ファチマの聖母マリア

世界の奴隷化か、それとも平和か...
それは教皇にかかっている

ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち

ファチマ、1982年5月13日、実際に何が起こったのか?
ロシアはマリアの汚れなき御心に奉献されたのか?

Abbe Pierre Caillon 著 注1)

1982年5月13日、ファチマの第一の御出現記念日に、教皇ヨハネ・パウロ二世はその前年の1981年5月13日メヘメット・アリ・アグカによる暗殺未遂事件から彼の生命を救われたことに対して聖母に感謝を捧げるためにファチマに巡礼をされた。ファチマにおられる間に教皇はマリアの汚れなき御心に世界を奉献された。教皇のこの行為の後に、いくつかのファチマの新聞はロシアの奉献がファチマの聖母の命令に従ってなされたと報道した。この論考においてカイヨン神父は1982年5月13日のこの行為がなぜ神の要求を満たしていないか、その理由を示している。

シスター・ルチアの困惑

何が起こったのかを理解するために、ルチアが聖座の許可なしにファチマに関する出来事について話すことを認可されていないということを知る必要がある。

ところで、1982年5月13日の後の日々において、何人かの人々は、教皇ヨハネ・パウロ二世によってあの日(すなわち、1982年5月13日)に行われたマリアの汚れなき御心への奉献の行為について正確に何がなされたかを知るためにルチアに接見しようと試みた。特に、ブルー・アーミー・ブラジル代表のブラジル人弁護士はルチアがコインブラのカルメル会へ戻る前にまだそこにいたファチマのカルメル会にある日の午後、出頭した。

事柄の本質的な部分について話すためのいかなる認可も持っていない可哀相なルチアは励みとなる、譲歩するような、そして希望に満ちたものと響くいくつかのありふれた報告をする以上のことをできなかった。しかしそのブラジル人の弁護士はこれらの報告から彼女が言ったことに基づいた陳述は世界的に報道することができると推測することが可能であると信じた。結果として、彼のテキストはあらゆるところで意見を誤り導きながら、ほとんどあらゆるところで複製された。

二つの未公開のニュース項目

1982年5月13日に教皇ヨハネ・パウロ二世によって行われた奉献の行為についてどう考えられなければならないかに関して、われわれはここにこれまで未公開にされていた二つの情報の項目を提出することができる。

項目第1

1982年3月に教皇ヨハネ・パウロ二世は彼のファチマ巡礼の機会に何をなすべきか、正確に知りたいと望まれた。

われわれは今、リスボンの教皇大使がルチアに会うために彼女のコインブラ・カルメル会に行ったということを知っている。1982年3月21日、日曜日午後の間に行われたこの歴史的インタビューは二時間続いた。格子の一方の側にルチアがいた。もう一方の側にはリスボン教皇大使、レイリア(ファチマを含む司教区)の司教そしてラセルダ博士がいた。ルチアは、教皇は、全世界の司教たちに、それぞれ自分自身の司教座聖堂で、教皇によって行われる奉献の行為と同一時間に、イエズスとマリアのいとも聖なる御心への公的、荘厳な償いと奉献の行為を取り決めるように命令する日取りを選ばなければならないと説明した。われわれは、なぜそのように正確なこの計画が1982年5月13日に実現されなかったのか、その理由を知らない。しかし、それにもかかわらず、われわれは、外交鞄によって教皇に送られたテキストの中には、それぞれの司教がそれぞれ自分自身の司教座聖堂において、そして教皇と同じ日に、ロシアの荘厳、公的な奉献の儀式のために取り決めなければならないということは綴られていなかった、ということを知っている。リスボン教皇大使がラセルダ博士にこのことについて情報を与えたのである。

項目第2

第二の歴史的インタビューもまた行われた。

実際には、リスボン教皇大使は、二人のポルトガル人の専門家を伴って、コインブラのカルメル会でルチアに会うために戻った。このすべてのことは、1983年3月19日、日曜日午後の間にまったく最近行われた。ルチア、教皇大使、ラセルダ博士そしてメシアス神父が列席したこのインタビューは午後4時から午後6時半まで二時間半の間続いた。ルチアは公式的に読まれたそしてそれについて彼女がコメントした一つのテキストを準備していた。ロシアの奉献(それは明白にされた)はまだなされなかった。なぜならロシアは明白に奉献の対象ではなかったからであり、そしてそれぞれの司教は彼自身の司教座聖堂において公的、荘厳なロシアの奉献の儀式を取り決めなかったからである。ルチアによって準備されたテキストは次の言葉で結論づけた:「ロシアの奉献は聖母が要求なさった通りにはなされませんでした。私は、聖座の許可がなかったのでそう言うことはできませんでした。」注3)

二つの重要なテキスト

司教たちと一致して教皇によってなされるべきロシアの奉献についてのこの問題全体はルチアによってずっと以前に書かれ、この年にはそれについて彼女がもはやコメントしなかった二つのテキストによって支配されている。

第一の重要なテキスト

ここに第一の重要なテキストがある:「善良なる神は、もし教皇が、カトリック世界のすべての司教たちによってイエズスとマリアのいとも聖なる御心への償いとロシアの奉献の荘厳、公的な行為をなさり、またなされるように命令なさるならば、そしてもし、この迫害の終結に対するお返しとして教皇が償いの信心(五回の初金曜日)の実践を承認し、推奨することを約束なさるならば、ロシアにおける迫害を終わらせる、と約束なさっています。」

ルチアはこのテキストを1930年5月29日に彼女の告解聴聞者、ポルトガル人イエズス会士、ゴンサルヴェス神父に与えた。ゴンサルヴェス神父がなおさらに質問をしたので、ルチアは二週間後、1930年6月12日にまったく同じ線に沿ったもう一つのテキストを彼に与えた。レイリア司教、モンシニョール・ダ・シルヴァに関して言えば、彼は1937年3月に彼女が言ったことを正確に再現してピオ十一世に手紙を書くことを決めた。このテキストはそれゆえにすべての疑いを超えるものである。

1929年と1939年の間に、スターリンがその残忍さの絶頂にいたことを思い起こそう。人がその当時のパリであるいは他の個所で出会ったすべてのロシア人は、実際に次のように言いながら、まったく同じ声で話した:「レーニンは7年間に2千万人の死体に対して責任があった。スターリンは29年間に4千600万人の死体に対して責任があった。すなわち、全体で6千600万人の死体に対して責任があった。それゆえに、レーニンはスターリンよりも悪いのである。だから、できる限り早くレーニンの墓は赤の広場から消えさせなければならない。」ピオ十一世はそれゆえに1937年にロシアの共同奉献を実施する義務について知らされた。彼はそうしなかった。そしてわれわれは数千万人の死体を持つことになったのである。

第二の重要なテキスト

1936年5月に、ある親しい会話の途中でルチアはわれらの主に、なぜ主がこれら二つの非常に重要な条件なしにロシアを回心させられないか、その理由を尋ねた:

すなわち、ロシアが奉献の唯一の対象であるべきだという条件;そしてこの奉献はそれぞれの司教が自分自身の司教座聖堂で一つの荘厳、公的な儀式においてそうしながら、同じ日に、世界のすべての司教たちによってなされるべきだという条件である。

われらの救い主はこうお答えになった:「それは、私の教会がすべて、その後にこの汚れなき御心への信心を広め、私の聖心への信心の側に置くために、この奉献をマリアの汚れなき御心の勝利として認めることを私が望んでいるからである。」

ルチアは答えた:「しかしわが神よ、もしあなたが特別の霊感によって彼を動かされないならば、教皇は私を信用されないでしょう!」

キリストはお答えになった:「ああ!教皇。たくさん教皇のために祈りなさい。彼はそうするであろう。しかしそれは遅いであろう!しかしながら、マリアの汚れなき御心はロシアを救うだろう。それは彼女に委ねられたのだ!」教皇ヨハネ・パウロ二世が、彼の生命に対する襲撃の後にこれらの行を示されて読まれたとき涙を流されたということが知られている。われわれはまた今日、彼ができる限り早くロシアのこの奉献を手に入れ、達成しようと決意されたということをも知っている。なぜなら、彼は今や、1982年5月13日になされた奉献が聖母の要求に応じていないことを知っておられるからである。注4)

ロシアのキリスト教1000年

1988年はロシアの洗礼の1000年祭である。実際、ウラディーミル公がキエフのドニエプル河の水の中でロシアの人々に洗礼を受けさせたのは988年であった。ロシア教会はこの1000年祭を公式に祝う準備をしている。その機会は好都合であろうか? ロシアにおいて、あるいは世界において誰も、教皇がロシアの洗礼の1000年祭を祝うことを喜ぶだろうということに驚かされることはできない。

ロシア:最終的解決

おそらく、教皇は1899年にレオ十三世によってなされたことによって霊感を受けることができるであろう。5月25日の回勅 Annum Sacrum において、彼は全世界の司教たちに翌年の6月11日に、彼らがこの行為において彼に一致するように要求して、聖心に世界を奉献することを、通知された。同じ仕方で、教皇ヨハネ・パウロ二世は一つの短い回勅によって、全世界の司教たちに、彼がかくかくの日にイエズスとマリアのいとも聖なる御心にロシアを奉献しようと意図しているということを通知することができるであろう。そしてこの行事は人類全体にとって重要であるので、彼が全世界の司教たちに、それぞれ自分自身の司教座聖堂においてロシアの奉献の荘厳、公的な儀式のために同じ日に取り決めることによって彼に加わるよう命令しているというこを通知することができるであろう。

それはロシア問題の最終的解決であろう...!もし教皇ができる限り早くそのことをされていたならば、1988年にキエフのドニエプル河の岸辺に姿を見せることができたであろう。そこでは聖ウラディーミルの像 -- 一つの巨大な祈念碑的な出来事 -- が共産主義者たちによって決して破壊されなかったのである。

聖年を告知している1983年1月6日の教皇教書のうちに、人は、教皇が1982年3月21日、日曜日の歴史的インタビューにおいてリスボン教皇大使にルチアが言ったことによって霊感を受けられた、という印象を持つ。

全世界の司教たちによる、彼らの各々の司教座聖堂において、同じ日に、あるいはそれにすぐ続く日に、一つの特別の祈りと償いの儀式が祝われ得るであろう。それは聖年の荘厳な開始の後に、五大陸の全司教団が聖職者と信徒と共に、ペトロの後継者との彼らの霊的一致を明らかに示すことができるためである。」

確かに、そこには司教たちに何かあることをするように命令する問題はまだ何もなかった。教皇はただ「できるであろう」と言われただけである。

そこには確実にロシアを奉献することの問題はまだ何もなかった。それは遙かにもっと単純な何かあるものの場合であった:すなわち、われわれの罪の赦しを求めること。しかしながら、おそらくそれはロシア問題の最終的解決に向かってわれわれがどのように動くかということである。

ヒットラーにとってユダヤ人問題の最終的解決は彼らをガス室へ送り込むことであった。

聖母にとってロシア問題の最終的解決はイエズスとマリアのいとも聖なる御心にロシアを奉献することである。それははるかに寛大である。

  1. Sees(Orne)の大神学校で17年間教授であったカイヨン神父は多年にわたってファチマの聖母のメッセージについて深い研究をした。この論考は月刊誌 Fidelite Catholique, edited by Abbe Blanchard. Address:BP217,56402 Auray, France の April 1983 号から翻訳された。

  2. Fidelite Catholique の編集者、Abbe Blanchard は彼の雑誌の Issue No.77 におけるこのテキストの本質的な部分を...その典拠として責任のある出版物を引用しながら、後者が再現したということを認めている。その編集者たちもまた誤り導かれたのである。

  3. ブランシャール神父の注:1982年5月19日に、ファチマからの帰途、一般謁見の途中で、教皇はこう宣言された:「私はローマ司教の、世界における司教団の職務と奉仕における彼の兄弟たちすべてとの司教団としての一致を強調するために可能な限りのあらゆることをしようと努めた。」これを読んで、われわれは、奇妙なことに、教皇は1917年および1929年の両年に、祝せられたおとめマリアによって指定され、ルチアによって伝達されたことに従ったロシアの奉献へと進むことの必要性に何ら言及されなかったことに気づくのである。しかしわれわれは1982年5月13日に、われわれ自身が明らかに知っており、そしてファチマの歴史に何らか親しんでいる数百万のカトリック者誰もによっても知られていることを、教皇がすでに知っておられなかったということを想像することはできないであろう。われわれは諸々の研究をされた後に教皇がそのように悪しき情報を受け取られたと考えることはなおできない。教皇が1982年5月13日に悪しき情報を受け取られたということは、彼がその前の晩に1981年の暗殺未遂とそれに引き続いたことを、「一つの訴え、そして三人の子どもたちを通じて65年前にここから来たメッセージを思い起こさせるもの」として解釈されたとき、考えられないものとなった。」...

    われわれは、さらに、教皇が5月12日にはルチアに会われなかったということを知っている。彼は彼の計画の実施における遅れによってそうすることを妨げられた。ルチアは5月13日の儀式の直前にだけ教皇に話すことができた。インタビューは30分続いた。何が話されたか誰も知らない。しかしそのときまでに教皇の話はすでに印刷されていた。何かを変更することは困難であっただろう。

  4. ブランシャール神父による注:ここでわれわれはどのようにして、教皇の運命に対する憐れみへと動かされないことができようか。というのは、ルチアによれば、そして彼女と共にわれらの主は教皇に対して憐れみを持つように求めておられるからである。そして、ルチアの要求で...彼の生命に対する攻撃によってファチマの方へと駆り立てられた人でないとすれば、教皇は何であろうか。しばらく考えてみよう:われらの主によって1936年というずっと以前に許されたこの攻撃はその日われらの主から同情の叫びを引き出した。「おお、教皇。たくさん教皇のために祈りなさい。」それ以来、われわれは1981年5月13日の彼の生命に対する攻撃によってファチマの方向への道を敷かれたこの教皇が、われらの主がその直後にこう言われた人であると考える権利を持たないであろうか? 「彼はそれ(すなわち、ロシアの奉献)をするであろう。しかしそれは遅いであろう。」ロシアの奉献はそれゆえに比較的近いうちになされるべきである。

    われわれはまた、ある不正確な仕方で彼の生命に対する攻撃によって動かされた後に、次に信徒からの非常に多くの要求によってより直接的な仕方で動かされ、再び公式的な出所によって提供された悪しき情報の波によって動かされている自分自身を見出し、次に最後に、司教団全体の意向に関しては確固としたものであると要求された、しかし奉献の対象とその目的の両方に関しては非常に不適切であった世界の奉献の方向へと動かされたということを今やわれわれが知るとき、どのようにこの可哀相な教皇に対して憐れみを持たないことができようか。教皇がそのように重要性を持った問題において非常に悲しいことに迷わされ得るということをわれわれはどのように想像できるであろうか? 

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2004/12/04 三上 茂 試訳

作成日:2004/12/04

最終更新日:2004/12/04

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