ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち
1917年から現在までの歴史
われらの主の単純な命令に心を留めなかった代価
1917年7月13日 -- 聖母はルチアに、その罪に対する世界の懲罰を妨げるために -- ロシアの奉献を求めに戻って来ると約束なさった。
1917年10月13日 -- 太陽の奇跡がルチアへのファチマの聖母のメッセージの真正性を証明する。
1929年6月13日 -- 聖母が、ある特定の日に荘厳、公的な儀式において教皇とすべての司教たちによって[なされる]ロシアの奉献を求めるためにシスター・ルチアのところへ戻って来られる。ファチマの聖母のこの最も荘厳な幻視において、聖母はこの命令をいとも聖なる三位一体の名においてお与えになる。
1931年8月 -- われらの主はシスター・ルチアにこう言われた:「私に仕える人たちに、私の命令の実行を遅らせることにおいてフランス王の例に彼らが従っているということ、そして彼らは彼にならって不幸に陥るであろうということが与えられていると、知らせなさい。」われらの主はまたこう言われた:「彼らは私の命令に耳を傾けることを望まなかった。フランス王と同じように、彼らはこのことを後悔し、それを行うであろうが、しかしそれは遅いであろう。」
1936年 -- 「教皇のためにたくさん祈りなさい。」イエズスは、ロシアの奉献がなされるように、シスター・ルチアに言われた。
1938年1月25日 -- 人類がファチマの聖母を心に留めなかったがゆえに -- 神はすべての人々に、こう忠告なさる -- 神は戦争、飢餓そして教会と教皇の迫害とによって世界を罰するであろう、と。
1945年 -- ヤルタ協定が -- 合衆国と他の諸国がハンガリーの援助にかけつけることを拒否するとき -- 今なお効力を持っていることが示される。
1958年 -- 教皇ヨハネ二十三世即位される。彼は鉄のカーテンの背後のカトリック教徒を助けようとして新しいバチカン政策を始められる。
1960年 -- ファチマの秘密 -- が開けられ読まれた -- しかし公開はされなかった。
1962年 -- バチカン・モスクワ協定が調印された。
1962年 - 1965年 -- 公会議でロシアの奉献はなされなかった。ロシア共産主義とモスクワの共産主義政権に対する非難はなされなかった。
1967年 -- 教皇パウロ六世は教会と世界における平和を祈るためにファチマに行かれる -- 彼はロシアを奉献されない。
1967年およびそれ以後 -- 教皇パウロ六世は教会に入ったサタンの煙に言及なさる。
1978年 -- 教皇ヨハネ・パウロ二世の選出。
1981年5月13日 -- アグカとK.G.B.によるヨハネ・パウロ二世の狙撃。
1982年5月13日 -- 教皇はロシアではなく、世界を奉献するためにファチマへ行かれる。
1983年7月 -- アグカは、教皇を狙撃するために彼を雇ったのはK.G.B.だったことを公的に認める。
1983年10月16日 -- 教皇ヨハネ・パウロ二世は司教会議の間に、ロシアをではなくて、世界を奉献なさる。
1983年12月27日 -- 教皇は刑務所でアグカに面会され、彼と長い間会話を交わされる。
1984年2月- 3月 -- 教皇ヨハネ・パウロ二世は共産主義者のカトリック教徒迫害を公然と非難なさる。
1984年3月25日 -- 再び世界を奉献なさった後、教皇ヨハネ・パウロ二世は、ファチマの聖母が今なお御自分の汚れなき御心への「ある人々」の司教たちによる奉献を待っておられると言われる。
1989年 -- 憐れみの時は過ぎ去る。8月15日にマリア年が終わった。15億人の人々は今なお共産主義ロシアによって奴隷化されている。ロシアの軍事力は合衆国の軍事力の6倍である。INF条約は間もなく共産主義ロシアの手に落ちるであろう西ヨーロッパを弱めている。
2005/03/12 三上 茂 試訳
作成日:2005/03/12
最終更新日:2005/03/12
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