ファチマ・ニュース

ファチマの第三の秘密と公会議後の総崩れ

(第一部)1998/02/17

クリストファー・フェララ

第二部 第三部 第四および第五部

ウエッブ・マスターの注:昨年10月13日はファチマでの太陽の奇跡の80周年記念の日であった。80年の歳月が過ぎ去ったけれども、世界は今なおファチマの完全なメッセージを受け取っていない。メッセージの一部、第三の秘密は、「1960年よりは遅くなく」明らかにされなければならないという聖母の御要求にもかかわらず抑えられたままである。多くのファチマ専門家たちは第三の秘密の内容が教会と世界における信仰の大喪失に言及していると信じた。最初 Catholic Family News に載せられた五部からなる特別のシリーズにおいて、クリストファー・フェララは1960年という決定的な年に至るまでの諸々の出来事についての歴史的概観と第三の秘密の抑圧に直ちに引き続いた教会と世界における混沌の描写とを提供している。

1962年10月11日、ファチマでの祝せられたおとめマリアの最後の御出現と太陽の奇跡の45周年記念日の二日前に、教皇ヨハネ二十三世は第二ヴァチカン公会議の開会を宣言された。ヨハネ教皇はこの公会議の召集が「目と心に甘美さを注ぐ天上の光の閃きのように、完全に思いがけないものであった」と集まった司教たちに告知することを喜ばれた。注1)

その上、この思いがけずに召集された公会議は、共産主義を含む教会と世界に脅威を与える諸々の誤謬のどれをも断罪する努力をしないのであった。なぜなら、「今日では...キリストの花嫁は厳格さの武器よりはむしろ憐れみの薬を用いる方を好む」からである。「教会は非難を発することによってよりはむしろその教えの妥当性を証明することによって現代の諸々の必要を満たすことを考慮している。」注2)ピオ十二世が使徒座に取って置かれた職務停止と自動的破門と並んで、共産主義およびネオ近代主義の容赦のない非難を発せられたことを考えるならば、「今日では」によって、たぶんヨハネ教皇は彼の前任者以来経過した4年のことを意味されたのだ。

ヨハネ教皇に彼の公会議を召集するように駆り立てた「天上的な光の閃き」は彼が単純な言葉:エキュメニカルな公会議のわれわれの心および唇への最初の突然の浮上」を経験された1958年の終わりにヴァチカン庭園での散策の間に起こった。1959年1月25日にヨハネ教皇は彼の突然のインスピレーションを枢機卿会に告知された。彼らの反応は茫然とした沈黙であった。注3)

ヨハネ教皇は、公会議に自らと教会とを委ねた八ヶ月後に、1917年にコヴァ・ダ・イリアでの聖母の御出現の最後の生き残りの幻視者シスター・ルチア・ドス・サントスの手書きのノートに書かれたあの23行のファチマの第三の秘密を読まれたであろう。最初の二つの「秘密」はシスター・ルチアの手記の形ですでに1942年に世界に公表されていた。しかしシスター・ルチアは第三の秘密の封印されたテキストをファチマ・レイリアの司教に委ねていた。司教はそれをいつでも公表することができたであろう。しかしながら、その封印された封筒はヴァチカンへの道を辿り、ピオ十二世の教皇宿舎にある木製の保管箱に保管された。ピオ十二世は1958年に亡くなられる前に第三の秘密を読まれることはなかったと一般には考えられている。

シスター・ルチアはファチマ・レイリアの司教にその秘密が彼女が死んだときには世界に対して読まれること、どんな場合も1960年より遅くではないことを約束させた。「なぜなら、聖母がそうお望みになっているからです。」シスター・ルチアが後にオッタヴィアーニ枢機卿とカノン・バルテス(有名なファチマ専門家)に説明するであろうように、聖母は彼女に秘密は1960年には公表されなければならないと告げられた。「なぜなら、それはもっと明白なものとなるでしょうから。」1946年にポルトガルの総大司教であるカレイェイラ枢機卿は秘密が「1960年に開けられるだろう」と公的に約束された。ローマは何ら反対の声を挙げなかった。反対に、オッタヴィアーニ枢機卿とティッセラン枢機卿は、他の多くの教会権威者たちが何年にもわたってそうしてきたように、カレイェイラ枢機卿の約束を公的に繰り返された。注4)「ゼロ 1960」と銘打たれたアメリカのテレビさえあった。それはその主題を秘密の普遍的に期待された公開から取ったのである。かつて戦闘的であったブルー・アーミーによって製作されたその番組は非常に人気があったので、ニューヨーク・タイムズにおいて「スター」ランキングを獲得したほどであった。注5)

そしてそのように、1959年が終わりに近づくにつれて、世界中のカトリック教徒はファチマのメッセージの差し迫った完結を熱心に待った。ピオ十二世の在位期間中に花開いたマリア信心は期待において新しい絶頂に達した。しかしその期待は実現しなかった。1960年2月8日、信徒は衝撃的なニュースを受け取った:すなわち、あるポルトガルの新聞社の二重の隠れ蓑を通じて行動しながら、匿名の「ヴァチカン筋」が第三の秘密はその年に知らされないであろう、そして「おそらく永遠に絶対的な封印の下にとどまるであろう」ということを知らしめた。注6)

明らかに恥をかかせられて、カレイェイラ枢機卿は公的にこう宣言された:「私は相談を受けなかったということを断固主張する」。当時のブルー・アーミーのスポークスマンであったジョン・ハッファートは後に信徒たちの嘆きを以下のように表明するであろう:

「1960年が来た。そして去った。秘密を委ねられた教皇はそれを公にはなさらなかった。彼は御自分がそれを開けたという事実をさえお知らせにならなかった。ローマからの沈黙はわれわれすべての者の上に重くのしかかった。人々は、ファチマは偽物だったに違いない、秘密は存在しなかった、1960年の秘密は悪ふざけだったのだ、とささやき始めた。[1964年まで]1960年の秘密に関する長い沈黙の結果は暗い帳のようにわれわれの上に覆い被さっているように思われた。」注7)

祝せられたおとめマリアによって地上に運ばれた秘密はそれが委ねられた人々によって葬り去られた。ファチマのメッセージは不完全なままに残るであろう。ヨハネ教皇が秘密を読まれ、それを「絶対的な封印の下に」置かれた2年後に、第二ヴァチカン公会議が召集された。当時のリベラルなメディアは教会の中に起ころうとしている大きな変化の噂で満ちあふれていた。その公会議は、その先例のない非カトリックの「オブザーバーたち」とその奇妙に曖昧な諸文書とともに、彼らを失望させなかった。公会議の実施に関して言えば、それは彼らの最も熱狂的な夢想をも越え出るであろう。

秘密の書き下ろし

ダ・シルヴァ司教は数ヶ月の間病気であったシスター・ルチア・ドス・サントスが1943年のあの10月にスペイン、トゥイの修道院で死ぬかもしれないことを非常に恐れた。抗生物質が出回る以前の時代には肋膜炎の症例は容易に末期の病気となり得た。今彼女が死んだならば、彼女は計り知れないほどの重要性をもった仕事をしないままに残すことになったであろう。

1941年にシスター・ルチアはファチマの大きな秘密の最初の二つの部分を書き物にして、彼女の第三および第四手記を書いていた。彼女はそれをすでにその実質においてピオ十二世への覚え書きにおいて伝えていた。われわれは聖母が幻視者に明らかにされた秘密の最初の二つの部分をよく知っている:

「あなたがたは哀れな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。私があなたがたに言っていることがなされるならば、多くの霊魂が救われるでしょう。戦争[第一次世界大戦]は終わるでしょう。しかし、人々が神に背くことを止めないならば、ピオ十一世の御代の間にもっとひどい戦争[第二次世界大戦]が起こるでしょう。未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇の迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられるのです。」

「このことを避けるために、私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために来るでしょう。もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」

われわれはまた、秘密の最初の二つの部分に含まれていたすべての預言が(諸民族の絶滅を除いて)実現されてきたことを知っている。そして予告された懲罰によって教会と世界が今なお苦しんでいることを知っている。もちろん、諸々の預言が真実であったことを疑う理由はほとんどなかったであろう。なぜなら、シスター・ルチアは神によって一つの並はずれた信任状を与えられてきたからである。世界の歴史の中で誰一人、モーゼでさえ、ルチア・ドス・サントスという名の一人の少女を除いて一つの公的な奇跡の正確な日づけと時間とを正しく予告したことはなかった。無神論者を含むおよそ7万人の人々は聖母がルチアにそれが起こるでしょうと告げられたまさにその時間にその場所で太陽の奇跡を見たのであった。神が一人の信頼できない証人にこの先例のない信任状を無駄にお与えになったであろうと示唆することはほとんど冒涜であろう。

シスター・ルチアの証言の神的な確証のことを考えるならば、ファチマの偉大な秘密が教会の生命と伝承との中に同化されるであろうということは何の問題もあり得ないであろう。そしてそれゆえに、今日までわれわれは初土曜日の償いの聖体拝領を実践しているのであり、またわれわれのロザリオは、秘密の第二部が終わったすぐ後に聖母がシスター・ルチアに口述なさったまさにその祈り:「おお、わがイエズスよ、われらの罪を赦し給え、われらを地獄の火より救い給え、すべての霊魂、特に主の御憐れみを最も必要としている人々の霊魂を天国に導き給え」という祈りを含んでいるのである。

しかし、偉大な秘密の第部、それ自体で「ファチマの第三の秘密」と呼ばれるようになった部分についてはどうなのか? シスター・ルチアはその第三の手記において「秘密は三つの部分から成っています。そのうちの二つを私はこれから明らかにしようとしています」ということを明らかにした。彼女はその第四の手記において、「私が今の所明かすことを許されていない秘密のあの部分」を落としながら、もう一度最初の二つの部分を述べ直した。しかし、第四手記においてシスター・ルチアは第三手記においては現れなかった秘密の一つの付加的な断片を明らかにした:すなわち、「おお、わがイエズスよ」の前、そして秘密の第二の部分の終わりの後に、われわれは明らかにその内容を欠いた以下の奇妙な文章を見出すのである:

"Em Portugal se conservera sempre o doguema da f,."「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう。」

秘密の最初の二つの部分は世界のどこかにおける教義の喪失については何も言っていない。それではポルトガルにおける教義の維持へのこの言及はなぜなのか? そこで、第三の秘密は世界の残りの部分の至る所での教義の喪失についてわれわれに警告しているのではないか?

シスター・ルチアの直轄の司教としてダ・シルヴァ司教は、すでに教会の生命と人類の歴史の過程にそのように大きく影響を与えてきたあの偉大な秘密の残りを明らかにすることなしに彼女が死ぬことがないように保証する彼の義務を確かに理解していた。これは回想における単なる訓練ではなかった。それは教会と世界に対する一つの重大な義務であった。もし彼女が死んだらどうなるだろうか?

1944年9月にダ・シルヴァ司教はシスター・ルチアが、現在われわれが第三の秘密として言及しているもののテキストを書き下ろすよう、示唆した。しかし彼女は公式的な書面での命令なしに自分はその責任を引き受けることはできないと言った。その命令が一ヶ月後に与えられたときでさえ、諸々の戦争、飢饉、迫害そして諸民族の絶滅について自由に書いてきた幻視者はこれらの出来事よりも彼女にとって明らかに遙かに困惑させるものであった一つの預言を紙に書き留めることができなかった。上長に対して従順の生活を送ってきた彼女は文字通り彼女の手を紙の上に動かすことができなかった。彼女はこの麻痺状態を一つの超自然的な原因に帰した。注8)

最終的に1944年1月2日にシスター・ルチアはトゥイの修道院のチャペルで秘密のテキストを書き下ろすことができた。カノン・マルティンス・ドス・レイスの説明に従えば、彼女は「聖母が...彼女に求められてきたことに一致して...あの有名な秘密を書くように彼女に告げるために御出現になった後に」初めて先へ進むことができたのである。注9)

1944年1月9日に、シスター・ルチアはダ・シルヴァ司教に、ファチマの第三の秘密が書き下ろされ、封印された封筒の中に入れられたということを告げる手紙を書いた。1944年1月17日にその封筒はトゥイにおけるシスター・ルチアの司教の聴罪司祭によってダ・シルヴァ司教に届けられた。五ヶ月の遅延はその封筒を司教以外の誰かに委ねることにシスター・ルチアの気が進まなかった - 司祭にさえそうしたくなかった - ことに由来した。ダ・シルヴァ司教はその封筒を聖座へ転送することを申し出た。秘密の重荷はダ・シルヴァ司教の上にとどまるであろう。彼は、その封筒は開かれ、秘密は1960年よりは遅くならないように明らかにされることになろうという有名な約束をルチアにしたのである。

1955年5月のオッタヴィアーニ枢機卿によるシスター・ルチアに対する緊急の尋問の後に検邪聖省は第三の秘密のテキストのその最初の拒否を撤回し、リスボンの教皇使節によってその封筒がローマに届けられことを要求した。封筒が教皇使節にもたらされる直前にダ・シルヴァ司教の補佐であるヴェナンシオ司教はその封筒を光にかざしてみた:彼は現代世界の歴史における最大の神秘の一つを含んでいるシスター・ルチアの手書きの23行を明瞭に識別することができた。1957年春までにファチマの第三の秘密はヴァチカンに届けられた。

ロシアの諸々の誤謬の蔓延

第三の秘密の書き下ろしとそれのローマへの伝達との間の数年はもちろんロシアが「諸々の戦争と教会に対する迫害を引き起こしながら、世界中にその諸々の誤謬を広めるでしょう。善人は殉教し、教皇は多く苦しむでしょう」という聖母の警告の一つの長い実現であった。

ヤルタで1945年2月に、ルーズヴェルトはアルバニア、エストニア、ラトヴィア、リトゥアニア、ポーランドおよびウクライナのカトリックの人々を、宗教的自由に対する尊敬というスターリンの価値のない約束と引き替えに、ボルシェヴィキの手に引き渡した。スターリンはそれから数千万人のカトリック教徒を虐殺し、拷問し、餓死させることへと進んだ。ギリシャ・カトリック教会はKGBによって支配された正教会へのその強制的な移行によって撲滅させられた。正教会はカトリックの聖職者たちが殺され、あるいは投獄された後にカトリックの小教区や司教座聖堂等をただ正教会へ収用しただけであった。正教会の位階それ自体も5万人の司祭および司教から単なる500人のKGBスパイの聖職者へと減少させられた。

ポツダムで1945年7月および8月に広島とカトリックの都市である長崎に原爆投下を命じた後で、トルーマンはスターリンに満州と38度線までの北朝鮮を贈り、3千万人の追加的な犠牲者を産み出した毛沢東と文化大革命への道を開いた。毛沢東はスターリンが親切にも備蓄し彼の赤色中国の同志たちのために残しておいた日本軍の放棄した兵器をもって蒋介石を打ち破った。

第三の秘密がその封印された封筒の中にとどまっていた間に、ロシアの諸々の誤謬は急速に全世界に感染した。1958年のヨハネ二十三世の統治の始めまでに人類の三分の一が、世界の残りがその従兄弟である社会主義といちゃついている時に、共産主義によって奴隷化された。そしてソビエト・ロシアにおいて最初に産み出された避妊と中絶の政治制度への屈従が始まった。ロシアの諸々の誤謬の中の中絶だけで世界中の6億の無垢の子どもたちの生命を要求したであろう。そしてアメリカにおける3800万以上の被害者たちは歴史におけるすべての戦争におけるすべての軍隊の死者よりも遙かに大きく、ロシアと中国の共産主義による死者の数をさえ遙かに超えるのである。

ピオ十二世は、その回勅 Divini Redemptoris の中で、共産主義を「本質的に正道を踏み外したもの」として公然と非難され、「キリスト教文明と社会秩序を救おうとする者は誰も、どのようなものであれいかなる企てにおいても共産主義と協力することは許されない」と警告された。1949年6月13日にピオ十二世は検邪聖省を通じて、いかなる仕方においても、共産主義者に加わりあるいは彼らを援助する者、共産主義の文献を読む者さえ、秘蹟を拒否されるであろう、そして共産主義者たちの教説を公言する者は「法それ自体によって、カトリック信仰からの背教として、聖座に特別に取って置かれた破門を招く」であろうということを布告することによって、共産主義に対する教会の容赦のない反対を再び断言された。共産主義によって全世界が感染させられるとともに、これらの断罪はしっかりと持ちこたえるであろうか? それともロシアの諸々の誤謬が教会それ自身の人間的諸要素のうちにさえ広がるであろうか?

1957年12月4日にダ・シルヴァ司教は亡くなられた。1958年10月9日にピオ十二世は明らかに第三の秘密を読まれることなく亡くなられた。第三の秘密は彼の教皇宿舎の小さな木製の保管箱の中に鍵をかけられたままになっていた。

1960年にヨハネ教皇はその秘密を読まれそしてそれからそれを彼の机の抽斗に預けて公表を禁止された。抽斗が閉じられるや否や間もなくロシアの諸々の誤謬に対する教会の反対は和らげられ始めた。そしてそれから事態は教会自身の内部でその全歴史においてかつて見られなかった仕方で恐ろしく間違った道を進み始めた。

第二ヴァチカン公会議のオープニング・セッションにはロシア正教のスパイ教会から二人の「オブザーバー」:ヴィターリ・ボロヴォイとウラディーミル・コトリャロフが出席した。彼らの出席は、公会議が共産主義のいかなる断罪をも慎むというヴァチカンの信じられない約束を代価として確保されたのであった。「ヴァチカン・モスクワ協定」が、ロシア正教会首都大主教で KGB のスパイであるニコディムとティッセラン枢機卿との間の折衝の後、フランス・メッツで秘密裡に締結された。注10)

ヴァチカン・モスクワ協定は後に教皇パウロ六世となり、ヨハネ教皇の公会議の残りの部分を主宰することになるであろうモンティーニ枢機卿の提案によるヨハネ二十三世の個人的なイニシャティヴであった。モンティーニはまだモンシニョールであったときにピオ十二世の下での国務副長官としての彼の地位から突然解雇されミラノ大司教へと左遷させられた。昇進の撤回によるモンティーニのこの解雇はモンティーニが教皇の知るところなしにソビエトとの内密の外交関係を始めたということをピオ教皇が文書による証拠をもって示された後に起こった。注11)モンティーニの所有物を入れた大型有蓋トラック数台はミラノに出発する前にヴァチカンの当局者たちによって捜索された。注12)

未来の教皇の突然の解雇は教皇の命令への隠しだてをする不従順の経歴をしのいだ。例えば1930年代にローマにおいて禁止されていたカール・アダムの準異端的な書物カトリシズムの精神が何冊も彼のアパートに買いだめて蓄えられ、信頼できる友人たちに配布されていた。注13)彼に敬服している伝記作者ピーター・ヘッブルスウェイトは「1950年代初期に神学者たちが非難されていたとき、彼らはヴァチカンにおいて[モンティーニ]から常に好意的な歓待を受けるのであった。そして最近のオッタヴィアーニ事件に肩をすくめるのであった」注14)と述べている。オッタヴィアーニは当時ピオ十二世の検邪聖省長官であった。彼は公会議後の「刷新」についてのリベラル派の作り話において常に極悪人としての役を振り当てられている。そしてモンティーニは、公会議前の「迫害」の暗黒時代の間燃え続けている自由の火を守った偉大な英雄としての役を振り当てられている。

モンティーニをミラノへ移す際にピオ十二世は、ミラノが伝統的に枢機卿の地位の司教座であったけれども、彼を枢機卿にすることを拒否された。ピオ十二世はそのことによってモンティーニを教皇の継承権の線から締め出されたのである。しかしモンティーニはヨハネ二十三世によって産み出される第一の枢機卿となるであろう。ヨハネ教皇はその選挙の時に、自分はモンティーニのためにペトロの座を暖めておくのだと冗談を言われた。

ヨハネ教皇は、1963年彼の死の二ヶ月前に、その回勅 Pacem in terris を出された。その回勅は信徒が共産主義といかなる仕方でも関わることを非難する彼の先任者たちの教え全体を掘り崩すものであった。悪いイデオロギーとそれが産み出す歴史的な運動との間の新奇な区別を導入しながら、 Pacem in terris は共産主義の断罪された諸原理に必ずしも同意することなしに、人はさまざまの国において合法的に共産主義者の諸々の運動に参加することができると示唆した:「それらの運動のうちには、それらが正しい理性の命令に一致し、そして人間人格の合法的な向上心の解釈者である限りにおいて、建設的でかつ是認に値するものである諸要素を含んでいるということを誰が否定することができようか?」注15)換言すれば、人は共産主義者にならない限り共産主義の運動に参加することができるであろう!

しかし Divini Redemptoris における教皇ピオ十一世の教えについてはどうなのか? ヨハネ教皇の先任者はカトリック教徒に正確に「建設的である諸要素」を持っているそれらの共産主義者の影響を受けた諸運動を避けるように警告された。

「最初共産主義はそれがそのすべての邪悪さにおいてそれであったもののために姿を現していた。しかし間もなくそれがこのようにして人々を遠ざけていることを理解した。それゆえ、共産主義はその戦術を変えた。そして、それ自身においてよいそして魅力的である諸観念の背後にその真の計画を隠しながらさまざまの形式における策略によって大衆を誘惑しようと努めているのである...共産主義を暗示しないさまざまの名称の下に...彼らは公然のカトリックの宗教的諸組織の中にさえ裏切り的に徐々に信用を得ようと努めている...彼らはカトリック教徒にいわゆる人道主義および慈善の領域において彼らと協力するように招いている。そして時にはキリスト教精神や教会の教えに完全に一致する提案をしたりする...忠実な兄弟たちよ、信徒は欺かれることを自らに許さないように気をつけなさい。

ピオ十一世の警告はピオ九世、ピオ十世、ピオ十一世そしてピオ十二世による教皇たちの一連の警告のただ一つにしかすぎない。それらの警告を1960年以後の諸教皇は、ある奇妙な忘却のプロセスによって、もはや想起されなかったと思われる:つまり、近代主義に対する警告、共産主義に対する警告、すべての教派のための「宗教的自由」という偽りの教説に対する警告、「エキュメニカルな運動」へのいかなるカトリック教徒の参加にも反対する警告、聖なる典礼を勝手に変えることに対する警告などである。

Pacem in terris の公布の少し前にヨハネ教皇はニキタ・クルシチョフの女婿アレクシ・アジュベイとヴァチカンで握手しているところを写真に撮らせることを許された。会合が行われる前にヨハネ教皇はイタリアの政治にそのことが及ぼす影響について心配された。しかし彼はとにかく事を進められた。注16)1963年のイタリアの選挙においてイタリア共産党は100万人の票を獲得した。そしてキリスト教民主党はそれに相応する逆転を蒙った。注17)

ヨハネ二十三世とパウロ六世は、われわれが「時代のしるし」を読まなければならないということをわれわれに教える公会議を主宰されるであろう。しかし公会議それ自体は世界を取り巻いている世界における悪の最大のしるしを、その悪のまさに犯行者たちとの秘密の協定の下で無視しながら、無視するであろう。公会議はまたわれわれの世紀における「時代のしるし」の最大のものであるしるし:わずか2年前にヨハネ教皇によって抑圧されてしまったメッセージの部分を含むファチマのメッセージをもまた無視するであろう。

「破滅を招く人類の状況」

第二ヴァチカン公会議の間そして後に起こったことはファチマの展望から見れば何ら驚くべきことはではなかったであろう。実際教皇ピオ十二世はファチマのメッセージの光において不気味な預言的正確さをもってそれを予告された。

「私はファチマのルチアに対する祝せられたおとめ[マリア]のメッセージによって心配している。教会に脅威を与える諸々の危険についてのマリアのこの固執は信仰と教会の典礼を変更することについての自殺に対する神の警告である。文明化された世界は、ペトロが疑ったように教会が疑うであろうとき、その神を否定するであろう。教会は人間が神となったということを信じるように誘惑されるであろう...われわれの教会において、キリスト者は神が彼らを待っておられるところで赤いランプを探すが無駄であろう。マリア・マグダレナのように、空になった墓の前で泣きながら、彼らはキリストをどこに連れ去ったのか、と問うであろう。」注18)

確かに「ファチマのルチアに対するおとめのメッセージ」は一つのエキュメニカルな公会議のための彼自身の計画を続けないというピオ十二世の決断に加担した。実際、オッタヴィアーニ枢機卿を含む教皇自身の特使たちは公会議のための計画が破棄される前に1955年にシスター・ルチアから直接の情報を得た。彼女は彼らに第三の秘密について告げたか? おそらく、教皇御自身もまた、「一般公会議を召集することは、絶対的に必要であるとき以外は、神を試みることである」という偉大なマニング枢機卿(パラヴィチーニ枢機卿を引用しながら)の有名な忠告を心に留めておられたであろう。

ピオ教皇はまた御自分が老齢なのに、前任者である教皇聖ピオ十世が力をこめて封じ込めようと骨折られた教会内部のまさにあの諸勢力を統制できるかどうかを熟慮されたに違いない。彼の偉大な前任者を列聖されたのはピオ十二世御自身であった。ピオ十世の足跡に従いながら、彼は Humani generis においてネオ近代主義者たちを断罪された。彼は、ピオ十世が知っておられたように、近代主義者たちが今なお「教会のほとんどまさに心臓部において」活動していること、そして近代主義者は非難されるときには「しばらくの間その頭を垂れる」かも知れないが、「その頭は間もなく以前よりももっと傲岸にもたげられる」ということを知っておられた。注19)それゆえに、老齢の教皇によって不用意に召集された公会議がまさにピオ十二世が恐れられたこと:「信仰と教会の典礼を変えるという自殺行為」への招きではなかったであろうか?

公会議前の時代の諸々の偉大な回勅を急いで読んだ者でさえ、ピオ十二世によって表明された警鐘が、ヨハネ二十三世までの偉大な十九世紀および二十世紀の諸教皇の宣言において展開された警告の真の教えの一部であったということに気づくであろう。グレゴリオ十六世、ピオ九世、レオ十三世、ピオ十世、ピオ十一世そしてピオ十二世は近代主義の偽りの諸原理を世界が喜んで採用することが文明を破滅へともたらすこと、そしてピオ十世が Pascendi において「誤謬のパルチザンたち」として記述なさったものによって教会が以前に決してなかったような仕方で脅かされるということを警告なさる点で一致しておられた。

ピオ十世は、ファチマの聖母の最初の御出現の14年前に出された彼の最初の回勅 E Supremi において、教会と世界にとって今にも起こりそうな苦難についてのおそらく最も劇的な警告を発せられた:

「われわれは現代の人類の破滅的な状況を考察することに一種の恐怖を感じた。われわれはそのような深刻で重大な悪を無視することができるのか? その悪はこの瞬間に過去においてよりも遙かに多くまさにその核心において活動しており、破滅へと導いている....本当にこれらの事柄を熟考する者は誰でも必ずそして固くそのような精神の正道からの逸脱が終わりの時の告知そして始まりのしるしでないかどうかを恐れなければならない...宗教が至る所で嘲笑され、人々が信仰の教義と戦うその図太さの何と大きいことか...人は言葉に表せない大胆さをもって、神の名を帯びているすべてのものの上に自らを高く上げて、創造主の場所を簒奪した。」

ピオ十二世は1949年2月11日の書簡の中で世界の状態における先例のない悪化のこのテーマを繰り返されるであろう:「われわれは正道を踏み外した人々の邪悪さが信じられないそして他の時代には絶対に知られなかった不敬の程度に達したということを見て悲しみと苦痛に圧倒される。」注20)

ヨハネ二十三世は彼の先任者たちの警告を共有されなかった。反対に、ピオ十世によって見られた世界よりも遙かに大きく堕落した世界において、ヨハネ教皇はどういうわけか非常に楽観主義的であられた。実際、ポルトガル人の翻訳者の助けで第三の秘密を読まれた後、彼はこう宣言されたと報じられている:「これは私の教皇在位の数年とは関係がない」。注21)公会議への開会の挨拶の中で、ヨハネ教皇は「われわれの時代が過去の時代と比較してより悪くなっていると言う」者たちに対する明確な苛立ちを表明された。「...われわれは、あたかも世界の終わりが近づいたかのように、常に大災難を予言する陰鬱の預言者たちと争わなければならないと感じている。」教皇聖ピオ十世とはそのような人だったのだ!

第二ヴァチカン公会議は、「それは教会において日の出、最も輝かしい光の先駆けのように昇る。それは今はただ夜明けにしか過ぎない」と幸福感に溢れて叫んでおられるヨハネ教皇と共に、進展するであろう。ヨハネ教皇の机の抽斗の暗闇の中にはファチマの第三の秘密が世界から隠されて置かれたままになっている。

脚注:

  1. Council Daybook, National Catholic Welfare Conference,Washington, D.C., Vol.1, p. 26.

  2. Ibid. p. 27.

  3. 3. Davies, Michael. Pope John's Council Angelus Press, Kansas City, Missouri(1992), p. 2.

  4. Frere Michel de la Sainte Trinite . The Third Secret. Immaculate Heart Publications, Buffalo, NY(1990), p. 528.

  5. A complete review of the overwhelming evidence that the Secret was to be disclosed not later than 1960 can be found in The Third Secret, the work cited above, at pp. 470-478.

  6. Ibid. p. 586.

  7. Ibid.

  8. The Third Secret, p. 45.

  9. Ibid. p. 48.

  10. Amerio, Romano. Iota Unum. Sarto House, Kansas City, MO(1996), pp. 75-77. Amerio was a peritus at Vatican II, and was intimately familiar with its documents and the havoc they have caused in the Holy Catholic Church. He died in January of this year.

  11. The Third Secret, pp. 454-60.

  12. Hebblethwaite, op cit. p.

  13. Hebblethwaite, Peter. In The Vatican, Oxford University Press, p. 35.

  14. Ibid.

  15. Pacem in terris, No. 159.

  16. Hebblethwaite, Peter. Paul VI, The First Modern Pope.Paulist Press, NY(1993), p. 317.

  17. Pope John's Council, p. 144.

  18. Devant l'histoire, p. 52-53, quoted in Inside the Vatican,January 1997, p. 7.

  19. Pascendi, No. 3.

  20. Frere Michel, op cit. p. 269.

  21. Ibid., p. 557[quoting the account of Father Alonso]

2006/07/06 三上 茂 試訳

作成日:2006/07/06

最終更新日:2006/07/06

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