ファチマ・ニュース

ファチマの第三の秘密と公会議後の総崩れ

(第三部)1998/03/31

クリストファー・A. フェララ, Esq.

第一部 第二部 第四および第五部

公会議教父であるルドルフ・グレイバー司教は彼の書物アタナシウスとわれわれの時代の教会において「最大の革命は...一つの地下の段階によって先行される。その段階は第二の段階、すなわち潜伏の段階、によって引き継がれ、それから爆発が起こる。」と述べられた。注43)(強調は筆者)

ほとんど60年の間、ネオ近代主義的革命は教皇聖ピオ十世がペトロの役職の完全な重みをもって課して来られた厳格な尺度によって爆発を妨げられたその潜伏段階において保たれてきた。ピオ十世はその記念碑的な回勅 Pascendi において近代主義者たちを扱う唯一の方法は彼らの正体を暴き、彼らを教会から根絶しそして彼らの諸々の働きを抑えることであると教えられた。なぜなら、もし自由に放置されたならば、「彼らが触れないままにしておくカトリック真理のどの部分もなく、彼らが堕落させようと努めないものは何もない」からである。注44)最後に列聖された教皇はその布告 Lamentabili の中で、世界の司教たちは「すべての世俗的な軽率を足下に踏みにじりそして邪悪な者の抗議を無視してすべての悪い書籍と書き物とを禁止し信徒の手からもぎ取ら」なければならないと宣言された。これは今日のいわゆる「保守的な」カトリック教徒でさえとまどいを覚えさせるものだと感じる言葉である。注45)信徒の保護のために、聖ピオ教皇は司教区の監視委員会の設立、近代主義的な主張を含んだ、あるいは近代主義の気味のあるものすらのすべての出版物の注意深い調査と検閲、近代主義の書籍を禁書目録に載せること、そして修道会、神学校および大学学部からのすべての近代主義者の解任を命じられた。そして Sacrorum antitistum と題されたその Motu proprio の中で、教皇はカトリック教会におけるすべての司祭と神学者が教皇が作られた近代主義に反対する誓いに署名することを要求されることを命じられた。抗議の嵐にもかかわらず - プロテスタントの神学者たちは彼らの激怒をその抗議に加えた - 全ヨーロッパでその誓いに署名することを拒否したのはわずかに24名の司祭たちであった。注46)革命は50年間以上も根絶されてきた。

それから教皇ヨハネ二十三世が来られた。われわれは公会議の開会の挨拶の中でヨハネ教皇が「常に大災厄を予告している[ピオ十一世を含む]あの陰鬱の預言者たち」をけなされたのを見た。集まった司教たちの荘厳な光景によって引き起こされた幸福感の波に乗ってヨハネ教皇は彼の公会議を一つの「新しいペンテコステ(聖霊降臨祭)」として描写された。1962年のその最初のセッションの最後の日に教皇は「天がわれわれの頭上に開かれ、天上の王宮の輝きがわれわれの上を照らしている」と叫ばれた。注47)

6ヶ月後にヨハネ教皇は亡くなられた。しかし公会議は続き...そしてずっと続いた。しかしながら、1965年12月にひとたび公会議が最終的に終わると、「陰鬱の預言者たち」が正しかったこと、そして第二ヴァチカン公会議が「新しいペンテコステ」であるどころか、実際のところキリストの体[教会]における自ら招いた傷であるということを発見するのにそれほど時間はかからなかった。その傷を通して破壊のネオ近代主義的工作員たちは教会の主流の中へと上機嫌で入り込み、勝利を宣言し、もし彼らが自由を与えられたならばするであろうと聖ピオ十世教皇が警告されたまさにそのこと:すなわち、彼らの毒を「教会の心臓部に」広めること、をし始めた。注48)

第二ヴァチカン公会議が主として、教皇聖ピオ十世が建設された防波堤を取り壊すことにおける一つの練習であったということは歴史の事実である。このことを確証するために人は、彼自身公会議の peritus (専門家)であったモンシニョール・ルドルフ・G. バンダスの目撃証言より以上のものを見る必要はない。公会議が終わったわずか2年後にモンシニョール・バンダスは次のように問わざるを得なかった:「どのようにしてわれわれの教会はそのように短い時間のうちにそのように駄目にされることができたのか?」注49)彼自身の問いに答えながら、モンシニョール・バンダスは進歩主義者のヘルダー・カマラ司教がヨハネ教皇を賞賛した言葉を引用している。その賞賛の理由は、「われわれの時代の偉大な神学者たちの多くをヨハネ教皇が公会議の専門家として公会議の直前に指名されたその勇気である。教皇が任命された者のうち多くの者は嫌疑のブラックリストから現れ出て来た者たちであった。」すなわち、彼らはピオ十二世と検邪聖省の譴責と非難から出て来た人々であった。

公会議で主要な役割を果たすために「嫌疑のブラックリスト」から現れ出た人々のうちの二人はエドワード・シレベークスとハンス・キュングであった。公会議の非常に注意深い準備全体の放棄へと導いた、公会議のための完全に正統の準備概要に反対する彼らの宣伝を同等のものとするために「ライン・グループ」の司教たちによって採用された決定的な480ページの批判を書いたのはシレベークスであった。注50)シレベークスは後に[キリストの]処女からの誕生の歴史性、聖体の制定、復活、そして教会の創設に関する彼の法外に異端的な見解のためにヴァチカンの審査の下に置かれた。彼は「これわが体なり...これわが血なり」という言葉はわれらの主によって実際に決して話されたことはないと厚かましくも論じた。注51)彼の猛烈な非難を浴びせる異端にもかかわらず第二ヴァチカン公会議のこの指導的な peritus はいかなる教会法上の処罰を受けさせられたことが一度もなかった。キュングはもちろん最終的に11年の審査の後に断罪され、1979年に神学を教える彼の免許を剥奪された。にもかかわらず彼は今なお学者であるよい身分の司祭としてとどまっている。

公会議を振り返って、モンシニョール・バンダスは、シレベークスやキュングのような「偉大な神学者たち」にまで無邪気に拡大されたヨハネ教皇の恩赦が一つの破滅的な誤りであったと結論づけざるを得なかった。

「疑いもなくよきヨハネ教皇はこれらの嫌疑のある神学者たちが彼らの考えを訂正し、教会への真正の奉仕を行うであろうと考えられた。しかしまさに正反対のことが起こった。何人かのラインの公会議教父たちによって支援されて、そしてしばしばまったく礼儀知らずのやり方で行動しながら、彼らは歩き回りそして叫んだ:『見よ、われわれは専門家に指名されている、われわれの考えは承認を受けているのだ』と...私が第四セッションの最初の日に公会議での私の議員席に入ったとき、国務長官の口から出た最初の言葉はこうであった:『これ以上の periti は任命されないでしょう。』しかし遅すぎた。大きな混乱が進行中であった。トレント公会議も第一ヴァチカン公会議もいかなる回勅もその進行を遅らせることは許されないであろう。」注52)

換言すれば、ヨハネ教皇はダイナマイトで遊ばれたのだった。結果として起こる爆発は抑制できるものではなかった。公会議の直後に近代主義に反対する誓いは禁書目録と一緒に撤廃されたが、それはグレイバー司教が正当に「不可解」として記述されている一つの決定であった。注53)昨日の異端者たちが今日の公会議の遂行者となった。

公会議の否認

公会議は摂理によって不可謬性のしるしを明白に放棄した。一つの全く先例のない nota praevia (準備の覚え書き)において公会議神学委員会は公会議を「司牧的なもの」として記述した。そして公会議教父たちに、彼らがそうしていると公然と公言しない限り教義を決定しているのではないということを保証した:

公会議の実践と現在の公会議の司牧的目的とを考慮して、聖なる司教会議は、司教会議自体が公然とそう宣言する場合にだけ教会に対して義務を負わせるものとして信仰と道徳の諸問題を決定する。注54)[強調は筆者]

カトリック教会の歴史においてこれまで公会議が不可謬的に教えているのではないと宣言したことはかつてなかった。実際、その諸文書のいかなるものにおいてもどこにも公会議は信徒がその曖昧なそして混乱させる諸定式、特にいかなる正確な定義をも避けている新奇な用語である「エキュメニズム」、「共同性」そして「対話」に関連する諸定式、のいずれをも固守する義務があると、「公然と宣言」しなかった。また信仰の同意、あるいは分別の同意すら、Gaudium et Spes の明らかに疑わしい社会学的、地政学的主張 - それは人類が「成熟へ向かう前進」を経験しつつある、そして「すべての人々の利益のために、安全を確保するための効果的な力、正義に対する尊敬、諸権利の尊重」を伴う一つの「普遍的な公共の権威」を確立する一つの義務があると主張している - に対しては要求され得ないであろう。注55)正気を持っている者は誰一人人類が過去の世紀の間に成熟において前進した(原罪の教義に暗黙の裡に矛盾し聖書に明白に矛盾するまさにその考え方)とは信じない。また教導職はわれわれの現代の諸問題に対する解決策として世界政府を命令する能力はない。

nota praevia は明らかに、公会議教父たちが正確に何を公会議の言葉数の多いそして曖昧な諸文書のいくつかにおいて提出しているのかについて彼らの多くの者の不安を取り除いた。このことはトーマス・モリス司教の証言によって確証された。その証言は彼の要求で彼の死の後まで開封されなかった:

「私はこの公会議が教義に関して決定したりあるいは最終的な陳述をしたりすることを目標としていないと聴かされたとき安心した。なぜなら教義の陳述は非常に慎重に定式化されなければならず、そして私は公会議の諸文書を実験的なもので改善されるべきものと見なしていたからである。」注56)

モリス司教はまたリベラル派の periti が教父たちの心証を、公会議前にローマ・クリアの教父たちによって準備された「硬直した」そして「不毛な」概略と取り替えるために彼らが起草した新奇なテキストを受け入れることに向かって操ったそのやり方をも証言した:

「おそらくある公会議教父のあるスピーチが書かれた。(彼は話すことができたたった一人の人間であった。)しかしすべての periti はこの陳述を聴くためにロビーのうちに、あるいは階段の上にひとかたまりになっていた。彼らは力強く拍手喝采をした。そして司会をしている座長は教会の中では拍手喝采は要らないと言った。しかしそれはすべてこっそりと企てられたものであった。」 注57)

上からの変化

このことは公会議後の総崩れが教会の上に解き放たれた少数のネオ近代主義の公会議 periti の働きであったということを意味するのではない。その反対に、新しいミサから手による聖体拝領へ、祭壇奉仕の少女たちへ、諸宗教間祈りの集いに至るまで現在われわれを苦しめている「大きな混乱」を作り上げている破滅を招く諸々の革新の一つ一つは教皇パウロ六世によってか、あるいは彼の後継者によってか、公会議の名において承認されてきたのであり、そして教皇の権威をもって行動している公会議後のローマ・クリアの諸委員会によって実行されてきたのである。実際、革新の幅広いプログラムは公会議のまさに目的そのものであると L'Osservatore Romano において宣言されたのはパウロ六世御自身であった:

「公会議の重要な言葉は新しさと最新式にすることである...新しさという語は一つの命令として、一つのプログラムとしてわれわれに与えられてきた。」注58)

新しさのこのプログラムに従ってパウロ六世はまず第一に、モンシニョール・クラウス・ガンバーが彼の Reform of the Roman Liturgy において、「伝統的なミサの、一千年以上もの歴史をもった伝統的なローマ式典礼の真の破壊」として正しく記述されたものを統轄なさった。注59)ここで注意しなければならないことは、ガンバーの書物へのフランス語の序言が、ガンバーを「真の証言の勇気」をもった「一人の真の預言者」と呼ばれた他ならぬヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿によって書かれたということである。彼の最近の回想録の中でラッツィンガー枢機卿は新しいミサを義務として課したことは「典礼の歴史における一つの断絶であり、その結果はただ悲劇的でのみあり得るであろう...そのような展開は典礼の歴史においてかつて見られたことはなかった...」ということに同意しておられる。注60)

1969年11月26日の彼の一般謁見の挨拶の中でパウロ教皇は彼の先例のない破壊の行為に対する一つの公的な正当化を提供された。彼の言葉は驚くべきものであり、深く失望させるものである。なぜなら教会の歴史においていかなる教皇もかつてそのようなことを敢えて言われたことは決してなかったからである。

その挨拶は一つのほとんど信じられないような承認をもって始まっている:

「一つの新しいミサの典礼:数世紀の間続いてきた尊敬すべき伝統における一つの変化。これはわれわれの世襲の宗教的伝承物に影響するあることがらである。それは触れてはならないものであり、そして定着したものであるという特権を享受していると思われた。それはわれわれの祖先とわれわれの諸聖人の祈りをわれわれの口にもたらし、われわれの霊的な過去に対する忠実の感情の慰めをわれわれに与えると思われた。われわれはそれを未来の世代にそれを伝えるために生き生きと保ってきたのである。」[強調は筆者

教皇は次に、伝統的であり、尊敬すべきものであり、触れてはならないものであり、われわれの過去との結びつき、そしてカトリック教徒としてのわれわれの遺産の一部であると思われたものは実際にはまったく無くても済むものであり、そして今や廃止されるであろうと説明される:

「この変化はミサの儀式に影響を与えるであろう。われわれはおそらくあるいらいらした感情をもって祭壇での儀式がわれわれが見聞きして慣れてきた[!]のと同じ言葉や身振りをもってはもはや遂行されないということに気づくであろう。...この変化はまた信徒にも触れる。それは出席する人々の各々に興味をもたせること、彼らを習慣的な個人的信心からあるいは彼らのいつもの無気力から引き出すことを意図している。」

それゆえミサはその中で彼らが数世紀にわたって活気がなくなっていた「無気力」から信徒を引き出すために変えられるであろう。

「われわれはこの多面的な不自由のために準備しなければならない。それはわれわれの習慣のところへ押し掛けるあらゆる新奇さによって引き起こされる種類の転覆である。」

カトリック教会の全歴史においてローマ教皇が「われわれの習慣のところへ押し掛けるあらゆる新奇さ」すなわち、教会における神の礼拝の定められた形式を粉砕する新奇さを課そうと試みられたことはかつてなかった。

「われわれは敬虔な人々が最もかき乱されるということに注目するであろう。なぜなら、彼らは彼ら自身のミサに与る立派なやり方を持っているからである。そして彼らは彼らのいつもの考えから振り出されたと感じるであろう。そして他の人々の考えに従うことを余儀なくされたと感じるであろう。この点において司祭たちでさえ何らかのいらだちを感じるかもしれない。」

敬虔な人々を混乱させ、そして司祭たちをさえいらだたせる「新奇さ」!教会は気を引き締めなければならない:

「それゆえこの特別のそして歴史的な[!]機会に何がなされなければならないか? 第一に、われわれは心の準備をしなければならない。この新奇さは小さな事柄ではない。われわれはその外的な諸形式の性質、いらいらさせるものさえによって驚かされるべきではない。知的な人々そして良心的な信徒としてわれわれはこの刷新についてできるかぎり多くのことを見出すべきである...」

しかしなぜわれわれはこの迷惑行為、この刷新を持たなければならないのか? それはわれらの主と聖霊がミサの新しい典礼を要求しておられるという一つの根拠のない主張のためである!

「教会にこの変化をするように命じておられるのはキリストの意志であり、聖霊の息吹である。一つの預言的な瞬間が教会である神秘体[ママ]において起こっている。この瞬間はその祈りの神秘的な技術を刷新するように教会を揺さぶりそれを目覚めさせ、それを義務づけている。」

しかしそれはすべてではない。「保守派の人々」は Sacrosanctum Concilium 、典礼に関する公会議規定がミサにおけるラテン語の使用を「命じている」と主張することに飽きない。実を言えば、ブニーニの巧みに言い表された文書は実際に典礼の完全な自国語化への道を開いた。注61)このようにして、パウロ教皇はラテン語ミサを無傷のまま保存するといういかなる公会議の口実をも却下しながら、彼の挨拶の中で今や教会を「揺り動かせている」「預言的な瞬間」がラテン語が神の礼拝の言語としては直ちに放棄されることを要求していると宣言されたのである:

「最大の新しさが注目されようとしているのはここ、言語の新しさである。もはやラテン語ではなく話し言葉がミサの主要言語となるであろう。自国語の導入は確かにラテン語の美しさ、力そして表現に富む聖性を知る人々にとっては一つの大きな犠牲であろう。われわれはキリスト教的な諸世紀の話し方と別れようとしている;われわれは聖なる話し方の文語的領域への世俗的侵入者のようなものとなりつつある。われわれはあの並はずれたそしてたぐいまれなる芸術的および霊的なもの、グレゴリアン聖歌の大部分を失うであろう。われわれは後悔の理由、ほとんど当惑の理由を持っている。われわれは天使たちのあの言語の場所に何を置くことができるか? われわれは金では買えない価値をもつあるものを断念しつつある。なぜか? 何がわれわれの教会の諸価値のこれらの最も高尚なものよりももっと貴重であるのか?

実際なぜなのか? ここに教皇の答がある:

「その答はありふれた、ほとんど退屈なものに思われるであろう。それにもかかわらずそれは一つのよい答である。なぜなら、それは人間的であり、それは使徒的であるからである。祈りの理解はそれがそこにおいて王らしく装われている絹の衣服よりも重要である。人々による参加は、容易に理解されそして日常会話へと転換された平易な言語をそのように好む現代人による参加は、とりわけより価値がある。」

それゆえわれわれは、聖にして母なる教会がすでにわれわれに与えてきたミサをわれわれが理解しなかったという「人間的な」(にもかかわらず「使徒的な」!)理由のために新しいミサを持たなければならないのである!カトリック教会の聖なる典礼は彼女自身のメンバーたちには理解できないものだったのだ!

しかし本当にそうだったのか? オッタヴィアーニ枢機卿が新しいミサの押しつけに抗議する彼の有名な介入において述べられたように、人々自身は、「典礼をより理解しやすいようにするためにそれが変えられる、あるいは台なしにされるように求めたことは決して、絶対に決してなかった。」注62)実際、パウロ教皇御自身がまさにその同じ挨拶の中で人々が、特に敬虔な人々が諸々の変化を心をかき乱すもの、いらいらさせるもの、迷惑なもの、そしていやなものとさえと見出すであろうということを認められたのではなかったか? しかも、ローマ・ミサ典書はすでにラテン語でついて行くことができない人々のために忠実な自国語の翻訳を含んでいたではないか? いったいぜんたい何が、信徒たち自身が決して求めたことがなかったこの突然の変化を動機づけていたのか?

今日パウロ教皇の挨拶のテキストを検討してみると、人はそれが教会の伝統および共通善の保護者として神から任命されたローマ教皇によって口にされたということをほとんど信じることができない。注63)キリストの代理者がそのように皮肉な口調で、われわれに「聖なる話し方の文語的領域への世俗的侵入者のように」振る舞い、「天使たちの言語」を放棄し、そしてその代わりに6人のプロテスタントの助言者たちによって助けられたある典礼委員会の助けでブニーニという名の素性の知れないモンシニョールによってでっち上げられたミサの新しい典礼を受け入れるように熱心に勧めることができたとうことは理解を拒むものである!注64)

この挨拶のわずか1年前まだ公会議の余波が残っているときに、パウロ教皇が教会の「自己解体」を嘆かれたということを考えるとき、その不可解さはますます深まる。パウロ教皇は、自己解体のこのプロセスが、ガンバーが「伝統的なミサの真の破壊」と呼んだものによってその進行を止められるであろうと考えられたのか? なおもっと奇妙なことに、パウロ教皇は教会の上にブニーニの典礼を押しつけられた3年後に「どこかある所あるいは他の所からサタンの煙が神殿に入って来た」注65)と嘆かれることになるであろう。どこかある所あるいは他の所から。

総崩れを一瞥する

ファチマの観点から眺めるとき、1969年11月26日の不可解な教皇挨拶はいくつかの見たところ無関係な出来事を思い出させる:すなわち、1960年の第三の秘密の謎に包まれた抑圧;聖母が秘密はその年より遅くなく明らかにされることをお望みになったというシスター・ルチアの繰り返し述べられた陳述;そしてファチマのメッセージは「信仰と典礼を変えるという自殺行為に対する神の警告」であるという1958年死の直前のピオ十二世の宣言。注66)ファチマの第三の秘密は1966年にパウロ六世がなされたまさにあの行為を予告したのか? それはまた公会議以来教会を席捲してきた先例のない諸改革の潮流をも予告しているのか?

われわれは、公会議後の総崩れが確かに、それがあたかも十分でなかったかのように、ガンバーが「伝統的なミサの真の破壊」と呼んだものに限定されないということを思い起こさなければならない。ラッツィンガー枢機卿がその回想録において述べておられるように、「今日われわれがその中にいる教会の危機はその大部分が典礼の崩壊にかかっている」注67)けれども、この大きな総崩れはその出来事を越えて「保守的な人々」さえが「一人のカトリック信徒にも影響を与えずにはほとんど置かなかった、そして多くの点で教会の外的なイメージを変えてしまった公的な礼拝における一連の変化」であったと認めるものを含むまでに至っている。注68)

この著者よりも遙かに有能なコメンテーターたちは非の打ち所のない文書による証拠固めでもって総崩れの全範囲を査定した。例えばマイケル・デイヴィースは公会議とその諸改革に関する彼の決定的な三部作において、そしてロマーノ・アメリオは彼の傑作 Iota Unum において。現在の目的のためには、ファチマの第三の秘密が突然抑えられたあの年以来われわれに降りかかってきた徹底的な破局を論証するために経験的な証拠、特に合衆国におけるそれ、を手短に見ることで十分であろう。

合衆国における毎週のミサ出席は1963年のすべてのカトリック教徒の71%から1993年のわずか25%へ下降した。これは公会議以来65%の驚くべき下降である。ヨーロッパにおける状況はより破局的でさえある。ミサ出席は公会議以来一桁台にまで下降したのである。注69)

1960年に合衆国で行われた改宗者の数は14万人であった。1965年までにその数は同じ時期における人口増加にもかかわらず12万人にまで落ち込んだ。

1970年までに人口は増加し続けているのに合衆国における改宗は急降下し続けた。その年にはわずか9万人の改宗にしか過ぎなかった。

1975年までに改宗はなおさらに急降下し、年間でわずか8万人となった。

1985年に8万5千人への短期の上昇があったにもかかわらず、1995年までに毎年の改宗の数は、合衆国の人口がそのとき以来大きく増加したにもかかわらず、全国でひどく悪い7万5千人から8万人に急落した。これは実際には公会議前の水準の二分の一である。注70)

アメリカの多くの「福音主義派の人々」の改宗が第二ヴァチカン公会議の長く待たれていた「刷新」の証拠であるというある「保守派の人々」の主張にもかかわらず、教会全体が、特にラテン・アメリカにおいて、数百万人のカトリック教徒の福音主義の諸派への流出による喪失に苦しんできたということは否定できない。さらに、The Wanderer 誌はアメリカの福音主義派の人々が今や「アンティオキア正教会」へと流れ込みつつあると報じている。というのは、彼らはその伝統的で荘厳な礼拝の諸形式とその古代の教義に引かれているからである、と!一方で、正教会の総主教バーソロミュー一世はヴァチカンとの30年間の「エキュメニカルな対話」の後に「神の正しい栄光を遠ざけている」ことに対してカトリック教会をたしなめている。注71)オーソドックスの諸教会のローマとのいかなる可能な再結合にとっても最大の障碍となっているのは、そして今や福音主義派の人々を正教会へと方向転換させつつあるのは、皮肉なことにブニーニの「エキュメニカルな」典礼なのである。

われわれみなが知っているように、1960年以来の改宗の降下は司祭職、神学校、男女の修道会そしてカトリック学校からの並ぶもののない脱出を伴ってきた。ここにいくつかのデータがある:

1965年にはアメリカには5万7千人の司祭がいた。人口増加の30年後、1995年までに司祭の数は30年前にいたよりも8千人少ないわずか4万9千人へと減少した。残っている司祭たちの多くは停年の歳に近づいている。実際、1万人あたりの司祭の数は1965年の7,87人から1995年の5,46人へと下降した。これは1965年にいたよりも30%も少ない司祭しか得られないということを意味しているのである。

1965年に第二ヴァチカン公会議が閉幕したときおよそ1万2千人いた修道士は1995年までにわずか6千人になった。

公会議の閉幕のときおよそ18万人いた修道女は1995年までにわずか10万人になった。

およそ420万人の生徒が公会議の最後の年にカトリック小学校に通学していた。1995年までにわずか180万人いただけである。

状況は全体としての世界においても同様に悲惨である。1995年の終わりまでに実際にその時期の世界の人口の倍増にもかかわらず世界には25年前にいたよりも少数の4万4千人の司祭がいた。[出典:L'Osservatore Romano, English edition, August 13/21 1997]

公会議後の情勢の擁護者たちは、しかしながら、第三世界における司祭叙階は世界中の司祭数において最近劇的な上昇を産み出した、そしてこのことは、遂に待ち望まれていた「刷新」なのである、と主張している。そうではないのである。

1989年から1995年までの間に、全世界における司祭の数は総計して289人増加した!世界的な司祭不足はほとんど、アフリカ、ラテン・アメリカそして東南アジアのすべてにおける追加的な数千人の司祭叙階を無効にしている。

「偉大な刷新」の擁護者たちは彼らが望んでいることを言うかもしれない。しかし経験的なデータは公会議が教会にとっての活力の新しい時代へと案内したという彼らの主張を笑いものにする。聖なるカトリック教会はその全歴史において初めて発展することを止めた。そして一つの厳しいそして長期の縮小を経験しつつある。[十六世紀におけるプロテスタント革命の間のメンバーたちの喪失でさえグアダルーペの聖母の奇跡的な執り成しを通じての700万人のメキシコ人たちの改宗によってそれ以上に埋め合わされた。]世界の人口が増加するにつれてカトリック教会は減少している

教皇ヨハネ・パウロ二世とラッツィンガー枢機卿が二人とも最近のインタビューにおいて公会議以来の教会における「質的な刷新」について語られたということは驚くに当たらない。しかしこれは過去35年にわたる羊のそのように大きな喪失(羊飼いたちには触れないとしても)を説明するためには最も奇妙なやり方である。教会に残った霊魂たちの「質」を人はどのようにして決定するのか? そしてこれらの霊魂たちの「質」はそのように多くの他の霊魂たちの喪失を埋め合わせることができるのであろうか?

いずれにせよ、ある別の機会に次のように言われたのは他ならぬラッツィンガー枢機卿である:「確かに、[第二ヴァチカン公会議]の諸結果はすべての人の期待に残酷にも反したと思われる...私はここでその仕事が終わった10年後に私が言っていたことを繰り返している:この時期が明確に教会にとって好ましくなかったということは議論の余地のないことである。」注72)

にもかかわらず現在の状況の擁護者たちは、公会議とそれが産み出した諸改革そしてその後に続いた教会の重要な諸々の徴候の衰弱との間のいかなる因果関係の証拠もないと頑強に主張する。Post hoc, non ergo propter hoc[これの後にある、従ってこれのゆえにあるということはない:単に時間的に先に起こっただけのことを原因とみなす論理は誤りである]、と。えっ、そうですか!諸々の統計によって指し示された総崩れは公会議の aggiornamento[現代化]の全プログラムとしっぺがえしに並んで起こっている:

ミサの改革はミサ出席における先例のないそして突然の下落が、そしてミサになおわざわざ出席しているカトリック教徒たちによる[御聖体におけるイエズスの]真の現存に対する信仰の喪失がその後に続いて起こっている。

神学校教育を含む司祭職の諸改革は数千人の司祭の突然の離反と新しい召命の実際の消滅がその後に続いて起こった。その結果今日、公会議前よりも少数の司祭しかいないのである。

修道会の改革は男女修道院の突然の空洞化をその後に残した。

ピオ十世の近代主義に反対する誓いと禁書目録の撤廃は神学校、カトリック諸大学、そして平信徒および司祭たちの諸団体におけるおびただしい数の異端がその後に続いた。彼らは世界中で教導職の諸々の教えを公然と無視し、掘り崩している。

非カトリック者たちを回心させるいかなる率直な努力をも避ける新しい「エキュメニズム」の実施は回心における激烈な下降、カトリック教徒のプロテスタント諸派への大量寝返り、そしてカトリシズムと多様な形態のプロテスタンティズムとの間の教義上の諸々の相違の拡大をその後に続かせた。例えば、ローマとアングリカンたちとの間の「エキュメニカルな対話」の30年の後に、アングリカン「教会」は女性たちを「叙階し」、地獄の苦罰を否定し、結婚していないカップルの不法な同棲を承認することを決定した。いかなるプロテスタントのセクトも30年以上もの「エキュメニカルな対話」に応えてその誤った諸々の教説のいかなるものをもほんの少しでさえ変えなかった。他方において、小教区諸教会において今なおその信者席を占めているカトリック教徒の大多数は機能的なプロテスタントとなってしまった。彼らは単に彼らの司祭たちや、そしてヴァチカンさえによってプロテスタントたちと一緒に祈り、彼らと共に共同典礼儀式に参加するよう奨励されているばかりでなく、産児制限、離婚や再婚、同性愛者の諸権利、司祭の独身制そして他の多くの論争点に関して教皇と「意見が合わない」ことを選びながら、教導職の権威に対するまったくプロテスタントの態度を採用した。

グレイバー司教が述べたように、公会議以来カトリック教会は「一種のコペルニクス的革命」、公会議以前の多くの教皇の諸決定によって断罪されたフリーメーソン諸団体の指導者たちによって予告され、そして彼らのために働かれてきた(とグレイバー司教が論証している)一つの革命を経験してきた。注73)その革命が展開されるにつれてその諸結果は世界中の共産主義者たちやフリーメーソンたちによって彼らのさまざまな出版物の中で嬉しそうに歓迎された。おそらく教会の敵どもが公会議の諸々の実りによってどのように喜んだかについての最も際立った例はソビエト共産党機関紙 Izvestia によって教皇パウロ六世に与えられた、すべての人々の中で、マルセル・ルフェーブル大司教をどのように扱うべきかに関する余計な忠告である:

ルフェーブルが代表している危険に気をつけなさい。そして第二ヴァチカン公会議のエキュメニズムと共に始められたアプローチの偉大な運動を続けなさい。」注74)

教会の不倶戴天の敵どもによる公会議後の革命のこの種の称賛を考慮に入れて、グレイバー司教は次のように述べざるを得なかった:「これらの明快な承認に直面してもし誰かがなお、教会における諸々の出来事はあまり重要でない現象である、あるいは時が経つうちにひとりでに消えて行く一時的な困難であると主張するならば、その人は単純に絶望的である。しかしもし彼らがこれらの問題に心を留めず、そして...すべてのことはあちこちを継ぎ接ぎすることによって補修され得ると考えるならば、教会における指導的な人々の責任はそれだけますます大きい。そうではない、それは事柄全体の問題である。危ないのは教会である。...」注75)

脚注

43. Graber, Rudolf. Athanasius and the Church of Our Time, Christian Book Club of America(Hawthorne, CA: 1974), p. 32;[quoting Pierre Virion]
44. Pascendi, n. 3
45. Quoted in Rhodes, Anthony. The Power of Rome. Franklin Watts: New York(1983), p. 196
46. Davies, Michael. Partisans of Error, Neumann Press, Long Prairie, Minnesota(1988), p. 74.
47. Hebblethwaite, Peter. Pope John XXIII, Image Books(Garden City, NY 1987), pp. 465-66
48. Pascendi, n. 3
49. Wanderer, August 31, 1967, p. 7
50. Wiltgen, Ralph M. The Rhine Flows into the Tiber,(Augustine Publishing Company: 1978), p. 23
51. Bernstein, Carl and Politi, Marco. His Holiness(Doubleday, New York: 1996), p. 417
52. The Wanderer, Ibid. at p. 7
53. Graber, op cit. p. 54
54. Addenda to Lumen Gentium, Explanatory Note of the Theological Commission, Documents of Vatican II, Abbot translation.(America Press: 1966), p. 97-98
55. Gaudium et Spes, nn. 77 and 82
56. Catholic World News, January 22, 1997
57. Ibid.
58. L'Osservatore Romano, July 3, 1974, quoted in Iota Unum, by Amerio Romano, Sarto House[Kansas City, 1996], p. 112.
59. Gamber, Klaus. Reform of the Roman Liturgy. Una Voce Press, San Juan Capistrano(1993), p. 102.
60. Thavis, John and Weil, Lynne. "Ratzinger: New Mass a Disaster for the Church"; Catholic News Service, Vatican City; available http://net2.netacc.net/~bbasile/ratzing.htm
61. Art. 36(1)of Sacrosanctum Concilium provides that "The use of the Latin language, with due respect to particular law, is to be preserved in the Latin rites ..." But Articles 36(2), 38-40, and 44-46 of Sacrosanctum Concilium totally negate that provision by allowing "territorial ecclesiastical authority" to determine whether and to what extent the Mass would be vernacularized. Indeed, in 1964, only a year after Sacrosanctum Concilium had been enacted, Paul VI had issued his motu proprio entitled Sacram Liturgiam, authorizing all national hierarchies to submit vernacular Mass translations to the Vatican for his approval, which he granted in every case. It is evident that many of the "conservatives" who claim that Sacrosanctum Concilium ensures liturgical stability have not read the document very carefully. Sad to say, the Council Fathers clearly never suspected that Bugnini's calculated ambiguities would lead to imposition of the new Mass by Paul VI. Yet almost none of the Council Fathers protested its imposition, which renders moot the other oft-repeated claim of the "conservatives": that the new Mass is not what the Council "intended". It was certainly what the Pope intended, and the Council Fathers went along with his decision; in fact, they mandated the suppression of the traditional Mass in favor of the new rite. The refusal to believe that the Council authorized a destructive revolution, in which the Council Fathers themselves cooperated after the Council, is symptomatic of "conservative" Catholicism.
62. Ottaviani. The Ottaviani Intervention, Tan Books and Publishers, Inc. Rockford, Ill.(1992), p. 32
63. This writer had conversations with the editor of Latin Mass magazine regarding the address. The editor had declined to publish it because he could not believe it was authentic! It was later authenticated and published in Latin Mass.
64. In private correspondence with Michael Davies, this author was provided with a copy of a letter from Canon Pawley, one of the Protestant observers, which confirmed that all of the "observers" were given the proposed new liturgical texts for their review and comment, and that their opinion was sought in the afternoon drafting sessions of Bugnini's Consilium.
65. Amerio, op cit. p. 6
66. Devant l'histore, p. 52-53, quoted in Inside the Vatican, January 1997, p. 7.
67. Catholic News Service, article cited.
68. Likoudis, James and Whitehead, Kenneth, D. The Pope, the Mass and the Council.Christopher Publishing House: Hanover, Mass.(1982), p. 11.
69. Latin Mass magazine, Fall 1997, p. 26
70. Published in Latin Mass Magazine, Summer 1996, pp. 43-46 and Winter 1996, pp. 32-35
71. The Wanderer, "News Notes", Nov. 13, 1997, p. 3
72. L'Osservatore Romano, English edition, December 24, 1984
73. Graber, Bishop. Op cit.71; quoting the Masonic publication L'Humanisme
74. Lefebvre, Archbishop Marcel. They Have Uncrowned Him.elus Press: Kansas City(1988)p. 229.
75. Graber, op cit.71

作成日:2006/07/12

最終更新日:2006/07/12

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