ファチマの聖母マリア

ファチマにおける荒廃をもたらす憎むべきもの

The Fatima Crusader, Isuue 75, Winter 2004より

2003年10月10-12日にファチマ聖堂で開催された「人間の現在--神の未来」というずうずうしい表題を持ついわゆる諸宗教間会議に関連して、以下の声明がポルトガルの新聞において、ファチマ聖堂主任司祭モンシニョール・ゲッラに帰された。「ファチマの未来、あるいはこの聖なる神殿における神とその御母の崇拝は異なった諸宗教が混じり合うことができる一つの神殿の創造を経験しなければならない。ポルトガルおよびカトリック教会における諸宗教間対話はまだ萌芽的な局面にあるが、しかしファチマの聖堂はこの事実に無関心ではない、そしてすでに使命の普遍主義的場所へと開かれている。」

ニコラス・グルーナー神父、S. T. L., S. T. D.(Cand.)によるいくつかの省察


上に挙げたこの声明は聖堂主任司祭モンシニョール・ゲッラに帰されている。そして彼はまだ、引用された言葉が彼のものであることを認めるのか、あるいは否定するのかという要求に答えていない。いずれにせよ、会議の全体的テーマは聖堂役職者たちに直接の接触を持っている地方新聞、Noticias de Fatimaの10月24日版に提示された。会議の見出しはこう述べている:「[ファチマの]聖域は宗教的多元主義に開かれる」そして「異なった諸信条の聖域」。同じ新聞は英国国教会の牧師たちが「正教会、ヒンドゥー教徒たち、仏教徒たち、そしてイスラム教徒たち」と並んで「初めてファチマへ公式に招待された」ということを認めている。モンシニョール・ゲッラは、異なった諸宗教のこの雑多な集まりは「最初の一歩である。われわれは、われわれが未来においてそれらを信用することができるかどうかを見るために諸々の橋の構造を吟味することによって始めるポルトガルにおける技術者たちのようなものである」と満足して言っているものとして直接的に引用されている。

何に向かっての最初の一歩? 何への橋か? 明らかに「諸宗教間」ファチマ聖堂へ向かっての一歩であり橋である。その場にいた忠実なカトリック教徒たちがこの会議の途方もないテーマと明白な傾向に抗議したとき、ゲッラは彼らを「旧式で、狭量で、狂信的な極端論者そして挑発者たち」として非難した。

私はファチマにおける聖なる聖域のために明らかに計画されている憎むべきものについて友人である一人の司祭に話した。すると新聞の報道を見ての彼の最初の反応はそれは一つの冗談に違いない、そのニュース報道は今日の教会にはいかに悪いことがあるかについての一つのパロディであるに違いないというものだった。

しかしそれは真実だった。それはさまざまの世俗の新聞記事において報道されている。そしてそれはまたファチマ聖堂そのものの公式新聞Voz de Fatima(ファチマの声)2003年11月13日にも出ている。とりわけ、Voz de Fatimaはゲッラに帰せられた声明以来13日が経過していたけれども、私がそれでこの省察を始めた引用のモンシニョール・ゲッラへの帰属を否定していない。そのことのために、彼は世界中からインターネットを含む抗議を受け取った。Voz de Fatimaは10月24日のNoticias de Fatimaにおいて特ダネにされた同じ写真:異なった諸宗教の「代表者たち」の長い、公式の「諸宗教間」行列の一部として並んで歩いている一人の聖公会聖職者と一人の正教会聖職者を誇らしげに載せている。この行列は御出現の場所に建てられた元のチャペルからファチマの聖母の栄誉のために建てられたバシリカまでを歩いた。これは、実際、聖なるロザリオの月の間にそして太陽の奇跡の記念日に行われた今年で一番大きな行列の一つであった。

その象徴的意義はそれ以上に明白ではあり得ないであろう:異なった諸宗教は聖母がそこでロシアと全世界のカトリック信仰への回心をお求めになったまさにその場所で一つの行列において等しいものとして歓迎され、扱われているのである。

諸宗教のこの「会議」によって脅迫された憎むべきものはまた、その会議に出席し、デュピュイ神父によって公言された異端と背教を彼自身の耳で聴いたジョン・ヴェナリのような、目撃証人の説明によっても確証された。そのデュピュイ神父の話に対しては教皇使節ならびにキリスト教一致促進教皇立委員会のヴァチカン委員長フィッツジェラルド大司教を含む出席した聖堂主任司祭、他の高位聖職者たちによって拍手と他の承認のしるしが与えられたのである。

私が言ったように、モンシニョール・ゲッラは新聞の説明において彼に帰せられた声明を彼が否定するというさまざまの要求に答えなかった。ヴァチカンはそれが世界中に引き起こした憤慨のゆえにその出来事からは距離を置こうと努めている。フィッツジェラルド大司教はローマに帰った後に、会議は「教会と現代世界における聖域の『諸宗教間の次元』に関する『進行中の省察の一部』にすぎない、しかし『いかなる実際的な結論もなかった』」と主張した。注1)いかなる「実際的結論」も--まだ--ない。

しかし、これらの省察が書かれている日付(2003年12月1日)の時までは少なくとも、どの教会当局者も暴挙であるファチマに一つの諸宗教間聖堂という考え全体を絶対的に否定はしなかった。どの教会当局者もモンシニョール・ゲッラが言ったとして引用されていること--すなわち、聖堂は異なった諸宗教が混ざることができる一つの場所にならなければならないと言ったこと--を言わなかったと公に主張しなかった。どのヴァチカンの当局者もゲッラに帰せられている声明に含まれたまさにその考えを非難しなかった。聖堂自身の新聞でさえ、「会議」の1ヶ月以上も後に、そしてゲッラに帰せられた指摘が報道において流され、インターネットで世界中に公表された数週間後にも、否定を発表しなかった。

ところで、モンシニョール・ゲッラはヴァチカン当局内部の強力な支持者たちなしにそのような声明をしなかったであろう。彼は向こう見ずの愚かな人ではない。彼は彼の声明が「会議」に出席したヴァチカン代表者たちによってよく受け取られるであろうということを知っていた。彼らはまた同じ会議で彼の演説において述べられたデュピュイ神父の諸宗教間異端に拍手したのである。(この号におけるジョン・ヴェナリによるファチマ、異教徒間の聖堂になるか? そこにいた者からの報告を見よ)

おそらくヴァチカン当局は今やゲッラが打ち上げた試揚気球をしぼませようと努力している。しかし試揚気球は、明らかにカトリック教徒たちがどのように反応するかを見るために、打ち上げられたのだ。第二ヴァチカン公会議の名において--もはやわれわれの父祖のカトリック信仰を持たない人々によって--われわれに押しつけられている新しい宗教の御用達はよきカトリック教徒たちの反応を単純に軽視することはできないということを知っている。新しい宗教のこれらの人々は、現在彼らがやっていけるものが何であるか、そして他の日のために何を期待しなければならないかを見るために彼らの試揚気球を上げる必要があるのだ。もしそれがうまく行かなければ、試揚気球は引っ込められ、そして彼らはカトリックである振りを続ける。彼らが新しい宗教のこれらの試揚気球を打ち上げているというまさにその事実は彼らがもはや[カトリック]信仰を持たないということを示している。われわれは彼らに、われわれが彼らが何をやっていたか知っていると告げなければならない。われわれは脅迫された憎むべきものはいかなる時にも決して起こらないということをそれに見せるために積極的な措置を講じなければならない。

荒廃をもたらす憎むべきもの

旧約聖書において預言者ダニエルは、そして新約聖書においてイエズス御自身は、未来のある時に聖なる場所に「荒廃をもたらす憎むべきもの」が立つであろうと予告しておられる。われらの主が警告されたように、この出来事は大懲罰の近い接近のしるしであろう:

「預言者ダニエルによって言われた『荒廃をもたらす憎むべきもの』が聖なる場所に立つのを見たならば、--読む人は悟れ--そのとき、ユダヤにいる人は山に逃げよ。屋上にいる人は、家の中から物を取り出そうとして下におりてはいけない。また、畑にいる人は、マントを取りにもどってはいけない。そのとき、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。あなたたちの逃げるのが、冬または安息日にあたらないように祈れ。そのときには、世の初めから今にいたるまでかつてなく、また今後もないような、大きな苦難が起こるからである。もしその苦難の日日が縮められないならば、救われる人は一人もいないであろう。しかし、選ばれた人たちのために、その日日は縮められるであろう。」(マタイ 24:15-24)

それゆえに、それはある未来の時に神が、一にして真なる神、いとも聖なる三位一体、天地の創造主に捧げられた一つの聖なる場所を悪魔とその従者たちに神聖冒涜することをお許しになるであろうという神の啓示の問題である。

神は短い期間この神聖冒涜をお許しになるであろう。そしてそれは、もしわれわれがそれをそう呼ぶことができるならば、小さな神聖冒涜ではなくて、非常に重大な神聖冒涜--可能な最悪の神聖冒涜、預言者ダニエルに言及しながら、われらの主が「荒廃をもたらす憎むべきもの」と呼ばれた神聖冒涜--であろう。

今ファチマのために計画されていることは、たとえそれがわれらの主によって予告された荒廃をもたらす憎むべきものではないとしても、少なくともその究極的な神聖冒涜の一つの先触れである。それは一つの聖なる聖域--ファチマにおける聖母の栄光化された身体のまさに物理的現前によって選ばれ、奉献され、聖化された一つの聖なる場所--に加えられる最も重大な憎むべきものであろう。

先ず第一に、1917年ファチマにおける聖母の御出現は、近代主義者たちが主張するであろうような、3人の子どもたち、フランシスコ、ヤチンタそしてルチアの精神における単に一つの心像ではなかったということを指摘しよう。そうではない、それはその実際の物理的身体--祝せられたおとめマリアの栄光化された身体--、聖母の地上の生命の終わりの後に被昇天において天へと上げられたその同じ身体における聖母の御訪問であった。それは地上へと戻られ、ファチマのトキワガシの木の上に立たれた汚れなきマリアの栄光化された身体であった。

そしてそうなのだ。聖母は木の上に立たれたのだ。われわれは、群集の中の人々がその木が、あたかも誰かがその頂点に立っていたかのようにたわむのを見たと報告したがゆえに、このことを知るのである。その誰かというのは祝せられたおとめマリアであった。奇跡は子どもたちが聖母を見ることができたということではなかった。そうではなくて、人々が聖母を見ることができなかったにもかかわらず、彼らが木がたわむのを見ということが奇跡なのである。そして彼らのうちの多くの者が1917年9月13日に聖母が運ばれた聖なる乗り物を見た。

われわれは、そのとき、栄光ある神の御母の物理的現前によって聖化されているファチマの場所について話している。そしてファチマは世界における唯一のそのような場所ではない。聖母の物理的現前によって聖化された場所の別の例はスペインのサラゴサ(Zaragoza)である。そこへは教皇ヨハネ・パウロ二世が巡礼をなさった。1世紀に、聖大ヤコブがスペイン、現在のサラゴサで福音を説教していたとき、彼が得た貧弱な結果のゆえに彼は非常に落胆した。祝せられたおとめマリアは、まだ天には上げられず、なお聖地で生活しておられたが、--パードレ・ピオのような聖人たちがそうすることで知られていたように--サラゴサへバイロケーション[同時に異なる場所にいることができる特殊能力の行使]によって来られた。そして彼と話をし彼の悲しみの時に彼を励ますために聖ヤコブの前の柱の上に立たれた。今日まで、聖母がその上に立たれた柱は今も尚、一つの大きなバシリカによって取り囲まれて、存在している。柱それ自体は1マイル以上の高さであるが、その最後の10フィート以外は地中に埋められている。

もし神がサラゴサで聖母が立たれた地点を、その上に聖母が立たれた柱を現在にいたるまで完全に無傷で汚されないままに保存されたほどにそのように聖なる場所であると考えておられるとすれば、確かに神はまた、ファチマで聖母が御出現になった場所を聖なる土地として無傷で汚されないままに保存することを意図しておられるのである。

聖母の物理的現前によって聖化された他の聖なる場所はイタリア、ロレット(Loretto)において見られる。1294年A.D.に天使たちは、大天使ガブリエルが祝せられたおとめマリアに現れ、そしてマリアが救い主の御母となることに自由な同意を与えられた聖なる家を聖地からロレットまで運んだ。天使たちは聖なる家をイスラム教徒の侵略者たちによる神聖冒涜から護るためにそうしたのであった。その同じ聖なる家は今日まで一つの聖なる場所として保存されている。そしてそれもまたローマにある聖ペトロの墓がそうであるのと同じように、ヴァチカン国家の一部である最も美しいバシリカによって取り囲まれている。

さて、神の御母の物理的現前によって聖とされた場所を奪い、それを偽りの神々の礼拝へと開くことによって、それを偽りの諸宗教のすべての様式の実践者たちのために利用可能とすることによって、それを汚すことは決定的に一つの憎むべきものである。

もしこの憎むべきものが侵略軍による銃の間際まで課されたならば、それは十分に悪いことであろう。しかしファチマにおけるこの憎むべきものは実際にこの憎むべきものの計画を新聞で、そして「神の未来」に関する彼の会議に関連して告知したファチマ聖堂の主任司祭、モンシニョール・ゲッラを含むカトリックの聖職者たちによって提案され、あるいは見逃されているのである。ヴァチカンの代表者たちおよび他のカトリック高位聖職者たちはこの暴挙を知っているが、彼らのうちの誰一人この公的なスキャンダルに対して公的な反対の声を上げなかった。

今までのところ、この憎むべきもの--それを偽りの神々の礼拝のための一つの場所にすることによってファチマ聖堂を汚すこと--は完全には遂行されてはいない。しかしながら、この基礎作業は、われわれがファチマにおける「神の未来」会議でデュピュイ神父によって提示された異端的、背教的な教え--上述のさまざまの役職者たちによって快く受け取られた偽りの教え--から見ることができるように、なされているのである。(ジョン・ヴェナリの報告「ファチマ、異教徒間の聖堂になるか? そこにいた者からの報告」を見よ。)これらの教会役職者たちは、彼らの黙認、同意、沈黙によってかあるいは拍手によってのいずれかで、デュピュイ神父によって説教された異端が、それがカトリック教徒たちの行動によって止められないならば、「新しい諸宗教間ファチマ聖堂」の創造に容易に反映されるということを合図しているのである。

それがあなたの地方のカトリック小教区であれ、バシリカであれ、司教座聖堂であれ、あるいは巡礼の場所であれ、何らかのカトリックの聖なる場所においてこの憎むべきもの[の罪]を犯すことは神に反する重大な違反であろう。しかし、キリスト御自身が非常に特別の仕方で愛し、尊敬されているその御母のまさに現前によって聖化され、御母に、そしてただ御母のみに取って置かれた聖なる場所におけるそのような憎むべきもの[の罪]を犯すことはもっと悪くさえある。

そのような聖なる場所を奪い、そしてそれを偽りの諸宗教の礼拝へと開くことは文字通りそれを悪魔自身のための礼拝の場所とすることである。なぜなら、聖パウロが教えているように、異教的な諸宗教の神々は悪魔たちだからである。ヒンドゥー教徒たち、仏教徒たち、シーク教徒たち、アニミズムの信徒たち--彼らは皆、たとえ彼らがそのことをはっきりとは意識していないとしても、悪魔たちを礼拝しているのである。明らかに、それでは、ファチマのために計画されていることは、たとえそれがわれらの主によって予告された荒廃をもたらす憎むべきものそのものではないかもしれないとしても、一つの荒廃をもたらす憎むべきものである

大背教

われわれはこの時代に生まれることを選ばなかった。しかし、われわれが見ることができるあらゆることから、われわれは聖書に予告された反キリストの時代にいるように思われる。聖ピオ10世が、聖母がファチマに来られるわずか数年前に、その最初の回勅E Supremiにおいて言われたように:「この大きな邪悪さがいわば最後の日々のために取って置かれている諸悪の前味わい、そしておそらく始まりではないか、そして使徒がそれについて語った『滅びの子』がすでに世界にいるのではないかを恐れる十分な理由がある。」ファチマ聖堂のまさに主任司祭がそれを悪魔たちの礼拝のための場所にしようと提案するとき、聖人とされたこの偉大な教皇は今日何と言われるであろうか?

背教は滅びの子、反キリストが来る前に、最初に起こらなければならない。ここで彼らは、反キリストが一つの偽りの宗教で世界を支配することができるように、一つの聖なる場所において荒廃をもたらす憎むべきものを打ち建てる準備をしている。ポルトガルにおけるカトリック教徒たちが、世界中のカトリック教徒たちによって参加されて、ファチマに荒廃をもたらす憎むべきものを打ち建てるこの提案に精力的に反対し、そしてその拒否を主張しないならば、彼らは彼らの指導者たちの罪を自らの上に負うのである。

シスター・ルチアが言ったように、悪魔は最後の闘いをする気になっており、そしてここに--まさにコヴァ・ダ・イリアの土地に--戦闘の場所を選びさえしたのである。悪魔の目的は、新しい宗教はそれでもなおカトリックであると信じるようにわれわれを欺く一方で、新しい一つの世界宗教を創ることである。この偽りの宗教に反対する人々、そしてそれによって欺かれない教会人たちは、4世紀におけるアーリア派の異端の時代においてそうであったように、自分たちが「破門され」、そして教会の「公式の」構造から追放されるのを見出すであろう。

第三の秘密を隠している

われわれが理解しなければならないことはこれである:われわれは悪魔の最後の闘いを目撃しているということ;背教はわれわれの周りのいたるところにあるということ、そしてそれはヴァチカンそのものの広間の中にさえ拡がっているということである。チアッピ(Ciappi)枢機卿が言われたように:「第三の秘密の中で、他のこともいろいろあるが、教会における大背教が頂点において始まるであろうということが予告されている。」それはそれ以外でどうしてあり得ようか? というのは、もし教会における大背教という聖書の預言が実現されるべきであるとするならば、それは悪魔が蚕食しなければならない所でであるからである。

2000年6月26日に、ラッツィンガー枢機卿とモンシニョール・ベルトーネは、殺される「白い衣を着た司教」についての幻視が「第三の秘密」であるとわれわれに告げたとき、われわれを誤り導いた。そうではない。せいぜいのところ、それは単に第三の秘密の一部である。秘密のより重要な部分さえわれわれに与えることが差し控えられた。

第三の秘密は教会における--ヴァチカンにおける頂点で始まる--背教の予告である。今やわれわれは、ファチマがすべての諸宗教のための一つの神殿とならなければならないと提案するモンシニョール・ゲッラによって打ち上げられたこの試揚気球と共にまったくあからさまにそれを見る。

教会の高位にある人々は第三の秘密の現実のテキストを彼らの手のうちに持っている。マザー・アンジェリカでさえ、われわれが第三の秘密全部をまだ受け取らなかったと自分は信じていると言い、彼女の疑惑を数百万人の目撃者たちの前で国民的テレビにおいて述べたのである。

何人かのヴァチカンの役職者たちはなぜ第三の秘密の残り--死体で溢れた半分荒廃した都市の外で一団の兵士たちによって処刑される「白い衣服を着た司教」の幻視を説明しているテキスト--を隠し続けるのか?

彼らは、このテキストにおいて、聖母が、その中核において、この荒廃へと導いた彼らの行動と彼らの計画を非難しておられるということを知っている。彼らは、彼らがまだそうできる一方で彼らには属していない権力と権威を簒奪することが彼らにとって有益であるということをその秘密のまさに言葉によって知っている。彼らは、その秘密が与えられた信徒たちに、その秘密が何を含んでいるかを知らせることを拒否している。彼らは、日本の暗号を解読し、真珠湾攻撃が差し迫ったものであることを知っていながら、その情報を隠した合衆国政府の頂点にいた人々に似ている。注2)なぜ彼らはそうしたのか? なぜなら、彼らは攻撃が起こることを欲したからである。彼らは戦争を正当化するであろう一つの挑発を欲した。そしてそれゆえに、彼らはわれわれが間に合うようにわれわれの防衛を高めることを欲しなかったのだ。

同じように、第三の秘密の内容を知っている人々はそれが信仰に対する攻撃--それに彼ら自身が参加している攻撃--を予告しているということを知っている。そして彼らは、われわれが彼らに対して自らを護ることができるようになるためにこの情報でわれわれが武装されることを望まないのである。彼らは、彼らの聖なる信頼を裏切る一方で、真珠湾の時代の合衆国政府の人々のように、王国の守護者を気取りたいのである。しかし神が預言者エゼキエルに警告されたように、「私はあなたを町の城壁の上の見張りとして指名した。そしてもしあなたがまさに攻撃しようとしている敵を見るときに叫び声をあげないならば、エゼキエルよ、私はあなたがあなたのすべての仲間の市民の死に対して責任があると考えるであろう。」司教というまさにその言葉は見張りに相当するギリシャ語に由来する。司教たちは、見張りであるエゼキエルと同じように、敵の進軍に対してわれわれに警告しないことについて神に責任があると考えられるであろう。

われわれにとって教皇が、一時的な期間にどのような諸結果があるにせよ、第三の秘密の全部の内容を明らかにされるよう要求することは重要である。なぜなら、荒廃をもたらす憎むべきものは反キリストの到来の先触れをするからであり、またヨハネ・パウロ二世自身がファチマのメッセージを、教会の奉献された霊魂たちの三分の一を彼らの高い地位から悪魔への奉仕へと、そして次に地獄へと掃き落とす竜の尾を避けるようにわれわれに警告している黙示録の書物に結びつけられたからである。教皇はその公表された部分において明らかにされなかったファチマ・メッセージについて何かあることを知っておられる。にもかかわらず、教皇は、われわれにただその内容のヒントだけを与えて、隠されたテキストを公然と発表することを制止されてこられた。

カトリック教徒は祝せられたおとめがわれわれ忠実なカトリック教徒に持つように意図された戦いの計画の現実的な言葉に対して権利を持っている。なぜなら、それこそが第三の秘密があるところのもの:悪魔の最後の闘いとその闘いが教会によってどのように勝利すべきかについての活力ある知性である。

秘密のテキストを隠している人々は、われわれが正確に何をしなければならないか、正確に誰が背教者であるのか、正確に教会における現在の危機にどう対処するのか、を知ることができるように、それを世界に公表しなければならない。明らかにわれわれに説明されるこのすべてのものは信徒が理解し、それについて熟考することができる単純な言葉において[でなければならない]。

誰も--シスター・ルチア、教皇、枢機卿たち、何らかの力において第三の秘密を見た者は誰も--秘密のテキストを隠す誓いによって縛られることはできない。いかなる誓いも神がわれわれの利益のために教会に委ねられたものを押さえつけることはできない。秘密はその全体において明らかにされなければならない。共通善がそのことを要求する。教会の安全、世界の安全、霊魂たちの救いがそのことを要求する。ヴァチカンがわれわれに見ることを許した第三の秘密の幻視の部分において、一人の教皇、位階の成員たち、膨大な数の平信徒が半分廃墟になった都市の外で殺されるのが見られる。教皇は彼自身の死への途上で多くの死体を通り越してとぼとぼ歩いて行くのが見られる。われわれは神御自身によってなぜ未来にこのことが起こるのか、そしてそれを妨げる、あるいはそれを最小にするためにわれわれは何をすることができるかを学ぶ権利を与えられている

カトリック教徒たちは何をすべきか?

そして今、2003年10月および11月に、彼らは単に第三の秘密と全体としてのファチマ・メッセージばかりでなく、カトリック聖堂としてのファチマそれ自体を、それを神聖冒涜することによって、ファチマが何であるかを知っている信徒を追い払うことによって、もしその場所が神聖冒涜されるならば、そこへ行くことを不可能とすることによって葬り去ろうと努めている。

そして同時に、彼らはこの聖なる場所を、騙されやすい人、軽率な人、信用しすぎる人を、彼らがカトリック信仰として提示する彼らの背教の中へ入るように誘惑する一つの道具として用いている。それは事柄の悪魔的な本性である。彼らは単にファチマ・メッセージを葬ろうと努めているだけではない。彼らは一つのカトリック聖堂としてのファチマを葬ろうと努めているのである。

カトリック教徒はこの問題において誤った従順への呼びかけを受け入れるべきではなく、受け入れてはならない。彼らは宗教的指導者たち--たとえ教皇自身がこの憎むべきものを承認されたとしても--に対する尊敬がわれわれにそのような重大な悪に直面して追従的な沈黙を守るように要求するというどんな主張をも拒絶しなければならない。カトリック教徒は、ヴァチカンを代表している司祭たち、あるいは大司教たち、あるいは枢機卿たちがこの憎むべきものの前で拍手をし、あるいは沈黙を守っているがゆえに、それが神に受け入れられ得るものであるにちがいないと結論することが安全であると考えてはならない。

カトリック教徒は力強く動かされなければならない。多くのカトリック教徒は霊的に無気力になってしまった。そして彼らの無気力と信仰の弱さは彼らをほとんど霊的死の点にまで弱めてしまった。彼らは、この背教の時代に彼らの兄弟たちの残りの者たちと共に落ちて行かないように、霊的活力、霊的熱心、霊的生命力、霊的光のために祈らなければならない。なぜなら、聖書はわれわれに、眼の見えない者、眼の見えない指導者たちに従う者は地獄の穴の中に落ち込むと警告しているからである。

彼らは、われわれが、聖書が予告した点--一つの欺く影響力が、彼らが真理を愛さなかったゆえに教会の成員たちの間に送られるであろう時(2テサ 2:6-12)--に達しているということを理解しなければならない。われわれはもしそれが可能であったら、選ばれた者でさえ欺かれる(マタイ 24:24)地点にいる。そしてわれわれは、広い門は滅びへ至る道であるがゆえに、狭い門から入るよう努めよというわれらの主の勧告を思い起こさなければならない。

われわれはファチマ聖堂を異教の偶像崇拝のための神殿にしようとする人々と親しく交わることはできない。われわれはそのような人々との親しい交わりを欲しない。われわれはすべての時代のカトリック教会との親しい交わりを欲しているのであって、ファチマ聖堂主任司祭、そして彼のような他の人々が真実の教会の代わりに建てようと努めている偽の教会との親しい交わりを欲しているのではない。

主任司祭、モンシニョール・ゲッラについて言えば、われわれは彼の直ぐさまの辞任以外の何も受け入れてはならない。ファチマの司教が彼を支持するとしても問題ではない。リスボン首座大司教が彼を支持するとしても問題ではない。誰が、--世界の全司教でさえ--彼を支持するとしても、それは問題ではない。主任司祭は辞任しなければならない。

ポルトガルの人々そしてファチマ巡礼者はモンシニョール・ゲッラがそこにいる限り、聖域のためのいかなる献金にも1ユーロも与えてはならない。彼らは彼が司式する、あるいは共同司式するいかなるミサを支持し、あるいはミサに出席してはならない。あなたがファチマ聖堂に捧げない金銭でもって、一つの真の宗教への回心を通じて偽りの神々への彼らのつながりから霊魂たちを救おうとしている真の神の礼拝を促進する真のカトリック教徒を支えなさい。

主任司祭はもはやファチマの聖なる土地にいることを許されてはならない。彼は出て行かなければならない。彼はその職務を辞さなければならない。彼はファチマを去り、何であれファチマとのいかなる関係をも終わらせなければならない。彼がしたことに対して、彼はポルトガルから追放され、そしてヴァチカンから閉め出されるべきである。

これは極端だと思われるであろうか? いいえ、それはこの罪に対して当然のことであるにすぎない。そしてわれわれは一つの先例を持っている:グアダルーペの聖堂主任司祭が1995年にラジオで聖母がそこに御出現になったことを否定したとき、メキシコの人々は、彼の相応しくないことを理解して、彼の辞任と出国を要求した。メキシコの司教たちや他の者も彼の支持にまわったけれども、人々は、何が言われようと、全然動じなかった。彼らは主任司祭がこの職務に相応しくないことを知っており、彼の即座の解任を要求した。彼らは寄付金を与えようとせず、彼が最後に解任されるまで止むことなく公然と抗議した。それでさえ、ファチマの主任司祭にとっては良すぎる。

聖人たちはどうするであろうか? 聖ヨハネ・グアルベルト(St.John Gualberto)はわれわれに一つの例を与えた:彼はフィレンツェの人々に直接に、当時のフィレンツェの堕落した司教が彼の職務のために金銭を支払ったことを告げた。聖ヨハネは彼の司教に対する証言が真であることを一つの奇跡によって証明した。そして人々自身が堕落した司教をフィレンツェから追い出した。それはモンシニョール・ゲッラに関してなされる必要のあることである。

それは人々にかかっている。シスター・ルチアが言ったように、われわれは教皇から来る痛悔の呼びかけを待っていてはならない。司教たちあるいは修道会から来る痛悔の呼びかけを待ってはならない。われわれ自身を霊的に満たし、われわれの道に神が置かれた人々を助けることはわれわれ一人ひとりにかかっている。(この号にある「世界の最後の時」を見よ。)

われわれは大懲罰、すべての懲罰の中でも最悪のもの:背教に陥り、無数の霊魂を彼らと共に引き連れるファチマとヴァチカンにおいて高い役職についている聖職者の懲罰、の時代にいる。教皇自身が、第三の秘密について彼ができると考えた多くのことをわれわれに告げながら、2000年5月のファチマにおけるその説教の中で奉献された霊魂たち[聖職者たち]を引きずり落とす竜の尾について言及された。

竜の尾によって引きずり落とされたこれらの高位聖職者たちと関わりを持ってはならない。われわれは今、彼らの実がまさにわれわれの眼前にあるのを見ている:彼らは、カトリックの聖域、カトリックの聖なる場所を奪い、それを悪魔たちの礼拝の場所へと変えようとしているのだと宣言している。もしわれわれがこの憎むべきものによって憤激しないならば、そのとき、それを犯した人々に何か悪いことがあるだけではなくて、われわれに何か悪いことがある。

だからこそ、われわれは聖なる怒りを必要としている。「怒りなさい、そして罪を犯すな」と聖書は言っている。われわれはこのことに怒らなければならない。そしてわれわれは、自分たちにできるあらゆる手段を用いてそれに精力的に反対しなければならない。われわれは生ぬるい仕方でそれを受け入れることはできない。さもなければ、われわれはわれらの主の口から吐き出されるであろう。このことについてもしわれわれが何もしないならば、われわれは生ぬるいカトリック教徒である。そして聖書がわれわれに教えているように、イエズスは「あなたは熱くもなく冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(黙示録 3:16)と警告なさったのである。

旧約聖書の中で、ピンハスは彼自身の宗教の高い地位にある人々が、一人の女の偽りの神に忠順を尽くして彼女と不純な行為をすることを含む偶像崇拝の行為を行うことによって異教の神を称えるのを見た。ピンハスがこの霊的な売春とそれが彼の民に与えた効果を見たとき、彼は自分の短剣を引き抜きそして彼らを二人とも突き刺した。そしてその瞬間に神はイスラエルを苦しめている疫病を引き上げられた。なぜなら、大きな冒涜が剣によって終えられたからである。ピンハスは神の聖なる礼拝を汚した者を殺すことによって直接的な行動を取った。そして神はイスラエルの民の命を助けることによって第一戒のあの擁護に報いを与えられた。ピンハスの名前は唯一の真なる神の礼拝を擁護する彼の正しい熱心と怒りのゆえに今日にいたるまで尊敬のうちに保たれているのである(民数記 25:6-13)。

私は今日そのような暴力を擁護しない。なぜなら、ファチマにおいて脅かされている憎むべきものを妨げる他の手段があるからである。しかし旧約聖書の例はわれわれにこの種の憎むべきものが神の目にどのように重大であるかを教えている。そこで、霊において、彼らの神殿の神聖冒涜、神が彼らにお与えになった彼らの宗教の神聖冒涜を支持しなかった旧約聖書のマカベーたちのようであろう。彼らは、もしそれが神聖冒涜を止めるための唯一の道であったならば、むしろ物理的な武器でもって闘うであろう。われわれは救いのために、そこで世界がわれわれの時代のための預言的メッセージを与えられたわれわれのカトリック聖域の擁護のため、そしてファチマの擁護のために、同じ活力を見習わなければならない。

異教の偶像崇拝の売春を聖所の中へ持ち込むことによってこの憎むべきものの犯罪者たちは彼らの単なる物理的身体ばかりでなくて、彼らのまさに霊魂を売春するのである。これは前者よりも遙かにもっと悪いことである。われわれは、この憎むべきものを非難するのに司教たち、枢機卿たちあるいは教皇を待つ必要はない。教皇そして枢機卿たちがそうしようとしまいと、立ち上がってそれを非難することはわれわれの義務である。彼らは神と教会に対して彼らの義務を負っている。しかしわれわれもまたそうである:その義務とは立ち上がって公然と、また私的に、反対する義務である。

われわれの聖なる堅振によってわれわれはキリストの兵士として堅められている。闘う教会の兵士として、われわれは言葉によってと同様に行動によってカトリックの聖域を護らなければならない。われわれはこれらのもぐり業者たちの犯罪的行動を非難しなければならない。主御自身の例に従って、われわれは、もしそれが必要であるならば、鞭でもって彼らを追い出すことさえできるであろう。なぜなら、これらの泥棒たちはわれらの主が神殿から追い出された強盗の巣[マタイ 21:13]よりも悪いからである。ここでわれわれは神殿そのもの、ファチマのまさに聖堂そのものを盗み、それを異教の偶像崇拝へと引き渡そうとしている強盗の巣を論じているのである。

祈り、償いをしなさい

これらの行動の他に、われわれはまた祈り、償いをしなければならない。聖母と大天使がファチマで子どもたちに教えられた祈りは現在のわれわれにとって一つのよい教訓である。聖母が彼らに教えられた最初の祈りの一つはこうであった:「おお、いとも聖なる三位一体よ、私はあなたを礼拝します。私の神、私の神、私はいとも聖なる秘蹟[御聖体]においてあなたを愛します。

聖母が彼らに教えられた最初の事柄は聖なる三位一体を礼拝することであった。聖なる三位一体:すなわち御父なる神、御子なる神、そして聖霊なる神、である唯一の神が存在する。それゆえ、すべての非キリスト教宗教は偽りの神々を礼拝しているのである。そのことは、イスラム教徒たち、ユダヤ教徒たち、すべての種類の異教徒たちは偽りの神々を礼拝しているということを意味する。

第二の祈りにおいて、天使は子どもたちにこう祈るように教えた:

おお、いとも聖なる三位一体、御父、御子そして聖霊、私はあなたを深く礼拝し、それによってキリストが背かれておられるすべての冒涜、侮辱そして無関心を償うために、イエズス・キリストのいとも貴重なる御体、御血、御霊魂そして神性をあなたに捧げます。そして私は、あなたが哀れな罪人たちを回心させてくださるように、イエズスのいとも聖なる御心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳に頼ります。

神に対する礼拝の第一の行為は真の神、一なる神、唯一の神を礼拝することである。われわれはわれわれの前にいかなる偽りの神々をも持ってはならない。われわれはいかなる種類の偽りの神々をも礼拝してはならない。またわれわれはいかなる仕方においてもわれわれのカトリックの礼拝の場所を偽りの神々の礼拝に貸すことはできない。われわれは他の人々がわれわれの聖域において第一戒を侵害することを許すことはできない。もしそれらを止めることがわれわれの力の範囲内にあるならば、われわれはそうしなければならない

今日まで異端的な見解を持ち、そしてそのことのゆえにカトリック教会のメンバーではない男女の組織された諸団体が存在している。もし彼らがその状態で死ぬならば、そのとき彼らは天国に行くことから除外されている。

「おお、いとも聖なる三位一体、御父、御子そして聖霊よ、私はあなたを深く礼拝します。」ファチマの幻視者たちはこの祈りをいとも祝せられた秘蹟[御聖体]の前で何時間も祈った。そしていとも祝せられた秘蹟はただカトリック教会においてのみ見られる。いかなるプロテスタント教会も祝せられた秘蹟を持っていない。正教会は祝せられた秘蹟を持っているが、しかし合法的には持っていない。なぜなら、彼らはローマにおける教皇からの分離のうちにあるからである。いとも祝せられた秘蹟のおいて神を礼拝しない宗教はわれわれの聖域においていかなる場所をも持たない。

「おお、いとも聖なる三位一体、御父、御子そして聖霊よ、私はあなたを最も深く礼拝します。そして私は世界のすべての聖櫃のうちにましますイエズス・キリストのいとも貴重な御体、御血、霊魂そして神性をあなたに捧げます。」われわれはいとも聖なる神がいとも祝せられた秘蹟のうちにましますファチマの聖堂で、あるいは他のいかなる場所で起こるファチマのために計画されたこの憎むべきものを許すことができない。

ファチマの主任司祭の言葉--客観的に言って、私は彼の心を判断しない--は一見したところまさしく分派的である。ファチマは異教的偶像崇拝者たちのための礼拝の場所でなければならない--彼はそれを彼に帰せられた一つの引用として否定していない--という彼の宣言は彼を教会から、信仰と信念の一致から、礼拝の一致から切り離す。

われわれは神に償いの行いを捧げなければならない。償いの最も強力な行為は、この侮辱といとも聖なる秘蹟におけるイエズスに対する他のすべての侮辱を償うために、祝せられた秘蹟、世界のすべての聖櫃にましますイエズス・キリストのいとも貴重なる御体、御血、霊魂そして神性、を神に捧げることである。

次になすべき事柄は、哀れな罪人たちの回心のためにイエズスのいとも聖なる御心の無限の功徳とマリアの汚れなき御心の功徳に頼ることである。天使は子どもたちに真の神を礼拝しない人々、真の神を信じない人々、真の神に希望しない人々、そして真の神を愛しない人々のために祈るように教えた。

われわれは諸々の回心のために祈らなければならない。われわれは先ず第一に、彼らの無関心、彼らの怠惰、かれらの活力の欠如、祈りの欠如、熱心の欠如、そして彼らの偽りの従順と偽りの謙遜によって、ファチマにおける会議に関連する試揚気球として進められさえするほどのそのような侮辱を許した聖職者たちのために祈らなければならない。この憎むべきもののまさに公的な提案、あるいは--フィッツジェラルド大司教の言葉を用いれば--この憎むべきものについての「省察」は一つの大罪である。

われわれはまた、無知あるいは人間的弱さからこの憎むべきものに協力している哀れな罪人たちの回心のために祈りを捧げなければならない。われわれはまたこの憎むべきものを促進する間に彼らの心を悪意に満ちてかたくなにした人々の回心のためにも祈るであろう。彼らの回心は遙かに大きな祈りと犠牲を必要とする。しかし少なくともわれわれは、彼らがそれ以上の害を及ぼすことから妨げられるように、祈り、犠牲をすべきである。

われわれはまた祝せられた秘蹟の前で償いの聖時間を作るべきであり、そして他の人々にもそうさせるべきである。

いつものように、そしてファチマの聖母が要求なさったように、われわれはロザリオの祈りをするべきである。ファチマの聖母は毎日ロザリオの祈りをするように言われた。聖母は多くの霊魂は、彼らのために祈りそして犠牲をする人を誰も持たないがゆえに、地獄に行くのですと警告なさって、罪人たちのために祈りそして犠牲をするようにわれわれに勧められた。彼らのために祈るだけでは十分ではない。われわれは彼らのために祈り、そしてまた犠牲をしなければならない。

これらのことはわれわれ皆がすることができることである。われわれはこれらのことをするために教皇あるいは何らかの教会の権威の許可を必要とはしない。われわれは自発的にそれらをすることができる。そしてわれわれはそれらを今することができる。ファチマで天使は子どもたちにこう言った:私と一緒に祈りなさい、と。彼は、来週、私と一緒に祈りなさい、とは言わなかった。彼はそれを今しなさいと言ったのだ。

ロザリオを祈り、犠牲をすること

今、犠牲を捧げなさい。われわれはどのように犠牲をすることができるか?

第一に、ファチマで天使が説明したように、「あなたがするすべての事柄を犠牲としなさい」。ある人々は、彼らが毛のシャツを着なければならない、あるいは、ファチマの子どもたちがしたような英雄的な償いをしなければならないことを心配している。ファチマの幻視者たちは、地獄の幻視を見た後、彼らの心の寛大さからそのように行動した。しかしわれわれは少なくとも、不満を言うことなしに、悲しむことなしに、われわれの周りの人々のために生活を憐れむべきものにすることなしに、われわれの日常生活によって要求される犠牲を捧げることができる。

われわれの日々の義務を不満なしに--単にわれわれのボスがそうすることをわれわれに期待しているがゆえにではなく、神がそうすることをわれわれに期待しておられるがゆえに--単純に行うことによって、われわれは犠牲をしているのである。償いの精神においてわれわれの日々の義務を行うことは神がわれわれすべてに期待なさっている犠牲である。われわれは神に対する愛からわれわれの日々の義務を果たさなければならない。それが神がわれわれから求めておられる第一の犠牲である。

第二に、われわれは罪の機会すらを避けることによって犠牲しなければならない。われわれは罪の機会--例えば、悪い映画、悪い文学、悪い仲間--に、何か実際の必要がない限り、単なる便宜あるいはわれわれ自身のための楽しみではなくて、霊魂を救うため、というような真の必要性がないならば--自らを置いてはならない。

第三に、われわれは、祈りに対するどのように大きな嫌悪を経験しようとも、われわれの日々の祈りを犠牲の精神でしなければならない。これは日曜日に敬虔にそして注意をこめてミサに出席することを含んでいる。これはまた、世間、肉そして悪魔から来る悪魔的な教説でわれわれを教え込むテレビの前に無分別に坐っていることよりはむしろ、霊的な読書をすることを意味している。われわれは、世間がテレビ、映画、書物、雑誌そして世間の他の諸々の影響を通じて提供するものを吸収するよりはむしろ、瞑想し、黙想すべきである。自然の不思議を眺めること、われわれの精神を創造主の美と善へと上げることさえ、テレビを見ることよりははるかによい。神は木々を創造なさった。神は日光を創造なさった。神は日没を創造なさった。神はこれらのものを神の栄光を省察するようわれわれのために創造なさったのだ。

われわれは、もしわれわれ自身が冒涜を行っているならば、効果的に荒廃をもたらす憎むべきものと闘うことはできない。冒涜することを止めよ!無駄に神の名を用いることを止めよ!

聖書が言っている(詩編 44:8)ように、「あなたは正義を愛し、悪を憎んだがために、神なる主はあなたのともがらのだれにもまさってあなたに油を注がれた」。もしわれわれがキリスト教徒であるならば、もしわれわれがキリストに従う者であるならば、われわれはまた善を愛し、悪を憎まなければならない。われわれは悪を善と呼び、善を悪と呼んではならない(イザヤ 5:20)。そのことは神の目から見れば一つの憎むべきものである。

われわれは善を愛さなければならない。われわれは悪であるものを憎まなければならない。これはわれわれが罪人を憎むということを意味しない。むしろ、われわれは、キリストの愛の律法が要求しているように、罪人を愛さなければならない。しかしわれわれは罪を憎まなければならない。

それゆえに、われわれは偶像崇拝を憎まなければならない、冒涜を憎まなければならない。われわれは背教を憎まなければならない。われわれは分派行為を憎まなければならない。われわれはこれらの悪の促進を憎み、正しい憎しみをもってそれらに反対しなければならない。われわれは、実際は彼らがユダたちであるときに、カトリック司祭の偽りのマントを要求している背教者たちを非難し、われわれの聖域から追い出さなければならない。

そして同時に、われわれは--背教者たちが葬ろうと努力し、教会に忘れさせようと努めている真のファチマ・メッセージを含む--真理を愛し、それをいたるところで絶えず促進しなければならない。

そしてもしわれわれが行動しないならば?

もしわれわれがファチマ聖堂--聖母が御出現になり、その物理的な現前によってまさに聖なる地となさった場所--にこのことを起こらせるならば、もしファチマの聖なる土地さえ最も聖なるものと主張されないならば、そのとき、彼らがあなた自身の地方小教区を奪い、そして異教徒たちに彼らの偽りの神々をそこで礼拝することをなぜ明日には許さないであろうか、その理由は何もないである。

われらの主は、もしあなたが人々の前で私を認めないならば、そのとき私[イエズス]は御父の前であなたを認めないであろう(マタイ 10:32-33; マルコ 8:38およびルカ 9:26, 12:8)と言われた。現在は、われわれがイエズスが真の神であり、真の人間であると真に信じるということをイエズスに証言するために呼ばれている時である。その証言はわれわれに、われわれの聖域を奪い、それらをプロテスタント、正教徒、ユダヤ人、仏教徒、ヒンドゥー教徒、アニミズム教徒、そしてあらゆる種類の偶像崇拝者たちに引き渡す司祭たち、司教たち、そして枢機卿たちさえに対して立ち上がることを要求する。

もしわれわれがこのことをしないならば、そのとき最後の日にわれらの主は御父の前でわれわれをお認めにならず、むしろ御父の前でわれわれを否定なさるであろう。われわれは、もしわれらの主が次の世においてわれわれを認めようとしておられるならば、この世で主を認めなければならない。

われわれにとって今はどちらかの側を選ぶ時である。われわれは神と悪魔の両方に仕えることはできない。選ぶべき時は今である。われわれのうちの誰一人中立にとどまることはできない。

1946年に共産主義者たちがポーランドを引き継ぐことを欲したとき、そこには一つの連合政府があった。共産主義者たちはただ二つの事柄だけを要求した:第一に、内務省と軍事省の支配。第二に、ポーランド議会では共産主義を誰も非難しない、あるいはいかなる仕方でも共産主義に反対して話さないこと。沈黙を課され、そして警察と軍隊が彼らの支配の下に置かれたので、共産主義者たちはポーランドを引き継ぐのにたったの3年しか必要としなかった。

教会におけるわれわれの現在の状況はポーランドにおける状況と平行している。第二ヴァチカン公会議のちょうど前に、教会は、その下では第二ヴァチカン公会議が共産主義を非難しない、あるいは言及すらしないというヴァチカン・モスクワ協定に従属させられた。そして長年にわたって、われわれは単に西側ばかりでなく、ちょうどロシア正教会がソビエト共産主義に適応させられたのと同じように世界に適応させられている教会それ自身に侵入する共産主義の諸々の誤謬を見た。ファチマ・メッセージでさえ第二ヴァチカン公会議以来の党の路線[ヴァチカン当局の方針]に適応させられている(悪魔の最後の闘い第8章を見よ)。ヴァチカンから教会に課せられている党路線は「世界との対話」、他の諸宗教への「開放性」、そして異端の断罪の終焉の一つである。これは彼らがしていることに対するすべての反対を沈黙させることを含んでいる:シスター・ルチアを沈黙させること、アロンゾ神父を沈黙させること、グルーナー神父を沈黙させること。、ファチマ・メッセージを沈黙させることは、実際にはファチマ聖堂を葬ることである。最後に、カトリック信仰そのものを沈黙させることである。

われわれはもっと早く反対に立ち上がるべきであったであろう。われわれがもしそうしていたならば、彼らは彼らが到達したほど遠くまでは達しなかったであろう。われわれはもはや待つことはできない。すべての者が皆、数千万の人々のカトリック信仰のために遅すぎるものとなる前に、立ち上がらなければならない。

われわれは、われわれができるどんな仕方ででも、声を上げなければならない。そのことはこの使徒職--その雑誌、リーフレット、ブックレット、ビデオテープ、オーディオテープ、テレビショー、ラジオショーそしてウェッブサイト--をあなたの献金によって、またそれを他の人々に注意させることによって、促進することを含む。

今はわれわれが目覚める時である。もしわれわれが目を覚まし、立ち上がり、声を上げないならば、われわれは問題の一部である。そしてもしわれわれがわれわれの沈黙によって荒廃をもたらす憎むべきものを認め続けるならば、われらの主は最後の日にわれわれを拒否なさるであろう。

信仰とファチマにしっかりすがりつこう

そしてそのすべてを通じて、われわれはファチマの聖母が「信仰の教義」と呼ばれたものにすがりつかなければならない。われわれはわれわれの聖なる伝統に堅くすがりつかなければならない。そしてわれわれはわれわれの時代の預言者たち--とりわけ、地上に来られ、世界にすべての時代の伝統的カトリック信仰を主張するためにトキワガシの木の上に立たれたファチマの聖母御自身--を擁護しなければならない。もしわれわれがこれらの事柄にすがりつき、それらを擁護するならば、そしてもしわれわれが毎日のロザリオを熱心に祈るならば、われわれは高位の地位にいる人々の嘘によって連れ去られることはないであろう。われわれは頂点から下までの教会のいたるところで、広まっている背教に屈することはないであろう。

脚注

  1. Catholic Times online, November 18, 2003.

  2. Rear Admiral Robert A. Theobald, U. S. N., Ret., The Final Secret of Pearl Harbor (Old Greenwich, Connecticut: The Devin-Adair Company, 1954). With a Forword by Admiral Halsey. See also Deirdre Manifold, Fatima and the Great Conspiracy, Buffalo, 1993, pp. 123-124.

2004/04/14 三上 茂 試訳

作成日:2004/04/14

最終更新日:2004/04/14

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