ファチマの聖母マリア

聖マキシミリアノ・コルベ

The Fatima Crusader, Issue 09: Oct.-Dec.1982より

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M., Conv., S.T.D.

1982年10月10日、聖ペトロ大聖堂で福者マキシミリアノ・マリア・コルベ(Maximilian Mary Kolbe, O.F.M., Conventual)は彼の最も傑出している英雄的徳のために列聖された。マキシミリアノ・コルベ神父が、彼がほとんど知らなかった一人の不当に断罪された仲間の囚人に代わって死ぬために自由に身を捧げた後に、アウシュヴィッツのナチスの監獄キャンプにおいて殉教したのはちょうど41年前であった。教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「われわれの困難な世紀の保護者」と宣言された。われわれは、神がわれわれの時代に深い信仰、英雄的な愛そして特に聖母に対する計り知れない愛の模範としてお上げになった聖マキシミリアノをもっと多くの人々に知ることを可能にするこの論考を公表するのが嬉しい。この聖人の聖性への鍵はわれわれの母なるマリアへの彼のますます大きくなる愛である。聖マキシミリアノは神の御母に対する彼の愛に何の制限も設けなかった。そして実践において、彼はその生涯の間一つの驚くべきマリア使徒職において実を結んだ強烈な祈りの生活によって聖母に対する彼の壮大な献身を示した。そして彼は人々をイエズスとマリアのより大なる知識と愛へと連れて行くためにマス・メディアを用いる彼のマリア使徒職を天国から導き続けている。

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M.--彼は最近コンヴェントゥアル・フランシスコ会のナポリ管区総長に選ばれた--は、ステファノ神父が今日われわれの新しい聖人によって立てられた模範に従っているので、特に聖マキシミリアノについて書くのに適している。ステファノ神父と聖マキシミリアノとは両者とも、彼らの各々が院長をしていたそれぞれの修道院へと多くの修道生活の召命を惹きつけた。両者はマリア使徒職を始めた。そして出版とマス・メディアの他の領域において働いた。両者はヨーロッパから遠く離れたアジアにおいて神の御母に対する信心を促進するために宗教共同体を設立した。両者は神学の博士号を持っており、そして両者はコンヴェントゥアル・フランシスコ会の神父である。ステファノ神父は、聖マキシミリアノと同様に、この号の16ページに印刷された「イエズス、われわれの御聖体の愛」という論考からわれわれ読者が知っているように、興味のあるそして非常に読み応えのある論考の著者である。聖マキシミリアノのこの簡潔な伝記は数年前にイタリア語で出版された。そして北アメリカにおいて英語で出版されるのは今回が初めてである。

序文

教皇パウロ6世は1971年10月17日、マキシミリアノ・マリア・コルベ神父の列福式の機会に話しながら、福者マキシミリアノは「太陽をまとった者(黙示録12:1を参照)として見られたキリストの御母に対する信心を彼の霊性、彼の使徒職、そして彼の神学の焦点とした」と宣言された。

教皇のこの重要な声明は福者マキシミリアノの全生活のうちにその明白な表現を見出す。そして福者マキシミリアノが「汚れなきマリア--われらの理想」という標題の下に異なった諸言語で印刷したリーフレットがここにある。それでもってわれわれはこの小さな書物のページを始めたいと思う。なぜなら、それはこの聖なる人の生活と仕事のすばらしい綜合であるからである。

汚れなきマリア--われらの理想

「われらの目標、われらの理想は汚れなきマリアへ近づくこと、マリアのように成長すること、われらの心とわれらの全存在をマリアに支配させること、われらのうちに、そしてわれらによってマリアを生きさせ、働かせること、われわれがしりごみすることなく完全にマリアに属するようにわれらの心をもってマリアに神を愛させることである。これがわれらの理想、そしてわれらの目標である。

そうだ、われらの理想、そしてわれらの目標は、われらの知人たちがマリアの影響に心を開き、マリアがすべての者の心の中で、至るところで、人種、国籍、あるいは言語にかかわらず、世界の終りまであらゆる世代のすべての人々の心においてさえ、支配するように、われらの環境のうちに汚れなきマリアを放射することである。

われらの目標は汚れなきマリアの生命が常にますます深く、日々、時々刻々、瞬間瞬間われわれのうちに根づいたものとなることである。そしてこのことに限界がないことである。

マリアの生命が今生きている、そしてあらゆる未来の時代に生きるであろうすべての人々の霊魂のうちに発展することがわれらの理想であり目標である。」

以下のページを読むにつれて、その聖なる人の生活のうちにこの理想の実現を見るであろう。この奇跡について、そのように例外的なこの愛について語るには人間の言葉はまったく不利な条件を背負っている。それにもかかわらず、福者マキシミリアノがわれわれの読者を汚れなきマリアに近づけさせるために適したものと見てくださるように。彼が「彼の頭をくらくらさせた」汚れなきおとめのあの限りない美しさと偉大さについての何かを彼らに知らせてくれるように。彼がそうしたと同じように、彼をそのような英雄的な愛へと導いた同じ偉大な愛をもって、彼が汚れなきおとめを彼らに愛させてくださるように。

第1章
--彼の母国における少年時代と青年時代

福者マキシミリアノ・マリア・コルベはポーランドの真の息子であった。彼はロシアとドイツの間のうすら寒い、雪の多い土地に生まれた。それは勤勉に働く、そして強健な人々の祖国である。

熟練労働者、農民、労働者そして何人かの専門職の人々が村の生活の毎日の仕事を分け持っていた。たいていの男は女と同様にロズ(Lodz)周辺地域において繁盛し始めていた繊維産業によって雇われながら、家で織物をしていた。

骨折り仕事の時間は長かった。「星から星まで」というのは美しい表現であった。それは夜明け前から夜遅くまでを意味していた。賃金は低く、日々必要な物は家族の大部分のために重くのしかかっていた。

しかしながら、その町のすべての住民はポーランド人にとって活力のある、生き生きとした富を構成する貴重な遺産:キリスト教信仰を持っていた。それは強くて熱心であったように単純で純粋であった信仰である。彼らはそれを彼らの血の中に持っていると思われた。--キリスト教の栄光の1000年の間戦争と迫害の苦しみを通り抜けたこの信仰--。天の元后、ポーランドの保護者は常に、その有名な礼拝堂からその子どもたちを優しく見守ってこられたチェストホウスカ(Czestochowska)のマドンナであった。

彼の両親

マキシミリアノの父はユリウス・コルベ(Jurius Kolbe)、母はマリア・ダブロスカ(Mary Dabroska)で、二人ともドュンスカ-ウォラ(Zdunska-Wola)出身であった。彼らは善良で謙遜な家庭の出であった。

マリアは少女時代の時から、彼女が言ったように、「おとめたちと天国を楽しむために」修道女になることを希望していた。しかし彼女は家庭のつらい貧しさがそれを不可能にしたとき、その考えを断念しなければならなかった。

しかしながら、われらの主は彼女が最後の数年を修道院で過ごし、彼女を英雄的な徳の模範として記憶しているフェリス姉妹会の一団の中で死ぬことをお許しになった。例えば、シスターたちは彼女がどのように朝4時に祈るために起きるのを常としていたか、彼女がどのように規律を守る実践をしていたか、彼女がどのように自分のベッドのためのベッド亜麻布で覆った長椅子を用いていたか、そしていくらかのお金を手に入れるとすぐにミサを頼んでいたかを思い起こすのである。

進取の気性に富んだ、よく働く青年であったマキシミリアノの父は、毎週日曜日に忠実に秘蹟を受ける非常に熱心に実践するカトリック教徒であった。そして彼はフランシスコ会第三会の役員であった。彼の妻もその会員であった。

この若い二人は1891年10月5日に結婚した。そして質素なアパートの中に彼らの家庭を持った。それは一つの大きな部屋で、カーテンによって台所、織物の道具のある作業場、寝室に分けられていた。そして二つのタンスの間にはマドンナを崇敬する小さな祭壇のための小さなスペースがあった。それは家族が皆で祈りや信心をする場所であった。

これらの慎ましい住居において福者マキシミリアノ・マリア・コルベは1894年1月8日に生まれた。彼は5人の男兄弟の2番目であった。最後の2人は生まれて間もなく神に召された。

彼は遅れることなく神とマリアの子として洗礼を受けた。彼の母親は、彼が原罪から解放されるまでは自分の赤ん坊をキスすることを望まなかった。すべての両親が学ぶべきある事柄は彼らの赤ん坊を原罪の汚れから解放し、彼らを神とマリアの子どもとするためにできる限り早く洗礼を受けさせることであった。

パビアニツェへ

子供たちが生まれて来るとともに、ドュンスカ-ウォラでの貧弱な一部屋のアパートは家族のためには不適切で向いてないことがわかった。ユリウスとマリアは問題を論議し、ドュンスカ-ウォラにほとんど隣り合った一つの村、パビアニツェにあるもう少し大きな住居に移ることに決めた。彼らはまた少しの土地を借り、家族の食卓のために野菜を作った。

数年間の多くの犠牲で家族の経済状態が改善した後に、ユリウスは何とかして一つの小さな事業を始めた。そして小さな農地を借りることができた。マリアは助産婦として町で働き、事業を助け、家の切り盛りをした。

そうこうしている間に、少年たちは地方の小学校に通うにつれて勉強するために授業があった。しかし彼らはまた家事を手伝った。彼らの父親は、彼らが健康で強健に成長するように見守る義務を感じた。それゆえ、彼は朝早く彼らを起こし、そして冬には彼らを裸足で雪の中を走らせるために直ぐに外に出させることを常としていた。

とりわけ、彼らの両親は、彼らが正しい宗教の形成および教授を受けることができるように、特に彼らを彼ら自身の告解聴聞者と霊的指導者ウラディーミル・ヤコウスキ(Vladimir Jakowski)神父に委ねることに配慮した。それはキリスト教徒である両親が注意を払わなければならないこと、すなわち、単に子どもたちの身体的成長のためだけでなく、また--そしてもっと重要なものとして--かれらの霊的発達のために準備しなければならないことである。

小さなライモンド

洗礼のときに福者マキシミリアノはライモンドの名前を受けた。子どもの頃早くから彼は真面目で熱心な性向を示した。彼は最も活発な子どもたちの休むことのない精神を欠いていなかった。彼は大胆で頑固になるほどに自分自身を主張することができた。彼は徐々に砂糖と蜜に変化した元気いっぱいの子どもであった。それで人々はいつか、彼の甘美さと謙遜のゆえに彼に「ジャム」というあだ名をつけることになるであろう。

小さなライモンドの成功した形成の多くは彼のよく気のつく両親から受けた厳格なしつけとすべての者から要求した家庭の貧困、あらゆる種類の犠牲の両方によるものであった。

この少年について言い得る非常に美しいあるものは他の人々に奉仕する、役に立つことに自らを捧げようとする彼の寛大な意志であった。母親が父親と共に仕事に出かけているとき、小さなライモンドはすべての家事--掃除、洗濯、床にブラシをかけること、火の始末、料理--をこなした。寛大で進取の気性に富んでいる者として、少年は家事雑用の犠牲のうちに、彼の小さな身体を彼の成長過程から振動すると思わせたエネルギーの蓄えのための一つの出口を見出した。

彼の母はわれわれに次の楽しい記録を残した:「彼は非常に活発で素早く動く少年でした。そして少しばかり反対のところもある子でした。しかし彼の父親と私は、私たちの3人の息子たちの中で、彼が最も従順であるということを見出しました。私は仕事をするために夫と外出したときに一人の本当の助け手を持っていました。ライモンドは台所の仕事をし、家を塵ひとつないくらいきれいにするのが常でした。そして彼の雑事のすべてを素早く終えるのでした。」

いたずらとへら

小さないたずらに決して興味を持つことがない、あるいは少しばかり羽目をはずすことが決してないような元気のいい少年がいるものだろうか? そんな子はいない。

一人の例外的な少年、そして親切さと寛大さの彼の気性のゆえに傑出している小さなライモンドはそれにもかかわらず、また彼がそれに対して戦わなければならなかった欠点も持っていた。そうだ、彼は小さないたずらをするのが常であった。しかし彼は欠点を改めなければならないということを理解していた。そして矯正されることを望んだ。そしてこの実現と欲求は一つのよいしるしである。それは多くの少年たちに、特に善良でまっすぐであることが分かっている少年たちに、共通なあることである。しかし小さなライモンドのうちには何かそれ以上のもの、まったく共通ではない何かあるものがあった。彼の悪い行いに直面させられたこの少年は単に彼の罰を引き受ける準備ができていただけではなく、それを求めるところまで行ったのである!

ある子どもが悪いことをしたの後で、へら打ちをもらうために行って、父親にそのことを告げ、自分を罰するように父親に求め、次に罰を受けて、それから父親に感謝するというようなことを想像することは難しいと思われるであろう。--にもかかわらず、これはまさに小さなライモンドがしたやり方であった。ここに彼の母親がそれについてわれわれに告げていることがある:「ライモンドはある小さないたずらのために彼が罰を受ける仕方においてさえその兄弟たちの上に立っていました。彼はいつも自発的にへらを私たちのところに持って来て、腰掛けにうつぶせになり、彼の罰を受け、母親あるいは父親に感謝し、そしてそれから静かにそのへらを元の場所に戻しに行くのでした。」

そのような精神を持った一人の子どもから誰が何かを学ばないなどということがあるだろうか?

ペットとしてのひよこ

小さなライモンドのいたずらはいつも穏やかなものであり得ただろうか? この事例を考えてみよう。

彼はしばしば学校仲間の集団の中へ入って行った。そして彼らのうちのある者が楽しんでいたペットを飼っているのを見た。ある者は子犬を、別の者は子猫を、また別の者は小鳥を持っていた。ライモンドもまた、一緒に遊ぶペットを持てば幸せであったろう。彼が友人たちに次のように叫んだとき、彼はその感情のはけ口を見つけたのである:「僕が聖フランシスコがしたように、小鳥たちに話をすることができたらなあ!」

しかし彼はどのように何とかしてペットを手に入れるだろうか? それを買うためにお金が必要である。そして彼はお金を持つことはできないであろう。しかし、彼はともかくもある日1個の卵を内緒で買うことができた。その卵を孵すために彼はそれを友だちの家庭の鶏小屋に持って行った。このようにして、少額の出費で彼はかわいらしいひよこをペットとして持つことができた。優しい性質を持った少年のように、彼はそれを考え出したのだ。

彼の母がそのことを知ったとき請求書が届いた。わずかのお金でさえ不必要に出費することは家族に対しては耐え難いことであった。「ライモンド、あなたはお金を稼ぐために辛い仕事が必要だということを知らないの?」少年は悩んだ。しかし彼は彼の母が心配する権利があるということを理解した。彼はそのようなことを2度としないことを約束した。彼はこれらの無邪気な望みでさえ犠牲にすることにおいていかに寛大であるかを知っていた。

二つの冠

ライモンドの少年時代の年月の間に何か非常に途方もないことが起こった。われわれはここでそれを独特で例外的なこと、少年の未来全体がある特別の意味と価値を受け取るであろう何かあるものとして強調する。彼の母以外の誰一人福者マキシミリアノからこのエピソードを聞いた者はいなかった。そしてわれわれは彼女がそれを明らかにする彼女の役割を果たしたことを神に感謝する。彼女は彼女の聖なる息子の死の後にそのことを明らかにしたのである。1941年10月12日づけの修道士たちに宛てた手紙の中で、彼女はそのエピソードを次のように記述している:「私はその少年時代の間にマキシミリアノ神父に起こった何かある例外的なことの始まりから、彼が殉教者として死ぬだろうということを知っていました。ただ私はそれが起こったのが最初の告解の後だったか、それとも前だったかを覚えていません。あるとき、彼は私を不快にさせるような振る舞いをしました。それで私は彼に言いました。『かわいいライモンドや、おまえがどんなものになるかを誰が知っているだろうね? 』その後、私はそのことについてもう考えませんでした。しかし私は子どもが違った人間と思われるような仕方で振る舞うことに気づきました。

私たちは彼がしばしば人目につかずに行く目のつかない場所に一つの小さな祭壇を持っていました。そしてそこで彼は涙にくれて祈りました。彼の普通の行動は彼の幼い年齢を超えた何ものか--絶えず思い出しているようであり、真剣でした--であるように見えました。そして彼は祈っていたとき、涙にくれていました。

私は彼が病気ではないかと心配になりました。それで私は彼に求めました。『おまえは母親にすべてを告げなければなりません。』

感激で震え、目に涙をためて彼は言いました。『お母さん、あなたが僕を叱ったとき、僕は聖母に、僕がどんなものになるかを教えてくださるように一生懸命に祈りました。後で教会にいたとき、僕はもう一度聖母に祈りました。そのときマドンナが両手に二つの冠を持って僕に現れられたのです。一つは白で、もう一つは赤でした。聖母は僕をご覧になり、二つの冠を欲しいかどうかお尋ねになりました。白い冠は僕が純潔のままとどまるだろうことを意味していました。そして赤い冠は僕が殉教者となるだろうということを意味していました。僕はその二つの冠を受けますと答えました。それからマドンナは僕をやさしくご覧になって、消えて行かれました。』

少年の中に起こった異常な変化はこの経験の真実を私に確信させました。彼は常にそのことについての理解を持っていました。そして彼が殉教者として死ぬことについて考えたとき、彼の顔は喜びで輝くのでした。

それで私は、マドンナがシメオンの預言の後にそうであったように、心の準備をしていました...」

人間の計画と神の計画

時にわれわれ大人は理解することが困難である--私の言いたいことは、たとえわれわれが善良で敬虔でそして物事について啓発されているとしても、そうであるということである。ライモンドの善良な両親は、彼らの息子へのマドンナの御出現について知っていながら、そしてある特別の運命が彼を神に奉献すること(白い冠)そして彼を殉教者にすること(赤い冠)であると感じながら、それにもかかわらず、神の御計画に賛成する仕方において彼ら自身をどのように支配するかを知らなかった。

フランシスとライモンドが小学校を終えたとき、ユリウスとマリアは子供たちの将来について決断しなければならなかった。そして彼らはただ兄のフランシスだけが、司祭職まで続けるという希望でその勉強を続けることに決めた。一方、彼らはライモンドが、母親の雑事を助け、また父親の事業において活動を続けることができるように、家庭にとどまることを欲した。

それゆえに、ライモンドは商人になるように取って置かれた。しかし彼らの心の奥深くで、彼の母親もまた彼の父親もそのような将来がこの例外的な少年のために取って置かれているということを信じなかった。一度、ある人が彼らはライモンドにこのことを確証させたと指摘している。「おまえが商人になったら、私は女王様になっているわ」と母親が言った。「そしてわしは司教になろう」と父親がすばやくつけ加えた。

しかしそうこうしている間に、家族は決定されたようにする以外に別のことをすることができなかった。彼らは一人以上の勉学のために準備する十分なお金が無かったからである。そして二人の間では最初に生まれたフランシスが優先的な立場を持っていた。

神が介入なさる

しかしある日ライモンドはヴェンソン・グレカ(Vencon greca)と呼ばれるある粉末を買うために薬局に行かなければならなかった。

「ヴェンソン・グレカをすこしいただけますか?」彼は薬剤師に尋ねた。

薬剤師はこの子どもの口から出るヴェンソン・グレカという言葉を聞いてびっくりし、彼に尋ねた。「どこからヴェンソン・グレカという発音を学んだの?」

「僕はそれがラテン語の名詞だということを知っているよ。僕は兄さんのフランシスと一緒にラテン語を勉強してるんだから。」

「どの学校に行っているの?」

「僕はもう学校には行かないんだ。行けないんだよ。僕たちは貧しいの。そして母さんとパパは兄さんのフランシスだけを学校にやることに決めたんだ。兄さんは司祭になるために勉強を続けるんだ。」

「で、君は?」

「僕は家で両親の仕事を手伝うんだ。」

「君が勉強を続けられないなんて気の毒だな。」薬剤師は叫んだ。そして考え深げな沈黙の後でこう言った。「お聞き、坊や、毎日私のところへおいで。そうしたらただで君に授業をしてあげるよ。私が君に準備をしてあげ、君は兄さんと一緒に学年末に試験に合格することができるよ。」

この予期していなかった機会にライモンドの喜びがどんなに大きかったか想像してください。閉ざされたと思われた彼の夢の扉が開いた。家で彼は幸せそうにこのニュースを打ち明けた。直ちに彼はその摂理的な薬剤師と共に授業を始めた。

彼は持っていたすべてを勉強に注ぎ込んだ。そして兄と共に国家試験通過に努めた。

つづく

2004/02/27 三上 茂 試訳

作成日:2004/02/27

最終更新日:2004/02/27

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