ファチマの聖母マリア

世界の奴隷化か、それとも平和か...
それは教皇にかかっている

ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち

現代、カトリック教会は裏切られている

バチカン・モスクワ協定に責任のあった人々は教会を裏切った。われわれはそれが意図的な、悪意のある裏切りであったとは言わない。しかし後智慧はそれが神の都を裏切ったということを証明した。この損害の大きい条約はそれによって世界中のカトリック者たちが裏切られた宗教的裏切りの行為を構成している。それは聖母の要求の実現を妨害している。そしてその結果としてロシアはその諸々の誤謬を広め続け、そして多くの人々は世界の多くの場所で戦争と飢餓に苦しみ続けている。聖母はファチマで、もし人類が改心しないならば、世界はその罪のために戦争、飢餓、そして教会と教皇の迫害によって罰せられるでしょうと言われた。

バチカンにおける裏切り

われわれは先行の論考を、われわれにとって真理を知ること -- バチカンが世界的な共産主義の司令部、すなわち、モスクワと、その理論並びにその現在の実践における共産主義の本質的に道理に反した性格を非難しないために、一つの協定を結んだということを知ることが重要であるがゆえに、その全体において公表する。この協定はそれ自身において一つの裏切りの行為である。

この裏切りの協定の中へと入り込んだ人々の道徳的正しさを判断することはわれわれの目的ではない。実際、 The Fatima Crusader , Issue No.16 において、われわれは、バチカンが第二バチカン公会議への招待を受ける K.G.B.メンバーたち(ロシア正教会の司教たちの装いをした)のためにではなくて、はるかに基本的な理由のためにこの協定を結ぶことへと導かれたということを示唆した。すなわち、その主要な敵、悪魔によって、苦痛と死の彼の第一の道具、すなわち、鉄のカーテンと竹のカーテンの共産党および共産主義政府を通じて傷つけられたキリストの神秘体(カトリック教会)の上に加えられた数千万人の死と殺人において[そうした]、と。

確かに、われわれは流血、身体的および道徳的な拷問、そしてわれわれの同胞であるカトリック者たちの投獄を終わらせる目的のために大いに祈り、そのために働く。神を憎むこれらの人々そして神を信仰する人々によって残酷にまた恐ろしく迫害されているキリストにおけるわれわれの兄弟たちのこの正当化されない迫害はできる限り早く止められなければならない。しかし、それはわれわれの霊魂の明け渡しという代価を払ってであってはならない。むしろ、そのことはファチマの聖母がわれわれに、歴史のこの極端な危機のこの時期に利用しなければならないと仰った霊的武器によってなされなければならないのである。

われわれはバチカンがそのような協定を結ぶ気にさせられた動機に共感する(われわれ自身 The Fatima Crusader ,Issue No.16 において表明したように)*。われわれは、2,3年以内の非常に短期の政策としてそのような政策はおそらく道徳的に正当化され得るであろうと示唆した。

* この書物の p.263 から p.268 を見よ。

しかしながら、われわれの陳述に対する上述の諸制限のすべてを注意することが大切である。われわれは、そのような政策が長期間にわたっていつも正当化され得るとは言っていない。反対に、われわれは、それによってバチカンがロシアにおける共産主義体制に関して沈黙を守ることに同意したこの協定を悪として非難しなければならない。それは深刻に悪である。そしてそのものとして共産主義である悪の脅威と現実に直面して決して正当化され得ない。

バチカン・モスクワ協定はわれわれすべてを裏切っている

バチカンとモスクワとの間のそのような条約が、われわれの霊魂とわれわれの神から与えられた諸権利とを保護する仕事を与えられた人々による一つの宗教的な裏切り、聖なる信頼の裏切り、あなたと私に対する裏切りを構成するということで、われわれはマディラン氏に同意しなければならない。しかしこの裏切りは何よりもまずバチカンの高官たちに責任があると言うよりはむしろ良心の声に耳を傾けなかったすべての人々:-- キリストが「われわれが誘惑に陥らないように」と教えられたように祈らず、償いをしなかった人々;ファチマのメッセージを、(実際はそれは罪の苦痛の下で最も明白に拘束するものであるときに)自分たちを拘束するものではないとしてはねつけ、拒絶した人々;悪しき法律や実践を従順に受け入れる、等々、すなわち、例えば法律と実践における中絶で神に反する、ことによって教会において、また彼らの国において神の利益を守るために活動しなかった人々に責任がある。

またわれわれはバチカンの高官たちの側での弱さあるいは智慧の欠如に憤慨すべきでもない。

このことは、教会あるいは教皇が不可謬ではないということを証明するものではない。むしろそれは、われわれの罪のために、神の警告を心に留めなかったために、神による審判の宣告の結果としてわれわれに降りかかることが許されているのである。旧約聖書において、イスラエルは、彼らが神の預言者たちに心を留めなかったがゆえに、彼らの不従順と不信のために、投獄、死、奴隷化そして国外追放に苦しんだ。そのようにまた、われわれも新約聖書において、われわれが神の預言者、ファチマの聖母と彼女の選ばれた者シスター・ルチアとに従わない限り苦しむであろう。

なぜなら、不可謬性は、教皇が、あるいはバチカンが教会の行政において間違いをしないということを意味しないからである。それはまた、教会の指導者たちがそのように大きな誤謬を犯したから、教会が破産するということを証明するのではない。これらの弱さ、そして無分別な政策にもかかわらず、キリストの約束はなお善である。「地獄の門はカトリック教会に勝たないであろう」

ただファチマへの従順だけがそれを妨げ得たであろう

われわれは、バチカンがこの協定においてモスクワを出し抜いた、そしてこの協定のゆえに、教会がより有利であるというジョン・ハッファート氏に同意することはできない。またわれわれは、その協定は良いものであるに違いない -- ハッファート氏の意見によれば、ティッセラン枢機卿とニコディムとは二人の聖人であるから -- というハッファート氏に同意することもできない。もしニコディムが今日天国にいるとするならば、それは彼がこの協定を彼のソビエトの主人たちのためにバチカンに強いたがゆえにではなくて、むしろ、彼がわれわれすべてにこの裏切りをもたらす部分であったにもかかわらず、そうであっただけであろう。神の憐れみは大きく、そして真に痛悔する人々の大きな罪は神によって赦され得る。ティッセラン枢機卿に関しては、われわれは彼の誠意あるいは聖性(彼の列聖を求める訴訟はわれわれの知るかぎりこれまで起こされていない)を判断するとは考えていない。しかしわれわれは、この協定は彼の生涯において推薦に相応しい何かあるものを構成するものではないと躊躇することなく言うことができる。せいぜい良くても、それはおそらく単に一つの誠実な誤りと呼ばれ得るであろう。しかしティッセラン枢機卿のようなそのように高位の、そしてそのように知的な人によってなされたそのような誤りに対して実際精神は受けつけない。それにもかかわらず、われわれはまったき真理において、神の恩寵がないならば、われわれもまた、もしわれわれがティッセラン枢機卿の立場と同様の立場にいたならば、同じ誤りを犯したであろうと断言することができる。なぜなら、神の恩寵なしには、誰一人悪魔のたくらみやごまかしに抵抗することはできないからである。神の恩寵なしには、人は称賛、権力そして/あるいは快楽に対する堕落した人間本性の罪深い欲望に抵抗することはできない。この恩寵はわれわれ自身のファチマ・メッセージへの従順によってわれわれの指導者たちのために獲得される。だからこそわれわれは「ただ私だけがあなたたちを救うことができます」というファチマでの聖母の言葉の文字通りの真理を理解しなければならないのである。この危機において、われわれは次に、聖母の執り成しを通じて、特にロザリオ、スカプラリオ、5回の初土曜日の信心、そしてマリアの汚れなき御心へのわれわれ自身の奉献を通じて、そして最終的にわれわれの祈り、善き働き、そして請願によってロシアの共同的奉献を得ることを通じて、この危機の時代のために必要とされる恩寵を求めなければならない。

聖母はファチマでロシアについてわれわれに警告された

聖母御自身、ファチマでロシアが世界中にその諸々の誤謬を広めるでしょうと言われた。シスター・ルチアは、もしわれわれがファチマの聖母のメッセージに心を留めないならば、アメリカ合衆国を含む全世界がロシアによって奴隷化されるだろうと説明した。われわれは、それがいかに大きいものであろうと、単にソビエト・ロシアの軍事力に直面しているだけではない。確かに、もしそれが大きな軍事的、経済的な資力を持っていなかったならば、正当な理解力の持ち主はほとんど誰一人知的な教説と見なされる共産主義の諸々の愚かしさに注意を払わないであろう。しかしわれわれは物質的な力以上のものに直面している。われわれはイデオロギー的な戦争に直面している。この戦争は非常に知的にそして巧妙に遂行されている。それによって人類は、あるいはその一部分は、一般公衆に、彼らは反共産主義であるという印象を与えている北アメリカそして自由世界(西側)の他の地域における戦闘的無神論者たちによる報道機関の支配のゆえに、騙されている。しかしながら、実際は彼らは共産主義に賛成しているが、しかし敢えて一般公衆には彼らの内的な動機を明らかにしていないのである。

人が無神論的共産主義に関するその回勅における教皇ピオ十一世の書かれた発言を理解すべきであるのはこの脈絡においてである。「もし西側における報道機関の沈黙がなかったならば、共産主義はずっと前に死滅していたであろう。」ロシアがそのように多くの数千万人に対して人類にかつて知られた世界最悪の専制政治を課すことができたのはただ沈黙と公衆に与えられた誤った情報を通じてだけである。一方では、その短い67年間の歴史の中で1億3千500万人以上の男女、子どもたちを意図的な政策によって殺していたのである。-- この事実をよく考えてみなさい!にもかかわらず、これらの事実はメディアによって、そしてわれわれの世界指導者たちによって、またわれわれの聖職者たちによって、その大部分が沈黙のうちに見過ごされているのである。司祭たちは、神によって、われわれの踏みにじられた兄弟たちに対するわれわれの義務が何であるかを含むわれわれの良心を形成する仕事を与えられているということを思い起こしなさい。しかし、そうではない、ほとんど一語も話されない、なぜなら、諸々の事実はわれわれの目から、そしてわれわれの注意から隠されているからである。

教皇は司教たちに大声で言うことを求めておられる

教皇ヨハネ・パウロ二世は、1984年9月20日にオッタワでカナダの司教たちに対して話しながら、悪の組織化された諸力 -- 戦闘的無神論者たち、共産主義者たち -- によるわれわれのカトリックの兄弟たちのこの恐るべき迫害に対して彼らに大声で言うように告げられた。沈黙は正当化される、あるいは教会にとって好都合だということにわれわれは同意することはできない。真理はわれわれを自由にするであろう。なかんずく、霊的な真理は、たとえわれわれが投獄されようともわれわれの霊魂を自由にするであろう。しかし、われわれはまた、われわれの社会的責任において、真理を公表することによって抑圧された人々を援助しに行かなければならない。兄弟愛とキリスト御自身がわれわれにそのことを要求している。

ロシアは戦争を遂行し続けている

共産主義は人々の精神の中へ誤った観念と誤った印象を蔓延させることによって人々の精神に対するイデオロギー的戦闘を戦っている。このことは戦闘的無神論者たちによるメディアの支配を通じて、そして同時にローマ・カトリック教会の道徳的な声を沈黙させるよう強いることによって、遂行される。このことは、羊の牧者たちが彼らの群れを彼ら自身で守るためにそのまどろみを目覚めさせることを効果的に禁止されたように、妨げられることなしに、多くの遠回しの方法を通じて共産主義者たちによって広められた絶え間ないそして活動的な嘘と憎しみのプロパガンダを可能としている。「もし見張り人が、敵が近づいて来るのを見る時に叫びを挙げないならば、そのとき彼は神の都における彼の同胞の市民の死に対して有罪である。」(エゼキエルを見よ)。しかし共産主義は単に観念の戦い以上のことを遂行しつつある。それは「神と神のキリスト」(詩編2)に対する全戦線における全面戦争である。すなわち、共産主義はイエズス・キリストと彼の成員たち、カトリック教会の信徒たちと戦っているのである。信徒はイエズス・キリストの神秘体の成員である。なぜなら、彼らはキリストの名において洗礼を授けられ、キリストの聖体によって養われ、そして告解と痛悔の秘蹟を通じてキリストの血において洗われているからである。この戦争は、すでに述べたように、経済的、軍事的、イデオロギー的な戦争である。それはまた道徳的、霊的な地平においても遂行されている。教皇ヨハネ・パウロ二世は、国際的な薬物貿易が戦争の武器を構成していると言われた。それは神に従う人々に対する戦争である。それは、青少年の志気をくじけさせ、その抵抗を打ち破るため、彼らを薬物の奴隷、そして教会を飲み込もうと努力している世俗的そして/あるいはソビエト国家の奴隷へと変えるために、敵によって使用されている一つの武器である。

この戦争は死に至る

ファチマの聖母は、この戦争はまた、見かけは国際政治およびわれわれの軍事的奴隷化とは独立したものと考えられるわれわれの生活の他の領域においても遂行されている、と警告しておられる。しかし、聖母が「私の息子をたいそう傷つけるある種のファッションが導入されるでしょう」と言われたのはファチマにおいてである。みだらなファッションは霊魂たちに彼らの純粋性を失わせる原因となり、そしてそのことによって、一般にセックスととして知られている子どもを生む能力の不法で無責任な使用へと彼らを奴隷化する。このことから毎年数百万人の無辜の赤ん坊たちの殺人が起こっている。彼らの無辜の血はわれわれの上に神からの復讐を呼び降ろすのである。

われわれは、われわれが戦争の真っ只中にいる、そしてわれわれすべてが好むと好まざるとにかかわらず戦闘員であるという事実に目覚めなければならない。それはまさに最後に至るまでの戦闘である。この戦争においてわれわれは、われわれ自身の道徳的堕落と物理的奴隷化という彼らの悪魔的な計画から彼らを回心させることによってわれわれの敵どもを決定的に克服するようファチマの聖母によって召集されている。そうでなければ、聖母はわれわれに、われわれは道徳的に堕落させられ、物理的に奴隷化されることによって、われわれの前ですでに1億3千500万人の人々が殺されたように、殺されるであろうと告げておられる。

貧しい人々を助けるという名の下に貧しい人々を殺したこれらの憎しみに満ちた偽善者たちはカナダの全人口そしてアメリカ合衆国の全人口の半分以上を拭い去るに十分な人々を殺してきた。共産主義者たちはこのすべてのことを、自分たちは貧しい人々への愛からそれを行っていると偽善的に言いながら、行ってきたのである。そしてにもかかわらず、ある人々は、そのような偽善、そのような欺瞞、そしてそのような嘘の前で、ロシア共産主義者たちが同じことをわれわれに対してすることができるように、われわれに沈黙したままでいることを期待するであろう。

あなたたちの霊魂のための戦い

否、われわれが直面している戦争は単に軍事的、経済的、政治的および外交的な戦争以上のものである。それはそのすべてである。しかしまた、それは一つのイデオロギー的な戦争でもある。そしてその戦争はわれわれの道徳を破壊し、薬物中毒になるようにわれわれを誘惑することによってわれわれを動物以下にするために;そしてまたわれわれ自身の仲間の市民、彼らの母胎にいる赤ん坊を殺すために遂行されているのである。その戦争はなおこのすべてのこと以上である。それは霊的な戦争である;それは、サタンと反逆的な天使たち、悪魔たちによって遂行されている。それは、そのためにサタンが、ローマ・カトリック教会それ自身と戦うためにロシア共産主義と東および西の戦闘的無神論者たちによって自由に使えるように準備された大きな資源を用いている戦争である。小冊子、書籍および雑誌、神学の教授たち、グループ、同様にまた刷新の想定上の計画によって、ある地域のカトリック信仰はその内容を空虚化され、あるいは少なくとも、人々が信仰の喪失あるいは信仰の実践の喪失によってカトリック教会から結果的に取り去られる程度にまで薄められている。その結果、もしそのようなかつてのカトリック者がそのような状態で死ぬならば、彼らは異端という大罪のために、あるいは神に与えられるべき栄誉を神に与えることを拒否するために、地獄へ行くであろう。聖母は、ファチマで「ポルトガルにおいては信仰の教義は保たれるでしょう」-- それは他の国々においてはそれが保たれないであろうということを意味している -- と言われたとき、カトリック信仰に対するこの戦争のことを示唆されたのである。

カトリック教会に反対する戦闘的無神論者たち

東と西の戦闘的無神論者たちによる戦いはカトリック教会に集中している。戦闘的無神論者たちの両方の種類は信徒を信仰と彼らの信仰の実践から引き離すことに彼らの努力を集中している。これらの人々は神の言葉から、祈りと秘蹟 -- われわれの霊魂を救うためにわれわれにとって必要な恩寵と救いの手段 -- からわれわれを取り去るために組織されている。彼らは教皇の真正の教える権威 -- 彼が聖なる使徒たち、教父たち、そして聖人たちの教えに従って、キリスト御自身が教え給うた教えに従って、普遍教会に教えるとき -- からわれわれを取り去るためにすべての手段を用いる。このようにして、われわれは、マルコルム・マッジェリッジが、信徒を追い出すために計画されたと思われる、教会における諸政策について話した数年前に意味していたことを見ることができる。レーニンは、自分はカトリック聖職者たちの中に共産主義者たちを侵入させるであろうと言った。

聖書の中に予告された聖職者への侵入

これはまた共産主義中国によって、キューバにおける彼らの工作員たちとプロパガンダを通じて概略された計画である。(『教会を破壊するための秘密の共産党の計画』を見よ)*。このことはわれわれがすべての司祭や司教を疑うべきだということを意味しない。しかしわれわれは異端者として知られている人々に対してわれわれ自身を守るべきであるということを意味する。聖パウロは「あなたたちは自分と群れ全体に気をつけなさい。聖霊は神が御血をもってあがなわれた教会を牧するために、あなたたちを教会の司教と定められたのです。私が出発したのち、容赦なく羊の群れを荒らす恐ろしいおおかみが、あなたたちの中に入りこむであろうことを私は知っています。あなたたちの中からも、弟子たちを引きつけようとして、有害なことを教える人が立つでしょう。警戒しなさい...」(使徒行録20:28-31)。聖パウロはまた、羊の衣を着たそのような危険なおおかみをどのように見つけるかをわれわれにこう告げている:「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ」(ガラツィア人への手紙:1章)。

* The Fatima Crusader , Issue No.19, p.6 以下において公表されている。

信徒に対する戦争

そこで、われわれは戦争状態に、そこにおいてわれわれの敵どもが何一つ聖なるものを保持していない戦争状態にあるのである。いかなる法もまたいかなる神の恐れも彼らを引き留めないのであり、彼らは、すべての彼らの計画を実行することができる前に発見されることだけを恐れている。それは死に至る戦争状態である。それはなかんずく、異端や異なった実践(教会の中で無差別に話し、御聖体におけるイエズスに対して跪きあるいは尊敬の何らのしるしも示さない実践のような、あなたの信仰を破壊する傾きのある宗教の実践)を広め、結果的にあなたの信仰を破壊しあるいはあなたを悪徳の奴隷とするような道徳の破壊を押し進めることによるあなたたちの霊魂に対する戦争である。悪魔とその追随者たちが恩寵の手段 -- 祈りと秘蹟 -- 並びに教会の道徳的な声を、彼らの群れに話しかける牧者たちの声を疑うかあるいは沈黙させるかのいずれかによって、消そうと試みているのは教会に対するこの戦争を通じてである。それは信徒と教会が勝利するであろう戦争 -- しかし神がファチマの聖母のメッセージを通じて明らかにされた非常に単純な、にもかかわらず非常に深遠な計画を実行するまでは決して勝利しないであろう戦争である。それは、各人が彼自身の生活において個人的に実行することができる計画であり、そして人は直接的な利益を刈り取るであろう。それは、なかんずく、悪魔とその追随者ども、共産主義者たち、と彼らの同盟者である西側の戦闘的無神論者たち(特にフリーメーソンたち)の諸々の罠、誤謬、そして策略を克服するように設計された一つの霊的な計画である。

勝利はファチマの聖母を通じてのみ

この戦争は一つ、ただ一つである。それは神によってエデンの園で蛇に対して宣言された戦争である。「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。女のすえは、おまえの頭を踏みくだき、おまえのすえは、女のすえのかかとをねらうであろう」(創世の書3:15)。蛇はサタンであり、女は神の御母マリアである。聖母はファチマでその決定的な計画、彼女が勝利を約束なさったものの実現、をもって御出現になった。

われわれは彼女のすべての要求を心に留めるまではこの霊的戦闘に勝利しないであろう。われわれがまず何よりもわれわれ自身の回心とわれわれ自身の日々の聖母の要求の個人的実現を強調すべきである一方で、毎日ロザリオの祈りをし、常にカルメル山のスカプラリオを身につけ、聖ルイ・ド・モンフォールの精神に従ってマリアの汚れなき御心にわれわれ自身を奉献する(すなわち、あなたを聖母御自身の財産および所有物として保ってくださるように聖母に願いながら祝せられたおとめの手を通して神にあなたの全生涯を再び捧げ、すべてを聖母を通じて神に捧げ、あなたが必要とするすべてのものを聖母の愛すべき汚れなき御心の執り成しを通じて神から願い、期待する)べきである。われわれはわれわれの日々の義務をイエズスとマリアの愛のためになすべきである。そしてもちろん、このことは十戒を守ること、特にあなたがこのことをなすために必要とする恩寵を祈り求めること、そして秘蹟を受け、罪の近い機会を避けることによってそうすることを意味する。

神によって命令された公的な償い

しかし、生活のこの計画 -- それは、もちろん、他の論考において詳細に論じられ得るしまた論じられなければならない -- の他にも、またこれがファチマのメッセージの全計画ではないということを示す必要がある。同様にまた、神が公的償いの計画を求めておられるということを示す必要もある。このことは、それによって公的な承認が「初土曜日の信心」によってわれわれの地方共同体において与えられる初土曜日の計画を含む。われわれは司牧者がこれらの信心を導入するまで待つ必要はない。なぜなら、個人は小教区共同体がそれらを採用する前にそれらを実践することができるからである。聖ルイ・ド・モンフォールに明らかにされたように(T.D.* 55-59)、「後の時代の使徒たち」が起こるべきであるのはわれわれれの時代においてである。汚れなき御心の使徒たちは償いの信心とマリアの汚れなき御心への全体的奉献を促進するために彼らの隠れた場所から今現れるべきである。この書物の別の個所注1)で説明したように、神の正義と憐れみはまたマリアの汚れなき御心への尊敬の偉大な公的行為、教皇と世界の司教たちによるロシアの奉献を要求している。神はわれわれの時代におけるこの荘厳な行為を強く要求なさっている。これは時代の犯罪、ロシアにおける無神論的政体を支持することによる神に対する戦闘的無神論者たちの公的、連続的な反逆,に対する償いにおいてである。その目的と実践は、今日まで、人類の霊魂と心そして社会的諸制度における王であるキリストとキリストの支配と戦うことである。

* 聖ルイ・ド・モンフォール著『まことの信心』

ファチマ・クルーセイダーはファチマの全メッセージを与えている

イエズスはもし聖母の憐れみに満ちた執り成しがなかったならば、「誰も救われなかったであろう」と言われた。イエズスはこのことを、『マリアの栄光』において聖アルフォンススによって報告されているように、聖ブリジェットに明らかにされた。このことはまた聖ルイ・ド・モンフォールにも明らかにされた。イエズスは今やマリアについてのこの重要な事実が知られることを望んでおられる。このことを、イエズスは、教皇と司教たちがマリアの汚れなき御心にロシアを奉献するようにというファチマでの神の命令に従うとき、達成なさるであろう。

マリアへのこの公的な尊敬を通じて、イエズスはロシアの回心を行われるであろう。このことをイエズスはファチマのシスター・ルチアに明らかにされた。

このように、ファチマ・クルーセイダーの計画の一部は「世界の平和」がそれに依存している神のこの最も重要な命令をもっとよく知らせることである。

  1. この書物の p.117 以下および p.73 以下を見よ。

目次へ

2005/01/11 三上 茂 試訳

作成日:2005/01/11

最終更新日:2005/01/11

World Enslavement or Peace...It's Up to the Pope: Section VIII; Chapter5 へ

マリア様のページへ

トップページへ

inserted by FC2 system