ファチマの聖母マリア

世界の奴隷化か、それとも平和か...
それは教皇にかかっている

ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち

ファチマに関する沈黙のこのとばりはなぜか?

ドイツ、レーゲンスブルグの司教ルードルフ・グレイバー著

この論考においてグレイバー司教は、それによってファチマの聖母のメッセージが矮小化され無視されてきた、信徒や聖職者の間に広まった理論や考えのいくつかを説明している。グレイバー司教はこの中でまたこれらの誤った推論にも答えている。ファチマの重要性と緊急性に関するこれらの誤った考えは事実上長い間聖母のメッセージを沈黙させてきたし、またそれが従われないように取り計らってきた。

ファチマに属するあらゆる事柄に関してはますます静かになってきた。少なくともこのことは世界の多くの領域について真である。それにもかかわらず、真にファチマの精神を持った小教区、人々が毎日ロザリオを祈りに来る、そして月の第13日(5月から10月までの)が特別の考慮を与えられる小教区がなお存在している。

多くの人々がファチマに失望している

いわゆる「ファチマの秘密」が明らかにされると考えられた1960年を人々はどのような期待をもって待ったことであろうか!...しかし何事も出て来なかった。そしてそれゆえに人々は失望した。しかしながら、実際にはこれらの人々は非常に重要なある事柄を見落とした。なぜなら、ファチマの司教は10月13日(1960年)は祈りと償いの世界的な日として守られるようにという提案する一通の書簡を世界のすべての司教たちに送るように命じていたからである。世界の多くの地域で、この訴えは心からの、好反応の反響を産み出した。われわれはこのすべてのことから何を引き出すだろうか? もし司教がシスター・ルチアの手紙を読み、破滅を招く性質の何らかの予言を見出したならば、彼が世界の司教たちに、彼らの信徒に祈ることを促すように頼んで訴えたであろうということ、そして予言された破滅が祈りと償いを通じて延期されたであろうということはまったく理解し得ることである。それは聖書に書かれているように、ニニヴェの場合にそのようではなかったか? ヨナは罰の脅威を宣言した。しかし人々は痛悔し、そしてその結果特殊的な予言は起こらなかった。多くの人々はちょうどヨナのように行動した。ヨナは心配した。なぜなら、彼の預言者としての役割が駄目にされると思われたからである。彼が確実に起こることとして声を大にして宣言したことはニニヴェの人々の痛悔によって挫折させられた!現在の状況はこれに似ているであろうか? 実際、余りにも多数の人々はただファチマ・メッセージに関係づけられた人騒がせなことのみに興味を持っている。それが具体化することに失敗したとき、彼らは興味を失った。

第二のグループの人々

ファチマ・メッセージを無視した第二のグループの人々はすでにキリストによって次のような言葉において特徴づけられていた。「人の子の来臨はノアの日々と同じである。洪水の前、ノアが箱船に入るその日まで、人々は飲み、食い、めとり、とつぎなどし、洪水が来てすべてを滅ぼすまで何も知らなかった、人の子の来臨もそれと同様である。」[マテオ24:37-39]。経済的な福祉の時代に、すべての警告を投げ捨ててこう叫ぶのはこれらの人々である。「おお、なぜそのような悲観的な予言を広めるのか? 今日誰ももう一つの戦争に興味を持っていない。東においても、西においても誰もが、次の戦争においては、誰かが生存して残されたとしても、いかなる勝利者もないであろうということを知っている」と。しかし、これらの人々は、人類をもう一つの破局へと陥れることに非常な興味を持っている誰か、すなわちサタンがいるということを忘れている。しかし、誰一人サタンの存在を信じていないし、また地獄と呼ばれる住まいを信じていないように思われる。われわれもまたそのような愚かさに幾分取り込まれているのではないかどうかを自問してみよう。

第三のグループ

ファチマのいかなる役割をも望まない第三のグループの人々は多数である。そしてさまざまの度合いと範疇において見られる。

まず最初に、陳腐な決まり文句がある。「それは単に私的啓示にしかすぎない」。それとともにファチマは軽くはねつけられる。それはファチマに関係するあらゆる事柄に一つのラベルとして張りつけられる。示される何らかの関心は次のような言葉で反対される:「なぜファチマへのこの絶え間のない言及なのか? 結局のところ、それは単に私的な啓示にしかすぎない。私は最後の使徒の死と共に終わった神の偉大な聖書的・使徒的啓示に頼る。それですべての興奮は何の目的のためなのか?」

おお、確かに神の偉大な啓示がキリストと使徒たちをもって終わったということはまったく真である。しかしこのことは、神が御自身の民であるわれわれにどこでももはや話されることはないということを意味しない。神からのあらゆるコミュニケーションは、それが旧約聖書の預言者に向けられようと、あるいは読み書きのできない現代の農民の少女に向けられようと、何かすさまじいもの、そして何か聖なるものである!さらに、使徒ペトロは彼の聖霊降臨のときの説教において、聖霊はすべての人の上に注がれ、息子や娘たちが予言し、老人が夢を見、そしてしもべ、はしためたちもこの霊を受けるであろう、と宣言しなかったであろうか? [使徒行録 2:17-18]。そしてもしこれらの事柄が起こらなかったとしたら、神の言葉にはいかなる信憑性があるのだろうか?

私的啓示は単にこの聖霊降臨の約束の実現の例、また世界の終わりに至るまでさえ、われわれと共に常にいるであろうというキリストの約束の実現、「私は彼らと契約を交わし、彼らのために善を行うことをやめないであろう」という預言的な言葉の実現である。

信望のある一人の神学者はさらに、メッセージの受け手にだけ向けられた個人的な啓示とそこでそのメッセージが全体としての人類のためであると宣言されている啓示との間の注意深い区別がなされるべきであると指摘した。前者は平静に無視され得る。しかし後者は真剣に受け取られなければならない。そしてファチマはこの[後者の]カテゴリーに属する。

もしロシアが回心したならば...

ファチマは世界にとって重要な問題か、それともそうでないか? もしロシアが、メッセージが約束しているように、今回心したならば、このことはわれわれが今日苦しんでいる政治的諸問題を大幅に解決するであろうか? もし、毎年軍備のために東と西において費やされている厖大な額の金額が世界の未開発の諸地域のおける飢餓と他の様々の欠乏の諸条件を緩和するために用いられたとしたならば、いかに多くの他の諸困難もまた解決されることであろうか!

聖書に語られているように、イスラエル人たちが彼らの祈りを通じてイェリコの壁を崩れさせたときの、イスラエル人たちの例をなぜわれわれは模倣しないのか? なぜわれわれは、ここそして世界中の分裂の壁を破壊するために祈りの全力を採用する代わりに、繰り返し繰り返し専ら外交的な術策や議論、そしてあらゆる種類の政治的な夢想に信を置くのか? 信仰の人にとってはすべては可能である、とキリストはわれわれに告げられた。そのことは今なお真であるか、それともそうでないのか?

第四のグループの人々の間には誇張されたキリスト中心主義の主唱者たちがいる。彼らはキリストがまったく独りで最前部の位置を占めなければならないと信じている...私はすでに以前に彼らのうちの一人によってなされた典型的な陳述を引用したことがある:「われわれはいかなる女性受付係も必要としない。われわれは直接キリストのところへ行く。」

そのような愚かで軽率な陳述はイエズスとマリアとの間に存在する密接な一致についての正しい理解の欠如を示している。マリアに巡礼に行ったことのある者は誰でも告解と聖体拝領を当然の事 -- 巡礼の主眼点 -- と考える。実際は、われわれは実際のキリスト中心主義者である。なぜなら、マリアの尊崇は、彼女の生活と存在全体、彼女のすべての思いと感情が常に彼女の御子、主イエズス・キリストに関係づけられていた限りで、究極的にキリストへと向けられるからである。

第五のグループ

特に現代において言及されるべき第五のグループは過度の典礼主義者たちである。私は、われわれが、二十世紀の青少年活動において達成されるべき最も高い目標の一つであるとすでに考えていたことを実現した限りで、われわれの時代の典礼の諸々の発展を最も温かく歓迎するということを完全に、またすべての疑問を超えて、明らかにしたいと思う。しかしながら、ラテン語の代わりに現代口語を使用したこと、そしてみ言葉の典礼と聖体の典礼との決定的な分離がよいカトリック者たちをよりしばしば教会にもたらさなかったという明白な事実にも直面しよう。さらに、この典礼上の革新は公会議の真の目標として明示された内的な刷新の何らの証拠をも与えなかった。

典礼のうちに表された客体的な敬虔はそれと一致して主体的な敬虔をも要求する。聖なるロザリオ、十字架の道行き、そして深く感動的な人間的に訴えるものを持つマリア信心のような典礼以外の祈りの形式もまた非常に必要である。

われわれもまた、われわれのより古い世代の人々が、今までこれらの形式においてなしたような満足を今なお探すとき、いらいらすることをやめるべきちょうどよい時機である...

神は最も純粋な典礼の諸形式に限定されない。そしてわれわれはこれまでに、典礼においてマリアに与えられた高い称賛について真剣に考えたことがあっただろうか? マリアの名がどれほどしばしばミサの中で挙げられ、またどれほど多くの祝日が正確に典礼によってマリアを称賛するために定められているであろうか? 神が一緒に結びつけられたものを今日引き離すことは不条理なことではないか? キリストとマリアは単純に一緒に属している!そして同様にまた、典礼とマリアもそうである!

上述の諸グループはマリアの諸々の事柄、時にファチマに関する事柄、に対する正しい理解の欠如の基本的な理由を提供する、今日非常に流行している、唯一のではないけれども、主要なグループである。しかし説得されて思いとどまらないようにしよう!われわれは善い仲間を持っている。ほかならぬ教皇ご自身(パウロ六世)がファチマに金のバラを送り、マリアの汚れなき御心への世界の奉献を更新することによって彼の言葉を絶頂に到達させながら、公会議の終わりにあたってわれわれが望んだ以上にもっと美しいそしてもっと深遠なファチマの最も傑出した承認を与えられた...

必要な奉献を生きること

マリアは、ロザリオを唱えること、償いの初土曜日を守ること、マリアの汚れなき御心への奉献のような、ファチマにおける祈りに満ちた性質の多くの事柄をするようにわれわれに求められた。しかし聖母は、最も重要な事柄は「メタノイア」、心の回心、痛悔、あるいは公会議がそう述べているように、内的な刷新であるということを疑いを超えて明白にされた。それゆえ、奉献を生きるということは、模範的なキリスト教的生活を、特にその社会的、共同的な局面におけるキリスト教的生活を送ること、同情と赦しの愛を追求しながら親切と寛容を示すことにおいてそうすることを意味する。

私はあなたたちに対する私の発表を聖ヨハネ・ボスコの注目すべき夢を話すことによって閉じる。彼は外洋で戦闘に従事している二つの艦隊を見た。その一つは教皇によって指揮されていた。光を持った二つの塔がそのとき海から近づいて来た。一つの塔の上方には汚れなき御心が、もう一つの塔の上方には御聖体が空中の一点にとどまっていた。艦隊群はこれら二つの塔の間の通路によって与えられた案内と保護によって助けられて安全な港へようようにしてたどり着いて助けられた。この夢は現代に対して大きな意味を持っており、われわれの安全がどこにあるかをわれわれに示している -- すなわち、御聖体と神の御母である!もしわれわれもまたわれわれの生活の船をこれらの塔の間に方向づけるならば、確実に永遠の岸に安全に到着するであろう。

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2004/12/15 三上 茂 試訳

作成日:2004/12/15

最終更新日:2004/12/15

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