ファチマの聖母マリア

世界の奴隷化か、それとも平和か...
それは教皇にかかっている

第 X 部

ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち

今日に至るまで:バチカン・モスクワ協定は聖母を沈黙させてきた

Father Paul Leonard 著

ファチマ・クルーセイダー、第20号において、ポール・レオナード神父は「聖母を沈黙させる陰謀」を書いた。* われわれはこの陰謀の暴露を彼に負っている。以下の論考において、ポール神父は諸々の名前を挙げることを選んだ。なぜなら、彼が公衆を誤り導くことに責任を持っている人々に与えた公的な警告の後に、当該の人々がファチマの聖母のメッセージに関する彼らのまさに重大な公表された諸々の誤謬を公的に訂正することを選ばなかったからである。ファチマ・クルーセイダーの、書き込んだ読者の大部分はポール神父の論考に対して彼らの感謝を表明した。しかしながら、何人かの人々は、ファチマの聖母のメッセージを促進していると主張しながら、実際には聖母の完全なメッセージを知られ、従われることから妨げようと努力している人々をいったい何が動機づけているかに関して当惑させられたであろう。

* この書物の p. 368 以下および p. 381 以下を見よ。

ファチマの聖母の完全なメッセージは、バチカン・モスクワ協定の方針にあからさまにコミットし続けている左傾化した共産党好きの教会人たち 注1)や組織によって今もなお抑圧されている。聖母のメッセージは間違えようもなく明白であり、曖昧さがない。

「私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために来るでしょう。もし私の要求が聞き届けられるならば、ロシアは回心するでしょう。そして平和が来るでしょう。もしそうでなければ、ロシアは諸々の戦争と教会の迫害を増進しながら、世界中にその諸々の誤謬を広めるでしょう。善人は殉教し、教皇は多く苦しむでしょう。さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」聖母は、1917年7月13日にこれらの言葉を話された時、いくつかの事柄を具体的に挙げられた。

1)聖母は諸々の要求をするために再び来られるであろう。
2)もし聖母の要求が従われるならば、ロシアは回心し、平和が来るであろう。
3)もし聖母の要求が満たされないならば、そのとき:
(a)ロシアはその諸々の誤謬を世界中に広めるであろう。
(b)ロシアは諸々の戦争、教会の迫害、善人の殉教そして教皇に対する苦難すら引き起こすであろう。
(c)さまざまの民族が絶滅させられるであろう。

1917年7月13日の御自分の約束を果たすために、聖母はトゥイでの1929年6月13日の御出現においてシスター・ルチアの所に来られ、こう宣言された。「神が教皇に、世界のすべての司教たちと一致してロシアを私の汚れなき御心に奉献するようにお求めになる時が来ました。神はこの手段によってロシアを救うと約束なさっています。」

これらの言葉において、神の御母は次のことを明らかになさった:
1)ロシアは奉献の対象として具体的に挙げられなければならない。
2)その奉献は単に教皇によってだけ行われなければならないのではなく、それは世界のすべての司教たちによって遂行される一つの共同的な行為でなければならない。
3)「この手段によって」、すなわち、実際の奉献そのものによって、ロシアは回心し、救われるであろう。

ファチマの世界使徒職(別名ブルー・アーミー)の指導部は、ファチマ・メッセージをバチカン・モスクワ協定の路線にもたらす彼らの不敬なキャンペーンにおいて、聖母のメッセージを頑固に、そして悔い改めずに曲げて伝えてきた。

Soul Magazine の1986年3月/4月号、p. 32 は、それが「1984年3月25日に聖ペトロ広場において教皇ヨハネ・パウロ二世によって世界の司教たちと共になされたマリアの汚れなき御心への共同的奉献...そこでは教皇は世界のすべての司教たちと一致してマリアの汚れなき御心への奉献をなさった。それは1929年6月13日の御出現において要求されたように[為された]。」に言及するときに、一つの恥知らずの嘘を述べている。

次に、同じ号の p. 9 で、-- Soul Magazine はこう述べている:「...教皇は、聖母が『私は私の汚れなき御心への世界の奉献を求めるでしょう』と言われたその要求に従って...マリアの汚れなき御心に世界を奉献することへと進まれた...」

ファチマの聖母は決し世界の奉献を求められなかった。聖母は要求なさった奉献の対象としてロシアをはっきり、具体的に示された。ブルー・アーミーの編集者たちはロシアを世界に変えることによって聖母御自身の言葉を変造したのである。

ブルー・アーミーは擁護できない立場に凝り固まった

これは、奉献がすでに為されたという印象を創り出そうとする事実に反したそして誤り導く報道をブルー・アーミーがどのように公表してきたかの多くの例のうちの一つにしか過ぎない。ファチマ・クルーセイダーは Soul Magazine の事実に反した報道を繰り返し正し反駁してきた。それにもかかわらず、ブルー・アーミーの指導者たちは彼らの擁護できない立場に凝り固まることを選んできた -- 彼らは論証され、証明された真実を意図的に無視することを明らかに選んだ:すなわち、カザロリ枢機卿のバチカン・モスクワ協定に反対しない方針に固着するために諸々の誤謬と虚言を促進しているのである。

聖母の要求が単純に果たされてこなかったという事実にもかかわらず、ブルー・アーミー指導部は、奉献は不完全な仕方で為された -- 厳密に神が要求なさっているように完全にではないが、しかしにもかかわらずなされた -- というまったく不合理な主張を永続させているのである。

聖母はロシアの奉献を要求なさった。なされた事柄は世界の奉献であった。それゆえに、祝せられたおとめが要求なさった奉献は単純に為されなかったのである。それは為された、しかしただ不完全な、あるいは部分的な仕方で為されたにすぎないと言うことは、単に偽りであるばかりでなく、黒を白と見えさせる欺瞞的な手段である。このように、ロシアの共同的奉献は不完全な仕方で為されたという Soul Magazine とブルー・アーミー指導部の馬鹿げた主張は、隠された、しかしそれにもかかわらず非常に明確な目的:すなわち、マリアの汚れなき御心へのロシアの共同的奉献を求める公衆のキャンペーンを終わらせるという目的、を達成するために巧妙に考えられた一つの欺瞞的な戦略である。

最も鈍い精神にさえ正真正銘の不合理を単純に呑み込むこませることは単的に言って過大に期待することであろう。それゆえに、明示された要求を正当なやり方で果たさない行為は無効であるという事実をじっくり考えることから精神の注意を逸らすために十分な混乱が事柄の中へ注入されたのである。そしてそれゆえに、ファチマの聖母の命令を果たす部分的あるいは不完全な行為と考えられることはできないのである。

なお、取り除かれ、口に合うものとされるべきもう一つの躓きの石が残っている:すなわち、奉献が為されたと主張されてきたという事実にもかかわらず、ロシアはその戦闘的無神論と教会を迫害する共産主義からまったく明らかに回心しなかったという事実である。さらに、あからさまな欺瞞を知らないうちに呑み込むように公衆を誘引するためにまさに十分な曖昧さと混乱が注入されてきた。

聖母は、共同的奉献はそれによってロシアの回心がもたらされる手段であるでしょうとまったく明白に述べられた。このことから公衆の精神をそらすために、Soul Magazine の編集者たちは、ロシアの奉献は「ロシアの回心の実際的な条件」ではなくて、それはただ「ファチマの聖母の要求が果たされたという一つのしるし」に過ぎないというまったくの嘘を宣伝してきた。

Soul Magazine は聖母に矛盾している

ファチマの聖母はロシアの奉献はその国の回心をもたらすであろうという無条件の約束をなさった:すなわち、神は「この手段によってロシアを救われます」と。Soul Magazine によれば、その約束は条件的である:すなわち、「それは人々の忠誠の多少に依存するであろう...」

これらすべての歪曲、矛盾そして嘘を公表した後に、人は、Soul Magazine が十分以上にその読者たちの知性を侮辱してきたと考えるであろう。しかし Soul Magazine の編集者たちはここに止まらなかった。Soul Magazine は「ロシアの回心はすでに始まった」(!)という騒々しい告知を繰り返し公表してきた。司祭たちそして平信徒たちはソビエトの精神病病棟において精神的に絶滅させられ、グーラグのキャンプで精神的に絶滅させられている。アフガニスタンにおいて戦争が荒れ狂い続けている間に教会はロシアにおいて恐ろしく迫害されている。ロシアの回心がすでに始まったと言うことは、ロシア共産主義とその執行者たちの手で現在苦しんでいる、残虐行為と迫害のすべての犠牲者たちに対する侮辱と裏切りのジェスチャーである。シスター・ルチアは「もし教皇様御自身が、償いとロシアの奉献の荘厳、公的な行為をなさり、...そして世界のすべてのカトリック司教様たちに同じことをするようにお命じになるならば、ロシアにおける迫害は終わるであろうとわれらのよき神は約束なさっています...」と書いている(1930年6月12日の手紙)。ロシアにおける数千人の回心は一つの勇気づける発展である。しかしわれわれはその事実がロシアの回心についてわれわれを誤り導くことを許してはならない。その回心は、聖母が要求なさったロシアの共同的奉献が教皇と司教たちによって遂行された時にのみ起こるであろう。

ファチマ・クルーセイダーは、Soul Magazine が驚くべき規則正しさで公表してきた見逃すことが出来ない諸々の不一致、矛盾そして不条理を繰り返し指摘してきた。ブルー・アーミーの指導部はこの最も非難すべき実践において衰えることなく続ける強固なそして情け容赦のない決心を示しているように思われる。このことを見れば、常識の使用を授けられている理性的存在は、Soul Magazine とブルー・アーミーの指導部の欺瞞と歪曲に対する強い好みが慎重に練り上げられた方針の直接の結果であると結論せざるを得ない。

問題の核心

ここに問題の核心がある:すなわち、ファチマの聖母の真のメッセージは、それがカザロリ枢機卿の裏切りのそして共産党寄りのバチカン・モスクワ東方政策と一致しないがゆえに、抑圧されてきたのである。Soul Magazine(1984年3月/4月、p. 5)が次のように述べているのはこの理由のためである:「もしわれわれがそうしようと望むならば、われわれははっきりとロシアのために祈るかもしれない。しかしわれわれの公的なメッセージにおいては...聖座(すなわち、カザロリ枢機卿)がそのように熱心に支配し指導しようと努力している国際問題のデリケートなバランスを狂わせることを避ける。」われわれは共産主義者たちを怒らせないように、聖母の要求の実現のために働くことを思いとどまらなければならない。なぜなら、「キリスト教徒ではないロシア人でさえ、彼らが回心を必要としているという考えに憤慨することはもっともなことだ」から(同書、p. 5)である。

ブルー・アーミーは、共産主義に譲歩し、妥協し、屈服する近視眼的な政策のためにファチマの聖母の要求の実現を教皇と司教たちに禁じることになるカザロリ枢機卿のバチカン・モスクワ東方政策の道具へと変えられてきたのである。

バチカン・モスクワ協定の理論的根拠は人間的な用心深さに賛成して神の智慧を拒否するということである。Our Sunday Visitor もまたこの信念を持っていると思われる。

1984年2月12日のその新聞において、われわれは「教会はジレンマに直面している:交渉することができないところでは、人々は苦しむ、それが交渉するところでは、それは人々の生活をよりよいものにすることができる。」(p. 9) そして、「教会は、ある国における教会の長期の生き残りを確保するために短期の制限を交渉するであろう」(1984年2月19日、p. 7)。

そのような立場は、もしそのような交渉において、聖母の要求の実現が排除されるならば、神を人間の判断に従属させる。ファチマの聖母はこう言われた:「ただ私だけがあなたたちを救うことができます。」グルーナー神父はこう言っている。「もしわれわれが聖母を無視するならば、誰もわれわれを助けることはできないし、また助けないであろう。神御自身がわれわれをお助けにならないであろう。なぜなら、神は、平和と国際的な安全を手にするためにわれわれがしなければならないことをわれわれに告げるために御自分の御母を送り給うたからである。」

シーディー神父の不当な攻撃は反駁される

彼の Sunday Visitor のコラムにおいて、交渉、妥協そして屈服の東方政策に賛成していると思われるフランク・シーディ神父はその出版物の中で彼自身の誤った情報と歪曲を公表した。1986年9月7日(Our Sunday Visitor, p. 15)[付けの紙面]で、彼は「国際ファチマ・ロザリオ十字軍...はある東側ブロックのカトリック司教がその長をしている」と述べている。これはまったく偽りである。シーディ神父はまたファチマ・クルーセイダーが、シスター・ルチアは沈黙させられてきた、そしてそれが「第三の秘密」の開示を強く迫っていると言うとき、「極端に走っている」と考えている。ファチマ・クルーセイダーのこれらの陳述が「極端」であると言うことによって、シーディ神父はこれらの陳述が偽りであるということを示唆している。それゆえに、シスター・ルチアは聖座の許可を得ていなかったので話すことができなかった、ということを教皇使節ポルタルピ大司教に彼女が読んで聞かせた[予め]準備された陳述において1983年3月19日に明らかにしたのは、シスター・ルチア自身であったということをこの機会にシーディ神父に思い起こさせるのである。さらに、秘密を開き、それを世界に明らかにするためになぜ1960年まで待つ必要があったのかと、カノン・バルタスがシスター・ルチアに尋ねたとき、彼女はファチマのダ・シルヴァ司教のいる前で彼にこう答えた:「なぜなら、祝せられたおとめはそれをそのように望んでおられるからです。」

シーディ神父はファチマ・クルーセイダーが「教皇ヨハネ・パウロ二世によって為された奉献によっては聖母の要求は果たされなかったと信じている」と言っている。教皇は、世界の奉献の行為をなさった(1984年3月25日)後に、聖母に、「その奉献と委任をあなたがわれわれから待っておられる人々」を照らしてくださるように願われた。そしてその日、後になって、教皇はその祈りの中で「あなたが御自身がわれわれの奉献と委任の行為を待っておられるあれらの人々について」語られた。このようにロシアが聖母の汚れなき御心に奉献されるようにという聖母の要求がまだ果たされていなかったと信じているのは、単にファチマ・クルーセイダーだけではなくて、また教皇ヨハネ・パウロ二世もそうである。

シーディ神父は、ファチマ・クルーセイダーが「『バチカンの東方政策』を非難している...」と述べている。それゆえに、私はこの機会を捉えて、共産主義に対して公的に語る際にラッツィンガー枢機卿とヨハネ・パウロ二世は両者とも「バチカンの東方政策」に反対しているということを指摘しておこう。

1986年11月16日の号において、シーディ神父はファチマ・クルーセイダーに対する向こう見ずの、そして名誉毀損とさえ言ってもよい非難を投げつけている。すなわち、彼は「その立場のあるものは正統から逸脱した」と言っているのである。シーディ神父はそのような重大な非難を実証するための何らの試みも絶対にしていない(また他の誰もしていない)で、単にスタニスラス・ブルザナ司教の悪名高い書簡を再現しているに過ぎない。その書簡はどこにもファチマ・クルーセイダーが正統から逸脱しているとは述べていないのである。

このブルザナ書簡について言われなければならない第一の事柄は、それが信徒の精神の中に偽りの印象を意図的に創り出していると思われるほのめかしの傑作であるということである。それはこう言っている:「この出版物(ファチマ・クルーセイダー)において受け容れられた立場のいくつかはカトリック教会の教えを表していない」そしてそれゆえに、彼はそれを読むに際して「注意」を助言しているのである。

ところで、ある人の立場のいくつかが「カトリック教会の教えを表していない」と述べることは正確には何を意味しているのか? まず第一に、それは、彼の立場が間違っている、非正統的である、あるいは何らかの仕方で教会の公式的な教導権と一致していないということを意味しているのではない。この陳述はすべてのカトリック新聞および雑誌、そして諸教皇の書き物や宣言のいくつかにさえ適用され得る。教皇ピオ十二世が被昇天の教義を告知されたとき、教皇はその演説の中で、人々が「カトリック世界のあらゆる場所から」ローマへ来たということに言及された。ところで、被昇天の教義はカトリック教会の公式的な教えを表しているのに対して、「カトリック世界のあらゆる場所から」ローマへ来る人々についての教皇の所見はカトリック教会の教えを表していない。同じように、ある司教が、あるいはある教皇でさえが、一人の私的な博士としてある陳述をするとき、彼はそれによって彼自身の個人的な立場を述べているのである。そしてそうする際に、彼の陳述はカトリック教会の教えを表しているのではない。

その司教の書簡は署名されていない

それゆえに、ある人の立場が教会の教えを表していないという陳述はそれ自身、事実上あらゆる日曜日の説教にも適用され得る無害な常識である。しかしながら、ブルザナ司教がしたように警告の形式においてそのような声明を発することは明らかに、信徒たちの精神の中にファチマ・クルーセイダーはまったく正統的ではないという誤った印象を創り出す一つの陰険な、そして不快な試みであると思われる。おそらく、それはその書簡の意地の悪い意図が非常に明白であるので、その司教はそれに署名する勇気を欠き、そして署名しないままになっているということである。

ブルザナ司教の無署名の書簡に対する返事として書かれたグルーナー神父の書簡(ファチマ・クルーセイダー、第18号、p. 12 を見よ。*)はブルザナ司教に送られた。そしてグルーナー神父は同様にまた個人的に彼を訪問した。しかし司教はなぜ彼がファチマ・クルーセイダーを読む際に「注意」を助言しているのか、を説明することができなかったし、また彼は彼が非正統的であると考えるファチマ・クルーセイダーにおけるいかなる陳述をも敢えて指摘することをしなかった。

* この書物の p. 306 以下を見よ。

最後に、ファチマ・クルーセイダーについて、それが「教会について批判的であると思われる」がゆえに疑いを持つことはまったく滑稽である。シーディ神父は本当に、教会について批判的であることは不忠実なことあるいは罪深いことである、あるいは徳は波風を立てないよいイエス・マンたることに存すると考えているのであろうか? ファチマ・クルーセイダーは、それでもって聖ペトロ・ダミアノが彼の時代の教皇庁の高官たちを批判し非難した猛烈な雄弁に比較されるとき、小教区のブレティンのように穏やかである。彼は教会に対する彼の忠誠と愛のゆえにそのように精力的に教会を批判したのである。もし彼のしたことが悪かったならば、彼は聖人そして教会博士ではなかったであろう。聖アナタシウスは司教たちや教皇について非常に批判的であったので、教皇リベリウスによって破門されさえした。しかし聖人であり教会博士であるのはアタナシウスであって、リベリウスはそうではない。注2)

ファチマ・クルーセイダーがバチカン・モスクワ協定の政治的手段を公然と非難し、遺憾に思うのは教会と教皇に対する忠誠からである。この協定が体現しているなだめ、妥協そして屈服の政治学は神の教会の上にある絞首刑執行人の首吊り縄のようなものである。共産主義への屈服は進行中の東方政策の立案者であるカザロリ枢機卿の常軌を逸して恥ずべき言葉のうちに具体化されている:彼は「キューバ・カトリック教会とその霊的指導は常に社会主義(共産党)政体に対して何の問題も創り出さないように常に配慮している...カトリック教徒とキューバ人民一般は社会主義(共産党)政府とほんの少しの問題も持っていない。」と言っている。これは不誠実な嘘である。私自身、カトリック教徒の迫害と宗教的諸権利の抑制と制限がキューバにおいてどのように生じ続けているかを説明したキューバの司祭たちや高位聖職者たちのいろいろの談話に耳を傾けた。

教皇はわれわれの支持を必要としておられる

教皇はバチカン・モスクワ協定のこのくびきから教会を自由にするための彼の努力においてわれわれの支持を必要としておられる。ロシアを奉献するように教皇に請願を提出することによって、われわれは教皇に、彼がしようと望んでおられないことをするように圧力をかけようとしているのではない。教皇自身、彼がクラクフの司教であったときに、ロシアの奉献を遂行するように教皇パウロ六世に請願を提出された。教皇は教会の残りの司教たちと共にロシアの奉献を遂行することを非常に望んでおられる。

1980年には、Soul Magazine においてさえ、教皇が「十分な[数の]司教たちがそれを要求するときには共同的奉献をする気になっておられる」と報道された。不幸なことに、ブルー・アーミーの指導部は今はロシアを奉献するという教皇の望みが実現されることを妨げるために働いている。ファチマ・メッセージを生き、聖母が要求なさったロシアの奉献の実現のために努力するためにわれわれの力においてあらゆることをすることによって、われわれはバチカン・モスクワ協定の束縛から教会を自由にし、そしてロシアの回心とマリアの汚れなき御心の勝利をもたらす困難な仕事において教皇を援助し支持するわれわれの役割を果たすであろう。

  1. すべての司教や枢機卿がバチカン・モスクワ協定に執着しているのではない。例えば、ラッツィンガー枢機卿、ロー枢機卿、オバンド枢機卿など。

  2. もっと正確に言えば、教皇リベリウスは司教たちが聖アタナシウスに対して宣告した破門を承認した。

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2005/02/05 三上 茂 試訳

作成日:2005/02/05

最終更新日:2005/02/05

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