ファチマ・ニュース

ファチマの第三の秘密と公会議後の総崩れ

(第四部 第五部)1998/04/21

クリストファー・A. フェララ, Esq.

第一部 第二部 第三部

保守的カトリシズムの出現

公会議後の総崩れはその最も注目すべき随伴現象:すなわち「保守的」カトリシズムの出現の議論なしには評価され得ない。実際、カトリシズムの三つの異なった様式 - 「伝統主義的」、「保守的」そして「リベラル」 - の出現は教会史において以前には決して見られなかった一つの展開である。現代カトリック語法におけるこれらの用語のまさに使用そのものが公会議後の時期の間、少なくともローマ典礼において、教会における祭儀の外的な統一の決裂があったという経験的な確証である。

公会議の前にはもちろんカトリシズムの特徴を区別するために特別の専門用語は必要なかった:ちゃんとした身分にあるすべてのカトリック教徒は「伝統主義者」であった。すなわち、すべてのカトリック教徒は非カトリック教徒との「一致」のために教会の諸々の伝統のいかなる妥協もあり得ない、ましていわんや、教会が信仰に対する重大な危険として常に厳格に禁止してきた一般にいかなる形式の礼拝もあり得ない、と見なして触れてはならない教会の古い典礼に厳格に一致して礼拝したのである。

典礼に関しては公会議前のカトリック教徒は Veterum Sapientiae における教皇ヨハネ二十三世までそして彼を含む諸教皇が彼に常に教えて来られたこと:すなわち、その古代の言語を含むミサの形式は諸々の時代を超えて聖霊の働きであり、刷新に服従するものではないと信じていた。

キリスト教一致について言えば、公会議前のカトリック教徒は彼の教会をまさにカトリック教徒たちが常に教会をそう見なすように教えられてきた通りに、すなわち、「エキュメニカルな運動」のある未だ知られていない終局での「完全なコンミュニオン」へ向かって動いている多くの「キリスト教諸教会および教会的諸共同体」の中の最も完全なものであるにすぎないのではなくて、別れて行った兄弟たちがそこへ戻らなければならない唯一の真の教会だと見なしてきた。第二ヴァチカン公会議において青銅の扉が開かれたわずか35年前、ピオ十一世はその回勅 Mortalium animos において真のキリスト教一致に関する伝統的な教えを力強く再び述べられた。その回勅は発展する「エキュメニカル運動」をキリスト教信仰のまさに基礎そのものに対する一つの脅威として断罪し、いかなるカトリック教徒もそれに参加することを禁止した。

「それゆえ、尊敬すべき兄弟たちよ、この使徒座がその信徒たちに非カトリック教徒たちの集会に参加することをなぜ決して許してこなかったかということは明らかである。なぜなら、キリスト教徒たちの一致はただそれから分離されている者たちが唯一の真の教会戻ることを促進することによってのみ促進され得るからである。...それゆえに、使徒座に対して積み上げられた諸々の侮辱を忘れて、彼らを最も愛すべき仕方で受け入れるであろう彼らの共通の御父のところへ戻らしめよ。なぜなら、もし彼らが、絶えず述べているように、われわれとわれわれの教会と一致することを望むならば、なぜ彼らは教会へと入ることを急がないのであろう...」注76)

それから公会議がやって来た。そしてパウロ六世が、新しい典礼と新しいエキュメニズムを含むその「命令」とその「新しさ」の「プログラム」として記述されたものがやって来た。われわれが今見ている三つの様式へのカトリシズムの先例のない分裂を引き起こしたのは特に典礼の諸改革であった。

公会議がすべての断罪を放棄したこと、そしてヴァチカンが嫌疑を受けていた多くの神学者たちを突然名誉回復したことによって教会へ解き放たれたリベラルなカトリック教徒たちはもちろん諸々の改革に喜んだ。彼らは、祭壇に奉仕する少女たちを含む一見して終わることのない典礼における一連の付加的な変化に対するヴァチカンの承認を要求し、そして通例その要求したことを獲得した。今日のリベラルなカトリック教徒たちは大雑把に言って excommunicati tolerati (破門の宣告にもかかわらず教会内にとどまり続けている人々)という古い教会法上のカテゴリーに相当する。ただし今日ではいかなる破門宣告もヴァチカン当局から彼らに対して発せられたことは一度もないが。公会議以来、ただ一人の地方司教、ネブラスカ州のファビアン・ブルスケヴィッツ司教が彼の司教区の管轄権の範囲内で少数のカトリシズムのリベラルな様式の実行者たちに対して破門の宣告を latae sententiae (明示的な宣告の形で)発せられた。しかしリベラル・カトリシズムは今日教会においてはその他の点で一般に大目に見られている。それは少なくとも外的な公共の場では、カトリック的実践および信念の様式として存続するようになった。その公共の場ではわれわれはリベラル派の人々が、教会の権威のいかなる宣告によっても排除されてこなかったがゆえに、教会のメンバーであり続けていると考えなければならないのである。

われわれの知る通り、伝統的なカトリック教徒たち - 彼らは「伝統主義者たち」と呼ばれるようになってしまった - は公会議後の革命にその発端から反対した。特に典礼に関する「伝統主義者の」立場は新しいミサに反対するオッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿とによって、彼らの有名な「介入」の中で表明された:すなわち、パウロ六世の諸改革はトレント公会議によって成文化されたミサの神学からの「著しい逸脱」であり、千五百年以上も続いている典礼の伝統を単純に放棄することができなかった人々の間に「良心の危機」を産み出す「一つの測り知れない誤謬」であった。注77)

ローマ典礼の破壊に対する従順に屈従するよりはむしろ、伝統主義者たちはオッタヴィアーニ介入において述べられた道徳神学の公理:すなわち立法者の臣下は、教皇の臣下でさえ「それが有害であると証明されたならば、法律を撤回するように立法者に求める権利、否義務を常に持ってきた」という公理によって導かれてきた。伝統主義者たちはその権利と義務とを行使することを決して止めたことはなかった。そして今日に至るまで公会議後の諸改革 - 特に典礼の改革 - 彼らはそれをパウロ六世以前のいかなる教皇も教会の上に敢えて押しつけようとされたことはなかった教皇の権威のまったく先例のない乱用だと見なした - に決して喜んで応じることはなかった。ここで注目しなければならないことは、モンシニョール・クラウス・ガンバーが、彼の記念碑的な著作ローマ典礼の改革において(ラッツィンガー枢機卿の賞賛とともに)規律上の諸問題における教皇の至上の行政的権力は教皇にローマ儀式の典礼を破壊することを許すであろう一つの絶対的な権力ではないという伝統的な立場を擁護することに一つの章全体を捧げられたということである。ガンバー師が述べておられるように、パウロ六世より前の諸教皇は「[ローマ]典礼が使徒的な伝統にその基礎を置いているということを繰り返し述べられた」。撤廃の行為はいかなる人間的権威にも訴えることはできないけれども、ローマ教皇ですらカトリック教会における神の礼拝の受け取られ、承認された形式を撤廃するための神からの権威を持っていないということが帰結する。注78)

リベラルな立場と伝統主義者の立場との間のギャップの中に今「保守的」カトリシズムと呼ばれているものが現れた。それは、一方において教会を統治する教皇の至上のそして完全な権力(plena et suprema potestas)と他方においてキリストの代理者[教皇]でさえ所有していない絶対的な権力との間の混同に大いに基づいている。「保守派の人々」は、ローマ教皇の決定からのいかなる人間的な権威への訴えも存在しないからして、教皇の権威はすべての実践的な目的のために絶対的なものと見なされなければならない、そして信徒はそれゆえに教皇によって承認された公会議後の諸改革のすべてを従順に受け入れるばかりでなく、喜んで採用しなければならないのだ、と間違って推論する。おそらく再考を求める礼儀正しい私的な嘆願はあり得るであろう。しかし抵抗とか反対はまったくあり得ないであろう、と。

教皇絶対主義の誤り

「保守派の人々」のこの局面に関する基本的な問題はそれがただ単にカトリックの問題ではないということである。それは教皇についてプロテスタントたちが誤ってそうであると主張しているまさにそのこと:すなわち[教皇は]専制君主であり、彼の布告はそれらが教会の共通善を害するとしても文字通りに遂行されなければならないのだとするものである。教皇の権威についてのこのプロテスタントの戯画に答えて、教会博士聖ロベルト・ベラルミンは真にカトリック的な立場を以下のように述べた:

「身体を攻撃する教皇に抵抗することが合法的であるように、霊魂たちを攻撃する彼、あるいは市民的秩序をかき乱す者、あるいはとりわけ教会を破壊しようとする彼に抵抗することもまた合法的である。私は、彼が命じていることをしないことによって、そして彼の意志の遂行を妨害することによって彼に抵抗することは合法的である、と言う。しかしながら、彼を裁き、彼を罰し、あるいは彼を退位させることは合法的ではない。なぜならこれらは上長に固有の行為だからである。」注79)

もちろん聖ベラルミンの教えは聖書それ自身の教えに他ならない:聖パウロのガラチア人への書簡のうちにわれわれは Chephas - ペトロ - が異邦人たちと一緒に食卓につくことを拒否したとき、聖パウロが、彼らが回心させるように命じられていたまさにその霊魂たちを恥ずべき仕方で遠ざけることによって教会の使命を危険に曝したことに対して最初の教皇[ペトロ]を強く非難したということを読む:「しかれどもケファ、アンチオキアに来りし時、とがむべきことありしかば、われは目のあたりこれに反対せり。そは彼とがめらるべき者なればなり。」(ガラチア2:11)およそ1300年後にフランスの神学者たちが、同じように説教壇から亡くなった信徒の霊魂は最後の審判の後にならなければ神を見ることはないと教えたことに対して教皇ヨハネ二十二世を非難することになるであろう。彼の死の少し前にヨハネ二十二世は彼の誤った見解を撤回された。聖霊の保護によって彼はその見解を決して ex cathedra 「教皇座から」宣言されることはなかった。注80)

「保守的な」カトリック教徒にとっては何であれいかなる問題においても教皇を非難し、彼に抵抗し、あるいは彼を妨害しようとするいかなる試みも考えられないものである。教皇は王であり、そしてそれでおしまい。一人の「保守的な」カトリックのリーダー - 彼は愛徳においては世に名が知られないであろう - はガラチア書においてパウロによって公然と非難された「ケファ」はペトロではないことを証明しようとさえしたのである!聖書そのものでさえ教皇絶対主義の要求には屈しなければならないのだ!その「保守的な人」は一人の近代主義者/修正主義者の解釈者となるのだ!(『抵抗しているわがままな高位聖職者』p.7 を見てください。)

「保守的な」カトリック教徒にとって教皇権威の原理はあらゆる事柄、教会の共通善すら、よりも勝る。 - われわれが後に見るであろうように、教皇権威に対する保守的な人の信奉は1960年以前のどの教皇の明確な反近代主義的宣言ということになると奇妙なことに弱くなるのであるけれども -。マイケル・デイヴィースは「保守的な」聖職者が、彼らの上長たちの最近の指示に従ってどのように彼らがかつて非難したまさにその事柄を喜んで採用し、そして彼らがかつて教えたことを非難するかを論じるときの「保守的な」カトリック教徒の態度を完璧に表現した:

「聖職者の非常に多くの者たちの間に広まっている態度はある特定の信念あるいは態度を、それが一つの本来的なそして永続的な真理あるいは価値であるがゆえに受け入れるのではなくて、それがたまたま現在の政策であるがゆえに受け入れることである。このようにして公会議の前にあるプロテスタントの礼拝式に出席したどの信徒をも公然と非難していた(そしてそうすることは正しいことであった)まさにその聖職者が今はそのような礼拝式に出席することによって信仰が何らかの仕方で損なわれるであろうとそれとなく言ういかなる平信徒をも公然と非難するであろう。...このようにしてキリストが設立なさった教会のまさに本性に触れる事柄はそれ自身において何かある中性的なものとして見られるのである;問題であるすべては現在の指示である...」注81)

われわれがすでに見たように、ラッツィンガー枢機卿は最近の回想録の中で伝統的なミサを廃止するパウロ六世の試みが教会に「重大な損害」、その「諸結果がただ悲劇的でのみあり得る」損害を引き起こしたということを認められた。もしそのことが真であるならば - そしてそれは明らかに真である - そのとき教皇の臣下たちは、教会の上にまさに加えられようとしている損害を最小限にとどめるために、教皇を裁いたり、あるいは退位させたりすることを除いて、すべての合法的な手段を用いる単に権利ばかりでなくて義務を持っていたのである。伝統主義者たちにとって教皇に対する合法的な抵抗は新しいミサに賛成して伝統的なミサの典礼を放棄すること、あるいは1960年代の間に教会の中に出現した他の諸々の新奇な事柄のどれかを実践することを単純に拒否することを意味した。ラッツィンガー枢機卿の最近の声明が証明するであろうように、歴史はすでに彼らがそのようにすることが正しかったということを証明した。

誤った「中間の道」

「保守的」カトリシズムはこの議論が示唆するであろうよりも遙かに複雑な現象である。「保守的」カトリシズム内部には実践と意見の幅があり、ある「保守的な人々」はむしろ伝統的な立場に近いので、一般化は困難である。しかしその諸変化のすべてにおいて、「保守的」カトリシズムは公会議後の二つの両極端の間にある健全な正統派的慣行の領域として自らを提示しながら、リベラリズムと伝統主義の間の中道を作り出そうと試みる。それはリベラルな人々と伝統主義者たちの間に一つの等しい価値を見ると主張する - それはディートリッヒ・フォン・ヒルデブラントが指摘したように、まったく誤りである等価である - なぜなら、最も「極端な」伝統主義者でさえ、信仰箇条に矛盾するいかなる見解をも主張しないからである。注82)

「保守的」カトリシズムは伝統に対する「真の」忠実と教導職に対する「真の」従順によって動機づけられていると主張する - たとえその忠実と従順が教会のまさに信憑性そのものを掘り崩してきた一連の屈辱的な転向を要求したとしても -。ラッツィンガー枢機卿がパウロ六世による伝統的なミサの抑圧に関して述べられたように:「今までその最も聖なるそして最高の所有であったものがまったく禁止されると突然宣言し、そしてそれに対する強い憧れをまったくの不作法なことと見えさせる共同体はまさに自分自身を疑いの中に投げ込む」注83)のである。にもかかわらず「保守的な」カトリック教徒はこのことによってかき乱されないのである。彼はどんなことであれ、単純に教皇に従う:「私は教皇なしに正しい者であるよりはむしろ教皇ととともに誤った者でありたい」ということがより愚かな「保守的」カトリック教徒の慰め言葉の一つである。

しかしながら、「保守的な人々」をひとまとめにして非難することが不当であろうということは強調される必要がある。なぜなら、彼らは多かれ少なかれ公会議後の革命に適応してきたからである。教皇の諸々の行為に対する反対の問題は信徒のいかなるメンバーも不可謬性を主張することができない良心の問題である。実際、ネオ・カトリシズムの出現そのものが現在の危機においてどう行動すべきかについての大きな混乱を引き起こしてきた一つの先例のない状況を反映している:教会には常に革新者志望の人々が、そして彼らに反対する伝統的なカトリック教徒たちが存在してきたけれども、教会の歴史において革新者たちが諸教皇御自身であったことは決してなかった。

モンシニョール・ガンバーがローマ典礼の改革において述べられたように:「教会諸改革を導入することは聖座の機能ではないということは最も確実なことである。教皇の第一の義務は教会の諸々の伝統 - その教義、道徳、典礼の諸々の伝統 - を見守るために、第一位の司教として行動することである。」注84)しかし諸教皇が、教会の歴史において初めてそれらの伝統の多くを破壊するあるいは抑圧する諸々の改革を要求なさるとき何が起こるであろうか? 「保守的」カトリシズムはその問いに対する一つの解答を探し求めている - われわれは、たとえ歴史がそれは誤った解答であるということを論証しているとしても - 善意をもって推定しなければならない。

自己矛盾と否定

教会の伝承を保存し、にもかかわらず心ならずも率直に教皇の諸行為を疑問視するという重大な義務に注意して「保守的な」カトリック教徒は彼自身の立場の堪えられない緊張を取り除こうと努めるが、そのことによって自己矛盾に陥る。例えば彼は自国語でのミサの新しい典礼は「公会議が意図したものではない」と言うであろう。しかし、われわれがすでに見たように注85)、パウロ六世は彼のミサの革命的な新しい自国語の典礼のための指令を出したのがまさに公会議であると宣言なさった。そしてそれを教会の至上の立法者として彼自身の行為とされながら、聖なる典礼に関する公会議の法令を承認されたのはパウロ教皇御自身であった。このようにして、典礼についての教皇の改革がまったき従順をもって受け入れられるべきであると主張していながら、その保守的な人は暗黙理に教皇を、彼自身の文書の解釈と履行とにおいて重大な誤りを犯していると非難するのである!

保守的な人々が彼らの立場の緊張を和らげるために用いるもう一つ別の方策は公会議後の諸々の刷新とどんでん返しの悲惨な諸結果のすべてを、「諸々の乱用」がほとんどすべてヴァチカンのガイドラインの下で許容されているということを一度も認めることなしに、主体性を失った「リベラル派の人々」によって犯された「諸々の乱用」に帰することである。保守的な人は彼が聖座のいかなる公的な批判もないと主張しているときでさえしばしばヴァチカン自身が承認しているあるいは奨励していることを非難している自分自身を見出すのである。

例えば、ネオ・カトリック教徒はおそらくある一般的な仕方において典礼の現在の状態を嘆くであろう。しかし彼は「霊のうちに圧倒されて」内陣の床の上にのけぞって倒れる幼児のような話をする小教区の人々と一緒のカリスマのギター・ミサの光景、祭壇奉仕の少女たち、女性の「聖書・書簡朗読者たち」、手による聖体拝領、そしてあるカトリック小教区とあるプロテスタント・セクトによって共同で用いられている教会において行われるプロテスタント牧師による朗読が、まったく仰天させるような1993年のエキュメニズムに関する規則書を含む、パウロ六世とヨハネ・パウロ二世によって承認されたガイドラインの下で完全に「許されるもの」であるという事実とは対決しないであろう。注86)

もう一つ別の例を挙げれば、ネオ・カトリック教徒たちはしばしばカトリック諸学校における「性教育」のスキャンダルについて聞かされることがあり得る。にもかかわらず彼らは、30年もの間聖座が「カトリックの」性教育カリキュラムのポルノ的な内容についてよく知っているということ、そしてカトリック諸学校からそれらを除去する何らの行動も取らなかったこと、ましてやこれらの低劣なカリキュラムを無垢な子どもたちに強制する司教たち、司祭たちそして修道女たちを罰しないことには決して言及しないであろう。注87)その反対に、いかなる形式の「性教育」をも断罪している第二ヴァチカン公会議以前の教導職の教えにもかかわらず注88)、ラッツィンガー枢機卿は「教義的な観点から」低俗な「新しい創造」コースには何ら問題はないと宣言され、それからそれをバウム枢機卿へと引き渡された。バウム枢機卿は同じようにそれを承認され、そしてそれをアメリカへと送り返された。アメリカではそれはそれ以来子どもたちの無邪気さを破壊し続けてきた。注89)ヴァチカンが小さな子どもたちが世界中のカトリックの教室でその心に衝撃を与えられることを許しつづけているのに、「保守派の人々」は「家庭の外で与えられるいかなる形式の性教育からも退かせる...子どもの権利に対して尊敬が与えられるべきだということが勧められる」という笑うべき勧告を含む30年も遅く出された役に立たない1993年ヴァチカン文書に対して気前の良い賞賛を沢山与えるのである。注90)勧められる、ですって? カトリックの子どもがその無邪気さを保つためにカトリックの教室から退かなければならないなどということはまず第一に堪えられない侵害なのだ!

責任を負うべき人々に責任を負わせることを拒否するというその同じことが、公会議以前の諸教皇が断罪なさった世俗主義のまさに諸勢力そのものとの「協力」という公会議後のヴァチカンのプログラムに対する「保守的」カトリック教徒のアプローチを特徴づける。このようにして「保守的」カトリック教徒たちは、マザー・アンジェリカが保守派の人々の広く宣伝された「聖性への呼びかけ」会議の一つでしたような、神なき国連に対するテッド・ターナーの10億ドルの贈与を公然と非難するであろう。しかし彼らは国連常設オブザーバーであるヴァチカンが、それが他の点では援助を与えている特定の国連の政策あるいは活動についての控え目な「留保」にもかかわらず、国連でその組織の最も忠実な支持者の一つであるということには決して言及しない。[例えば、ヴァチカンは悲しむべき「子どもの権利」に関する国連代表者会議加盟国である。注91)]「保守派の人々」はまた公会議文書 Gaudium et Spes がはっきり言って一つの世界政府の設立を求めているということにも、あるいは公会議の真最中にパウロ六世が「この制度への一致した信頼を成長せしめよ、その権威を増大せしめよ...」と宣言されながら、「この高尚な制度」そして「協調と平和のための最後の大きな希望」としての国連に対して讃辞を呈するためにニューヨークに旅行されたということにも言及しないであろう。保守派の人々はまた Gaudium et Spes の主要な寄稿者である教皇ヨハネ・パウロ二世が30年後に彼自身の国連への挨拶の中で彼の先任者と全く同じ意見を表明されたという事実についても一言も口にしないであろう。その機会に現在の教皇は「この制度に対する使徒座およびカトリック教会の高い評価」を宣言された。そして国連 - 避妊、中絶そして無神論的人間主義の世界的な促進者 - を「国際生活を調和させそして調整するための一つの偉大な道具」と宣言された。注93)とんでもないことである。

保守派の人々が教会の諸伝統の継続と先例のない諸々の刷新の現在のプログラムとの間の緊張を解消しようとするなおもう一つ別の工夫がある:彼らのうちのある人々は教皇がされることはどんなものであれ何でも定義によって伝統的であると単純に宣言することによっていかなる緊張も存在しないという振りをする:「教会が承認することは定義によってカトリックの諸々の伝統と矛盾しない。なぜなら教会は、特に聖座は、...伝統の決定者であり裁定者であるからである。」[教皇、ミサそして公会議、p.71-72 ]この議論の問題はそれが伝統からいかなる客観的な内容をも奪い、それを本質的に何であれ教皇の望まれることへと還元しているということである。その結果はまったくのナンセンスである:例えば、祭壇奉仕の少女たちは、全二千年の教会の歴史にわたって彼女らが禁止されてきたにもかかわらず、そして教皇ヨハネ・パウロ二世によって彼が彼自身の以前の布告を突然逆転されるまでは禁止されてさえいたにもかかわらず、「伝統的」となったのである。

新しい自国語ミサのために伝統的なミサが放棄されたこともまた「伝統的」となる。実際、刷新それ自身が「伝統的」となる。その事柄の真理は、ガンバー師がラッツィンガー枢機卿の承認と共に述べられたように、教皇は伝統の「決定者」ではなくて、その保護者であるということである。ピオ九世が「私は伝統である」と宣言されたとき、意味しておられたことは彼が伝統を代表しておられるということであって、伝統は彼が決定するものではないということである。伝統は一人の「決定者」を必要とはしない。なぜなら伝統は一つの明白な事実だからである:すなわち、カトリック教徒たちが彼らの信仰と礼拝において常に信じてきたもの、そして実践してきたものの全体である。それらのうちの何一つ、1965年以前にはいかなる質料的な点においても変化していなかった。それゆえに、過去35年の諸々の変化が「伝統と両立し得る」と言うことは現実を否定することである。それは1969年11月26日に教皇パウロ六世御自身が新しいミサを導入するときに「われわれは自ら準備しなければならない。この新奇さは決して小さな事柄ではない」と言われたことを否定しさえする。

それゆえに、彼の立場を維持するために、「保守的な」カトリック教徒は教会における現在の危機の究極的な原因について絶えざる否定の状態のうちにとどまらなければならない。このことは保守的な人々がまず第一に一つの危機が存在するということを喜んで認めているということを仮定している。すでに指摘したように、多くの保守的な人々はわれわれが「大きな刷新」のただ中にいるということを強調する。

「保守的な人々」はローマによってわれわれの上に課されている典礼革命と「エキュメニカルな冒険」がそれら自体においてよいものである、そして問題は、もしあるとすれは、司牧的なレベルでのこれらの先例のない新奇さの適用における「諸々の乱用」にあると信じたがっており - そしてわれわれに信じさせたいと思っている。彼は、過去35年以上にわたってヴァチカンから命じられた aggiornamento[現代化]の非常に広いプログラムが、たとえ教会の全活動領域の明白な荒廃を伴ってきたとしても、原則的には損なわれているという可能性を認めることを頑なに拒否する。

選択的な尊敬

われわれは、第二ヴァチカン公会議以前の教導職に対する「保守派の人々の」アプローチを検討するとき、「保守的な」立場における自己矛盾へのさらなる傾向を見出す:すなわち、パウロ六世とヨハネ・パウロ二世の諸改革に対する盲目的な従順を勧める同じ保守派の人々の多くはヴァチカンの現在の不可謬的ではない司牧的なプログラムとはうまく一致しない偉大な公会議前の諸教皇の決定的な反近代主義的教えのことになると奇妙に両面価値的である。

このことの注目に値する例はステューベンヴィルのフランシスコ大学の神学教授である有名な「保守派である」アラン・シュレックの著作に見出される。この大学は妥協のない正統的教説のためにその名声を獲得していた。ピオ九世の諸々の誤謬のシラバス - リベラルでない神学者たちは近代文明の諸原理そのものの一つのおそらく不可謬的な断罪と見なしている - を議論する際にシュレックは次のような意見を述べている:

「不幸なことに、[誤謬の]シラバスは今日の新しい思想の大部分を断罪し、そしてカトリック教会が近代社会におけるすべての事柄に反対しているという印象を与えた...カトリック教会は近代世界に対立し、そしてすべての新しい思想を拒絶している一つの要塞教会となっているように見えた。」注94)

しかしもちろん世界の思想に対する要塞はまさにカトリック教会がその神である創設者によってそうであることを意図されたものである。教会は世界の「新しい思想」(それは実際には新しい顔を持った諸々の古い異端である)を何ら必要としない。というのは、教会は神によってわれわれに啓示されてきたすべての事柄の保管場所だからである。デンツィンガーにおいて拘束力のあるカトリックの教説として現れているシラバスについてのシュレックの軽蔑は公会議後の時代のあらゆる不可謬的でない司牧的な指令に対して保守派の人々が示す卑屈な従順と鋭い対照を示している。

近代主義者たちに対するピオ十世の決定的な行為についてのシュレックの評価は「保守的な」思想内部でのこの自己矛盾をよりいっそう明らかにするものである:

「ピオ十世が近代主義の脅威に対して過剰に行動された(!)ということはおそらく本当のことである。そのことは創造的な(!)カトリックの研究を、特に聖書研究と歴史研究の領域において次の50年以上にわたって息苦しいものへと導いた...」注95)

それゆえに、次に、おそらく教会史における最も偉大な教皇、そして過去500年間において列聖されたただ一人の教皇である教皇聖ピオ十世はステューベンヴィルのシュレック教授によって「過剰に行動された」という理由で軽率にも非難される!それにもかかわらず、シュレックのような「保守派の人々」はパウロ六世が、最近免職されてイランへと送り出されたフリーメーソンの嫌疑を受けた人物[ブニーニ]の指導の下で六人のプロテスタントの助言者たちの援助と共にでっち上げられたミサの新しい典礼を全教会に突然課されたとき、「キリスト教一致」へのパウロ六世の要求において「過剰に行動された」ことで教皇を非難することなど決して夢にも思わないであろう!注96)

この自己矛盾のもう一つ別の際だった例は、われわれはヴァチカン官僚たちによって承認されたミサの英語への嫌悪感を催す ICEL の翻訳を含む公会議後の諸改革のそれぞれのそしてすべてのものを喜んで採用しなければならないという「保守的な」見解についての有名な書物の長さの弁護である教皇、ミサそして公会議のうちに見出される。その著者たちはトリエント公会議のカテキズムは聖杯の上での御自分の御血についてのわれらの主の言葉は pro vobis et pro multis - あなたたちのため、そして多くの人々のため - と約されるべきだと明白に教えている - なぜなら、教会は常にミサの犠牲の諸々の実りはすべての人をではなく、ただ選ばれた者だけを益するからである - ということを是認している。注97)にもかかわらず、ICEL は「多くの人々のため」を「すべての人々のため」と誤訳しているのである。

普遍教会の荘厳に公布されたカテキズムとミサの最近承認された自国語訳の間のこの否定できない矛盾に直面して著者たちはそのカテキズムをお払い箱にしている:「それ[そのカテキズム]はトリエント公会議によって発行されたのではなくて、ただ公会議の要求で後になって準備されただけである。」注98)しかし著者たちはトリエント公会議のカテキズムが列聖されたピオ五世の権威によって荘厳に公布されたということに言及しそこなっている!ミサのまさに神学そのものを変え、トリエントに矛盾し、そしてモンシニョール・ガンバーが正しく「恥ずべきもの」と呼んでおられる一つの誤訳をさらに援護して、著者たちは1963年に「キリストは一つの融通のきかない祭文を確定なさる意図を持っておられなかった」注99)と主張した一人のリベラルな神学者を引用している。このようにして、「保守的な人」は現在のプログラムの先例のない諸刷新を正当化するためにはリベラル派の人々の意見に訴えることさえするのである。

多くの「保守的な人々」にとっては、そこで、教皇の諸決定への絶対的服従は1960年によってしるしづけられた裂け目で終わるのである。その裂け目を越えては、教導職の不変の教えへの彼らの忠誠は衰えるように見える。公会議以前の諸教皇は彼らにとってはもやのかかった人物となる。それらの諸教皇の回勅や荘厳に公布されたカテキズムはそれらが公会議後の諸々の新奇さと矛盾する程度に応じて過去の時代の時代遅れの工芸品として最小限に評価されるであろう。伝統的な教えと実践の二千年は一冊の閉じられた書物、あるいは少なくとも第二ヴァチカン公会議の新しいそして分離された書物に一致して編集され改訂されなければならない書物となる。

ある人々の悪意

「保守的な」カトリシズムにおける否定と自己矛盾の要素はこの現象に関わる唯一の問題ではない。ある「保守派の人々」、特に多くのより有名な人々は、危機に対する彼ら自身のアプローチに他の人々をとどめておく一方で、彼ら自身の立場の妥協のうちに閉じ込められたままになることに不満であると思われる。これらの保守派の人々にとっては彼らに加わることを拒否した人々:すなわち伝統主義者たちを公然と非難する一つの不幸な傾向がある。

このようにしてわれわれは、彼らのまさに目の前で教会を破壊しているリベラル派の人々の誰かをおどおどして名指しし、にもかかわらず彼らの唯一の罪がまさに1965年以前に常に実践されていたその信仰を実践し続けることである伝統主義者たちを恐れることなく名指しし、そして公的に非難する傾向のあるある種の保守的な人々の見せ物に供されているのである。

関係のある有名な一例はカール・キーティングのゲリー・マタティックスに対する容赦のない迫害である。マタティックスはかつては「保守的な」人間であったが、1992年に伝統主義の運動に加わったプレスビテリアニズムからの有名な改宗者である。サン・ディエゴ出身の「保守的」カトリック護教家であるキーティングは単に、マタティックス氏をカトリック新聞において「分裂がどのように異端へと素早く導くかということについての一つの悲しい例」として公然と非難することだけに満足しなかった。注100)キーティングは彼の攻撃をますます強めながら、次の二年間を - マタティックス氏に反対する論考を次々に出版し、彼らの支持を止めるよう説得するために彼の使徒職を支持してきた司教たちや他の人々に近づき、そして彼が小教区や他の「保守的な」地域で話すことを許さないように勧めながら - マタティックス氏の名声や使徒職を組織的に台無しにすることに費やした。にもかかわらず、八人の子どもたちの父親であるマタティックス氏はよい身分のカトリック教徒であることを決して止めなかった。そして現在ローマとよい関係にある一つの伝統的な神学校で聖書学の教授をしている。

キーティング氏は一人の護教家としての彼の全経歴の中でこれまで決して教会の他のどのメンバーに対してもそのような攻撃を始めたことはなかった - キーティングと彼の種類の他の「保守的な人々」が沈黙して見守っている間に教会の諸制度を荒らしている主要なリベラル派の人々をさえそうしなかった - 。そしてキーティングがマタティックス氏の支持を取り下げるように司教たちに説得するために強力に働いていた間、この自称プロテスタントの諸誤謬の敵対者は、例えば、ビリー・グラハムの支持を取り下げるようどの司教をもかつて説得したとは見えないのである。彼の「ビリー・グレハム・クルーセイド」は、グラハム氏が避妊、離婚そして「ハード・ケイスの」中絶を大目に見ているにもかかわらず、国中の司教たちによって促進されているのである。注101)

このことは伝統主義者たちに対するある保守派の人々の激しい悪意のもう一つ別の局面を明らかにしている:すなわち、伝統主義者たちはビリー・グラハムやキーティングの仕事を支持しているマホニー枢機卿のようなそのようなリベラルな高位聖職者たちとは違って、容易な標的である。伝統主義者たちを公的に非難するこの保守派のリーダーは彼の「中道の」使徒職に対する支持の報復あるいは喪失の恐れなしに「信仰を擁護する」ことができる。実際、キーティングは妻と八人の子どもたちをもった一人の伝統主義者の迫害によって十分に満足しなかった。ステューベンヴィルで(他のどこで? )の最近の「信仰擁護」会議において、キーティングは「右翼の反対者たち」についてのまるまる一冊の書物を執筆中であると告知した。キーティングが「極端な伝統主義者たち」、「非合法な」ラテン語ミサ、「厳格主義者たち」そして「フィーニストたち」を玩んでいる間に、教会は燃えている。

革命の監視人たち

キーティング問題が証明しているように、保守派の否定の状態を粉砕し、そして公会議後の総崩れの彼ら自身の拒否によって保守派がそれへの一つのアクセサリーであると示唆する伝統主義者たちに対する一種のソビエト型の粛清が用意されている。保守派の抑圧による伝統主義の犠牲者は外の闇に投げ出され、「分離主義的」 - ソビエトの「非人間」に相当する保守派のカトリックの用語 - と宣言される。その結果この保守的な支持者はそれ以上の妨害を受けることなく総崩れに順応することができるのである。マタティックス氏の場合に、その粛清は[カトリック]信仰への有名な福音主義派の改宗者たちに関して EWTN で再放送された番組から人を傷つけるような仕方で彼の名前を削除し、また EWTN のラジオではマタティックス氏が[カトリック]教会を去ったというアナウンスをするところまでさえ拡大した。「保守的」体制にとってはマタティックス氏は存在することを止めたのであり、彼は「遠くへ行ってしまった」のであり、代わりに1960年にそのように不可解な仕方で消失し始めた教会の不変の伝統を抱擁するために「偉大な刷新」を放棄してしまったのである。その1960年にはファチマの第三の秘密が教皇ヨハネ二十三世によって机の抽斗の中に鍵を掛けて仕舞われた。

そこで、われわれは「保守的な」カトリシズムがどのように現在の危機を大いに悪化させたかを見ることができる。公会議後の革命の不本意な監視人たち、保守派の人々は夜盗たちの一団が[カトリック]信仰の王室を掠奪している間まどろんでいるが、しかし、ときどき階段を駈け昇るために立ち上がり、いくつかの「非合法的な」ラテン語ミサを含む彼らのわずかに残った財産をもって屋根裏部屋に避難した伝統主義者たちに吠えついている。そうこうしている間に夜盗たちは妨害されることなく彼らの仕事を続けているのである。

「保守的な」カトリシズムの出現のおかげで、教会史において初めて信頼に足るカトリック伝統主義は一つのののしり言葉となった。革命と伝統との間の偽りの「保守的」中間地のまさに存在そのものが伝統主義者たちを外に追い出す emarginate ことを革命家たちに許した。主要なリベラル派の一人であるリチャード・P.マクブライエンはその著書カトリック教会の改造においてこう述べている:「穏健な保守派による極右の批判は穏健な進歩派によるよりも遙かに効果的である。」注102)

実際そうである。保守派の人々は、どれほど不本意にであれ、革命によく奉仕してきた。しかし、信徒たちに教会における増大する革命の可能性について警告し、またわれわれすべてに「人々の真の友人は革命家たちでも革新者たちでもなく、伝統主義者たちである」ということを思い起こさせられたのは、聖母がファチマに御出現になる十年前の、教皇聖ピオ十世であった。注103)

ネオ・カトリシズム

「保守的」カトリシズムについてのわれわれの短い議論が明らかにしたであろうように、その用語は実際一つの誤称である。保守的な人とはその定義によって敬虔な献身をもって、そしてある種の激しさをもってすら、何であれ彼がその社会の健全な伝統において受け取ったものを保存する人である。このことは、聖なるカトリック教会、その創設者が神御自身であり、またその伝統がこの不変の神の完全な保守主義をできる限り多く反映している一つの共同体においてはそれだけ余計にそうである。

なぜなら来る世紀も来る世紀もこれらの伝統、特に典礼は時代と人間的な「進歩」から離れて建てられた一つの家において信徒を養い教育してきたからである。その家では永遠の「われは在る」が沈黙のうちに明白に聞かれ得たのであり、それによって人間が神に彼が当然払われるべきであるものよりもほんのわずかでも劣ることのないものを与えようと努力した典礼の壮麗さのうちに見られ得たのである。

教会博士である聖ペトロ・カニジウスは彼の Summae Doctrinae Christianae (キリスト教教説大全)において真のカトリック保守主義の本質をこう表現した:「成文化されたものであれ、あるいは単に教会の慣例的な実践によって保持されたのであれ、一致してそして犯すべからざるものとして教会の諸々の伝統を守ることはわれわれにとって義務である。」注104)それが厳密に使徒的であるか否かにかかわらず、伝統的な慣例を保存する義務は教会の共通善にとって非常に決定的なことであるので、それは教皇ピオ四世によって公布された信仰告白の中に次のように述べられた:

使徒的および教会の諸伝統、そして同じ教会の他のすべての諸々の式典および制度を私は堅固に承認しそして採用する...私はまた前述したすべての諸秘蹟の荘厳な管理において用いられるカトリック教会の受け取られ承認された諸儀式をも受け取りそして承認する。注105)

古代の慣例の保存はなぜそれがまさに信仰告白そのものに属するほどに重要なのか? なぜなら信仰の諸慣例はそれらの力と真理とを目に見える仕方で明らかにし肯定しながら信仰の超自然的現実を神聖なものとして大切にするからである。数世紀にわたって聖霊の働きとして一つの教義あるいは一つの秘蹟の周りに徐々に成長してきた諸々の慣例を突然変えること - あるいはもっと悪いことに、廃止すること - は信徒がその教義あるいは秘蹟に対する信仰を失う危険を冒すことである。一つあるいは二つではなくて、教会における多くの古代の慣例的実践を変えることあるいは廃止することは信仰からの大量離反の危険を冒すことである。

われわれは、多くのカトリック教会において内陣のランプ[御聖体の安置を示す赤いランプ]がもはや見られなくなり、そしてわれわれが「彼らは主をどこに連れ去ったのか?」と自問する日を予告している典礼を変えるという自殺行為について預言的に話されたのが教皇ピオ十二世であったということを思い起こす。教皇は自殺という言葉を軽々しく用いられたのではなかった。教会の自殺(もちろん、相対的な意味においてである。というのは、教会は死ぬことはできないからである)の恐れは、公会議後の諸々の刷新がなぜ公会議以前の諸教皇 - 彼らのうちのまさに最後の教皇[ピオ十二世]を含む - にはまったく考えられないものであったか、まさにその理由である。Veterum Sapientia においてヨハネ二十三世は教会の途切れることのないラテン語の伝統への大規模の再献身を要求され、そしてこう警告された:いかなる革新者をしても聖なる儀式におけるラテン語の使用に反対して敢えて書くことなからしめよ...また彼らをして彼らの愚かな試みにおいてこの問題における使徒座の意志を軽視することなからしめよ。」注106)[わずか数ヶ月後に教皇のこの使徒的書簡が完全に無視された - ヨハネ教皇御自身が公会議を召集されることによって解き放たれた改革の抑制できない集団暴走において足下に踏みにじられた - ということはまったく驚くべきことである。]

われわれはすでに「保守的な」カトリック教徒たちでさえ公会議の後には「カトリック教会がただ一人のカトリック教徒をも影響を与えずには残さなかった、そして多くの点で教会の外的なイメージを変えてしまった一連の改革と変化を開始した」ということを認めるよう強いられていると述べた。注107)しかし「保守的な人」がこの事実を述べるとき、彼はそれを、教会の共通善を保存することを委ねられた人々が教会からその太古の典礼や多くの他の貴重な伝統をほとんど一夜のうちに剥ぎ取りながら、まさにキリストの花嫁のイメージそのものを敢えて変えようとしたことがあたかも言語に絶する一つの不法行為ではなかったかのように、どっちつかずに述べるのである。およそ三十年後にこの計り知れない大惨事の膨大な諸結果を見渡しながら、その「保守的な」カトリック教徒は伝統主義者たちが大騒ぎをしていたことに驚きを告白する。

われわれは、「保守的な」組織 New Oxford Review における有名な「保守的な人」であるパット・マドリッドの最近の所見の中にこの「保守的な」態度の一つの特に目に余る例を見出す。注108)カトリック護教家たちのうちのいわゆる「新しい品種」の一人であるマドリッドは「許容された」ミサに与る多くの伝統主義者たちの「恥さらしの怒り」、「くすぶっている憤り」そして「反第二ヴァチカン公会議の諸々の指針」について相手を見下すような仕方で書いている。そしてマドリッドはここで彼の伝統主義者の友人たちに言及しているのである![マドリッドが最近までカール・キーティングの親密な同僚であったことは何ら驚くに当たらないことである。キーティングはゲリー・マタティックスや彼が「極端な伝統主義者たち」と考えている他の人々の容赦のない宗教裁判官である。]注109)

「保守的な」考え方に固有の自己矛盾の一つの典型的な露呈においてマドリッドは彼が典礼上の諸々の乱用を免れるために東方典礼のためのノーヴス・オルドを放棄したことを認めている。彼はノーヴス・オルドにおいては「信仰の火が信者席の人々の心の中で徐々に消えている」ということを認めてさえいる。しかしマドリッドは、ローマ典礼が今や一つの完全な失敗の領域であるということを認めているけれども、「許容された」小教区での伝統的な典礼を回復することによって被害のあるものを補償しようとする努力においてとどまった人々に彼の肩越しに侮辱的言辞を投げつける一方で - その場から逃げること以外に何もしていないのである。マドリッドはローマ典礼の一人のメンバーとしての彼の全相続財産を異議を唱えることなく引き渡している。そして次にそうだと考えられている彼の友人たちを、彼らがその引き渡しにおいて彼に加わることを拒否しているがゆえに、公然とけなす驚くべき蛮勇を持っている。そして革命に対する一種の倒錯した忠誠においてマドリッドは、それが彼に「許容された」ミサによって提供されているときでさえ、彼の相続財産のある小さな部分を元に戻すことを拒否するのである。彼はローマ典礼の破壊に対して正しい怒りを示す悪い好みを持っているあれらの不愉快な伝統主義者たちと一緒に礼拝することに我慢することができないのである!われらの主は神殿を汚す者どもを鞭をもって通りに追い出されたとき「恥知らずの怒り」の罪をおかされのかどうか、マドリッド氏に愛情をこめて聞きたいものである。

東方典礼へのマドリッドの逃亡は大部分の「保守派の人々」によって選択された道ではない。彼らは単純に総崩れに適応した。われわれはすでにある「保守派の人々」が実際に公会議後の諸々の改革をまさしく喜びのための原因に他ならぬものと見ているということを指摘した。「カリスマ刷新」の偉大な擁護者である「保守的な」ピーター・シュレックは彼のカトリック教会の簡潔な歴史の中で公会議後の数年は「聖霊において洗礼を受けている」数千人のカトリック教徒たちによってしるしづけられた「一つの新しいペンテコステ」であると意見を述べている。第二ヴァチカン公会議のおける「カトリック・エキュメニズム」の突然の爆発に関連して、シュレックは次のような注目すべき意見を提供している:この文書[エキュメニズムに関する第二ヴァチカン公会議の布告、Unitatis Redintegratio ]はカトリック教会の他のキリスト教徒たちとの関係における一つの新しい時代を本当に始めた。過去のすべての凱旋主義を投げ捨てながら、カトリック教会はキリスト教の分裂に対するその(ママ)非難の分け前を公然と認めた。注110)

この種の話し方が教会に対する信仰を破壊するということはシュレックのような「保守派の人々」に起こるとは思われない。なぜならもし教会が諸世紀を通じて「凱旋主義的」であることが悪かったならば、そして今やその詐欺行為を「投げ捨て」なければならないならば、そしてもし教会の古代の触れてはならない典礼が1,965年間の後に間違っており、そして同じように突然「投げ捨て」られる必要があったのならば、そのときおそらく教会はその凱旋主義とその典礼において間違っていたのであるから、他の諸々の事柄についても間違っているのである。そしてもしそうだとするならば、そのときおそらく教会は、そうであると常に「凱旋主義的に」主張してきた神によって建てられた制度ではないのであろう。少なくともそのことは信者席においてかつては忠実であった(あるいはますます増大する群となって信者席から去って行った)カトリック教徒たちの多くが、ファチマの第三の秘密がヨハネ二十三世の教皇宿舎において忘却に委ねられたそのほとんど直後に始まった一連の当惑させるどんでん返しによって信じるように導かれたことである。

保守的な考え方

われわれは、個人の主観的なレベルにおける「保守的な人々」についての一般化は危険であるということを思い起こさなければならない。多くのカトリック教徒たちはノーヴス・オルドが、彼らがこれまでに知っていたすべてであるがゆえにのみ、あるいはそれが、彼らがその司教区において接触したすべてであるがゆえにのみ、「保守的」である。これらの「保守的な人々」はローマ典礼のメンバーとして彼らの相続財産を意識的に拒絶したことは決してなかった - その反対に、彼らの多くは欠けるところのない伝統への立ち帰りを待ち望んでいるであろう。また全能の神以外の誰にとっても「保守的な」誰かある人、あるいは伝統主義者の個人的な聖性を判断することは不可能である。

この議論の焦点は1960年代の間に教会において出現し始めた諸々の新奇な実践と態度の一つの体制としての「保守的な」カトリシズムの考え方である。その「保守的な」考え方はシュレック、キーティングそしてマドリッドのようなそのような「保守的な」指導者たちによって例証されている。彼らはそれが教会に対して数え切れない損害を引き起こした、そして今も引き起こし続けているという十二分の歴史的証拠にもかかわらずそれを喜んで採用しているのである。より目立った「保守的な人々」の何人かの客観的な言葉や行動に基づいて、われわれは「保守的な」考え方について安全に一般化することができる。特殊的な適用を脇へ置いて言うならば、それは第二ヴァチカン公会議の開始とともに教会の中に突然生じた正統性についての一つの新しい様式 - 触れてはならない聖なる義務とかつて考えられた教会の諸伝統(特にローマ典礼)へのいかなる生きた連関をも剥ぎ取られた一つの正統性 - である。それは第二ヴァチカン公会議によって教会が決して明快に定義されたことがないある仕方において公会議の前にそれがかつてそうであったものを越えて一つの新しい存在様式へと進歩した考え方である。そしてこの進歩が、以前のすべての公会議の不変の教えに対して要求された同意からどういうわけか異なっている同意を信徒の側に要求するということである。

マドリッドのような保守的な人々が、伝統主義者たちは「反第二ヴァチカン公会議」であると言うとき、彼らは彼らが理解していると思われる以上のことを言っているのである。彼らはわれわれの信仰が一つの特定の公会議、そしてそれが産み出した革命的な諸改革や新しい態度によって定義されるようになったと言っている。このことが意味していることは「保守的な」考え方が進歩的あるいはリベラルなカトリシズムの一つの形式以上でも以下でもない - ある「保守的な人」がそれを知っていようといまいと、あるいは主観的に話すならば、その意図によってリベラルであろうと、- ということである。なぜなら「保守的な人」が賛美し、われわれが「喜んで採用する」ことを要求する第二ヴァチカン公会議の特有の遺産は教説に存するのではなくて、公会議の前にはその多くがはっきりと非難されていた自由化する諸々の改革や態度に存するからである。

もし「保守的な」カトリシズムに関するこの判定が厳しくて無慈悲だと思われるならば、その判定が一人の指導的な「保守的な人」自身によって確証されるようにしよう。『賢明にも中央・右寄り Sensibly Center-Right』と題された雑誌 Crisis における最近の論考の中で「保守的な」有名人、ジョージ・シム・ジョンストンは Being Right: Conservative Catholics in Americaという書物 - 狂信的なリベラル派の人々によって書かれた論考と一緒にまとめられたジョンストンの仲間の「保守的な」カトリック指導者たちの一人のホスト役の見解についての概説 - を賞賛している。その書物を賞賛する過程においてジョンストンは「保守的な」考え方についての真実を暴露している。

主演俳優たち[信仰のために団結したカトリック教徒たちジェームズ・ヒッチコック、ヘレン・ハル・ヒッチコック、ジョージ・ワイゲルそしてジェームズ・サリヴァン]は自分たち自身を神学的な右翼には位置づけていない。彼らは第二ヴァチカン公会議を喜んで受け入れ、トリエント典礼を切望しないし、ヨハネ・パウロ二世の歴史的にラジカルなエキュメニズムを支持している。いかなる歴史的な尺度によってもこの巻における「保守的な人々」は進歩的なカトリック教徒たちである。カトリック左派におけるサドカイ派の人々そして真にカトリック右派におけるファリザイ人たちとは異なって、この巻における「保守的な人々」は彼らが第二ヴァチカン公会議を理解するがゆえにヨハネ・パウロ二世の教皇職を理解している。彼らはキリストが、その諸々の教えが気まぐれな思いつきと巧みな操作とには従属しない一つの教える教会を創設されたということを理解している。しかし彼らはまた教会が人間的でありまた有機的であるから変わらなければならないということをも理解している。注111)

そこにわれわれはそれをすべて持っている:すなわち、破壊されたローマ典礼は悲しむに値しない一つの単なるトリエントの人工物なのだ。リベラルな人々はサドカイ人たちであり、伝統主義者たちはファリザイ人たちである。一方、進歩的な「保守派の人々」は「賢明にも中央・右寄り」なのである。教会はともかく変わらなければならない、のです。ジョンストンは「ネオ保守的なカトリック教徒たち」としての彼自身の種族に言及しさえしている。彼らは、あたかも聖なるカトリック教会の古代教会的諸伝統が通俗的文化の残骸のように見捨てられるべき単なる追憶の断片ででもあるかのように、「一つの追憶へと追いやられた復帰を求めてはいない」のである。

ジョンストンに従えば、「保守派の人々」と「歴史的にラジカルな」エキュメニストであるヨハネ・パウロ二世は彼らがみな第二ヴァチカン公会議を「理解している」がゆえにお互いを理解しているのである。公会議は信仰の実践に対する一種の秘密の解釈学的鍵となった。ジョンストンは教皇が「外部に公式的なカトリックの組織を開く...一つの人民主義的現象」として彼が記述する「一つの真正のカトリック的刷新[のための]道案内および霊感」として奉仕しておられると主張しさえしている。(この「人民主義的現象」はもちろんいかなる伝統主義者たちをもあるいはトリエント・ミサをも含んでいない。)それゆえ、教皇と彼の賢明にも中央・右寄りのゲリラ隊員たち - 第二ヴァチカン公会議を真に「理解している」教会における唯一の人々 - は教会自身の「公式的な組織」の外部で教会を「刷新し」ようとしているのである!これはいかなる種類のグノーシス的・進歩主義的ナンセンスなのか? それは公会議後の革命によって転覆させられた教会の諸々の伝統と制度から緩やかに切り離されて全力で飛んでいる「保守的な」考え方である。また「保守的」カトリック教徒の自己矛盾への不可避的な傾向のなおもう一つ別の例に注目してください:すなわち、ジョンストンのような「保守派の人々」が教会の「公式的な制度」の外で働いていることに対して伝統主義者たちを直ちに非難している一方で、ジョンストンはまったく同じことをしているが、しかし「保守派の人々」が彼らの第二ヴァチカン公会議グノーシスにおいて単なるノスタルジアだと考えている失われた伝統を回復する意図を持たずに同じことをしている彼の仲間の「保守派の人々」の「人民主義的」運動に何ら悪い所を見ないのである。

教皇カード

ところで狂信的な「保守的な人」は彼の思考様式に関する判定に対する一つの出来合いの解答を持っている。それは、それの単なる暗唱が彼の都合のよい事例に終わらなければならないと彼が考えている権威に訴える一つの議論である:すなわち、もし私がリベラルであるならば、と「保守的な人」は大きな身振りで宣言するであろう、そのとき、教皇ヨハネ・パウロ二世もそうである!と。しかし教皇カードを切ることによって、「保守的な人」がしているすべてはまさになぜまず第一に公会議後の総崩れが存在したかを暴露することである。なぜなら、ジョンストン自身の文言を用いるならば「いかなる歴史的な尺度によっても」- ヨハネ・パウロ二世の教皇職はある種の規律の問題、思慮深い判断そして私的な意見においてまったくリベラルであったということは否定できないからである。ジョンストンは教皇のまったく先例のないエキュメニズムが「歴史的にラジカル」であるということを認めてさえいる。実際、ジョンストンのまさに論点は教皇が「保守的な人々」と同じように公会議前の基準によって一人の進歩主義者であるということである。その進歩主義は教皇のエキュメニズム、彼の諸宗教間の祈りの集い、彼の祭壇奉仕少女たちの承認、彼のすでに断片的な典礼のより大きな「インカルチュレーション」への要求、ロック・コンサートへの彼の出席、教皇不可謬性のカリスマには属さない進化や死刑の適用のような諸問題に関する彼の見解において明らかである。注112)

アッシジにおける世界祈りの日あるいは祭壇奉仕少女たちの承認のような教皇の行為が保守的な教皇のあり方の特徴であるという一連の議論を載せることは不可能である。またピオ十二世、ピオ十世あるいは他のいかなる公会議前の教皇も、「キリスト教一致」のために教皇職のどの局面が廃止され得るかを検討するために一つの委員会の設置を要求する(それ以来設置された) Ut Unum Sint[キリスト教一致について]のような回勅を書くことが出来たなどということは考えられないことである。実際、祭壇奉仕少女の不面目な結果は多くの「保守的な人々」に教皇が実際に、彼らがある事柄においてそうである以上によりリベラルであるということを示した。教会の歴史において初めて神の祭壇で奉仕する少女たちを単に見ただけで多くの「保守的な人々」を伝統主義の運動へと駆り立てるに十分であった。[しかしながら、最も保守的な人々は、ほんの数ヶ月前には祭壇奉仕少女たちを求める要求は最悪の種類の近代主義として非難していたとしても、祭壇奉仕少女たちは結局のところそれほど重要な問題ではないと突然決定するという彼らの特徴的な否定症候群に従ったのである。]

ヨハネ・パウロ二世は思慮を要する諸決定や不可謬的ではない宣言や所見の領域において大幅にリベラルなプログラムに従われたけれども、信徒のいかなる成員も彼の人格を判断する権利を持っていないということは強調されなければならない。またいかなるカトリック教徒も教会の現在の状態に絶望して教皇空位論の熱狂の沼地の中へ迷い込むことに身を委せるべきではない。そこでは悪魔が善良なカトリック教徒たちを、彼らがペトロの座の合法的な保有者であるのは誰であるかを決定することができるという恐るべき錯覚に陥れるのである。

ヨハネ・パウロ二世がわれわれの教皇であり、そして信仰の遺産からの現実的な離反(例えば女性の叙階について)を防ぐために決定的な宣言をする必要があった時にはいつでも教皇はその路線を守られたという事実は残る。それにもかかわらずわれわれはわれわれの感覚の証拠を認める正直さを持たなければならない:すなわち、この[ヨハネ・パウロ二世の]教皇職とパウロ六世の教皇職との全体的な漂流は1960年以前のあらゆる教皇によって海図に記されたコースとはどうしても一致していないのである。究極的には、なぜローマ典礼が、マドリッドのような「保守的な人々」でさえそれから逃げざるを得ないと感じるそのような一つの霊的な悲惨な状態となったかを説明するのはこの事実である。

保守的な人々のための一つの新しい名前

われわれは「保守的な」考え方の失敗が、カトリック教徒の義務が現代的なものの諸要求に教会の聖なる世襲財産のほんの僅かたりとも犠牲に供することを拒否してまさに極端であるべきときに、それが大幅に信仰の実践を、二つの想定された極端の間に存する一つの偽りの中間地帯へと還元したことであるということを示してきた。もしジョンストンがしているように信仰の実践に政治的な用語法を適用すべきであるとすれば、そのときカトリック教徒たちの義務は「賢明にも中央・右寄り」であるべきではなくて、急進的左派に絶対に何ひとつ服従しない急進的「右派」であるべきである。なぜならもしわれわれ(あるいは教皇でさえ)がわれわれを滅ぼそうとしている人々に土地を明け渡すようなことがあればわれわれは死滅するからである。「エキュメニカルな運動」を断罪され、そして王たるキリストの祝日を設けられた他ならぬ教皇ピオ十一世はその問題を以下のような言葉で表明された:

「われわれが経験しつつある危機は歴史において類のないものである...可もなく不可もないものであることはもはや許されない。すべての人は各人が彼の活動の諸々の制約の範囲内で世界をキリストへと立ち帰らせるために果たすべき一つの使命を持っているということを想起する避けられない義務を持っている。右翼の急進派であることによってのみカトリック教徒は左派の急進派に抵抗し、キリストのために世界を征服する力強さを持つであろう。」注113)

「保守的」カトリシズムは、それが主として教会における革命の諸勢力との妥協であるためにピオ十一世が信徒たちに期待なさった力強さを必然的に欠く。それはどんな異端をも含んでおらず、またその実践者たちの多くは敬虔な個人であるけれども、第二ヴァチカン公会議として知られた神の都におけるあのトロイの馬から群がって出て来る革命家たちに対する急進的な解答に恐ろしく不足している。

「保守的」カトリシズムは可もなく不可もないものである。それは、- まさに霊魂の救いそのものが唯一の真の宗教への彼らの回心にかかっていると宣言することをしりごみする一つの衰弱した福音宣教を提供する一方で、一つの絶望的に荒廃した典礼に同意し、そしてそれを賞賛しさえしながら - 伝統と革命との両方に歩み寄るのである。「保守的な人々の」戦闘性に関する解釈は革命の最も乱暴な行き過ぎのあるものについての不満に限定されていて、しかし公会議前の教会の永続的な状態へと教会を回復させるために反革命があるということを敢えて示唆しないというものである。

さらに、信仰に属する諸々の事柄の全範囲において「保守的な」カトリシズムはネオ近代主義に屈してきた:すなわち、典礼に関して、聖なる音楽に関して、公会議前の諸教皇の反近代主義に関して、教会に反対するフリーメーソンの諸々の陰謀に関する公会議以前の諸教皇の警告に関して(多くの「保守的な人々」はそれを少しばかり興味のあるものと思っている)、非カトリック者との共同の礼拝についての絶えざる断罪に関して、カトリック信仰を告白する諸個人並びに国家の義務に関して、ロシアの奉献と回心に関して、歴史としての聖書、特に創世記の最初の三章の文字通りの真理に関して、進化に関して、教室での性教育に関して、そして慎みそのものの価値に関してさえ。[この最後の項目は「保守的な」ジェフ・ケイビンによる司会で EWTN の最近の"Life in Rock"という視聴者電話参加番組によってたっぷり証明されている。「十代の」電話参加視聴者たちは、その表向きのテーマが慎ましさと純潔であったそのショーの間に放送中に諸々の性的な罪についてのあからさまな質問をすることを許されていた!告解室に取って置かれることが最善である諸々の事柄がうち解けた会話のための話題としてライブのテレビで世界へ放送されたのである。]

「保守的」カトリシズムは、フランスの革命家たちに反対して伝統を守るために戦場において彼らの血を流し彼らの実体を与えたヴァンデの人々によって例証されているような戦う教会の戦闘精神を欠いている。スーネンス枢機卿自身が認められた教会におけるフランス革命であったものに直面して「保守的な」カトリック教徒は、増大する伝統的運動が証明しているように、彼の教会における身分への完全な安全を保って合法的に抵抗できたにもかかわらず、破滅的な諸々の変化に対して何の抵抗もしなかった。

要するに、「保守的な」カトリック教徒は一つの新しい名前に十分に値するのである。なぜなら実を言えば彼は革命が彼に保持することを許したもの以外には何も保存しなかったからである。彼は革命が彼の盗まれた世襲財産から彼に喜んで返そうとしたほんの僅かなものさえ保存することに恐ろしいほどに興味がないように見える。彼はまさに、マドリッドがそうしているように、軽蔑をもってそれに鼻をならすだろうと思われるのである。「保守的な人」は、伝統主義者たちが彼自身がかつて、それほど以前ではない頃に、そうであったところのものに他ならないということをもはや思い起こすこともないように思われながら、彼自身の過去を気前よく葬ってしまったのである。

それゆえに、「保守的な人々」は彼らが実際にそうであるもの、そしてジョンストンのような「保守的な人々」が彼らがそうであると証明しているものを反映している一つの名称によって記述されるべきである:すなわち、彼らはネオ・カトリシズムを実践するネオ・カトリック教徒たちと呼ばれるべきである。反革命が勝利を収めるとき、典礼の一致がローマ典礼に回復されるとき、カトリックという言葉が信徒のすべての成員のために同一の意味、そして同一の感覚を回復するとき、そのような用語のいかなる必要性もなくなるであろう。しかし今は必要がある。ネオ・カトリック教徒たちは正義において彼ら自身のために健全な正統性のマントを主張し続けることは許され得ない。また彼らはもはや、カトリック教徒たちが常に礼拝してきたように礼拝し、そしてカトリック教徒たちが常に信じてきたように信じることに対して伝統主義者たちを過激主義者ととして表現することを許されるべきではない。

愛の文明

聖母がファチマに御出現になった後80年、彼女がわずか35年前に御出現になったときの教会を今なお覚えている信徒は彼らが公会議以前には決して見たことがなかった一つのなじみのない風景を今は見ている。ローマ儀式の典礼はラッツィンガー枢機卿が認めておられるように崩壊し、さまざまの民族において数百もの絶えず変化している自国語の諸断片へと粉砕されてしまった。祭壇は一つのテーブルによって取って代わられた。祭壇上の大理石の聖櫃は側の一室にある木製の箱によって取って代わられた。少年の侍者は少女の祭壇奉仕者に道を譲った。そしてグレゴリオ聖歌の荘厳さはかき鳴らされるギターあるいはぞんざいに弾かれるピアノの平凡さに道を譲った。

長い年月今やヴァチカンは新しい典礼と同じようにわれわれに四終:すなわち、死、審判、天国と地獄について話すことを止めた。しかし聖母が神に対する反逆の今世紀の始めにファチマの幻視者たちにお示しになるために地上に遣わされたのは天国の喪失と地獄の苦しみであった。世界が反逆すればするほど、ヴァチカンはそれだけ少なくその反逆に対する罰である永遠の地獄の火について話さなくなっているように見える。

四終が聖座の諸々の宣言から後退するにつれてキリストの社会的王権は「愛の文明」と呼ばれる何かあるもの - 一種のヴァチカンの宣伝のスローガンとなってしまったパウロ六世によって造り出された文言 - によって取って代わられている。注114)数年にわたるさまざまのヴァチカンの声明を読むと、この「愛の文明」はキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教そして雑多な異教的な諸々の密教の多かれ少なかれ平等な諸部分から成る寛容と人間の尊厳に対する尊敬の一つの新しい世界を建設する主として国連が管理するプロジェクトであるということが明らかとなる。

新しいプログラムの注目に値するイベントは1986年10月にアッシジでの悪名高い平和のための世界祈りの日、世界主義のナショナル野生生物基金によって支持された一つのヴァチカンの主唱になるものである。L'Osservatore Romano によれば、教皇は「諸々の選択の多様な形態における諸々の精神の調和」を祝うためにアッシジにおいて集まる「世界の偉大な諸宗教」の実行者たちを招集された。注115)非キリスト教的諸宗教のためのヴァチカン事務局の長であるアリンゼ枢機卿は「世界平和を建設するためにわれわれは国連を必要としている」と宣言された。そして彼は「世界における平和のために祈るためにアッシジにすべての世界諸宗教、キリスト教と他の宗教の指導者たち」を招くことにおける教皇の「先例のない一歩」を賞賛された。注116)

宗教的自由に関する第二ヴァチカン公会議の教えを引用しながら、アリンゼ枢機卿は「キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、アフリカの伝統的宗教者、神道信徒、孔子教徒、シーク教徒、そして他の諸々の信徒たちが世界における平和に対する一つの共通の関心を表明するために一緒に来ることができるということはすばらしいことである」注117)と叫ばれた。教皇御自身歴史において初めて「平和の超越的な質について各人が彼自身の信念に従って世界の前に証言するために、聖フランシスコに捧げられたこの聖なる場所にわれわれ、キリスト教諸教会、教会諸共同体そして世界諸宗教が一緒に集まった」と宣言された。注118)しかしいかなる種類の平和が、カトリックの一つの聖なる場所における偽りの諸宗教の奇怪な集まり、公会議以前のどの教皇も口で言えないほどに恥ずべきものと見なされたであろう一つの意思表示、から生じて来ることができるであろうか? アッシジでの平和のための世界祈りの日以来世界はいかなる種類の平和を享受してきたのか? 確かにキリストの平和ではなかったし、また世界的な平和でさえなかった。

ヴァチカンはアッシジの聖フランシスコのバジリカの外の広場で「世界の偉大な諸宗教」の代表者たちによって表明された祈り:平和のための仏教徒の祈りから平和のためのゾロアスター教徒の祈りまで、をアルファベットの順序に並べたそのイベントの公式の書物を作成した。十分に奇妙なことであるが、その書物は平和のためのカトリックの祈りは含まれておらず、ただ一つの一般化されたキリスト教的な執り成しだけが含まれている。注119)聖なるカトリック教会は今やより大きなキリスト教的宗教の単なる一つの宗派なのか?

信徒はあらゆる見かけにもかかわらず、そのイベントは恥ずべきことではなかったと保証された。なぜなら、「世界の偉大な諸宗教」が祈るために一緒に来た一方で、彼らは実際には一緒に祈らなかったからである、と。しかしむしろ一時に一つというのは詭弁家の赤面を作るであろう一つの区別である。そしてそのようになおもう一つ別の新奇さが公会議後の教会の生活においてその場所を占めた:すなわち、「アッシジの精神」である。1996年に平和と正義教皇庁立委員会の長であるエチェガライ枢機卿は教皇御自身が作られたその文言を賛美する声明を発せられた。その声明は「アッシジの精神がわれわれ皆の上に下らんことを!」というこの奇妙で人を困惑させる祈願を含んでいる。注120)

1986年にアッシジでエチェガライ枢機卿は教皇の列席しておられるところで「われわれが告白する諸宗教の各々が内的な平和そしてその諸目標の一つとしての諸個人および諸民族の間の平和を持っている。各人はこの目標をそれ自身の他と明確に区別できそして取り替えられない仕方において追求する。」注121)「アッシジの精神」は世界の偽りの諸宗教が内的な平和と世界平和の追求において取り替えられないものであると信じるように枢機卿たちを導く一つの精神なのであろうか? 人間の霊魂を暗くするあらゆる偽りの宗教もまさに平和の君なるイエズス・キリストによって建てられた真の宗教によって完全にそして直ちに取り替えられ得るのではないのか?

背教の支流

1910年に教皇聖ピオ十世はこの「アッシジの精神」に著しく類似した一つの主張を促進するフランスにおけるユートピア的なカトリック教徒たちのあるグループ、シヨンに立ち向かわれた。その運動の指導者マルク・サンジエは、カトリック教徒たちは彼らの信条を気にかけずにすべての「善意の人々」の協力を通じて一つの新しい文明を建設しなければならないと教えていた。この運動の明らかに慈悲深い外見を見破ってピオ十世はそれを「一つの世界教会の確立のためにあらゆる国に組織される背教の惨めな支流」として断罪された。注122)教皇はその代わりに、キリスト教国、一つの正しい文明のための唯一の健全な基礎としての革命以前のヨーロッパのカトリック信仰告白国家、への立ち帰りを要求された。

「都市は神がそれを建て給うたようにより以外には建てられ得ない。社会は教会が諸々の基礎を置きそしてこの仕事を管理するのでない限り建設され得ない。そうでなくて、文明はこれから建設されるべき何かあるものではない、また不明確な諸概念の上に建設されるべき新しい都市でもない。それは存在し続けてきたものであり、そしてなお存在している。それはキリスト教文明であり、それはカトリック都市である。」注123)

ピオ十世はシヨン運動を、まさにそれが「アッシジの精神」を示していたがゆえに断罪されたのである。教皇が正しい軽蔑をもって述べられたように、シヨン運動は「各人に彼自身の宗教あるいは彼の哲学を」残すことを提案した。そして「民主主義はカトリック的であるだろう」、民主主義「の利益になるのはそれが反ユダヤあるいは反仏教であろうより以上に、反カトリックではないであろう...」という原理を放棄したのである。その運動は「すべての諸宗教や諸セクトの労働者たちに、同じ社会理想を共有し、すべての信条を尊敬し、そしてそれらと共に道徳的力のある供給をもたらすよう軽率にも訴え」と教皇はさらに指摘された。

この偉大な列聖された教皇はシヨン運動を「背教の一つの惨めな支流」と呼ばれた。なぜなら彼は、教会の永遠の教えのすべての知恵をもって、「道徳的文明なしにいかなる真の文明もない、そして真の宗教なしにはいかなる真の道徳的文明もない」注124)ということを知っておられたからである。彼は、彼の後継者であるピオ十一世が Quas Primas において宣言されたように、「ひとたび人々があの王たるキリストを認めるとき、社会は最後に真の自由、よく秩序づけられた規律、平和と調和の大きな祝福を受けるであろう」注125)ということを知っておられた。そして彼は、教皇レオ十三世が Annum Sacrum において教えられたように、キリストの王権が「単にカトリック諸国家だけ、単に洗礼を受けた人々だけではなくて...またキリスト教信仰の外部にいるすべての人々をも含む、その結果、真に人類の全体がイエズス・キリストの権力に従属している」注126)ということを知っておられた。このことは聖母がファチマでわれわれに告げるために来られたそのことではないか?

今日ヴァチカンはもはやすべての人間そしてすべての国家に君臨するわれらの主イエズス・キリストの社会的王権について話さなくなっている。ヴァチカンは一つの多元主義的な愛の文明について語る。その上、ラッツィンガー枢機卿はヴァチカンがすべての実践的な諸目的のための伝統的な教えを放棄した、そして今や共通の「人間的な」諸価値に基づいた一つの非カトリック的な文明を促進することに満足するであろう、と率直に認めておられる:

「私はある社会をキリスト教と同一視する傾向は次第に消えていくと思う...われわれは少なくとも基本的な教義、人間存在を支える諸価値、真のヒューマニズムへと導く諸々の事柄が維持されることを希望し、そしてわれわれにできる限りのことをする。」注127)

ラッツィンガー枢機卿はこの機会にピオ九世の諸々の誤謬のシラバスが「今日ではカトリック宗教が宗教の他の諸形式を排除して国家の唯一の宗教として維持されるべきであるということはもはや当を得たことではない」という意見を断罪したということには言及されなかった。注128)

しかしながらラッツィンガー枢機卿は彼が著されたある神学のテキストの中で第二ヴァチカン公会議の諸文書、特に Gaudium et Spes が「ピオ九世およびピオ十世の下で教会によって採用された立場の一方的なあり方...を訂正する」よう目論まれた「カウンター・シラバス」を構成しており、そして「1978年に開始された新しい時代との一つの公式的な和解の試み」注129)であると述べられた。

ということは、第二ヴァチカン公会議の諸文書は二人の偉大な教皇の決定的な宣言を却下し、そしてフランス革命の諸原理:真であれ偽りであれすべての諸宗教のための自由、功績を気にかけないすべての人間のための平等、彼らが王たるキリストを認めるか認めないかにかかわらずすべての人間の友愛、を喜んで採用するということである。

1960年以前には諸教皇は、神の恩寵が唯一の真に正しい社会として聖ピオ十世によって賞賛されたカトリック都市の達成を「現代世界」においてさえ、可能にすることができると理解しておられた。しかし今日ヴァチカンはそのカトリックの理想を放棄している。なぜなら、ヴァチカンは現代の諸々の社会のますます増大する反抗的な大衆との人間的な妥協に一歩を譲りながら、もはやそのことを実際的なこととは見ないからである。

キリストの王権が「真のヒューマニズム」のために放棄されるにつれて、1960年までは改宗者の増大する流れを産み出していた古い福音宣教は一種の幅広い教会広報活動キャンペーンに道を譲った。ヴァチカンのカレンダーは平和、正義そして連帯を促進するメディアのイベントで一杯である。しかし全永遠にわたる霊魂の究極的な救済あるいは断罪については決して言及しない:すなわち、人間の鎖とロック・ミュージックを伴った世界青年の日、最善のロゴのコンテストを伴った2000年記念式典、コンサートでボブ・ディランの主演するボローニャでの聖体大会(そのために信徒は35万ドルを支払った)、そしてほとんど毎月と思われるが、教皇のファンで満員のスタジアムへの別の自動車行列、その教皇のファンたちは、ハンカチを振り、拍手喝采をし帰宅しそして教導職の教えを何であれ彼らのグローバル・ヴィレッジのライフスタイルを妨害するものは概して無視するのである。

聖母がファチマで要求なさったようにマリアの汚れなき御心にロシアを奉献する最後の失敗した試み以来過ぎ去った13年間に6億人の子どもたちが虐殺の終わるのを見ることもなく母胎の中で殺されてきた。合法化された安楽死がすでに到来した、そして間もなく一つの新しい大虐殺となるであろう。ロシアはカトリック教会に反対しイスラム教、ユダヤ教そしてヒンドゥー教の利益になる差別的な法律を可決した。中国は教会を地下に追いやった。ヨーロッパ全体は中絶、避妊、離婚そして同性愛者たちの諸権利の一つの共和国へと併合されつつある。諸教皇が今や賞賛を送っておられる国連は Gaudium et Spes (#81)によって要求された一つの世界政府の出現を忙しく調整している。

われわれがかつて知っていた教会の驚くべき挫折を見守っているとき、世界の諸国家がヴァチカン自身によって賞賛された一つの新しい世界秩序へと容赦なく統合されているとき、公会議以前の引き続く多くの教皇が英雄的に抵抗された過去200年間の社会的および宗教的な趨勢を要約する一つの真理をわれわれは認める:すなわち、愛の文明と死の文化は - 現在の教皇がそれらを引き離すためにあらゆる努力をしておられるにもかかわらず - 一つの同じ事柄なのである。それらは「カトリックでもプロテスタントでもまたユダヤ教でもないであろう一つの民主主義・それはすべての人々を最後に『神の王国』における兄弟たちそして同志たちとして一致させるカトリック教会よりももっと普遍的な一つの宗教であろう」注130)というシヨニストのユートピアとしてピオ十世が軽蔑して記述されたものに分かち難く結びつけられているがゆえに、一つの同じものなのである。

それは実際愛の文明である。しかしただ人間的な愛でしかない、そしてただその愛に相応しいと思われる人々のためでしかない。

そしてこの華麗な新しい文明においては、人々が母胎の中の子どもたちが、あるいは老人が、あるいは病人が愛されるべきかそれとも殺されるべきか、あるいは男たちがお互いに結婚すべきかどうか、あるいは太陽の下で何らかの考えられる限りの悪が法律の中に正式に述べられてもよいかどうかに関して意見が一致しないとき、彼らはその問題を教会の前にその判断を求めて置かないのである。彼らはその代わりにそれを彼ら自身の意志の祭壇の上に置く。そして彼らは「カトリック教会よりももっと普遍的な」この新しい宗教の偉大な秘蹟を作り上げる - 彼らは彼らの至高の意志の最も新しい犠牲を捧げながら、祭壇の上に彼らの賛成票を投じる。

われわれのかつて荘厳であった教会の目に見える荒廃そしてその結果としての世界の荒廃を眺めて、われわれは「われわれの時代の毒が徐々に教会の中へと染み込んで行き、そして多くの人々がわれわれの時代の黙示録的な衰退を見ることに失敗してしまった」注131)という1973年のディートリッヒ・フォン・ヒルデブラントの意見にほとんど同意しないことはできないのである。教皇パウロ六世御自身その同じ年に、公会議の「世界への開放は世間的な思考の真の侵略となった」注132)と認められたとき、同じことを言われたのである。

アッシジの聖フランシスコはアッシジの一つの崩壊した教会を素手で再建することによって彼の偉大な使徒職を始めた。彼はイスラム教から唯一の真の宗教へのサラセンの異教徒たちの回心を求め続けた。ほぼ800年後に教皇の招きで一人のイスラム教の聖職者が - インディアンたち、仏教徒たち、ヒンドゥー教徒たち、神道の人々そして精霊崇拝の人々などさまざまの組み合わせの人々とともに - 聖フランシスコのバジリカの外で馴染みのない祈りを唱えた。アリンゼ枢機卿のそのイベントの告知が公表された日の18年後地震がバジリカを揺り動かし、その祭壇を押し潰した。注133)しかし聖フランシスコの遺体が安置されていた下のバジリカは彼の肖像を描いたフレスコと同じように、奇跡的に損害を免れた。

アッシジでは別の教会も崩壊し再建されなければならない。もうひとり別の聖フランシスコがそれを再建するために間もなく来るであろうか?

ファチマへの立ち帰り

第二ヴァチカン公会議が始まるわずか数年まえにピオ十二世は最初にわれわれがそれでもってこの話を始めた預言を述べられた。

「親愛なる友よ、共産主義が教会と神の啓示の諸々の伝統に反対して用いられる転覆の道具のうち最も目に見えるものでしかなかったということを考えてください。...私はファチマのルチアに対する祝せられたおとめ[マリア]のメッセージによって心配している。教会に脅威を与える諸々の危険についてのマリアのこの固執は信仰と教会の典礼を変更するという自殺行為に対する神の警告である。ペトロが疑ったように教会が疑うであろう日が来るであろう。教会は人間が神となったということを信じるように誘惑されるであろう...われわれの教会において、キリスト者は神が彼らを待っておられるところで赤いランプを探すが無駄であろう。マリア・マグダレナのように、空になった墓の前で泣きながら、彼らはキリストをどこに連れ去ったのか、と問うであろう。」

これらの異常な事柄を彼に言わせたファチマのメッセージにおいてピオ十二世は何を見られたのか? われわれが見たように、ファチマの大きな秘密の最初の二つの部分はすでに明らかにされたが、「信仰と教会の典礼を変更するという自殺行為」については何も言っていない。また最初の二つの部分には公会議後の小教区教会においてそのように典型的である無くなっている内陣の[聖櫃を示す赤い]ランプについての目立った詳細には何らの言及もない。しかしメッセージの第三の部分についてはどうか? ファチマの第三の秘密についてはどうか?

われわれがピオ十二世の預言の実現を目撃するとき、われわれの精神は1957年にシスター・ルチアによってヴァチカンに送り出された封印をした封筒に何度も立ち戻る。その封筒は1960年にはわれわれのために開封される筈であった。シスター・ルチアは、1960年にはそれはもっと明らかになるでしょうと言った。1960年までに教皇ピオ十二世は亡くなっておられ、そして第二ヴァチカン公会議が招集されていた。それでは、1960年という年によって特徴づけられたあの大きな霊的な亀裂の境でその地上の生命を終えられた苦しんでおられる教皇がそのように警告されたのはファチマの第三の秘密だったのか? 彼の注目すべき預言の詳細が天の元后によって彼に示唆された、あるいは明白に述べられさえしたのはそこ[ファチマの第三の秘密]においてであったのか?

37年の間ヴァチカンは第三の秘密の抑圧に対して絶えず変化する説明を提供してきた。それぞれの新しい説明と共に不可解さは深まっている。1960年2月8日のあの匿名の ANI 新聞社向け発表における元々の説明は匿名の「ヴァチカン筋」が「教会は...三人の小さな羊飼いたちが聖母から聴いたと主張している言葉の真実性を保証することを誓うものではない」と決定した、と主張した。- それは、教会がすでにファチマ・メッセージの最初の二つの部分 - それは世界の歴史において以前には決して見られたことがない種類の一つの公的な奇跡によって確証されていた - を信じるに値するものとして承認していたことを考えるならば、馬鹿げた主張である。教皇御自身を含むすべての信徒が彼らのロザリオにおいて聖母によってシスター・ルチアに書き取らせられたまさにその祈りを祈っていた、そして聖母がファチマでお命じになった初土曜日の信心を実行していたということを考えるとき、そのことはより以上にさえ馬鹿げたことである。

1984年11月にラッツィンガー枢機卿は、1960年の笑うべき否認を無視しながら、イタリアにおいて数百万人の人々に公表されたあるインタビューの中で、秘密は「信仰を脅かす諸々の危険そしてキリスト教徒の生命、そしてそれゆえに世界の生命を脅かす諸々の危険、そしてまた終わりの時代の重要性」について話していると述べられた。注134)しかし有名なラッツィンガー・リポートにおける同じインタビューの後の出版物においてはこの言葉は不可解なことに削除された。同じ1984年11月のインタビューにおいて枢機卿は、第三の秘密は「宗教的預言を扇情的なやり方で扱うことと混同されることを避けるために」抑圧されてきた、と言われた。しかし20年後の記者会見においては、枢機卿は秘密が「何ら新しいもの、...黙示録的なものは何も、そして信仰にとって本質的なものは何も」含んでいないと宣言された。注135)もしそうであるならば、決定的に黙示録的な内容のマリア御出現がヴァチカンの承認をもって自由に広められてきたときに、それではなぜこの本質的でない、黙示録的でない秘密は抑圧されてきたのか? 禁書目録が廃止されてしまった時代に真なるものであろうとあるいは偽りのものであろうとどのような種類のマリア御出現もが自由に出回ることが許されているときに全世界においてただ一つの書き物:すなわちファチマの聖母の第三の秘密だけが検閲されている。なぜなのか?

1990年3月にオッディ枢機卿は第三の秘密において「祝せられたおとめは教会における背教に対してわれわれに警告を発しておられる」そしてその発表のための日付、1960年は「秘密が第二ヴァチカン公会議の招集と何らかの関係を持っていた」という多くの人々の信念を確証された。注136)しかし1996年10月にラッツィンガー枢機卿は、第三の秘密が何らかの偉大な瞬間の何物をも含んでいないという主題を続けられた:「秘密は実際いつかわれわれに起こり得る何かあることを知らせる世界の歴史とは何の関係もない...」注137)ええ、しかしわれわれにすでに起こった何かあることについてはどうか? 彼はこうつけ加えられた:「それは未来についての教えではなくて、信仰における一つの援助そして一つの教育である」と。そのように37年の間ファチマの第三の秘密はそれがわれわれを援助しそして教育するであろうがゆえに信徒から隠されてきたのだ!

新しいことを何ら含んでおらず、にもかかわらず明らかにされることができないこの本質的でない、黙示録的でない、役に立つそして教育的な秘密はそれをうまく言い逃れるそれぞれの試みと共に深まり続けている。1997年の11月にヴィットリーノ・メッソーリとルネ・ローランタンの、「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう」というルチアの第四回想録におけるその文言が教会の至るところでの教義の喪失を示唆しているということ、そして教皇ヨハネ二十三世が秘密は彼の 「楽観主義」と矛盾することを見られて「どんな犠牲を払ってもそれをヴァチカンの公文書保管所に委ねることを決定された」注138)という信念を詳しく語っている一つの論考が Inside the Vatican に現れた。メッソーリは教皇パウロ六世とヨハネ・パウロ二世は「ヨハネ[教皇]の決定のとらわれの身である」と結論づけている。実際、彼らはどのようにして、神の警告をさえ心に留めないで、「ロンカッリが教会における予告された危機を避けるために分別のある処置を取らなかった」注139)ということを認めることができるのか?

メッソーリの結論を告げられたとき、ヨハネ教皇の個人的秘書であるロリス・カポヴィッラ大司教 - 現在82歳 - はメッソーリに反対のことを言わず、しかし彼が読んだ秘密の内容について一つのまったく新しいそして驚くべきヒントを与えた:すなわち、秘密は「教会だけに関わっているのではなく、「また一つの絶対に例外的な出来事、超自然的なものの出現」をも予告している、と。彼の見解を尋ねられてラッツィンガー枢機卿は(実際にそれらは偽りであったとは言わないで)メッソーリ/ローランタンのコメントを「すべて途方もない空想」として退けられた。しかし彼は最も意味深いことであるが、カポヴィッラ大司教の新しいすっぱ抜きを否定されなかった。それは今や第三の秘密のほとんど確実な内容を示唆する増大する諸事実の集まりに加えられなければならない。注140)

変化して行く諸々の説明の37年間はただ、ファチマの第三の秘密が人をまごつかせる正確さをもってヨハネ教皇によるその抑圧以来漏れて来た諸々の出来事を指し示しているに違いないというオッディ枢機卿とヴィットリオ・メッソーリのの見解を共有する信徒の数を増大させただけである。ラッツィンガー枢機卿が黙示録的でなく、本質的でなく、何も新しくなく、未来の予告でもなくて、むしろ信仰における教育と援助であると言われる一つの秘密を発表することをそれ以外には説明できない仕方でヴァチカンが拒否していることを他の何が説明できるであろうか?

それゆえに、ファチマの第三の秘密が教皇、公会議そして1960年頃に始まっている教会の至るところでの信仰と規律の喪失 - 要するに一つの大きな背教 - に言及しているという確信が増大している。もしこのことが真であるならば、そのときわれわれはわれわれ自身の霊的安全のためにそれを知る資格がある。そしてその行為と怠慢を秘密が言及しているであろう人々は公平に評すれば、その天からの告発状を、もしそれがその通りであるならば、開封する義務がある。他方において、もし秘密が公会議やそれに続いて起こった総崩れについて何ら言及していないならば、聖母がファチマでそれについて否定的なことを何も仰らなかったということを明らかにすることよりも公会議の aggiornamento[現代化]を擁護するもっとよい方法は何なのか? しかしその問いはそれ自体なぜ第三の秘密が秘密のままに留まっているのかを示唆しているのである。

秘密が何を言っているにせよ、聖母がある少数のヴァチカンの官僚たちに、あるいは教皇にさえ、一つの私的なコミュニケを伝えるためにファチマに来られたのではないことは明らかである。彼女は比類のない狂気のこの世紀における不気味に現れている諸々の危険について人類全体に警告するために、全体としての世界に話すために、来られたのである。もしそうでなかったならば、それではなぜ彼女は全世界のためにそれを見るように太陽の奇跡を呼び下ろされたのか? それはわれわれが与えられなかったメッセージをそれが本物であると証明するためではなかったか?

ファチマでの聖母のメッセージは三つの部分を持っていた。そのうちの二つを世界はずっと以前に受け取っていた。第三の部分についてはどうか? 第三の秘密が公会議後の総崩れの大きなそして恐るべき暗闇からわれわれを導き出す一つの光であるということはますますありそうなことであると思われる。われわれは聖母がわれわれに与えるために来られたこの光を見る資格がないのか? われわれは聖母が知ることをわれわれに望んでおられるものを完全な形で正確にわれわれに告げるようにローマに嘆願することを決して止めてはならない。

第三の秘密は明らかにされるであろう

アンニバル・ブニーニがローマ典礼を破壊し終わったとき、彼はその注意を祝せられたおとめマリアの信心に向け変えた。ミサを「刷新した」後に彼はロザリオの「刷新」のための彼の慎ましい提案を提出した:すなわち、ロザリオは短縮され、主祷文を最初に一度だけ、そして天使祝詞を - それが何を意味するにせよ - ただ「祈りの聖書的な部分」だけを含むように編集して再整理されるようにしなければならない、と。「神の御母聖マリア」は「各々10番目の天使祝詞の終わりにだけ」唱えられるであろう。また読書、歌、説教そして「一連の天使祝詞、ただし一連にだけ限定される」を含むロザリオの新しい「公的な」バージョンもあるであろう。注141)

パウロ六世はヴァチカン国務長官を通じてこの奇妙な提案に答えられた:

...信徒は「教皇がロザリオを変えられた」と結論するであろう。そしてその心理的な影響は破滅を招くものであろう...それにおけるいかなる変更も単純で貧しい人々の信頼を低下させざるを得ない。注142)そのように聖グレゴリオの時代にまで遡る聖なるミサの典礼は信徒に対する二三週間の通達でずたずたにされ得るであろう。しかしロザリオは触れられないであろう!それは余りにも遠くまで進むことである。それはあたかも「不敬な侵入者たち」の手でミサの美しさが損なわれるという被害を蒙られたわれらの主が御自分の御母に対する信心の伝統的な形式に加えられる最小限の損害をも、彼女に対する優しい気遣いからお許しにならなかったかのようであった。

頑固に盲目な者だけがマリアの時代、ファチマの時代におけるわれらの主のフィアットによってわれわれは生きているということを見ることができないのである:「神は世界において私の汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられます...もし人々が私が求めることをするならば、多くの霊魂が救われるでしょう。そして平和がやって来るでしょう。」そのように聖母はファチマで言われた。それゆえそうなるであろう。「終わりに私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献されるでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして平和の一時期が世界に与えられるでしょう。」ある人々は、これらの言葉は愛の文明のために過ぎ去ってしまった勝利主義のカトリシズムの単なる遺物であると言うであろう。にもかかわらず信徒は神の約束が決して過ぎ去らないで常に終わりに実現されるということを知っている。

おそらくわれわれはマリアの汚れなき御心の不可避的な勝利と教会の歴史における最も大きな総崩れの奇跡的な逆転とその奇跡を通じてのキリスト教の回復とを見るために生きるであろう。おそらくこれらの事柄が起こる前にわれわれはもはや隠すべきものを何も持たない人々からファチマの第三の秘密の神秘を学ぶであろう。

そしてひとたびわれわれがこの貴重な秘密を学ぶとわれわれはわれわれがそれをずっと以前から知っていたということを理解するのではないか? なぜなら時の経過は人々が隠すためにそのように勤勉に努力してきた悪事を暴きながらすべての秘密を暴露するからである。

ファチマの聖母!われらのために祈り給え!

脚注


76. Mortalium animos, nn. 10-11.
77. The Ottaviani Intervention, Tan: Rockford, Illinois(1992)pp. 28, 55.
78. Reform of the Roman Liturgy. Una Voce Press: San Juan, Capistrano(1993), p. 34-35.
79. St. Robert Bellarmine, De Romano Pontifice, Book II Chapter 29.
80. Catholic Encyclopedia, 1910 edition, pp. 432-33.
81. Davies, Michael. Pope John’s Council. Angelus Press: Kansas City(1977), p. 17-18.
82. Von Hildebrand, Dietrich. The Devastated Vineyard, p. 17.
83. The Salt of the Earth, Ignatius Press, San Francisco(1997).
84. Gamber, op cit, p. 38.
85. See Part III of this series, Catholic Family News, December 1997, p. 13
86. See, Directory for Application of Principles and Norms on Ecumenism, n. 138, which authorizes shared ownership of church premises if the Bishop deems it financially or otherwise appropriate, and there is “a good ecumenical relationship” with the Protestant co-owners — whatever that means. In such case, “consideration” should be given to removal of the Blessed Sacrament from the jointly owned sanctuary, in order to accommodate the “sensitivities” of “those who will be using the building.” (n. 139)In his encyclical Ut Unum Sint Pope John Paul II confirms that the Directory was “issued with my approval” as the basis for applying ecumenism in “the pastoral sphere.”(Ut Unum Sint, n. 16)
87. The author is currently serving as legal counsel to Catholic parents whose ten-year-old daughter was expelled from a “Catholic” school in the Archdiocese of Miami because the parents refused to allow their little girl to study the details of sexual intercourse in the classroom — including explict names of private parts and sexual actions.
88. See, for example, Pius XI’s 1929 encyclical Divinis Illius Magistri, condemning all forms of classroom sexual instruction, and cautioning that if “some instruction” is to be given in private, that it not descend to details.
89. Catholic Family News, October 1997, p. 3.
90. The Truth and Meaning of Human Sexuality, n.120.3(1995).
91. See “Children Rights”, Catholic Family News, April 1997, p. 1.
92. Gaudium et spes, nn. 77 and 82.
93. See, Pope Paul’s Address to the United Nations(1965), and Pope John Paul II’s address to the United Nations on October 5, 1995.
94. Schreck, Alan. The Compact History of the Catholic Church. Servant Books: Ann Arbor(1987), p. 95.
95. Ibid., p. 105.
96.See Michael Davies, Pope Paul’s New Mass, Chapter 24.
97. Catechism of the Council of Trent, Christian Book Club: Hawthorne, CA.(1829), p. 220.
98. Likoudis, James and Whitehead, Kenneth, D. The Pope, the Mass and the Council. Christopher Publishing House: Hanover, Mass.(1982), p. 106.
99. Ibid., p. 103.
100. Wanderer, February 16, 1995, p. 7. It must be noted that, when presented with proof of Mr. Matatics’ orthodoxy, the Wanderer justly and charitably restored access to its pages for the promotion of Mr. Matatics’ apostolate.
101. Mr. Keating was invited to confirm or deny this report by an E-mail inquiry to which he never responded.
102. McBrien, Richard P. The Remaking of the Church.(1973), p. 146.
103. Letter of Pope Pius X on the Sillon Movement, August 25, 1910.
104. Quoted in “The Present Legal Status of the Traditional Latin Mass”, Fr. Paul Leonard, B.Ph., S.T.B., M.Div.
105. Denzinger, 995-996.
106. Veterum Sapientia, par. 32.
107. The Pope, the Mass and the Council, p. 11.
108. Quoted in Latin Mass Magazine, Winter 1997, p. 67. The accompanying comment by editor Thomas E. Woods, Jr. notes that today's top Catholic apologists” are almost unanimously hostile toward traditionalists.
109. Keating s public and private persecution of traditionalist Gerry Matatics was discussed in Part IV of this piece. For a complete discussion of the Keating-Matatics affair, see this author s article on the Una Voce America web site at http://net2.netacc.net/~bbasile/ news.htm.
110. Schreck, op. cit, p. 123.
111. Crisis, May 1996, p. 6.
112. In typical "conservative" fashion, leading “conservatives” attempted once again to distance the Pope from his own words and actions, claiming that his statement of October 22, 1996, that the theory of evolution is “more than a hypothesis” should have been translated from the French(plus qu une hypothese)as "more than one hypothesis"” The proposed translation was nonsensical in context, as the English edition of L Osservatore Romano later noted in a correction providing the proper translation.[See Catholic World Report, February 1997, p. 4]. The official Italian language translation in L Osservatore Romano was correct from the beginning: The Pope said “more than a mere hypothesis” (piu che una mera ipotesi). In any case, the Pope has given a long series of statements favoring the theory of evolution. As just one of many examples, on April 26, 1985, the Pope addressed a symposium entitled “Christian Faith and the Theory of Evolution”, praising the assembled evolutionists for their work, and declaring: “[B]elief in evolution and the properly understood teaching of creation do not stand in one another s way. Creation represents itself in the light of evolution as an event extending through time ...Therefore I welcome this symposium ...” L Osservatore Romano, April 27, 1985, p. 4, Italian edition (“ ...la Creazione si pone alla luce dell evoluzione come un avvenimento che estende nel tempo ...”).
113. Letter to Cardinal Archbishop of Paris, quoted in Latin Mass Magazine, Winter 1998, p. 63.
114. See, for example, L Osservatore Romano, May 14, 1997, p. 4, reporting remarks of John Paul II, citing Gaudium et Spes; Declaration at World Summit on Social Development in Copenhagen by Vatican Secretary of State Cardinal Angelo Sodano, March 12, 1995; “The Family, The Heart of the Civilization of Love”, address by Cardinal Trujillo, December, 1994; Pope John Paul II s address on Reconciliation in Croatia, January 31, 1997; Discourse to Plenary Assembly of the Pontifical Council for Culture by Pope John Paul II, January 15, 1985.
115. L Osservatore Romano, September 17, 1996.
116. Assisi: World Day of Prayer for Peace, published by Pontifical Commission, Justitia et Pax(1987), p. 39, 49.
117. Ibid.
118. Ibid.
119. Ibid.
120.  The entire statement is available from the Vatican archives at http://www.vatican.va/jubilee_2000/magazine/ju_mag_june-sept-1996_et chegaray-assisi
121.  Assisi: World Day of Prayer for Peace, at 110.
122. Letter on the Sillon Movement.
123. Ibid.
124. Ibid.
125.  Quas Primas, n. 19.
126.  Annum Sacrum, n. 3.
127. “How a Cardinal Ratifies Our Views”, Fr. Charles Fiore, The Wanderer, July 24, 1997.
128.  Syllabus of Errors, Condemned Proposition n. 77.
129. Ratzinger, Josef Cardinal. Principles of Catholic Theology. Ignatius: San Francisco(1987), pp. 381-82.
130.  Letter on the Sillon Movement.
131. Von Hildebrand, Dietrich. Devastated Vineyard. Chicago:1973, p. 35.
132. Iota Unum, pp. 9-10, quoted papal address of November 23, 1973.
133. New York Times, September 28, 1997.
134. Jesus Magazine, “Ecco Perché La Fede É In Crisi” (Here Is Why the Faith Is In Crisis), November 1984, p. 75.
135. CRC, No. 289 Oct. 1996, p. 6.
136. The Fatima Crusader Magazine, Issue 33, p. 14; reprinting an interview in Il Sabato of March 17, 1990.
137. Catholic World News report, October 1996, available under keyword “Fatima” at News section of EWTN Web site.
138. Inside the Vatican, November 1997, “Focus” section.
139. Ibid.
140. Ibid.
141. Bugnini, Annibale. The Reform of the Liturgy. Liturgical Press: Collegeville, Minnesota(1990), p. 876.
142. Ibid.

作成日:2006/07/25

最終更新日:2006/07/25

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