ファチマの聖母マリア

世界の奴隷化か、それとも平和か...
それは教皇にかかっている

第 X 部

ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち

暴露された反ファチマの故意の誤報戦術

Father Paul Leonard 著

(聖母を沈黙させるための陰謀 -- 第Ⅰ部)

祝せられたおとめがファチマで世界に宛てられたメッセージは、そのまさに本性と起源のゆえに、一つの非常に深刻な問題である。故意の誤報を通じてそれを誤り伝えることによって一つの無責任な仕方でそれを扱う者は誰も、その生き残りが聖母の要求の実現に依存している人類に対して大きな害を与えるばかりではなくて、もっと悪いことには、神の御母御自身に対する真面目さと尊敬の欠如を示すのである。それ自身、公衆に誤った情報を与えている罪がある、そのまさに目的がファチマのメッセージを広めることであり、聖母の要求の実現のために働く組織あるいは出版物は、二つの理由で公的な矯正を必要とする。

1.祝せられたおとめに対して犯された公的な不正を正すために。

2.彼らに宛てられた聖母のメッセージを故意に歪めた無責任な歪曲によって誤った情報を伝えられてきた公衆に知らせるために。

ややうぬぼれた、比較的小さな、しかし影響力を持ったファチマ志向の平信徒のある団体がかなり長い期間にわたってファチマの聖母のメッセージを曲げて伝え、歪める実践に関わってきたということは非常に不幸なことである。彼らはまだ、彼らがその実践を思いとどまる意図があるということを示す何らのことも為していない。特に、私がここで言っているのは、ファチマの聖母によって要求されたものとしてのロシアの奉献に関して、それをすでに為されたものとする彼らの方針である。同様にまた、私は、奉献は実際になされているという印象を造り出すために彼らが採用した破廉恥な手段のことも言っているのである。

ルチアへの無名の1982年インタビュー -- 無礼な悪ふざけ --

あの平信徒の団体 注1)(後には「組織」として言及される)の公式な発表の1982年7月8月号において、編集者は彼の読者たちに「シスター・ルチアとの独占インタビュー」であると偽って称する論考を提供した。それが公表された形式におけるその「インタビュー」の重大な諸欠陥はそれら自身で、その真正性を疑うための積極的な理由を十分に構成している。第一に、インタビューをした人物は身分を明かしていない。そしてその結果として、誰もインタビューをした人物に、彼がどのように、あるいはいつシスター・ルチアと個人的に話すことができたかを問うことができない。換言すれば、そのインタビューの真正性がそれによって検証され得るいかなる手段も絶対的に存在しないのである。そしてそれゆえ、無名のインタビューアーが決して知られなかったゆえに、それはそのままである。

そうだと主張されているインタビューにおいて、無名の質問者はシスター・ルチアに、「世界の司教たちと一致して教皇によってなされたものとしての(1982年5月13日の)この奉献は1929年6月13日に聖母の御出現に従ってわれらの主と聖母が要求なさっているものであったのか?」どうかと尋ねた。シスター・ルチアのそう主張されている答は:「はい、そうです。」さらなる質問:「われわれは、奉献が示唆されたようになされたかどうかを疑っていた。なぜなら、教皇は奉献そのものにおいてロシアに明白に言及されなかったからである。」そうだと主張されている答:「教皇様は全世界を奉献なさいました。そしてロシアは含まれています。そして教皇様はこの奉献を最も必要としている国々に言及なさったときにロシアのことを言っておられたのです。」

陳述はシスター・ルチアと矛盾する

確立されたそして検証された諸事実は疑問の余地なく、その「インタビュー」がまったく偽造のもの -- 無礼な悪ふざけ -- であるということを証明している。このことは、シスター・ルチアがそうだと主張されているインタビューの前に書いたすべてのことがその中で彼女が述べたと主張されていることと直接的に矛盾しているがゆえに、そうである。

シスター・ルチアは1929年6月13日の御出現において聖母が語られた言葉をこう書き留めた:「神が教皇に、世界のすべての司教たちと一致して、この手段によって世界を救うと約束なさりながら、ロシアを私の汚れなき御心に奉献するようにお求めになる時が来ました。」

彼女は1938年にゴンサルヴェス神父に与えたテキストにおいてこう書いた:「善き神は、もし教皇様が、イエズスのいとも聖なる御心とマリアの御心に、償いとロシアの奉献の荘厳かつ公的な行為をなさり、そしてカトリック世界のすべての司教たちによって為されるように命令されるならば、そしてもしこの迫害の終結の引き換えに教皇様が償いの信心(五回の初土曜日)の実践を承認し、推奨することを約束されるならば、ロシアにおける迫害を終わらせると約束なさっています。」

再び彼女は1936年5月18日の日付の手紙の中でこう書いた:「...ロシアの奉献を手にするためにもし強調することが相応しいならば、...私はわれらの主に、教皇が奉献をなさることなく、なぜロシアを回心させられないのですかと尋ねました。(われらの主はこうお答えになりました。)『それは、私の全教会がその奉献をマリアの汚れなき御心の勝利として認めることを私が求めているからである』と...」

1930年6月12日に彼女はこう書いている:「...もし教皇様が御自身で償いとロシアの奉献の荘厳な行為をなさるならば、...同様にカトリック世界のすべての司教様方に同じことをするように命令なさるならば。」

1982年3月21日に、シスター・ルチアはリスボン教皇使節、ポルタルピ大司教、レイリアの司教、そしてラセルダ博士の列席する中で、教皇は全世界の司教たちに、それぞれが彼自身の司教座聖堂で、教皇によって為された行為と同じ時間に、償いとイエズスとマリアのいとも聖なる御心へのロシアの奉献という公的、荘厳な行為をするように命令する日にちを選ばなければならないと断言した。(Fidelite Catholique, April 1983 を見よ。)

このように、1982年5月「インタビュー」以前のシスター・ルチアの陳述と書き物のすべては、(1)ロシアが奉献の特殊的な対象でなければならないということ、そして(2)この奉献は世界のすべての司教たちによって、同じ日に、それぞれの司教がそれを彼自身の司教座聖堂で荘厳、公的な儀式において遂行しながら、為されなければならないということを明白にそして曖昧さなしに述べている。

ルチア自身が後にインチキのインタビューとはっきりと矛盾している
...彼女は沈黙の命令の下にあることを明らかにしている

1982年5月13日に続く時期に、さまざまの個人が、5月13日に教皇ヨハネ・パウロ二世によって為された世界の奉献の行為が実際、聖母の要求に一致したものであるかどうかについて彼女から聞くためにシスター・ルチアとの接見を求めた。シスター・ルチアが沈黙の命令の下にあったために、彼女は「勇気づけ、なだめ、希望的に聞こえるであろうありふれた意見」をいくつか述べることができたにすぎない。ピエール・カイヨン神父はこう述べている:「特に、一人のブラジルの弁護士、ブルー・アーミー・ブラジル代表がある日、ファチマにあるカルメル会に現れた...」彼は奉献についての彼女の非陳述の言葉から、至るところで人を誤り導いている、その奉献が為されたということを誤って推測した。

次の年、1983年3月19日に、ポルトガルにおける教皇の公式代理であるポルタルピ大司教は、1982年5月13日の教皇の奉献の行為についてシスター・ルチア自身が考えたことを厳密に確定するために特別にシスター・ルチアに会いに公式の職務としてコインブラに行った。そのインタビューは午後4時から6時半まで2時間半続いた。大司教は二人の有名な証人を伴っていた。ラセルダ博士とメシアス神父である。シスター・ルチアは公式に読まれ、そしてそれについて彼女がコメントした書面の陳述を用意していた。彼女は彼らにそのとき次のように語った:

(1)「ロシアの奉献は聖母が要求なさったようには、為されませんでした。そして(2)「私は聖座の許可を得ていなかったのでそう言うことができませんでした。」すなわち、彼女は沈黙の命令の下にあった(そして今もある)ということである。注2)

この公式の陳述において、彼女の以前の陳述のすべてに一致して、シスター・ルチアは、前に言及したインチキのインタビューにおいて彼女の無名の質問者によってその前の年に彼女に帰せられた言葉とはっきり矛盾している。さらに、彼女は従順の下に彼女に課せられた沈黙の厳格な命令に彼女が違反することなしに、そうだと主張されている陳述が彼女によって為されることはできなかったということにおいて、あのインタビューのいい加減な性格を明らかにしている。

シスター・ルチアのこの公式で、正式で、そして公的な陳述によって、Soul Magazine, July/August 1982 において公表された、そうだと主張されているインタビューがいかなる基礎も持たず、そしてまったく事実に反するものであるということは誰の目にもまったく明らかである。

インチキのインタビューは決して撤回されなかった

シスター・ルチアの上述の公式的な断言にもかかわらず、あの[インチキの]発表は後になってもなお彼らの1982年7月/8月号において公表した彼らの明らかにインチキのインタビューに言及する無分別な大胆さを持っていた。彼らはこのことを1983年5月/6月号、並びに1983年9月/10月号において行った。その組織は彼らの明らかに偽りの立場を擁護するために、少なくとも1984年初めまで、このインチキのインタビューを真正のものとして言及し続けた。その出版物の1983年5月/6月号においてわれわれは「シスター・ルチアは奉献はなされたと言った」と書かれているのを読む。

それに委ねられた霊魂たちを混乱させるために、その出版物は、奉献は為されたと強調し、しかしそれが「不十分」であったと示唆する、という手段を取った。「達成されるべき非常に重要な行為がなお残っている...この『最後の局面』は来ることができるであろう...」そして、「ロシアの奉献の最初のそして最も重要な局面が今やなされた。」「最初の局面」と「最後の局面」についてのこのすべてのナンセンスがその出版物の編集者の発明であることに注意しなさい。これらの概念はシスター・ルチアの言葉とファチマの聖母の言葉に矛盾している。聖母はかなりの長さの時間によって分けられた奉献の連続的な行為についてどこででも語っておられず、同じ日の一つの行為をはっきりと指定なさった:すなわち、それは「教皇」による、そして「それぞれが彼自身の司教座聖堂において、...教皇と同じ時間に[行う]、カトリック世界のすべての司教たちによる」ロシアの奉献の公的、荘厳な行為、である。

問題を明らかにするために

あの組織がこれらの諸々の誤謬と歪曲を広めることによって造り出した混乱を終わらせるために、ファチマ・クルーセイダーは、1983年5月に、なぜ奉献がなされなかったのかを正確に説明するシスター・ルチアの逐語的なテキストを公表した。シスター・ルチアの言葉を含む1982年7月18日の手紙にはこうある:「教皇様によって為された奉献は、聖母がそのように強調して要求なさったものではまだありませんでした。」これは上述の、前に引用した1936年5月18日付け、および1930年6月12日付けのテキストと共に現れた。1983年10月と1984年9月に、ファチマ・クルーセイダーはその中で彼女が奉献は為されなかったと明白に主張しているシスター・ルチアの検証され、真正のものと認められた書簡と公式的な断言とを再現した諸論考を公表した。*

* この書物の p. 159 以下を見よ。

しかしながら、その組織はその誤った立場から一歩も引き下がらなかった。誤りを犯したと認め、自らを正すよりはむしろ、その組織の1983年9月/10月号は p. 14 で、ロシアの奉献に関するその論考(1983年5月/6月号)によって現状のままであると公表した:それはこう言っている。「われわれは申し分のない情報の出所によって、この論考がこの主題に関するシスター・ルチア自身の考えを完全に反映しているということを今や知らされた。」そしてこれは、1982年5月のインチキのインタビューを明白に暴露しているシスター・ルチアの公式的な陳述の後である。彼らが、その1983年9月/10月号において1983年3月18日にシスター・ルチアによって述べられた公式の陳述に明らかに矛盾するこの虚言をそのように愚かにも印刷したことは信じがたいことであるが、しかしにもかかわらず、真である。これが単なる見落としあるいは間違いでないことは、その組織の出版物の1984年1月/3月号によって明らかとされた。p. 8 の論考「共同的奉献、然りか否か」は、「シスター・ルチアは共同的奉献が起こったと述べているものとして記録されている」と言いながら、1982年5月の偽のインタビューを引用している。

欺瞞に加えられた欺瞞

あの組織の出版物の1984年1月/3月号の中で、共同的奉献に関する同じ論考のうちに、われわれは一つの付加的なそして古典的な故意の誤報の一部を読む:「1946年の奉献の後に、彼女は...それはなお神が要求なさったものではなかった。われわれは1982年奉献の後にはシスター・ルチアからそのような陳述を聞かなかった。」これは明らかに事実に反する。シスター・ルチアは1983年3月19日に教皇代理に対して彼女の公式の陳述を提出した。その中で彼女は「ロシアの奉献は聖母が要求なさったようには、為されませんでした」とはっきり述べた。ファチマ・クルーセイダーは、1983年10月に非常に大きな活字で p. 3 にシスター・ルチアのこの陳述を公表するスペースを見出した。確かにあの組織はそれがそのように重要なものであり、そして情報に基づいているという振りをしながら、1984年1月までには1983年3月19日のシスター・ルチアの公式の陳述を受け取っていたのである。(最終的に3年後の1986年3月/4月号において彼らは公式的陳述のニュースを受け取っていたということを認めている。)

他の欺瞞と取り替えられた一つの欺瞞

あの組織は、その1986年3月/4月号の p. 8 において、シスター・ルチアが1983年3月19日に教皇使節(モンシニョール・サンテ・ポルタルピ)に、「1982年5月の教皇ヨハネ・パウロ二世の奉献は聖母の要求に従ったものではなかった」と語ったことを最終的に認めている。この承認がつい二三年前までは強く主張されていたインチキのインタビューを明白に撤回しないのだけれども、この陳述の明白な含意は、例のこの出版物の読者たちはあの当時誤り導かれていたのである。

この欺瞞が放棄されたのは、ただ1984年3月25日に起こったマリアの汚れなき御心への教皇ヨハネ・パウロ二世による世界の奉献のゆえにだけであると思われる。その奉献について、あの出版物は彼らの1986年3月/4月号の p. 22 において、「教皇は、1929年6月13日の御出現において要求されたように、マリアの汚れなき御心への奉献を、世界のすべての司教と一致して、なさった。」と明瞭に述べている。そのメッセージは、1982年の出来事についての以前の主張が事実に反し、そして詐欺の資料に基づいたものであったことは問題ではないということであると思われる。なぜなら、1984年の出来事が奉献を達成したから「というわけである]。

ルチアの公式的な陳述は1984年奉献に対する最新の主張に矛盾する

まず第一に、1984年に用いられた奉献のテキストは1982年5月13日の教皇の以前の奉献のテキストと実質的に同一であった。そのテキストに関して、シスター・ルチアは1983年3月19日に、ロシアの奉献は1982年には達成されなかった、なぜなら、ロシアが明白に奉献の対象ではなかったからであり、また、各々の司教が彼自身の司教座聖堂においてロシアの奉献の公的、荘厳な儀式を行わなかったからだと、公式に述べた。このように、シスター・ルチアの公式の陳述が彼らの以前の主張(1982年5月13日の行為はファチマの聖母の要求を満たしたという主張)は詐欺的なものであるということを認めることによって、あの「例の」出版物の編集者たちは、1984年奉献もまた、聖母の命令を遂行することに失敗したということを必然的に認めなければならないのである。

これは必然的にそうである。なぜなら、ロシアは明らかに、聖母によって要求されたようには、いずれの奉献の対象でもなかったからである。誠意のある一組織がどのようにして、聖母の要求を満たすのに十分でなかった1982年に用いられた同 じ言葉が1984年に繰り返されたとき十分だったと、主張することができるのか?

不幸なことに、あの出版物の編集者たちによって採用された矛盾する「二重思考」の態度は何ら新しいものではない。1972年に、あの出版物は奉献はなされなかったということを明らかにしている。1973年(1973年7月/8月、pp. 9-10)には、彼らはロシアの共同的奉献が第二バチカン公会議で(そこでは、その奉献においてどんなロシアへの言及もなされなかった)果たされたということを提案した。次に、1975年4月に、彼らは「ロシアの」共同的奉献のために教皇に請願を提出する署名キャンペーンを始めている。

「組織」によって採用された編集者たちが何年にもわたって偽りと歪曲の普及によって彼らの信用性を失ったということは十分に悪いことである。しかしその組織はその立場のしばしばの逆転によってその信用性をさらに堀り崩した。あの組織が、首尾一貫した立場を取るに十分な節度を示し、曖昧でない、事実的な態度において真理を普及している何らかのグループあるいは出版社の信用を落としたりあるいは沈黙させたりするあまり良心的でないキャンペーンに乗り出したのは、おそらくそれが根拠薄弱な前提の上に立っているということを理解してであろう。

補遺

ファチマ・クルーセイダーは、これまで単純に欺瞞や歪曲なしに諸事実を公表することによって、この組織の怒りを招いた。この組織は公然たる中傷発言を突然やめて、ファチマ・クルーセイダーがどういうわけか教会法上の合法性を欠いているという印象を創り出そうとしたように思われる。

混乱は西海岸における曖昧なグループに関連させることによって蒔かれた

1985年に二度、その組織は、ワシントン州スポケインに根拠地を持つファチマ・クルーセイダーズの一つの曖昧な、そして実践的に未知の分派的グループについての人目を引く警告を公表した。これらの警告の終りに、一つの後から思いついたこととして、一行の否認が、彼らは「カナダにおけるファチマ・クルーセイダーズ」には言及していないと注記した。しかしながら、「カナダにおけるグループ」は「ファチマ・クルーセイダーズ」と呼ばれていない。-- そのような組織は存在しない。「ファチマ・クルーセイダー」(単数形)、という雑誌は、国際ファチマ・ロザリオ十字軍およびナショナル・ピルグリム・ヴァージンの公式の出版物である。

再び彼らの最近号において、あの組織の出版物はこの種の歪曲の手続きに頼っている。ファチマ・クルーセイダーを非カトリックの諸組織に関係づけるこの欺瞞的な実践は、ファチマ・クルーセイダー(雑誌)がどういうわけか上述のスポケインのグループと関係を持っているという印象を創り出すための意図的な試みであると思われる。このことは、編集者たちが、ワシントン州のスポケインにおける分派的な組織がカナダにおける「ファチマ・クルーセイダーズ」とは区別されるべきであると巧妙にも強調し、一方でファチマ・クルーセイダーとあの分派的なグループとの間にはどんな関連も絶対にないという事実についてのすべての言及を巧妙に欠落させているということにおいて、明らかである。

いかなる「公式の」ファチマ使徒職もない

彼らが「教会によって認められた合衆国におけるファチマ・メッセージの唯一の国民使徒職」であるというあの組織の主張は、彼らがある仕方で一つの「公式の」組織であるということ、そして「公式的」ではない他の組織、また彼らの「党路線」を支持しない組織は合法的なものとは考えられるべきではないということを示唆するようなそのような仕方で宣伝されている。例えば、彼らのよく知られた作家たちの一人はその組織のより小さな回覧ニュースレターのなかで、ファチマ・クルーセイダーについてこう書いた:「その雑誌は...公式的なファチマ使徒職の一部ではない。」彼はさらに、あの平信徒の団体に関係し、そして彼らの総裁である司教が彼に「その雑誌は認められるべきではない」と語ったと述べている。そのような公表は教会法の誤った理解をさらけ出している。なぜなら、教会は平信徒あるいは司祭のいずれの団体の教会法上の承認をも要求しないからである。このように、「自己宣言した公式の」ファチマ・メッセージの担い手は、どの組織が合法的なものとして認められるべきかを宣言する法的権限を持っていないのである。

その司教の意見は少なくともその含意において、教会法とは折り合わない。教会法は、私的個人lは「聖職者あるいは平信徒、あるいは聖職者と平信徒が一緒であろうと、団体を構成する権利を持っている」(教会法 298-299)と明白に述べている。

換言すれば、彼らの故意の誤報によって創り出された偽りの印象にもかかわらず、カトリック教会の今日の実際の法律はファチマ・クルーセイダーおよび国際ファチマ・ロザリオ十字軍のために教会法上の承認を必要としないのである。

さらに、彼らの団体もまた教会の承認を必要とないし、また、彼らがそれを持っている振りをしているとしても、一つの「公式的な」教会法上の地位を持ってもいないのである。

彼らの組織がある場所において認められたという単なる事実は彼らに何らかの公式的な教会法上の地位を与えない。彼らは教会の名において語る何らの法的権威も持たない一平信徒団体にとどまる。この事実は、あの司教にあの平信徒の団体の長の地位を引き受ける許可をあたえる文書において適切に証明されている:その文書は1982年2月3日付けのものであり、教皇立平信徒協議会によって発布された。その文書は単に司教に対する許可であり、それはあの組織に何らかの地位を与えるものではない。

  1. Soul Magazine はファチマの聖母のブルー・アーミーのアメリカ合衆国支部によって発行されている。

  2. Approaches Supplement to Issue No. 82 "Fatima May 13, 1982 What Actually Happened". を見よ。また、Fidelite Catholique April 1983, The Fatima Crusader issue No. 13-14, p. 3 および issue No. 16, p. 22 をも見よ。この書物の p. 159 以下を見よ。

目次へ

2005/02/01 三上 茂 試訳

作成日:2005/02/01

最終更新日:2005/02/01

World Enslavement or Peace...It's Up to the Pope: Section X; Chapter 3 へ

マリア様のページへ

トップページへ

inserted by FC2 system