日、1984年四旬節の第三日曜日を - なお贖いの聖年の範囲内で - 世界の、大きな人類家族の、すべての民族の、特にこの奉献と委託の非常に大きな必要性を持っている人々、あなた御自身がわれわれの奉献と委託の行為を彼らのために待っておられる人々の委託と奉献の行為のために - 選ぶことを望んだ。」

このように、1984年の儀式が終わったときに、教皇は、聖母がなお彼女の汚れなき御心へのロシアの奉献を待っておられると言い続けられた。同じ所見の中で、彼は、諸状況において彼ができたすべてのことをしたという1982年の彼の意見を繰り返された:「われわれはわれわれの貧弱な人間的可能性と人間的な弱さの尺度に従って、しかし、あなたの母親としての愛への計り知れない信頼とあなたの母親としての気遣いへの計り知れない信頼をもって、このすべてのことをすることができました。」

教皇はなぜロシアを明らかにその対象として持つと考えられた奉献の儀式においてロシアの名を挙げることを差し控えようとされのであろうか? 彼の行為する能力を制限した「具体的な諸状況」、「貧弱な人間的可能性」そして「人間的な弱さ」とは何であったのか? われわれはこれらの問いに対する解答を、Inside the Vatican (2000年11月)において引用された、一人の高い地位にあるバチカンの情報源から得ている:「もしローマが、キリスト教後の西欧を含む全世界が重大な諸問題に直面しているときに、あたかもロシアが特に援助を必要としているかのように、そのような祈りの中でロシアについて特別の言及をしたならば、ロシア正教会はそれを一つの攻撃だと見なすかもしれないと、ローマは恐れているのである。」

そこで、そのことはまさに聖母が要求なさったことであるとしても、神の特別の介入のために彼らの国をひとつだけ選ぶことによってロシア正教会に不快感を与えることを恐れて、いかなる奉献の儀式においてもロシアの名を特別に挙げることをしないように教皇が忠告されたということをわれわれは知るのである。その結果は、もちろん、1982年および1984年の儀式が、外交的およびエキュメニカルな理由のために、まさにロシアが特殊的に奉献されるという印象を与えないために計画されたということである。ロシアがいかなるロシアへの言及をも意図的に落とした儀式において奉献されたということを信じるかをカトリック教徒に尋ねることは理に適ったことであるか? その住人たちが感情を害されることがないように、その場所の名を挙げることを拒否することによってある場所を人はどのようにして奉献するのか? 過去23年にわたる出来事がロシアの回心、汚れなき御心の勝利そして世界における平和の一時期を示していると誰が真面目に信じるか?

われわれが見て来たように、1982年および1984年の儀式以来、そして1991年の「共産主義の崩壊」にもかかわらず、ロシアはウラディーミル・プーチンの下で事実上の独裁国家となった。彼の支配の下では、ローマ・カトリックへのロシアのいかなる回心もなかったし、またその方向への傾向すらなかった。実際、プーチンはカトリック教会を迫害しつつある。1997年ロシア法の下では、ロシア正教、イスラム教、仏教そしてユダヤ教が特権のある地位を与えられている一方で、[カトリック]教会はそのまさに存在に関して厳しい法律的な諸々の制限の支配下に置かれている。シベリアの司教を含む重要なカトリック聖職者たちは「ロシア共和国にとって危険な人物」としてロシアから追放されてきた。指導的なコンドルイシエヴィッツ大司教は次のように抗議している:

「ロシアにおけるカトリック教徒たちは次に何が起こるかと自問している。良心の自由を含む憲法上の諸々の保証は彼らにもまた有効であるだろうか? そして、81年の間[ロシアにおける]カトリック教会が自分たち自身の司祭たちを養成し叙階する権利を剥奪されていることを忘れることなく、彼ら自身の司牧者たちを海外から招くことを含む、彼ら自身の司牧者を持つ権利についてはどうであろうか?」

要するに、プーチンはカトリシズムへのロシアのいかなる回心をも積極的に妨げて来たのである。その回心はファチマの聖母が約束なさった唯一の回心である。公式のファチマ公文書保管係のアロンソ神父が述べたように:

「...[われわれは]、ルチアが常にロシアの回心はソビエトのマルクス主義的無心論を拒否する正統的なキリスト教諸宗教へのロシアの人々の立ち帰りに限定されるべきではなくて、むしろ、それが純粋にそして端的に、唯一の神のキリストの教会、すなわちカトリック教会へのロシア人の全体的、欠けるところのない回心のことを言っていると考えていた、と主張すべきである。」

ロシアはロシア正教会への回心すら経験して来なかった!事実、18歳から29歳までのロシア人の94%は教会にさえ行っていない。彼らは異教徒として生活している。

ある人々は聖母が約束なさった「回心」というのは、共産主義を離れて民主主義への回心であったと示唆している。しかしながら、ロシアがこの仕方においてさえも「回心」しなかったということは明らかである。プーチンはすべての地方の知事たちを任命する権力を握り、すべての反対派のテレビ局と主要新聞を獲得しまた閉鎖するための国家的権力を行使し、ラジオ・フリー・ヨーロッパヴォイス・オブ・アメリカの放送を終わらせそしてロシアにおけるすべての非政府組織をクレムリンの監視と統制の下に置いた。ニューヨーク・タイムズは「ウラディーミル・プーチンは実際ボリス・エリツィンによって不器用にそして不完全に設定された民主化の道筋を逆転させた。そして彼はロシアの石油とガスの巨大な貯蔵を脅しと恐喝の道具として用いている」と結論した。注7)

ロシアには確かにいかなる道徳的な回心もなかった。1982年および1984年の儀式以来、ロシア人口は、ロシア人女性があらゆる生まれてくる10人の子どもに対して13人の子どもを中絶しているという事実に大幅に基づいて毎年70万人から80万人ずつ減少してきた。なお圧倒的に貧困化している社会において、最近富裕になった女性たちは美容上の処置のために中絶された赤ん坊の細胞を用いている。アル中、犯罪そしてポルノがはびこり、そして予想余命は「共産主義の崩壊」以来実質的に下がった。1990年に68歳まで生きた平均的なロシア人男性は今日60歳までしか生きていない。主たる死因はアル中と暴力である。明らかに、ロシアは自然法にさえ回心しなかった。

最後に、ロシアにおいてはまた「平和への回心」もなかった。プーチンは赤色チャイナとの軍事同盟関係に入った。ロシアはこの赤色チャイナと最近合同軍事演習を演出した。そしてプーチンは最近、ロシアが飛行中にコースを変更することができ、そして現にあるいかなるミサイル防御システムをも回避することができる超音速弾道ミサイルを開発したと公表した。

このように、一人の事実上の独裁者によって支配された霊的にそして道徳的に破産したロシアが戦争のために準備しているときに、あるカトリック教徒たちはロシアが、ファチマの聖母の御要求にもかかわらず、意図的にいなかるロシアの言及もしなかった1982年および1984年の奉献の儀式のゆえに「奇跡的な変化」を経験したと示唆するほどに十分愚かなのである。そのような結論が擁護できないことは明らかである。

このように、ロシアの奉献はなされていないままである。そしてロシアは言葉のあらゆる意味において回心しないままである。さらに、1982年および1984年の儀式以来、もしロシアの奉献が適切になされたならば、ファチマの聖母によって約束されたように、世界が平和の一時期に入ったとは言われ得ない。実際、それらの奉献以来、戦争、流血、神からの背教、そして自然災害の増大と一緒にあらゆる大陸での人々と諸国の道徳的堕落の増大だけがあった。教会自身次から次へと起こるスキャンダルによって荒廃させられた。教会および世界における現在の情勢においては、汚れなき御心の勝利 - ロシアの奉献の約束された実り - を見ることは不可能である。

われわれが上で論じた彼の最近の書物、『ファチマの第四の秘密』において評判の高いイタリアのカトリック作家、アントニオ・ソッチもまた、この結論に到達した。善意、知的誠実さの人であり、決して過激論者ではないソッチは聖母の御要求が単純に従われなかったという証拠を無視することはできなかった。

ソッチと同じように、いかなる善意のカトリック教徒も証拠を無視しないであろう。ロシアの奉献はまだなされなかった。そしてその結果としてわれわれの時間は短くなった。[ノアの]大洪水よりも大きな世界の懲罰がほとんど近づきつつある。われわれが聞く前に神はどれだけの時間われわれに警告なさらなければならないのか? われわれはすでにわれわれの最後の警告を受け取ったのではないか?

しかし神は、もしわれわれが神の諸々の命令に心を留めるならば、われわれを容赦してくださるであろう。預言者ヨナがニネヴェの住民に、その不道徳のゆえに彼らの都市が神の懲罰によって破壊せられるであろうと警告したとき、王は粗布と灰のうちに身を覆い、都市全体のための罪滅ぼしと断食の日々を宣言しそして「すべての者にはその悪しき道から、そして彼が手にしている暴力から向きを変えてもらう」と法令で命じた。「われわれが滅びることがないように、神が優しくなり、赦し、そしてその燃える怒りを抑えられるということを誰が知ろうか。」神はその罰を与えずにおかれた。なぜなら、神は「彼らの行動によってどのように彼らが彼らの悪しき道から立ち戻ったかを見られたからである...神は罰を実行されなかった。」注8)

もしニネヴェの人々が彼らの都市の神による懲罰に関するヨナの警告に注意を払ったのであるならば、どのようにしてわれわれカトリック教徒が全世界の神による懲罰に関するまさに神の御母その方の警告に注意を払わないことができるだろうか?

それが、われわれ司祭がなぜ、教会のあらゆる成員によるファチマのメッセージへの支持のための一つの大きな運動を始めなければならないか、その理由である。われわれ一人ひとりは自らを改革し、まさしくファチマの使徒に他ならない者となることによって、この運動を始めなければならない。シスター・ルチアが言ったように、われわれはその権威においてわれわれの上にいる人々によって取られる主導権を待つことはできない。

「...私たちは罪の償いをするために教皇様の側でローマから来る世界に対する訴えを待つべきではありません。また私たちは私たちの司教区において司教様方から、また修道会から来る罪の償いへの呼びかけを待つべきでもありません。そうではないのです!われらの主はすでに非常にしばしばこれらの手段をお用いになりました。そして世界は注意を払いませんでした。だからこそ、今、私たち一人ひとりが霊的に自らを改革することを始めることが必要なのです。各人は単に彼自身の霊魂を救わなければならないだけではなく、また私たちの進む道に神が置き給うた霊魂たちをも助けなければなりません。」

司祭として、われわれは単にわれわれ自身の霊魂のためにだけではなくて、神がわれわれの進む道に置き給うた信徒たちの霊魂のために配慮する一つの特別の委託を受けている。実際、彼の群の中の人々の霊的な幸福に対して直接の責任を持っているのは、そしてわれわれの反抗的な世界の神による懲罰を防ぐためにシスター・ルチアによって要求された改革の最前線にいる必要があるのは、教区司祭である。

どの司祭も独りでこのことをなすことはできない。われわれは一緒に行動しなければならない。そしてわれわれはファチマで神の御母によってそのような協調した行動のためのプログラムを与えられた。われわれ司祭は他の誰もそれを望まないとしても一緒にそのプログラムに従わなければならない。

4)The American Heritage Dictionary of the English Language, Fourth Edition.

5)『悪魔の最後の戦い』第14章を参照しなさい。

6)24巻から成り、5,396 の文書を含んでいる『ファチマ・テキストと批判的研究』(Fatima Texts and Critical Studies)と題されたアロンソ神父の記念碑的な著作はファチマ・レイリアの司教、モンシニョール・アルベルト・コスメ・ド・アマラルによって1975年のその完成時に、出版を許可されなかった。それ以来、24巻のうちただ2巻だけが出版のためにその束縛から解放された。そしてこれらの巻は厳しく編集された。これらの巻は疑いもなく、汚れなき御心へのロシアの特殊的な奉献の必要性に関するシスター・ルチアによるさらなる証言を含んでいる。

7)“Cheney as Pot, Putin as Kettle,” New York Times, May 9, 2006.

8)Jonah 3:7-10.

第Ⅱ部 司祭たちのファチマ運動を始める

第9章 司祭たちのファチマ運動の五つの原理

われわれが属している司祭職は霊魂たちの救いのために神御自身によって創設された一つの天職である。医者は身体を癒す天職を実践する。法律家は法的な諸権利と諸救済策の天職であり、計理士は金銭と税を明らかにする天職である。司祭たちは霊魂たちを救う天職を実行し、そして彼らの道具は七つの秘跡、祈りそして霊的生活である。

医学や法律のような地上的な職業には「流行」そしてこれらの職業をどのように最もよく実践するかに関する一時的流行さえ存する。カトリック司祭職にはそのようなことがあるべきではない。司祭職の諸々の方法 - 秘跡を管理すること、福音を説くこと、洗礼を授けること、カテキズムを教えることと群の成員たちを結婚させること、失われた羊に福音を伝えること - は教会それ自体と同様に古いものである。

聖トマスは『神学大全』II-II, Q. 174 においてわれわれに、「神は信徒たちに、彼らが霊魂を救うために何をしなければならないかを告げるためにあらゆる時代に預言者たちを送り給う」と告げている。神がある定められた時代のために一人の預言者を送り給う時でさえ、それは教会に、特に教会の司祭たちに、神が永遠の昔から定められたやり方について思い起こさせるためである。「旧式な」司祭職に対立するものとしての「現代的な」司祭職は存在しない。ただ時代を超越したメルキセデクの秩序があるだけである。それに従えば「あなたは永遠の司祭である」(ヘブライ7:21)。司祭職はそれを設立なさった神と同じように、「きのうも、きょうも、いつまでもかわることはない」(ヘブライ13:8)のである。

司祭たちは信徒たちを直接世話をする。それゆえに、司祭たちはわれわれの時代のために神によって送られた預言者 - ファチマの聖母 - が注意を払われているかどうかを決定すことにおいて決定的であろう。ヨハネ・パウロ二世がファチマのメッセージが教会に課している「義務」と呼ばれたものを尊重するためになされなければならないことをなすことにおいて、われわれ司祭は、神がわれわれの配慮のうちに置き給うた霊魂たちに奉仕する際にわれわれがしているのと同じように、われわれ自身のイニシャティヴで行為しなければならない。実際、個人的なイニシャティヴのこの義務は彼の立場に従って教会のあらゆる成員に適用される。教会のあらゆる成員は彼あるいは彼女自身のイニシャティヴで、それを進めなさいという「命令」を待つことなしに、行為しなければならない。教皇ヨハネ・パウロ二世が認められたように、われわれはすでにファチマで神の御母からわれわれに対する命令を受け取ったのだ。

シスター・ルチアが、ファチマのメッセージに注意を払うというあらゆる者の義務について話しながら、「私たちは教皇様の側でローマから来る世界に対する訴えを待つべきではありませんし...また私たちの司教区において私たちの司教様方...諸修道会...を待つべきでもありません」と言ったとき、彼女はわれわれが教会の位階的な構造を無視すべきだということを示唆していたのではない。そうではなくて、彼女は教会が単なる位階以上のものであるということを述べていたのである。教会は信徒たちの一つの共同体である。そしてその共同体の各々の成員は信仰を知りそして生きる義務を持っている。それゆえに、上からの命令があろうとなかろうと、われわれはキリストが御自分のファチマのおとめなる御母を通じて命令なさったことに注意を払わなければならないのである。われらの主は、聖母のメッセージを無視させるために、御自分の御母をファチマに送り、そして聖母に太陽の奇跡を備えさせられたのではなかった。

教皇ピオ十二世がその偉大な回勅 Mystici Corporis (1943年)においてそのように美しく教えられたように、カトリック教会はキリストの神秘体である。エフェソ人たちへの手紙の中で聖パウロは神秘体をキリストと聖霊における教会の成員たちの一つの有機的な統一として繰り返し記述した。その書簡の一つの鍵となる節において聖パウロは神秘体は、その成員たちのすべてがキリストの福音の真理を愛のうちに生きるときに育ち成長すると不可謬的に教えている。

「むしろ、愛に基づいて誠実に生き、あらゆる面で『頭』であるキリストに向かって大きく成長していきます。このキリストのおかげで、『体』全体は、必要なものをもたらすあらゆる互いの触れ合いを通じて、また、各部分の役割に従った働きに応じて一つに組み合わされ、結び合わされて大きく成長し、愛に基づいて自分を築きあげていくのです。」(エフェソ4:15-16)

コリント人への手紙の中で、聖パウロはさらに、神秘体の成員たちの一致は非常に親密なので各々の成員は人間の身体における一つの細胞あるいは器官に類似して機能し、その結果神秘体の健康は神によって割り当てられたその機能を遂行する各々の成員に依存するのだということを不可謬的に教えている。神秘体のある部分の失敗が全体に害を引き起こしそして一人の成員の苦しみがすべての成員の苦しみである一方で、神秘体の一人の成員の栄光はまたそのすべての成員たちの栄光でもある。

「体は一つでも多くの部分があり、体のすべての部分は多くあっても一つの体であるように、キリストの場合も同じです。実に、わたしたちは、ユダヤ人であれギリシア人であれ、奴隷であれ自由人であれ、洗礼を受けて皆一つの『霊』によって一つの体に組み入れられ、また、皆一つの『霊』を飲ませてもらったのです。確かに、体は一つの部分ではなくて、多くの部分から成り立っています。」

「たとえ、足が『自分は手ではないから、体に属していない』と言ったとしても、それで体に属さないということではありません。また、たとえ、耳が『自分は目ではないから、体に属していない』と言ったとしても、それで体に属さないということではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。」

「それですから、神はお望みのままに、体にいちいち部分を備えてくださったのです。もし、全部が一つの部分であったら、体はどこにあるでしょうか。ところが実際、部分はたくさんあっても、体は一つなのです。目が手に向かって、『おまえは要らない』とは言えず、あるいはまた、頭が足に向かって『おまえたちは要らない』とも言えません...それで、もし体の一つの部分が苦しめば、すべての部分もいっしょに苦しみ、もし一つの部分がほめたたえられれば、すべての部分もいっしょに喜びます...」

「そして、神は人々を教会の中で次のように任命しました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行なう者、それから病気を治す特別の恵みを持つ者、人を世話する者、つかさどる者、種々の不思議な言葉を語る者などです。みんなが使徒でしょうか。みんなが預言者でしょうか。みんなが教師でしょうか。みんなが奇跡を行なう者でしょうか。みんなが病気を治す特別の恵みを持っているのでしょうか。みんなが不思議な言葉を語るのでしょうか。みんながそれを解釈するのでしょうか。」(1コリント12:12-30)

われわれ司祭は神秘体の成員としてわれわれの管理のうちに置かれた霊魂たちの配慮に対して神に直接の責任を負っている。われわれは神秘体の他の成員たちに指図して、教会の状態について何かをなすようにわれわれに命令を与えることが彼らにかかっていると言うことはできない。われわれの行為の失敗は神秘体全体の失敗である。そしてわれわれの失敗の悪しき諸結果はわれわれだけがその責任を負わされている神秘体の至る所に病気を引き起こす。

われわれは、われわれの配慮の下で救いに必要な聖化の恩寵を信徒たちに提供する秘跡を司る聖職者である。われわれは救われるために彼らが知りそして従わなければならない啓示された諸真理をわれわれの群に伝える福音の説教師である。われわれは、秘跡を司り、福音を説教するために上からの命令を必要としないしまた命令を待ってはならない。そのようにファチマのメッセージについても同じことが言える。

神がある特定の時代に御自分の教会に助言と警告を与えるために一人の預言者を送られるとき、司祭はその助言と警告とを信徒に知らせる第一の義務を持っている。われわれ今日の司祭はファチマのメッセージ - この時代の教会と世界に対する神の助言と警告 - に対する信奉を知らせ促進する主たる責任を持っている。

それゆえに、教会と世界に対する比類のない危険のこの時代において必要とされることは、ファチマのメッセージの光に照らして教会の神の刷新をもたらし、そしてそのことによって教会と世界の両方に神御自身が神の御母を通じてわれわれに警告なさったあの懲罰を免れさせるための、司祭たちのファチマ運動 - 教会におけるあらゆる司祭に対して開かれている - である。

この運動はその目的としてわれわれ司祭の各々の、そしてわれわれの世話に委ねられている信徒の各々の霊的改革を持たなければならない。ファチマのメッセージはわれわれにそのような霊的改革への指針を与えた。われわれはそのメッセージのうちにわれわれが提案する運動を導くための五つの原理を見る。

第一は、教権によって不可謬的に定義されたものとしての信仰の教義への全体的な信奉である。カトリックの諸教義 - 三位一体、受肉、実体的変化、教会の神的制度、七つの秘跡、救いのための教会とその諸秘跡の必要性、マリアの汚れなき御宿り等々 - はわれわれの信仰の基礎である。われらの主が言われたように、それはわれわれを自由にする真理である。

この混乱の時代において失われたものあるいは見えなくさせられたものは、われわれの信仰が感情ではなくて、精神が救いのためにそれに同意しなければならない啓示された諸真理の集まりであるという事実である。もし教義が攻撃されるならば、信仰が攻撃されるのである。そしてもしその攻撃が成功するならば、教会は混沌の中へ落ちるのである。聖母はファチマでわれわれに、「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう...]と第三の秘密のはじめの所で言われたとき、まさにこの危険について警告なさったのである。明らかに、1960年 - 第三の秘密が明らかにされてこなければならなかった年 - 以来、教会における多くの箇所で教義の喪失あるいは妥協が存在してきた。そして結果として生じている教会の状態はそれ自身が物語っている。当時のラッツィンガー枢機卿が述べられたように、第三の秘密は「信仰とキリスト教徒の生命そしてそれゆえに世界の生命を脅かしている危険」についてであった。

教義に対する攻撃は単に教会の統合に対する攻撃であるばかりでなく、また全人類の安全に対する攻撃である。トリエント公会議がわれわれに教えているように、カトリック信徒の祈りと償いは、特に正しく捧げられたミサにおけるキリストの至高の犠牲と結びつけられたときには、神の怒りを和らげ、神の懲罰を避けさせる。しかしながら、信徒が信仰を失ったとき、教会の祈りの効力は小さくされ、神の御手はもはや抑制され得ない。われらの主御自身われわれにこう警告されなかったか? 「あなたがたは地の塩である。もし塩がそのききめを失ったならば、何をもって塩に塩気を取り戻せようか。その塩はもはや何の役にも立たず、外に捨てられて、人に踏みつけられるだけである。」(マタイ5:13)それがまさに聖母がファチマと秋田でわれわれに与えられた警告である。もし教会の成員たちが信仰を失ったならば、信仰のない世界は神の懲罰を避けることができないであろう。

ファチマの聖母によって要求された個人の霊的改革は各人が同意した教義の基礎を前提にしている。教義の基礎の上に、秘跡の恩寵はカトリック的な霊魂を神秘体の健全な成員へと作り上げる。そのような健全な成員たちが十分に存在するとき、ファチマのメッセージによってわれわれに約束されたあらゆることが起こるであろう。

誰にも信仰の教義は、「第二バチカン公会議の精神」がわれわれにそれらの真理への「より深い洞察」を与えたがゆえに、それらが以前の時代にそうであったよりは今日は異なって理解されると言わせてはならない。教会において誰も、教皇でさえも、われわれに、何らかの新しい理解に有利なように信仰の教義の伝統的な理解を放棄するよう要求することはできない。第一バチカン公会議が宣言したように:「なぜなら聖霊はペトロの後継者たちに、聖霊の啓示によって彼らが新しい教義を明らかにすることを約束されたのではなくて、聖霊の助けによって彼らが使徒たちと信仰の遺産を通じて伝えられた啓示を守り、そして忠実にそれを説明することを約束されたからである。」注9)さらに、その同じ公会議はこう宣言した:「聖にして母なる教会がひとたび宣言した聖なる教義のその理解は永遠に保持されなければならない。そしてより深い理解というもっともらしい名前の下にその意味からの後退は決してあってはならない...」

だからこそ聖パウロは教会に警告したのである:「たとえわたしたち自身であれ、天からの使いであれ、わたしたちが宣べ伝えたものと違ったことを福音として宣べ伝えるなら、その者にのろいがあるように。」(ガラテヤ1:8)不可謬的に決定された信仰の教義は、それによって、われわれが、誰かが使徒たちからわれわれに手渡されて来た諸々の真理に反する何かあることをわれわれに説得しようとしているかどうかを絶対的な確実さをもって知ることができる道である。教義の理解そして教義への固着を失うことは今日教会にとって最大の脅威である。なぜなら、教義なしには信仰全体は崩壊し喪失するからである。

要するに、司祭たちのファチマ運動における司祭としてのわれわれの仕事のまさに始まりそのものは過去40年にわたってそのように広範に無視されて来た信仰の教義を回復しそして促進することである。この仕事がわれわれとわれわれの配慮のうちにいる信徒が信仰の真理において刷新される程度に完成されるとき、恩寵は神秘体全体に健康を回復するためにそれらの真理の上に建設できる。この教義の回復はマリアの汚れなき御心の勝利をもたらすことを助けるであろう。

第二に、われわれはすべての恩寵の仲介者としての聖母の特別の役割に関する通常のそして普遍的な教権の不変の教えを躊躇することなしに信じそして説かなければならない。ファチマのメッセージは仲介者としてのわれらの祝せられた御母の役割を明示している:すなわち、もしわれわれが聖母の汚れなき御心に対する信心を実行し、そしてその同じ御心にロシアを奉献するならば、ロシアは回心し、霊魂たちは救われ、平和が来るであろう。その結果全世界はこのカトリックの教義と奉献がなされるとき世界に降り注がれるであろう奇跡的な恩恵との間の関連を認めるであろう。

第三に、われわれはファチマのメッセージへの理解とそれへの関わりを理解し促進しなければならない。

われわれは、ファチマは「単なる一つの私的な啓示」であると言う人に耳を傾けることはできない。それはナンセンスである!ファチマのメッセージは7万人の人々によって目撃された一つの公的な奇跡によって真であることが確証された一つの公的、預言的な啓示である。聖母は三人の子どもたちにこの奇跡を正確に約束されたので、誰も聖母のメッセージの真正性を理性的に疑うことはできないであろう。そのメッセージは教会と全世界のために意図されている。

教皇ピオ十一世、ピオ十二世、パウロ六世、ヨハネ・パウロ一世、ヨハネ・パウロ二世はすべてファチマ・メッセージが真正のものであることを証言なさった。ファチマのメッセージは教会の生命の一部である!それはあらゆる生きている霊魂の利益のために教会に与えられた。信徒たちが随意に無視することができるであろう何らかの根拠のない忠告を与えるために、神の御母は地上に来られたのではないし、そして神は太陽の奇跡を起こされたのではない。われわれは聖母のメッセージを退けることによって神の御母を侮辱してはならない。なぜなら、神の御母を侮辱することは神御自身を侮辱することだからである。われわれは神の真の預言者たちの忠告を無視した人々の運命を救済史を通じて知っている。

他方において、もしわれわれがファチマの聖母の預言に注意を払い、そして聖母がわれわれのために指定してくださった霊的な処置 - 祈り(ファチマ・メッセージにおいて推奨された祈りを含む)、償い、毎日のロザリオ、五回の初土曜日の信心、茶色のスカプラリオの着用 - を実践するならば、神は全世界の上に恩寵の奇跡を解き放すであろうあの並はずれた奉献を遂行するために教皇とすべての司教たちを導くであろう恩寵を御自分の教会の上に注がれるであろう。その光栄ある日を見るために、われわれ司祭は聖母がファチマでわれわれに用意してくださった手許にある霊的な手段でもって始めなければならない。

第四に、司祭たちのファチマ運動はファチマの聖母とその神なる御子に従順に教皇と世界のすべての司教たちによって行われる一つの公的な儀式において名を挙げてするロシアの真の奉献を動揺することなしに追求しなければならない。われわれは1982年および1984年の奉献の儀式が外交的駆け引きとエキュメニカルな儀礼的行為という単なる人間的な理由のためにロシアの名を挙げなかったということを見た。

聖母は、神御自身の権威によって、もしロシアが聖母の汚れなき御心に奉献されたならば、ロシアは回心し、多くの霊魂は救われ、そして世界に平和が来るであろう、しかし、もしロシアが奉献されなかったならば、多くの霊魂が失われ、教会は迫害され、教皇はたくさん苦しみ、そしてさまざまの民族が絶滅させられるであろう、と約束なさった。無数の霊魂と全世界の運命が危うい。そこには疑いあるいは曖昧さの余地はない。教会と世界は正確に聖母に従うことによって失うものは何もないし、そしてすべてのものを得る。教会と世界はファチマのメッセージを無視することによってすべてのものを失い、得るものは何もない。

第五に、われわれ司祭はすべてファチマ・メッセージについてその完全さにおいて他の人々に教えなければならない。このことは第一に、われわれがファチマ・メッセージにおいて啓示された諸々の預言、それが指定している諸々の祈りと信心、それが提供している諸々の約束そしてそれが与えている諸々の警告を理解するようになることを要求する。われわれはこれらの事柄についてのわれわれの理解がわれわれの配慮のうちにある信徒たちに手渡されるということを確実にしなければならない。最後にわれわれはわれわれの日々の生活において、言葉と模範によって、ファチマ・メッセージを生きなければならない。

そこで、これらが司祭たちのファチマ運動の五つの基本的な原理である。この小冊子の最後の章において、われわれはそれによってわれわれ司祭が、世界が聖母の汚れなき御心の勝利を目撃するであろう日を早めるために、信徒たちにわれわれの聖なる職務の一部としてこれらの原理を実践することができる一つのプログラムを概説するであろう。

9)Denzinger, 1836.

第10章 司祭職のためのファチマ・プログラム

この小冊子を前章において概略された司祭たちのファチマ運動のための五つの原理がその中で実践に移され得る諸々の仕方の議論で終えることは相応しいことである。ファチマのメッセージそれ自身われわれが必要としている導きを提供している。なぜなら、われらの天の御母は御自分が要求なさったことをなすための手段なしにわれわれをそのままにして離れ去られることはないであろうからである。

第一の原理 - 教導権によって不可謬的に決定されたものとしての信仰の教義を信奉すること - に関しては、単に真理を知りそしてそれを他の人々に説くだけでは十分ではない。われわれはまたそれを愛さなければならない。そしてわれわれの模範によって他の人々にそれを愛するように教えなければならない。われらの主御自身が宣言なさったように、「もしあなたたちが私の命令を守るならば、あなたたちは私の愛のうちに留まるであろう。」これが、シスター・ルチアが、われわれはどのようにしてファチマのメッセージを実行すべきかについて話しながら、われわれの上長たちによる行動を待つよりはむしろ、「われわれ一人ひとりが自分自身を霊的に改革し始めることが必要です。各人は単に自分自身の霊魂を救わなければならないだけではなくて、また神がわれわれの道に置き給うた霊魂たちをも助けなければなりません」と宣言した理由である。

それゆえに、司祭たちのファチマ運動における司祭としてのわれわれの第一の仕事は、単にすべての人々に当てはまる十戒に従うだけではなくて、司祭としてのわれわれの個人的聖化に属するものに従いながらわれわれ自身を霊的に改革することである。第一に、われわれは司祭職の日々の霊的諸義務:すなわち、ミサを捧げること - 神に対する究極的な祈り - 、聖務日課を唱えること、教会によって推奨されたものとしての黙想をすること、そして特別に、ファチマの聖母が繰り返しわれわれに要求なさったロザリオの祈りをすること、を忠実に果たさなければならない。

祈らない司祭は彼の霊的武器を投げ出してしまった、そして悪魔によって滅ぼされることを待っている戦士である。今日の司祭職の危機は祈りの欠如から起こった。そのことが恩寵の欠如と神がおそれ多くも司祭叙階を通じて彼らをそこまで高められた高貴な地位からの多くの司祭の転落へと導いたのである。彼らが悪魔からの強烈な攻撃に曝されているのはまさに司祭がこの高貴な地位へと高められたがゆえである。悪魔的な影響からの司祭たちの保護はまさに、教会が、平信徒から期待されるものを遙かに超える祈りと規律の規則を司祭たちのために規定している理由である。もしわれわれがその規則を堅く守らないならば、われわれは悪魔のための容易な餌食となるであろう。われわれの祈りの規則を守るように努力しよう。神と神の祝福された御母への愛と献身からこのことを特別にするようにしよう。

福音書は絶えず祈ることへの訓戒に満ちている。このことは司祭たちにはそれだけ余計にあてはまる:

「いつも目覚めていなさい。起ころうとしているこれらすべての事から逃れ、人の子の前に立つ力が与えられるように祈りなさい。」(ルカ21:36)

「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りに励みなさい。」(ローマ:12,12)

「あらゆる祈りと願いをもって、どんな時にも、聖霊によって祈りなさい。そのためにも、聖なる人々のために根気強く祈りつつ、目を覚ましていなさい。」(エフェソ6:18)

「根気強く祈りなさい。感謝を込めて祈りつつ、目覚めていなさい。」(コロサイ4:2)「絶えず祈りなさい。」(1テサ5:17)

霊的に武装したカトリック司祭 - すなわち、祈る司祭 - なしには、われわれはファチマのメッセージの実現を期待することはできない。[マリアの]汚れなき御心の勝利は司祭たちの霊的動員をもって始まる。そしてその動員は教会がわれわれのために規定した仕方で祈りの生活を送るわれわれ司祭たちの一人ひとりとともに始まる。

祈りに加えて、われわれはまた罪の償いをしなければならない。ここでもまた、平信徒に要求されることはより大きな力をもってわれわれ司祭たちに適用される。罪の償いはわれわれの個人的苦行と霊的成長のために必要である。過度に快適な、あるいは贅沢でさえある司祭の生活は悪魔によってすでに勝ち取られた勝利である。罪の償いから逃げただ快適さのみを求める司祭は悪しき者と効果的に戦うことはできない。

われわれは運動の第二の原理 - すべての恩寵の仲介者としての聖母の役割に関する教導権の絶えざる教えを促進すること - をわれわれの説教においてその主題に関して説教すること、そしてその教義をわれわれの小教区のカテキズムのクラスで教えることによって達成することができる。われわれはこの教説の説明のために古典的な典拠のあるものを引くことができる。それはファチマ・メッセージにとって不可欠のことである。

信徒たちはファチマのメッセージが、マリアがすべての恩寵の仲介者であるということの最も劇的な論証であるということを理解する必要がある。実際、メッセージ全体は、ロシアの回心および世界における平和の恩寵を含む、人類に対する神の恩寵の聖母による仲介を巡って回転している。神は御自分に仕える人々がファチマの光栄ある約束の実現を通して、神がマリアの仲介を通じて以外にはいかなる恩寵もお与えにはならないということを見るよう望んでおられる。

われわれは、司祭として、われわれの不完全な人間的仕方において、聖母御自身が神なる御子にそうなさるのと同じ重要性をマリアに与え、同じ敬意をマリに示すよう、特に義務づけられている。あらゆる司祭はわれらの主御自身への従順においてマリアの司祭であるべきだ。すべての恩寵の仲介者としてのマリアの教義を促進することはわれわれの司祭職のあの局面にとって不可欠なことである。

第三の原理 - ファチマのメッセージへの堅固な信仰とそれへの献身を促進すること - を達成するためには無数のやり方がある。

説教、小教区のブレティンや小教区のニュースレターにおいてファチマのメッセージの歴史や内容を説教すること、そしてそれをわれわれが世話している信徒たちのカテケージスの一部とすること。メッセージの神学的な豊かさは無尽蔵である。しかし多くの資料は説教のための優れた素材を提供する。

小教区において五回の初土曜日の信心を確立すること。これは祈り、償いそして償いの聖体拝領を求めておられる聖母の御要求を満たすことである。

われわれの信徒たちのすべての成員が茶色のスカプラリオの会員として登録されることを確保すること。信徒がそれを着用することは究極の救いについての聖母の個人的なお約束を確実なものとする。

個人的な回心と他の人々の回心のために緑色のスカプラリオを着用しまた配布するようにわれわれの信徒たちに教えること。

あらゆる家庭において[イエズスの]聖心と[マリアの]汚れなき御心が王座を占めるようになることを奨励し実行すること。

あらゆる家庭に[イエズスの]聖心と[マリアの]汚れなき御心の御絵や御像を目立つ所に置くように奨励すること。

われわれの信徒たちの成員たちのうちに毎日ロザリオの祈りをする習慣を植えつけること。ロザリオの祈りは人々が自由に利用することができる最も強力な霊的武器である。それは諸民族全体を大災難から救った。そしてもし十分な数のカトリック教徒がきまってそしてうやうやしくロザリオの祈りをするならば、世界を大災難から救うであろう。

それを通じて平信徒の成員たちがファチマ・メッセージを生き、そしてそれを他の人々に知らせるファチマ協会を諸々の小教区の中に設立すること。

小教区においてファチマに関する文献、ファチマに関連した御絵、そして隣人や友人に与えるための準秘跡をすべての人に利用可能とすること。

各小教区にメッセージの内容を子どもたち、家族そして隣人たちに教えるためのファチマの教義問答の講習会を設置すること。

各週にファチマの巡礼聖母像がそこを訪問し、そして隣人たちがロザリオの祈りを一緒に祈るために集まる異なった家庭での「ブロック・ロザリオ」を促進すること。

われわれの信徒の成員たちに第2章で挙げた七つの「ファチマの祈り」をしばしば唱えることを教えること。

小教区において毎年5月13日のファチマの聖母の祝日を適切な祝いの行事で祝うこと。

毎月の13日に、あるいは毎月の初土曜日に、あるいはその両日にファチマの聖母のための行列を行うこと。

これらの、そして他の手段によって、各小教区そして小教区内の各家庭は真の「ファチマ・センター」となり、世界中にファチマ・メッセージを広める手助けをすることができる。教会全体によるファチマのメッセージの受諾と教会の生活へのその結合は長く待ち望まれている。あちこちでメッセージは注意を払われそしてそれがあるべき仕方で実践されている。しかし神はそれが教会の至る所で注意を払われるべきであると命じておられる。このことが十分な数の家庭と小教区において起こるとき、ファチマの諸々の約束は果たされるであろう。

われわれ司祭は[マリアの]汚れなき御心の勝利をもたらすことに役に立つであろう。われわれはファチマのメッセージを学習し、それに注意を払い、そしてそれを実践する仕事において信徒たちを導く最も直接的な義務を持っている者である。もしわれわれがこのことをしないならば、誰がするであろうか? 信徒たちはわれわれを待っている。そして彼らは - われわれがそうあるべきであるように彼らを導く場合にのみ - われわれに従う準備ができている。もしわれわれがそうしないならば、われわれにわざわいあれ!

運動の第四の原理、すなわち、[マリアの]汚れなき御心へのロシアの真の奉献の不動の追求、に関しては、確かにわれわれは、われわれがこの章においてただ概略しただけである手段によって霊的に道が準備されるとき、数え切れないほどの恩寵が仲介者たるマリアを通じて神から流れ出るであろう。そしてその結果として、教会の指導者たちは奉献に関して神が要求なさったことをすることがはるかに容易になるであろう。もしわれわれが奉献がなされるのを見ることを望むならば、われわれは自らを改革しなけれならない。そしてわれわれの世話に委ねられている人々をより大きな聖化へと導かなければならない。ロシアを奉献することに失敗することは教会の指導部の失敗であると同様に、一部はわれわれ自身の失敗である。われわれ、そして神がわれわれの道に置き給うた人々がファチマ・メッセージに従うとき、教皇と司教たちがロシアを奉献する日はもっと近くなるであろう。

個人の霊的改革に加えて、われわれは神に奉献をもたらすであろう恩寵を嘆願しなければならない。われわれはミサ、小教区のノベナ、祝せられた秘跡[聖体]の前での徹夜、聖時間、小教区のロザリオとブロック・ロザリオ - このすべてをロシアの奉献の意向のために - 捧げなければならない。

そして、もちろん、自然的なレベルにおいて、われわれは教皇に、彼が彼の司教たちに、遅れることなしに、マリアの汚れなき御心への、名を挙げてのロシアの適切な奉献において彼に加わることを命じられるよう、請願を促進しなければならない。そして、われわれが教皇を「しつこく悩ましている」という反対によって怖がらせられないようにしよう。神御自身、イエズス・キリストのペルソナにおいて、カナンの女によってしつこく悩まされ給うた。彼女は、イエズスが彼女の信仰を試すために、自分はイスラエルの失われた子どもたちのために遣わされたのであって、彼女のような者のために遣わされたのではない、そして「子どもたちのパンを取り挙げてそれを犬どもに投げ与えることは公正なことではない」と言われた後でさえ、彼女の娘から悪霊を追い払ってくださるようにイエズスに願い続けた。しかし、彼女は敢えて肉と成られた神に次のように言い続けた:「はい、主よ、なぜなら、犬でさえ彼らの主人の食卓から落ちるパンくずを食べます。」神の好意を嘆願することにおける彼女の根気強さのゆえにキリストは最後に彼女に言われた:「おお、女よ、あなたの信仰は大きい。あなたの望む通りになれ。」そして彼女の娘はその瞬間に悪霊を追い払われた。

同様に、盲目のこじき、バルテマイは彼の盲目から癒されることを要求しながら、文字通りわれらの主に叫んだ - 「ダビデの子、イエズス、私をあわれんでください!」それはただ群衆の中の多くの人々によって叱られただけであった。彼らは彼に静かにするように言った。しかしバルテマイはただ、「ダビデの子、私をあわれんでください!」とますます大声で叫び出した。そしてわれらの主は彼の叫びを聞き、御自分のところへ連れてくるように命じられた。それからわれらの主は彼にお尋ねになった:「何を私にしてもらいたいのか?」と。そしてバルテマイは答えた:「先生、見えるようにしてください。」そしわれらの主は彼の信仰における粘り強さに対して彼に報いながら、次のように言って彼を癒された:「あなたの道を行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と。(マルコ10:46-52)

もし神御自身われわれの「うるさくせがむこと」に報いてくださるならば、誰もわれわれが教皇に「うるさくせがんでは」ならないと要求する権利を持っていない。われわれが、カナンの女の娘のように、ロシアが悪霊から解放され、平和が全世界に与えられる時まで、ロシアの奉献を請願することにおいて辛抱強くあらねばならないのは、神に対するわれわれの信仰と祝せられた御母の約束のゆえである。

そしてもしわれわれがこの点においてやり抜かないならば、もし臆病と人間的な顧慮から「教皇にうるさくせがむ」ことを止めるならば、そのとき単に教会だけではなくて、全世界が苦しむであろう - そしてわれわれ司祭は、実際第一位の非難ではないとしても、大きな非難を背負うことになるであろう。

第五の、そして最後の原理について言えば、他の人々に、言葉と模範の両方によってファチマ・メッセージを生きることそして学習するように教えること。このことは最低限運動のあらゆる成員にとって関係があるであろう。

毎日、ロザリオ五連を祈ること。

いつも茶色のスカプラリオを着用すること。

償いと犠牲の精神において、神に対し、その聖なる人間性におけるイエズスに対し、神の御母に対し、教会に対し、われわれの誓願に対しそして真理に対して、われわれの義務を果たすこと。

ポンテヴェドラ、トゥイそしてリアンジョでの御出現においてシスター・ルチアに打ち明けられたことを含む、ファチマのメッセージについてわれわれができるすべてを学習すること。これは、われわれ自身がこの最も大切な主題に関して専門家となるように、尊敬すべきファチマ使徒職および学者たちによって提供されたすべての資料の読書と研究を必要とするであろう。

メッセージの真の内容を他の人々に熟知させること。われわれは、われわれが自由に利用できる社会的なコミュニケーションのすべての手段:すなわち、マス・メディア、インターネット、会議、討論グループ等々、を用いながら、教会における司牧者としてのわれわれの役目に従って、メッセージに関して説教し、教えなければならない。

メッセージをその敵どもによる曲解と侮りに対して擁護すること。

メッセージが知られ、理解され、正しく評価され、そして就中、従われるということを確実にするために - 教会におけるわれわれの影響力がどのように大きく、あるいはどのように小さくあっても、そして威信あるいは人間的尊敬の何らかの喪失を恐れることなく - われわれの能力の範囲にある他のすべてのことをすること。

これらの対策の目的は、われらの主と聖母がわれわれがそうであることを望んでおられるであろうように、あらゆるカトリック司祭をファチマの使徒とすることである。そして司祭個人にとってもし可能であるならば、彼は第二バチカン公会議によって推奨された社会的コミュニケーションという現代的な手段を用いる本格的なファチマ使徒職を展開すべきである。もし、われわれがすでに議論した他の諸々の手段に加えて、欠けるところのないファチマ・メッセージを促進し書物、雑誌、新聞そしてインターネットにおいてロシアの奉献を要求する、異なった国々における1000人の司祭たちが存在するならば、どれほどもっと速やかに奉献が達成され得るかを想像してください。たとえ全世界にそのような司祭たちがたった100人しかいなかったとしても - ファチマについての真実を公表する100のファチマ使徒職 - ロシアの奉献および汚れなき御心の勝利への道は劇的に短縮されるであろう。そして教会と世界は神の命令の実行を余りにも長く遅らせることの究極的な諸結果を免れるであろう。

それで、これが司祭のためのファチマ・プログラム、教会における司祭たちのファチマ運動のための一つのプログラムである。もしあらゆる司祭が自分自身をファチマの使徒としたならば、そしてもし司祭たちと平信徒たちの両方が霊的そして実際的の両方でファチマのメッセージを知り、生きそして促進したならば、そのときロシアの奉献、汚れなき御心の勝利そして世界における平和は間もなく来るであろう。非常に多くの霊魂たちが救われるであろう!諸国の絶滅は避けられるであろう!この企てを一緒に始めることにおいてわれわれはどのようにして一瞬でも遅らせることができるだろうか?

われわれにとって今やこの小さな書物を一つの一般的な反対に答えることによって終わらせることが残っている。その反対とは:われわれは司祭たちのファチマ運動に参加するためには「教会当局」からの「許可」を得なければならない、さもなければわれわれは「不従順」であるというものである。それは単純に言ってそうではない。実際、この主張は神の律法それ自身に反するものである。

まず第一に、われわれがここで提案しているように、ロシアの奉献を求めて教皇に請願するためにはいかなる「許可」も必要ではないしまたそれは「不従順」なことでもない。ヨハネ・パウロ二世もまた彼の後継者であるベネディクト十六世も教会の成員たちによるそのような活動を禁じられたことはない。ロシアの奉献を求める請願を何でもみな止めよ、あるいはそのことに関する限りで、第三の秘密を含むファチマの完全なメッセージを促進することを差し控えよ、といういかなる教皇の命令も存在しない。ラッツィンガー枢機卿は、信徒が2000年にバチカンによって公表された第三の秘密の幻視についての彼の解釈とは異なることは自由であるとさえ述べられた。

第一バチカン公会議そしてリヨン第二公会議が不可謬的に規定したように、すべての洗礼を受けているカトリック教徒は、いかなる教会法上の手続きをも起こすことなしに、教会司法権に属する問題において教皇に直接請願をする神によって与えられた権利を持っている。

さらに、ファチマのメッセージは教会における最高の重要性をもった問題である。そして信徒のあらゆる成員はそのような重要な問題に関して彼の関心事を教皇に表明し、また教会のあらゆる他の司牧者に表明する権利だけでなく、義務を持っている。信徒の自然的諸権利を認めて1983年の教会法典が定めているように:「キリスト教の信徒は教会の司牧者たちに彼らの必要なこと、特に霊的な必要性、そして彼らの要望を知らせる自由がある...彼らが持っている知識、能力そして威信に従って、彼らは教会の善に属する事柄に関する彼らの意見を聖なる司牧者たちに明らかにし、そして彼らの意見を他のキリスト信者たちに知らせる権利そして時には義務さえ持っている...」§§2, 4.

その上、教区司祭を含む信徒たちは、「世界におけるキリスト教的な使命を涵養する敬虔な諸目的」のために、諸団体を自由に設立しそして管理することそして集会を開催し、社会的コミュニケーションのすべての手段を用いてもよい。§215. ファチマのメッセージを促進することよりももっと敬虔な目的は存在しない。それはわれわれの時代における敬虔な活動のための神御自身の命令である。

しかしながら、教皇あるいは教会における他の何らかの権威がロシアの奉献に関する請願あるいは合法的なファチマ使徒職の他の何らかの側面を「禁じる」ことを試みた - そしてわれわれはこのことは決して起こったことはないと強調する - と仮定してさえ、われわれはただ、神御自身がファチマのメッセージを知らせそしてそれに従わせるよう命令なさったのだということを心に留めておく必要があるだけである。神の御母はファチマで何らかの権威に基づいてお話しになったのではなくて、神の権威に基づいてお話しになったのである。そしてわれらの主が直接シスター・ルチアに「私に仕える人々に知らせなさい...」と言われたようにそうなのである。われらの主は「司教たちや教皇からの命令を受けた上で」とはつけ加え給わなかった。

司祭たちのファチマ運動の成員として、われわれはあらゆる社会、そして特に聖なるカトリック教会において従順を支配する神の法の基本的な原理を決して見失ってはならない。われわれの第一の従順は神に対する従順であって、そしてその次に教会の支配者たちに対する従順が来るのである。教皇でさえ神に従属している。聖ペトロそして使徒たちが教えているように:「人間に従うよりも神に従うべきである」(使徒行録5:29)。そして教皇はこの教えに対して何ら例外ではない。

聖トマスはこう言っている:「誰でも、より低い権力に従うべきであるのは、ただそのより低い権力がそれ自身よりも高い権力によって建てられた秩序を保っている限りにおいてである。しかし、もしそれ(より低い権力)がより高い権力の秩序から離れるならば、そのとき誰にとってもそのより低い権力に従属することは正しいことではない。例えば - もし皇帝がその反対のことを命令した時に、地方総督が何かあることを命じたならば - 。」注10)それゆえに、「臣下はすべての事柄において彼らの上長に従わなければならないと思われる」という反対論に答えて、聖トマスはこう答えるのである:「その反対にこう書かれている(使徒行録5:29):『人間に従うよりも神に従うべきである』と。ところで、時にはある上長によって命じられた事柄が神に反していることがある。それゆえに、上長たちはあらゆる事柄において従われるべきではない。」

さらに、ファチマのメッセージの普及およびメッセージへの従順を妨げるであろう教会の権威のいかなる命令もその成員たちの共通善のために設立された一つの完全社会としての教会のまさに本性そのものに従ってその権威の乱用であろう。もちろん、教会はその成員たちが、信仰と道徳に関する彼らの真正の教えと管理 - 特に教皇の教えと管理 - についての彼らの諸々の行為において聖なる司牧者たちに従順でなければならない一つの位階的な制度である。しかし教会の支配者たちは単に市民的な諸国家の支配者たちよりももっと多く彼らの権威を乱用し、共通善を害することが許されているのではない。

実際、教皇御自身さえ含んで、聖なる司牧者たちは正しく支配し、そしてそれが保証されているところでは矯正を受け入れるべき、世俗の支配者たちよりも高い義務をさえ持っている。この真理 - それは自然法と神法とに基づいている - は十六世紀の傑出した神学者フランシスコ・スアレスによって表明された。教皇パウロ五世は彼を Doctor Eximius et Pius (「例外的で敬虔な博士」)として称賛なさった。

「もし[教皇が]正しい慣習(道徳)に反した命令を与えるならば、彼に従うべきではない。もし彼が正義と共通善に明らかに反する何かあることをしようとするならば、彼に抵抗することは合法的である...」注11)

偉大な聖人たちや教会博士たちは、その行動が公的なスキャンダルを与え、信仰を危険に陥れあるいは教会の共通善を傷つける位階上の上長に、もし必要ならば公然とさえ、抵抗する信徒 - 聖職者の成員たちを含む - の権利と義務を支持することを躊躇しなかった。例えば、聖トマスは『神学大全』の中で、「人は彼の高位聖職者を正す義務があるかどうか」という問いの下に、こう教えている:「しかしながら、もし信仰が危険に曝されているならば、臣下は彼の高位聖職者を公然とさえ非難すべきである、と言わなければならない。それゆえに、ペトロの臣下であったパウロは信仰に関するスキャンダルの差し迫った危険のために、彼を公然と非難したのである...」注12)

聖書において説明されているように(ガラテヤ2:11-14)、ペトロは、アンティオキアで洗礼を受けた異邦人たちと一緒に食事をすることを拒否することによってモーゼの食事に関する律法のあるものに従い続けていると見えることによって教会の使命に脅威を与えた。聖トマスはここで、高位聖職者を彼より地位の低い者が正当に公然と非難することは生意気なことではなくて、実際に一つの愛徳の行為である、なぜなら、「自分自身をある点においてより優れていると考えることには何ら生意気なことはない、なぜなら、この世の生活においては、誰も何らかの欠点を持たない人はいないからである。われわれはまたある人が彼の高位聖職者を愛をもってたしなめるとき、彼が自分自身を何かよりよいものと考えているということは帰結せず、ただ彼が、アウグスティヌスが上に引用した彼の規則集において述べているように、「『あなたたちの間でより高い地位に居て、それゆえにより大きな危険の中にいる』人に彼の助けを提供しているにすぎないということをも覚えていなくてはならない」からであると述べている。

聖ロベルト・ベラルミンは、カトリック教徒たちは教皇をいかなる法律あるいは制限条項によっても縛られていない一人の絶対専制君主だと見ているといういい加減なプロテスタントの主張に答えて、次のように書いた:

「身体を攻撃する教皇に抵抗することが合法的であるのとまったく同じように、霊魂たちを攻撃する者、あるいは市民的秩序をかき乱す者あるいはとりわけ教会を破壊しようと試みる者に抵抗することも合法的である。私は、彼が命令することをしないことによってそして彼の意志が遂行されることを妨げることによって彼に抵抗することは合法的であるが、しかしながら、彼を裁き、罰しあるいは退位させることは合法的ではない、なぜなら、これらの行為は上長に固有のことであるから、と言う。」注13)

教会博士たちや聖人たちによるそのような教えの例を増やすことができるであろう。しかしその重点は次のように言える:教会の忠実な臣下たちはその命令が教会に害を与える高位聖職者に対して忠実な反対の声をあげ、引き起こされる何らかの損害を正そうとする権利と義務を持っている、と。もし、ある高位聖職者が、たとえそれが教皇自身であるとしても、ファチマ・メッセージへの教会の信奉と聖母の諸要求の実現を促進するための司祭たちあるいは平信徒たちによる諸々の努力を「差し止め」あるいは「禁止し」ようとするならば、それはそのような事例であろう。

これらすべての理由で、たとえわれわれが議論のために、ある上長がロシアの奉献のための請願あるいはわれわれがこの運動のために提案したそのようなファチマ使徒職の行為を「禁止し」たということを想定すべきであったとしても、そのような命令を発する者は誰であれ、そうするための神からのいかなる権威をも持っていないであろうし、また神の意志と教会の共通善に反しているであろう。そのような命令を与えられた場合、上長に従う必要はないしまた従ってはならないのである。なぜなら、その命令はファチマのメッセージが教会において促進され、従われるべきであるという神の御意志に反するであろうからである。誰も、中でもカトリック司祭は、もし問題になっている命令が明白に神の御意志に反するならば、「私はただ命令に従ったにすぎない」という抗弁を神の前に提出することはできない。ファチマ・メッセージの諸々の命令を一つの単なる「私的な啓示」として廃棄せよという命令を含むそれらの命令を無視せよという命令は明らかに神の御意志に反するであろう。神は、まさに誰一人それを無視するためのいかなる言い訳をも持つことがないように、そのメッセージが本物であることを証明するために一つの先例のない公的な奇跡をお授けになったのである。

それゆえに、司祭たちのファチマ運動の道には何の抵抗もないのである。そしてわれわれがここに提示したすべてのものはこの運動を推挙している。われわれがここに提示した短い議論でさえ、神の御母がわれわれに、聖母の御要求に注意を払うことに失敗することが霊魂たちの喪失と諸国の絶滅を意味するであろうと警告なさったということを疑う余地はないということを示している。聖なるカトリック教会の司祭としてわれわれの義務は明らかである。われわれはファチマのメッセージを知らせ、そしてあらゆるレベルでメッセージへの教会の従順を確実なものとするためにわれわれの能力の範囲でできるあらゆることをしなければならない。霊魂たちの善とすべての人類の幸福のためにわれわれは今日その仕事を始めなければならない。もしわれわれが司祭として、霊魂たちの医師として、教会の歴史のこの問題の多い、そしてますます危険となっている時期に、神から任命されたわれわれの天職に忠実であるべきならば、そうする以外のいかなる選択をもわれわれは持っていないのである。ファチマの聖母、われらのために祈り給え!

10)St. Thomas, Summa Theologicae, II-II, q. 104, a. 5.

11)Francisco Suarez, De Fide, Disp. X, Sec. VI, N. 16.

12)St. Thomas Aquinas, Summa Theologicae, II-II, q. 33, a. 4 ad 2.

13)St. Robert Bellarmine, De Romano Pontifice, Book II, Chapter 29.

作成日:2008/04/16

最終更新日:2008/04/27

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