ファチマの聖母マリア

世界の奴隷化か、それとも平和か...
それは教皇にかかっている

ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち

バチカン・モスクワ協定

Jean Madiran 著

この協定はロシアの共同的奉献に対する真の障碍である。バチカン国務省はアゴスティノ・カザロリ枢機卿(彼はバチカン・モスクワ協定の結果であるバチカンの東方政策を促進していることで悪名高い)の指導の下に、バチカン・モスクワ協定が教会にとって破滅を招くものであるということが後智慧でもって明らかとなっているとしても、この裏切りの協定に従って教会の公務を統制し続けている。教皇ヨハネ・パウロ二世とラッツィンガー枢機卿は彼らの公的な陳述の中でバチカン・モスクワ協定に対する彼らの幻滅をほのめかした。

この啓発的な論考はわれわれの時代にとってのファチマの聖母のメッセージの不可欠の重要性に新しい光を投げかける。それは、今日までなぜロシアを奉献するようにというファチマの聖母の命令が従われてこなかったのか、その理由をさらに深く理解する助けとなる。バチカン・モスクワ協定の存在はここでカトリックと共産主義の両方の資料から示されている。この論考が1984年2月にフランスで最初に公表されて以来、バチカン・モスクワ協定の存在は再び確証されてきた。

この論考においてはローマ・モスクワ協定はバチカン・モスクワ協定のことを言っていることに注意してください。この論考はフランスの雑誌 "Itineraires" から取られている。星印 * を付けた副題は The Fatima Crusader の編集者によって付け加えられたものである。

一つの協定が存在した *

聖座とクレムリンとの間に秘密の交渉が行われた。一つの協定が調印された。ローマは約束を守ってきた。それは昨日からの日付を表すのではなく、一昨日からの、1962年からの日付を表すものであるけれども、その協定が今なお効力を有しているあらゆる徴候がある。今や20年以上にもわたって、共産主義に対するカトリック教会の普遍的態度は教会がソビエトの交渉相手に対して容認した約束によって支配されてきた。

私は何らの秘密をもばらしているのではない。私は誰もが知るべきこと、誰もが忘れていたこと、あるいは決して知らなかったこと、あるいはさもなければ常に知らない振りをしてきたことを思い起こさせようとしているのである。

しかし、三つの事柄が1962年に共産党の新聞およびカトリックの新聞の両者の中で公表された:1)交渉の存在。2)協定の結論。3)聖座によってなされた約束。問題の要点は言葉と印刷において述べられてきた。しかし一般の注目を逃れた。最も情報通の時事問題解説者たちもはにかんで彼らの目を閉じた。"Itineraires" において以外には正確な解説は何もなかった。真実のものであれ、あるいはそういう振りをしたものであれ、忘れっぽさが当時普遍的であったので、今日無知は全般的である:事態はそのようであったので、昨年12月30日に "Present" において事柄全体を数行に要約したとき、私は最も情報通の人々そしてしばしば会っていた人々の間に軽蔑の、あるいは怒りの不信を伴った驚きを巻き起こした。

本質的な諸事実 *

ここに私が要約において言ったことがある:「ヨハネ二十三世はソビエトの交渉相手モンシニョール・ニコディムにロシアの人民あるいは国家を攻撃しない約束を認めた。このことは、ロシア正教会のオブザーバーが公会議に参加するためのモスクワの許可を確保するためになされた。そのとき以来、聖座はヨハネ二十三世の約束によって自らが今なお縛られていると考えてきた。共産主義はもはやどの教皇文書においても決して語られることはない。」

これらの行を読んで人々は、あたかも彼らがその交渉あるいは約束について一度も聴いたことがないかのように反応した。しかし、それはすべて当時の "Itineraires" において公表された。

われわれは、常にわれわれと共にそれらを心に留めてくれたわれわれの古い読者たちに、われわれが諸々のテキスト、日付そして事実をここに再び与えている通りに、覚えてくれることを願う。それはほとんどすべての人々にとって何か新しいものとして来るであろう。

I. モスクワによって設定された条件

1961年11月、第二バチカン公会議の始まる1年前に、クレムリンはモスクワ総大主教区の代表者たちがオブザーバーとして公会議に来てその仕事を続ける権限を与えるためにバチカンに設定した条件が何であるかを公式に知らせた。

モンシニョール・ニコディム聖下 *

クレムリンのスポークスマンは、たまたまそうであったように、フランス共産党の主要機関紙、リュマニテが彼をうやうやしくそう呼んだように、モンシニョール・ニコディム聖下であった。このモンシニョール・ニコディムは1978年に短命であったヨハネ・パウロ一世の腕に抱かれてローマで死ぬ前に最終的にキリスト教に回心したと思われる人物である。彼はかつては公式的なロシア教会の管理団体に任命されたK.G.B.要員であった。彼は1929年に生まれた。そして教会の中で輝かしい経歴を持っていた:すなわち、20歳で司祭、25歳でヤロスラフ司教座聖堂主任司祭、26歳で聖地における宣教の長、30歳で総大主教事務局長、31歳で司教およびモスクワ総大主教区、すなわち、ソビエト国家および共産党の道具である公式的な正教会、の対外関係部長となった。

1961年11月にニューデリーでの世界教会会議への総大主教職の加入を取り決めたのは彼であった。それは、彼が、「もしわれわれの愛する国に対する敵対的な宣言がないならば」モスクワの総大主教区からオブザーバーが参加してもよいと宣言しながら、クレムリンによっていかなる条件が設定されたかを述べたのはその機会であった。

彼はこう続けた:「バチカンは政治的なレベルにおいてソビエト社会主義共和国連邦に対してしばしば攻撃的である。キリスト教徒、ロシア正教会信徒であるわれわれはわれわれの国家の忠実な市民であり、われわれは祖国をいたく愛している。だからこそ、われわれの国家に反対する目的をもったものは何であれ、われわれの他国との関係を改善することはないであろう。」

モンシニョール・ニコディムのこれらの陳述は秘密ではなかった。それらは後にフランスにおいて、 "Information catholique internationales" 1963年1月1日号の p.29 および 1963年2月の "Itineraires(Number 70)の p.177-178 で公表された。

われわれは、交渉が行われたこと、そしてまさにこれを基礎としてローマとモスクワとの間で一つの協定が締結されたということをその当時まだ知らなかった。われわれは、ロシア正教会のオブザーバーたちが、公会議の開会式のために1962年10月に最終的にローマに到着したということを知った。さらに、われわれはモスクワによって公的に設定された予備的条件の完全な意味を把握した。

われわれはそれを "Itineraires" の同じ号で説明した。

「モンシニョール・ニコディムの行動態度 -- それは驚くべきものである -- は彼自身の愛国主義に与えるであろう無礼に抗弁することによって、共産主義のすべての批判を禁止することから成り立っている...共産主義に対するすべての批判はモンシニョール・ニコディムによって彼の国に対する攻撃と考えられている。」

「バチカンはロシアの国、ロシアの人民あるいは国民に対していかなる憎しみも持っていない。しかしながら、クレムリンの熟練した秘密情報員として、モンシニョール・ニコディムはロシア人民と国家を共産主義と同一視する。「愛国心」の名において、彼は宗教的な会話のための優先条件として共産主義に対して表明されるどんな苦情をも持ち出さないことを要求する...」

「この方策によって公会議がわれわれの時代の最大のドラマ、最大の悪、最大の犯罪について一語も話さないということを保証することが実際モスクワにとって第一の目的である。われわれはこの最終提案がさらなる秘密交渉の主題であったかどうかを知らない。しかしこの最終提案が公的に明確に述べられたということは誰もが見ることができる。」("Itineraires".No.7, February 1963).

実際、われわれは、1963年1月の月にわれわれがこれらの言葉(それはわれわれの[雑誌の]2月号に載せられた)を書いたとき、まだ知らなかった。われわれはただ、モスクワが正教会のオブザーバーたちの参加の条件を提出したということ、-- そしてこれらのオブザーバーが最終的に来たということだけを理解した。しかし、われわれはほとんど直ちにその交渉が実際行われたということを知らなければならなかった。

II. ローマとモスクワとの間で協定が締結された。そしてその約束は聖座によって為された

その協定を最初に明らかにしたのは共産党新聞であった。そしてこの点に関してそれは決して否定も反駁もされたことはなかった。他のものもいろいろあるが、「党の指導的な週刊誌」"France nouvelle" を引用しよう。それは1963年1月16-22日号の p.15 に次のように書いた:

「世界の社会主義体制はその優越性を議論の余地無く示し、数千万という多くの人々の是認を享受しているからして、教会はもはや不作法な反共産主義に満足し続けることができない。教会はロシア正教会との対話の機会に、公会議における共産主義体制に対するいかなる直接的な攻撃もないであろうという保証を与えさえした。

われわれは "France nouvelle" からのこのテキストを次の注釈をつけて、"Itineraires" No. 72, of April 1963 (p. 43)に再現した:

「同じ新聞の他の個所で、そして共産党プロパガンダ一般において、公会議の主題に関して、あたかもそれが正式に締結された明白な協定の文字通りの節であるかのように、同じ決まり文句が繰り返されている:『共産主義体制に対するいかなる直接的な攻撃もない!』と。」

「このことが、何らの明白な反応を引き起こすこともなしに、公然と言われ、また繰り返されてきたということは注目に値することである。あるアメリカのプロテスタント教会がオブザーバーの派遣のための一つの条件として「アメリカの生活様式と資本主義体制に関していかなる直接的な攻撃もない」ということを公式に述べたと想像してみよう。それに続くプロパガンダがこの点に関して言質を得たと自慢したと仮定してみよう。カトリック新聞にはどのような騒動があることであろうか!もしアメリカの「生活様式」と「資本主義」が要求し、それらが公会議についてそのように排他的で制限的なそのような巨大な支持を得たということを主張することにおいてただ独りのものであったならば、ますますそうであろう。」

III. 事実と詳細は 『ラ・クロワ』紙 "La Croix" において確証されている

数日後、『ラ・クロワ』紙の側では、その2月15日号の5ページに人目につかないがしかし重大な小記事を公表した:

「2月9日の "Le Lorrain" 新聞はシュミット司教によってジャーナリストたちに与えられた談話の報道を公表した。いくつかの興味深い詳細がロシア正教会からのオブザーバーたちのローマへの出席の背景に関してメッツの司教によって与えられた。ティッセラン枢機卿がロシア教会の外国問題の責任を担っている大司教、モンシニョール・ニコディムに会ったのはメッツにおいてであった。そしてモンシニョール・ヴィッレブランズがモスクワへ持って行ったメッセージが準備されたのはそこでであった。8月の最初の2週間にパリに来たモンシニョール・ニコディムはティッセラン枢機卿に会いたいと表明した。その会合はラガルド神父の家で行われた。ラガルド神父は常に国際的諸問題に献身してきたボルド Borde の Little Sisters of the Poor の修道院付き司祭である。この議論の後、モンシニョール・ニコディムは、公会議の非政治的な態度に関して一つの誓約が与えられるならばという条件で、誰かが招待状を持って行くためにモスクワに行くべきであろうということに同意した。」

『ラ・クロワ』紙におけるこの報道は、雑誌 "Itineraires" 以外には誰によっても気づかれなかったと思われる。雑誌 "Itineraires" はそれをすでに述べた1963年4月号において再現し、そして次のような言葉でそれについて論評した:

「これは正確には共産党の主張の否定ではない。それはむしろ『誓約』の存在の確証である。『公会議の非政治的な態度に関して一つの誓約が与えられるならばという条件で』という文言はやや曖昧で、両義的であり得るであろう。一つの意味において、教会、その教義そして公会議は確かに『非政治的』であり、そして公にそしてしばしば自らそうであると宣言している。別の意味において、教会は一つの政治的道徳を公言している。そしてこの道徳は直接的に共産主義体制を非難している。教会がすべての政治的道徳を断念し得ると想像することは困難である。そして政治的道徳が突然共産主義に関して中立的あるいは無関心になるべきであるということは不可能である。」

「そこにおいて教会が『非政治的』であるという意味において、合法的、首尾一貫したそしてある意味において、回勅 "Divini Redemptoris" は『非政治的な』回勅である。それは宗教的および道徳的な回勅である。モンシニョール・ニコディムがただその種の『政治的中立性』のためにのみ『誓約』を強く要求したということはありそうもない。教会が共産主義体制に対するいかなる直接的な攻撃もない!であろうという保証をを与えたという主張が、出回ることを許されている -- そして囁かれてではなくて、声高に宣言されてそうである -- ということは遺憾なことである。」

「もちろん、言葉遊びをすることはできる:教会は実際決して何かあるいは誰かを『攻撃する』ことはない、と。教会は人間人格の自然的および超自然的諸権利を擁護する。しかしながら、そのような区別はモスクワ総大主教区のソビエト支配体制を満足させることはありそうもない。」

「ソビエトの戦略を理解することは容易である。彼らは教会を妥協させそして信用を傷つけたいのである。彼らは、不正を非難するという名において、すべての『反...主義』:すなわち、反資本主義、反植民地主義、反家長制度、反協調組合主義、反統合主義、等々 -- 一つを除くすべての反...主義:反共産主義は駄目 -- の側に立って猛烈に闘争するいわゆる『進歩的』傾向をもった路線へと教会を落ち込ませたいのである。」

「世界に対する彼らの最初のメッセージにおいて、公会議の教父たちは目に余る不正を公然と非難することは教会の義務の一部であると荘厳に断言した。もしその過程で、教会が現代世界における最も目に余る不正に対して沈黙を守ったならば、教会はどのようにしてそうできるであろうか?  -- その不正とは、かつて存在した、最も高度に完成された人間による人間の搾取、すなわち共産主義体制の不正である。教会は善意の不信仰者たちの目から見てすべての道徳的権威を失うであろう。教会は自分自身の信徒の精神を混乱させるであろう。」

その当時、われわれは共産党の要求の正確な意義を分析したけれども、聖座がそのように完全に罠の中に落ち込むだろうとは想像することができなかった。それゆえ、われわれの論評はこうつけ加えた:「これは完全に不可能であり、そしてそのことは起こらないであろう。いくつかの地方教会が、さまざまの理由で、たまに現代のすべての不正の中でも最大の不正に対してこの一方的、組織的な沈黙に巻き込まれたことはあった。教会の歴史においては、しばらくの間、多かれ少なかれ病んでいる教会の団体、いくつかの地方教会の何人かの成員たちが常に存在し得るし、そしてしばしば存在してきた。公会議に集まった普遍的教会はまったく別の問題である。」

「しかしながら、共産主義者たちは現代の世界における教会の道徳的影響力を破壊するために、共産主義体制に対するいかなる直接的な攻撃もないという言質が実際に与えられたのだという信念を大胆不敵にも広めようと努力している。」

それにもかかわらず次の事実は残る:公会議の間にもまたその後にも、「共産主義体制に対する直接の攻撃」は何もなかった、という事実は。今なお何もない。ときどき「唯物主義的」諸哲学や「全体主義的」イデオロギーに対する警告 -- 常に一般的な用語でそしてしばしば曖昧な -- はある。共産主義はもはやその名によって呼ばれることは -- 決して -- ない。

IV. - 好意的な解釈

翌年、"Itineraires" の 1964年6月号(No.84, p.39-40)において、われわれはそれに対して最も好意的な解釈を施すよう努力しながら、問題全体を再び取り上げた:

「公会議の第一会期におけるソビエトの正教会オブザーバーたちの出席はモンシニョール・ニコディムと交渉された。その交渉は1962年にメッツにおいて行われた。モンシニョール・ニコディムとティッセラン枢機卿は招待のメッセージを準備した。それはモンシニョール・ヴィッレブランズがそのときモスクワへ持って行く権限を公的に与えられた。交渉の中でモンシニョール・ニコディムは「誓約」を求めた。それについてはカトリックの情報源からはいかなる公的な情報も得られない...共産主義者たちは彼らの側で、カトリック教会が『ロシア正教会との対話の機会に、公会議における共産主義体制に対するいかなる直接的な攻撃もないであろうという保証を与えた』と公的に主張した。」

「公会議は共産主義について何も言わないであろうという保証が与えられたということはほとんど信じがたいことである。しかしモンシニョール・ニコディムが交渉を完全に曖昧な立場にもたらしたということは大いにありそうなことである。彼は、公会議が『非政治的』であり、そして『彼の祖国』を攻撃しない、という保証を求めた:すなわち、その保証は、それら自体与えるに容易であるが、しかしカトリックの交渉者とソビエトの交渉者にとって同じ意味を持たなかった。後者にとって、これらの保証は、共産主義に反対することは何も言われないということを意味した。曖昧さは明確化されなかったので、共産党の諸新聞はカトリック教会によって『与えられた保証』に関する彼らの見解を公的に宣伝することができた。そしていかなる否定にも出会わなかったのである。」

それは一つの「解釈の違い」 -- モンシニョール・ニコディムによって企まれた意図的な解釈の違いであった。そして破滅的な袋小路に終わった。公会議教父たちの多くは、教会が「世界のうちに存在している」ということを教会に示すよう熱心に望んでいる。全体的な図式、図式17はこの主題に関して準備されている。しかし、共産主義の問題以外に、すべての大問題について話した教会は世界におけるいかなる種類の存在を持つであろうか? 教会はあたかも共産主義が存在しなかったかのように振る舞ったのか? 教会は資本主義、人種主義、低開発、社会正義:すなわち、共産主義以外のあらゆることについて語ったのか? そうである。しかし、もちろん、与えられなかった保証、しかし二つの当事者たちの一方が与えられたと宣言し、そう見なしている保証を破るように見えることなしにそれはどのようにして議論され得るのか?

「この破滅的な袋小路は、もしモンシニョール・ニコディムの人物、経歴そして実際の振る舞いがもっとよく知られそして理解されていたならば、避けられたであろう。」

1963年および1964年に、われわれが最も好意的な解釈を守ったことをわれわれは後悔していない。人は常にこの道を始める義務を持っている。それが明らかに擁護できないものとなったときに、それに固執しないことは正しいことである。

  1. われわれはラガルド神父について何も知らない。「彼は常に国際的な諸問題に献身してきた」と奇妙にも言われている神父である。われわれは、これはわれわれの出る幕ではなかったし、またわれわれは他の人々がそうするであろう、あるいはそうしてきたと考えたので、当時彼については調査しなかった。ただ歴史的回顧においてのみそうであるが、今日でも、この人物像につて正確な情報を得ることは興味のあることであろう。

  2. 他方において、われわれはその邸宅でニコディム・ティッセラン交渉が行われた司教を非常によく知っている。すなわち、1958年以来メッツの司教であるモンシニョール・パウル・ヨゼフ・シュミットである。1962年の交渉の数年後、-- 1967年と1968年に -- 彼は、世界における変化はイエズス・キリストによってもたらされた救いの観念において、そして世界のための神の計画の観念において、同じような変化を含まなければならないと宣言しながら、完全に公開の場へと出て来た。彼はまたこう述べた:「われわれはマルクス主義者たちがわれわれに対して為している非難を考慮しなければならない。十九世紀の後に、キリスト者たちは経済を人間に奉仕させることに成功しなかった。」

    「人間による人間の搾取は今なお一つの悲劇的な現実である。」モンシニョール・パウル・ヨゼフ・シュミットは、政治的道徳においてと同様に宗教において、われわれの書物『二十世紀の異端』 "L'Heresie du XXeme siecle" (第一巻)の主題を形成する現代の司教の異端のまさに受肉である。

  3. ティッセラン枢機卿は第一級の時のドゴール主義者(おそらく彼はそうであった)そして頑固な反共産主義者(これは遙かに確実ではない)と考えられることを好んだ。私は常に、彼は悪漢であると感じていた。まったく多くのことが彼について言われ得るであろう。いずれにせよ、交渉での彼の列席は意図の潔白と純粋性の何らの保証でもなかった。私はモンシニョール・ニコディムが彼を罠にかけたと信じることはできない。すべてのことを考慮に入れると、私は、彼がどんな代価を払っても、交渉する望みを抱いた(あるいはある命令を受けた)と考えている。

  4. ローマとモスクワとの間で協定が締結される一年前に、ヨハネ二十三世は社会的回勅 "Mater et Magistra" を公表した。共産主義は、「共産主義とキリスト教との間の基本的な対立」を思い起こさせるために、なお名前を挙げられていた。(34 節)私はそれが教皇文書において(このことが為された)最後の機会であったと思う。そのときでさえ、その重要性は巧妙に減少させられていた。なぜなら、この想起は意図的に回顧的と見えさせられていたからである。それは以前の教皇の教えの予備的な要約において行われた。それはピオ十一世に帰せられたが、そのことは間違いではない。そしてヨハネ二十三世はそれに疑問を呈しなかった。しかしまた彼はそれを彼自身のものとすることもしなかった。そして彼はそれを繰り返すことを避けもしなかった。さらに、彼はただピオ十一世の回勅 "Quadragesimo Anno" だけに言及し、共産主義に関する彼の回勅 "Divini Redemptoris" にはまったく言及しなかった。これは一つの重要な欠落であって、単なるぼんやりから来たものではあり得なかった。

  5. 回勅 "Mater et Magistra" はバチカン・モスクワ協定より以前のものであるとしても、回勅 "Pacem in Terris" はその協定の後に出たものである(1963年4月11日)。従って、共産主義はもはや言及されていない -- 以前には、あるいは少し前にには、教会によって非難されていたということを思い起こすことさえしないで -- 。それゆえ、ローマは共産主義者たちに与えた誓約を守ったのである。

  6. 回勅 "Pacem in Terris" において、ヨハネ二十三世はこう宣言している:「...哲学的な定式はそれがひとたび正確な用語で決定されたならば変化しない。」教義の全歴史とそれらの進展に明らかに矛盾する奇妙な主張である。しかしながら、ヨハネ二十三世の公言された意図は、この点から出発しながら、教会の非難の範囲を「人間と世界の本性、起源および目的についての誤った哲学」へと、教会の非難からかくかくしかじかの「経済的、社会的、文化的および政治的プログラムを、そのようなプログラムがその起源と霊感をあの[誤った]哲学から引き出しているとしても、免除しながら、巧妙に制限したのである。彼の見方に従ってみよう:教会はマルキシズムの教義を非難した。そしてこの教義もまた教会の非難もこれ以後変化することはできない。しかし共産主義者の運動は(よりよい方へ)展開している。それゆえ驚くべき結論が出る:「それゆえに、ときどき、ある実践的目的のために取り決められた会合が -- それらがこれまでまったく無益であると考えられていたとしても -- 実際現在にあっては実り多いものである、あるいは少なくとも成功の見通しを与えるということも、起こるかもしれない。」(CTS Edition paragraph 160).* このようにして、ヨハネ二十三世は「それゆえに、キリスト教文明を絶滅から救おうと望む者は誰も、何であれいかなる試みににおいてもそれ(共産主義)に援助を与えるべきではない」("Divini Redemptoris, 22)という教皇命令を不正に撤回しているのである。

    * イギリスの Catholic Truth Society.

  7. 実際、"Pacem in Terris" における Paragraph 159 および 160 の寄せ集めすべては教会位階によって、共産主義(およびマルクス主義的社会主義)の利益のため以外には決して適用されなかった -- ファシズムあるいは自由主義には決して適用されなかった。あらゆる教義に適用可能であらゆる運動に利益を与える一般的規則の人を誤らせる外見にもかかわらず、それはただ共産主義だけに便宜を与えるために為された一つの言い訳にほかならない。

  8. そして今や、ほとんど四半世紀の歴史的展望から事柄を考察するとき、われわれは、共産主義に直面して聖座が自発的に一方的武装解除を実行したということをもはや疑うことはできない。われわれはまた、もちろん、教会行政の中心的な諸機関が、われわれが知ったように、近代主義者たち(彼らは場合に応じて、知っていて、あるいは知らずに、フリーメーソンの予備軍である)によってばかりでなく、また共産党のスパイたちによっても潜入されてきたと考えるあらゆる理由を持っている。それゆえ、まさに頂点における情報の組織的な歪曲があるのである。しかしながら、ヨハネ二十三世からの諸教皇の共産主義に対する態度が彼らが欺かれてきたという事実からのみ来ていると考えることはもはや不可能である。

目次へ

2004/12/22 三上 茂 試訳

作成日:2004/12/22

最終更新日:2004/12/22

World Enslavement or Peace...It's Up to the Pope: Section VIII; Chapter2 へ

マリア様のページへ

トップページへ

inserted by FC2 system