ファチマの聖母マリア

世界の奴隷化か、それとも平和か...
それは教皇にかかっている

第 IX 部

ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち

ファチマの聖母が従われていない理由:
教皇ヨハネ・パウロ二世は司教たちの公然たる反乱を恐れておられる

Hamish Fraser 著

多くの人々はこう尋ねる、「なぜ教皇ヨハネ・パウロ二世はすべてのカトリック司教たちと一緒に荘厳、公的な仕方でマリアの汚れなき御心にロシアを奉献しなさいというファチマの聖母の非常に緊急のそして本質的な命令に未だに従っておられないのか?」と。雑誌 "Approaches" の編集者であり、カトリック教会における現代の諸問題に関係するものとしての共産主義に関して国際的に認められた専門家であるハーミッシュ・フレイザー氏はこの問いに答えた。フレイザー氏は現代の諸事件および最近の歴史の光に照らしてなぜ教皇がすべてのカトリック司教たちにロシアを奉献するように命令する彼の義務を果たすことができる前に非常に並々ならぬ恩寵を得るためにわれわれの祈りを必要としておられるかを説明している。

多くの司教たちが今や共産党に鼓舞された諸々の運動や集団を支持している現代の状況に導いたのは第二バチカン公会議が共産主義を公然と非難することを怠ったからである。司教たち自身の正義と平和委員会が共産党の諸戦線を積極的に促進している。これらの司教の多くは反共産主義的であるいかなる集団あるいは個人にも反対している。

ファチマの聖母のメッセージはそのような誤り導かれた司教たちのこれらの行動や態度を公然と非難している。

しかしながら、司教たちは逆に、彼らの諸々の誤謬から回心するよりはむしろファチマの聖母に反対するであろう。それゆえ、教皇はほとんど不可能な状況に直面しておられるのである。しかし、教皇とすべてのカトリック司教たちによるロシアの奉献は教会と世界が直面している多くの問題に対する唯一の真の解決である。教皇はこれらの事実に直面して並々ならぬ勇気を必要としておられる。教皇はわれわれの祈りをこれまでよりももっと多く必要としておられる。

シンポジウムにおけるハーミッシュ・フレイザーの演説のテキストが以下に続く。

メッセージの本質

ファチマの聖母のメッセージの本質は1917年7月13日に聖母によってはっきりと説明された。そのとき聖母はこう仰った。「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献されるでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして平和の一時期が世界に与えられるでしょう」と。

次に1929年6月13日に、シスター・ルチアに従えば、「聖母はそれから私にこう言われました。『神が教皇に、世界の司教たちと一致して私の汚れなき御心へのロシアの奉献をするように命じられる時が来ました。』

さらに、どんな疑いをも取り除くために、1982年5月13日のファチマでの教皇の奉献の行為の後に、二人の有名なポルトガル人神学者に伴われたリスボン教皇使節の列席の中でインタビューを受けたとき、シスター・ルチアはファチマの聖母によって要求された奉献は次のようなものでなければならないとということを強調した:

(1)ロシアの、マリアの汚れなき御心への[奉献]

(2)完全に共同的な[奉献]、それは彼女の説明によれば、各々の司教が彼自身の司教座聖堂においてロシアの奉献の荘厳な儀式を取り決めることが要求されているということを意味する 注1)

教皇の認識

少なくとも一つの事柄に関しては可能的な疑いの余地は何一つ無い。すなわち、それはマリアの汚れなき御心へのロシアの共同的奉献の必要性についての教皇の認識である。なぜなら、(1982年5月13日からそうであるように)すでに2年の間に教皇は三回マリアの汚れなき御心に世界を奉献されたからである。そして三度目の機会(1984年3月25日)に、教皇は奉献の行為を行う際に司教たちに彼と共に共同的に加わるよう要求された。

さらに、それぞれの機会に、教皇は自分が聖母によって要求された奉献がまだ為されていないということを理解していると指摘された。

私はまた、臨時司教会議 *の終わりを特徴づけるために汚れなき御宿りの祝日(1985年12月8日)になおもう一つの奉献の行為が期待されるであろうという情報を得ている。

* 教皇ヨハネ・パウロ二世は1985年12月8日に司教会議の閉幕に当たって再びマリアの汚れなき御心に世界を奉献された。これは彼の三つの同じような奉献の行為と同様に世界のすべての司教たちと共に荘厳、公的な仕方でロシアを特殊的に奉献するようにというファチマの聖母の命令を満たしていなかった

それゆえに、誰にも、マリアの汚れなき御心へのロシアの共同的奉献は教皇の頭の中にはまったくなかったと言わせてはならないのである。

なぜこれまで奉献がなされなかったのか?

一方においてマリアの汚れなき御心へのロシアの共同的奉献についての教皇の心配、そして他方において1984年3月25日のマリアの汚れなき御心への世界の奉献への司教たちの参加への教皇の要求によって引き起こされた恥ずべき敵意 注2)を考慮に入れると、一つの事柄が特にこれまでマリアの汚れなき御心にロシアを共同的に奉献することにおいて彼に加わるように普遍教会の司教たちに命令することから教皇を妨げてきたということが道徳的な確実さをもって、推論され得る。すなわち、それは、そうすることが形式的な分裂を引き起こすという教皇の恐れ、である。その恐れはもちろん、実質的な司教たちの分裂がすでに世界のさまざまの地域において広まっているという彼の理解に根づいているのである。注3)

そのことについては、より詳しく後に述べよう。同時にわれわれは、司教たちが共同性についての概念に取りつかれているときに、天の元后が、教皇と一緒に彼らがマリアの汚れなき御心にロシアを共同的に奉献することを要求なさったということを思い起こさせられることよりも彼らの多くの者の怒りをかきたてるものは何も無かったという余りに重大な事実に注目した。

なぜ司教たちはファチマを嫌うのか

そのように多くの司教たちが、ファチマのメッセージが言及されるときにいつでもなぜまったく文字通りかっとなるのか、そのいくつかの理由がある。

(1)共産主義は「本質的に悪しきもの」である。

まず第一に、ファチマの聖母が、彼女の要求が聞き入れられないならば、ロシアは世界中にその諸々の誤謬(すなわち、共産主義の諸々の誤謬)を広めるであろうということを明らかになさったという事実がある。教会が「本質的に悪しきもの」であるとして定義したのは、南アフリカのボタ氏の誤謬、フィリピンのマルコス大統領の誤謬、ニカラグアの「コントラ」の誤謬、チリのピノチェト将軍の誤謬、あるいはレーガン大統領の誤謬、正義と平和のための司教委員会の大多数のお化けたちの誤謬ではなくて、共産主義によって支配されたロシアの諸々の誤謬である。

換言すれば、ファチマがなぜそのように多くの司教たちにとって我慢できないか、そしてなぜ彼らがまた強く教皇の権威に憤慨するのか、その第一の理由は第二バチカン公会議以前には諸教皇が首尾一貫して共産主義を「本質的に悪しきもの」として非難してきたのに、第二バチカン公会議以後たいていの司教会議が今や「本質的に悪しきもの」であるのは共産主義ではなくて、いかなる形あるいは形式においてであれ反共産主義であるという仮定において行動しているように見えるからである。

司教たちの態度のこの変化はなぜ第二バチカン公会議から始まったのであろうか? それはなによりもまず、ロシア正教会のオブザーバーたちが第二バチカン公会議に送られるならば、共産主義は公会議において議論されないであろうということをクレムリンに保証したローマ・モスクワ協定のゆえである。またそれは議論されなかった。公会議に出席した教父たちの一角からの要求にもかかわらず、第二バチカン公会議はこれまで諸教皇の一貫した教えであったもの:すなわち、共産主義は「本質的に悪しきもの」であるということを再び断言することさえ許されなかった。

公会議の後に、共産主義が合法のものとなったと言い張ること、そして公会議の名においてそうすることが可能となったのはこの犯罪的な脱落のゆえである。この犯罪的な脱落は、なぜカトリック教徒たちと共産主義者たちの提携を主張すること、そして単純に「キリスト教的」偽装における革命的マルクス主義である「解放神学」を採用することさえ可能とした理由である。

簡単に言えば、もしそのように多くの司教たちがファチマの聖母のメッセージを憎むとすれば、それはロシアの諸々の誤謬へのその論及が実質的にすべての司教団によって承認された「正義と平和委員会」そしてまたCAFOD(イギリス)、SCIAF(スコットランド)、Trocaire(アイルランド)そしてCCFD(フランス)のような諸カトリック「発展局」の政策を非難しているからである。注4)なぜなら、これらの組織は今日、公会議以前の教会の決定された反対に対してそのような苦痛を発生させることになった一種の「国民戦線」のための基礎をもつ「革命」を準備しているからである。キリスト教徒たち、特にカトリック教徒たちを動員することによっていたるところで転覆を促進している「国民戦線」は革命的な運動を支持して、しかし特に、モスクワがその帝国主義的野心を抱くために不安定にしようと決定しているフィリッピン、南アフリカそして中央アメリカのような地域においてそうである。

(2)ファチマは新しいカテキズムを非難している

ファチマがなぜそのように多くの司教たちをかっとさせているか、その第二の理由は、司教たちによって承認された多くのカテキズムのテキストにおいて、地獄がほとんど言及されさえしていず、また確かに非常に重大なものとして考えられていないのに対して、ファチマの聖母は三人の若い幻視者たちに地獄の最も恐るべき幻視を与えることを必要だと考えられたということである。

(3)ファチマは性教育を非難している

同様に、慎みと純潔の必要性並びに避妊の重大な罪を強調している回勅 "Humanae Vitae" および "Familiaris Consortio" の両方を無視しながら、多くの司教たちが、彼らが責任を負っているカトリック学校において、そのあるものがポルノすれすれの、非常に問題の多い形式の「性教育」を課してきたのに対して、ファチマの聖母は、教会の道徳的教説への厳格な忠実の必要性、そして、三人の幻視者たちのうちの最も年下のヤチンタに「大部分の霊魂を地獄に導くのは肉の罪です」注5)と告げられながら、特に慎みと純潔の必要性を強調された。ヤチンタ自身が後に報告したように、「神の御母は貞潔の誓いに縛られたより多くの処女の霊魂を求めておられる。慎みを欠く女性に禍いあれ」注6)。

教皇使節による裏切り、等々

完全にあからさまに言えば、もしこれまで教皇が天の元后の要求を果たすことが可能であると見出されなかったのは、彼が、公会議後の教皇使節や使徒的代表たちによって追求されてきた諸政策の結果として彼が今やただ名においてだけカトリックである近代主義者の司教たちの主人役に満足しなければならないということを理解しているからである。

その理由のために、教皇が今やファチマの聖母の要求を満たすことができるただ一つの手段だけが存在する。彼は、そうすることを彼らが拒否する出来事におて直ちに職を辞するという苦痛においてマリアの汚れなき御心へロシアを共同的に奉献する際に彼に加わるようにすべての司教たちに命令することを要求されるであろう。

最後の決断の必要性

しかしながら、司教たちをファチマの聖母の要求に応じるようにさせることからまったく離れて、反抗的な司教たちに対する何らかのそのような最後的決断は母なる教会におけるカトリック秩序の回復を始めるためにさえ不可欠である。なぜなら、事態がそうであるように、教皇が言われることが何であれ、それは多かれ少なかれ完全に無視されているからである。ある若い司祭(彼はおそらく彼の司教の精神を単に敷衍しているにすぎなかった)の次の言葉において、私はそのことを知っている:「教皇は誰も何の注意も払わない多くの無意味なことを喋りながら世界中を廻っている単に愚かな老人に過ぎない。」と。

そのような司祭たち、そのような司教たちは教皇が単に言っているに過ぎない何事をも真面目に受け取ろうとしないのである。教皇の権威は、ただ教皇が、ちょうど敵の面前で裏切りのために免職にされた将校が彼の連隊の前で公的に名誉を剥奪されるように劇的に、少なくとも一人の名声のある反抗的な高位聖職者の聖職を剥奪する時にのみそのような人々に通じるであろう。

ああ、悲しいかな!今や普遍教会を通じて広まっている不信のムードを考慮に入れると、個人的に名声のある高位聖職者を聖職から辞任させることによって、あるいはマリアの汚れなき御心にロシアを奉献するに際して彼に共同的に加わるように彼らに命令することによってかの何れかで、司教たちとの決着をつけるために、教皇の側でのまったく並はずれた道徳的勇気が要求されるであろう。、

実際、現在、第二バチカン公会議の後に、存在しているほどに教皇の権威の行使に対して偏見を持っているような状況に、かつていずれかの教皇が歴史において、直面したことがあったかどうか、疑わしい。確かに、現在の状況を十分に理解している人は誰でも教皇を非難する、あるいは何らかの仕方で見くびるほどに愚かな者はいないであろう。なぜなら、今までのところ彼はカトリックの秩序を回復するために明らかに必要であることをすることが可能であるとは見なかったからである。

そしてこのことはそのような行動が明らかに必要であるという事実にもかかわらず、そうなのである。それはなさねばならないことである。なぜなら、実質的な分裂が長く許容されればされるほど、それだけ司教たちは手に負えないものとなるからである。というのも、日毎に彼らは彼らの菓子を持って、それを食べることにますます貪欲に習慣づけられるようになっているからである。すなわち、彼らは形式的な分裂の不利を何ら持つことなく、実質的な分裂の有利な点を持っているからである。

さらに、実質的な分裂(重大な問題における教皇への不従順)が長く続けば続くほど、それだけ形式的分裂の出来事において彼らと共に彼らの群れを連れて行くことができる司教たちの見込みは大きくなる。

しかしながら、一つの決断が必要であるという事実はそれを実際に行うことを容易にするものではない。乗組員あるいは乗客の残りの側での明らかな反対なしに、ほとんどすでに船が岩にぶつかろうとしている時に、彼の船をハイジャックした彼の航海士たちの何人かを懲戒する必要に直面した船長の類似した立場を考えてみよ。

そのような状況の下では、船を -- この場合にはペトロの船を -- 敵の手に陥ることから妨げるために必要なことをすることは人間的に見て不可能であろう。

そのような状況下では、ただ神からの並はずれた恩寵だけが、厳密に言って、彼の義務であることをすることをさえ一人の人間に可能とすることができる。またこのことは決してただ教皇についてのみ真であるのはない。そのことは、英雄的行為、英雄的聖性さえ、が唯一卑怯の確信に代わるものである時に、ほとんど確実な死を意味する何かあることをするように命令された下級の兵士たちや警察官のような人間の最も地位の低い者たちにさえしばしば起こるのである。

教皇のために祈る必要性

だからこそ、教皇を批判するのではなくて、彼が人間的には不可能であると思うことをする恩寵を得ることができるように教皇のために祈ることがそのように必要なのである。そのことはまさにファチマの聖母がわれわれにするように望んでおられることである。

なぜなら、シスター・ルチアは、神はマリアの汚れなき御心へのロシアの共同的奉献の恩寵を、ただ十分な数のわれわれが、なかんずく、われわれの生活状態に適切な諸義務を果たすという償いをするということを強調しているファチマのメッセージに応ずる時にのみ、許されるであろうと警告したからである。しかし人の生活状態がどんなものであれ、絶えず教皇のために祈ることなしに、真にカトリック的であることはまったく不可能である。

そしてわれわれ自身のために...

しかしながら、教皇のために祈るわれわれの義務であることからまったく離れて、われわれは、もしわれわれがわれわれの文明の未来について関心があるならば、すなわち、もしわれわれがわれわれの子どもたち、そしてわれわれの子どもたちの子どもたちについて関心があるならば、、そうする以外のいかなる選択肢も持たないのである。なぜなら、ロシアがファチマの聖母によって要求されたようにマリアの汚れなき御心に共同的に奉献されないならば、そしてこのようにして遅すぎない前に[ロシアが]回心しないならば、ファチマの聖母がわれわれに警告なさったように、われわれは人間の歴史において前例のない破壊的な懲罰を経験することを期待することになるであろうからである。その懲罰は、胎児の見境のない大虐殺と現在の不自然のそのように恥ずべき伝染病 -- その両方とも現代の自由放任の社会に由来する -- のゆえに、単に[その懲罰に]値するだけではなく、実際長い間、[その懲罰の]機が熟しているのである。

軍縮討議とサミット会議の空しさ

われわれの司教たちの多くの者によって提案された一方的軍縮を通じて可能である平和、あるいはどれだけ多くの「サミット会議」でのクレムリンとの対話の結果としての平和、についていかなる幻想もあってはならない。なぜなら、共産主義は、全世界がひとたび共産主義によって征服されたときに共産主義が「平和」と呼ぶものが存在するだろうから、「資本主義的帝国主義」から「解放」されなければならないと彼らが主張する非共産主義世界に戦争 -- 階級戦争 -- をすることを誓っているからである。だからこそ、共産主義的展望においては、戦争は平和への道なのであり、共産主義的慣用句においては「平和」は「戦争」を意味するのである。

奉献だけが唯一の救済策

そして、ロシアが回心するまではそのようであり続けるだろう。なぜなら、そのときにのみ、ロシアは破壊と野蛮な攻撃の道具であることを止めるであろうからである。そのときにのみ、キリスト教的使徒職の原動力となることによって、ロシアは、代わりに、世界における平和のための主要な力となるであろうからである。しかしこのことは、ロシアがマリアの汚れなき御心に共同的に奉献されることを前提とする。そのことは、教皇がこれが要求する超自然的な力を持つ時にのみ、可能となるであろう。だからこそ、われわれは教皇のために祈らなければならないのである。

  1. "Fatima May 13, 1982 What Actually Happened?" The Fatima Crusader , Issue 16, p. 22. See p. 159 of this book.

  2. Cf. "March 25, 1984 Consecration in retrospect", Supplement to Approaches No. 85.

  3. Cardinal Gagnon Report, The Fatima Crusader ,Issue 15, p. 15.

  4. "Comite Catholique Contre La Faim Et Pour Le Developpement" i.e. The "Catholic Committee Against Hunger and for Development."

  5. "Fatima: The Great Sign" by Francis Johnston, Tan Books and Publishers, p. 5.

  6. "Fatima: The Great Sign", p. 84.

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2005/01/24 三上 茂 試訳

作成日:2005/01/24

最終更新日:2005/01/24

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