ファチマ・クルーセイダー

あなたの救いを護りなさい

The Fatima Crusader Issue 80, Summer 2005 より

ニコラス・グルーナー神父、S.T.L., S. T. D.(Cand.)

The Fatima Crusader のこの号はあなたの永遠の救いを護り、カトリック信仰を護り、ファチマの聖母のメッセージを護り、ファチマ・メッセージおよび聖母の要求を促進することにおけるあなたの非常に重要な役割を護ろうとしている。

特に、それは一、聖、公、そして使徒的な教皇制 -- すなわち、この、あるいはあの教皇ではなくて、われらの主イエズス・キリストによって設立された教皇の職 -- を護る。

「教皇空位論者の」理論は誤りである

今や何年にもわたって、私は教皇空位論の運動あるいは理論について聞いてきた。すなわち、1958年10月にピオ十二世が亡くなられて以来われわれは真の教皇を持たなかった、なぜなら、第二バチカン公会議の諸教皇は異端に陥り、そしてみな「反教皇たち」だからである、という誤った信念について聞いてきた。

私は、単に地方の小教区や司教区においてばかりでなく、またそしてもっと悪いことに、ローマにおいて、そしてバチカンそれ自体においてさえ、毎日見られる重大な恥ずべきことのゆえに、この理論に同意するように誘惑されている多くの人々に同情することができる。

1940年代および50年代にケベック州の熱心なカトリック的雰囲気を生きてきて、私は、今日の子どもたちや青年たちが、カトリック教徒がどうあるべきか、そして何をすべきかを彼らの目の前に見ていることと比較してわれわれがどのように祝福されていたかを理解する。

換言すれば、カトリック教会が何であるを知る機会を青少年がどのように持つかを理解することは人々にとって時に困難である、というのは、多くの教会指導者たちがそれを忘れてしまったと思われるからである。例えば、御聖体が教皇ミサにおいて足で踏みつぶされており、そして人々は騒々しいロックン・ロールの教皇世界青年の日に招待されている。それらのイベントはロック・コンサートよりももっと恥ずべきものである。これらの哀れな、誤り導かれた青年たちはだらしない服装かあるいは非常にみだらな服装でミサに、そうなのだ、教皇ミサに与るのである。教会指導者たちは、これらの青年たちに、聖なるミサのために彼らはこぎれいな、そして慎みのある服装をしなければならないということを思い起こさせるために彼らの義務を何ら果たしていない。これらは第二バチカン公会議以前のわれわれの生涯においては決して見られなかった多くの非礼のうちのほんの二三の例にしかすぎない。

私は父が1940年代に作った古い家庭映画を見たことを今でも覚えている。その中では女性たちはすべて膝の下まで隠れるスカートをはいて非常に慎ましい服装をしていた。誰もがそれを受け入れていた。それがやぼったいとか、あるいはこれらの慎ましい衣服は着るのが難しいとは誰も考えなかった。過去60年間にわれわれはどこまで深く堕落したことか。

諸々のスキャンダルが起こるであろう

教皇ヨハネ・パウロ二世が、イスラム教徒が崇めている書物、われわれの聖なるカトリック宗教に対する恐るべき諸々の冒涜を含んでいる書物、コーランに接吻するのを写真に撮られたとき、人々が衝撃を受けたということは理解し得る。さらに、もし教皇がコーランに接吻することができるならば、そのとき、何でもありと思われるであろう。

われわれは、バランスを保つために、不変のカトリック信仰にすがりつかなければならない。われわれはまた、われらの主が終わりの時代には諸々のスキャンダルが起こるであろうとわれわれに告げられたことを思い起こす必要がある。しかし、その人々によってスキャンダルが来るそれらの人々には禍いあれ。これらのスキャンダルを見ているある人々 -- 教皇ヨハネ・パウロ二世のミサで、以前にはいかなる教皇も決して許さなかった、胸をはだけた女性たちが書簡を読み、奉献の捧げ物を持って行ったりするようなこと -- は、だから、彼は教皇ではあり得ないという結論へと飛ぶのである。

不幸なことに、これらのカトリック教徒たちは、たとい教皇が不可謬であるとしても -- 彼はその使徒的権威をもってある事柄を荘厳に決定するとき、誤謬を教えることはできない -- それは教皇が罪を犯すことができない、スキャンダルを与えることができない、悪い例を与えることができないということを意味するのではない、ということを理解しなかったのである。(The Fatima Crusader No. 66 p. 23 のJonathan Tuttle による "Mission Infallible" を見なさい。)

われわれは、われわれの上長たちに彼らの職務に対する資格を与えるのは彼らがすることではなくて、むしろ神が彼らに権威を与えられることであると理解しなければならない。

それは彼らがそれゆえにその職務の恩寵に対して忠実に留まるということを保証しない。われわれすべてと同じように、彼らは、-- イエズスが彼らにするように望んでおられることをするよりはむしろ -- 罪を犯し、安易な道に逃れ、世間が彼らにして欲しいと望むことを行い、悪魔が彼らにするように望むことをすることを選択することができる。

しかしながら、諸々のスキャンダルがそのように長い間、そしていくつもの教皇在位期間を通じて続いたので、このことに対していくつかの反応があった:すなわち、

  1. 何事もぜんぜん起こらなかったふりをすること。

  2. もし教皇がそれをしたならば、それはOKでなければならない、なぜなら、彼は教皇であるから、と見なすこと。

  3. 教皇と司教たちは実際には教皇そして司教たちではないと宣言すること、そして彼らはスキャンダルを許しあるいは引き起こしているがゆえに、彼らがするあらゆることを軽蔑すること。

  4. 神に、神の教えに、われわれに、われわれは悪を善と呼ぶことはできない、そしてわれわれは善を悪と呼ぶことはできない、と告げる聖書に、忠実であること。そしてわれわれはそれゆえに、悪に抵抗し、それを非難しなければならない、一方において、罪ある人々を退位させる権力を簒奪してはならない。

諸聖人および教会博士たちの教えに従えば、この最後の反応が正しい反応である。

まったく単純に、もし誰かが、例えば、銀行強盗を働くならば、われわれはそれは悪いと言う。しかし銀行強盗がもしあなたの父親、あるいは大統領、あるいは司祭、司教、あるいは教皇でさえあるならば、どうか? それはそれでもなお悪い。

もし誰かが信仰を否定するならばどうか? われらの主はわれわれにこう告げておられる:「もしあなたが人々の前で私を否むならば、私は御父の前であなたを否むであろう。」しかしあなたの父親、あるいは小教区の司祭、あるいは教皇が信仰を否んだならばどうか? それはそれでもなお悪い。あなたはあなたがすることのために裁かれるであろう。そしてもしあなたが何らかの仕方でイエズス・キリストを否むことにおいて、他の誰か、教皇であってさえ、に従うならば、そのときイエズスは御父の前であなたを否まれるであろう。

あなたはイエズス、マリア、神に忠実でなければならない。そしてカトリック信仰、そしてカトリック信仰の道徳法に忠実でなければならない -- たとい高い地位にいる人々が反対のことをするとしても -- 。

われわれがすることができない判断

キリストは御自分の教会をペトロの上に -- すなわち、教皇制の上に -- 建てられたのだからして、われわれは単純に、われわれ自身の決断に基づいて、われわれ自身の私的な判断に基づいて、教皇がコーランに接吻されたがゆえに、あるいは他の恥ずべき事柄をなさったがゆえに、それゆえに彼は教皇ではない、あるいはおそらく、決して教皇ではなかった、と決定し、宣言することはできない。

このことはクリストファー・フェララによる論考教皇制を擁護する(p. 8 を見よ)において詳しく説明されている。今まで、私はこの主題を取り扱わなかった。なぜなら、私はこれらの可哀相なカトリック教徒たちがどのように憤慨させられたかに同情することができるからであり、またこの教説と運動がいかに危険なものとなったかを理解しなかったからである。

しかし今、この運動が大きくなり、それが聖母の勝利の道へと入っているということが私の注目するところとなった。それは、さもなければファチマのメッセージを支持したであろう人々に対して、彼らを何もしないようにさせながら、一つの大きな注意散漫を産み出した。彼らはこう言う、「われわれは、誰が教皇であるか、あるいはわれわれは一人の教皇をもっているかどうか、を決定するまではロシアの奉献のために何もすることができない」と。多くの人々は今やこのことを20年以上にわたって行ってきた。

彼らに従えば、スキャンダルはそのように悪く、そして彼らは自分たちの私的な判断においてそのように確実であるので、自分たちは教皇は存在していないと確信している、と。彼らの立場はカトリック信仰のいくつかの局面の誤解から生じている。

この運動においてはこの主題に関するいくつかの基本的な点について誤っている学問のある人々 -- 彼らのうちのある人々は聡明で親切である -- がいる。また、実際には何ら正規の神学的訓練をも受けていない、あたかも神が彼らにこれらの問題を決定するために一つの特別の司法権を与え給うたかのようにこれらの軽率な陳述を無鉄砲に行い、彼らの意見をカトリック世界に押しつける、ある傲慢な人々 -- しばしば若い人々 -- がいる。

教皇空位論者の司祭たちや彼らの自己任命した司教たちでさえ、誤っている。そして、不幸なことに、これはカトリック教会のうちに一つの大きな分派を引き起こしている。

このことは、これが唯一の分派であるということを言っているのではない。今日カトリック教会を分割している他の多くの分派が存在している。しかしこの分派の特別の残念なこと、特別の犯罪は教皇空位論者たちが、カトリック教会に対するこれらの明らかなそして恐るべきスキャンダルや罪に対する反応において彼ら自身の意志によって切り離されているということである。

しかしながら、われわれは、少なくとも教皇空位論者たちが過去45年にわたるいくつかの教皇の行為が真に恥ずべきものであると理解しているということを、認めなければならない。一方において多くのカトリック教徒たちは非常に無感覚であり、非常にいい加減なので、スキャンダルが存在するということさえ気がついていない。

もし教皇空位論者が、然り、そこには一つの問題がある、諸々のスキャンダルがある、そして然り、われわれはそれについて何かをなさなければならない、しかし、あたかもわれわれが教皇の上長であるかのごとくに教皇を私的に退位させることはわれわれの役割ではないのだ、ということを理解するようになってくれさえすれば、と思う。神がわれわれにその権威を指定されなかったときに、あたかもわれわれがその力と権威とを持っているかのごとく、私的に法的な判断を下すことはわれわれの役割ではない。

しかし、神はわれわれに、われわれの信仰によって、同様にまたわれわれの生活における諸状況によって、これらのスキャンダルに抵抗し、そして教会をこれらのスキャンダルから解放するであろう一つの計画を要求するために手段をお与えになった。そしてその計画とはファチマのメッセージである。

無視されたファチマ

今日不都合なことは祝せられたおとめよりも自分たちの方がもっとよく知っていると考える余りにも多くの人々が教会の中にいるということである。多くの教皇空位論者たちもまた、教会を救うために何がなされなければならないかに関して祝せられたおとめマリアよりも自分たちの方がよりよく知っていると考えているように思われる。通常、二十一世紀に教会を生き残らせるためには、新世界秩序のためのイルミナティ的/フリーメーソン的/共産主義的な計画と調子を合わせ、抱擁するために協力しなければならないと考えているのはあのバチカン高官たちである。

バチカンにおけるそれらの近代主義的高官たちは、カトリック教会が公共の場におけるその独自の道徳的な声に対して神からの権威を持っていないという近代主義的な誤りを受け入れなければならないと考えている。むしろ、彼らは自分たちが、この世の政府から、そして権力を持った人々から落ちてくるほんの少しの評価、あるいは名声、あるいは権力を望みながら、数千、数万のあの偽りの諸宗教のコーラスに加わらなければならないと考えている。

彼らはファチマの聖母に従うことを拒否することに協力している。彼らは誰にもショックを与えないために協力している。なぜなら、フリーメーソン的な新世界秩序の擁護者たちに従えば、一つの宗教は他の宗教と同様によいからである。実際、新世界秩序の人々自身が彼ら自身の宗教を持っている。しかし彼らは部内者たち以外のすべての者からこの事実を隠している。(この号の特別附録の Robert Sungenis の論考を見よ。コピーを持たない人はわれわれのところに請求してください。)

フリーメーソンは法廷においては一つの宗教として定義されてきた。それは旧約聖書のカナアン人たちの神々の宗教である。フリーメーソンは宗教に関して公平であると主張しているが、しかし実際は、教皇レオ十三世が指摘されたように、彼らはこのことを彼ら自身の異教的儀式を進め、彼ら自身の信仰を進めるため、そしてサタンを彼らの神として崇拝するための一つの盾として用いているのである。フリーメーソンについてこう書かれたのは教皇ピオ八世であった。「彼らの法は嘘であり、彼らの神は悪魔であり、そして彼らの儀式は邪悪である。」

バチカンにおける現在の多くの指導者たちは、彼らの無知のゆえに、「対話」、「エキュメニズム」そして「世界への開放」によって、彼らがすでにわれらの主を裏切ったということを見ることに失敗している。なぜなら、彼らは、万民を弟子とせよと命令なさったイエズス・キリストによって建てられた唯一の真の教会があるとうことを事実上否定するフリーメーソンおよび新世界秩序の計画を甘受することに同意したからである。彼らがそれを理解しているにせよ、あるいはしていないにせよ、これらの教会指導者たちはユダのように、世の諸々の権力に対する貢ぎ物の硬貨、銀30枚のためにわれらの主を売ったのだ。彼は無辜の血を裏切ったということを理解したが遅すぎた。そのようにまたまったく同じように、これらのユダたちは彼らの誤謬を理解するであろうが、それは彼らにとって遅すぎるであろう。

そして時が来るとき、反キリストの諸勢力は罠を仕掛け、われわれすべての者にまさに落ちかかろうとしている恐るべき迫害のゆえにカトリック教会を地下へと送るであろう。(p.32 聖母の要求を果たさないゆえの差し迫った懲罰を見よ。)なぜなら、われわれの指導者たちは盲目であり、盲人の指導者たちであったからである。

ところで、教皇空位論者たちはこのことを理解している。しかし不幸なことに、彼ら自身、一つの誤った解決を持ち出した。教皇のために祈る代わりに、ファチマの請願、ファチマ・ロザリオ十字軍、そして第三の秘密において予告されたこの大背教についての情報を促進する代わりに、盲人の盲目の指導者たちのために祈る代わりに、彼らのために償いをする代わりに、彼らは彼ら自身の ipse dixit によって、彼ら自身の側で教皇は教皇ではない、そして司教たちは司教たちではない、とまさしく宣言することによって、まさに彼らを追い払うことに決めた。

彼らの「神学的な推論」はその結果、司教たちは司教ではない、枢機卿たちは枢機卿ではない、大部分の司祭たちは司祭ではない、そしてわれわれは十億人のカトリック教徒のうちのたったの1パーセントの残りの者と共に取り残された -- 他のすべての者は失われている -- という理論を立てる。真のカトリック教徒であるのはただ彼ら、教皇空位論者たちだけである。彼らのうちのある人々は、司祭がミサ典書の中で教皇のために祈るならば、トリエントミサにさえ出席しないであろう。

彼らは自らを小教会運動と呼ばれるものへと追いやる。その中で彼らはこう言う:「あなたと私以外には誰一人救われない -- そして私はあなたについてそれほど確信が持てない」と。

このことは遙かにインテリ向きの用語で飾り立てられる。そしてその結果としてもっと多くの人々を誤り導いている。それは、教会が落ち込んでいる危機から教会を救い、市民社会を諸民族の絶滅から救い、全世界を反キリストおよびフリーメーソン、イルミナティ、共産主義、ファシズム -- そして何であれ、他の「諸々のイズム」および悪魔が所有している諸々の前線 -- の反キリスト教的諸運動によって奴隷化されることから救うであろう唯一の計画を支持することからよきカトリック教徒たちを妨げているのである。

奉献の中心的重要性

われわれは、ロシアの奉献はなされた、ロシアは回心した、そして平和はすでに世界のうちにあると言うロバート・J. フォックス神父のような -- ファチマ修正主義者たちの側に立ってはならない。これは馬鹿げたことである。ドラフト制度のもっともらしい復権に関するジョン・ヴェナリの論考が論証しているように(p. 24.合衆国はドラフト制度を復権させようとするのか? )、誰もが平和は存在しないということを知っている。誰もが、ロシアの回心は存在しない、そしていかなる教皇も聖母が要求なさったように奉献をされなかったということを知っている。

教皇ヨハネ・パウロ二世とシスター・ルチアは両者とも、ファチマの聖母によって要求されたようには奉献は行われなかったということに同意した。われわれはこのことを先号において論証した。(われわれのウェッブサイト www.fatimacrusader.com を見るか、この主題に関する無料の Fatima Crusader の論考を求めてください。)

The Fatima Crusader のこの号は教皇空位論者の立場を論じ、それがなぜ基本的に誤りであるかを説明している。多くの善意の人々は教皇空位論者たちの虚偽の議論によって騙されてきた。彼らの議論は完全なファチマ・メッセージ -- 世界と教会における危機に対する唯一の答え -- を促進することから彼らを思いとどまらせてきた。

同時に、このことには何らの緊急性もないと考える信徒たちにとっては、彼らはロシアの奉献がなされなかったゆえの差し迫った懲罰に関するクレイマー神父の論考(p. 32 聖母の要求を果たさないゆえの差し迫った懲罰)を読むべきである。彼の論考は、彼が為した諸々の点に非常な興味を示された多くの司教たちに彼が手渡した情報に基づいている。

クレイマー神父は汚れなき御心へのスペインの奉献をもたらすことを助けたとわれわれが考えているスペインの司教たちと会った訪問者たちの一人であった。(p. 17 を見よ。)われわれは、スペイン、セヴィリアが1936年に、マリアの汚れなき御心に奉献された唯一の司教区であったということ、そしてスペイン市民戦争で150万人のスペイン人が殺されたとき、-- 汚れなき御心への彼らの奉献のゆえに -- セヴィリアの全司教区においては一人の生命も失われなかったということを思い起こさなければならない。

ポルトガルは1931年にマリアの汚れなき御心に彼らの国を奉献したポルトガルの司教たちの結果として受けた祝福のその国自身の似たような物語を持っている。ポルトガルは血塗れのスペイン市民戦争を避けた。ポルトガルは共産主義による乗っ取りを逃れた。そして人類の歴史における最も悲惨な戦争、第二次世界大戦を -- 一人の兵士も傷つくことなく、またどんな土地の喪失もなしに -- 逃れた。

あなたはあなたの司教に、あなた自身の司教区を奉献し、少なくともあなた自身の地域におけるマリアの保護の特別の利益を受けるよう、勧めることの重要性をはっきりと見ることができる。

だからこそ、われわれは教皇ベネディクト十六世に2千500万の請願を送るわれわれのキャンペーンにあなたが参加するよう勧めるのである。The Fatima Crusader のこの号は聖母の十字軍の隊列において今あなたの位置を定め、あたかもそれがすべて神にかかっているかのように祈り、それがすべてあなたにかかっているかのように働くための大きな警告を発している。

この大きなキャンペーンのためにあなた自身の請願用紙を手に入れ、また友人たちのために余分のコピーを得るためには電話、手紙、 E メールによってわれわれとコンタクトを取ってくださるか、あるいはわれわれのウエッブサイトを見てください。コンタクト情報に関してはp. 63 を見てください。
この号をできるだけたくさんの人々の手に渡るようどうぞわれわれを助けてください。

2005/08/13 三上 茂試訳

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作成日:2005/08/13

最終更新日:2007/09/27

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