ファチマの聖母マリア

世界の奴隷化か、それとも平和か...
それは教皇にかかっている

ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち

神に従うことが平和を促進する唯一の効果的な手段である

政治、外交、そして合法的な自衛でさえ、もしそれらが神の諸々の要求の実現に秩序づけられていないならば、われわれを救うことはできないであろう。ここに故ハーミッシュ・フレイザーは、単に世界平和が司教たちとあなたに依存しているばかりでなく、ファチマを通じて以外に平和を達成するいかなる他の道もないということを指摘している。彼はまた神の平和計画を促進するために司教たちに請願を提出する必要性を示している。

四つの事実

今日非常の多くの政治家や教会人たちが核ホロコーストによる絶滅の非常に現実的な危険に心を奪われているがゆえに、次の諸事実に注目することが必要である:

第一に、超大国が相互的絶滅に従事する能力を持って以来「恐怖の均衡」の影の中で世界が生きているということである。ソビエトの SS20 中距離核戦力(IFN)が巡航およびパーシング中距離ミサイルによって相殺されたので、その均衡は幾分より微妙なものになったということが論議され得るとしても、それにもかかわらず、モスクワだけが中距離ミサイルの新しい世代を配備したとき、いかなる取り乱した反 SS 20 論争も存在しないということは最も重要なことである。

第二に、もし核ホロコーストが引き起こされるならば、それは明らかに罪の結果であろう。罪は聖書(聖ヤコブ第4章第1節)とファチマの聖母 注1)の両者が戦争の原因であると宣言しているものである。

第三に、もし核ホロコーストが生命と財産の両方の前例のない破壊に結果するならば、それは今日、これまで以上に世界が罪のより大きな重荷によって押さえつけられているということが真であるからに他ならない。なぜなら、今日われわれは単に個人的な罪を考慮しなければならないだけでなく、また、神の諸々の律法を無視して国家のまさに憲法の中に胎児を殺す「権利」を書き込んだ道徳的自由放任に由来する社会的、構造的な罪をも考慮しなければならないからである。このことはすべての共産主義国家について真であるばかりでなく、たいていの「民主的」諸国家についてもまた真である。

それゆえに、もし人が神を信じるならば、それは確かに明らかでなければならない。戦争は罪の結果であり、そして罪に対する罰であるから、合法化された中絶の継続した存在は超大国の兵器庫におけるミサイルの単なる数や種類よりもはるかに神の怒りを引き起こし、核の懲罰を解き放ち易いのである。

第四に、このことがそうであるならば、神を信じ、聖書を真剣に受け取るどの人にとっても、もし核ホロコーストが避けられるべきであるならば、このことはただ祈り、償いそして心の完全な変化によってのみ達成されるであろうということは明らかである。世界平和の日(1984年1月1日)のためのメッセージにおいて教皇は次のように言われたとき、このことを明瞭にされたのである:「人間が心の真の変化を持たないならば、平和の再確立はただ短期間のそして幻想的なものでしかあり得ない。」こう言うことにおいて、教皇ヨハネ・パウロ二世は単にわれらの主がすでにわれわれに告げられたことをわれわれに思い起こさせられたにすぎない:「...あなたたちも悔い改めないなら、みな同じように滅びるだろう。」(ルカ 13:3)

それゆえに、夜が昼に続くように、もしわれわれが核の懲罰の脅威を避けようとするならば、そして仮に懲罰が来たとき少なくともわれわれの不滅の霊魂を救おうとするならば、われわれは実際に「真の心の変化」を持つことができるように祈りと償いの見地から可能であるすべてのことをしなければならない。

しかしこのことは今度は、平和と霊魂たちの救いについて真に懸念しているすべての教会人が彼らの群れに現代世界の罪を償うために祈りと償いを行い、その回心をもたらすように呼びかけることを彼らの第一の優先事項としなければならないということを意味する。なぜなら、「心の真の変化」なしには軍縮と平和への進歩の見地から考えることは無益だからである。

祈り、償いそして回心の第一の必要性は、たとえ神の御母がファチマに来られなかったとしてもどの信仰するキリスト者にとっても明らかであろう。しかしながら、実際聖母は来られた。そして聖母のメッセージは世界を震撼させるものであることを証明した。それは言われたことのためばかりでなく、また、普遍的教会の教皇とすべての司教たちによってマリアの汚れなき御心にロシアの共同奉献がなされたならば、ロシアは回心し、そして永続的な平和が来るであろうという聖母の約束が本物であることを証明するために神が選び給うた手段による「太陽の奇跡」のためでもある。しかし聖母はまたこのことはただ、十分な数の信徒が聖母の要求に応じる場合にのみ、そして特に、彼らの生活状態に適切な日常の諸義務を果たすという償いをすることによってのみ、起こるであろうということをも明らかにされた。さらに、ファチマの聖母の基本的なメッセージが、ボルシェヴィキ革命の前、ケレンスキーのロシアが世界における最も民主的な国家としてまだ歓迎されている時である1917年に三人の文盲の農民の子どもたちに与えられたということに注目しなければならない。

教皇とファチマ

二つの別々の機会 -- ファチマで1982年5月13日に、そして公会議教父たちが列席した1983年10月16日 -- にマリアの汚れなき御心に全世界(しかし、特殊的に(名を挙げての)ロシアの奉献でなかったのは残念!)を奉献することにおいて、-- そして今や世界のすべてのカトリック司教たちに再び世界を(しかし特殊的にロシアでなかったのは残念)奉献することにおいて彼に加わるように求めることにおいて、その先行者たちに従うことによって、教皇ヨハネ・パウロ二世は彼が絶えず共同奉献の見地から考えていることを示された。しかしながら、彼が普遍的教会の司教たちに聖母によって要求された特別な仕方で 注2)ロシアの奉献を引き起こすようにまだ敢えて命令されてこなかったという事実は次の二つの事柄を示していると思われるであろう:第一に、「実質的な分裂」に対処しなければならず、そして「形式的な分裂を恐れて」注3)いて、彼はまだ聖母が要求しておられることをすることができないということ。そして、第二に、「十分な数の人々」がファチマのメッセージにまだ応じていないこと。なぜなら、シスター・ルチアが言ったように、マリアの汚れなき御心へのロシアの共同奉献の恵みが神によって許されるのは「十分な数の人々」がそうするときにだけであるからである。

それゆえに、このすべてのことの論理は、ファチマのメッセージに応じるようにわれわれが促進することができるあらゆることをなすことに加えて、われわれはまたわれわれの司教たちに、祈りと償いを求めるだけでなく、またそれに多くが依存している共同奉献を実現することにおいて教皇に加わる彼らの個人的な乗り気について教皇に保証するように求めて、請願をしなければならない。なぜなら、位階的な教会においては、信徒を効果的に動員することができ、そして同時に至高の教皇による教会の効果的な支配を手助けすることができるのはただ司教たちだけだからである。

『ファチマ:二十世紀の預言』において、現代の優れた神学者、ヨゼフ・ド・サント・マリー神父はこう述べた:

「預言者の言葉が神からのものであるかどうかを識別することは教皇の役割である。しかし与えられた預言が実際神からのものであるとひとたび彼が裁定し、認めたならば、そのとき彼は従わなければならない。それは預言者に従うものとしてではなく、預言者がその方の道具である神に従うものとしてである。...だからこそ...聖母に従い、そして聖母がファチマでなさった要求を実現することは教皇と司教たちの義務である。」

  1. 「戦争は罪に対する一つの罰である。」Fatima, The Great Sign, p.84を参照せよ。聖ヤコボ、第4章第1節はこう述べている:「あなたたちの中の戦争と争いはどこから来るのか。肢体の中で戦っている欲望から出るのではないか。」

  2. The Fatima Crusader , Issue No. 11-12, No. 13-14, 特に Issue No. 13-14, p.3 にあるシスター・ルチアの最近権威づけられた陳述を見よ。またこの書物の p.160 および p.161 をも見よ。

  3. 1983年8月27日の The Wanderer の付属代表の教皇庁立家庭委員会の長エドゥアルド・ガニョン枢機卿によるインタビューを参照せよ。 The Fatima Crusader ,Issue No. 15, p.15 を見よ。

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2004/12/02 三上 茂 試訳

作成日:2004/12/02

最終更新日:2004/12/02

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