ファチマの聖母マリア

世界の奴隷化か、それとも平和か...
それは教皇にかかっている

ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち

世界平和はカトリック司教たちとあなたたちにかかっている

Father Nicholas Gruner, B Comm.,S.T.L., S.T.D.(Cand.)著

われわれはすでに司教団を含む全教会がなぜファチマの聖母に義務を負っているのかを見てきた。ただ教皇と司教たちだけが実際に[司教団としての]共同の奉献をすることができる。しかし教会のすべての成員はこの意向のために教皇と司教たちのために祈らなければならない。グルーナー神父はこう結論する:世界平和は司教たちとあなたたちにかかっている、と。

ファチマで聖母が約束なさった世界平和とカトリック信仰へのロシアの回心との恵みは世界のカトリック司教たちが教皇と一緒にロシアをマリアの汚れなき御心に奉献した後に初めて人類に与えられるであろう。神御自身は、ファチマの聖母のメッセージを通じて、マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献のこの集団的行為を、神がロシアの回心の恵みと世界平和の恵みをお与えになる前に、神によって要求された一つの不可欠の条件として要求なさった。

ファチマ・メッセージに注意を払うべき教皇と司教たちの義務

われわれはこの書物の別の個所 注1)で、教皇と司教たちがファチマの聖母を通じて彼らに宛てられた神の明白な命令に従う義務があるということを指摘した。われわれはもちろん、教皇がすべてのカトリック司教たちと一緒に、同じ日に荘厳かつ公的な仕方でマリアの汚れなき御心にロシアを奉献するという要求のことを言っている。

教皇と一緒にすべての司教たちによって共同的な奉献がなされるべきである

セント・ルイス(アメリカ合衆国、ミズーリ州)のカーベリー枢機卿はこう言った。「ロシアのこの[司教たちによる]共同的奉献はある特別の日に一つの同時的な儀式において教皇と共に参加する世界のすべての司教を含むであろう。」

そのような儀式がまだ行われていないということはすべての人々に明白である。なぜなら、世界の3700人のカトリック司教たちの能動的な参加によるそのような荘厳、公的でまた特別の儀式は確かに、もしそれが行われていたならば、公的なニュースとなったであろう。実際、教皇がこの行為に何らかの類似性を持ったことをなされた唯一の機会は1982年5月13日であったが、しかし司教たちのほとんど誰も教皇に加わらなかった。注2)

共同奉献の行為はマリアの汚れなき御心の勝利となるであろう

われらの主がマリアの汚れなき御心へのロシアの共同奉献の行為がマリアの汚れなき御心の勝利となり、それによって世界平和とロシアの回心との恵みが与えられるということが全カトリック教会に対して明らかとなることを望んでおられるということに注目することは重要なことである。

シスター・ルチアはわれらの主に、なぜ主は、教皇と司教たちがロシアの共同奉献をなさないならば、ロシアを回心させようとなさらないのか、と尋ねた。イエズスはこうお答えになった。「なぜなら、私は私の全教会がその奉献をマリアの汚れなき御心の勝利として認め、その結果教会がその信心を広めて、汚れなき御心の信心を私の聖心に対する信心の側に置くようになることを望んでいるからだ」と。注3)

ファチマで、われわれは世界の平和がマリアの汚れなき御心に委ねられたと告げられている。そしてわれわれはまたそこで、ロシアの回心はマリアの汚れなき御心に委ねられたとも告げられている。神はマリアの汚れなき御心の仲介を通じてのみこれら二つの恵みをお与えになるであろう。なぜなら、神はすべての人々が、これら二つの恵みが世界に与えられるのはただマリアの功績を通じてのみであるということを知ることを望んでおられるからである。

共同奉献の恵みは十分な数の人々がファチマの聖母の要求を果たす場合にのみ与えられるであろう

シスター・ルチアによれば、教皇と一緒のカトリック司教たちによるマリアの汚れなき御心へのロシアの共同奉献の恵みは「十分な数の人々がファチマのメッセージに応じる場合にのみ」与えられ得るであろう。

各個人に対するファチマの聖母の要求は、シスター・ルチアによって与えられた、そして聖母の要求に関する彼女の知識に基づいている平和の約束のうちに要約されている。

さまざまの民族の絶滅は、ファチマで預言されたように、もし十分な数の人々がファチマの要求に応えないならば、起こるであろう

諸個人および民族の罪の結果として、世界はすでに大きな懲罰に値している。この懲罰が来るそしてすべての人々に明らかである一つの仕方は地上におけるすべての生命を破壊することのできる核戦争である。われわれの時代の一つの罪を挙げるならば、中絶による5千万の胎児の殺人があり、それは「天に復讐を叫んでいる」と聖書はわれわれに告げている。

このことがいかに神を攻撃するものであるかを理解するためには、神があらゆる人間存在を創造なさったこと、そして神が各々の個人的人間を、「合法的に」殺されている赤ん坊たちを含めて個々のすべての人間の救いのために御自分の愛する御子が十字架にかけられることを許すほどに愛しておられるという事実を考えるだけで十分である。

もし世界が間に合うように回心しないならば、確実に恐るべき懲罰が人類に落ちかかることは予期され得る。諸々の個人の悔い改めない罪は来世において罰せられる。聖書と歴史とは両者とも、諸々の民族と個人の罪がまたこの世において罰せられることを示している。しかしながら、われわれの時代は、もしそれが非常に大きな恵み、共同奉献の行為によってなだめられるべきものとしての神による提案を受け入れないならば、懲罰により以上に値するであろう。もし人々がファチマのメッセージに耳を傾けることを拒否し、それによってわれわれが共同奉献の恵みを手に入れるであろう要求 注4)を満たすことを拒否するならば、そのように拒否する人々はそのことによって自らを懲罰により相応しいものと -- 彼らが世界に平和をもたらすこの余分の、相応でない機会を提供されることが決してなかった時よりももっと -- 懲罰に値するものとするであろう。

われらの天上の御母の嘆願を意図的に無視することは一つの重大な罪であろう。このことについて、ドイツのグレイバー司教はこう言った:「世界が今日恐るべき大量破壊兵器によって完全に破壊され得るということを知り、そしてまたこのことが、いとも聖なるおとめがファチマでわれわれに思い起こさせられたように、祈りと償いとによって避けられ得るということをも知っているからには、救いのこの二つの手段、祈りと償いを利用することは私の聖なる義務である。それらを無視するならば、私は人々の破滅に罪を負うのである。祈りと償いの不履行は -- 私は大真面目にこう言うのであるが -- 人類に対する一つの犯罪である。」

諸民族の広範囲の破滅を避けるために必要とされるすべてはファチマの聖母の単純な要求を十分な数の人々が満たすことである。われわれの大部分は物質的な諸目的のためにより多くの困難に向かう。それゆえわれわれはどのように犠牲をするかを知っている。今われわれがしなければならないすべてはある小さな犠牲を祝せられた御母のためにすること、彼女がファチマでわれわれに願われた要求を満たすために努力することである。これらの要求を満たすことによって、われわれは共同奉献の恵みを勝ち取ることによって人類の上に神の憐れみを引き下ろすことができるであろう。その教導奉献は祝せられたおとめマリアの溢れるばかりの功績を通じてロシアの回心と世界平和とをもたらすであろう。

汚れなき御心へのロシアの共同奉献はロシアの回心と世界平和のための必要な条件である

マリアの汚れなき御心へのロシアの共同奉献が最終的になされる時、ファチマの聖母が言われたように、「ロシアは回心し、平和が来るであろう」。そしてこれらの結果はすべての人々によって見られるとき、人類はこれらの恵みがマリアの仲介を通じて神からわれわれに来るということを認めるであろう。

ファチマのメッセージにおいて、ロシアの共同奉献が世界平和の恵みを得るための一つの必要条件であるということが明らかである。ロシアは、単に世界の奉献のうちに含まれるだけではなくて、汚れなき御心に特殊的に(名を挙げて)奉献されなければならない。注5)

ロシアは神と戦うために悪魔によって奴隷化され用いられている

人はこう尋ねるであろう。なぜロシアはファチマ・メッセージの中で神が共同的に奉献されなければならないと要求なさっているものとして取り出され、名指しされているのか、と。1917年以来ロシアの人々は無神論的専制の残酷なくびきの下で奴隷化されてきた。ロシアが共同奉献のために選ばれたのは、ロシアにおいて神の被造物が神に対して戦うために用いられているからである。

われわれは、ロシアが一国家および民族として組織化された戦闘的無神論によって奴隷化され、道具化されてきた、そしてわれわれの創造主にして救世主である神に対する戦いにおいてサタンの奉仕に捧げられてきたと言うことができるであろう。ロシアの外部から、サタンは彼の人間代理者たちの協力と慎重な計画をもってロシアの人々の上に無神論的政権を押しつけてきた。そしてそのような政権は人々の身体的あるいは霊的な生活に対する尊敬を持たないので、奴隷化しそれ自身の諸目的のために用いているのである。神と教会に対する戦いの目的のためにロシアを彼の司令部として用いながら、悪魔とその人間代理者たちは世界中に神に反対し、また神の唯一の真の教会、カトリック教会に反対する誤謬を蒔き散らし、また世界中に神によって与えられた人々の諸権利に反対する誤謬を蒔き散らしてきた。ファチマの聖母がわれわれに警告なさったように、「もし私の要求が聞き届けられないならば、ロシアは、諸々の戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その諸々の誤謬を世界中に広めるでしょう。善人は殉教し、教皇は多く苦しみ、そしてさまざまの民族は絶滅させられるでしょう。」

マリアは天と地との女王であられるから、ロシアはマリアの女王たることの下にあってしかるべきであろう。しかしこのかつては洗礼を受けたキリスト者の聖なる民族として、一つの民族および国家として、そのキリスト教的使命へと連れ戻されることができる前に、ロシアはマリアの奉仕へと再び奉献されなければならない。この考え方をわれわれが理解するのを助けるために、例えば、殺人のようなある一つの犯罪が教会の中で犯されるならば、そのときその教会は司教によって再び奉献され、神の奉仕に再び捧げられなければならないという事実を考えることができる。荘厳で公的、公式的な仕方でロシアの国家を奉献するための力と役目が与えられたのは教皇と司教たちに対してである。ロシア国家および民族をサタンの奉仕へと捧げるというようなそのような公的な罪(そしてこのことはすべてのあるいはたいていのロシア人たちがこの罪があるということを意味していない)はイエズスとマリアの聖なる御心に対する一つの公的で荘厳な償いの行為を要求する。ロシアの奉献の共同行為は神が今償いにおいて要求なさっている行為である。

教皇の下で一緒に行動する司教たちによる奉献の共同行為は神によって受け入れられる償いの行為であろう。他の何物も世界に平和をもたらすために十分ではないであろう。ロシアがマリアの汚れなき御心に共同的に奉献されるまでは、われわれは世界において諸々の戦争を持ち続けるであろう。そしてもしわれわれがこの奉献を遅らせるならば、そのときさまざまの民族の絶滅が起こるであろう。そのとき、世界平和が委ねられてきたのは、教皇と共なるカトリック司教たちである。しかし彼らは、われわれのうちの十分な数の人々がわれわれの役割をなすこと -- ファチマ・メッセージを生きること、そして聖母の汚れなき御心に償いをすること -- 特に初土曜日の信心の実践によって -- 必要とされる恵みを得るまでは彼らの役割を果たすことはできない。

歴史からの一つの教訓

汚れなき御心へのポルトガルの奉献の諸結果

シスター・ルチアは、彼女の国が戦争の惨事から救われたのはポルトガルの司教たちによるポルトガルの奉献の共同行為によってであったと指摘した。リスボンの枢機卿総主教は三つのそれぞれ別の機会にポルトガルの司教たちが彼らの国家を共同的に奉献することによって、ポルトガルは三つの異なった時期、1938年、1940年そして1975年に戦争と迫害から救われたということを述べることにおいて同じことを指摘した。ここに1977年9月18日、ドイツのケヴェレールでの第8回ファチマ会議へ向けられた枢機卿総主教の言葉がある:

「私は、1931年と1938年に、当時その国境に非常に近かった共通の危険からポルトガルを守ったのはファチマでなされたポルトガルの司教たちによるマリアの汚れなき御心への奉献であったと言うことができる。* ポルトガルを第二次世界大戦の恐怖から救ったのは1940年に更新された同じ奉献であった。...そして確かに、共産主義がわれわれの政府の多くの部局をすでに支配下に置き、ポルトガル人民の公的および私的生活の全体を覆い尽くそうと脅かしていた時に、われわれの間で共産主義の進展を止めたのは、1975年5月13日に司教たちによってなされた奉献によって新たに追認されたおとめマリアに対するポルトガル人民の偉大な献身であった。」注6)

* 彼はここでスペイン市民戦争のことを言っている。

シスター・ルチアは、スペイン市民戦争において重大な生命の喪失を蒙らなかった唯一の都市はその地方の司教によって聖母の汚れなき御心に荘厳に奉献されたセヴィリヤの司教区だったと指摘している。

それゆえ、ぜひともマリアの汚れなき御心にあなたの小教区を荘厳に奉献してくださるようにあなたの小教区司祭に願いなさい。マリアの汚れなき御心にあなたの司教区を荘厳に奉献してくださるようにあなたの司教に願いなさい。あなたの国を奉献してくださるように司教会議に願いなさい。そしてとりわけ教皇と司教たちのために祈りなさい。そして教皇と司教たちにマリアの汚れなき御心にロシアを荘厳に共同奉献してくださるように請願を出しなさい。

ある恵みはただ聖人たちの仲介によってのみ与えられる

聖アウグスティヌスが述べたように、神はある種の恵みをただ諸聖人の仲介(それはすべての聖人の女王、祝せられたおとめマリアの仲介を含んでいる)を通じてのみお与えになる。なぜなら、信徒によって要求される恵みのあるものは彼ら自身の功績を超えるものだからである。そして、その仲介が信徒によって祈りのうちに求められる諸聖人の仲介を通じて恵みを与えることによって、神は人々に、そのような恵みが与えられたのはその聖人の、あるいは諸聖人の功績を通じてであるということを理解させられるのである。

ロシアの回心および世界平和に関して言えば、聖アウグスティヌスのこの教えは非常に重要である。われわれのうちの誰一人、われわれ全部を一緒にしてさえ、われわれの祈り、そして善業のすべてによってでさえ、ロシアの回心そして世界平和の恵みに値することはできない。しかし祝せられたおとめはその地上での極端に聖なる生活によってこれらの恵みに値されたのである。なぜなら、それは神の御意志だからである。人類は、ファチマのメッセージを生きることによって、われわれの祈りとマリアの汚れなき御心に対する償いの行為によって、特に5回の初土曜日の信心の実践によって以外にはこれら二つの恵みを得る目的のために聖母のこれらの功績を利用することはできないのである。これらのことを為すことによってわれわれはマリアの汚れなき御心へのロシアの共同奉献の恵みに値するものであるだろう。

ひとたびロシアがこのように聖母に荘厳かつ公的に奉献されるなら、神は聖母に彼女の功績と祈りによってロシアの回心の恵みを得ることをお許しになるであろう。聖母はあの国家と民族を、神とその教会に対する戦いというその悪魔的な目標から離れて聖母と神なる御子イエズスの王国を広める彼女の仕事への奉仕へと回心させられるであろう。ロシアの回心を通じて、平和が世界に与えられるであろう。憎しみ、階級闘争、そしてあらゆる種類の戦争を蒔く代わりに、ロシアは神の愛、キリスト教的平和そして聖性を広めるであろう。

なぜ神は世界平和の必要条件としてすべての司教によるロシアの奉献を要求なさるのか

われわれはすでに、一つの理由はロシアの戦闘的無神論が神の正義によって、神に対するこの犯罪によってそのように背かれた -- マリアの汚れなき御心に対する荘厳で公的な償いの行為を要求するということであると述べた。神は至高の御方であり、そして御自分がなぜある特別の仕方で事柄を為されるかその理由をわれわれにお与えになる必要はない。しかしわれわれはおそらく神の理由のあるものを識別することができる。われわれは、神が奉献のこの共同行為をより多くの霊魂を救う目的のために要求なさっており、そして人類がキリスト教的平和と完成の道において固く確立するよう要求なさっていると言うことができるであろう。神は確かにわれわれの時代に人類によって犯された大きな罪にもかかわらず、現代にわれわれを愛しておられる。(もちろん、罪深い人間にとって救われるためには彼はなお自分の罪を痛悔し、生活を改めなければならない。)

おそらくある人々はこう考える。「神がまずロシアを回心させ、世界に平和をもたらされるならば、多くの人々は、世界における平和的な雰囲気のゆえに神に立ち帰り、罪を犯すことを止めるであろう。」世界平和が神に対してうまく秩序づけられている霊魂の救いのためにより助けになる雰囲気であることは真である。イエズス御自身、世界の中に平和を熱心に望んでおられるがゆえに、カトリック司教たちによる奉献の共同行為の遅さを嘆いておられる。

しかし世界平和は霊魂の救いのために助けになる雰囲気として重要ではあるが、それは最も重要なものではない。そして霊魂の救いはわれらの救い主イエズスの第一の関心事である。

霊魂の救いのために、マリアに対する信心とカトリック教会における完全な成員であることは世界平和よりも遙かに重要である。なぜなら、永遠の救いは恵み -- そして恵みは主としてこれら二つの手段を通じてわれわれにやって来る -- に依存しているからである。

さらに、世界平和は、ただ人間たちが彼らの個人的生活において神の計画に従って生きる場合にのみ一つの永続的な基礎においてだけ達成され得る。そのことはただ、人類が神の十戒を守るときにだけそうである。しかし神の恵みなしには誰にとっても常に神の十戒を守ることは不可能である。このように世界平和のために、恵みと人間による恵みの手段の使用が必要であるということは明らかである。それゆえに、人々は平和的に生きるためにマリアに祈ることが必要なのである。注7)彼らはまた教会をも必要とする。このように神は、ロシアの共同奉献に対する御自分の要求を通じて世界における汚れなき御心への信心を確立することによって実際、世界平和のための堅固な基礎を敷いておられるのである。

さらに、世界平和は社会がイエズス・キリストの教えに従って、そしてキリストの名において、イエズス・キリストの代理者教皇と教会の永遠のそして首尾一貫した教導権に一致して教えるキリストの代表者たちである司教や司祭によって説明されているように、組織されているということを要求する。すべての人々がこのことをするためには、彼らはカトリック教会をすべての国家と人民の教師として神によって指名されたものと認めなければならない。

それゆえに、世界中にマリアに対する信心をもっと堅固にそしてもっと早く確立し、すべての人々にもっと明瞭にすべての人々を聖化するというカトリック教会の神的使命を見るように助け、すべての人々に神がロシアの共同奉献を強く要求なさっていることを教えなければならないのである。われわれは今、これらの二つの目的がどのように共同奉献のこの荘厳な行為によって達成されるのかをもっと詳細に検討するであろう。

マリアに対する信心の重要性を論証するために

ファチマで聖母はわれわれにこう告げられた:「神は世界に私の汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられます。」神はマリアの汚れなき御心に対するこの信心を確立することを望んでおられる。なぜなら、マリア(彼女の人格、そして神とわれわれに対する彼女の愛は彼女の汚れなき御心によって象徴されている)に対する信心は救いのために必要だからである。ファチマのジャシンタは、神は諸々の恵みをマリアの汚れなき御心を通じてお与えになると言った。教皇レオ十三世は、すべての恵みは神から、マリアを通じてのイエズスの人間性を通じてわれわれに来ると教えた。諸聖人はマリアの仲介はわれわれの救いのために必要であると教えている。( The Fatima Crusader の 第11, 12号29 ページの聖アルフォンソ・リグオリによるこの主題に関する論考を見よ。)われわれはそれゆえにわれわれのために仲介してくださるようマリアに願わなければならない。われわれはまたマリアに対する真の信心を実践すべきである。

救いに関する神の御計画において、すべての人の側でのマリアに対する信心は救われるために必要である。なぜなら、彼ら自身の落度を通じてでなく救いのこの条件を知らない人々、神は、もし彼らが救いの他の必要条件を満たすならば、彼らを救い給うであろう。しかしそれはより大きな困難を伴ってであろう。というのは、もし彼らがマリアの強力な仲裁に依り頼んだならば、彼らの救いは彼らにとって遙かに容易であったであろうから。聖アルフォンソは、生涯の終わりまでマリアへの信心をやり通すマリアに依り頼む人は誰一人決して失われることはないと言っている。

神はマリアの汚れなき御心へのロシアの共同奉献から結果するロシアの回心と世界における平和とをマリアの汚れなき御心がどのようにわれわれを愛し、そして彼女の汚れなき御心がどのように強力で重要であるかをすべての人々に論証するためにお用いになるであろう。この結果によって人々はマリアに対する信心の必要性を理解するようになるであろう。そこで神が世界平和とロシアの回心とを神がファチマ・メッセージにおいて設定なさった厳密な諸条件の実現に委ねられたのはこの理由のためである。このようにこの手段によって神は、憎しみと悪の組織化された勢力に対するマリアの愛すべき汚れなき御心の勝利を、一つの忘れることのできない仕方で公的に、明瞭に論証なさるであろう。1936年にシスター・ルチアにイエズス御自身がこのことを、なぜイエズスがロシアの共同奉献を、ロシアを回心させる前に必要なものとして要求なさったか、その理由としてお与えになった。注8)

カトリック教会の重要性を論証するために

カトリック教会は、第二バチカン公会議が教えているように、神のおきてによって救いのために必要である。カトリック教会の外部で誠意において生きている人々の救いはより困難である。なぜなら、彼らは救いのすべての手段、例えば、諸々の秘蹟、特に告解と聖体、そして彼らを確実に導くカトリック教会の教えの権威を持っていないからである。このように彼らの救いはたとえ彼らが誠意のうちにいるとしても、より困難なものとされるのである。

このように、神がなぜロシアの回心と世界の平和とを汚れなき御心へのロシアの共同奉献に委ねられたか、そのもう一つの理由は人類にカトリック教会の重要性と教皇および司教たちの権威の重要性を示すためである。われらの主はその御昇天の日にその使徒たちに地上における最高の権威をお与えになった。その使徒たちの後継者は教皇と司教たちである。それはイエズスがこう言われた時である。「私には天と地のいっさいの権威が与えられている。行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ。私は世の終わりまで常におまえたちとともにいる。」と。(マテオ28:18-20)。

彼らはイエズスの神の名において教え、神の民を支配し、すべての民に明瞭に神が公的ならびに私的生活において民から期待なさっていることを教える力を持っている。イエズスは教皇と司教たちに市民的権威によって妨げられることなく教会を支配する力、そして諸々の秘蹟と教会の準秘蹟によって霊魂たちを聖化する力をお与えになった。キリストによって彼らに与えられた司祭的な力はこの共同奉献によって世界に明らかにされるであろう。なぜなら、人類がこの共同行為の結実を理解するとき、彼らは単に平和をもたらすことにおけるマリアの役割を理解するばかりでなく、また救いと世界平和のための神の計画においてカトリック司教たちとカトリック教会が持っている非常に不可欠のそして独自的な地位をもまた理解するだろうからである。

共同奉献の諸結果を通じて神はまた教皇の首位性の重要性をも強調することを望んでおられる。教皇の首位性は単に名誉の首位性ではなく、裁定の首位性であって、それは、もし教皇がある特別の日にロシアを共同的に奉献する行為において彼に加わるように司教たちに命令することによって1930年のシスター・ルチアの忠告に従うならば、見られるであろう。

カトリック司教たちがすべて聖母に対する従順において教皇と一緒に行為するとき、彼らがなすことができる非常に大きな善はまた彼らがマリアの指定に従ってマリアの汚れなき御心に対するロシアの奉献の共同行為を最終的になすとき、際だって論証されるであろう。

希望と懸念

この点において希望のもてることがたくさんある。教皇ヨハネ・パウロ二世は奉献のこの行為をする彼の乗り気を私的にまた公的に示してこられた。今彼はただ多くの司教たちの道徳的支持を待っておられるだけのように思われる。

およそ3700名の世界のカトリック司教たちの500名以上がすでにロシアの奉献の共同行為に対する彼らの支持を表明した。ポーランドおよびアメリカ合衆国の司教会議は共同奉献の行為を一致してそして公的に支持した。

しかし希望すべき理由が存在する一方で、重大な懸念もまた存在する。世界中の多くの司教たちは世界に平和をもたらすために神が命じておられるこの必要条件を知らないように思われる。シスター・ルチアは、多くの司教たちがこの点において神によって与えられた彼らの役割を果たすことができるために一つの熱心な準備が必要であろうと感じている。彼女は信徒の側でのもっと多くの祈りがこの意向のために必要とされていると感じている。

聖母は彼女の愛する者たちを守られるであろう

奉献の共同行為が間に合うように起こらないであろう、そして核戦争が起こるであろうと懸念している人々のために、われわれは、自らを聖母の汚れなき御心に奉献し、そしてファチマのメッセージを生きてきた人々のために、聖母は、たとえ彼らの周りの他の人々が世界に平和をもたらすために聖母の要求を実現する彼らの役割を果たさなかったとしても、彼らを守られるであろうと彼らに保証したい。このことは、1945年8月に原子爆弾の炸裂がヒロシマを襲ったとき顕著な仕方で証明された。

「ファチマ・メッセージの力は1945年8月6日ヒロシマでの原子爆弾の爆発の間全世界のために明白にされた。一人のドイツ人イエズス会士と彼の七人の同僚たちは核爆発の中心からわずか8ブロックの所に住んでいた。しかし彼らは全員、燃え上がる死が彼らの周り全部に絶叫していた間に逃れた。この日まで、その建物の8人すべての住人たちは、かなり遠く離れて住んでいた他の人々が恐ろしいホロコーストの放射能の影響から死に続けている間も生きて元気である。数年間にわたって200人ほどの科学者たちが、何が彼らを火葬からあるいは放射能の致死的嵐から守ったのかを発見しようと努めながら、これら8人の生存者たちを検査した。合衆国のテレビで話しながら、ドイツ人イエズス会士、フーベルト・シフナー神父は驚くべき答を与えた:「あの家では毎日ロザリオが唱えられていた。あの家ではわれわれはファチマ・メッセージを生きていた。」彼の言葉は1977年のシスター・ルチアの陳述を強調していると思われた:『聖母は彼女のすべての愛する者を守られるでしょう。』」注9)

  1. この書物の103--107ページを見なさい。この主題に関するより完全な取り扱いについてはこの書物の83ページから始まる第 V 部全体をも見なさい。

  2. この論考が最初に公表されて以来、教皇は再び世界をマリアの汚れなき御心に奉献された。彼は1984年3月25日にこの奉献をなさった。これは教皇自身が実際に彼に加わるように世界の司教たちを招待された最初の時であった。この行為はまたファチマの聖母の要求を満たさなかった。単にすべての司教が教皇に加わらなかっただけではない。-- それは特殊的にロシアの奉献ではなかった。1984年3月25日のこの行為に関するより詳細な報告はこの書物の193ページ以下、196ページ以下、および202ページ以下を見なさい。

  3. この問題に関しては、 The Fatima Crusader , Issue No. 11-12 の23 ページにある1936年5月18日づけのシスター・ルチアの手紙の引用を見なさい。この書物の 521 ページも見なさい。

  4. それは彼らがマリアの汚れなき御心への彼らの奉献を生きるという要求を含んでいる。

  5. The Fatima Crusader , Issue No. 11-12 の 28 ページにあるこの問題に関して公表されたアロンゾ神父の結論を見なさい。またこの書物の 529 ページをも見なさい。また Approches Magazine , Issue No.80 において公表された1983年1月16日の Father Joseph de Sainte-Marie の手紙をも見なさい。

  6. Francis Johnston の "Fatima the Great Sign" を見なさい。

  7. 聖ルイ・ド・モンフォールが言っているように、「今この恵みを見出すために、われわれはマリアを見出さなければならない。」(マリアの秘密 -- No.6 )

  8. さらに、1936年5月18日づけの手紙においてルチアは次のように書いた:

    「ロシアの奉献を手にするために強調することが都合がよければ、他の諸々の質問についてはどうでしょうか? 私は他の機会に応えたのとほとんど同じ仕方で答えます。それはまだ為されていないことは残念です。しかしそれを要求なさった同じ神はそれを許容された同じ方です...私には、もし教皇様がそれを今直ちになされたならば、神はそれを受け入れられ、そしてその御約束を実現なさると思われます。そして何らの疑いもなく、この行為を通じて、教皇様はわれらの主とマリアの汚れなき御心を喜ばせられるでしょう。私は親しくその主題についてわれらの主に話しました。そしてそれほど以前ではないですが、私は主に、なぜ主は教皇があの奉献をすることなしにロシアを回心させられないのか、その理由をお尋ねしました。(主はこうお答えになりました)『なぜなら、私は私の全教会があの奉献をマリアの汚れなき御心の勝利として認め、その結果教会がその信心を後に広めそして私の聖心に対する信心の側に汚れなき御心に対する信心を置くようになることを望んでいるからだ』と。『しかし、わが神よ』(とルチアは答えた)『あなた御自身がある特別の霊感をもって彼を動かされない限り、教皇様はおそらく私を信じられないでしょう。』と。(われらの主は答えられた)『教皇、教皇のためにたくさん祈りなさい。彼は奉献を行うであろう。しかしそれは遅いであろう。それにもかかわらず、マリアの汚れなき御心はロシアを救うであろう。それは彼女に委ねられたのだ。』」("Fatima :The Great Sign" by Francis Johnston, p.87, 1979,)

  9. "Fatima :The Great Sign" by Francis Johnston, pp.139, 140 を見なさい。

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2004/12/01 三上 茂 試訳

作成日:2004/12/01

最終更新日:2004/12/01

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