ファチマ・ニュース

ファチマの第三の秘密と公会議後の総崩れ

(第二部)1998/03/08

クリストファー・A. フェララ, Esq.

第一部 第三部 第四および第五部

編集者注:この五部シリーズの第一部においてフェララ氏はそれが1917年に封印された封筒でヴァチカンへ移送されたこととそれが信徒に公開されなければならなかった年である1960年に教皇ヨハネ二十三世によって不可解にも抑えられたことを含む第三の秘密の歴史を概観された。フェララ氏はまた、第二ヴァチカン公会議に至るまでの数年間にファチマの聖母によって予告されたように、共産主義が進展したこととロシアの諸々の誤謬が世界中に蔓延したことをも明らかにされた。彼はまた教皇ピオ十二世のぞっとするような予言をも詳しく話された。ピオ十二世はファチマのメッセージが「信仰と典礼を変えるという自殺行為に対する神の警告」であると言われた。ピオ十二世は明らかに最悪のことを恐れながら、エキュメニカルな公会議のための彼自身の計画を破棄された。

第一部は第二ヴァチカン公会議のオープニング・セッションに対して「われわれは常に大災難を予言する陰鬱の預言者たちと争わなければならない」と宣言される教皇ヨハネ二十三世のことで終わった。公会議の前に秘密裡に交渉された「ヴァチカン・モスクワ協定の下で」公会議教父たちは共産主義を公然と非難することを妨害されるであろう。

この第二部においてフェララ氏はリベラルな改革者たちによる第二ヴァチカン公会議の転覆、第三の秘密に対する教皇パウロ六世の明白な無関心、シスター・ルチアとの話し合いの拒否、公会議に続いて起こった大きな総崩れを略述している。

パウロ六世自身が認められたように、オッタヴィアーニ枢機卿とローマ・クリアにおける彼の同僚の伝統の擁護者たちは「公会議の突然の召集に驚きと懸念...」とを表明した。注22)過去35年の歴史は彼らの懸念が十分に理に叶ったものであったことを示している。ローマ・クリアのメンバーたちは公会議についてただただ懸念することができただけであろう。なぜなら、彼らは不可謬性のカリスマは公会議が発言しあるいは為すであろうすべての事柄に附随しているのではないということを理解したからである。今日の「保守的な」カトリック教徒たち(公会議以前には存在していなかったグループ)はローマ・クリアの懸念を共有していなかったであろう。「保守主的な人々」は一般に、聖霊が不可謬性のカリスマが厳密に必要とさせるもの、すなわち完全な文書を産み出す積極的な霊感よりむしろカトリックの教えとして明白な誤謬の荘厳で権威的な定義に対する否定的な禁止を与えられるよりはむしろ公会議の諸々の行為や処置のすべてを肯定的に導かれた、という法外な主張をする。

開会が利用される

ファチマの第三の秘密が教皇宿舎の中に世界から隠されて置かれている間に公会議のリベラル派の人々はヨハネ教皇のエキュメニカルな公会議の突然の召集によって提供された開始を利用するためにせっせと準備していた。

われわれは『ライン河がティベル河に流れ込む』におけるウィルトゲン神父の決定的な説明から、そしてまた彼ら自身の自慢から、いわゆる「ライン・グループ」(彼らの国々がライン河に境を接しているのでそう呼ばれた)のリベラルな司教たちがどのように公会議の周到に準備された協議事項を捨て、公会議の議案起草の組織の支配権を握り、そして彼らの好みにより適合した新しい公会議文書を作成しようと計画したかを知っている。その話は単に「伝統主義者」ではないウィルトゲン神父によってばかりでなく、またマイケル・デイヴィス、ヒーナン枢機卿、そして他の多くの人々によっても、非常に詳しく語られてきた。ここでは短い概略で十分である。

「ライン・グループ」の最初のイニシャティヴはそのメンバーたちがそれぞれの公会議の委員会での支配的な数の議席に選出されることを確保することであった。このことはリエナール枢機卿が、公会議自体の手続きの規則に露骨に違反して、ローマ・クリアの選挙候補者名簿に基づいて選挙されるよりはむしろそれは放棄されるべきであると要求しながら、マイクロフォンを取って168人の候補者についてローマ・クリアの選挙候補者名簿に基づく選挙を阻止した後に達成された。リエナールの「霊感を受けた」行動は報道陣によって一つの勝利だと宣言された。リールの司教はリエナールが「公会議を正しい道筋から曲げ、そして歴史を作った」と宣言した。その司教は正しかった。注23)その日は1962年10月13日、ファチマの聖母の最後の御出現の45周年記念の日であった。

ひとたびクリアの選挙候補者名簿が放棄されると、ライン・グループの候補者たちは諸委員会全体のすべての選挙議席の49%を、決定的な神学委員会の議席の50%、そしてより重要でさえある典礼委員会の議席の56%を獲得することができた。ウィルトゲンはこう書いている:「選挙の後、どのグループが第二ヴァチカン公会議でリーダーシップを取るために十分によく組織されているか予見することは容易であった。ライン河はティベル河の中へと流れ込み始めた。」注24)

リベラル派の計画の次の局面は公会議の準備の概要をしまつすることであった。その概要の「厳格」で「不毛な」諸定式は彼らが公会議のために念頭に置いていた自由化する結果を排除していた。しかし概要を放棄するためにはヨハネ教皇によって公布された手続き上の規則の下で公会議教父の三分の二の賛成票が必要とされるであろう。リベラル派からの圧力に屈してヨハネ教皇は概要を拒否するために公会議教父たちの単なる過半数を許容しながら、ゲームの中間で規則を変えることに同意された。

巧妙なロビー活動とマスメディアに狙いをつけた列席者の拍手喝采いっぱいの演説を通じて公会議教父たちの大多数は一つの概要:すなわち、リベラル派にとって非常に大切だった聖なる典礼に関する概要、を除いて準備の概要のすべてを放棄するよう説得された。典礼の概要は公会議の後その主要な起草者、あの悪名高いアンニバーレ・ブニーニによって爆破されることになる典礼の地雷の一つの集積であった。

公会議がそれ自身教会史における先例のない出来事においてひとたびその十分に準備された全体的な協議事項を剥ぎ取られると、公会議の新しい協議事項そしてその文書のすべてはライン・グループのメンバーたちと彼らのペリティ(専門家たち)によって今や効果的に支配された公会議の諸々の委員会によって ab initio 「最初から」作られたであろう。マイケル・デイヴィースが述べたように、リベラル派は準備の概要によって公会議で彼らに課される概要に反対した、そして次に彼ら自身の概要を課すことへと進んだ。

リベラル派が公会議からその協議事項を剥ぎ取ることに成功した後、彼らが残っている準備の概要:すなわち典礼に関する概要の直接的な考察を煽り立て、そしてそのことを獲得したということは驚くに当たらない。オッタヴィアーニ枢機卿はリベラル派の手のうちにあるブニーニの概要の破壊的な潜在力に気づかれて次の警告を発せられた:「そのように長い世紀にわたって承認されてきた、そして今もそのように親しんでいるそのように由緒ある儀式の中に諸々の変化を導入することによって、われわれはキリスト教の人々の間に疑念を、あるいはおそらく憤慨を引き起こそうとしているのであろうか? 聖なるミサの典礼はあたかもそれがそれぞれの世代の気まぐれな思いつきに従って作り直されるべき布切れであるかのように取り扱われるべきではない。」注25)われわれが今日知っているように、オッタヴィアーニ枢機卿の警告は聞き届けられなかった。ブニーニの概要は公会議の第一セッションが終わる前の日、1962年12月7日に採用された聖なる典礼に関する公会議の法令となった。

ブニーニ自身は公会議の後にパウロ六世によって設立された Concilium の長官として典礼法規を実行することになろう。クラウス・ガンバーがその Reform of the Roman Liturgy において書いたように:

「公会議の教父たちは、聖なる典礼に関する法規を発表する時に、単純に彼ら自身が産み出した新しい典礼を含むすべての伝統的な典礼的礼拝の形式をそれの下で押し潰している彼らが始めた雪崩を見ることを予期していなかった。」注26)

聖なる典礼に関する法規を彼の権威として引用されたパウロ六世の祝福と共に注27)、ブニーニの Concilium は1969年に教会に課されたミサの新しい典礼をでっち上げた。その次に続いたのは他の諸々の秘蹟のすべてのための新しい形式であった。要するに、教皇御自身がピオ十二世がファチマの「典礼...を変えるという自殺行為に対する神の警告として記述されたものを無視されたのである。

しかしパウロ六世は第三の秘密を彼の教皇選出のほとんど直ぐ後に読まれていた。ヨハネ教皇と同じように、彼は、ブニーニのローマ典礼の破壊に対する許可を与える2年前、1967年にローマにおけるマリア学の会議でその非公開の言い訳を提供するためにオッタヴィアーニ枢機卿を派遣しながら、第三の秘密を忘却に委ねておられた。注28)

先例のない諸文書

公会議の第四で最終のセッションの終わりまでにカトリック教会は多くの奇妙に曖昧な記述を含む16の公会議文書を提供されていた。それらの文書は教導職の全歴史においてかつて見たことがないような文書であった。公会議文書、特に Lumen Gentium (教会について)、Unitatis Redintegratio (「エキュメニズム」について)、Dignitatis Humanae (宗教的自由について)、Gaudium et Spes (「現代世界」における教会について)、そしてもちろん Sacrosanctum Concilium (典礼について)、は突然召集された公会議によって解き放たれたネオ近代主義者たち - 彼らは自分たちの曖昧な言語的「ヴィールス」を神秘体[である教会]と、彼らを抑えるために猛烈に戦っていたクリアの「免疫システム」との中へ注入しようと努力していた - の間の激烈な闘争を反映している。その闘争の結果はその中で曖昧な「ヴィールス」がそれららを中和するように目論まれた伝統的な「抗体」でもって取り囲まれている「総体的合意」文書であった。人はその文書が二三のパラグラフ、あるいは二三の語すらのスペースの内部に伝統からの逸脱とそして次に伝統への方向転換とを行っているのを見ることができる。

「伝統主義的」傾向のゆえに非難されることがほとんどできない「保守派」であるモンシニョール・ジョージ・ケリーは彼の権威ある研究アメリカ教会のための戦いにおいて次のように述べておられる。「公会議に列席していたグレゴリー・バウムはかつて、ヨハネ教皇が二つの方向において微笑された、と思った。パウロ教皇の批判者たちは彼が同じ道を祈られたと示唆している。公会議後の教会の問題はこの困難な状況を反映している。公会議の諸文書は公会議後の諸々の困難を理解し得るものとするに十分な基礎的曖昧さを含んでいる。」注29)モンシニョール・ケリーが論じておられないことは聖なるカトリック教会の一つのエキュメニカルな公会議がまず第一にそのような曖昧な諸文書を産み出すように説き伏せられてきたということである。クリアのメンバーたちが公会議の突然の召集について懸念を持っていたということは驚くに当たらない。

ただ聖霊の神的な助けによってのみ公会議のテキストの最も厄介な部分のあるものがあからさまな誤謬を真理として決定するという破局から守られた。パウロ六世の教皇命令によって最後の瞬間に挿入された訂正と脚注がいくつかの節においてそのことが起こることを妨げた。これらの介入はリベラル派を激怒させた。彼らは教皇の支配権のそのような行為は彼らの奇をてらった「[司教の]共同性」の概念に違反すると不満を漏らした。彼らはいくつかの決定的な教皇介入と教会の御母としてのマリアについての教皇の布告 - それは特に彼らを激怒させた - によって特徴づけられた公会議における「暗黒の週」について語った。

公会議においてどのように聖霊がこのような仕方で働かれたかということについてのおそらく最も劇的な例は「[司教の]共同性」に関する非常に曖昧で混乱を招くそのテキスト - それの他の諸問題の中で、キリストによって使徒たちに与えられたつなぎまた解く権力をキリストの代理者としてのペトロに個人的にそして特別に授与された権力と同等と見なす、そしてまた設定された「司教たちの団体」にある種の法的な地位を与える、と思われたテキスト - を明確にするためにパウロ六世が Lumen Gentium に付け加えられるように命令された nota praevia であった。パウロ教皇は、リベラル派がそのテキストを公会議後に教皇至上権の教えを掘り崩すために用いようと計画していたという明白な文書上の証拠を嘆かれた後に、そのテキストがまさに承認されようとしていた文字通り数秒前にこの介入を行われたのである。注30)

公会議における peritus (専門家)であったロマーノ・アメリオが彼の傑作 Iota Unum において述べているように:「そのように多くの協議、訂正そして改訂の後に、そしてそのように多くの修正条項の受容の後に、公会議がその公布のまさに瞬間に一つの説明の注釈を要求するほどにそのように不完全な教義文書を出すなどということは説明不可能だと思われる。」注31)

公会議の間にパウロ六世は共産主義に関する公会議の沈黙についてのモスクワの KGB 交渉者、首都大主教ニコディムと会われた。私的な感想の中で、ウクライナ・カトリックのヨゼフ・スリピー首座大司教は「ギリシャ・カトリック教会の殺人者たちの血にまみれた手を握る」ことに対してパウロ教皇を公然と非難された。注32)1978年にニコディムはヨハネ・パウロ一世の教皇宿舎でコーヒーを手に持ったまま亡くなった。10日後、ヨハネ・パウロ一世御自身彼の在位の33日目に亡くなられるであろう。

「エキュメニズム」の犠牲になられた聖母

実際、カール・ラーナーによって導かれた改革者たちを、聖母から彼女の永遠の称号を完全に剥ぎ取らせないようにすることは伝統の擁護者たちがすることができたすべてであった。公会議議員席の戦場で採用された妥協はなおもう一つの「同意」条項であった:すなわち、聖母は単に「仲介者」(何の? )としてだけ記述されるであろう、そして「すべての恵みの」という重要な神学的文言は彼女の称号から落とされるであろう。彼女は協償者 Co-Redemptrix という彼女の伝統的な称号を剥ぎ取られるであろう。「仲介者」という改訂された称号さえ「代弁者」、「援助者」「恩人」のような他の称号のリストの最後に委ねられ、その結果公会議に出席している非カトリックの「オブザーバーたち」の代表団にあまり不快でないようにさせられるであろう。注33)

新しく作られた「キリスト教一致」のための事務局総長であるベア枢機卿は制約された称号「仲介者」にさえ反対した。しかしイタリアのミンゴ大司教はそれをマリアに捧げられた概要の元のテキストの「徹底的な切断」の一部と呼びながら、実際より小さくさせられたその称号を非難された。その元のテキストはその範囲において徹底的に縮小され、そして Lumen Gentium の一つの節に格下げされた。主要なリベラル派であるスーネンス枢機卿でさえ今回かぎりは「ライングループ」の線から離れて、その中で一部を切りつめたテキストが「今日一つの真の危機を構成している一つの傾向」であるマリアの重要性を軽視したそのやり方に反対された。注34)

公会議が始まった4日後、1962年10月15日のローマのコロンブス・ホテルでの非カトリック教徒の「オブザーバーたち」に対する胸の悪くなるほどに卑屈な挨拶の中でベア枢機卿は彼の「キリストにおける親愛なる兄弟たち」に「あなたがたの積極的な批判、あなたがたの示唆そしてあなたがたの望みをわれわれと共有するために、あなたがたが嫌っているすべてのこと...をわれわれに非常に率直に告げる」ように懇願された。そして彼らはそうしたのであった。祝せられたおとめマリアの教会の崇敬は疑いもなく「あなたがたが嫌っているすべてのこと」の彼らのリストの上位にあった。「キリストにおける親愛なる兄弟たち」は公会議の時に避妊と離婚を承認し、そしてそれ以来中絶の許容や「司祭」としての女性の叙階のようなそのような「キリスト教的」教えを承認した「諸教会」を代表していたと言わなければならない。

パウロ六世は公会議の間に教会の御母としてのマリアを宣言されたけれども、彼の教皇在位期間の残りの間中、単に仲介者としてさえマリアに言及することを控えられるであろう。そのことによって Unitatis Redintegratio によって正式に開始され、ベア枢機卿によって指揮された新しい「エキュメニカルな冒険的事業」に奉仕されるであろう。コロンブス・ホテルにおけるベア枢機卿のこびへつらいの挨拶の後に続く数年間に、「キリストにおける親愛なる兄弟たち」の「諸教会」はもちろん彼らがずっと昔に彼ら自身の権威においてずうずうしくも拒否した真の信仰の教えの受容に向かって1ミリメートルも動かないであろう。その反対に彼らは死体のように分解のプロセスにおいて真理からますます遠く離れて行くだけであろう。

にもかかわらず、公会議によって打ち上げられた「エキュメニカルな冒険的事業」は、これらの死せる諸教会を持ち上げ、アイルランドの航路での死者のように、生命の外観を彼らに与えるヴァチカンと共に、衰えずに続くであろう。ベア枢機卿の小さな挨拶のおよそ34年後に、一人のアングリカンと二人のルーテル派の人々を含む教皇庁国際マリア・アカデミーの「エキュメニカル」神学委員会は全会一致で教皇ヨハネ・パウロ二世に、マリアが教会によって常にそう呼ばれてきた方、すなわち、すべての恵みの仲介者であるという教義を不可謬的に宣言しないように忠告するであろう。ヴァチカンのスポークスマン、ホアキン・ナヴァロ−ヴァルスは、委員会が「第二ヴァチカン公会議によって設定された道を放棄することは時宜に適っていない」と考えたがゆえに、その教義がヨハネ・パウロ二世によって決定されることはないであろうということは「極めて明瞭」であると付け加えるであろう。注36)

「第二ヴァチカン公会議によって設定された道」は神の御母に相応しい完全な名誉を彼女に与えることから教会を引き離すよう導いた。その道に従って、聖なるカトリック教会は今やマリア教義に関して、そして教皇制のどの諸局面が「キリスト教一致」のために不要なものとされることが許されるかに関してさえ彼らの意見を求めて、異端者たちや分離主義者たちに相談しているのである。注37)その同じ道は聖母がファチマで地上に伝えられた神のメッセージから引き離すことへと教会を導いた。

公会議終わる

1965年12月7日公会議第四セッションの終わりの挨拶の中で、パウロ六世は世界の世俗的なヒューマニストたちに、「われわれもまた、他の誰より以上に、人間の礼賛を持っている」ということを認めてくれるように訴えられた。その翌日公会議は正式に閉会するであろう。

ヴァチカン国務省長官そしてヴァチカン・モスクワ協定をもって始まった東方政策 Ostpolitik という新しい政策の偉大な立案者であるカザロリ枢機卿に従えば、今やソビエトの「軍縮の狙いと国際的緊張の緩和は教会自身の平和の使命に一致する」と思われた。注38)しかし、われらの主は、私は「平和」(特にソビエトの「世界平和」)をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのだ、とわれわれに告げられた。われらの主は御自分の教えが分裂を引き起こし、御自分の教会のメンバーたちの上に教会の敵との愛想のよい「対話」ではなくて世界の憎しみをもたらすであろうと予告なさった。そしてわれらの主は世界に対して「信じない者は罪に定められるであろう」と警告なさった。

それにもかかわらず、公会議の後、どんなものであれ共産主義者たちとのいかなる協力に対する教会の容赦のない反対は公式的に放棄された。共産主義者たちを含む終わることのない「世界との対話」の時代が始まった。教会は見たところその過去の「勝利主義」に対する困惑から、自らを mater et magistra 母にして教師として記述することを止めるであろう。そして「愛の文明」を建設することにおける彼女のパートナーとの「対話」への単に一つのパーティという役割を引き受けるであろう。その「対話」諸結果はロシアと赤色中国における教会の連続した迫害、6億の中絶、そしてその野蛮への傾斜が「対話」が始まって以来ただ加速したにすぎない文明である。

パウロ六世、ファチマの諸々の警告を無視される

1967年5月にパウロ六世はファチマへの短い旅行をなさり、ファチマのメッセージをその神の諸々の警告を取り去られた祈りと償いの呼びかけへと格下げされた挨拶をされた。教皇はロシアの諸々の誤謬には言及なさらなかった。それらの誤謬はそのまさに瞬間に世界を貪り食っていた。また教皇はロシアがマリアの汚れなき御心への奉献を通じて回心するという最も非エキュメニカルな考えには言及されなかった。

ある感動的な情景の中でシスター・ルチアは彼女の小さな手作りの贈り物を教皇に贈った。教皇は挨拶をされた舞台の上で彼に近づくことを彼女に許された。彼女はそのときキリストの代理者と私的に話すことを繰り返し懇願した。彼女は第三の秘密について彼に話すことを望んだのであろうか? 彼は答えられた:「わかるね、今はその時間ではない。そしてそれから、もしあなたが私に何か伝えたいならば、あなたの司教に話しなさい...あなたの司教にとても従順であるように。」注39)群衆がその大喝采をシスター・ルチアに送っていたとき、彼女はテレビカメラが大写しをしている中ひどく悲しそうに泣きながら、教皇の側に立っていた。ファチマの最後の生き残りの幻視者、第三の秘密の使者、太陽の奇跡を予告した預言者、神のこの選ばれた使者はメディアの見せ物における群衆を喜ばせる小道具に格下げされていた。

1957年にシスター・ルチアはフエンテス神父にこう打ち明けた:「いとも聖なるおとめは御自分のメッセージに誰も、善人も悪人も、注意を払わなかったので非常に悲しんでおられます」注40)。10年後、教皇がファチマに来られたけれども、なお同じことであった。ヴァチカンの中に隠されて、第三の秘密は今なお信徒から遠ざけられている。しかし間もなく公会議の幸福感がパウロ六世の精神の中で先例のない大災難の恐怖に道を譲るであろう。

サタンの煙

パウロ教皇は、ファチマでシスター・ルチアと話すことを拒否された19ヶ月後にロンバード・カレッジへの挨拶の中でつぎのように宣言されるであろう:「教会は自己批判の不安な時期、あるいはもっとよく自己解体と呼ばれ得るであろうもの、のうちにある。それは公会議の後に誰も予期しなかったであろう一つの鋭いそして複雑な大変動である。それはあたかも教会が自分自身を攻撃していたかのようである。」1972年6月30日には、パウロ教皇はそのぎょっとさせる嘆きを口にされるであろう:「どこかあるいは別のところからサタンの煙が神の教会の中へ入って来た。...教会においてもまた不確かさのこの状態が支配している。公会議の後には明るい日が明けるであろうと信じられていた。しかしその代わりに雲や嵐や暗黒の日がやって来た。」注41)

6年後にパウロ教皇は亡くなられた。彼の死の少し前に彼はローマにおける中絶工場の設立を嘆かれた。彼の死の3年前に、パウロ教皇は、ブニーニ自身が彼の自伝の中で認めたように、ブニーニのフリーメーソン加盟に関する一件書類を提示されて数時間以内にイランのある役に立たない有名無実のポストに彼を送りながら、ローマ典礼の破壊の立案者ブニーニをくびにされた。注42)

1978年にパウロ六世がこの世を去られた時までにローマ典礼は大混乱の場へと移されていた。司祭たちや修道女たちは数万人も聖職から離脱した。召命と回心は公会議前の奔流のような数から公会議後のしたたり落ちるほどの数へと突然減少した。ミサ出席は石が落ちるように急激に落ち込んだ。

聖なるカトリック教会の歴史における最大の総崩れが進行中であった。

脚注

22. Hebblethwaite, Paul VI the First Modern Pope, p. 345
23. Amerio, Iota Unum, p. 85
24. Wiltgen, The Rhine Flows Into the Tiber, p. 19
25. Ibid., p. 28
26. Gamber, Klaus. Reform of the Roman Liturgy, Una Voce Press, San Juan Capistrano/Foundation for Catholic Reform, Harrision, NY(1993), p. 21
27. Cfr. Apostolic Constitution of Paul VI, April 3, 1969.
28. Frere Michel, The Third Secret at p. 721
29. Kelly, Msgr. George A. The Battle for the American Church. Image Books, Garden City, NY(1981), p. 20
30. Wiltgen, op cit., p. 232
31. Amerio, op cit. p. 91
32. Hebblethwaite, op cit., p. 337
33. Lumen Gentium, n. 62
34. Wiltgen, op cit. pp. 155-156
35. Council Daybook, Vol. II, p. 39
36. Catholic World News, June 24, 1997; Catholic New York, August 21, 1977, p.7(quoting L'Osservatore Romano)
37. On December 2, 1996 the Catholic World News service reported the incredible news that Cardinal Ratzinger, with the blessing of John Paul II, would chair a theological conference to answer the question: "What are the essential elements of the Catholic understanding of papal primacy, and what elements could possibly be adapted to fit the needs of ecumenical progress?" The conference includes "Leading theologians from three different Christian communions Lutheran, Anglican, and Orthodox", who will "join Catholic scholars in examining the issues involved in the papacy." The conference report has yet to be issued, but Cardinal Ratzinger has promised that it will be forthcoming, as an aid to "ecumenical progress".
38. Floridi, S.J., Fr. Alexis. Moscow and the Vatican. Artis Publishers, Ann Arbor Michigan(1986), p. 41
39. From the declarations of Father Almeida, Portuguese translator for Paul VI at the event. Broadcast on Vatican Radio, May 15, 1967 and recorded in "Documentation Catholique", 1967, columns 1242-1243.
40. The Third Secret, p. 504
41. Amerio, op cit., p. 6
42. Davies, Pope John's Council, p. 172

作成日:2006/07/08

最終更新日:2006/07/08

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