ファチマの聖母マリア

世界の奴隷化か、それとも平和か...
それは教皇にかかっている

第 XIV 部

補 遺 II

ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち

諸々の文書は示している:

汚れなき御心への[司教たちによる]共同的な
ロシアの奉献は世界平和のために必要である

アメリカの司教たちへのカーベリー枢機卿の書簡

最初の文書は、世界平和のための不可欠の条件としてのすべてのカトリック司教たちによるマリアの汚れなき御心へのロシアの共同的奉献に対する神による要求についての1917年から1981年までの歴史の優れた要約を与えている。それはミズーリ州、セント・ルイスの引退した大司教、カーベリー枢機卿によって準備された文書であり、1981年11月の司教会議の会合でのそれぞれのアメリカ司教の会議に対して彼によって与えられた。この提示の後に、アメリカの司教たちはもし教皇が勧められ得るものであり、時宜に適ったものであると考えられるならば、奉献の共同的行為を始められるよう、教皇ヨハネ・パウロ二世に請願することを一致して同意した。この文書は多くの興味深い事実を明らかにしている。

第 1 部

1981年11月7日

枢機卿閣下 / 司教閣下各位
セント・ルイス大司教(引退)ジョン・ジョセフ・カーベリー枢機卿から

共同的奉献:に関して

まず第一に、合衆国の司教たちが、教皇ヨハネ・パウロ二世がもしそれを勧められ得るそして時宜に適ったものと考えられるならば、世界の司教たちと一緒に同時にマリアの汚れなき御心に世界とロシアを奉献されるように、要求すべきかどうかに関する問題についての議論に関連して the varium をこの会議に提出することを許してくださったことに対して運営委員会に感謝を表明したいと思います。

varium のために指定された時間は限られているという事実を考慮して、私は問題のより完全な取り扱いと、それに付属した文書をこの書簡において提示することがよかろうと考えました。これは議論の前にその問題に関してより広範囲に考察する機会を各司教に提供するでしょう。

1. 1917年7月13日に、祝せられた聖母はファチマの子どもたちに話しながらこう言われました:「私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献を求めるために戻って来るでしょう。」1929年6月13日に、ルチアは聖母の御出現を受けましたが、その中で聖母は1917年のこの陳述について次のように詳しく話されました:「神が、教皇に世界のすべての司教たちと一緒に私の汚れなき御心にロシアへの奉献をするよう、お求めになる時が来ました。」

2. 故人となられた教皇ピオ十二世は1942年10月31日、第二次世界大戦の最中に、マリアの汚れなき御心に世界を奉献されました。そして彼はロシアに言及しているものとして明確に解釈され得る一つのほのめかしをされました。1952年7月7日に、使徒的書簡 "Sacro vergente anno" において、彼は一つの非常に特別な仕方でマリアの汚れなき御心にロシアのすべての人々を明白に委託しそして奉献されました。

3. 1964年11月21日、[第二]バチカン公会議の第三セッションの終わりに、故人となられた教皇パウロ六世は、彼が「教会の御母」として聖母に与えた新しい称号に言及された後に、サンタ・マリア・マジョーレ教会において公会議の司教たちの列席のうちに1942年に教皇ピオ十二世によって為されたマリアの汚れなき御心への世界の奉献を更新されました。われわれの多くはあの偉大な忘れがたい儀式に参列していました。

4. 他方において、シスター・ルチアが1942年における、また同様に1964年における奉献のことを知ったとき、彼女はそれが、聖母が要求されたように、すなわち、世界の司教たちと共に同時に、遂行されなかったことに悲しみを表明しました。これは現在われわれが直面している論争点であり、運営委員会が1979年に少しの間議論した論争点でした。聖母によって要求された諸条件はこれらの機会に遂行されたのでしょうか?

5. この問いに応えて、優れた学者であるホアキン・マリア・アロンソ博士、C.M.F. は、ルチアのすべての陳述と教皇ピオ十二世および教皇パウロ六世の宣言を比較考察した後に、歴史家が言い得るすべてはシスター・ルチアによって明白に記述され、忠実に報告された諸条件はすでに言及された二人の教皇の宣言において果たされたとは思われないということである、と結論しました。それぞれの場合に、それは同時的な奉献ではありませんでした。そして世界中の司教たちとの予めの相談がありませんでした。そして同様に、司教たちはマリアの汚れなき御心への世界とロシアの奉献をする際にある特定の時間に教皇に加わるように求められていませんでした。

6. 文書の中に、私は、故人となられた教皇パウロ六世に対して、1971年10月18日に、ポーランド、クラクフのウォイティラ枢機卿、クロル枢機卿、ポーランドの36人の司教たち、そして世界中から来た5000人のポーランド人の列席のうちに為された公開演説においてウシンスキー枢機卿によって行われた、マキシミリアン・コルベの列福式の翌日にポーランドの巡礼者たちに与えられた特別謁見において教皇に宛てられた一つのアッピールを含めました。彼の言葉は以下の通りでした:「教皇様、われわれは、普遍的教会および人類すべてを教会の母、マリアの母としての御手に -- 今回は、世界のすべての司教と一緒に -- 奉献されるよう、われわれの謙虚な、しかし大切に持ち続けた要求をあなたに提出します。

7. 1981年2月26日の日付の下に、私はウィシンスキー枢機卿に一通の手紙を書きました。それに彼は1981年4月16日、彼の死の直前に、返事をくれました。私は英語訳のコピーと彼が私にくれたポーランド語の原文を付けておきます。それは私が常に大切に保存するであろうあるものです。特に最後のパラグラフの次の言葉はそうです:「われわれは皆、教皇が世界のすべての司教たちと一緒に、神の慈悲深い御母の御手に、そこで、すべての人々に対する正義において、愛、友情そして平和において聖母の配慮の下に休らうために、彼ら自身と人類とを委ねるよう決心される瞬間を固唾を呑んで待っています。

枢機卿がロシアに明白に言及しておられないということは注目されてよいでしょう。しかし彼が共産主義政権の下で生活しておられること、また彼が言うどんなことにも最大の用心をすることを知っておられたということを思い起こさなければなりません。信頼すべき筋は、彼の郵便物は盗み見され、それが海外に送られることが許可される前に読まれていたと指摘しています。私はまた、私の英語の手紙を読んだ司祭の側にちょっとした誤りがあるということを指摘したいと思います。その手紙は、アメリカ司教団が1981年10月に祝せられた御母に合衆国を委ねることを計画しているという印象を与えました。私は私の手紙の中でただ、もし許可が与えられるならば、おそらくわれわれは会議でこの問題を議論するであろうということに言及しているにすぎません。

8. われわれの会議にとって、もし教皇が時は好機であり、行動は勧められ得るものであると考えられるならば、世界のすべての教皇たちと一緒にマリアの汚れなき御心にロシアと世界とを奉献されるように教皇に求めることを公表する時期が来たかどうかという問題が今や起こっています。

疑いもなく、問題全体は慎重な判断に属する事柄です。しかしながら、会議がその提案に関して好意的に行動するに際して行っているすべてのことは、教皇にそれを委ね、現在の時点で行動を始めることが勧められ得ることであり適切であるかどうかを決定することを彼の決定にまかせることです。

9. われらの教皇ヨハネ・パウロ二世は現在どのように考えておられるかと問われるでしょう。彼がマリアの汚れなき御心にポーランドを奉献する際に、1966年、さらに1969年、また同様に、1971年にポーランド司教たちに加わったと言うことができます。さらに、1980年11月/12月の Soul magazine の中に、次の引用が見出されました:「南アフリカのハーリー大司教は、マリアの汚れなき御心へのロシアの共同的奉献を求めるブルー・アーミーの請願を教皇が喜んでおられると述べた。またCOMEX(ブルー・アーミー国際実行委員会)は、1980年1月のローマでのその会議において、教皇が十分な[数の]司教たちが要求するときには共同的奉献をする気になっておられる、ということを知った。」

10. 最後に、1981年10月7日水曜日の朝、教皇は世界中からの巡礼者たちとの毎週の約束を再び始めるために聖ペトロ広場へ戻られました。彼の話題は彼が経験した、そして彼が最も感謝し、彼の健康を取り戻すために彼を助けた教会の祈りの効用でした。ある部分で彼は祝せられたおとめとすべての保護の聖人たちに彼がいかに負うているかについて話されました。われわれはこれらの言葉を実際に熟考することができます。

「私は、あの事件が、ポルトガル、ファチマでの貧しい小さな農民たちへのキリストの御母の最初の御出現が60年以上にもわたって想起されてきたあの日、あの時間に聖ペトロ広場において起こったということを忘れることができるであろうか? なぜなら、あの日に私に起こったあらゆることにおいて、私は致命的な弾丸よりも強いものに変わった並々ならぬ御母の保護と配慮を感じた。」(オッセルヴァトーレ・ロマーノ、1981年10月12日、p. 3)

提議を受け取るすべての人がそれを読み、それが運営会議で役立つものであることを見出すための時間を持たれることが望まれます。これがこの問題を提出する適切な時であるか否かは神の御手のうちにあります。会議の司教たちの聖母への献身を知り、現在の状況を理解して、われわれにとって一つの決断をするに際して神の御導きを祈り、かつ求める重大な理由があるように思われます。

この手紙と文書を読み、検討してくださるあなた方の忍耐に対して感謝申し上げます。われわれが祈りをこめて提議を考察する際にわれわれすべてに聖霊の光が降りますように祈ります。

第 II 部 -- 典拠

1. ルチアの陳述 --

a)ルチアの回想録からの批判的テキストは以下の通りです:

「それから聖母は私に言われました:『神にとって、教皇に世界のすべての司教たちと一致して、私の汚れなき御心へのロシアの奉献をするよう、お求めになる時が来ました。神はこの手段によってロシアを救うと約束なさっています。神の正義が非難し、そして私に対して犯される罪であるこれらの罪が非常に多いので、私は償いを求めるために来たのです。この意向のためにあなた自身を犠牲にし、祈りなさい。』」

b)さらに、1936年5月18日づけの手紙の中で、ルチアは次のように書きました:

ロシアの奉献を手に入れるために要求することが都合がよいかどうかというもう一つの質問についてですか? 私は他の機会にお答えしたのとほとんど同じようにお答えします。それがまだ為されていないということを私は残念に思います。でもそれをお求めになった同じ神はそのことを許された方です。....もし教皇様が今すぐそれを為さったならば、神はそれを受け入れられ、御約束を果たされると私には思われます。そして何の疑いもなしに、この行為によって、教皇様はわれらの主とマリアの汚れなき御心を喜ばせられるでしょう。その問題について私はわれらの主に、親密に、話しました。そしてそれほど以前ではなかったのですが、私はわれらの主に、教皇があの奉献をすることがなくとも、なぜ主がロシアを回心させられないのか、その理由をお尋ねしました。(主はこうお答えになりました。)『それは、あの奉献をマリアの汚れなき御心の勝利として私の全教会が認め、その結果教会が後にその信心を広め、そして汚れなき御頃の信心を私の聖心への信心の側に置くようになることを、私が望んでいるからだ。』(ルチアは答えた)、『しかし、わが神よ、あなたが御自身である特別の霊感をもって教皇を動かされないかぎり、教皇はおそらく私を信じないでしょう。』(われらの主はお答えになった)、『教皇、祈りなさい、教皇のためにたくさん祈りなさい。彼はそれをするだろう。しかしそれは遅いであろう。それにもかかわらず、マリアの汚れなき御心はロシアを救うであろう。それは彼女に委ねられたのだ。』」(Ftima: the Great Sign, by Francis Johnston, p. 87, 1979)

2. 教皇ピオ十二世 -- われらのいとも聖なる教皇、ピオ十二世はファチマに深い関心を持っておられました。彼は1917年5月13日、子どもたちへの聖母の御出現が最初にファチマで起こったまさにその同じ時間に、司教として奉献[聖別=叙階]されました。それが知られ、愛されるようにするために彼がどのように多くのことをされたかを考えることは驚くべきことです。以下は彼の陳述のいくつかです:

a)突然、天からの霊感のように、1942年10月31日に、ピオ十二世は、ロシアに暗に言及しながら -- 慎重であるが、しかし完全に明らかな[言及]-- マリアの汚れなき御心に世界を奉献されました。彼の言葉は以下の通りです:

「あなたに、あなたの汚れなき御心に、偉大なキリスト教家族の普遍的父として、天と地に対するすべての権力が与えられた方、その方から私がキリストの血によって贖われたすべての霊魂の配慮を委ねられた方、この世界に住まれた方[キリスト]の代理者として、私はあなたに、あなたの汚れなき御心に、人類の歴史のこの悲劇的な時間に、そのように多くの場所で、そしてそのように多くの仕方で苦しみ、血を流しているあなたの御子の神秘体、聖なる教会だけではなく、また致死的な闘争によって引き裂かれ、憎しみに燃え、それ自身の罪の犠牲者である全世界をも委ね、献げ、奉献します。」

「.... 誤謬と意見の相違によって分離された人々に、特にあなたへの特別の信心を告白している人々に、そしてあなたの聖なるイコン(おそらく今日隠され、よりよき日々のために保管されている)を尊敬しない家にはいない人々と共に、平和を与え、彼らを一人の真なる羊飼い、キリストの一つの群へと戻るように導いてください....」

われらの教皇が、明白に世界の司教たちと共に、聖母にロシアを同時に奉献されなかったので、スペイン、マドリード、Ephemerides Mariologicae の所長、ホアキン・マリア・アロンソ神父、C.M.F. はこう述べました:「しかし、これは本当にシスター・ルチアに宛てられた神の要求の達成であったか? この歴史的および批判的見地からは、われわれはそうではないと認めなければならない。」ここでスペインのアロンソ博士C.M.F. がファチマに関する世界の最高の権威者の一人と考えられていることをつけ加えておくのがよいでしょう。彼はローマ、グレゴリアン大学から哲学と神学の博士号を取得しました。そしてローマ、マドリード、リスボンで哲学と神学を教えていることに加えて、ルーヴァン、ハイデルベルク、ソルボンヌでそれ以上の研究を続けてきました。彼はファチマおよびそのメッセージの批判的かつ決定的な研究を準備するためにファチマ司教によって指名されました。

b)1952年7月7日の使徒的書簡 "sacr vergente anno" はシスター・ルチアがそれらを記述した仕方において神のお望みを促進するための一つの試みを持ったと思われるでしょう。その書簡の初めはこう指摘しています:

「聖年が喜びに満ちてその終りに近づき、そして神的な霊感なしにではなく、威厳のある神の御母が身体と霊魂とも天に挙げられたと宣言し、決定することが私に許された。世界のあらゆる場所から、多くの人々が彼らの大きな喜びを私に知らせた。私にお祝いの手紙をくれた人々のうちある人々はまた私に、苦痛の状態にある全ロシア民族をマリアの汚れなき御心に奉献するように熱心に要求した。この要求は私を非常に喜ばせた....」

「従って、あなたたちの祈りと嘆願ならびに私の祈りと嘆願がもっと容易に聞き届けられるために、そして多年にわたる私の善意の特別の証拠をあなたたちに与えるために、私は全人類を神の御母、おとめの汚れなき御心に奉献した。このようにして今、私はある特別の仕方で、私が表明する希望がすべての人にとって真の平和、兄弟的な調和、自由を保ち、これらすべてが間もなくおとめマリアの非常に強力な助けと保護のおかげで甘美な現実となるであろうという最高の信頼をもって、ロシアのすべての人々をマリアの汚れなき御心に委ね、奉献する....」

「私の手紙の中で、シスター・ルチアが1952年7月7日の直後に書いた彼女の手紙の中で、それは聖母がお求めになったようには遂行されなかったことを悲しんだと言ったということが指摘されていました。彼女は、われわれ自身の側で、「忍耐!」を求めています。そしてこうつけ加えています。「聖母がよき御母としてそれを受け入れることを喜ばれることを希望しましょう。」

1954年に教皇ピオ十二世は回勅 "Ad Coeli Reginam" を出されました。その中で彼は聖母の元后の祝日に世界のすべての小教区において毎年マリアの汚れなき御心への奉献の行為が為されることを命じられました。この手段によって彼はいつかは起こる共同的奉献のために準備しておられたように思われます。悲劇的なことに、教皇の要求は大部分は無視されました。

3. 教皇パウロ六世 -- 10年後、第二バチカン公会議第三会期の終りに、教皇パウロ六世は世界の大多数の司教たちの列席する中でマリアの汚れなき御心への世界の奉献を更新されました。そして同時に聖母を教会の御母と宣言され、ファチマへの使節団を公表されました。彼はその中でファチマ聖堂に対する顕著な教皇の報酬である黄金のバラを送られました。マリアの汚れなき御心への世界の奉献の彼の行為はその実質において1942年に為された教皇ピオ十二世のそれを繰り返したものです。

しかしながら、そして再び以前に述べたように、奉献のこの行為の前に司教たちとの相談はありませんでした。それはその宣言において教皇に共同的に加わる世界のすべての司教たちと共に同時に遂行された一つの共同的行為ではなかったのです。それゆえに、教皇パウロ六世のたった一人の行為は、ファチマの聖母の特殊的な要求を正確に果たさなかったと思われるでしょう。

4. シュテファン・ウィシンスキー枢機卿 -- ポーランドの首座大司教・ウォイティラ枢機卿およびクロル枢機卿およびマキシミリアン・コルベの列福式のためにローマに来ることを許された数千人のポーランド人巡礼者たちの列席する中、彼によってなされた公的なアッピールの中で。前述の手紙の中で私は彼のテキストから部分的にわれらの教皇、パウロ六世に対するアッピールを引用しました。そして資料の中に私は彼に宛てた私の手紙と彼のポーランド語および英語の翻訳の返事を入れておきました。その翻訳は英語とポーランド語の両方の高い能力をもったセント・ルイス大司教区のある司祭によって為されました。ウィシンスキー枢機卿の返事は彼が永遠の酬いに呼ばれる少し前に、私のところに届きました。

5. 教皇ヨハネ・パウロ二世の態度 --

a)先の手紙の中で私は教皇ヨハネ・パウロ二世がファチマの聖母に対して持っておられる愛についてある事柄を指摘しました。われわれは、彼が教会の御母、そして彼女の母としての奴隷身分* に敬意を表して為した奉献を思い起こします。実際、これは聖グリニョン・ド・モンフォールの信心です。

編集者注:
* これは聖グリニョン・ド・モンフォールが説明し、教えたように、「聖なる奴隷身分」、マリアを通じてイエズスへの信心のことを言っている。

b)さらに、私は、彼が1971年9月5日に、教会の御母に全世界を奉献することにおいてポーランド司教団に加わられたということは注目されることだと考えます。このようにして、彼は、この奉献が家族全体、キリストへと導くものにとって、最も確実な道であるという確信を遂行されたのです。

われわれは再び、また、ウィシンスキー枢機卿が教皇に普遍的教会と全人類を教会の御母、マリアの御手に、そして今回は世界のすべての司教たちと一緒に、奉献されるよう求めた1971年10月18日に、彼が教皇パウロ六世講堂の壇上におられたということをも付け加えてもよいでしょう。

2)ロシアの共同的奉献はすべての司教たちと教皇とによる同時的な儀式を意味する

1982年1月5日 ニュース配信

ミズーリ州、セント・ルイスの大司教から出た1982年1月5日のこのニュース配信はロシアの共同的奉献に関するさらに詳しい情報をもたらている。それは、カーベリー枢機卿によれば、すべての司教たちがマリアの汚れなき御心にロシアを奉献する際にある特別の日に同時的な儀式において教皇に加わるであろうということを明らかにしている。

セント・ルイス(1月5日) -- ジョン・J. カーベリー枢機卿は、今日ポーランドにおける戒厳令施行の光に照らして、合衆国のカトリック司教たちによって取られた最近の行動は摂理的であることを証明するであろうと言った。

セント・ルイスの引退した大司教、カーベリー枢機卿はワシントン D.C. における年次総会でカトリック司教たちによって取られた行動に言及した。1981年11月18日の特別セッションにおいて司教たちは教皇ヨハネ・パウロ二世に、世界のすべての司教たちと一致して、彼がそうすることが適切であると考えるならば、マリアの汚れなき御心に世界とロシアとを奉献するように要求するために投票した。

カーベリー枢機卿は言った:「ロシアのこの共同的奉献はある特別の日に同時的な儀式において教皇に加わる世界のすべての司教たちを含むであろう。」

彼はこう述べた:「世界中で多くの司教たちは個人的にすでに教皇ヨハネ・パウロにこの要求を行った。しかし一つの団体としてのカトリック司教たちの行動はその種のものとしては最初である。」他の諸々の司教会議が同じことをすることが望まれている。

カーベリー枢機卿はさらにこう述べた:「ロシアと世界との奉献は1917年5月から10月の間、ポルトガル、ファチマでの一連の御出現の間に祝せられたおとめマリアによって三人の子どもたちになされた諸々の要求の一つである」と。共同的奉献の要求は1929年6月13日に再び、そして再び1936年5月18日に、今なお生存している御出現の一人の生き残りに対して、繰り返された。

「おとめ[マリア]は、もし要求が満たされるならば、平和が来るでしょう、もしそうでないならば、ロシアはその諸々の誤謬を世界中に広めるでしょう、いくつかの民族は絶滅させられるでしょう...そして教皇は多く苦しまなければならないでしょう、と言われました。」

カーベリー枢機卿によれば、「ロシアに関する予言は信徒に、罪を避けること、日々の祈り、特に毎日のロザリオの祈りの実践、世界の罪の償いとしての犠牲の精神、聖母の汚れなき御心への奉献、そして聖体におけるイエズスを受けること、を求めた。」「1917年のファチマの出来事の信憑性は一つの公的な奇跡 -- 時間と日付に関して先立って予告された、記録された歴史における唯一の奇跡 -- によって伴われていたという事実によって支持される」と彼は述べた。

カーベリー枢機卿はこう述べた:「日と時間の両方について、先だって約束されたものとして、1917年10月13日正午に、7万人以上の人々(信者、信じない人々、無神論者たちや他の人々)は「太陽の奇跡」として知られる一連の太陽現象を目撃した。」これらの出来事はヨーロッパの諸新聞において報道された。そしてそこに居合わせた知識人たち、科学者たちそして有名な作家たちによって論評された。

カーベリー枢機卿は言った:「奇跡の数週間以内にレーニンはロシアにおいて権力を掌握した。その残りは歴史である。」

「祝せられたおとめの要求に従うことの重要性はロシアおよび世界の共同的奉献と共に、ポーランドの軍事侵攻 -- 全世界の平和を脅かす無礼な行為 -- におけるロシアの役割によって明らかにされている。」

3)教皇は共同的奉献をするように司教たちに命令すべきである、とシスター・ルチアは言う

この奉献の行為が積極的な役割を果たすすべての司教たちを含むべきであるということはすでに上で述べられた。そのことは、シスター・ルチアが53年前に書いたいくつかの手紙の中で彼女自身によって明白にされた。第一の手紙と第二の手紙において、シスター・ルチアは、教皇が世界の司教たちに、マリアの汚れなき御心にロシアを奉献するよう命令しなければならないと言っている。(教皇が司教たちに対してそのような権威を持っているということはこの書物の他の箇所においてさらに説明されている。)そのとき、明らかに、共同的奉献に対する聖母の要求を満たすために何もしないことは司教たちにとって十分ではない。それに言及した2通の手紙の数節がここにある。

「ロシアに関して」

もし私が間違っていなければ、われらのよき主は、もし教皇様が御自身で公的な償いの行為とイエズスとマリアの聖なる御心へのロシアの奉献をなさるならば、ロシアにおける迫害は終わるであろうと約束なさっています。教皇様はまたカトリック世界のすべての司教たちに同じことをするように命令しなければなりません。そしてもしこの迫害が終わるならば、すでにのべた償いの信心* の実践を承認し、推奨すると約束しなければなりません。」(1930年6月12日の手紙)

* これは初土曜日の信心のことを言っている。

「もし私が間違っていなければ、よき主は、もし教皇様が御自身で償いの荘厳な行為とイエズスとマリアの聖なる御心に対するロシアの奉献をなさり、同様にまたカトリック世界のすべての司教たちに同じことをするように命令されるならば、ロシアにおける迫害を終わらせると約束になっています。教皇様はそのときこの迫害が終われば、すでに書いた償いの信心の実践* を承認し、推奨するであろうと約束しなければなりません。」(1930年5月29日の手紙)

* この信心は次のことから成り立っている:引き続く5ヶ月の初土曜日に相応しく聖体を拝領すること、ロザリオを5連祈ること、ロザリオの玄義を黙想しながら聖母と共に15分間を過ごすことそしてよい告解の秘蹟を受けること。これらの行為はマリアの汚れなき御心に償いをする目的のために行われなければならない。

編集者注:

償いの初土曜日の信心

1917年7月13日に聖母は言われた:「私は初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために来るでしょう。」

1925年12月10日に、聖母はポンテヴェドラの修道院においてシスター・ルチアに御出現になった。聖母の側には光の雲の上の玉座につき、御自分の聖心を示しながら幼子イエズスが立たれた。幼子イエズスは次のように語られた:「あなたのいとも聖なる御母の御心を気の毒に思いなさい。それは、恩知らずの人々があらゆる瞬間にその中に突き刺す棘で覆われています。そして償いの行為によってそれらの棘を取り除く人は誰もいないのです。」それから聖母は御自分の棘に取り囲まれた御心を差し出され、こう言われた:「私の娘よ、恩知らずの人々が彼らの冒涜と忘恩とによってあらゆる瞬間にそれでもって傷つける棘によって取り巻かれた私の心をご覧なさい。少なくともあなたは私を慰め、次のことを告知しなさい:私は、引き続く5ヶ月の初土曜日に、(1)告解をし、(2)聖体拝領をし、(3)ロザリオを5連唱え、(4)そしてロザリオの玄義を黙想している間に15分間私と共にいる(黙想する)-- 私に償いをするという意向をもって -- すべての人を救いに必要なすべての恵みをもって死の時に助けると約束する、と。」

1930年6月12日付けの手紙の中で、シスター・ルチアは5回の初土曜日の償いの信心に関して出されたいくつかの質問に答えた。彼女は、われらの主が彼女に、聖体拝領が恵みの状態において、そしてマリアの汚れなき御心に対する償いをするという意向をもって為されるならば、初土曜日の8日以内の聖体拝領は十分であろうと告げられた、ということを明らかにした。

5回の初土曜日は償いを要求する聖母に対して発せられた5種類の罪と冒涜を償うものであった。これらは:1)祝せられたおとめマリアの無原罪のおん宿りに対する冒涜;2)聖母の神の御母たることに対する冒涜と聖母を人々の御母として認めることの拒否;3)聖母の永遠の処女性に対する冒涜;4)子どもたちの心の中に汚れなき御母に対する、憎しみの点にさえ至る無関心と軽蔑を公的に注入しようと努力している人々による冒涜;5)聖母の聖なる御絵において聖母を侮辱する人々の償いをすることである。

それゆえに、イエズスとマリアによって求められたこの償いの信心がそれに値する優先事項としてわれわれの教会において説教され、実践されるべきであるということは必須のことである。

4)ロシアに関するファチマ専門家の結論

ある人々の心の中には、共同的奉献にどのような国々が明示的に含まれるべきかに関するファチマの聖母の要求についてある不明瞭さが存在するように思われる -- ファチマの聖母の要求は非常に明白である。聖母の汚れなき御心に共同的に奉献されなければならないのはロシアである。そしてこの要求の実現には世界平和の約束が付けられている。これは、1971年ファチマの司教の後援でファチマのセミナーで与えられた、有名なファチマ学者アロンソ神父、C.M.F. の結論である。この点に関するアロンソ神父の言葉がここにある:

ロシアに関連することについてここにわれわれの結論がある:

(a)その関連はすでに1917年7月13日のファチマにおける第三回の御出現の言葉の中に、そして「マリアの汚れなき御心」という主題に密接に関連して存在する。

(b)1917年7月にはロシアの奉献と初土曜日の償いの信心をもとめる約束への唯一の関連のみ存在する;

(c)1929年6月にはおとめ[マリア]はロシアの奉献に関するこの約束を果たされた。しかしながら、聖母は、教皇がすべての司教たちと一緒にロシアを奉献しなければならないと付け加えておられる。そしてそれゆえ実際要求をなさったのはおとめ[マリア]であった。

(d)1940年までのすべてのオリジナルの文書において、おとめ[マリア]の唯一の要求は上述した条件を伴ったロシアの奉献である。しかしながら、1940年10月に、神は、世界の奉献をすることへのシスター・ルチアの上長たちの望みがロシアの特別の言及と共に起こることに応じられた。そしてそのような行為を示唆されたのはわれらの主御自身であった。しかし主のこの要求に付随する「約束」はおとめ[マリア]によって1917年7月、および1929年6月に為された約束とは同じではなかった。おとめ[マリア]はこれら二つの日付において、そのとき、ロシアの回心を約束された。1940年には、主はただ、第二次世界大戦(1939-1945)の諸悪を少なくし、短くするとだけ約束された。

アロンソ神父はまた、初土曜日の償いの信心はまたロシアの回心に言及しているということをも指摘した。ここに彼の言葉がある:

同様にロシアの回心のために命令されたものとしての5回の初土曜日の償いの信心;さらに、それは霊魂の聖化を結果する。それはロシアの奉献を達成するために必要な条件である。

5)シスター・ルチアは今日どう考えているか? 

ファチマの聖母によって要求された共同的奉献は為されたか? 否、それは為されなかった。この結論はこの主題に関して入手可能な諸文書を研究した誰にとっても明らかであると思われる。

カーベリー枢機卿は上に挙げた1981年11月7日の彼の文書において、その時までそれは為されなかったということを示している。

シスター・ルチアは、1982年5月13日の後、教皇がファチマへ行かれ、そして汚れなき御心への奉献の行為を為された後も、なおそれは聖母が要求なさったようには為されなかったと考えている。ルチアは、信仰教義聖省から、あるいは教皇自身からの許可なしに公的な陳述をすることを許されていないと思われる -- それゆえ、われわれはこの主題に関する彼女の考えを彼女に直接話すことができる人々から知ることができるだけである。われわれは、以下に、雑誌 Approaches の許可を得て、その増刊号第79号、p. 7 および p. 8 の『ファチマ、今どうなのか? 』から次のような証言を提供する。

「ファチマに関する世界の指導的権威の一人でローマのカルメル会士で教授、ジョゼフ・ド・サント・マリー神父から受け取った手紙の言葉 -- 彼はその手紙を引用する権限をわれわれに与えた -- の中に[次の言葉がある]:

「オリジナルのテキストをもう一度見れば、1982年5月13日の行為はファチマの聖母の命令を果たさなかったということを示すに十分である。」彼はこうつけ加えた:「1982年5月13日の機会にシスター・ルチアと単にほんの短い瞬間だけではなくて....まるまる数日間過ごした優れたポルトガル人カルメル会士からのほとんど完全に近いフランス語での一通の手紙の中で私に告げられたことがここにあります。」

「『教皇によって為された奉献が、まだ聖母がそのように強調して命令なさったものではないということは残念なことです。』彼女はこうつけ加えた。『この奉献にとって、そこには全世界のすべての司教たちの徹底的な準備がある必要があるでしょうが、私の意見ではそのことは達成するのが非常に難しいでしょう。しかし、神にとっては不可能なことは何もありません。この意向に向かって多く祈り、私たちの力の範囲内ですべてのことをする必要があるのは、この信頼をもってです。』」

この手紙の日付は1982年7月8日であった。

それでそのようなものが、彼女の完全な信頼を得ている人によって伝えられたよものとしての1982年5月13日の出来事についてのシスター・ルチアの評価である。

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2005/02/22 三上 茂 試訳

作成日:2005/02/22

最終更新日:2005/02/22

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